龍胆寺雄に関するホームページ

モダニズム文学・新興芸術派・龍胆寺雄

昭和初期に活躍した幻の作家・龍胆寺雄

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2022.4.25に更新しました。

            ART-REBIRTH SOCIETY 制作

<サボテンと戯れて>


♠龍胆寺雄言葉ログ~作品の中から♠


今回は:「M子の遺書」より。

人間は誰だって、大なり小なりいろんな才能や天分を持っている。いはば それらは火をともさない蝋燭だ。迂闊に生活を選んだら、人間は墓穴に入る ときにも、まだ芯の白い蝋燭を幾本も、そのまま使い残さなければならない。 何と不経済な話だ!。そうだ、俺は俺の才能のあらゆる蝋燭に、たとえ小指 の頭ほどの、ちっぽけなかけらでもいい、赫赫とみんな芯に火を灯して並べて、 俺の人生をお祭りの夜のように、明るく賑やかに闇に照り輝かして、さて (そうして)死んで行こう。蝋燭が残らず燃え切ったあと、冷え固まった 蝋涙だらけの闇が落ちたら、-----いや、これこそ言葉通り、死出の闇路 という奴だ。


♠TOPICS♠

*2022年2月:横浜冨士見丘学園中学校2022年度国語の入試問題に龍胆寺雄 の小説「放浪時代」の文章の一部が用いられた。

*2022年1月:22年1月発行「古本スタイル01」に先に「龍胆寺の本」を 編集発行した鈴木裕人氏が「龍胆寺雄と歩く街」というタイトルで昭和初期の 東京の街の世態風俗と結び付けて作品「放浪時代」、「階段を降りる」など について論じている。又、鈴木裕人氏については2021年12月皓星社発行 「古本マニア採集帖」の中で著者の南陀楼綾繁氏が「龍胆寺雄を掘 り起こす人」というタイトルで詳しく紹介している。なを、サンデー 毎日1月号、日本古本通信1月号にも龍胆寺雄を研究する若手研究者 として鈴木裕人氏が紹介されている。



































*2021年5月15日:写真家 戸田勝久氏による全146Pの豪華な写真集「青い煙」 が発行された。氏は幼い頃より蒸気機関車に心惹かれ、この写真集は全て 今まで撮りためられた蒸気機関車とそれにまつわる風景よりなっているが、 一枚一枚の写真はそれぞれ1つの詩を感じさせるような独特の風情を持って いるのが特徴である。なお、氏はかって作家龍胆寺雄の著作「塔の幻想」 の挿絵と装丁を担当された方で、本写真集にも龍胆寺の随筆「老SLファン」 がオリジナルな原稿とともに紹介されている。 氏の許可を得て、写真のいくつかを紹介する。なを、この本についての お問い合わせは水仁舎までお願いします。







































































































*2021年8月29日:テレビ朝日放送番組”ガリベンガーV”に龍胆寺雄 の孫の一人で東京農大の進化生物学研究所多肉植物研究室の橋詰二三夫さん が出演した。彼はマダカスカルなどの熱帯植物に詳しく、現地に何度も 足を運んでいる。















































































































*2021年11月:KADOKAWA発行の漫画誌「ハルタ11月号」に新人賞受賞の 一人として龍胆寺雄のひ孫のひとり森野鈴鹿さんの「境界の道で」が 60ページにわたり掲載されました。



















*2021年12月18日:NHK BSで85才の植物生態写真家として埴 沙萌さんの 植物撮影の日常について約1時間の番組が再放送された。氏はこの分野では 第1人者の一人で、30冊ほどの写真集を出されている。なお、氏は大学時代 龍胆寺雄のもとで永らくサボテン、多肉植物の栽培を学び、一時は泊まり込みで 龍胆寺の図鑑発行やサボテン栽培を手伝い協力された。







































*2021年3月15日:日本近代文学館会誌No.300号の「閲覧室」に「アパートの 女たちと僕と・出版記念会のこと」なる記事が書かれました。記事は先に 「龍胆寺雄の本」を執筆された鈴木裕人氏によるもので、たまたまNHK朝の レンドラで再放送が始まった「あぐり」の夫で小説家でもあった吉行エイスケ が春陽堂編集者の難波卓爾にあてた書簡などを中心に、作家龍胆寺雄たちの 当時の活動について述べられている。



2月26日:相模川沿いの相模原緑花木センター でサボテン「亜阿相界・アーソーカイ」の 小苗があったので1,000円で買いました。 亜細亜と阿弗利加(アフリカ)の境に多く 生息するらしく、Wikipediaによると、 サボテン研究家でもあった作家の龍胆寺雄 が命名したそうです。大きくなると高さ 7,8メートルになるとのこと。




















♠目次♠


1.作家・龍胆寺雄の生涯

2.人物像

3.作家・龍胆寺雄の文学観

4.作家・龍胆寺雄の見た他の作家の印象・交遊録

5.作家・龍胆寺雄の作品について識者の批評

6.中央林間と龍胆寺

7.作品一覧

8。没後から現在までの情報

9.おわりに


最初に龍胆寺雄の生涯を概括します。

♠作家・龍胆寺雄の生涯♠

  1. 明治4年4月27日千葉県佐倉市に生まれ、1歳のとき茨城県下妻市に引越し、以後旧制中学時代までここに過ごす。父親孝三郎は下妻1中の国漢教師で、郷土の作家長塚節等とも親しく、国語関連の著作もある。参考資料1

  2. 大正11年4月慶應義塾大学医学部入学、以後5年間在学するが、昭和2年中退。

  3. 昭和3年4月、「改造」の10周年記念懸賞小説に「放浪時代」が一等当選となり、文壇に登場する。殊に、そのモダンな文体は選者の一人であった佐藤春夫の激賞するところとなり、以降、佐藤春夫は龍胆寺にとって数少ない師の一人となった。参考資料2

  4. 昭和3年~昭和8年:彗星のように文壇に登場した龍胆寺は続いて「事務所(新潮)」、「A・子の帰京(三田文学)」、「アパートの女たちと僕と(新潮)」を立て続けに発表、「アパートの女たち~」は特に谷崎潤一郎に高く評価された。一躍流行作家として、精力的に次から次へと創作、評論、コント、エッセイなど多数の作品を発表していった。龍胆寺の作品は、物事を深刻ぶって描くことの多い日本文学の中では異端とも言えるほど、からりと晴れ渡った世界があり、当時の評論家・千葉亀雄ガ「モダニズム文学」と評したことから以後、龍胆寺の一連の作品や、同様の他作家の作品はモダニズム文学と総称されるようになった。又、当時全盛を誇っていたプロレタリア文学に対向して新興芸術派を結成し、その中心的作家として活躍する。その辺の活動状況については、
    「1984年発行(プレス・リーブルセンター)・モダニズムと龍胆寺雄の世界」
    「常陽芸文1993.1月号・モダニズム文学の旗手」
    「平成11年発行(下妻市画展)モダニズム作家龍胆寺雄」
    などの資料に詳しく記載されているが、それらを概括すると概ね次のようになろう。参考資料3

  5. 昭和9年~10年:新興芸術派はしかし、一時的な華やかさと、ジャーナリスティックな賑わいの後、外部或いは内部からの批判も多く短期間のうちに分裂崩壊する。この時期竜胆寺は「モダニズム文学論」、「ロマン論」など多くの評論を発表しているが、何れも皮相的な一面的解釈に過ぎないと否定されることになる。昭和9年タブーとも言われていた文壇の内幕と派閥性を攻撃した、「M子への遺書」を「文芸」7月号に発表、そのことも原因となって、急速に文壇での地位を失い、そこから離れてゆく。つまり龍胆寺が流行作家として華々しく活躍したのは、わずか5,6年であり、その間に雑筆・評論まで含めると、おおよそ200点以上の文を発表し,それ以降の発表数は100編にみたないことからも、以下に彼が急激に流行作家からそうでなくなったが判る。龍胆寺はそれ以降再び文壇に復帰することは無かったので、その文学的評価は主に、この時期に書かれたものに基づいたものが多い。しかし、創作自体を放棄したわけではなく、長寿であったので、その後の作品もかなり多く、作風も変わり、評価の対象になってないが、興味の惹かれる佳品がかなりある。例えば、81歳の頃の作品と考えられる「八柱神社の秘仏」について、常陽藝文1993/1月号に次のように紹介されている。八柱神社の秘仏

    小説「M子への遺書」には、当時文壇に君臨していた作家菊池寛;後のノーベル賞作家川端康成を名指しで批判している部分もあり、龍胆寺が何故このようなものを発表したかについては実際にところは不明な点が多い。昭和10年11月、東京高円寺より、神奈川県の中央林間に土地を求めて移住する。参考資料4

  6. 昭和11年~終戦(昭和20年):文壇に背を向けた龍胆寺はそれまで趣味でやっていたサボテン栽培を広い敷地で行うようになり、サボテン栽培に関する著書も書くようになる。又いくつかの文学作品も発表しているが時代は戦時体制に突入し、文学がどうのこうの言っていられる時代ではなくなってきており、生活のため龍胆寺は仲間4人と共同農耕なる組織を作り、かなり手広く本格的な農業を行った。実際小麦、イモ類を栽培し、農業組合に供出も行った。又、中央林間都市の町内会長を昭和16年の開戦の年から、終戦、戦後に渡る7年間の可なり困難な時期に務めるなど、作家にしては厄介な世俗的な仕事をこなしている。又、当時小田急電鉄の分譲地を購入して中央林間、南林間に移住してきた住民と、小田急電鉄との間に契約に関するトラブル問題が生じ、この問題についても龍胆寺は住民側の中心となって、折衝を行っていた。平成18年現在の中央林間地区は戦前戦後時代の面影は全くというほど残っていないが、龍胆寺は昭和26年の「中央林間ニュース」に、彼が部落長を努めていた頃の中央林間の出来事について、又、昭和63年発行の「大和市史研究第14号43P~58P」に、「林間の歴史と今昔」として文を寄せており、往時の中央林間をしのぶことが出来る。 参考資料5

  7. 終戦(昭和20年)~昭和59年:文壇に疎遠となっていた龍胆寺にとって、今まで趣味でやっていたサボテン栽培とその販売が、生活の糧を得る方法となった。日本砂漠植物研究会を設立し、雑誌「カクタス研究」の発行、サボテンの栽培、輸入、販売を会員組織を通じて行った。サボテンの栽培品種は8千種に及び、多くのサボテンに関する著書を発表すると共に、NHKなどへのラヂオ、テレビ出演なども行った。この時期の龍胆寺は作家でなく園芸家として名をはせていたといえる。サボテンの著作には、サボテンのの紹介や、栽培法に関するものが多かったが、「人生遊戯派」によれば、「私が本当に意識して文壇に背を向けて、その頃興味を惹かれて、だんだんと深入りしていった植物、シャボテンの世界に足を入れ、作品活動を植物に関する執筆へと移していったのは昭和11年頃からだった。もっとも、植物に関する私の著作は、決して植物学書ではなく、これは私の文学活動の展開以外の何ものでもなかった。あたかも、ファーブルの「昆虫記」が、決して昆虫学ではなく、ダーウィンの「種の起源」が、単なる生物学でなく、実に立派な文学であることに習って、この2人を尊敬する私は、植物を文学的に描くことに専念し、決して文学者の立場を放棄しなかった。」と述べられている。サボテンに関する随筆としては、1974年毎日新聞社、1983年北宋社から発行され、永らく絶版になっていたが、この度、筑摩書房より、ちくま学芸文庫として、2016年12月に再版された、「シャボテン幻想」、1999年作品社より刊行された「花の名随筆12巻」に収められている「焼夷弾を浴びたシャボテン」などがある。又、何点かの文学作品を発表しているが、この時期から最晩年までかなりの詩作を行っており、それらは僅かのものを除いて殆ど発表されていない。詩作の中には、地元大和市の大和市立中学校の校歌(龍胆寺雄作詞;鈴木次男作曲)などもある。参考資料6

  8. 昭和59年~平成4年(作家終焉の年):作家の最晩年の10年に当たる。この時期に至り龍胆寺はそれまで生活の糧にもなっていたサボテンに関する栽培を含めたすべての業務を3男にゆずり、自らの文学活動に再び専心するようになる。いくつかの作品を書いているが、注目すべきは、昭和59年1月から昭和書院より刊行が始まった龍胆寺雄全集全12巻であり、これは、彼のそれまでの作品の主なもの、及びいくつかの新作が含まれた彼の文学の集大成でもある。この刊行には、当時東洋監査法人の理事長であった、龍胆寺作品に共感を持った野口喜一氏の物心に渡る助力の存在が大きい。
    全集刊行後はいくつかの執筆を行うも、次第に体力、気力も衰え、自宅で転倒後、約1年療養に努めたが、平成4年6月91歳の波乱の生涯を閉じた。参考資料7

♠作家・龍胆寺雄の没後~現在までの情報♠

膨大な作品を残しているにも拘らず、文壇社会の外で多くを過ごした龍胆寺は、ほぼ埋もれたままの幻の作家になっている。しかし決して多くはないが、熱心なファンや,研究者があり、死後も彼に関する記事や評論の発表、イベント開催、作品の復刊が行はれてきた。

*前掲の元東洋監査法人理事長 野口喜一氏 は作家龍胆寺雄の現在でのシチュエーションを大変適確に述べているので、 それを一部引用すると、「---1992年6月作家龍胆寺雄は、緑多きうちにと91歳でこの世を去った。残した全 作品は神奈川近代文学館に永久保存された。この奇妙な名前の作家を知る人は多くあるまい。昭和初年代の文壇に一瞬 の光芒を残し、昭和文学史の一異彩となったが、忽然と文壇活動に背を向けて去った。以来茫々として、その名も作品 も文学史の片隅の荒野に埋もれて今日に至ったが、彼の愛した砂漠とそこに自生する植物に関する著書は、「荒涼の美 学」といわれ、特に「シャボテン幻想:(昭和49年毎日新聞)」は、現代の地球環境、生物生存への警告に満ちて興味 深い。云云ーーー。(平成5年5月:東洋監査法人ニュース巻頭言より引用)」

*なお、この著書については、数々の国際写真賞を受け、「海原幻想」「サボテン幻想」などユニークな写真集を出して いる写真家 塚原琢哉氏 も平成4年毎日新聞「私が感激した一冊」の中で、「世の中にはシャボテン研究家、シャボテン マニア、シャボテンコレクターと呼ばれる人がいっぱいいますが、龍胆寺さんはそれらの人とは全く違います。この本を 読んでいて、びっくりしました。作者はシャボテンを通してこの世の中の人間に警鐘を打ち鳴らしているのです。」 そして「僕の追っかけているテーマと一緒なんですね。」と言っている。


*9月7日:鈴木裕人氏編集の書籍「龍胆寺雄の本」(定価:2,000円)が発行された。
龍胆寺雄の代表作のいくつかがピックアップされ、詳しい脚注が付与されている。
又、この風変わりな名前の読み方、読まれ方についてエピソードとともに紹介し、
加えてこの作家の作品について、当時の文壇の背景を踏まえて論じている。
全体で226頁ほどになるが、龍胆寺雄の著作のほぼ全てが網羅された著書目録が,出典、年代とともに
約40ページにわたり詳細に記載されている。編者の鈴木裕人氏は愛知県の市立図書館勤務の
大学院生で、同人誌「夜泣き」を主宰する文学研究者である。
又、本の冒頭には高名な漫画家である山川直人氏による龍胆寺の絶妙なイラストが描かれている。


































*2020年7月10日、東京カクタスクラブの機関紙「カクタス東京2020.7/8月号」の新仙遊記の項に龍胆寺雄について、又彼の仙界とのかかわりについて約10頁にわたり写真入りで解説されている。著者は東京カクタスクラブの松原俊雄氏で、「最近、龍胆寺雄の名前を聞くことはなくなってしまった。しかし、我々の年代の方であれば彼が戦前、戦中、そして戦後において仙界の主要な指導者の一人であったことは、ご存じの方も多いことと思う。---」と始まり、最後は龍胆寺のエッセイ「焼夷弾を浴びたシャボテン」を紹介し、「これを読むと戦争中のサボテン栽培がいかに大変だったか、その反面今の我々がいかに恵まれているかがよくわかる。」と結ばれている。なお、東京カクタスクラブは昭和初期から続く極めて伝統のある愛好者の組織である。




























*2020年2月19日、平凡社STANDARD BOOKSの一冊として、龍胆寺雄著「焼夷弾を浴びたシャボテン」ほか、が刊行されました。平凡社STANDARD BOOKSは百科事典の平凡社が提案する新しい随筆シリーズで、科学と文学、双方を横断する知性を持つ科学者・作家の珠玉の作品を集め、1作家1冊で紹介するもので、本編を含めて既に21篇が好評発売されています。




























*2016年12月10日、絶版になっていた、竜胆寺雄の「シャボテン幻想」が、筑摩書房:ちくま学芸文庫として 再発行されました。





























*江戸東京たてもの園展示室にて6月2日~7月20日に特別展「モダン都市の文学誌」が公開され、かつてのモダン都市東京を描いた文学作品の中から、「浅草紅団」(川端康成);「つゆのあとさき」(永井荷風);「新宿スケッチ」(龍胆寺雄);「春園」(伊藤整)などをたどり、都市東京の移り変わりを明らかにするとともに、郊外の姿を紹介するそうです。






















































































*2014年10月1日発行の新潮文庫「日本文学100年の名作第2巻中短編アンソロジー」の中に龍胆寺雄の「機関車に巣食う」が収録されています。


























*2011年4月12日「蕾・ポプラ社百年文庫」(72)が発行され、三点の短編の中に、龍胆寺雄の「蟹」が収録されています。なお、百年文庫は「日本と世界の文豪による名短編を漢字一文字の趣に合わせて一冊に編むアンソロジーです。再読したくなる傑作を、音読したい名文を、潤いのある時間を、百年先も読み継がれる事を願って刊行します」と帯に謳われています。












































*2009年8月5日ポプラ社文庫として「文豪てのひら怪談」が発行されました。夏目漱石、泉鏡花らの文豪たちから村上春樹、京極夏彦ら現代作家に至る総勢100名に上る作家たちの極小にして極上のアンソロジーとPRされていますが、龍胆寺雄「塔」が収録されています。

























*中央林間駅東急線入り口付近の地域紹介パネル



























*1999年「太陽」6月号の表紙;本文には、サボテンを愛した作家の在りし日が語られている。














































*平成11年下妻市で行はれた龍胆寺雄回顧展のポスター















































♠作家・龍胆寺雄の人物像♠

当時多くの文士は文学、芸術のことはわかるが、他のこと、特に理学、工学のことは全く音痴で不器用という人が多く、それでよいというところがあったが、龍胆寺は若い頃は医学部の学生、長じては植物特にサボテン栽培にも通暁し,それに関する多くの著書を表すなどから見ても、理系にも強い極めて多彩な人物であったといえる。家族の話では、学生の頃趣味でやっていたという自分で図面を引いた多数のラジオ受信機の図面を子供たちに見せたこともあり、戦後で材料の無い時代に、進駐軍のゴミ捨て場から子供たちが拾ってきたエナメル線と缶詰から切り出した鉄材から模型のモーターを作り、見事に動かして見せたこともあったという。又戦中戦後の食糧難時代には、砂糖黍から砂糖を作ったり、コンニャクイモを栽培してコンニャクを作ったり、麦から小麦粉を引き、手打ちウドンを作るのが得意で、当時玉川学園の小原国芳園長や小学部長の前田浩一先生が来て腹いっぱい食べ、小原先生はおなかが一杯になるとトイレにたち、さらに又食べて行ったなどという逸話もある。戦時中は~期に渡り中央林間地区の町内会長となり、住民代表としていろいろの折衝に当たっている時期もあった。このように龍胆寺は幅広い分野での才能を持っていたと考えられるが、逆にそれが悪く言えば広く浅くということになっていたかも知れず、もしどれか一業に集中していたらもっと大きなことが出来たかも知れぬ、とも想像されなくはない。龍胆寺は一寸甲高い声で、大変座談のうまい人間であったので、彼にあった多くの人が惹かれるところがあったようである。しかし、生涯宮仕えの経験が無く、自分に能力があると感じても、それを表に出さないでおくというような、いわゆる日本的な処世術を持たない性格で、およそ中身が無いのに、「厳かぶる」人間を最も嫌い、形式にとらわれず思ったことを無用心に言うタイプだったようで、当時の文壇社会においては、好意を持たない先輩作家も多かったではなかったかと思われる。彼自身「人生遊戯派」のなかで「私の持っている、この世で生きる最大の欠点は、私はポーズが嫌いで「厳かぶるポーズ」というものを身震いするほどきらっている。日本のあらゆる芸術は、ポーズが伝統になっていて、茶の湯も生け花も謡曲も歌舞伎も、結局ポーズの伝統の上にその存在を保っている。そのために、私のように全くポーズなしに、ざっくばらんで、無邪気で、何も取り繕わず、遠慮会釈無く思ったことを素直に言わずにいられない人間は、ポーズの中に知らず知らず凝り固まって生きている日本の人間の間では、ひどく蔑まれ肚の中を見透かされて、損をする」等と言っている。
冒頭に挙げた詩は、著作「シャボテン幻想」からのもので、組織に頼らず自らの足で人生という荒れ野を歩んでゆこうという、龍胆寺の生き方を示しているとも思はれる。

実際に龍胆寺雄に会った時の印象はどんなものか、幾つか書かれたものがあるので紹介すると、

*この老作家と話していると、尊大な芸術家という印象がまるでなく、無邪気なボヘミアンと話している弾んだ気持ちになる。もう何十年間も文壇のようなところと縁を持っていないから悠々自適のおおらかさがある。これまで色んな作家に会ったが、こんな超然とした作家は始めてみた。(評論家・川本三郎・wich1986JUN.VOL.4 NO.5より)

*私は龍胆寺氏の他界する一寸前まで、何度かお会いできたが、頭脳は明晰、記憶力は抜群、声高によどみなく話してくださるのが印象的であった。年齢を感じさせなかった。-----文芸ジャーナリズムのありようとは別にして、文学に対する年齢を超えた情熱、旺盛な筆力は何度も感じさせられた。存在の大きな作家であることを強く印象付けられた。研究者も、新興芸術派時代だけでなく、晩年にいたるまでの諸作品を読み込んでみることが、どうしても必要であろう。(評論家:三田英彬・講談社文芸文庫りB1・1996より

*さる六月のはじめの某日、僕は本誌編集者と速記者に伴はれて、神奈川県大和市の龍胆寺雄宅を訪問した。文壇の生き埋めになること四十年余り、今は世界中の砂漠から引っこ抜いて集めたという植物八千種を、五百坪の庭いっぱいに茂らせて、シャボテンの王様、植物関係の専門書十数冊の著者としておさまっていた。小太りの体躯、総銀髪のおかっぱ、黒ぶちのロイドめがね、大きめの鼻と口、血色のいい両頬、一オクターブ高い発声、――意気軒昂。到底七十七歳の老人とは見えなかった。僕としては、学生時代に、「放浪時代」や「アパートの女たちと僕と」を読んで以来の初対面なので、古めかしい用語ながら、感慨ただならぬものがあった。---(評論家:臼井吉見・文芸春秋:昭和57年8月号)

龍胆寺と猫:彼は、蛇とか、蜥蜴などを含めて、動物好きであったが、死んだ猫に対し、「このつぎは、ひとと生まれよ わが家の」というほど特に猫は大好きで、猫の詩も何篇か書いていることが雑誌猫びより2003秋号に紹介されている。
『92年に九十一歳で没した作家、龍胆寺雄は猫が好きだった。常に何匹かの猫がそばにいたそうだが、ゴキという猫が63年末に二歳半で死んだ時の嘆きはとりわけつよく、その死を悼んで何篇もの詩を書き歌を読んでいる。中でもひときわ胸を打つのが、
「ゴキの墓に」という200行に及ぶ長詩である。』として、その詩を抜粋し、解説が加えられている。

「人物スナップのいくつか」


♠作家・龍胆寺雄の文学観♠

龍胆寺が様様な場面で述べたこと、或いは記してきたことを、断片的に並べて、その文学観を示すよすがとする。
(サントリークオータリー23・1986インタビュー:龍胆寺雄氏にきく:甦るモダニズムの遺産)より:「いやいやそんなことはないです。私はその頃から文学の素性はわかってるんです。それはどういうことかというと、長塚節からの影響で写生主義文学というものを勉強したわけです。その写生主義文学からリアリズムの重要性というものを学んだわけですね。然し頭の中にあるものは横瀬夜雨の持っているようなロマンティズムなんです。それで目指すロマンティズムの芸術を生むには、まずリアリズムのレンガを築き上げなくちゃいけないと考えたわけです。つまり誰が見てもこれは本当だと、間違いやつくりものじゃないのだという感じを与えるレンガを積み上げて、実際には現実的でない1つの世界を作り上げようと。つまりロマンティズムの大きな塔、高塔を建てようというのが私の理想だったわけです。これは終始一貫、いまでもそうです。そのロマンティズムの文学はどこにあったというと、「千夜一夜」であるとか、セルバンテスノ「ドンキホーテ」であるとか、「デカメロン」であるとか、或いは滝沢馬琴の「里見八犬伝」や上田秋声の諸作品であるとか----。そういう作品は非常にうまくこの世にあるはずの無いようなものをつくりあげている。しかも誰が見ても本当だと思って読んでいる間にいつの間にか変な世界に引きずり込まれちゃって、ロマンティズムの大きな塔の中にいつの間にか入れられちゃっている。そういうような文学を私も作ろうと思ったんです。」
(幻想文学1984年秋号ブックインタビュー龍胆寺雄)より: 「私が外国の古典文学で最も尊敬しているのが、「デカメロン」、それからセルバンテスの「ドンキホーテ」、そして「アラビアン・ナイト」なんです。特に「アラビアン・ナイト」など、それこそバイブルのように大事に読んでいますよ。」;「日本の作品で影響を受けたといえば、古い人では上田秋成、これはものすごく好きです。特に「蛇性の淫」なんかいいね。秋成のような作品を書きたいという気持ちは非常に強いです。佐藤春夫の影響はあまり受けてないと思います。むしろ泉鏡花でしょうね、明治以降の人では。鏡花のものでは「高野聖」みたいに妖怪が出てくる、化け物じみた話が非常に好きで、今でもああいうものを書いてみたいという気がします。」;「現実の世界 というのは非常に厳しいものでしてね、例えば人を殴れば殴り返されますし、お金借りたら返さなくちゃいけないでしょう。腹いっぱいご馳走を食べたら、もう苦しくなって食べられない。ところが夢の中ではいくら殴ったって、殴り返さない奴がいるし、いくら金を借りても返さなくても済むし、いくら食べてももう食べられないなんてことはない。私もご馳走食べるんですよ。夢の中で(笑い)。食べて食べて食べまくるんだけれどもいくらでも入るんだな。そういう風に頭の中では物事に際限がない。それが作品の中に出てくるわけですね、幻想文学の中では。重力の法則を無視したっていい。逆立ちして空間に立っていることも出来る。こんな自由の世界はないですよ。それから嫌な人間に会わないで済みますからね。いやな人間一杯いますよ、この世の中には。だけどこういう連中には絶対会わないで自分の好きな人間としか付き合わないでしょう。ですから私の文学の中には嫌な人間、いやらしい人間は出てこないですよ。好きで好きでたまらない人間ばっかり出て来るんです。ご馳走は食べ放題、景色のいいところは見ほうだい、付き合いやすい人間とばかり付き合ってるって、そんな素晴らしい世界ないですからね、そこから外へ出たくなんかない。現実の世界なんかつまらないですよ。(笑)。自由で何者にも拘束されない-----それでなくても世の中せちがらいんだから、せめて頭の中だけは窮屈な拘束など受けずにいたいですよ。」
(人生遊戯派)より:「私は歴史を文学にしたことがなかった。それは、文学の価値は作家の頭の中でクリエートされるべきもので、その点歴史文学というのは、その作品からどんな感銘を受けても、その大部分は歴史自体が持っているのであって、全ては作者の功績とはいいがたい。例えば、山岡宗八が「徳川家康」を書いて、何等かの感銘を読者に与えたとすれば、その感銘は、歴史の中の徳川家康という人間が人に与える感銘があればこそで、作者はその感銘をせいぜい増幅するか、あるいは、音楽の原曲に対してこれを編曲したり、パロディーを作ったりしている、というようなのに過ぎない。さもなくて、多少新しい発見があれば、それだけの価値を付与したに過ぎない。その点、歴史を描いても中里介山の大菩薩峠は、全て中里介山の創造で、作中に出没する全ての人物も、その動きも全て創造されたもので、新しい感銘を生み出している。」

♠作家・龍胆寺雄の見た他の作家の印象・交遊録♠

龍胆寺は又、文壇で活躍していた時代、何人かの作家との交流、印象、出来事などを後年「人生遊戯派」で記述している。(龍胆寺を見出してくれた形の佐藤春夫、龍胆寺と最初の頃は親しく交際し、後に敵対関係となる川端康成についての記述が非常に多い。そのほか、島崎藤村;芥川龍之介;久野豊彦;----等についての印象も一般に知られていないだけなかなか興味深い。)
参考資料9

♠作家・龍胆寺雄の作品一覧♠

昭和初期大変華やかな文学活動をしたもののわずか5,6年で文壇から遠ざかり、以後文壇に復帰することの無かった龍胆寺は、しかし他の作家に比べてずっと長生きし、数こそ減ったがその後も創作活動を続けたので、トータルでは厖大な量の作品を残している。しかも、殆ど取り上げられることのない作家であり、生涯を通した作品の系図も無く、マイナーな出版社から出版されたものも多く、それらを個々に記述することは不可能である。したがって、ここでは、唯一昭和3年~昭和40年までの作品年譜が記載されている、PREVIEWモダニズムと龍胆寺 雄の世界(S59年:プレス・リーブル・センター発行);モダニズム文学の旗手・龍胆寺 雄(常陽文芸1993年1月号);第8回企画展: モダニズム作家・龍胆寺 雄(平成11年:下妻市ふるさと博物館)などの資料を参考に、作品点数を年代別に記述するにとどめる。


<創作作品数(全て発表されたもの数で、時期は異なっているも重複を含む)>
昭和3年代~昭和7年代:85
昭和8年代~昭和40年代:62
昭和41年代~平成4年代:??
<評論・雑筆類>
昭和3年代~昭和7年代:131
昭和8年代~昭和11年代:18
昭和12年代~平成4年代:??

単行本名(全集含む):(全て網羅されてるかは不明)
*アパートの女たちと僕と(s5:改造社)
*街のナンセンス(s5:新潮社新興芸術派叢書)
*放浪時代(S5:改造社)
*かげろうの建築師(S5:新潮社)
*十九の夏(S5:改造社)
*街のエロティシズム(S5:赤炉閣書房)
*燃えない蝋燭(S6:改造社)
*化石の街(S6:新潮社)
*現代日本文学全集61・新興芸術派文学集(放浪時代・アパートの女たちと僕と収録)S6:改造社
*掌の上の悪魔(S7:春陽堂文庫)
*虹と兜虫(S7:改造社)
*明治大正昭和文学全集55(放浪時代収録)S7:春陽堂
*魔子(S8:新潮社)
*跫音(S9:改造社)
*青銅のCupid(S10:麗日社)
*村上義光(史劇)
*青年処女常会記―若い教養(S18:希望の窓社)
*鳳輩京に帰る―建武中興秘史・大刀飲み屋と村上義光をめぐって(S18:今日の問題社)
*幸福を求める(S18:希望の窓社)
*楠一族(S18:潮文閣)
*風に関するEpisode(S21:円頂書房)
*放浪時代(S23:鎌倉文庫)
*愛の十字路(S23:同盟出版)
*美しき青春(S23:東光出版社)
*薔薇は咲けど(S24:東光出版社)
*月の砂漠に(S24:東光出版社)
*君は花の如く(S24:ポプラ社)
*燃えない蝋燭(S24:湘南書房)
*故郷の母(S25:ポプラ社)
*不死鳥(S26:改造社)
*現代日本小説体系45・モダニズム編(放浪時代、魔子を収録)S27:河出書房
*艶奇幻想小説―虹を作る男(S30:あまとりあ新書本)
*耽美派委嘱作品集―官能の夜(S32:あまとりあ社)
*現代日本文学全集86・昭和小説集(アパートの女たちと僕と収録)S32:筑摩書房
*日本現代文学全集105・現代名作選(1)(放浪時代収録)S44:講談社
*龍胆寺雄EROTICS傑作選(S45:三崎書房)
*日本文学全集88・名作集3(放浪時代収録)S44:集英社
*シャボテン幻想(S49:毎日新聞社)
*下妻の追憶(S53:日月書店)
*M・子への遺書(S53:日月書店)
*塔の幻想(S53:奢瀟都館)
*牧野夫妻の場合―貞淑なる妻の情事(S54:ホームダイヤモンド社)
*人生遊戯派(S54:昭和書院)
*シャボテン幻想(S58:北栄社)
*龍胆寺雄全集全12巻(S59~61:昭和書院)
*日本の名随筆別館14園芸(死の谷、悪魔の花園の同伴者収録)平成4:作品社
*花の名随筆12・十二月の花(焼夷弾を浴びたシャボテン収録)平成11:作品社
*講談社文芸文庫りB1(放浪時代、アパアトの女たちと僕と、M子への遺書収録)平成17:講談社

*シャボテンと多肉植物の栽培知識(S10:誠美堂)
*シャボテンと多肉植物(S28:誠文堂新光社)
*シャボテン―環境と植物(S28:岩波写真文庫)
*シャボテン(S34:誠文堂新光社)
*シャボテン新入門(S36:誠文堂新光社)
*シャボテン四季のアルバム(S37:大泉書店)
*シャボテンを楽しむ(S37:主婦の友社)
*シャボテン小百科(S39:主婦の友社)
*原色シャボテン多肉植物大図鑑第1巻(S40:誠文堂新光社)
*原色シャボテン多肉植物大図鑑第2巻(S43:誠文堂新光社)
*原色シャボテン多肉植物大図鑑第3巻(S45:誠文堂新光社)
*園芸入門・流行の多肉植物付新しいシャボテン(S47:主婦の友社)
  作品の多くは神奈川近代文学館に保存

♠作家・龍胆寺雄の作品に関する識者の批評♠

♠中央林間と龍胆寺♠

龍胆寺の第一の故郷は生まれ育った茨城県下妻市である。そして慶応の学生時代、及びもっとも華やかに文学活動をしていた時代は東京に居を構えていた。しかし、一番長く在住したのは、大和市の中央林間であり、文壇を去ってから、凡そ56年間、91歳でなくなるまで、市井の人として暮らしたのであり、彼の第2の故郷であった。そして日本が空襲を受け、まさに国敗れ去るときに丁度中央林間の町会長でもあった。その頃の事については焼夷弾を浴びたシャボテン(作品社:花の随筆集より)の最初の部分に書かれているので、その部分を抜粋してみました。さがみ野の原野であった、中央林間が現在の発展に至る経緯は、中央林間物語をクリックしてご参照下さい。

♠終わりに♠

以上で作家・龍胆寺雄のホームページを終了します。ご覧になって頂き有難うございました。最後に彼の残した詩集の中から、さらに、3点紹介して終わりとします。
  「春」                        「山ゆりの花」                 「シャボテンの花に」
  
    陽は見えず霧の明るさ      ソロモン王の         ひと夜 砂漠に吹きあれた
  黒土は黒く湿りて        栄華のきわみも        あらしがやむと 
  ひたひたと足になずめる     この一茎の          バラ色にかわいた
  草の芽はまだ萌えねども     よそおいにしかずと      しずかな朝あけがくる
  春来ぬと心躍る         イエス・キリストが       月はただ死滅した天体となって
                  聖書でたたえた        丘のかなたに傾き
  見はるかす畑の畦は       山百合の花          かわいて枯れかけた岩かげの
  立ち騰る地靄に消えて                     天地に誰も見ない 妖しい美しい花を
  霧はまず空よりはれぬ      露に濡れた          ただ陽にむかってひらく
  電線にならぶ小雀        その一輪を          そのような仕事を
  声なく身をこごめ寄る      あなたに贈る         私はいつも空想する
                  穢れを知らず
  蕗のとうはや茎立ちぬ      匂い高い           ゆうべ 砂漠にふたたび
  人の世を離れて住みて      乙女の姿を          あらしがたけると
  春来ぬと誰にか告げん      思い忍んで          丘のかなたにひとすじ遠く
  目を上げて声を求むる                     私がのこした足跡は
  大空の雲雀の姿                        むなしく砂波のおもてに消え
    (1955.3.23)                  岩陰のシャボテンは つつましく花をとじて
                                 またたく星々と月の下に しずかにねむる
                                                     トゲを吹きぬける 淋しい夜風をききながら
                                 そのような人生を 
                                 私はいつも空想する

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ART-REBIRTH 社の仕事


我々は過去に世に支持されて輝いていたものの、やがてすっかり時代の堆積に埋もれたまま、今に至っている芸術的、又は技術的仕事の復活を試みています。


この度、ギター曲;ピアノ曲;ソングを含むCDを制作したので、どうぞご試聴下さい。