"焼夷弾を浴びたシャボテン"
龍胆寺雄 著
H30.12.10に更新しました。
第2次世界大戦末期、アメリカ空軍による、東京、横浜に対する繰り返された爆撃により、多くの名だたるサボテン園は灰燼に帰したが、その結果、殆どが水分からなっている、巨大な金鯱や、貴重な多くのサボテン達はどんな運命になったか、そして、それらサボテンの栽培家の人たちはどうなったのか、実際戦禍の跡のサボテン園を訪ね回った、作者の実録に基づく随筆である。
「焼夷弾を浴びたシャボテン}よりの抜粋
シャボテンの球体には、大体95%内外の水分が含まれているといわれる。いってみれば、水を満たした氷嚢みたいなもので、雨季に根から水を吸って、じゅうぶん膨れた時と、乾燥期に長い間吸水をとめて、乾燥休眠して萎縮している時とでは、球体に含まれている水の量にも、10%以上の差があると思われるが、それにしても、やはり、水を満たした氷嚢のようなものであることに、ちがいない。もし、温室やフレームが火事で燃えて、万一シャボテンが鉢植えのまま、その中で火に焼かれるというようなウキ目に遭うとしたら、水を満たした氷嚢のようなシャボテンは、いったいどういうことになるだろうか、このことについて、珍しい体験をしたので、その話をしてみよう。
太平洋戦争の末期、昭和20年の3月と5月の大空襲で、東京の大部分は、灰塵に帰した。私の住む神奈川県大和市は、東京の丁度西南部にあたるので、いわゆるラジオの東部軍情報が、敵のB29の日本来襲について警報を出すとき、関東西南部から侵入と発表すると、必ずきまって、頭の真上を横切って通過する習慣になっていた。敵機の編隊は、伊豆七島づたいにまず富士山をめがけて来て、そこで東に進路をかえて、丹沢山塊を越えて、頭の真上に迫って来る。
大和市付近は、東部軍防衛陣地の一つで、ぐるりにアツギ海軍航空隊、相模航空隊、座間の陸軍士官学校、中野電信部隊の後身である八十八通信部隊、その規模において日本一を誇称した高座工廠(海軍航空廠)これも日本一を称した陸軍第三病院、わずか離れて、小石川砲兵工廠の後身である淵辺陸軍工廠などいった、大規模な軍事施設があって、当時軍都とよばれていたぐらいで、航空防衛の施設も、相当初めの頃は整備されていた。夜、航空照射灯がいっせいにつけられると、まるで巨大な金の鳥籠の中にでもいるような錯覚におちいることがあった。また、座間の士官学校の防空陣地には、航空射撃の非常な名手が配置されているというような噂も伝わってきた。ある夜、夜間東京空襲のB29の大編隊の一機か二機が、いきなり焼夷弾を頭の上からバラまいたことがあった。みる限りいわゆる相模の曠野で、今いったような色んな軍事施設があったにしても、結局ただ一面に、山林や畑地の続きだから、警戒警報や空襲警報が発令されて、灯火管制がしかれると、ただもう太古の暗い相模野にかえってしまう。その真ん中の、わずか三十戸たらずの小部落めがけて、焼夷弾攻撃を仕掛けるなどということは、想像も出来ないことだから、何かこれには、攻撃する側の誤算があったのではないかと思われるが、一説には、右の航空射撃の名手によって撃たれた敵機が、のせて来た焼夷弾をぜんぶバラまいて遁げたのだ、というような噂も伝わった。とにかく、しかしこの集中焼夷弾攻撃には抗すべくもなく、ひとたまりもなくこの小部落は、火の海となってまたたくまに焼け落ちてしまった。
私は町会長・兼国民義勇軍隊長・兼家庭防空群群長というような有難くない色んな『長』を仰せつかっていたので、国防服に鉄兜というりりしいいでたちで、この火事のさなかに駆けつけたのだが、電波妨害のために敵機が空にバラまいたアルミニューム箔のリボンが、無数にかたまって暗闇の空から斜めに降ってきて、下界の火事の反映でキラキラ光って流れている下で、ただ焼けるに任せている小さなとなり部落のこの惨劇を、茫然と立ってみているほかなかった。この部落は私の住む中央林間都市地域から、丁度南西に当たり、せいぜい半キロを隔てる距離だったので、もしこの焼夷弾をバラまいたB29の爆撃手が、その時クシャミか何か一つして、ハンドルを引くのを一秒遅らせたら、モロにこの恐るべき焼夷弾の集中落下を、私共の中央林間部落が頭から浴びたにちがいないので、実に人間の運命というものは、きわどいところで、幸不幸の岐路に立つものだと、慄然としたものだ。
結局、球体の中に95%の水分を含むというシャボテンが、焼夷弾を浴びて焼けたら、どういうことになるかということを、私は私のシャボテンで経験しないですんだワケで、これはひとえに、幸運の神のおナサケによるというよりも、そのB29の爆撃手が、その時クシャミを一つしないでくれたお陰だと、感謝しなければならない次第だ。閑話休題。-------以下省略-------
*「焼夷弾を浴びたシャボテン」の出典:昭和書院
発行「龍胆寺雄全集」全12巻の第9巻;又は 作品社発行「花の名随筆第12巻}に収められています。
*なお本作は電子データ化もされておりますのでこちらにお問い合わせ下さい。 |