中央林間物語

金子 豊

平成21年:中央林間東自治会だより より


中央林間物語

1.“中央林間”誕生の由来 

                               大和市は、来年(2009年)2月、市制50周年を迎えます。この50年間は都市化が一段と進渉しました。市制施行の昭和34年(1959年)の人口は35,301人でありましたが、8月1日現在では223、885人と約6.3倍に増加しました。人口動態だけがその証左ではありませんが、バロメータであることに変わりありません。     鉄道網の基盤整備もその一因であります。即ち、大正15年(1926年)の神中鉄道(相模鉄道)の開通、昭和4年(1929年)の小田原急行鉄道江ノ島線の開通、昭和59年(1984年)の東急田園都市線の中央林間乗り入れなどであります。     しかし何といっても相模平野の中央に位置する一農村、大和村の都市化の先駆けは、小田急江ノ島線の開通と、その沿線の宅地化(小田急による中央林間、南林間の林間都市計画)であります。そして来年4月には、開業80周年を迎えます。小田急電鉄なくして中央林間の誕生はなかったでありましょう。     江ノ島線の敷設は滝山街道(八王子街道)に沿い15かケ町村の好意的な協力により、土地買収も比較的容易にすすみ、工期も突貫工事の連続で何と1ケ年で完成したものでした。     鉄道敷設と並行して林間都市の建設計画のため大正14年(1925年)から昭和2年(1027年)にかけ大野村、大和村、座間村の一帯の宅地開発を想定して100万坪の土地買収を行い、その単価は坪当たり1円30銭前後といわれています。その間、江ノ島線沿線65万坪を住宅地として造成し、5、000戸の住宅都市を構想しましたが、当時この地域は広漠たる雑木林の原野でありました。宅地造成により、昭和4~5年南林間、同6年中央林間が分譲されたのであります。     江ノ島線の駅名は当初、中和田、公所、相模が丘という地名を予定していましたが、4月1日開業直前の3月5日になって電鉄側の強い要望により東林間都市駅、中央林間都市駅、南林間都市駅に改称されることになりました。 これは林間都市建設に対する並々ならぬ意欲を示すものでありました。 ここに初めて“中央林間”の名称が誕生したのであります。そのときの住居表示は大和村下鶴間でありましたが、現在の大和市中央林間1丁目~6丁目の表示はその後大分たった昭和41年(1936年)11月1日に実施されたものであります。 昭和16年(1941年)10月に駅名から“都市”が削除され現在の中央林間駅になりましたが、それは“都市”と呼ぶにはあまりにも実態がかけ離れていたからです。宅地の分譲が進展せず、一部の住宅地域を除けば雑木林の“林間”の様相を呈していました。 昭和6年(1931年)造成が終わった中央林間都市駅前には、わずか二軒の家があるのみで、昭和10年(1935年)の中央林間地区は50戸、230人であり、昭和15年(1940年)は140戸、557人、となっており、当初計画とはほど遠い状態でありました。 戦後の混乱期を過ぎ、高度成長期を迎え、工場誘致や幾多の都市計画を経て、京浜の近郊都市化が一層進展し変貌を遂げましたが、今日でもマンション建設が進む一方、工場の退去などめまぐるしい変化が続いております。今日の中央林間(1~6丁目)は7805世帯、16,288人(8月1日現在)であります。

2.創業者 利光鶴松氏の人と事業

    中央林間80年の歴史をたどるとき、小田急電鉄の創業者利光鶴松に触れねばなりません。利光氏なければ、小田急も江ノ島線の敷設もなく、まして中央林間は誕生することはなかったでしょう。“中央林間”誕生の主は利光鶴松氏その人であります。     利光鶴松氏は文久3年(1863年)大分県の農家に生まれ、15才のとき父を失い、母を助けて家業に精励しましたが、向学の念やまず、明治17年(1884年)青雲の志を持って叔父利光品吉氏と共に上京しました。20才のときであります。貧しさの中で法律を学び、代言人(弁護士)の試験に合格、開業し、盛名を馳せますが、関東自由党の感化を受け、自由党に加盟し、明治29年(1896年)に東京市会議員、同31年には衆議院議員に当選しますが、その苦節に満ちた、筆舌に尽くしがたい前半生は“利光鶴松翁手記”に詳述されております。その中で、「人ハ生活ノ安定ヲ得ザレバ 到底何事モ成スコト能ハズ 衣食足リテ礼節ヲ知ル 徒ニ空理空論ヲ説キ 漫リニ大言壮語スルモ 世人ハ之ヲ相手ノスル者ナシ」と述べています。     その後政界から実業界に転進しますが、鉄道事業へのかかわりは東京市会議員時代に“東京市街鉄道(株)”創設に関与したことに始まります。幾多の苦難を経て大正12年(1923年)5月1日、現在の基となる小田原急行電鉄株式会社が創立されました。利光氏は首都の発展に伴って郊外地域の交通網を充実させる必要性を主唱しており、企業として有望であると予測していたふしがあり、小田原線、次いで江ノ島線の敷設と合わせ壮大な構想を持っていたようです。     小田原線は着工後1年半で竣工開通させるという型破りの突貫工事も利光流でありました。工事だけでなく資材の調達、特に枕木の購入は困難を極め、30余万丁の膨大な量を短期間に北は青森から南は鹿児島まで人を派遣し集めたといわれています。それも一級品の指示で車両も駅舎も      全てそのならいで型破りでありました。     利光鶴松氏はスケール雄大、決断力と行動力は抜群でありますが、やや野放図で緻密な計画やソロバンに欠けるところがあったと評する人もあり、快挙というより暴挙とすら言っていいものでしたが、先見性と果敢な実行力があって今日の基盤を作ったとも言えるでしょう。     ご本人は次のように述べています。「世界屈指の大事業家タランコトヲ 理想トスルニ至レリ 大望ヤ理想ハ 人力ニテハ到底成就ス可キモノニアラズ 其成敗ハ 全ク天命ニアリ 然レドモ予ハ 元来誇大妄想狂ナリ 成敗ハ之ヲ天命ニ一任スルモ 希望ハ 飽迄雄大ニ 理想ハ 飽迄高遠ニ 死ニ至ル迄 決シテコレヲ変ゼザルナリ 要スルニ 予ハ金ヲ儲ケル為メ事業家トナリシニアラズ 予ガ 常ニ貧乏スルハ 蓋シ 之ガ為メナラン」     この項は之で終わりとしますが、故人の遺徳を偲び、改めて顕彰するに価するものと思いました。

3.“中央林間”初期の人々

      昭和初期は、関東大震災後の震災手形処理の不始末に端を発した金融恐慌と、昭和4年(1929年)10月ニューヨーク株式市場の大暴落を契機に世界経済は大不況に進みました。当然わが国も、生産、国民所得は落ち込み、失業者は続出して昭和恐慌が猛威をふるいました。     その不況の真っ最中江ノ島線が開通し、林間都市計画が実施されました。中央林間は昭和6年から宅地分譲が始まり、当時としては破格な前金なしの月賦払込、3年間の無賃乗車証などの特典をつけましたが、販売実績は会社の期待した程ではなかったのです。一方沿線開発の方策として松竹撮影所、相撲力士養成所などの誘致を計りましたが、不調に終わり、長続きしませんでした。現在残っているのは昭和6年にオープンした相模カンツリー倶楽部と、利光社長の一人娘伊東静江さんが昭和4年に設立した大和学園(聖セシリア)であります。     また、宅地開発と共に“スポーツ都市建設区”設定計画があり、中央林間と南林間の中間、東側24,000坪に野球場4面、テニスコート、ホッケー場、ラグビー場を併設し、“スポーツ都市”として分譲されました。     この建設に利光社長の依頼により衆議院議員鷲沢与四二氏と、スポーツ誌で鷲沢氏と関係のあった画家の田中清隆氏ガ協力しました。両氏は分譲地の宣伝、販売につとめ、昭和7年にはスポーツ都市協会という団体を作りましたが、会員は両氏を含めて22名、家屋建設中の4名を加えて26名でありました。これらの住民は林間都市草分けの居住者でありました。     そのメンバーの中には土橋仁之進、座間茂作、冨塚金蔵、三氏の名前があり、世代は変わりましたが、現在も町内に在住されております。特に、冨塚金蔵氏のご長男栄一氏は、昭和7年に誕生されていますが、中央林間で始めて産声をあげたと言われ、鷲沢氏が名付け親との事です。 中央林間の初期の様相は前述の通りでありますが、昭和10年(1935年)の中央林間50世帯の大半は東区(現在の2丁目)の居住者であります。つまりこの地域が中央林間の発祥の地であります。  その中でも鷲沢氏と同氏の片腕とも言われた田中氏とが傑出した先駆者といえましょう。  鷲沢与四二氏(1883~1956年)は長野県出身、慶大卒業後、時事新報の北京特派員として活躍され、昭和7年(1932年)には衆議院議員に当選し、同8年2月24日のジュネーブ会議で松岡洋石外相が時計を投げ捨てて退場する、国際連盟脱退のときの随員でありました。  鷲沢氏が小田急電鉄の利光社長と友人関係にあったことから、林間都市計画に参画、そして初期開発に腐心されたことは遍く知られていますが、同氏の屋敷(20000坪)は現緑野病院の所で、裏にあるお稲荷さんが往時の痕跡をとどめています。その鷲沢氏の邸宅には、中央林間部落会の初代会長をつとめていたこともあり、地域の人々の出入りが多くみられ、高木蒼梧氏(俳人、俳諧研究家)を中心に毎月林間句会も開かれていました。何れにせよ多方面に亘り地域のために大変尽くされた人でありました。また、好事家には知られている所ですが、“ジンギスカン料理”の命名者でもあります。  鷲沢氏と共に中心的役割を果たした田中清隆氏(1897~1998年)は、京都市出身、中村不折に師事した洋画家ですが、主にヨーロッパで活躍され、フランス芸術協会員でもありました。大和市中央図書館の壁面に、「大和市24景」が展示されていますが、その挨拶の中で、「私が中央林間に移り住んだのは、昭和6年ですから60年になります。当時の中央林間は草原で、唐松が多い軽井沢を思わせる土地で、井戸も30m近く掘らないと水が出てこない有様で、電灯もなかったのです。―(中略)―平成4年となって現状の大和市の風景の姿を残すことの意義を感じ昨年から書き始めました。―(中略)―95歳となった私の大和市への愛着と市への感謝のあかしとしたいのです。」と結んでいます。 田中氏は、終始鷲沢氏の秘書のような立場で林間開発に尽力されました。後に高座教会設立に貢献されるなど多彩な生涯を全うされたのであります。(田中氏の本名は清で、雅号が清隆です。)

4.昭和動乱期の様相

 林間懇話会は昭和7年(1932年)9月1日に設立され翌1月の総会で石黒隆行氏が会長に選出されました。中央林間、南林間の有志により構成され、両者の中間にある“林間クラブ”を拠点に、会員相互の親睦を目的にとして発足しましたが、主な活動は生活基盤整備のため小田急との折衝でありました。本会は昭和9年1月に解散となりました。その後も有志により断続的に交渉が続きますが、昭和15年9月30日に小田急と林間居住者の参加により“林間都市協会”結成されました。両者による分譲契約時の約束履行の話し合いが戦後に至るまで続きますが、居住者にとっては小田急の協力が必要不可欠であったのです。病院も学校もなく生活上の苦労は並大抵ではありませんでした。当初は鷲沢氏が、やがて、昭和10年に移住された龍胆寺雄氏(本名:橋詰雄)が先頭に立ち交渉に当たったのであります。  同時に、昭和10年行政の奨励もありまして中央林間部落会が設立され、初代部落長には鷲沢氏が就任されました。 その後、(昭和14年頃)陸軍大尉で玉川学園の教練の先生でもあった退役軍人の土橋仁之進氏が部落会長になり、龍胆寺氏が副会長となりますが、やがて(昭和17年)龍胆寺氏が部落長をつとめ、途中名称が町内会と変わります。終戦と共に連合軍の指令により、各団体は、戦争協力団体の烙印により解散を命ぜられたのであります。それは何故かと言えば、戦時中、部落会(町内会)は、大政翼賛会の末端組織として、戦時下統制経済の中で、物資の配給、軍人家族の援護活動などに大きな力を発揮するようになったからであります。つまり、戦時体制が終焉を迎えたのであります。その後、町内会は装いを新たに存続したのであります。中央林間部落会は昭和17年1月当時、世帯数61戸、人口は287名であり、組織は9組に分かれ、地域住民に対し指導的役割を果たしたのであります。  龍胆寺雄氏(1901~1992年)は昭和3年、新興芸術派の旗手として彗星のように文壇に登場し、一躍流行作家として活躍しますが、その後文壇のギルド的世界に訣別し新天地を求めていたところ、隣人の紹介で鷲沢氏を知り、氏の勧めもあって中央林間に転居されたのでありますが、その敷地の中でシャボテンの栽培と研究に専心し、シャボテン博士の異名をとるのであります。それは同氏にとっては作家活動と同様の行為でありましたが、著作活動も平成4年他界直前まで続けられたのであります。後に触れる“高座教会”の発起人でありながら、「良いことだから大いにやりなさい、しかし私はやらない」と宣言されたといわれていますが、峻烈な孤高の精神を示していると云えましょう。 “相模の野辺に鶴舞ひて”で始まる大和中学校の校歌は同氏の作詞でありますが、作曲は鈴木次男氏(東京芸大卒)であります。同氏は戦時中大和学園で音楽を教え、戦後は一時大和中学校に奉職されていましたが、後に高座教会設立の火付け役から同会の長老として活躍され、また礼拝音楽の作曲家として、作品を残されました。  学校関係では、昭和7年に移住された座間茂作氏は南大和小学校の二代目校長を勤められましたが、同氏の5人のお子様は全員教職に就かれ、中でもご長男の茂俊氏は大和市の教育長の要職を担われました。まさに、教育一家というべきでありましょう。

5.高座教会設立秘話

 昭和20年(1945年)8月15日正午、天皇の玉音放送があり、太平洋戦争は終戦を迎えます。8月30日午後2時5分、厚木飛行場にC54輸送機が着陸し、連合軍最高司令官のマッカーサー元帥がコーンパイプをくわえてタラップを降りてきました。これは日本占領の歴史的シーンといわれるものです。  そして、古ぼけたリンカーンに乗って、マッカーサー元帥は横浜の司令部(ホテルニューグランド)に出発します。その間のわずかな時間の滞在でありました。  戦時下では、灯火管制がしかれていましたので、終戦となり、おおっぴらに電燈が明るくつけられたのは何よりの慰めでありました。しかし、小田急電車の窓は壊れ、食料は欠乏し基地にウェスト(残飯)を集める人の姿などもあり、世相は荒廃と虚脱につつまれていたのであります。  翌、昭和21年夏の頃、鷲沢与四二氏宅を一人の外人チャプレン・ストレート氏が訪れ、一冊の英文新約聖書を置いてゆきました。これは後に判ることですが、鷲沢家の親戚である音楽家の鈴木次男氏が、米国キャンプの中にある礼拝堂で日曜礼拝のオルガンを弾く奉仕をしておられことから、同氏が鷲沢氏をストレート牧師に紹介していたのです。  鷲沢氏はこの新約聖書を読み物の乏しい時であり、よくよく読まれたのであります。やがて鷲沢氏は親しい友人に集合をかけました。集まったメンバーは、田中清隆、爾見信郎(画家)、鈴木次男、龍胆寺雄、浅原六郎(小説家)の諸氏でありましたが、牧師でもない鷲沢氏は「皆聞いてください。この聖書に書いてある愛の精神を私達は知らなかったから、こんな負け戦をしたのだよ。大いに学ぼうではないか」と語り、聖書の講義を始めたのでした。田中氏はこのことについて「戦争にかかわった政治家がキリストの教えに深く関心を持ったという、実に不可思議なこと、神の摂理と思わずにいられない」と述懐されておられますが、奇跡が起こったと思ったのです。毎夜集まった人々に鷲沢氏は牧師のような口調で聖書の講義をしました。いよいよ確信を深めた氏は、協会設立の希望を語るようになりました。参加者も異口同音に賛意を表したので、日本基督教団に牧師招聘を申し入れたのであります。 同年暮れが迫った12月25日、鷲沢邸で最初のクリスマス祝会が持たれ、そして翌年1月19日、礼拝堂がありませんので爾見氏のアトリエにおいて、吉崎牧師司式の下に18名の人が集まり、第1回の礼拝が行われました。やがて参加者も増加しましたが、「何とかして礼拝堂を持ちたい」、という願いが届いたのか、田中氏の知人の紹介で、松竹の社長である大谷竹次郎氏所有の南林間の土地2000坪を教会のためなら売却してもよいという事になり、田中氏が買い取り献納致しました。待望の教会用地が出来たのであります。 昭和23年(1948年)カンバーランド長老教会のチャプレン・クレメンス牧師が訪れ、同教会と深い関係になり、礼拝堂建設の応援も約束されて、本部の援助金と信徒の献金で最初の礼拝堂が建設されることになりました。献堂式は24年7月17日に行われましたが、文字通り宗教法人日本基督教団高座教会として発足したのであります。(現在の会員数は1200名と伺いました。)  同時に“みどり幼稚園”が併設されることになり、26年4月には県公認の大和町唯一の幼稚園として正式に設置が決定されました。爾来、40年余に亘り田中氏が園長、理事長をつとめられましたが、今日に至るまで、地元に貢献しているのは周知の通りであります。  1冊の聖書が教会を生みました。これこそ奇跡であり、文化遺産であると云えるでありましょう。

6.甦生する幻の林間都市

  神の仕業か、時の流れか、歴史の巧みは破天荒であります。未開発の原野に小田急江ノ島線が昭和4年(1929年)4月1日開通して早80年になりますが、同時に構想された林間都市計画は、昭和恐慌と通勤には遠距離などの条件で遅々として進まず、10年たった昭和14年に至るも分譲地の販売は31%程度にとどまり、企業的には失敗と云われたのであります。 昭和10年、中央林間都市駅前に住まわれた竹本松市さんは、“広報やまと”(昭和55年12月1日号)の談話記事に「当時駅舎は5メートル四方くらいしかありませんでした。ゴルフ場に来た自動車が駅舎にぶつかったら動いてしまったくらいです。私は鉄道会社に勤めていたので、覚えているんですが、駅の収入が5銭という日もありました。これは町田(当時原町田)までの子供の運賃に当たる金額です。乗降客は殆どなかったということですね。」とあります。確かに、当時電車賃を浮かせれば飲み代になると原町田まで1時間以上かけてテクテク歩いたということもあったようです。 この状況下では、小田原急行鉄道の経営がよかろう筈はありません。利光社長が遠大な計画を立て投資した中国山東省の金鉱山開発も、昭和12年(1937年)7月に勃発した日華事変により挫折する結果となり、その上親会社の鬼怒川電気も戦時経済体制を敷いた政府の国家管理により事業の中枢を失わざるを得なかったであります。形の上では親会社と合併し、小田急電鉄として再出発することになりました。昭和16年3月のことであります。既に、昭和14年、利光鶴松社長はこの経営危機に際して、かねてより識見辣腕に着目していた東京横浜鉄道(現東京急行電鉄)の五島慶太社長を経営陣に加えていました。五島氏は利光氏を斯界の先輩として尊敬し、早川徳次氏との地下鉄紛争においての同氏の尽力に恩義を感じていたと思われます。やがて、一代の風雲児利光氏は、昭和16年6月28日老齢を理由に引退し、副社長の利光学一氏(叔父品吉氏の婿養子)が就任いたしまが、3ヵ月後「学一の手では小田急の経営は難しいから、君が社長になってくれ」と後事を五島氏に託すことになりました。そして10月15日には中央林間都市駅から“都市”を外し中央林間駅に改称されます。そして12月8日、わが国は太平洋戦争に突入し歴史は大きく転変することになりました。 昭和17年5月1日、小田急電鉄は京浜電気鉄道(京浜急行鉄道)と共に、東京横浜電鉄に合併し東京急行電鉄になりますが、その後、京王電気軌道(現京王電鉄)も合併し、国策である東京西南部ブロックの統合が実現しました。全ては戦時陸運非常体制でありました。そして昭和20年(1945年)8月15日、ポツダム宣言受託により終戦となり、明治維新以来の変動期を迎えることになったのであります。 GHQ(連合軍総司令部)の占領政策は財閥解体、農地改革、労働者の地位向上を3本柱とするものでありましたが、東急電鉄においても旧小田急側に分離独立運動が高まり、GHQによる独占禁止法と過度経済力集中排除法の2法により助長され、紆余曲折の末五島慶太氏の決断により会社再編成が完了し、昭和23年5月29日、京王電鉄、京浜急行と共に分離独立し、新しく小田急電鉄が正式に発足することになりました。早速、10月16日に新宿―小田原間ノンストップ特急が運転開始され、新生小田急の意気を示しました。 新社長の安藤楢六氏は東急の副社長から古巣に復帰するのですが、同氏は大正14年東京帝大を卒業後、求職のため郷里の大先輩利光鶴松社長を訪ね、即決で入社した生え抜きであります。爾来、昭和44年まで社長を勤め、その後も会長として同社及び関連企業の営業基盤を築いた小田急グループ中興の祖であります。特に昭和32年(1957年)6月22日、画期的なSE型ロマンスカーが就役し、創業以来念願の箱根湯本までノンストップで乗り入れることを実現したことは、小田急の黄金時代を迎える象徴的なことでありました。なお、同氏は東急からの分離独立に際して過去合併により小田急の負の遺産が掃除されたことにより小田急の今日があるとの冷静な認識があったように思われます。 一方、厚木飛行場のある大和町は終戦により激変します。早くも8月22日には連合軍が飛行場に第一歩を記し、米兵の駐屯地になりました。昭和25年(1950年)6月5日、朝鮮動乱が勃発すると兵士やトラックの往来が頻繁となり、そのため基地労働者の増加とサービス業などの就業者の流入で、現地域(大和町、渋谷村)の人口は22,326人(昭和25年)から30,375人(昭和30年)へと5年間で8千人余増加するに至りました。そのため学校、道路、上下水道などインフラの整備が急務になり、財政は逼迫し、消費中心の住宅都市から二次産業振興により町勢の発展と財政の安定化を計ることになったのであります。昭和31年(1965年)3月、“大和町工場設置奨励条例”が制定され、工場誘致が推進されましたが、中央林間周辺では、三機工業(昭和36年)、東洋製作所(同36年)、日本ビクター(同37年)が主な進出企業でありました。 既に、昭和34年(1959年)2月1日、市制が施行されましたが、当時の中央林間は下鶴間の一地域であり、 交通の利便性などから、住宅が漸増しておりました。しかし、下鶴間が広いため、住所表示を整備することに なり、昭和41年11月1日から現行の中央林間1丁目から6丁目の住所表示が実施されました。其の時の人口は1,411世帯、4,668名(昭和42年7月1日現在)でありました。 やがて、田園都市線が中央林間を目指し、住宅開発と共に南下してまいります。都市化に拍車がかかり、“幻の林間都市”も今や大きく変貌を遂げることになるのであります。

7.東急田園都市線、中央林間に至る

 昭和59年(1984年)4月9日、最後の未通区間であった、つきみ野―中央林間(1.2km)が開通し、ここに東急田園都市線は全通(渋谷―中央林間)したのであります。免許申請以来27年、つきみ野駅の開業から8年が経過しておりましたが、この全通により、多摩田園都市計画は最終局面を迎えたのであります。この雄大な計画は、東急王国の基盤を作った五島慶太氏が、畢生の大事業として昭和28年(1953年)1月19日発表した“城西南地区開発趣意書”に詳述されておりますが、東京都は最早これ以上の人口膨張に耐え難いので、第2の都市を建設しなければならない、それが“多摩田園都市”であるという構想立案でありました。圏内には多摩丘陵の一部でもある川崎市高津区、横浜市緑区、町田市、大和市の四地方行政体があり、行政権を持たない一大ニュータウンであります。1万3千坪に40万都市という壮大な構想であります。  東急電鉄は昭和32年11月14日、溝口―長津田間の免許申請を新たに中央林間まで延長変更しますが、主な理由は長津田以遠にも住宅適地が多く、小田急江ノ島線と連絡する方が有利であるというものでした。その後、小田急電鉄から東急に「貴社申請の終点予定地中央林間及びその周辺は弊社新宿駅の勢力圏内と考えられますので、貴社の終点予定地を弊社江ノ島線の鶴間以南に変更されたい(以下省略)」との文書が届きました。この小田急の申し入れは、その後の進行に影響を与えたことはいうまでもありません。昭和41年(1966年)4月1日には溝口―長津田間が開通しましたが、幾多の困難のため中央林間までの道程は可なりの時間を必要としました。その間、五島慶太会長は昭和34年8月14日他界し、五島昇社長がその偉業を引き継ぐことになりました。  長津田を南下する開発については、先ず電車線のルートの問題がありました。当初の計画は小川(現つくし野)の柳谷戸上から金森西田を通って中央林間に向かう路線でしたが、これを青山往置(246号線)沿いに変更しようとの誘致活動が長津田や町田町南村(現未真美町田)で起きます。公所では逆に駅の予定地を公所寄りにとの陳情が出されます。さらに埋蔵文化財の発掘調査などもあり、路線、駅の位置、それに伴う区画整理や土地買収の問題が行政を巻き込み、重層的に惹起したのであります。その上地域開発の思惑もあって昭和34年から昭和37年の3年間で土地が10倍近く高騰し、混乱を助長したのであります。一方、中央林間においては、東急電鉄が小田急電鉄との協議に手間取っていたものの、駅東側の社有地2万5千坪に綜合開発計画を立案し、それは大型商用店舗(東急ストア)、駅ビル集合住宅の三本柱からなっており、昭和55年12月、田園都市線延長計画(つきみ野―中央林間)と共に駅前総合開発計画として大和市に提出し具体的な協議を始めていました。やがて小田急との問題も解決し、大型店舗が完成し、「中央林間とうきゅう」として開業したのは60年4月5日でありました。集合住宅は中央林間エクシードA,Bの2棟120戸でありました。この“多摩田園都市”構想は、当初の目標を大きく上回り、1万5千坪、59万人のスケールとなりました。この都市計画の成功は、小田急の林間都市計画を補完し、都市化を一段と進渉させました。平成2年3月27日、小田急の英断により中央林間駅に“急行”の完全停車が実現しました。利用者にとっては格段の利便性が増し、その相乗効果は最近の1日平均乗降人員も小田急:90,096人、東急:97,484人(ともに2007年)となり、なお、増加傾向にあります。ちなみに、中央林間の人口は7,891世帯16,355名(平成20年12月1日現在)であります。 かつて、小田急の利光氏が東急の五島氏を林間地区に案内したことがありますが、もし、今この両巨頭が駅頭に在りましたら「駅を新しく作り直し、乗換えなど、もっと乗り降りを便利にしよう。そしてロマンスカーも中央林間に停車させ、中央林間をもっと素晴らしい魅力ある街にしよう」と語り合い、力強く握手することでしょう。これは幻でなく、近い将来の現実であるように思えてなりません。(完)  *本稿は小田急50年史、多摩田園都市開発35年の歴史など多数参考としました。また、郷土史家鎌田幸雄氏から資料提供を受けたことに謝意を表します。

8.龍胆寺 雄氏が遺したメッセージ

 「中央林間物語」も最終回を迎えました。三回に亘り小田急を主軸に80年の歴史をた辿ってまいりましたが、最後に再び龍胆寺雄(本名:橋詰雄)氏に触れなければなりません。同氏は、昭和10年(1935年)、11月、高円寺から此処中央林間に転居されましたが、当時を著作の中で、「西に丹沢山塊から富士山を遠望し、東の地平線の下には夜は東京横浜の市街地の灯りが天につつ抜けて見える広漠たる相模野原のど真ん中だけに、その東のほうのなにも遮るもののない遠望が気になった。小松が十数本並んでいる地境のかなたは、見る限り畑と林なのだ」(人生遊戯派)と書かれています。因みに小田急分譲地のキャッチコピーは、“都塵と騒音を遁れて保健と長寿の楽卿”とあります。50戸、人口230人の細々とした集落でありました。  爾来、平成4年(1992年)91歳で他界されるまで、文字通り生粋の中央林間人でありました。  すでに述べた通り、転居直後から部落会(後の町内会)など地域活動に努め、特に戦時下には町内会長の傍ら国からの要請により国民義勇隊長、家庭防空軍長等住民の食料や衣料の配給、防空訓練にに至るまでの協力、大変な労苦があった模様です。  一方、分譲地に関する小田急への要請とそれに伴う折衝は長期にわたり困難を極めますが氏が終始先頭に立ち尽力された事は周知の通りであります。  然も、小田急の宅地開発では、小田急が一人施行による耕地整理を件に申請した経緯から、大和村政の関与がなく、小田急に依拠せざるを得なかったからです。おりしも昭和恐慌、15年戦争による分譲地の販売不振から、道路、公園、下水道などインフラが遅々として進渉しなかったのです。  この辺の状況は、“林間の歴史と今昔”(大和市史研究14号所収)や“相模の日記抄”(かながわ風土記掲載)に詳述されていますが、同氏の筆致によると、呻吟、苦悩の内実も爽やかに表現され、同氏の人生観に由来するものと窺われます。即ち、“人は楽しむために生まれてきたのである”ということでしょう。  結びに、中央林間ニュース第2号(昭和26年3月25日発行)に同氏が寄稿されて中央林間は住みにくい”をご紹介したいと思います。 内容は二項目ですが、その一つが“松の木騒動”であります。東急ストア前に「一本松の碑」がありますが、昭和26年3月のある日、樹齢150年をこえる老松(ご神木とも云われた)が農家の人達による伐採直前、龍胆寺氏や地元の有志の町長、農地委員会、警察などに奔走して難を逃れた事件です。この巨木はかって分譲地にあった公園の脇にありましたが、その公園が戦時中食糧増産のため開墾され、畑になってしまいました。戦後、農地法により何時の間にか農家に売り渡されていたため、伐採出来る状況にあった訳です。 それを地元の意思を通して阻止した象徴的な出来事でした。この一本松の後日談は、昭和57年(1981年)8月23日、老木の寿命と田園都市線乗り入れのため、宮司によるお祓いの儀式の後、終末を迎えるのであります。現在コンビニの横にある三本松は、その記念に植樹されたものであります。 その二は、“中央林間はママっ子” であります。同氏は「17年も同じ所に住んでみると、たいして取り柄のない所でも結構愛郷心というものが湧く(中略)、住む以上は何かもっと快適な住みごごちのいい土地にしようと考え」ているが、併し大和町の政治は主力が農家向けだと嘆き、ママっ子扱いされ、冷遇されていると云っているのです。税金や寄付の負担だけは思い、医者もない、10数年前から計画して学校もやっと出来たが、住民はもっと行政当局に働きかけないと中央林間の住みにくさは、いつまでたっても解決しない。そのためには政治代表を送り出さなければいけない。中央林間が政治代表を持っていないことが最大不幸事とも云っております。そして「もう一つは婦人会の強化を考えて欲しい。婦人の力が働く世界は大きいのである。」と訴えておられる。この二つのメッセージは今日においても充分、かみしめるべき言葉と思われます。(完)