参考資料5

龍胆寺が移ってきた前後の中央林間の住民組織の状態:昭和8年ごろの中央林間及び南林間の住民の組織は、林間懇話会という組織があって、都市部から移ってきた人達の、今で言う自治会に当たるものであったと考えられる。昭和8年6月4日発行とされている、林間懇話会会報の創刊号と銘打った粗末なガリ版刷りの冊子の冒頭には、発刊の辞として「都塵を避けて林間に住まわれた諸賢の最大の目的は平和、静穏にして住み心地よき理想の生活営まれんとするにあることと存じます。而して居住者のお互いが自由な気持ちで生活し小異を捨て、大同につく様にして行きましたならば、この理想郷も容易に完成されることと確信いたします。この目的のために、幾分の貢献とならば幸甚と思いまして、林間懇話会会報を発刊しました。何卒本会並びに本会報のために格別のご後援を賜らんことを。」と記されて居り、あと、小田急電鉄に対する要望事項、会員氏名、連絡事項などが書かれている。記載されている会員数は、中央林間、南林間合わせて、40名、会長は石黒隆行となっている。
この組織はしかし、昭和9年に解散になっている。龍胆寺が中央林間に移ってきたのは、昭和10年の11月であったが、昭和15年11月の中央林間部落会の記録によれば、部落会は9つの隣組よりなり、部落会会長は土橋仁之進、副会長橋詰(龍胆寺)雄となっている。そして、昭和16年の部落会記録を見ると、部落長は橋詰(龍胆寺)になっており、以後7年間中央林間地区の部落長を務めるとともに、大政翼賛会>大和村支部常務委員、世話役などを委嘱され、住民に対する食料、衣料の配給、戦時下の国に対する種々の協力要請に関する>対応、防空体制の強化など、今考えても国の敗戦と言う未曾有の時代に民間人とはいえ随分難しい対応を迫られた問題も合ったのではないかと推察される。もう一つ、当時の林間住民にとって重要なことは、小田急電鉄との関係であった。当時部落会とは別に、小田急電鉄より土地を求めて、都心より中央林間、南林間に移住してきた人々によって、林間都市協会という組織が作られており、その規約の第2条には、「本会は林間都市の発展即ち土地の発展並びに林間都市居住者の福利を増進せしむるため、小田急鉄道電鉄と林間都市居住者と協力して之をなすべき一切の企画と之が実現運営に任ずるを持って目的とする」とある。しかし、昭和15年、以降、道路、下水道の構築整備、公園、スポーツ施設の扱い、小学校建設、医療施設などのインフラ構築に関し、さらには乗車券割引、などの契約履行に関して住民と小田急電鉄の間に争いが生じ、和解、解決までに月日がかかった。本件についてより詳しいことを述べるのは、本稿の目的ではなく、ただ作家流胆寺は代表者の一人として、解決に奔走したことを述べるに留まる。
中央林間ニュース(第2号:昭和26年3月25日発行:発行責任者:筒井左近)より:
中央林間は住みにくい   龍胆寺雄
松ノ木騒動
この頃起きた松ノ木騒動というのを、ご存知だろうか。
中央林間駅から踏み切りを超えて、東南へダラダラと坂を下りた低地に、道路の真ん中に推定樹齢少なくとも150年以上と 思われる松の巨木があることを、諸君はご存知に違いない。この付近一帯は、20年前小田急電鉄が、ここの分譲居住者のた めに公園を設置したところで、私がここへ来た頃(17年前)は立派な公園の設備があり、子供たちが唯一の遊び場として ここに来てブランコになんか乗って遊んだものだった。
小田急は私たちに土地を売りつけてしまうと、この公園のことはもううっちゃらかしにしてしまったので、その後施設は荒廃し、 戦争中は食糧増産のため開墾され畑になってしまったが、この公園の敷地は、中央林間居住の諸君が自分の地代の中に加算さ れて地代を支払ってあるので、ここは、いわば公共の所有地として主張できる立場にあるわけである。
ところが驚いたことに、この公共地が、私たちの知らないうちに農地法によって小田急から売り渡されて、公所新開の農家の 所有になってしまっており、もっと驚いたことには、中央林間の、小田急の線路から東側に住む諸君が駅へ出るために使用し ている全部の道路が道路として保存されず、道路そのものまで畑として農家に売り渡されてしまったため、近日中にそれが 取りツブされるという運命にぶつかったわけである。
なんと、中央林間の居住諸君。
特に、線路の東側に住む諸君。
諸君が毎日駅へ通うために使っている道路は、近日全部なくなってしまうというハメになったのだ。
そこで、話は又元に戻る
例の松の巨木だ。
この大和町にこれだけの巨大な松は2本しかないといわれる中央林間名物の「一本松」は、公園敷地の端の、道路の真ん中 にあって、私たちは、私たちの松として20年来大事にしてきたのだが、突然、数日前、この土地を農地として買った公所 新開の農家の手で伐られて、鶴間の土屋材木店に売り渡され、共同出荷所の建設資金にされることになった。農地法の条例に 強制伐採できるのだそうで、小田急はやむなく、それを公所新開の農家の組合に売り渡したワケだ。
名物の「一本松」が公所新開の農家の連中の手で伐られる。大変だから何とかならぬかという騒ぎが、私の耳に入ったのが 5日。大安の明日伐るのだというから、コトは急だ。
そこで私は、即日小田急本社の田丸開発課係長をつかまえて抗議を申し込み、売買契約の破棄と、伐採の一時差し止めを 無理に承諾させ、それから、中央林間道路委員筒井左近君、婦人会長田中千恵さん、町会議員しかみ信郎君、その他、冨塚、 秋山、徳丸、九鬼、田澤などの有志諸君と連絡して、約10日間、この松の助命と、道路問題解決のために奔走した。 大分すったもんだやったが、結局、町長、農地委員会、国家、自治両警察署長、これらの諸君を動かし、県公安委員長 鷲沢さんの応援まで得て、やっと、「農地法」の方に引っ込んで貰って、私たちの意志を通すことに大体決着ついた。
一本の松が原因で、大和町全体の騒ぎにまで発展し、町長の首の問題に及ぼうとして、一歩手前で収まったわけだ。
私はお陰で10日ばかり棒に振った。田中婦人会長なども、よく活動してくれた。
中央林間はママっ子
さてこういう問題にぶつかって、しみじみ感じるのは、17年も同じところに住んでみると、大した取りえのないところでも 結構愛郷心というものが涌くものだナということで、私などは17年もここに住んでいて、終始一貫、こんなツマラぬ面白く ないところはないと考えているのに、それでも愛郷心は人並み以上で、住む以上は何かもっと快適な住み心のいい土地にしよう と考えて、まあその考えから、戦争の前後を通して、部落会長だの、町内会長だのなどという厄介きわまる仕事を、7年も 続けてやったのだが、まして中央林間を少しでも気に入っている諸君は、少なくとも私等よりも、もう少し積極的にこの土地 を快適な住みよい土地にするために、力を貸して欲しいものだと思うのである。 それについても、一番問題は、大和町の政治は、主力が農家向けに出来ているので、中央林間野の様な非農家の部落は、 どうしてもママッ子扱いされて、閑却され、冷遇される傾向がある。他の農村地帯には、大抵の道路に立派な砂利が入って きているのに、中央林間へだけは、いつまでも入ってこないとか、税金や寄付に負担だけは、いい気になって重く吹っかけ てくるとか、といったバカバカしい目にあう。 昔中央林間には医者が無かった。 そこで、加藤喜太郎君と、岩本信行君(衆議院副議長)と私と3名で、菊田医院を持ってきた。 林間の小学校も、十数年前に計画しながらやっと一昨年私は小田急から2千坪土地を貰ってきて、やっと曲がりなりにも 独立校ができた。何しろ、中央林間というところは、大和町行政の面では、ママっ子扱いにされがちで、そのことを部落民 諸君はよく心に置いて、行政当局に働きかけないと、中央林間の住みにくさは、いつまでたっても解決されない。 よき政治代表者を出せ 私は、先に述べたように、7年間町内会長をやった。元来怠慢な性分だし、政治は大嫌いだし、手前勝手な人間だから、 大した成績もあげられなかったが、中央林間をママっ子の地位には置くまいという強い意識で終始したので、その点では、 まあ何とか、町行政をこちらから押していった。町内会長会議なんかも、大抵私は議長をやって引きずっていったし、 大抵の町会議員なんかよりは、私のほうが押しが強かった。町長を自由に動かしたつもりだった。 しかしこんな仕事はもう真っ平である。こんなことをさせられる位なら、さっさと中央林間を逃げ出したい。今度の松ノ木 騒動などは、私でないと出来ない面があったので、やむなく先にたって奔走したが、もう、こういうことも、他の有能な 諸氏、とりわけ新来の諸君の手に任せたい。頭も真っ白になったんだから、もう隠居させてもらってもいいと考える。 ただ、それについても、これだけのことは言いたい。 中央林間を住みよくする為には、どうしてもいい政治代表を町の政治に送り出さなければいけない。中央林間のことを日夜 考えてくれる、そして実行力のある政治代表を送り出さないと、中央林間はママっ子扱いされる。中央林間居住者諸君の 最大不幸事は、中央林間が強力な政治代表を持っていないことだ。町行政の面に何の主張も出来ないのが現状である。 こんなみじめな部落は、他には一つもない。このことを諸君で考えてもらいたい。是非、今度の町会議員選挙には、いい 政治代表を送り出して欲しい。私たちも、陰から、あらゆる応援を惜しまないつもりだから。 それからもう一つは、婦人会の強化のことも考えて欲しい。 中央林間を住みよくする為に、婦人の力が働く世界は大きいのである。中央林間の全婦人の協力をお願いしたい。 (著者は大和町文化クラブ会長)




戦時中の中央林間部落会資料


















































































トップページに戻る