参考資料1
龍胆寺雄の父橋詰孝一郎について:
「為桜百年史:第1編下妻中学校の歩」より:橋詰孝一郎は下妻中学の教員の中で、学識深く異彩を放つ人物であった。 明治7年12月、稲敷郡柴崎村の生まれである。私立千之学校を卒え、当時、歌人・国文学者として知られた落合直文について約6年間ほど学んだ。 30年千葉県佐倉中学教員となり、35年1月下妻中学に赴任、大正6年4月に退職するまで国語科の授業を担当した。妻も落合直文について歌を学んでいる。長塚節や横瀬夜雨と親交を深め、特に節は橋詰家に始終出入りしていたという。「為桜会会報」である「為桜」の編集に従事し、「橋詰巽二」の号で積極的に発言し、「中学書簡文範」;「中学新作文」;「中学生と家庭の教養」等を表している。
昭和41年発行:旺文社文庫 長塚 節著 「土」
に長塚節が龍胆寺雄の父橋詰孝一郎の妻の実家を訪れたときの話などを中心に、旅好きであった節の逸話、その旅姿の写真等が孝一郎によって紹介されている。(原本:「思い出の数々」アララギ第8巻6号)
「為桜」について:「為桜」は下妻中学(現県立下妻第一高等学校)の機関紙であり、「為桜百年史」によると、橋詰孝一郎が編集の要にいた頃は、長塚節、横瀬夜雨、中村不折、平福百穂など高名な歌人,詩人,画家が掲載した充実期を迎えており、全国的にもかなり質の高い高いレベルにあったと記されている。
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