参考資料9
色々な作家との出会い,印象:「人生遊戯派」より:

島崎藤村: 「放浪時代」によって私は佐藤春夫に認められたが、その前から私は佐藤春夫に私淑していて、彼に会うために、島崎藤村 から、紹介状を貰っていた。大変懇切丁寧に私を紹介した島崎藤村の手紙は、もしもこういう筆跡を佐藤春夫が大切にして いて、島崎藤村全集の書簡集の編集に当たって、資料として彼から提出されてでもいたら、その手紙はその書簡集に載って いなければならないと思うのだが、その全集が私の手元にないので、果たしてそれが書簡集に乗っているかどうか、私は知 らない。その頃島崎藤村は、麻布の飯倉片町に住んでいた。路地の奥のしもたや風の作りの、磨きぬかれた格子戸のある、 ちょっと日陰の陰気な家で、その格子戸を開けると、とっつきが三畳の玄関になっていた。島崎藤村は客を奥の書斎に等には 通さない人で、たいてい彼を訪ねて会うのも、玄関のその三畳でだった。彼は陽を浴びたことがないような青白い顔に、何か 慇懃丁重な、殆ど厳かな表情の顔で、いつも地味な和服姿で、きちんと客の前に膝を正して座って、物静かな抑揚のない口調 で話した。時とすると、細かい縞のもんぺをはき、放棄と塵取りを手にして、玄関のあたりを掃除しながら話すようなこと もあった。その頃私は、向島寺島町の安塚千春のところにいたが、吾妻橋の札幌ビールの工場の脇に、小さな煎餅屋があって、 草加煎餅を売っていた。大変うまい煎餅なので、私は島崎藤村を訪れるときには、よくこの草加煎餅をお土産に買って、 持って行った。その頃下妻の母から、よく小鮒を背開きにして干して、胡椒醤油をつけて焼いたのを送ってきてくれたので、 それを手土産に持ってゆくこともあったが、藤村は大変喜んで、うまがってそれを食べた。彼との話は、たいてい詩のことで、私はあらゆる芸術の中で、小説はやや俗臭を帯びているが、誌は純粋に芸術だという考えを持っていたので、小説の話よ りも詩の話を多くした。彼は、詩も良いが、詩では食っていけない、同じ文学をやるのだったら、詩よりも小説にした方が いいネ、といって笑っていた。彼はその頃「夜明け前」を構想して、ペンを取り始めていた。-----

佐藤春夫:『佐藤春夫に私が傾倒したのは、ただ一篇の詩からだった。その詩はこういうものだ。

「夕星を見て」

高くかがやかに
遠くただひとりに
汝、星の如く

ひとり文学にとどまらない、あらゆる芸術は、こういう心の中から生まれ、こういう心の上に育たなければならない、と私 は思った。高くかがやかに、遠くただひとりに、汝、星の如く、なんと素晴らしい、崇高な精神だろう。生活は俗塵にまみれ、 俗事にかまけても、芸術する精神は、あくまでも高く輝かに、遠くただ一人に、でなければならない。夕方、頭の上の空に、 最初に現れた星のように清らかに輝き、孤高でなければならない。ところが、この詩から、私はいいことと悪いことの二つを 学んだ。佐藤春夫は、まさにこういう心で生涯を生きた。それは、そういおう生き方を許される時代だからだった。私が文壇 に出た頃は、少し違っていた。ジャーナリズムが文学を掌握していた。−−−私が文壇に出た頃はジャーナリズムが文壇の上 に君臨してしまっていた。』 『佐藤春夫の家は、目白台にあって、目白通りから右へ入った、わりあい広い路地が、右へ曲がりながら坂を上ってゆく突き 当りに、桃色っぽい白壁と浅い軒の瓦屋根をもったしゃれたスペイン風の2階建てだった。玄関を入るとすぐに廊下のような 応接間とその奥に応接間をかねた広い書斎があって、正面が大きな書棚になっており、大きな机が据えてあった。佐藤春夫は 虫の居所で廊下をかねた細長い応接間で客に会ったり、その奥の広間で客に会ったりしていた。−−−初めて佐藤春夫を訪ね て彼に会ったとき彼が、気に入った作品が出来たら持って来て見せたまえ、というので間もなく「事務所」という70枚ほど の作品を一篇仕上げたのでそれを持って彼を訪ねた。彼に批評してもらおうと思ったのだ。彼は私から原稿を受け取ると、 パラパラと2,3枚原稿用紙をめくっただけで、別に読んでみようともせず、「これを新潮にでも発表させてみようかね。」 と簡単なことを言って、突然いすから立ち上がって、こんなことを言った。「これから新潮社へ云ってみよう。君も一緒にき たまえ。」それから簡単な身支度をすると、ステッキ一本を手に、その原稿を私に持たせて目白台の家から牛込矢米の新潮社 まで私を連れて行って、丁度居合わせた新潮主幹の中村武羅夫に私を紹介した。私の原稿をテーブルの上に差し出すと、「 いい作品ですよ、読んでやって下さい。」と無造作に言った。−−−−佐藤春夫の紹介で中村武羅夫に手渡された私の「事務 所」はその年の新潮7月号に発表された。』『戦後、「不死鳥」を「改造」に発表したあと久し振りで私は佐藤春夫を訪ねて、 半日いろんな話をしあったが、その時、色々文壇や作家の噂話をしているうちに、彼や、谷崎潤一郎が、川端康成の人間や 作品を全く爪の頭ほども認めていないのを知って驚いた。純粋な作品活動よりも、陰約な裡に、文壇行政的な活動に専念して いる川端康成のありかたを、極めて強い侮蔑的な眼で見ているのだった。私は川端康成の文学に一種天衣無縫の流露するよう なところがあるのを、ある程度買っていたので、佐藤春夫が全然川端康成の作品と人とを認めず、殆ど関心を持っていないの を知って驚くとともに、いくらか意見の異にするのを覚えた。「谷崎も全然川端康成なんかみとめてないよ。」とにべもなく 吐き出すように佐藤春夫はいった。佐藤春夫は「新潮」に私の作品を紹介したあと、私にこんなことを言った。「文芸春秋」 にも君の作品を紹介したいが、私が持って云ったのでは、文芸春秋は受け入れないだろうよ。「文芸春秋」に作品を発表した かったら、君が自分で持って言って見るといい。」彼はその前から菊池寛とそりが合わず、前々多少何かがあったらしいのだが、 それについては、何も知らない。佐藤春夫が菊池寛について中傷的な事を言ったのを、私は一度も聞いてなかった。しかし菊池 寛は、いわゆる文芸春秋派なる文壇派閥に中に播居して、佐藤春夫やその側近を峻拒して、受け入れることを敢えてしなかった。 派閥意識など全く無い佐藤春夫と、強い派閥意識を持って、営々と文壇運営をしている菊池寛との間に、自然と文壇的な勢力の 差が出来てきたのはやむお得ないことだった。佐藤春夫は終始そういうことには無関心に一人飄々呼としていた。』『彼は、 ある新聞記者が、佐藤春夫は猥談が好きで、いつも猥談ばかりしている、というようなことを書いたのを読んで、笑ってこんな ことを云った。「私が猥談をすきなのじゃない、彼奴が私の顔を見ると猥談を持ちかけるので、それに答えて私は猥談をするの で、撞木が鐘を衝いて鐘を鳴らすようなものだよ、彼奴は莫迦だ。」そして又こんなことをいった。「猥談なんて一体アレは やることであって、話すことじゃないよ」私は彼との、交際の間にただの一度も、彼から猥談を聞いたことが無い。女について は、佐藤春夫にはいろんな噂が流れていたが、一人の女を愛するととことんまでその女に迫って「日の目が本当に黄色くなる」 まで消耗しつくす癖があるので、女はたまりかねて、遁げ出してしまう。そのために彼はよく女を失くしている、と言うような 噂がもっぱらだった。彼の詩にこういう軽妙きわまるものがある。 去年(こぞ)のゆきいまいずこ   春』 『彼は鼻眼鏡をかけて似合うような、高い鼻梁をもった、刻みの深い、険しい渋い容貌をしていたが、笑うとなんともいえない 柔和な、あたたかい表情になって、私はこの笑顔がたまらなく好きだった。』 以上「人生遊戯派」よりの抜粋であるが、いかに龍胆寺が佐藤春夫を敬愛していたが読んで取れる。

川端康成:*川端康成との出会い:昭和4年の夏を私は一人で伊香保温泉で過ごしていた。木暮武田夫という旅館に泊まっていたが、本陣 と名乗って大変由緒深い、立派な温泉旅館で、豪壮な建物を誇っていた。ある日、風呂から上がって座敷で机の前で休んでいると 、庭の方から訪ねてきた客があった。髪が長く、青白い顔をして頬が痩せこけて、眼がギョロリとしている。私を見ると自分の 方から名乗った。「川端康成です。新聞に貴方の名前が出ていたもんですからね。」---「あなたが伊香保に来ているのを、新聞 で見たもんだからネ、ぼくはそこの一福旅館に泊まっている。作家や絵描きが大勢で招かれてきていて、皆はもう返ったが、僕 だけ家内と一緒に残って、一福に泊まっている。」 そういって、たった一人でいる私の部屋の中を見回して、「よかったら、僕の宿へ遊びにいらっしゃい。ここで仕事をしている の?」「仕事らしい仕事もしていません。退屈紛れに書いているだけですよ。」「ぜひ、遊びにいらっしゃい。今日、今夜でも どう?本当にいらっしゃい。」彼の誘いがひじょうに熱心なので、それに動かされて私は云った。「では、今夜お邪魔します。 一福ですね。」「うん、すぐにわかるところですよ。」私の前の机の上に、原稿用紙が広げてあって、万年筆が転げていたので、 私が仕事をしているとでも思ったのか、それ以上長居もせず、そのまますぐに庭の方から帰っていった。女中が縁側を伝って お茶やお菓子を運んできたのも間に合わなかった。執拗なところのない、あっさりした態度だったが、遊びに来るようにという 彼の誘いが熱心だったので、私はすぐ彼を訪ねる気になった。川端康成との、これが初対面だった。 その夜、一福旅館に彼を訪ねると、恐らくこの旅館で一番立派だと思われる二階の八畳の間に通された。2間の床の間や違い棚 があり、別に小部屋が着いている部屋で、大変宿元から優遇されているらしいことがわかった。赤っぽい縞模様のある銘仙の旅館 の丹前を着た奥さんに迎えられたが、彼女は前髪を切り揃え、頬の横や後ろをホリゾントの断髪にして、瑞々しい装いをしていた。』 ----『さて、川端康成夫妻は私が訪ねると、したにも置かぬもてなしで、断髪の婦人がまめまめしく立ち廻って、私を歓待して くれた。お茶を飲み、菓子や果物をご馳走になりながら、話は当然、文学や文壇や作家のことで、彼はよく私の作品を読んでいた。 あなたの作品を読むと、大変楽しい、というようなイミのことを言っていた。あとになって彼は、私とのそのときの会見記のよう なものを書いているが、それのよると、龍胆寺君は作家仲間では珍しく、林房雄と同じように赤い顔をしている。帯を後ろに蝶結 びにしているのは、育ちがいい証拠だ、というようなことを書いている。』--- このようにして、龍胆寺は川端康成と初めて知り合い、「人生遊戯派」によると、その親しい関係は、川端が最初の長編小説 「浅草紅団」を執筆した頃まで続き、当時浅草の夜の世界に詳しかった龍胆寺はしばしば2人で連れ立って浅草に行き、この 街の昼と夜との奇怪な二重構造について、理解させる道案内をした、ということである。(但し川端康成は、何かの文章で、 こういう事あったのを否定したそうで、龍胆寺は何故そんなことを言うのか理解できないと書いている。)しかし、二人の 関係はその後段々悪くなり、最初竜胆寺の作家活動を分析し、好意的だった批評は欠点により多く注意を払うようになり、 手厳しい批判を向け始めた。そして、龍胆寺も川端の作品や、人間性を酷評するようになるのである。

芥川龍之介:龍書房発行の文芸誌「希望の窓」に数回にわたり連載された「芥川氏の遺書」において龍胆寺は芥川龍之介 の人間と文学について、独自の芥川論を述べているが、長くなるので、初めて訪問してあったときの印象(丁度この日から1週間後に芥川は自殺したとのことである。)、の部分のみピックアップして、記する。『放浪時代を書いていた頃、人も知る、校正の神様といわれたほどの校正の名人であった、神代種亮氏から、紹介状を書いてもいいし、もしかしたら連れて行ってあげてもいい、芥川に逢ってみないかといわれた。芥川龍之介に会うのに、別に紹介状もいるまい、その作品に心酔しているわけでも無し、尊敬して師事する気もない。ただ、神代氏の言葉に動かされて、何となくふと訪ねてみる気になり、その時教わった道順で、ある日気まぐれに、日暮里のお宅を訪ねた。玄関から階段を上るとすぐに洋間の応接間で、それに隣り合った細長い座敷が書斎になっていた。先客が、2,3人、----- このお客様は、私がいる三時間ほどの間に幾度か入れかわった。新聞記者、雑誌記者、後輩らしい若い作家、ファンらしい 文学青年、といった顔ぶれで、その中で今でもはっきり記憶しているのは、絵描きの小穴隆一氏だ、これが、芋タネ爺さん 然とした朴訥な風貌で、主人公とは一人家族のような親しさで、挿絵の話なんかしていた。 芥川龍之介氏は、痩せ細った蒼い顔をしていた。青く抜け上がった額の上に油気のない長い髪は左右に分かれて無造作に こめかみに垂れ、黒く澄んだ----(全く受身の表情しかない)孔の様な感じの瞳が、妙に神経質に臆病に動いていた。そこから 受ける感じは、一種凄愴な「人間の不幸」だった。殆ど酸鼻なほどの「人間の不幸」だった。---一体これはどうしたことだろう。私が学んだところによると、どんな学問でも、それは、畢竟、人類が幸福に繁栄する、という線に向かって動いていることによって、価値があるのであって、当然、芸術も科学もその例外ではない。芥川龍之介氏の作品と、その目の当たりに見るこの人間とをこうして比べて見て、咄嗟に私に感じられたのは、実に「虚栄心の末路」といったものだった。-------宇野浩二氏の噂が一座に出た。発狂したそうだ。いや、本物発狂だ――新来の客によって、この情報がもたらされたのだが、それを聴いた瞬間の芥川氏の表情が、今に私の脳裏に染み付いて離れない。そして、なかばひとりごとのように、「発狂?発狂か----いや、むしろ発狂の方がいいな。」そして、本のちょっと鼻のへんだけ冷然と笑ったのだが、瞬間後に消えてしまったその青白い笑いが、ヘンに自己意識的にこわばった――虚勢に悲しく歪んだ笑いだった。――
芥川氏の自殺は、この日から丁度一週間目の出来事で、死ぬ一週間前に遺書は書かれたものだという噂が真実であれば、遺書はこの日に、私たちが談笑していた部屋のとなりの書斎で、ここから指摘できるかの小机の上で書かれたことになる。---』

久野豊彦:龍胆寺が作家仲間として、尊敬し、もっとも信頼している作家であったように推察される。著作「人生遊戯派」より関連する部分を抜粋すると、『---この「新潮7月号」には3編の創作が載り、その一つは、浅原六朗、その一つは久野豊彦で、このときの久野豊彦の作品「シャッポで男を伏せる女の話」の斬新な手法には、私はことごとくシャッポを脱いで驚いた。これこそが、凡俗の才能ではない、天才にして初めてなし得る作品なので、私はそれ以来、久野豊彦を尊敬し、文壇で誰よりも親しく、そして誰よりも長く付き合う仲となった。』;『恋愛事件を起こして、愛知県の知多半島に引きこもっている久野豊彦を、何とか東京へ引っ張り出そうと、彼が隠れ住む大野町へ私が訪ねたのは、昭和4年12月31日から、翌5年正月へかけてのことだった。---この町の、ちょっとした路地の奥にある久野豊彦の行きつけの喫茶店で、カレーライスなどを食べ、暖炉を囲んでコーヒーを呑んでいるうちに、彼を取り巻く土地の文学青年なども集まってきて、座が賑やかになった。----久野豊彦は、茫洋とした親分肌の性格なので、彼を取り巻く多くの文学青年などから慕われ、よくその面倒を見ていたが、その中の一人に、森下才一郎がいて、後に久野豊彦が東京に出てくると、一緒に彼に従って東京に出てきて、彼の家の玄関番を兼ねた書生となって使えるようになった。終戦後、ずっと後のことになるが、森下才一郎は常滑市の市長になり、その後は同地の陶器記念館の館長を勤めていると聞いた。この、冬の一日を常滑の小さな喫茶店で久野豊彦や彼を慕って集まっている地方の文学青年たちのつどいに加わっていると、ますます久野豊彦が好きになって来た。----彼は重いお尻を引っ立てて、東京に出てくる気になった。中村武羅夫を背景に、新興芸術派運動を起こして、正面きってプロレタリア派と対決しようという気に私がなったのは、何といっても、久野豊彦が大野を引き上げて、東京に来ることになったからで、私としては、彼一人がたよりだった。』


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