参考資料3

昭和3年に文壇に登場した龍胆寺は、その後の約7年間の期間に創作・作品計約92点;評論・雑筆類184点を発表して おり、掲載誌も「改造」、「中央公論」、「新潮」、「三田文学」、「近代生活」、「週刊朝日」、「サンデー毎日」、その多岐に 渡っている。 その頃、プロタリア文学が全盛の時代で、プロレタリア文学でなければ文学にあらずというくらい、文壇を席巻していた。 そして、昭和4年12月、これに反発する作家たちによる、「13人倶楽部」が結成され、龍胆寺はこれに参画する。これは新潮 社の中村武羅夫を中心に、「近代生活」や、「文学時代」などの雑誌で活躍していた作家を中心にとしたもので、尾崎士朗の命名 によるもので、浅原六郎、飯島正、加藤武雄、川端康成、嘉村磯多、中村武羅夫、楢崎勤、尾崎士朗、久野豊彦、龍胆寺雄、 佐々木俊郎、岡田三郎、翁久允の反プロレタリア文学派といえる作家でなっていた。活動の成果として、新潮社より「13人 倶楽部創作集」などが刊行された。その後、龍胆寺は久野豊彦たちと連携して反プロレタリア文学を標榜して、「新潮」、 「近代生活」を文学運動の根拠として、新興芸術派倶楽部の結成に努め、昭和5年4月、その第1回の総会が開かれた。司会は中村 武羅夫、加藤武雄で、出席者は、永井龍雄、保高徳蔵、吉行エイスケ、中村正常、船橋聖一、小林秀雄、阿部知二、石坂洋二郎、 今日出海、深田久弥、飯島正、井伏鱒二、堀辰雄、龍胆寺雄、久野豊彦、他計40名と極めて広範囲にわたっていた。龍胆寺 は新興芸術派の中心作家として活躍する。新興芸術派の足跡としては、昭和5年4月から11月にかけて「新興芸術派叢書」として 20冊24人分を新潮より刊行し、又昭和5年5月、「モダン・TOKIO・円舞曲(ロンド)」(川端康成:浅草紅団、阿部知二: スポーの年にて、堀辰雄:水族館、井伏鱒二:ある交友の記録、久野豊彦:あの花!この花!、龍胆寺雄:甃道スナップなど12編) 、同6月「芸術派ヴァラエティー」(吉行エイスケ:飛行機から堕ちるまで、龍胆寺雄:霧の中の街、小林秀雄:からくり、 井伏鱒二:消息、船橋聖一:絵土川夫人の鼻血、など31名の小説、評論、戯曲)が刊行されている。しかし、新興芸術派は一時 的な華やかさと、ジャーナリスティックな騒々しさのうちに終わる、という評価がなされている。というのも、同派の会合も一回 きりであったし、何冊かのアンソロジーを刊行しただけの成果であった。
昭和6年龍胆寺は文学の先輩として親しく付き合っていた府立第7中学校の国語漢文科教師安塚千春の娘まさと結婚する。 流行作家の頂点にあったことから、多くのジャーナリストや作家の参列した大変華やかな披露宴であったようである。
しかし、その結婚式のやり方について、若造の癖に龍胆寺は非常に生意気な奴だと、一部批判の文が掲載された。


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