★「桑実寺縁起絵巻」に見る三重塔 近江桑実寺三重塔:文明15年(1483)佐々木氏によって
創建され、この塔は寛政3年(1792)暴風雨によって大破、明治13年塔撤去と云う。
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桑実寺縁起絵巻に見る三重塔
桑実寺伽藍図(下巻第2段の部分)
桑実寺三重塔部分図:左図拡大図
※桑実寺縁起絵巻:重文、桑実寺蔵、上下2巻、元文元年(1523)足利義晴奉納、土佐光茂絵。
桑実寺縁起絵巻:近江観音正寺三重塔
上巻第1段の伽藍図(部分)
上巻第1段の三重塔部分図
・・・桑実寺の説明では上巻の伽藍は桑実寺伽藍ではなく観音正寺伽藍を描くと云う。
観音正寺:寺伝では、聖徳太子開基とする。太子が千手観音像を自刻し、堂塔を建立。
中世には、佐々木六角氏の庇護を受け隆盛、33の坊舎を有したと伝える。 |
文明15年(1483)佐々木氏によって三重塔が建立。
※九尺四方で、塔内には大日・釈迦・薬師如来と普賢・文殊菩薩を安置したと伝える。
現開山堂の正面(南)の位置にあったと伝える。
この塔婆は江戸末期の数度の風水害で大破し、明治13年(1880)解体したと云う。
塔本尊大日如来は本堂に遷座し、また塔柱の一部が保存されている。
★「木曽路名所圖會」に見る桑実寺・・・・近江名所圖會も同一
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◆桑実寺伽藍図:
左図全体図
この挿絵では本堂斜め
右奥に「塔跡」と描かれている。
(塔婆は描かれていない。)
※絵の右上「是ヨリ観音寺ヘ至ル」と書込のある道の左上に「塔跡」とある。
略伝に従えば、三重塔(大破した状態であったとしても)は当時まだ存在したとされるが、なぜ塔跡とされているのか。
上記の疑問については、寺院側から次の見解を得る。
「三重塔が存在したのは図会で塔跡とされる位置より前の地点(南側)であり、そのため図会には描かれていない。
もっとも本来、塔の建立場所はこの図の塔跡(現在の大師堂)の位置にあったものと考えてはいる。」 |
しかし、上記(右)の「なぜ塔跡と表現されるのか」という現象は良く分からないし、また寺院側の見解も釈然とはしないというのが正直なところであろう。
○寺伝及び遺物:寛政3年の暴風雨で三重塔は大破、何等かの残欠が存続するも、明治13年その残欠も撤去される。
また撤去された塔残欠の柱は今も保存と云い、現物も存在する。
○桑実寺縁起絵巻に見る塔婆は本堂斜め奥に描かれている。(位置はこの附近とすることに無理はない。)
○大師堂南とはこの絵の「塔跡」のほんのすぐ南で、もし三重塔あるいは残欠であっても塔が存在すれば、当然絵に採り入れるのが当然と思われる。
(塔の姿が無いのは、既に塔は姿を消していたと考えるのが自然であろう。姿を消していたから「塔跡」としして描いたのであろう。)
○塔跡は現在判然とはしないが、下掲載「桑実寺現況」○塔跡想定地の項に想定地を掲載。
★近江桑実寺略歴
「桑實寺遷史」:桑實寺7世住職北川隆啓著、平成元年 より
安土城の南東東海道線を隔てて、繖(糸編に散の字を)山の山麓(総門)から中腹(本堂)に西面して位置する。
更に本堂から東に尾根を越えるとすぐに六角佐々木氏の本拠であった観音寺城跡がある。
さらに桑実寺から東に観音寺城本丸跡の尾根を超えれば、数百mで西国32番札所繖山観音正寺がある。
白鳳6年(678)天智天皇の御願により定恵上人によって開山<薬師堂(現本堂)が落慶法要>されたと伝える。(桑實寺縁起)
慶雲4年(707)元明天皇行幸。
天平咸宝元年(745)聖武天皇より豊浦荘を勅旨施入。
文明15年(1483)佐々木氏によって三重塔が建立。
享禄4年(1531)将軍足利義晴は近江佐々木定頼を頼り、3年間当寺に住し、当寺正覚院を仮幕府とする。
天文元年(1532)義晴は土佐光茂に「桑實寺縁起絵巻」(現重文)の製作を命じ、奉納する。
往時、一山寺坊は2院16坊を数える。
三門から本堂に向かって右に正寿院・千光坊・詮量坊・大乗坊・本教坊・善行坊・教専坊・徳乗坊・円照坊・成就坊があり、
左に中ノ坊・真性坊・密蔵坊・宝泉坊・智教坊・実光坊・上善坊・大蔵坊があった。
さらに別格の子院(東南隅)として正覚院(末寺40余ヶ寺を持つ)があった。
現在も山門から本堂への石段の両側にはこれら坊舎の石組が見事に残る。
永禄11年(1568)織田信長は近江を攻略、繖山上の観音寺城を攻め、六角佐々木は滅亡する。
信長は足利義昭を桑實寺に向かえ、義昭は正覚院を陣所とする。
近江平定後、信長は各寺の寺領を没収するが、当寺に対しては寺領の施入・堂宇の修理再建をなす。
本堂右横には信長建立とされる大師(伝教)堂が慶応年間まで存在した。
正覚院:一山寺中であったが、別格として力を振うが、山内寺院と様々な確執があった。
そのため当院は浄土宗に転宗し、後に転出する。(綾戸正覚院に移転・寺格は上豊浦東南寺が継ぐ)
近世の興亡は以下のとおり。
明和7年(1770)教泉坊焼失
安永年中(1771-)上善坊・善行坊焼失
天明年中(1781-)大蔵坊・成就坊焼失
寛政3年(1792)暴風雨による大災害が発生。本堂・三重塔・不動堂等が大破。大乗坊は倒壊。
寛政4年本堂大修理完成
享和年中(1801-)実光坊焼失
文化年中(1804-)円照坊・本教坊・真性坊廃絶
文政年中(1818-)徳乗坊・密蔵坊・中ノ坊廃絶
天保元年(1830)詮量坊焼失
天保5年(1834)智教坊焼失
慶応年間(1865-)大師堂大破、取払い。
明治維新:本堂と正
寿 院・千光院・宝泉坊の3院になる。
(現在、千光院・宝泉坊は無住とのこと。)
明治7年(1874)住職制度となる。第1世は比叡山善住院大多喜守英和尚。
明治8年(1875)正寿院焼失、再建。
明治13年(1880)三重塔取り壊し。
2008/09/22追加:
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「忘れられた霊場をさぐる[2]」栗東市文化体育振興事業団、平成19年 より
○近江桑実寺遺構図:左図拡大図
近世に入っても仁正寺藩市橋氏などの庇護を受ける。
近世後期には多くの坊舎が退転するも、
参道両脇に今なを石垣を組んだ多くの坊舎跡を残す。
※当図では三重塔跡は大師堂の南方向・観音正寺に至る道を隔てたところに図示される。「桑實寺遷史」 より
○桑実寺江戸中期境内図
三重塔・多くの坊舎が健在であった。
小冊子「天台宗繖山桑実寺」
○桑実寺現在境内図:平成13年以前
正寿院・千手院・玉泉坊の坊舎は現存する。 |
★桑実寺現況
○塔跡想定地
現状はおそらく侵食により地形が変わってしまっているようで判然とはしない。
桑実寺三重塔推定跡地:大師堂前付近のブッシュの中が三重塔跡と推定される。
桑実寺三重塔推定跡地2:平坦地らしきものはありますが、明確な遺構はないと思われる。
(寛政3年あるいは明治29年などの土石流などで地形の変形があったものとも思われるが、不詳)
寺院側では本来の塔跡は現在の大師堂跡と推定していると云う。
大
師 堂 大
師 堂 その2
※確かに塔の建立可能な平坦地と思われる。
大師堂の経歴は、「天正4年織田信長により建立。明治末期の風水害で大破。大正2年経堂として再建。」と云う。
天正4年の大師堂は現在の場所ではなく現在の場所附近に建立された。塔は江戸末期もしくは明治初期に解体された。
明治28年・29年大規模な山塊崩落で大師堂大破、大正2年塔跡に大師堂(兼経堂)として再建されたことは考えられる。
○三重塔再建計画
再建のための「勧進」が行われている。(但し勧進といってもささやかな寄附を募る形式を採る。)
再建予定塔婆
図
なお、寺院側では「いつ再建されるかのめどは全くたたない」とのお話であった。
○塔 本 尊
三重塔本尊大日如来:本堂内陣の奥向かって左に安置
○三重塔塔柱残欠
かっての塔柱の一部が保存されている。(本堂向かって左の鐘楼内にビニールシートを掛けて保存される。)
鐘楼の土間に直置きされ、シートも完全なものでは無くて、三重塔柱は相当腐朽が進む。
(恒久的な保存を考えなければ、近い将来朽ち果てるものと思われる。)
桑実寺三重塔柱残欠1 桑実寺三重塔柱残欠2 桑実寺三重塔柱残欠3 桑実寺三重塔柱残欠4
○桑実寺本堂(南北朝期・桁行5間梁間5間・桧皮葺き・重文)
桑実寺本堂正面
桑実寺本堂側面
桑実寺本堂蟇股
桑実寺本堂扁額
2006年以前作成:2008/09/22更新:ホームページ、日本の塔婆
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