上瀧氏交流掲示板
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[359] Re:[358] 嬉野の吉田にお墓を建立いたしました。2024/8 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2024/12/10(Tue) 15:07  

上瀧 豊久 様
こんにちは、管理人です。ご無沙汰しております。
先祖伝来の地にお墓を建立されたのですね。思いが叶い、ご先祖様方もお喜びかと思います。

こちらのサイトもなかなか更新出来ず止まってしまっておりますので、ぜひ豊久様も情報発信をされてください。
サイト開設によってマイナーだった上瀧氏が次第に認知され、「龍造寺家に上瀧あり!」くらいには有名になれたかなと自負しておりますが、まだまだです。
近頃は初心に帰り、読みの問題を考えております。武雄の地名の由来となった話があるのですが、その話ではこうあります。

「景行天皇が九州巡幸[1]した時、この郡にある磐田杵之村(いはたきのむら)に御船を停泊させた。その時、従って来た船の「かし」の穴から自然と冷水が湧いたため、転じて杵島と呼ばれる。」
(杵島郡のWikiより。出典は『角川日本地名大辞典 41 佐賀県』)

現在の「上滝(わたき)」は「いは(わ)たき」と呼ばれていた。
つまりはおそらく「うわたき」ではなく「わたき」の読みが先にあった。
「いわたき」の発音を繰り返すと分かりますが、「い」の音がだんだんと無くなっていきます。口語として変化したのが考えられます。
「いわたき(いはたき)」→「わたき(はたき)」→当て字としての「上瀧」→「(う)わたき」→各名字への読みへ、となったのかなと。
「磐田杵」からいつごろ「上瀧」になったのか、本当に当て字なのかなど調べたいなと思っています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B5%E5%B3%B6%E9%83%A1
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8A%E6%BB%9D%E6%9D%91-3034483#w-3370286
https://www.pref.saga.lg.jp/kiji00360006/3_60006_86593_up_konbwzrn.pdf
https://www.sagatv.co.jp/kachiplus/media/archives/1648053


[358] 嬉野の吉田にお墓を建立いたしました。2024/8 投稿者:上瀧 豊久 投稿日:2024/12/05(Thu) 05:24  

祖父母 父母 朝鮮開拓 戦後引揚者です。父は富永家からの養子でした。戦後長崎の諫早に移住して。その地で没しました。私は父より、先祖伝来のお墓は嬉野の吉田にあると聞かされていました。小さい頃何度か行って知ってもいました。
機会あって、2024年8月 やっとその思いが叶いました。場所は本覚寺境の境内です。
上滝の歴史を知りたいです。私の情報も発信していきます。よろしくお願いいたします。


[357] 上瀧志摩守は忍者だった!? 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2018/03/06(Tue) 23:25  

ネットを使って調べ物していると「うれしの温泉 忍者フェスタ」なるサイトにご先祖様のお名前が。
よく見てみると「忍者の要素がある、嬉野市の歴史上の人物たち」の中に「上瀧志摩守」の名前があり、忍者だったのか?との判定がされていました。
結果は残念ながら(?)忍者認定はされなかったようです(笑)
私個人の意見としては謀反人と言われた大村弾正を暗殺した上瀧志摩守は武力ではかなり強かったのだろうとは推測はしますが、忍者としてはどうかなと?という所です。
しかしながら、ご先祖様の名前がこのように取り上げられ「上瀧氏」が知られることは大変嬉しいことですね。

一つだけ言わせてください。「両弾二島」は恐らく「りょうだんにしま」だと思います。
同じ読みの志摩(しま)を島(しま)に変えて呼んでいたのだと思います。
「りょうだんにとう」と呼んでいた根拠となる資料があれば別ですが。

嬉野市の皆さま、これからも上瀧志摩守・上瀧氏をよろしくお願いいたします。
ありがとうございました(笑)

http://ureshino-ninja.jimdo.com/第3回/嬉野忍者調査結果/@上滝志摩守盛貞/


[356] 嬉しい限りです 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2018/02/12(Mon) 00:22  

ご無沙汰しております。最近はサイトの更新も止まってしまっていますが、私は元気にしております。

さて、当サイトを開設して肥前上瀧氏の知名度が上がり、このように生きた武将達がいたと知っていただいて嬉しい限りです。
ツイッターなどでも上瀧氏を取り上げていただいてる方もおり、嬉しく思います。
近頃では立花宗茂を大河ドラマの主役にと柳川市などで盛り上がっているようですが、立花宗茂個人の話だけではなく、大きく九州戦国時代を取り扱って欲しいと思います。
出来れば九州三国志などと言われる龍造寺・大友・島津の戦いを一方に偏る事なく描ききれば九州も大変に活性化するでしょうね。

なかなかサイトの更新をしないままで申し訳なく思いますが、もし何かありましたらご連絡いただければと思います。



[355] Re:[347] 時系列5 投稿者:迷える古羊ーOSD:M.O 投稿日:2017/10/31(Tue) 17:27  

> (335)で書いたように岩蔵寺過去帳に、上瀧氏は5人います。
>
> 上瀧 重伝、重悦、重祐
> 上瀧 悪法師善西
> 上瀧 周防入道
>
> いずれも武士か、僧侶でありながら戦う人で、被官として千葉氏に同行してきた
> 上瀧氏の子孫のようです。
> 小城にきて200余年。その間に千葉氏のもと、小城佐賀周辺で
> 地盤を築き拡がっていったのでしょう。ミツゴロウ様の久池井も千葉氏勢力範囲ですので
> おそらく千葉氏被官の上瀧氏がご先祖ではないかと推察します。


[354] 無題 投稿者:迷える古羊ーOSD:M.O 投稿日:2017/10/18(Wed) 21:25  

佐賀から神戸市長田区高取に移転してこられ、昭和45年頃:証券会社に勤務しておられた、上滝チズ子さん、お元気ですかー神戸地震は大丈夫でしたかーご無事でしたか・・ご生存でしたら「元気にしている!!」とだけで結構ですので、本欄でお知らせ下さい。 ずーっと今でも心配しております。
 貴女は素敵な方でした。死ぬことだけは許せません・・・
 私も年を取りましたが、今は愛知県に住んでいます。相変わらず剣道をして元気にしております。福岡勤務時代は、よく佐賀に剣道をしに行ったものです。あの世に行く前に心配ごとを一つずつ減らしていこうと思っています。失礼しました。
           2017.10.25        OSD-M.O


[353] 時系列10 投稿者:yagyu 投稿日:2015/02/10(Tue) 21:03  

1562年 有馬氏に従う藤津の上瀧氏、小城郡丹坂の戦い

残念ながら、小城佐賀神崎の和平はすぐに崩れてしまいます。
出る釘は打たれるというか、妬みです。龍造寺剛忠の実績、少二氏との信頼関係を妬み、
少二冬尚に偽りの告げ口をする者が出てきます。少二氏の臣、馬場頼周です。
「剛忠に異心あり。大内氏に通じて独立しようとしている」、この言葉を冬尚は信じ込み、龍造寺氏を討つべく準備をします。

1544年、馬場頼周は謀略をもって龍造寺一門を戦に誘いだし、又、退路を誘導し、待ち伏せをして一門を惨殺。高齢のため出陣しなかった剛忠だけが生き残ります。
戦に同行していた千葉胤勝(西千葉)も戦死。千葉喜胤の跡を継いだ少二氏の弟、胤頼は
西千葉を継いだ胤連を小城から追い出してしまいます。
龍造寺剛忠の領地は、少二氏に没収され馬場氏らに分け与えられます。

同年、怒りに燃える剛忠、鍋島清久父子、千葉胤連は川副与賀の豪族、小城の持永、鴨打氏などと共に旗揚げをし、
凄まじい勢いで、牛頭城にいる馬場頼周父子を攻め、討ち取ります。
少二冬尚が入る予定で補修されていた牛頭城は、この戦いで崩壊したと言われています。

1546年、龍造寺剛忠は93才で死去。武将、人物ともに秀でた人で、私の個人的に好きな戦国武将の一人です。
後継者がほとんど戦死した龍造寺氏は、僧 円月を還俗させて後継者と決めます。胤信(のち隆信)と名乗ります。

1551年、大内義隆が家臣の陶晴賢に殺され、のち彼も毛利元就に討たれ、中国地方の雄、大内氏 滅亡。
1555〜1559年、龍造寺隆信は少二冬尚を攻めて徐々に弱体化させ、弟 千葉胤頼のいる晴気城に走らせ、千葉胤連とともに攻めて
胤頼を討ち取り、冬尚を自殺に追い込みます。東千葉 断絶、少二少 滅亡。

鎌倉以来の名門、少二氏を滅亡させたのは、大内氏でも有馬氏でもなく
家臣の龍造寺氏だったのは、戦国時代の宿命でしょうか。

1562年、筑後の大友氏は、少二冬尚の弟政興を擁して少二氏再興を図り、龍造寺氏討伐を肥前の諸将に呼びかけます。
有馬、大村、多久、平井、後藤、松浦などの西肥前の武将はこれに応じ、
藤津郡からも、宇礼志野、原、永田、吉田、上瀧氏が出陣しています。

牛津丹坂口の合戦で、龍造寺隆信は激戦の末、有馬連合軍を破ります。この敗戦のダメージは相当大きく、この戦い以降、有馬氏の勢力に陰りが出てきます。
藤津郡の諸将の動向が微妙にゆらいできます。


[352] 時系列9 投稿者:yagyu 投稿日:2015/02/01(Sun) 23:04  

1525年、有馬氏との交戦で八幡山砦において、千葉氏に従う上瀧氏戦死。

この時期の小城は千葉興常、その子喜胤(東千葉)が支配しています。
1524年に千葉胤勝(西千葉)を晴気城から筑前へ追い出しています。
その間にも有馬氏は、須古の平井氏と手を結び着々と杵島郡に進出してきます。

1525年、千葉喜胤は杵島郡横辺田(現 江北町)で有馬+平井軍と交戦。 負けます。
勝ちに乗じた有馬勢は大町、砥川、田利野と北進。下砥川八幡山砦で千葉勢は、ボコボコに負けてしまいます。
千葉氏被官の上瀧(ウエタキ)氏も戦死。

1528年、中国の大内義興が死去。バックを失った千葉興常、喜胤親子は周防に逃げてしまい、代わりに千葉胤勝が筑前より戻ります。
1530年、新当主大内義隆の家臣 杉興運が肥前に進入。
少二軍(千葉胤勝、龍造寺剛忠、小田氏、馬場氏など)と田手畷で交戦。少二軍は杉興運を撃退します。勝利の要因となった鍋島氏の
赤熊武者の活躍はこの時のものです。

1532年、千葉喜胤は大内義隆をバックに、再び小城に戻ってきます。
1534年、大内義隆の家臣 陶興房が肥前に侵入しようとしますが、龍造寺剛忠らが三津山合戦でこれを撃退。

1541年、有馬氏は杵島郡の諸将を配下にして、再度横辺田に侵入。小城郡への侵攻の機会を伺って待機。

東からは大内氏、西からは有馬氏。両方から攻められる佐賀に危機感をもった龍造寺氏は
東西千葉と相談し、少二、千葉、龍造寺3氏の和議を成立させました。

少二冬尚は弟を千葉喜胤(東千葉)の養子へ(胤頼)
龍造寺氏は家臣の鍋島清房の子(4才)を千葉胤連(西千葉)の養子へ(のちの鍋島直茂)

これで手打ちをし、佐賀、神崎、小城の和平成立です。
有馬勢もこれを知り杵島郡より撤退します。

龍造寺氏は田手畷、三津山の合戦、和平の調停役などの活躍が評価され
戦国武将として徐々に頭角を現していきます。



[351] 時系列8 投稿者:yagyu 投稿日:2015/01/30(Fri) 22:42  

1514年、藤津五丁田の上瀧志摩守盛氏、有馬氏に従属。

現代でも、国や会社、家が二つに分かれて争えば弱体化します。
ましてや戦国時代です。隙があれば回りの国からすぐ入り込まれます。
東西の千葉家が、バックの大内氏少二氏の勢力次第で城をとったり、城から逃げたりしている間に
島原半島の有馬氏が勢力を拡大し、北上してきます。
1514年藤津郡に侵攻。藤津郡の原、上瀧、永田、吉田等の諸将は、有馬氏の配下になります。

北肥戦誌には、有馬氏は東西千葉家の不和による、佐賀神崎小城の騒乱を大いに悦び、その隙に乗じて
まず、小城を攻略、それから佐賀神崎を攻め落とす作戦を定めたとあります。


[350] 時系列7 つづき 投稿者:yagyu 投稿日:2015/01/13(Tue) 23:34  

途中で送信してしまいました。

秋山源次郎氏が上瀧氏と改名するのも、上瀧氏が2つに分かれるのも
1430〜1520年頃ではないかと思われますが、資料はありません。

橘中村文書に出てくる上瀧氏の20町と6ヶ所の家屋敷の知行注文は、中村氏の勢いが盛んな時でないと
家臣の知行安堵はできませんので、中村氏が橘一族に片足を置き、かつ千葉家の中枢にいて家宰、重臣として権威をふるい、
かつ千葉氏の勢力が旺盛な時期、やはり1430〜1520年頃ではないかと推測します。


[349] 時系列7 投稿者:yagyu 投稿日:2015/01/13(Tue) 21:47  

すこし長く複雑になります。
最初の千葉氏分裂の兆しは、最盛期を迎える前の1437年。
当主千葉胤鎮の弟胤紹が、兄を追い出します。
千葉家の重臣、中村胤信が大内氏に通じて胤紹を当主に持ち上げたのです。
8年間千葉胤鎮は、胤紹大内氏の追手から逃れ流浪します。
1444年、胤鎮の旧臣岩部仁戸田氏らによって、胤紹は攻めて殺され、胤鎮は当主に復帰します。

千葉胤鎮〜元胤の時期が千葉氏の最盛期です。
1464年、元胤が28才の若さで死去。息子 教胤が14才で家督を継ぎます。
家老中村胤頼、岩部常楽が若い当主を補佐します。しかし、胤紹の子 胤朝は14才の当主への不満、
殺された父親の恨みなどから、大内氏探題渋川教直氏と通じ、反旗をひるがえします。
越州の兵乱と呼ばれ、激しい戦いのなか、家老中村胤頼は討死。2年後に鎮まります。2回目の内紛です。

1469年、千葉教胤は藤津大村氏との戦のなか、舟が沈没して溺死、19才。
嫡流が絶えてしまいました。
千葉家臣で相談し、あの反旗をひるがえした千葉胤朝を後継ぎに決めます。
教胤に仕えていた家宰、岩部常楽、中村胤明も家のためと胤朝に仕えることとしました。

しかし1470年、岩部中村両氏は反目するようになり、千葉胤朝は中村胤明と共に岩部を攻め、
対する岩部は胤朝の弟、胤将を擁し少二氏も援護に入り対抗します。戦いの中で中村胤明は討死。戦後処理のごたごたのなか、
千葉胤将は出奔してしまいます。3目の内紛です。

千葉胤朝は大内氏渋川氏を後ろ盾に、しばらく安定した統治をしていましたが、
1488年、出奔していた弟、千葉胤将が突然兵を起こし、兄千葉胤朝を殺害し、その後再び出奔。4回目の内紛。

見渡せば、千葉家の後継らしき人物がいません。
千葉家の断絶を恐れた少二氏は、自分の弟を千葉胤朝の娘に婿入りさせ、
千葉胤資と称し、晴気城に入れ、千葉家の嫡流にします。
対する大内氏は、10年前より千葉胤朝のもうひとりの弟、胤盛の若い遺児を庇護し育てていましたが、
その子を千葉興常と名乗らせ、牛頭城に置くことにしました。

こうして、千葉氏は1480年代東西に分裂し、相争うようになりました。
西千葉 千葉胤資 晴気城  少二氏方
東千葉 千葉興常 牛頭城  大内氏方


[348] 時系列6 投稿者:yagyu 投稿日:2015/01/09(Fri) 20:55  

室町幕府の最盛期は、3代将軍足利義満〜6代義政の時期。
1441年、義政が暗殺されてより後は衰退に向かっていき、
応仁の乱(1467〜1477)でとどめを差すように、幕府の権威は失墜。
いわゆるレームダック状態になり、全国で下剋上、弱肉強食の戦国時代時代に突入していきます。

応仁の乱の影響は肥前にも及んできます。
少二氏+千葉氏は東軍細川勝元方に、大内氏+探題渋川氏は西軍山名宗全方に、
それぞれ加担し、諸将を巻き込んで戦いを繰り広げていたようです。

このころには少二氏は、探題大内氏両方との長期戦で消耗し、勢力が少しづつ衰えてきており、
探題渋川氏にとっても、大内氏なしでは戦いができないほど弱体化し、
筑後に逃れたり三根に戻ったりと、探題とは名ばかりの勢力になってしまいます。
それとは対照的に、大内氏の勢力はどんどん強大になっていきます。

千葉氏にとって少二氏が衰えてくることは、大内氏の影響を受けやすくなることで、一族の内部がゴタゴタし始めます。
千葉氏の最盛期は1445〜1465年頃。
後は徐々に大内氏の小城への進出がはじまり、東西千葉の分裂へとむかいます。


[347] 時系列5 投稿者:yagyu 投稿日:2014/12/31(Wed) 23:58  

(335)で書いたように岩蔵寺過去帳に、上瀧氏は5人います。

上瀧 重伝、重悦、重祐
上瀧 悪法師善西
上瀧 周防入道

いずれも武士か、僧侶でありながら戦う人で、被官として千葉氏に同行してきた
上瀧氏の子孫のようです。
小城にきて200余年。その間に千葉氏のもと、小城佐賀周辺で
地盤を築き拡がっていったのでしょう。ミツゴロウ様の久池井も千葉氏勢力範囲ですので
おそらく千葉氏被官の上瀧氏がご先祖ではないかと推察します。


[346] 時系列4 投稿者:yagyu 投稿日:2014/12/24(Wed) 22:16  

足利尊氏は帰京の際、部下の一色範氏を九州探題として博多に留め置きました。
九州統治の要となるはずの九州探題でしたが、経済基盤も自前の兵力もなく、九州諸国の守護達は簡単には命令に従わず、
特に少二氏とは対立が激しくなっていきます。

争乱のなか、早々と帰京したり着任しようにも九州に入れなかった探題もいました。
3代将軍足利義満の時、今川了俊が探題として1371年、九州に下向。次第に南朝派を討伐していきます。
1392年、南北朝統一。九州も争乱が治まってきたころ
1395年、今川了俊は突然職を解かれ帰京します。

1396年、その後任として渋川満頼が九州探題として下向(秋山光長氏同行)。
しかし、統治は思うようには行きませんでした。中国の大内氏の九州進出と介入、九州の諸武将の独立性のまえに
探題の地位はどんどん低下していき、争乱状態に入ります。

この頃の肥前での争乱の主軸は
探題渋川氏+大内氏 VS  少二氏+千葉氏
肥前の武将達はどちらかについて戦いを繰り返していました。
その勢力範囲は、佐賀神崎から西の武将は少二氏に属し
三根養父あたりの武将は渋川氏に属し、戦いを続けていたようです。 



[345] 時系列3 投稿者:yagyu 投稿日:2014/12/18(Thu) 23:07  

1337年 薩摩橘一族所領支配注文(小鹿島文書)
これは橘一族が、足利尊氏より多々良浜合戦々功の恩賞配分を受けた所領の記録です。
上瀧氏が初めて古文書に登場します。

西山村 房丸 上瀧源六子息  十品
上瀧(かみだき)源六はどこに属していたのか、武士なのか、宗教関係者なのか、資料はありません。
武雄市甘久の上滝神社の関係者なら、地理的に千葉氏より橘氏側に属しているような気がしますが、
はっきりわかりません。

はっきりしているのは、その息子の房丸が橘一族の中にいて、多々良浜に参戦し、
その恩賞として西山村に所領をもらったことです。

長島庄総地頭橘氏は、やがて渋江、牛島、中村、中橋に別れ、1527年渋江公勢毒死以降、急速に衰え
後藤氏に併呑されてしまいます。
後藤氏重臣の上瀧氏、五丁田の上瀧氏はこちらの方から派生していったのではと推測します。




[344] 時系列2 投稿者:yagyu 投稿日:2014/11/26(Wed) 00:03  

1274年、1281年の2回の元+高麗軍による日本侵攻は武士達の果敢な戦いと、台風か爆弾低気圧によって
辛うじて食い止められましたが、鎌倉幕府の弱体化をまねき
1333年、鎌倉幕府は倒れました。

変わって足利尊氏が登場するのですが、京ではいろいろ混乱し、
朝廷は南北に別れ、足利尊氏は新田義貞との戦いに破れ九州に落ちて来ました。

九州で太宰少二氏(漢数字の二なのですが、なぜか変換できないので二でいきます)の支援を受けた
足利尊氏は筑前多々良浜で南朝方の菊地武敏に勝利し、再び京に登ります。1336年です。

千葉氏、橘氏、後藤氏など肥前の多くの御家人は少二氏に従って参戦しています。
肥前の歴史でよく少二氏を目にしますが、鎌倉幕府成立時からの筑前、豊前、肥前、対馬の守護で
太宰府を掌握して太宰少二となった武藤氏です。以来少二氏と称されます。

九州の守護は、大友、島津、武藤(少二氏)の三氏で勢力を保っていたのですが、蒙古襲来以降、異国の侵攻防御の名目で北条一門が守護として入り込み、
大友氏が豊後、島津氏が薩摩、少二氏が筑前対馬と減ってしまい
これも足利尊氏を支援する遠因になっていたのかも知れません。




[343] 時系列 1 投稿者:yagyu 投稿日:2014/10/21(Tue) 21:45  

1と2の間に1つ入れ忘れていた時系列があります。

1271年 幕命をうけた千葉頼胤は、被官、所従の家来を率い小城に入部。
鎌倉幕府が蒙古軍の侵略に備え、九州諸国に所領を持ちながら、その地に住んでいない御家人に対して本人か、あるいは代官を下向させて、それぞれの守護の指揮下で備えを固めるよう命令した。

上瀧氏が1220年頃、鎌倉幕府成立時に千葉氏(代官)とともに小城にきたのか、
1271年、千葉頼胤に同行して小城にきたのか、、資料は見つかりませんが
その後の小城佐賀周辺の上瀧氏の広がりからみて、千葉氏に同行して九州に来たのは間違いないと思われます。


[342] 時系列 投稿者:yagyu 投稿日:2014/09/13(Sat) 23:20  

お久しぶりです。忙しく過ごすうちに上瀧に疎遠になり、情熱も薄れてきていました。
しかし、今まで調べてきたまとめを一度しておかなければと思い書き込みをします。
鎌倉幕府成立から上瀧志摩守盛員登場までの350余年を時系列にしてみました。

1、1220年頃 上瀧氏、千葉氏に同行して小城にくる、一部は薩摩に行く。
2、1336〜1392年 南北朝
3、1337年 橘薩摩氏より上瀧源六子息 房丸に西山村を与えられる。
4、1396年 九州探題 渋川満頼氏肥前下向。秋山光長氏同行。
5、1457年 山門合戦で千葉氏被官の上瀧氏戦死。
6、1467〜1477年 応仁の乱。
7、1480年頃 千葉氏 東西に分裂。
8、1514年 藤津五丁田の上瀧志摩守盛氏 有馬に従属。
9、1525年 有馬氏との交戦で八幡砦において千葉氏に従う上瀧氏戦死。
10、 1562年 有馬氏に従う藤津の上瀧氏。小城郡丹坂の戦い。
11、 1569年 神崎郡崎村、犬塚長門守鎮直とともに討ち死にする上瀧石見守。
12、 1574年 後藤惟明の乱に加わる後藤家重臣 上瀧権兵衛。
13、 1576年 久間衆連署起請文の上瀧刑部少輔盛員。
横造城の戦いで龍造寺氏につく上瀧志摩守盛員。



[341] yagyu様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2014/09/02(Tue) 17:08  

お久しぶりです。いつも新しい情報を書き込んで頂き大変感謝致しております。
小城千葉氏直参の上瀧という武士がいたと云う話を興味深く読ませて頂きました。以前に橘中村氏に仕えていた上瀧氏が居たことを教えて頂き、1525年に有馬氏と千葉氏との戦で八幡山砦では上瀧姓の武将が戦死したとの書き込みでは、中村氏配下の武士のことだろうと推測していました。
ただ少し奇異に感じたのは、陪臣の立場にある上瀧の名前が記録して書かれることがあるのだろうか?との疑問でした。
その疑問からすれば、千葉氏直属の家臣と中村氏家臣の2つの流れがあったとするほうが素直に受け取れる感じがします。
ところで、上瀧豊久様が書き込みされた口伝については、私も大変興味と希望をもって九州の図書館のはしごをしました。
しかし、鹿児島県に千葉姓の方々はあるのですが、上瀧姓の名前を見つけることが出来ませんでした。4年ほど前の話です。
そこで考えたのは、姓氏家系大辞典、太田亮著の上瀧ウヘタキの項には薩摩へ行くとは書かれていませんが、千葉氏の項には当然書かれていますので、読まれた後に年月を経ての書き込みで、大変失礼ながら、思い違いが生じたのではないかと勝手に推測した覚えがあります。
私はこの掲示板にかなりの思い違いを書き込んでいて、汗顔していますので、他の方の書き込みにうんぬんする気は毛頭ありません。
上瀧豊久様の書き込みは戦国以前の口伝と思われる上瀧氏に繋がる貴重な話として感謝しています。
その書き込みにあった、吉田に来た落ち武者と千葉氏に仕えた上瀧氏との繋がりがあるのかも、これからの課題ですね。


[340] 稀一郎様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2013/07/12(Fri) 17:03  

お久しぶりです。お書きになっている事については、私も同じような感じを持っています。コウタキ、ジョウタキ読みについては、私が子供の時に父に聞いた話、久留米へ行った一族をコウタキ、佐賀へ来た方をジョウタキと言うようになったとしても良いのではないかと思っています。
鎌倉時代はウワタキと読んでいたことは、yagyu様のお調べ頂いた房丸、源六親子の記録からも読みとれます。
武雄の上瀧の地名がウワタキからワタキに変わったのが室町時代から江戸初期のころと本で読んだ記憶があります。
この時代にウワタキ姓からワタキ姓に変えた人がいたのでしょう。ひとつの考え方として、秋山姓から上瀧姓に変える時に、ワタキ姓に変えたと考えられないこともありません。そうなると、志摩守には兵太郎と勝次郎の他にも兄弟がいた可能性も出てきます。
上瀧豊久様のお父様がウワタキをウエタキとされたとの書き込みがありますように、そんな話は時々大阪でも耳にしています。


[339] 上瀧の気質の憶測 投稿者:上瀧稀一郎 投稿日:2013/07/06(Sat) 12:28  

以前一度投稿したものです。上瀧のルーツ諸説、面白いですね。実は我が家の瀧の字の右の三本線はカタカナのテと書きます。(もちろん戸籍上は当用漢字の通り瀧)ミツゴロウさんが立ち寄られた久留米の西方寺にあります、が仰せの、寺の一角を広く占める正統派上瀧と書かれた立派なお墓群とは少し離れたところにあります。そしてその上瀧様の瀧の字は右上のカタカナのヒの部分が裏返っています。上瀧の姓はうえたき、うわたき、わたき、かみたき、じょうたき、こうたき、と読み違えています。単なる推測ですがうえたきだかわたきだかルーツに近い家で次男三男等にうえたきの本家と分家の違いをつけるためうえたきを名告るのを止めさせたか、根性者がこれから自分が本家だとかみたき、じょうたき、・・・・をなのりはじめたか・・・・・?そして多分こうたきという読み方は最後の最後で、もう読み変え用がないとき神戸の神はこうと読むから同じ上(かみ)もこうと読みこうたきがあらわれたのでは等と思っています。(多分的外れなんだろうなとは思っています。)
同じような例が富と点なしの冨の字の付く苗字でルーツは同じというのがあります。以上単なる思いつきです。


[338] 通りすがりさまへ 投稿者:yagyu 投稿日:2013/06/21(Fri) 22:33  

上瀧孫兵衛茂盛=上瀧勝次郎でしょうか。



[337] 松井氏系図より 投稿者:通りすがり 投稿日:2013/06/21(Fri) 16:17  

龍造寺家庶子流を継いだ上瀧氏

家兼──家純──頼純──賢純(家善)──重純(松井祖)──政純──政利

政純=彌五左衛門 實は上瀧孫兵衛茂盛の子 但し一代限り




[336] 始めまして 投稿者:武雄の上瀧 投稿日:2013/06/08(Sat) 09:19  

ずーっと以前に封書をいただいた記憶がありますが、違っていたらごめんなさい、私の父は武雄市山内町宮野からでした、祖先は武士だったようで、爺さんが昭和15年ころ刀を佐世保へ売りに行ったとか、武士とは名ばかりで、小さな田畑を耕し、父は有田の採石場(泉山)から馬車で運ぶ仕事をしていたようです、陶石の粉が原因か、ぜんそくになり、大町の炭鉱で働いてました、どっちもぜんそくには環境が悪く、けいはいの診断がされました、そんな父は64歳で亡くなりましたが、宮野に居る時は、うわたきと名乗っていたようでしたが、炭鉱に来てから、ジョウタキと買えたようです、こうたきさんもいらっしゃいますが、武雄市ではあさひ町に上う上滝のちめいもあります、私の町にも10軒くらいはあるようです


[335] 岩蔵寺過去帳の上瀧氏 投稿者:yagyu 投稿日:2013/06/01(Sat) 17:21  

有川宜博氏の解説では
  上瀧
1、重伝

  上瀧
2、悪法師善西

  上瀧  九月十二日
3、周防入道

この3人の名前が書かれていますが、原文では上瀧重伝の後に
同九月十二日 重悦  □重祐 と「重」のつく人が続いています。
□の文字はどうしても読めません、達筆すぎて。重悦、重祐の2人も上瀧氏に関係あるのではと思えます。

悪法師とは、武芸などにすぐれた勇猛な僧侶という意味で、元気なお坊さんがおられたようです。
入道とは、出家せずに世俗にいながら仏道に入った人です。
武家の年配の方だったのでしょうか。

康正3年、1457年、山門合戦での戦死者の方々のようです。




[334] 岩蔵寺資料集 投稿者:yagyu 投稿日:2013/05/21(Tue) 23:38  

遠隔複写サービスを利用して、資料集を手にすることができました。
とても有り難いシステムができ、うれしい限りです。

過去帳の原文も記載されていましたが、あまりにも達筆すぎて上瀧の字を見つけるのが大変でした。
有川宜博氏が「岩蔵寺過去帳の人々」のなかで氏族の解説をしていただいてるお陰で、ようやく読むことができました。

1457年の頃のもので3〜5人の上瀧氏を確認することができました。


[333] 千葉氏入部 投稿者:yagyu 投稿日:2013/04/12(Fri) 21:35  

千葉氏がいつ小城に入部したか、牛津町史によると
1271年蒙古軍襲来により幕府の命を受けた千葉頼胤が、被官、家来を率いて小城に入部したとされています。

それ以前は鎌倉幕府成立(1192)と同時に、千葉常胤は上総、武蔵、陸奥、相模、常陸、美濃、小城晴気、薩摩五郡を頼朝より授けられて、
九州の支配は代官を派遣しての支配だったとのことです。

上瀧豊久さまの情報では1220以前に千葉氏が小城に来られ、上瀧氏も部下として同行、一部は薩摩に行く、とされていたので鎌倉幕府成立初期と考えられます。

千葉氏が小城に入られたのはこの2ケースしか考えられません。
いずれのときに上瀧氏が小城にきたのか、岩蔵寺史料をひもとくのを待つしかありません。

千葉氏一族の上瀧氏だと思い込んでいましたが、被官の上瀧氏の可能性も多いにあります。むしろそちらのほうが可能性大。

しばらく上京できないので史料をどのようにして入手するか、悩んでいるところです。入手できた方には情報をお願いしたいと思っております。



[332] 岩蔵寺過去帳 投稿者:yagyu 投稿日:2013/04/08(Mon) 22:55  

「雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳」これが正式な名称です。
1190〜1489年までの間で7621名の名前が記載されている貴重な史料だそうです。
「岩蔵寺史料集」(有川宜博氏)によると肥前では243氏族が確認されており、大別すると

1、 尼寺、牛島、折島、高木、多久、千布、鍋島、深町、窪田などの佐賀平野近郊の土豪。

2、 鮎河、有田、伊万里、相知、佐志、下松浦、波多、鴨打、日高などの松浦党。

3、 千葉、原、中村、仁戸田、円城寺、大渡、上滝、岩部などの千葉一族やその被官。

4、 杉倉、森戸などの九州探題渋川氏の被官。

この4種で、他に白石、草野、後藤氏などの一族の名も見えるそうです。
私はまだどちらの史料も見ていないので、これ以上の情報はありません。いつか千葉一族の上瀧氏の名前を見てみたいと切望しています。



[331] 千葉一族の上瀧氏 投稿者:yagyu 投稿日:2013/03/31(Sun) 23:10  

ご無沙汰しております。
たまに図書館で調べていましたが、進展なしが続いていました。
しかし、先日「牛津町史」で千葉一族の上瀧氏に遭遇し、今までの想定が逆流したような、複雑な思いで調べ直しています。

小城町の岩蔵寺の過去帳(鎌倉、南北朝、戦国期)に記してある多くの氏族のなかで、
「千葉、原、中村、仁戸田、円城寺、大渡、上滝、岩部などの千葉一族やその被官」
として上滝の名前が出てきました。

私は上瀧源六、房丸を基点に橘薩摩氏から千葉氏に流れて行ったと仮定していましたが、逆だったのではと。
上瀧豊久さまの情報通り、千葉氏に同行して上瀧氏は小城に来た。一部は薩摩(千葉氏は頼朝から薩摩五郡も与えられていました)へ行ったのかもしれません。

小城を基点に佐賀神崎砥川武雄藤津に拡がって行ったのではないかと、考え直してる最中です。
小城の上瀧氏は、その後も千葉氏、鍋島氏に仕え明治2年の版籍奉還により、小城知事となった鍋島直虎氏のもとで史正として、
上滝尉左衛門、上滝惣右衛門の名が見えます。


[330] 無題 投稿者: 投稿日:2012/10/08(Mon) 14:41  

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