上瀧氏交流掲示板
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[299] 訂正 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/07/12(Tue) 13:28  

《248》の書き込みで、【堯顕の墓はたんじゃ墓とよばれ長崎にある】としましたが下記の記述により私の思い違いか早とちりだった事が分かりました。訂正しお詫び致します。

大木場は現在も「タンジャア墓」と呼ばれる有耳五輪塔群があり、その少し下の方が「タンジャア屋敷」と称されていた場所と云う。【能古見村誌(昭和29年)】
これらの場所から少し離れた巨岩の上には堯顕の孫、光氏が
《源光氏》として建てた石祠がある。光氏は小城鍋島藩の家臣になった人物である。
私の記憶では、藩に提出した光氏の系譜には祖父が堯顕とされ、鍋島姓を名乗る事を許され鍋島光氏とした筈です。

渋川堯顕を助けて藤津へ来たとされる九州探題の重臣だった森戸、板倉達家臣団はその後どうなったのか?
NTTの電話帳で調べてみましたが、武雄、嬉野地区にはふたりと同じ姓は見あたりません。
他の重臣の姓では斉藤、香月以外はありません。このふたつの姓は佐賀に多い姓なので関連は定かではありません。
これらから推理すると、藤津衆としての豪族、原氏の庇護の元では多数の家臣を養う事も出来ず、随従してきた家臣達は堯顕の元を去って行った感じを受けます。
近隣の武将の配下になったのか興味のあるところですが、九州探題が滅び、探題に仕えていたとされる秋山氏本家の久留米に落ち着く迄の変転の資料の一部でも、手掛かりとして見つけることが出来ればと思っています。


[298] 九州探題と秋山氏の繋がりを求めて 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/07/11(Mon) 17:52  

九州へ仕事で出張する機会が出来、仕事の合間を縫って久留米と中原の図書館へ行ってきました。
九州探題渋川氏の家臣の中に秋山姓が見つかれば、探題渋川満頼に従い九州へ来たとされる秋山次郎三郎光長の記述の信憑性が深まると考えるからです。
以前に久留米の秋山姓の方々に手紙を出して、久留米の秋山姓の出自を教えて貰うべく連絡したのですが、江戸時代以前まではたどりつけず、方針変更した形です。
家臣名として板倉、吉見、足助、森戸、加賀、斉藤、国木原、香月、碧海、を見つけることができましたが秋山姓はみつかりませんでした。
渋川探題は最後に大内氏によって滅ぼされますので資料は散逸してしまったのでしょう。
名前が出た人々は九州探題での重臣ばかりですから、秋山氏は重臣より下の身分だったのかもしれません。

天文2年(1533)5月、大内氏の将、陶道麒は探題渋川伊繁と共に少弐氏を討つため出馬。11月綾部城を囲んだ。
馬場、横岳、綾部、朝日など地元勢が応戦したが支えきれずに攻め落とされた。この時綾部城に在城していた渋川堯顕は家臣の森戸、板倉に助けられて有馬氏を頼って藤津へ落ちた。
少弐方として戦ったと思われる堯顕は家臣層に擁立されていたようであり、この事が伊繁との対立になった理由と思われる。《中原町史》
その後、探題伊繁も長年の擁護者大内氏を裏切り、少弐氏側に付き大内氏に滅ぼされて最後をむかえます。
家臣団は堯顕を支持していたとすれば、秋山義重(上滝氏宗祖)が森戸、板倉共々堯顕を助けて藤津へ落ちて来た可能性は大きいと思われます。
藤津に落ちてきた堯顕は蟻尾山城の原氏の庇護を受け、谷あいの大木庭(能古見、東三河内、三十石)に住んだとされています。
原氏は藤津衆のひとりです。同じ藤津衆の上滝氏とは常に行動を共にしている特別の仲間の関係ですから、上滝氏の家庭環境もよく分かっているわけで、仮に堯顕と共に秋山義重が藤津へ落ちて来ていれば、年頃の上滝氏の娘と縁談を進めるのは自然ななりゆきではなかったでしょうか。


[297] 多田神社に行って来ました 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/05/16(Mon) 17:35  

清和源氏の故郷を訪ねると云う旅行ツアーの企画を見て応募しました。JR川西池田駅からバスで15分位で多田神社に着きます。
多田神社は源満仲を含めて5人の源家ゆかりの武将を祀る源氏の祖廟であり、源氏発祥の地とされています。
現在の社殿は徳川4代将軍家綱の命により再建されたものらしく荘厳で回りは静寂が保たれていました。猪名川の側にあり、薩摩藩島津氏より寄贈されたという唐椿は日本一と云われる椿の老木も社殿の側にあります。
多田神社から少し離れると、源氏も関わっていたと言われる《多田銀銅山》もあります。時代が下ると秀吉や家康もこの銀山に執着していた様子でした。

日を変えて河内源氏の故郷を、今度はウォーキングで訪ねてみました。
清和源氏から秋山光朝までは、清和源氏⇒河内源氏⇒甲斐源氏と云う流れで続きますが、ここには源頼信、頼義、義家(八幡太郎)が祀られています。
近鉄南大阪線上ノ太子駅から徒歩で20分位で壺井八幡宮に着きます。ここは河内源氏の祖廟になっていますが更に20分程歩くと源氏の檀家寺の通法寺があり、近くの少し高台に墓が離れてあります。
このあたりはなだらかな丘陵で高い建物も少なく、昔の状況を想像出来る環境が残っています。
近くには沢山の天皇陵や聖徳太子を祀った太子寺もあり、歴史の散策には良いところです。


[296] 東北太平洋沖地震被災者へご協力のお願い 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/03/12(Sat) 23:55  

2011年3月11日14時46分ごろ起きた東北太平洋沖地震。
今回の大地震で被災された方々や地域の、目も覆うばかりの悲惨な光景がニュースで流れておりますが、
上瀧の名を名乗る一族の一人として、祖先に恥ずかしくない様になにかしらの行動をと考えました。
そこでまずは当HPを見ていただいてる、同じ名字を名乗る方々への呼び掛けをその始めにしたいと思います。
家系や歴史をご紹介する当HPには不似合いかもしれませんが、このような助け合いの精神は必要と考えます。
考えれば当HPも皆様の善意で資料や情報をご紹介頂いたお陰で、また多くの方々への発見へとなっていると思います。これも助け合いの一つであります。
今回はその輪を多くの方々に広めて、被災されて困っている方々への、少しでものご協力をお願いしたいと思います。

どのような形でも構いません。小額の募金でも、物資を送る事や、許されれば現地でのボランティアなど、色々な形があると思います。
同じ名字を名乗る者の一人として、どうぞ皆様のご協力をお願い申し上げます。
またこの輪を、広く多くの方々へ広めて頂ければと思います。なにとぞお願い申し上げます。


[295] 長男はどっち? 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/02/10(Thu) 08:01  

ご無沙汰しております。
ちょっと調べものをしておりましたら、通称は受け継がれるというのを思い出しまして、私はもの凄い勘違いをしていたのかも知れないと思いまして…。
上瀧重清(恐らく勝次郎)・上瀧兵太郎能宗の二人のどちらが長男で家督を継いだのかとよく考えておりました。
今の感覚では太郎が長男で、次郎が次男の様に考えてしまいます。しかし昔は先祖、祖父、父、子と通称を受け継ぐ風習があります。
そう考えると秋山源次郎が上瀧美濃守義重と名前を変え、恐らく自称に近い形での官位名「美濃守」を名乗っていますが、正確には『源朝臣上瀧源次郎義重』か『上瀧源次郎源朝臣義重』となるはず。(正式な官位ではないため)
そうなると上瀧志摩守信重も『上瀧源次郎信重』もしくは『上瀧○次郎信重』を名乗っていた可能性もあるかと思います。
こういう考え方をすると、家督を継いだらしい上瀧重清が、通称勝次郎だった場合にも道理が通る事になります。
また余談になりますが、あの有名な真田家では、兄の真田信之(信幸)が源三郎を名乗り、弟である真田信繁(幸村)が源次郎を名乗っています。
ちなみに戦国時代きっての謀略家として知られる父の真田昌幸は三男であるにも関わらず、源五郎です。
これには諸説ありますが、一説には武家の長男は早死にするために、わざと太郎とは名付けないためといわれています。

こういった例は非常に多く、先入観で長男、次男と考えると見誤ってしまうのではないかと思います。
これはあくまで仮説なので、実際は分かりません。事実はそれこそタイムマシンでも作って本人に会うしかわかりません。(^^;
もしくは信用に値する確実な資料が出てくるかですね。ふと考えた事を書き込みしてみました。


[294] 吉田の落ち武者とは? 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/12/23(Thu) 18:45  

yagyu様がお調べ頂いた上瀧房丸への《出兵召し文》《房丸への恩賞》《中村文書》《千葉氏VS有馬氏での上瀧の戦死記録》《有馬氏側の藤津衆、上瀧盛氏》これらの記録から秋山源次郎が藤津へ来る以前に《上瀧氏》が武雄や藤津郡に存在していたのは間違いなさそうです。
そのルーツは上瀧豊久様が書き込まれた《唯一の口伝》吉田の落ち武者を必死に探して、九州大学の《しこ名》調査でようやく広川原に平家の落ち武者伝説を見つけることが出来ました。
しかし、もう一つの落ち武者達、九州探題渋川の堯顕一行も藤津へ落ちて来たとの記録もあり、仮に秋山源次郎も一緒に来たとすれば、その可能性もあると思われます。
前々から気になっていたのが、吉田地区と探題屋敷があったとされる鹿島の三河内がすぐ隣にある事です。
仮に、秋山源次郎が口伝の落ち武者だったとすると、上瀧志摩守には兄弟が居た事になります。
志摩守の子(兵太郎、勝次郎)兄弟の子(吉田に住む)となり、兄弟の子孫に落ち武者の話が引き継がれた可能性はあります。
志摩守に兄弟が居たのでは?と思われる記録があります。
1577年5月(天正5年)龍造寺家信、武雄後藤氏の養子として50人の家臣を随従して武雄へ来ますが、その中に《上瀧道
可》の名があります。
この件は以前に書き込みましたが、私の勘違いで犬塚氏に仕えた《上瀧氏》の系統かと?しましたが犬塚氏の陪臣の筈はなく、この時は既に志摩守は龍造寺氏に仕えていますので志摩守に近い立場の人だろうと思われます。
1617年(元和3年)小城藩成立時、鍋島元茂が祖父より83人、父より77人の家臣団を譲り受けますが、この家臣団の中に《上瀧》の名が出てきます。
このふたりは誰なのか?
兵太郎、勝次郎の兄弟なのか、それとも志摩守の兄弟の子供ではないのだろうか?
ますます謎は謎を呼び込みます。
上瀧道可の場合、苗字と実名のみで通称名がありませんので、あるいはまだ若い小姓だったのかもしれません。


[293] 九州大学しこ名調査から 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/12/16(Thu) 15:50  

yagyu様、有り難う御座います。房丸は最小の恩賞と書かれていましたので西山村の一部とは想像していましたが詳しい資料、参考になります。
ところで九大の服部英雄教授と、その学生さん達が武雄、嬉野地区の《しこ名》を調査されたレポートのページが見つかりましたのでお知らせいたします。
《しこ名》とは相撲でも言いますが、服部教授によると、市役所や町役場で使われているような地名(小字)ではなく、もっと細かくして農民だけが習慣的に使っている私称地名であり、武雄ではこうした地名を《しこ名》と呼んだとされています。
yagyu様が以前書き込まれたこの中でのページ《183》橘中村文書、中村氏から上瀧氏への領地安堵と思われる土地名が見つかればと目を通して見ました。残念ながら開かないページもあり、全てを調べる事は出来ませんでしたが、それらしい場所がありました。
武雄市山内町宮野、徳蔵地区に【トリ越】【天神モイ】【前田】隣の大野上地区に【ヤクシマエ(薬師前)】
他の地区にも【テンジン】【トリゴエ】【ミヤタ】【マエタ】などは散見されるのですがまとまっているのはここだけでした。
武雄市地図を見ると何と、この地区に【上瀧姓】の家が5軒現在もあるのです。宮野地区に(うわたき姓)2軒、(じょうたき姓)2軒、大野に(うわたき姓)1軒。
「先祖は住吉城の城主をしていた」と上瀧氏の口伝のことで電話でお聞きした方が、この地区にお住まいだったことを思い出しました。
《鳥越》の地名は嬉野と武雄の武内町真手野、前記のしこ名の3カ所ありました。
源六、房丸親子が嬉野、吉田の上瀧豊久様口伝の落ち武者に繋がるのではと苦労して調べていましたが、このしこ名調査の中に出て来ました。
嬉野町峯川原地区、『広川原は平家の落ち武者が逃げ延びた地区であり、そのころからひっそりと生活を送っていた』との記載がありましたが、残念ながらこのページもそれ以上ページが開きません。
広川原とは吉田の隣ですぐ近くにあります。
しこ名研究の佐賀平野版は書籍になったそうですが、武雄、嬉野の分が待たれます。
参考までに、コゼマチは【小畝マチ】ウゼマチは【大畝マチ】だそうでミチゼマチは道の側の方、溝側の方をミゾセマチと云うとの事で、中村文書に多くミチやマチが出てきますのでマチにもなんらかの意味がありそうです。


[292] ミツゴロウ様 投稿者:yagyu 投稿日:2010/12/15(Wed) 13:46  

おひさしぶりです。武雄市史読みました。ありがとうございます。
戦国の世も人間関係は難しそうですね。
ところで、弥八の所領のことですが小鹿島文書ではすこしニュアンスが違うようです。
西山村分
 弥次郎入道蓮妙 中上課
 次郎三郎入道義栄 中中課
 三郎兵衛入道栄真 上中課
 七郎右御門入道蓮西 中上課
 弥六 公兄 中中課
 弥八公末跡 十品
 次郎九郎公継 中下課
 三郎入道光蓮 下上課
 浦上次郎 公保 十品課
 彼岸王丸 下中課
 余一 公藤 中上課
 郷房 公範 下上課
 小中原女子 下下課
 房丸 十品 上瀧源六子息
 次郎公隆 十品
大崎村
 橘四郎公高 上中課
 弥八跡夜叉童丸 上下課

恩賞は上中下、さらにそれぞれ上中下で9段階、プラス十品の10段階になっていて上上が最高で十品が一番下です。
西山村だけで15人、大崎村では2人。弥八は大崎村を持っていた可能性は高いと思いますが、西山村は弥八の子供の一人に与えられたのではないかと思います。 


[291] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/12/08(Wed) 18:03  

お久しぶりです。前に書き込まれた《111》上瀧権兵衛等重臣達が後藤貴明を裏切り、養子の惟明に味方して反乱し、貴明、龍造寺氏の援軍を得て鎮圧した時に、惟明を許し実家の松浦家返した処置の寛大さを不思議に思われていましたが、私も同感でした。その件で最近、理由が見つかりましたのでお知らせ致します。
武雄市史、中世二、松浦氏との関係。ネットで出てきます。
上瀧権兵衛達重臣の裏切りの理由にも触れています。
武雄市史の中で、菊池、阿蘇氏対九州探題、一色氏の合戦で
探題の弟、頼行と橘薩摩弥八が戦死したとありますが、この弥八なる人物は西山村と大崎を所領していたとのことで、上瀧房丸が恩賞に得た西山村と思われます。
年代から察して、西山は房丸の前の持ち主が弥八だった可能性が強いと考えます。


[290] 続き 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/12/04(Sat) 12:02  

前の分で3つの記録と書きましたがひとつ抜けていました。
1576年 有馬氏VS龍造寺氏【横造城の戦い】で有馬氏側の後藤氏と上瀧志摩守属する藤津衆は龍造寺氏側に寝返る。以後志摩守龍造寺氏に仕える。 
上瀧盛氏が有馬氏の配下になって、渋川堯顕が藤津へ落ちてくる間に19年の歳月が流れています。
1514年当時、盛氏は藤津衆に属しています。藤津衆とは藤津地方の豪族連合のようなものですから、盛氏の年齢は20歳以上の成人だった筈で、それから19年後に渋川堯顕が藤津へ来た時の盛氏の年齢は約40歳以上だったのは確実です。
年齢的には結婚適齢期の娘がいたとしてもおかしくない歳です。
60年後に上瀧志摩守が豪族のひとり、藤津衆として盛氏の跡を継いでいる事実をみれば、志摩守は盛氏の娘と秋山源次郎の間に生まれた事が分かります。
戦国期だけに盛氏が戦死して、跡継ぎの養子の可能性もありそうですが、盛氏が生きていたとしても、渋川堯顕の家臣を有馬氏の家臣の養子にするとすれば、両者の介在があって成立したものと思われます。

このページを詳しくお読みの方は、《名前の由来》との整合性に必ず疑問を感じられる事と思われます。
『上瀧氏の歴史』【名字の由来】《室町時代、肥前國杵島郡上瀧村という地がありました。そこに移り住んだ秋山源次郎(後に改め上瀧美濃守義重)がその地名に因み改氏したとされています》
この文章はこれまでの記述と相容れないように思われますが、よくよく考えてみると、これこそ秋山氏と上瀧氏を繋ぐ大きなポイントだと思われます。
上瀧盛氏はyagyu様発見の1337年小鹿嶋文書に記録されている上瀧源六、房丸親子から幾つかに別れた子孫の流れの中のひとつでしょう。
秋山源次郎は上瀧盛氏の娘と結ばれ、上瀧姓を継ぎます。(養子)上瀧義重と名を変えた秋山源次郎は上瀧氏の系図ではなく自分の元の秋山の系図に繋げます。
ここが重要なポイントで、源次郎が養子に来たとすると当然上瀧氏の系図に繋げなければいけませんが、養子の事に触れずに《自分で改氏した》とすれば、秋山氏の系図に繋げる事が出来ます。
今では想像も出来ないような【出自】にこだわった時代には、藤津郡の小さな土豪で地方大名の配下の系図よりも、中央政府の出先で、名ばかりとはいえ地方大名に命令ができる九州探題の家臣だった家柄と清和源氏の出自があれば、当然の事として自分の先祖の系図に繋げることでしょう。その方が社会的にも評価される時代だった筈です。
もし盛氏が生きていたとしても、上瀧姓は受け継いでくれている以上、むしろ賛成していたのかもしれません。
前にも書き込みましたが、久留米の秋山様のひとりと電話でお話した中で「私に先祖は元々井上という名の武士だったけど、秋山家から養子を迎えて以後、何故だか秋山姓に変わっている」と似たような話を聞きました。
こんな事は当時の感覚ではさほど奇異なことではなかったのかもしれません。


[289] 上瀧志摩守は果たして盛氏だったのか? 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/12/03(Fri) 19:04  

先祖探しから暫く遠のいていましたがフトしたことから再度資料みて考えがまとまりましたので、皆様に披露して、ご意見、ご批判を仰ぎたいと思います。          yagyu様の当掲示板への書き込み《177》         1514年 有馬氏、藤津に侵攻。藤津衆は従属、その後上瀧盛氏は有馬方で従軍。                 【藤津郡志】上瀧志摩守盛氏、本領ヲ五町田村トス、盛氏、永正ノ頃(1504〜1520年)有馬ニ属ス、天正ノ頃、龍造寺隆信公ニ従フ、其ノ裔文禄中(鍋島)直茂公ニ従ヒ、朝鮮ニ出陣ス、其後ノ事詳ナラスト雖(いえ)トモ、子孫或ハ土民トナリシナラン、吉田ニ上瀧姓ヲ有スルモノアリ。     吉田左衛門太夫本領ヲ吉田村トス⇒『中略』       朝鮮ニ出陣ス、後(鍋島)直澄公ノ臣トナリ、其裔今ニ蓮池ニ存ス。                       上記の2つの記録を見れば、上瀧志摩守は同じ盛氏で同一人物として見過ごしがちですが、志摩守が龍造寺隆信に仕えるようになったのは【横造城の戦い】天正4年2月(1576)からで、盛氏が1514年に有馬氏に仕えるようになった62年後の事になります。                    盛氏が有馬氏に仕えた時の年齢が若く見積もって仮に20歳だっとしても、62年後の82歳以上の歳で【横造城の戦い】に参戦した事になります。             その後、龍造寺氏に仕えた志摩守の活躍をみれば、同一人物とするのは年齢的にも無理があり、経過年数、同じ藤津衆だった記録からも祖父と孫だったとするのが妥当と思われます。孫がジイチャンの名を継いでいれば別ですが…
【藤津郡志】が書かれたのが江戸時代で、鍋島直澄が蓮池藩主になるのが1642年頃で「ソノ裔今ニ蓮池ニ存ス」の記述から、その数十年後に書かれたものと想像されます。
戦国期から100年近い後に書かれた記述だとすれば、著者の思い違いや言い伝えの混同が生じる可能性は高くなります。
志摩守が盛氏の孫だとすると、志摩守の父親は当然秋山源次郎、すなわち上瀧氏宗祖、上瀧義重と云うことになります。
上瀧盛氏⇒上瀧義重(秋山源次郎)⇒上瀧志摩守の流れで有馬氏側の藤津衆として引き継がれたと思われます。
1514年 有馬氏、藤津侵攻により上瀧盛氏属する藤津衆は有馬氏の配下となる。(前記)
1533年 渋川九州探題の身内、堯顕、家臣に助けられて有馬氏を頼って藤津へ来る。
3つの記録と当時の時代背景を勘案して推理すれば
九州探題、渋川満頼に従って九州へきた秋山光長の子孫は代々渋川氏に仕え、渋川堯顕の代に秋山源次郎が堯顕の家臣のひとりとして藤津へ共に来たと考えられます。
『記述中大変申し訳ありませんが、外出の用事が舞い込みましたので本日はこれまでとし、次回に続きを書き込みます』


[288] ご挨拶 投稿者:maestroMASA 投稿日:2010/10/20(Wed) 23:30  

mixiの上瀧コミュニティの管理人がしばらく不在となっておりましたが、このたび、試しに引き継ぎました。
下記のご指摘を受けましたので、バナーは削除いたしました。ご迷惑おかけしました。
尚、現在の所、当サイトへのリンクは残してあります。それも、削除の方がよろしければ、ご連絡ください。
今後とも、よろしくお願いします。


[287] ご無沙汰しております 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2010/08/18(Wed) 14:12  

皆様、大変ご無沙汰しておりました、管理人の上瀧龍魁です。
全く更新も掲示板の返信も出来ずにおり、誠に申し訳ありません。
少々、時間が出来ましたので少しお話を。

>上瀧ミツゴロウ様
熱心に研究されておられますのに返信出来ずに申し訳ありません。
《278》の<この《わたき》と改姓したのが、秋山源次郎【上瀧氏宗祖】ではなかったのか?>との事ですが、その事実は無い様です。
といいますのも、上瀧重清の子に上瀧義郷という人物がいるのですが、義郷の時代に筑後に移り住み<うわたき>の読みを<こうたき>と変えたと
系図に間違いなく記載がありますので恐らく秋山源次郎の時代にも改姓した当時<うわたき>と読んだと思われます。

ミツゴロウ様と同じ<じょうたき>姓の系図をお持ちの方が居られたら、小城藩の上瀧氏の解明が随分と進むと思うのですが、なかなか難しいですかねぇ。
口伝も確かに調べる手掛りとはなるのですが、誤って伝えられる物も大変に多く、かえって混乱を招く場合も多いです。
我が家でも上瀧氏の家紋<三鎖>を何故か「ウチの先祖は鎖鎌の達人」と変な勘違いをしていたり、
有馬から龍造寺に属した為、「有馬藩の家臣」という間違えの方も居られる様ですね。

そういえばmixiにも上瀧氏のコミュニティが存在している様ですね。
この様に自分の祖先に興味を持ってもらう、今何故、自分はここに存在しているのか、またその先に祖先へ感謝の気持ちが生まれたらと思います。
しかし不本意ながらmixiの管理者にバナーが無断使用されているのは大変残念ですが…。



[286] 無題 投稿者:どりとる 投稿日:2010/06/03(Thu) 15:18  

曽祖母石丸スミが嫁いだ家が、伊万里陶器商大塚家なのですが、曾祖父には先妻がいて、同じ伊万里陶器商江頭家なのです。
江頭家の者で幕末から明治にかけて江頭鶴太郎という者が
佐賀の文化財に指定されている登り窯跡の再興した人物なのです。
佐賀武雄に高野寺というお寺があり江頭という住職だったので、江頭家について情報を得られないかと電話しました。
上瀧さんという人が前住職だったそうです。
また地図を見てたところ上瀧神社ってあるんです。
しかも近くに。なんだか関係のある名前ばかり出てきました。


[285] 国会図書館 投稿者:yagyu 投稿日:2010/05/26(Wed) 21:45  

佐賀県史料集成 古文書編17巻のなかに直茂公譜考補1.2巻があります。
活字に直されているので読み易いのですが、難解です。
普通の図書館やネットや書店ではみられないと思いますが、佐賀県の図書館にはあるかもしれません。司書のかたに相談なさってみて下さい。
国会図書館は東京のほか、大阪か京都にあったような気がします。
上瀧氏を調べるきっかけは「姓氏家系辞典 太田亮著 昭和38年版全3巻」に上瀧が載っていたいたからです。
ほかのどの辞典にも載っていないのに。宝を掘り当てたような気持ちでした。
国会図書館は閲覧だけで貸し出しはできません。コピーをとって資料としています。おそらく石丸氏ものっているのではないかと思われます。 
それと市史、町史、郡史、村史などにも以外に載っていることがあります。わかりやすく参考史料も探しやすいのでお勧めです。
余裕があれば東京に行って国会図書館でいろいろ調べてみたいのですが、今は離れすぎてしばらく無理なのが残念です。


[284] 感謝 投稿者:どりとる 投稿日:2010/05/26(Wed) 14:47  

ありがとうございます。
川副に石丸姓の農家が多いのは、関係があるんでしょうね。
本行事に石丸備後守の霊廟があります。
本藩石丸六兵衛の中の安之が白石鍋島家の家臣になったと思われます。御側付きだと思うのです。
幕末の人物に石丸安世がいます
本藩には石丸六郎など合わせて4流あります。
最近佐賀の乱の資料を読んでいたところ、私が出会った古文書(白石鍋島家の嬉野家所有)には官軍に支援したことが書いていたのですが、実際征韓党に6小隊参加していたとあったのです。邑でふたてに別れてしまっていたのかな、それが伊万里への転居の理由かな?と思っているのです。
直茂公譜考補って言うんですか?こういう書物は活字に直されているものもあるんでしょうか?ネットで閲覧などできるんですか?


[283] 追記  投稿者:yagyu 投稿日:2010/05/18(Tue) 00:28  

どりとるさま
石丸氏が龍造寺家臣だったのは本当のようです。
天文20年(1551)隆信は、お家騒動と近隣諸侯の思惑のため城を大軍で囲まれ、一族郎党200人を連れて筑後に逃れています。
2年後の天文22年、決死の覚悟で佐賀を目指し筑後を後にします。
その時、旧領の与賀川副の農民や武士に迎えられています。
直茂公譜考補では
「水町信秀・鹿江兼明・南里・内田・横尾・飯盛・立河・堀江・石丸・久布白・石井一族かれこれ1000人余り馳せ集まり、兵船を揃え筑後に隆信親族70人を肥前に帰そうと迎えに行った」
と記されています。この後、戦に勝ち続け佐賀城に帰ることができます。



[282] 無題 投稿者:どりとる 投稿日:2010/05/01(Sat) 08:18  

ありがとうございます
石丸弥次郎ですね。
そうなんですもともと竜造寺家臣だったと祖父が書いていました。
着到帳元本も見せてもらい、石丸頼母(寛政)→石丸弥六(弘化)→石丸力太郎と家禄がつがれていました。
上瀧卯右衛門だったと思います。石丸家とつながってます。



[281] どりとるさま 投稿者:yagyu 投稿日:2010/04/30(Fri) 00:26  

ご先祖探しは大変ですね。
でも思い立ったときが探し時です。
参考になるかわかりませんが、史料に石丸氏の名前を見つけました。
石丸弥次郎(弥は旧字です。変換できなかったので)
天正12年龍造寺隆信に従軍して島原合戦で戦死。
直茂公譜考補の戦死者名に載っています。

白石氏の支族が嬉野氏で、鎌倉時代に嬉野に来て名前を
白石から宇礼志野に変えたようです。(鹿島市史)
手元の史料ではこのくらいしかわかりません。



[280] おひさしぶりです 投稿者:どりとる 投稿日:2010/04/27(Tue) 07:51  

以前白石鍋島家に関して書き込みしました。
ぼちぼち調査を続けていました。
ほとんどわかりました。石丸力太郎で検索していただくと
いろいろ出てきます。
上瀧との関係は同じ家臣で上瀧がいて、どうも家臣同士でいろいろ婚姻関係が結ばれていたようです。


[279] 昨日に続いて 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/01/21(Thu) 17:08  

困った事に、yagyu様の書き込み《89》には、田中雄一氏著【上瀧空蝉小伝】には、《うわたきうつせみ》と書かれていて、《わたき》《うわたき》の判断を出来かねています。
その上、私見ながら、小城における《わたき》姓は0軒、《うわたき》姓は1軒、《じょうたき》姓が18軒。
どう考えても小城藩に仕えていた空蝉の先代達は《じょうたき》姓だったのではないかと考えたくなります。
上瀧の字のそばに、ふりがなが書いて有れば先祖調べも少しは楽になるかもしれませんが、呼び名の違いに今後とも悩まされそうです。



[278] 上瀧氏の【呼び名】について 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/01/20(Wed) 17:49  

NTTハローページ2007年9月〜2008年8月版で佐賀県にある上瀧氏の読み名は《うわたき》《わたき》《じょうたき》《こうたき》の4個の呼称名です。
書き込み《98》の上瀧豊久様のお父様のように、吉田で《うわたき》と呼んでいたのを《うえたき》と改姓》されたように、地元では通じた呼び名が他の土地へ移住する事により不自由になり、書く字を変えずに読み名を読みやすく改姓する事もあるみたいです。《155》の《うえたき》様も同じでしょうか?
上瀧氏の呼び名は始め《うわたき》だったと想像されます。yagyu様がお調べ頂いた書き込み《183》の【うわたきのたうせうちきやう分】と云う記録から室町時代は《うわたき》と地名が呼ばれていたと思われます。
その後、「藩政時代は既に《わたき》と云われていた」との記述を読んだ記憶がありますので、《うわたき》⇒《わたき》と呼び名が室町時代⇒江戸初期迄の間に変わっていったものと考えられます。
上瀧氏もある分家のひとつが、時代の変化の流れに沿って、
《うわたき》⇒《わたき》と呼称を変えた事が想像出来ます。
この《わたき》と改姓したのが、秋山源次郎【上瀧氏宗祖】ではなかったのか?
幾つかある上瀧氏の流れのひとつを継いだ源次郎にしてみれば、秋山氏から来た別の自分の流れを区別する意味もあると思われます。
現在、《わたき》姓が佐賀県に3軒ありますが、私の推理では、上瀧志摩守の兄弟の御子孫ではないか?
志摩守の子供の兵太郎と勝次郎の子孫は《じょうたき》と《こうたき》に改姓し《わたき》の呼び名は無くなりますが、志摩守に兄弟があれば《わたき》姓は引き継がれていくことになります。
管理人様の書き込み《166》によれば、上瀧空蝉と云う方は《わたき》と読むと書かれていますが、そうだとすると志摩守の兄弟の子孫とも思われます。


[277] 嬉野、武雄に於ける上瀧氏の流れ 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/01/18(Mon) 18:43  

このページで上瀧源六、房丸親子に繋がると思われる唯一の口伝、上瀧豊久様の《吉田に落ち武者のように来た》との書き込みからの上瀧氏の流れを推察してみました。
始めて上瀧氏の名前が記述として出てくるのが、yagyu様がお調べ頂いた1334年の出兵召し文です。
これは橘薩摩浄連が塚崎の後藤経明宛に出した物で、惣地頭の橘氏が地頭の後藤氏に対して、後藤氏配下の上瀧房丸を含む6人を出兵させるようにとの命令書と受け取れます。
この命令書から、当時上瀧源六、房丸親子は後藤氏に仕えていたことがみてとれます。
【前九年の役】(1051〜62)で戦功のあった後藤章明が塚崎荘の地頭になりますが、鎌倉時代の1240年に武雄領主、後藤直明が弟の定明に【磐井の砦】を守備させたとあり、この場所は武雄市朝日町中野にあり、上瀧のすぐ近くです。
1236年に橘公業が長島荘の惣地頭になりますが、この時代の上瀧の地は後藤氏が支配していたことになります。
上記の事から類推すれば、嬉野の吉田に落ちて来た武士は、最初に後藤氏に仕えて上瀧の地に住んだ事になります。
1337年、上瀧房丸が出兵の恩賞として西山村を得る【yagyu様調べ】
西山と云う地名は今でも残っていて、志田神社の近くにあり、塩田町久間西山となっています。
この恩賞の地は橘氏、長島荘の領土で、後藤氏を飛び越えて上瀧房丸に恩を売ったのでしょうか?
この恩賞として得た西山は、房丸の兄弟か、又は子供の誰かが継ぎ、分家して久間衆、藤津衆として発展していったと思われます。
本家として上瀧の地に住む房丸の子は、代々後藤氏に仕えて重臣として成長したと思われます。
南北朝時代の橘姓中村氏の所領は大崎村、北方村、橋下村に及んでいたとされていますので、この頃に本家の誰かが中村氏に仕え、千葉方で有馬氏方と戦闘したと推測します。
神崎の犬塚長門守と共に討ち死にする上瀧氏は、この流れかとyagyu様が推測されていたと思います。
嬉野、吉田の上瀧氏の流れが何とも判断できません。
?@吉田に落ち武者で落ちてきて、そのまま居着き、親が武雄 の上瀧に移住し、改姓したのに伴い同じ上瀧に改姓し吉田 にそのまま留まった。
?A藤津衆の上瀧氏の子孫の一人として有馬氏に属し、戦功に より有馬氏より吉田の地を得た。
上瀧豊久様の書き込みでは、庄屋をしていたとありますので?Aの方がちかいのでは?と考えています。
以上勝手に推測していますが、皆様のご意見をお聞かせ下さい。



[276] 勘違いしていることに気がつきました! 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/01/06(Wed) 19:08  

橘姓中村氏に仕えていた、上瀧(うわたき)氏は、yagyu様のお調べによれば、1525年千葉氏対有馬氏の戦いに於いて、千葉方の大町土佐守の陣で八幡山砦で戦死した事になっています。
私はこれまで戦死した上瀧氏の娘の養子として、秋山源次郎(上瀧氏宗祖)が迎えられたのではないかと推理してきましたが大きな勘違いだと気が付きました。何故なら
当時の政治状況は、武雄の後藤氏と有馬氏は政略婚で両家は和睦し、塩田近郊に勢力を持っていたのではないかと思われる、藤津衆としての上瀧氏は有馬方に属しています。
有馬方の藤津衆上瀧氏と千葉方の橘姓中村氏配下の上瀧氏は敵対している関係だった筈です。
その後、藤津衆のひとりとして活躍する《上瀧志摩守》の父が、すなはち秋山源次郎義重となりますので、秋山源次郎は藤津衆側の上瀧氏の跡目を継いだとするのが妥当かと思われます。



[275] 新年おめでとうございます 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2010/01/05(Tue) 12:52  

カマキリ様、本年も宜しくお願いいたします。
昨年の暮れに、あるパーティでの事でした。隣の席の女性は私の知人の友達で、私も前から顔だけは知っている方でしたが、親しくお話するのは始めてのことです。
私のことは知人を通して情報をお持ちのようでした。
『「じょうたき」というお名前は珍しいですね』との会話から始まり、その方のご先祖様の話では、母方の先祖が佐賀で龍造寺氏と鍋島氏に仕えていた武士だったとのことでした。
姓は《中村》だそうで、その時の私は中村とは多数姓なので先祖調べは大変だろうと感じていました。
帰途、ふと北方の上瀧(うわたき)姓が橘姓中村氏に仕えていた事を思い出しました。
翌日、調べてみると、橘姓中村氏は本領、橘氏に属しながら小城の千葉氏に仕え、一時は主家を凌ぐような権勢を手に入れ、橘宗家の没落により衰退していき、後藤氏に仕えることになります。
その後、後藤氏は龍造寺氏、鍋島氏と仕える事になりますので、中村氏も行動を共にしたと考えられます。
もし、私の隣でお話した方が、橘中村氏の後胤だったとすれば奇しくも、主君と家臣の子孫同士が隣同士で会話したことにになります。彼女のせりふ。
「先祖が同じ主君に仕えていたと云うことは、一緒に戦場を走り回っていたかもしれませんね」


[274] 師走ですね 投稿者:カマキリ 投稿日:2009/12/30(Wed) 21:00  

ずいぶんとご無沙汰していますカマキリです。
書き込みは何年ぶりでしょうか?

さて、少し前に荒れてから、ここのところ
書き込みが寂しかったのと師走なので
久々に書き込みさせていただきました。

いつも皆さんの研究の成果を感謝しつつ
感心しつつ、楽しみに拝読させていただいております。
一歩ずつですが一族の歩んだ歴史が紐解かれ
我が身のある事への畏怖を感じています。

皆様のご健勝と幸多き年をお迎えになられることを
祈念いたしております。
では、良いお年をお迎えください。


[273] 上江瀧姓がありました 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/10/18(Sun) 15:26  

三重県津市《上江瀧》姓があり、【うえたき、うええたき】と読むそうで(苗字百貨店)上瀧と同じく【瀧、滝】の字を使っているようです。
吉田や久間に1軒しかない名前まで含めて再度調べたら、3姓が出てきました。
《栗林》【嬉野1軒(うち吉田1軒)】ほか佐賀県25軒。三重県20軒。茨城県141軒。
《亀井》【嬉野1軒(うち吉田1軒)】ほか佐賀県10軒。三重県228軒。
《町田》【嬉野1軒(うち吉田1軒)】ほか佐賀県12軒。三重県23軒。茨城県299軒。
志田義広軍に居たのか?信太(しだ)姓が四日市市に1軒あり、信太【しのだ】姓が8軒三重県にあります。
この軒数からして、分家する時に、上瀧氏みたいに呼び名を変えたのか?


[272] 渋川堯顕の探題屋敷が見つかりました。 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/10/09(Fri) 19:13  

久間の杉光氏を調べている時に、偶然に見つけました。
一番簡単なのはキーワードを《鹿島、探題屋敷》と入れて下さい。嬉野のお城の名が出てきますので、鹿島市の所にあります。
場所は、鹿島市能古美東三河内三十石。天文2年(1533)九州探題、渋川堯顕が居城したと云う。
三河内は嬉野市吉田の近くにある横竹ダムの近辺にあります。長崎にも【たんじゃあ屋敷】があったとされますので、有馬氏が龍造寺氏に敗れ藤津を撤退するときに移動したのでしょう。
1533年、九州探題渋川伊繁の長男、義長が討ち死にし、次男堯顕(たかあき)の離反で探題職136年の歴史は終わった。【九州冶乱記】とあり、堯顕は11月、家臣の森戸、板倉に助けられ有馬氏を頼って藤津へ落ちたとなっています。
この時期、後藤純明は有馬晴純の妹を娶って和睦し、橘姓中村氏も宗家の没落により次第に衰えていきます。
堯顕が鹿島に住んでいたとなると、上瀧氏の宗祖と云われる《秋山源次郎》が堯顕と一緒に来たと解釈してもおかしくないと思います。
8年前に八幡山砦で戦死し、断絶しかかっている上瀧家の娘が成長し、後藤氏、有馬氏の間で話が出て、堯顕の家臣の秋山源次郎に白羽の矢が立ったのではないでしょうか?


[271] 志田神社 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/10/08(Thu) 16:44  

久間に志田神社があります。これを見てハッとしました。 
これは志田義広の身内が落ち武者で久間に来て居着き、彼等の氏神として祀ったものではないか?  
狛犬を紹介されている方の説明では『南北志田地区の氏神』と書かれています。
《志田姓》は【嬉野12軒(うち久間7軒)】【武雄14軒】【鹿島6軒】【唐津6軒】【小城2軒】【佐賀市9軒】
この数字は佐賀県に元からあるものとは思われません。
久間から武雄や佐賀市へ発展したものと考えます。
三重県には16軒あります。私の考えでは、三重県上野市の羽取山で敗れた志田義広の身内が落ち武者で居着いたと推理しています。
茨城県には65軒あり、別に《信太姓》もあります。
この《上瀧の歴史》の中で、『永田氏は後藤家文書の中で、天正2年6月(1578年)永田民部、永田左京、辻、志田、久間図書らと連盟で後藤貴明に対し起請文を出している』とあります。yagyu様の文と思われます。
これからみると、久間へ落ちてきた志田氏は、一緒に落ちて来た部下達の協力の上、志田地区の豪族として成長したもと思われます。


[270] 落ち武者調べのまとめ 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/10/05(Mon) 15:26  

調べの基礎になっているNTTハローページは希望者のみの掲載みたいで、正確な住所録ではありませんのであくまでも目安としています。
現実に茨城の石永姓、鶴島姓、杉光姓等はハローページに掲載されているより多くがインターネットのホームページに見受けられます。
書き込みました姓以外にも移住してきたのでは?と思われる多数姓がありましたが、佐賀、三重、茨城にも多い姓なので
確定できかねて割愛しました。
参考までに、佐世保からと思われる草津姓。長崎からと思われる大宅姓と朝重(ともじゅう)姓が真手野にあります。
有馬氏時代に移動か?
一番合戦という珍しい名にも出会いました。肥前神崎郡発祥の名で全国では20軒とありました。
私の早合点や勘違いがあるかもしれませんが、これだけの名が出てくるのは、嬉野や武雄に平家の落ち武者が来て居着いたと云う話は事実ではないかと考えます。
彼等のうち何人かは上瀧氏みたいに後藤家か橘家に仕官したと思われます。後藤家、橘文書に名前が残っているかもしれません。
上瀧源六、房丸親子の先祖がこの落ち武者群の一人だったとは断言できませんが、その可能性は十分にあるとおもいます。


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