上瀧氏交流掲示板
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[88] 投稿者:上瀧幾久生 投稿日:2004/06/09(Wed) 12:24  

わたしの住まいは、佐賀県の多久市です。先祖の出身は、武雄市朝日町のようです。


[87] Re[88]: 私は、「わたき」です 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2004/06/04(Fri) 12:31  

上瀧幾久生さんへ

> 初めて投稿します。このようなページがあることをはじめて知りました。

結構前から開設はしていたのですが、検索に掛かる事も少なくあまり知られていなかった様です。(^^;
現在は御陰様で、Yahoo!にも登録して頂き、それなりに知られる位になったところです。(笑)

「わたき」姓の方であれば、佐賀県内が多いと認識しておりますが、幾久生さん
も佐賀ですか?

まだ情報は少なめですが、また遊びに来て下さい。(^^)


[86] こうたきの菩提寺でしたら 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2004/06/04(Fri) 12:25  

西方寺ですかね?
本家筋であればこちらにあるでしょうね。ここは私の友人のお寺です。加峯さんですね。(^^)
ここに鬼籍をということは、もしかして本家筋の方ですか?
稀一郎さんの場合は、おじいさまのお名前を聞けば、どこの方かわかるかも知れませんね。

町田市であれば東京ですね。
確か、私の曾祖父の代に東京に行かれた「こうたき」氏が居たと聞きました。
そちらの流れかも知れませんね。

最近「こうたき」さんが増えたので、もしかしたら知ってるかもしれない人物を挙げておきましょうか。
「上瀧正衛」
聞いた事がある方は、ほぼ私の親戚筋の方ですね。(笑)


[85] 私はこうたきです。 投稿者:上瀧稀一郎 投稿日:2004/06/04(Fri) 00:16  

私の姓は、こうたきと読みます。少ない姓で、子供の頃は余り好きではありませんでした。(今は好きです)菩提寺は、福岡県三井郡北野町にあります。家紋は,丸にすはまです。菩提寺の一角に我が家の墓所があります。これは登記上上瀧家の物になっているらしく、根っこが墓石を倒しそうで危険なため囲んでいる立木を掘り起こして良いか住職が許可を求めてきました。その一角の墓石には江戸時代の年号の物が多数ありました。よって先祖は武士か豪商か庄屋位の百姓か、とは思っていました。この掲示板を見て感激しております。現在は町田市に住んでおります。鬼籍は九州の菩提寺にてと考えております。


[84] 私は、「わたき」です 投稿者:上瀧幾久生 投稿日:2004/06/03(Thu) 10:18  

初めて投稿します。このようなページがあることをはじめて知りました。


[83] なるほど 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2004/05/30(Sun) 19:27  

yagyuさん
素晴らしい情報の提供ありがとうございました。
yagyuさんの、熱心さには本当に頭が下がります。m(_ _)m
大永5年の話は私も知りませんでした。大発見です。(^^)
もし佐嘉に「上瀧」氏が一つの流れしかなかったとして、義重の子供が信重しかいなかったと仮定すれば、
この討ち死にした「上瀧」とは上瀧美濃守義重ということになります。
しかし、武雄の「上瀧権兵衛」なる人物も居ますし、断言が出来ないですね。

情報提供ありがとうございました。(^^)


[82] 歴代鎮西要略 投稿者:yagyu 投稿日:2004/05/30(Sun) 15:54  

久しぶりに図書館にいってみました。
姓氏家系大辞典で 上瀧 を引くと‘かみだき.うえたき‘の2つの読み方があり、かみだき を調べていって小鹿島文書に辿り着きました。
今回 うえたき の方から歴代鎮西要略をしらべてみました。
おそらく佐賀の上瀧氏に多少なりとも関係があるのではないかと思いますが、もうご存知でしたらすみません。

歴代鎮西要略の中に、2ヶ所記述がありました。古文はよくわかりませんので稚拙な訳文で申し訳ありません。詳しく知りたい方は原文を解読されることをお勧めします。

大永5年(1525年)千葉喜胤と有馬純長との戦いが横辺田で起こり、千葉氏方は大町で敗れ、田利野において有馬の追討軍に敗れてしまった。千葉方に従っていた大町土佐守砥川刑部丞の陣の内の上瀧以下武士数名、八幡山砦において全員討ち死。

永禄5年(1562年)藤津郡の大村、西郷、後藤、松浦、平井、白石、吉田、嬉野、久間、永田、辻原、上瀧、伊止岐、多良、多比良、島原、神代、大野、千千波、安徳、深江などの豪族が有馬義純に従うことにしたので、有馬旗下は5万余騎になった。

姓氏家系大辞典の読み方がなぜ うえたき なのかわかりません。
昭和9−11年初版のものです。
佐賀の方はわりと資料が多くてうらやましいですね。こちらはなかなか出てきません。気長にやるつもりです。


[81] ご無沙汰しております 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2004/05/25(Tue) 00:38  

管理人@太郎です。(^^)

皆様には、当サイトの更新を楽しみにしておられる方もおられると思いますが、
近頃、体調がすぐれず、その為か調査にも少々やる気がありません。
楽しみにしておられます中、誠に申し訳ありませんが、暫くお待ち頂く様お願い致します。

ここも新しく来て下さる方が増えて、嬉しい限りです。(^^)

>元々の家紋は鎖の模様ではなくて、九曜星だったそうです。何代目かの上瀧家が工事をしているときに、隠れキリシタンの金の鎖が見つかり、縁起が良いということで家紋を鎖に変えたらしいです。

これは私の知っている話とほぼ同じですね。ただキリシタンが関係しているかは分かりません。
龍造寺配下の上瀧志摩は元は有馬に属していました。有馬といえばキリシタン。
そういった話で繋がりがないとは言えないですが、調査が必要ですね。
また九曜の紋も確かですね。ただ九曜は「こうたき」の紋(別紋)で「上瀧」ではないと思います。
私の家は本家ともそれなりに近いですが、間違いないと思います。
確かに本家(恐らく)は三井郡北野町という場所に現在もありますね。

上瀧さんは、私とかなり近い様です。辿っていくと知ってる方が出てくるかも知れませんね。(^^)

それと一つ皆様にお願いがあるのですが、書き込み時のお名前(ハンドルネーム)は名字ではなく、
下のお名前(HNの場合も)でお願い出来ればと思います。
そうしないと次第に同じ名字で、誰が誰だか分からなくなると思いますので。(笑)
宜しくお願い致します。


[80] はじめまして 投稿者:上瀧 投稿日:2004/05/22(Sat) 15:46  

僕のお父さんは、上瀧家(こうたき)の本家ではなく分家ですが、いろいろと上瀧家のことを知っていました。聞いた話では、元々の家紋は鎖の模様ではなくて、九曜星だったそうです。何代目かの上瀧家が工事をしているときに、隠れキリシタンの金の鎖が見つかり、縁起が良いということで家紋を鎖に変えたらしいです。本家は三井郡北野町というところにあるらしいです。確かかは、わかりません。


[79] Re[82]: 初めまして。 投稿者:落葉 剛 投稿日:2004/05/14(Fri) 02:17  

はじめまして。大和町在住の落葉です。

上滝建設のことですね。最近不況のあおりかしてよその建設会社と共同で工事しているのをよく見ます。

水ヶ江の交差点近辺は確かに今も歓楽街らしき雰囲気を持ってますね。少し調べてみましょう。
もし、この上滝建設、事務所が大和町近辺にあればうちの一族の可能性があります。
(といってもおそらく江戸時代から明治ごろに分化した一族でしょうが)

明治に「上滝屋」が存在したなら字体は「上瀧屋」(瀧は三本横ではなく〒のような字)でしょうね。

実は他にも、上滝造園などもあり、上瀧を冠した企業は大和町・佐賀市を中心に結構あります。
同時に、百武を冠した企業もいくつかあるようです。
(個人タクシーだけど百武タクシーを見たことがあります。)
皆、読み方が同じなのでたどれば皆同じ一族ではないかと思います。
言い伝えでは、昔、家から見渡せるすべての田んぼが一族の田んぼだったらしいので分家に分けられた土地だけでも十分に企業を起こすことは可能だったんでしょうねぇ。

そうして考えると志摩守の時代にさかのぼっていろいろな推測もできます。
うちの一族は、もともと春日山を守護する一族だったらしいので…
想像に過ぎませんが(汗


[78] 初めまして。 投稿者:つっ君@鍋島在住 投稿日:2004/05/08(Sat) 03:13  

管理人さん他、皆さん初めまして。

予めこちらの主旨と全然違っていましたらすみませんm(_ _)m

佐賀市内に同名の建設会社があるのですが、佐賀の百年史みたいな写真記録集で明治〜に上滝屋?(瀧?)という遊郭があったそうです。この遊郭以外にもいくつか軒を連ねていたそうなのですが。場所は現・水ヶ江交差点の近く(楊柳亭の近辺?)だったのかな?詳しくは覚えておりません。

ちなみにその同名の建設会社さんも元を辿ればそういう方面だったと聞いた記憶があります。前々から興味を持っていた事項でしたので、ついつい書き込みをさせてもらいました。

既出だったらすみません。またこの私の記事は建設会社を冒涜したり名誉を棄損したりするつもりで書いたものではございません。ただ歴史を知りたいだけですm(_ _)m
ちなみに私の父が勤めておりました(もう退職いたしましたが)

それでは失礼します。

追記)上滝姓は佐賀は多いみたいですね!驚きました。"百武"姓は佐賀以外見ないというのは聞いたことはあったんですが・・・。

http://happytown.orahoo.com/tu-san/


[77] 富山へ 投稿者:yagyu 投稿日:2004/04/17(Sat) 16:26  

時間があれば一度富山へ行ってみたいと思っています。同じ読み方なので、いろいろ調べてみました。
大山町の上滝は常願寺川左岸の扇状地の扇頂部を占める旧町。地名は上手の滝の意と思われる。付近に大川寺(だいせんじ)、上滝不動尊、雄山神社、上滝発電所などがある。(日本歴史地名大系)
昔、立山山岳信仰が盛んだった頃、修験道天台系登山コース(常願寺をさかのぼって岩峅寺から芦峅寺を経て材木坂を通って弥陀ヶ原に出る)の入り口にあたるところです。
不動滝の岩には水に洗われて形がはっきりしないが不動明王の磨崖仏が彫られてあり、行基伝説から上市町の大岩山磨崖仏と兄弟という説もあるそうです。
観光案内みたいになりましたが、滝には不動尊や鎮守神の伝説が多いみたいです。我が家の滝の上にも古い祠があり代々守りついでいます。
全国の上滝の地名も調べてみました。(角川日本地名大辞典)
かみたき   群馬県高崎市上滝町
       兵庫県山南町上滝
かみたきむら 栃木県黒羽町上滝村
       福島県いわき市上滝村
かみだき   富山県大山町上滝
わたき    佐賀県武雄市上滝


[76] 富山の 投稿者:落葉 剛 投稿日:2004/04/14(Wed) 23:12  

富山県上新川郡大山町上滝の「上滝」は「かみだき」と読むそうです。
富山出身の後輩がいてたまたまこの地名を知っていました。
もし知っておられましたらごめんなさい。


[75] こんばんわ 投稿者:Taiki 投稿日:2004/04/05(Mon) 18:08  

おひさりぶりです、お元気ですか?九州きもう桜は散りましたね、また来ます。

http://www9.ocn.ne.jp/~t-sanaba/sansaku2.htm


[74] はじめまして! 投稿者:watahuru 投稿日:2004/03/10(Wed) 09:27  

 はじめまして。。。我が、WATAHURUの一門は、上瀧さんとは無関係です(瀧汗)。しかし!我が一族のルーツである大和の国の?~社に、古い瀧があります(ちょっと強引、笑)。瀧について、いろいろ調べていて、たまたまここにたどりつきました。
 P.S. ロック音楽で、何故か、ジミーヘンドリックスの名曲『MAY THIS BE LOVE』を聴くたびに、この?~社の瀧の記憶が
甦ります。上瀧一族の皆さんも、一度、この曲の歌詞をじっくり味わってみてください。何千年も絶えることなく流れ落ちる瀧は自分の一族を象徴しているように思えて、不思議な感動を覚えます。


[73] ちょっと訂正 投稿者:yagyu 投稿日:2003/12/11(Thu) 01:11  

小鹿島文書の「橘薩摩一族恩賞地大隅國種嶋配分事」は建武3年 1336年のものらしく、667年前頃になります。少し遡りすぎました。
主に図書館で「上瀧」についての史料を調べていますが、やはり少ないです。そして古文は難しい。また、ちょっと訂正という羽目になるかもしれませんが古記録、古文書に登場した「上瀧」という名前、地名を調べた範囲内で書きます。
 1334年(建武元年8月5日)小鹿島文書
  肥前国国衙目代召文の中の 上村片房丸・・・佐賀
 1336年(建武3年)小鹿島文書
  橘薩摩一族恩賞地大隅國種嶋配分事のなか           西山村分  房丸、十品 上瀧源六子息・・・佐賀
 1350年(観応元年6月10日)高志神社文書
  本告執行季幸申状のなかの 上瀧山萩尾合戦・・・佐賀
 1429年(明応元年)日本洞上連燈録
  越中州大川寺 月江応雲禅師。奥州人。縁契大徹 越之上瀧
  郡将大川寺請為開山始祖。(月江応雲が上瀧郡将に招かれて大
  川寺を開山)・・・富山 上滝町
富山は かみだき と読みます。
こうして調べていくと面白くて、不思議な苗字ですね。山奥の滝のそばで何代も住み続けていた、我が家のご先祖さまは武士(ぶし)ではなく山伏(やまぶし)だったのかも。


[72] なるほど♪ 投稿者:こうたき 投稿日:2003/11/19(Wed) 22:31  

なんとなく,HPをブラブラしていて,ここに行き着きました.
私は「こうたき」です.
確かに,今現在福岡県久留米市(筑後地方)に在住です.
自分の名前のルーツとか考えたことがなかったので,面白かったです!
また,あらたな情報があったら,教えてくださいね!
私も,なにか情報があったらお知らせしますね!


[71] はじめまして 投稿者:うえたき 投稿日:2003/11/13(Thu) 00:17  

何気なく検索していたらたどり着きました。ちなみに私はうえたきと読みます。石川県出身です。その昔アルバイトをしている頃、かみたきさんというかたと同じ部署で働くこととなり、周りは一時期混乱していたようです。自分のご先祖の話は聞いたことがなく、情報提供できないのが残念ですが、これを機会に調べてみます。それでは(^o^)丿


[70] 投稿者:yagyu 投稿日:2003/10/21(Tue) 21:32  

上瀧(かみだき)さん発見! といっても750年前の人ですが。
「小鹿嶋文書」の 橘薩摩一族恩賞地大隈國種嶋配分事 のなかで
西山村分
 房丸 十品 上瀧源六子息
の記述を見つけました。嘉禎2〜4年頃の文書らしいのですが
姓氏家系大辞典にも同様の記述がありました。しかし九州、しかも橘氏、広島からどんどん遠くなっていく・・・・原点に帰ってお寺から調べてみようと思っています。


[69] こんばんわ 投稿者:Taiki 投稿日:2003/10/20(Mon) 21:29  

石見はもう寒い(益田弁でさぶい)ですね、名字の件ですが
たぶん石見の方もどうも壇ノ浦で敗戦した落ち武者の家系だ
そうです、高滝さんの調べている関係ではないようです、
石見の匹見と言う土地柄は平家の落ち部落が大所帯であった
場所です、その為歴史は古いものの比較的ひっそりとした
山伝いです、西日本では奥出雲とならんで雪の多い場所、
かみだきさんも秘境の滝にちなんだ名前らしいと言う情報が
入りました、まだまだ調べる余地はありそうです、ではまた

http://www9.ocn.ne.jp/~t-sanaba/sansaku2.htm


[68] はじめまして 投稿者:こうたき 投稿日:2003/10/15(Wed) 04:27  

色々検索していたらここをみつけました。
ちなみに上瀧でこうたきです
父が福岡出身で今、両親は埼玉に住んでます。
僕は千葉で一人暮らしです。
家紋は3つの鎖です。
瀧は本来は棒三本でなく〒のような字です



[67] はじめまして 投稿者:yagyu 投稿日:2003/10/10(Fri) 23:49  

上瀧真佐子さんの姉です。よろしく。
「かみだき」のルーツを探してます。広島県には上瀧さんは少ないようですが、近辺におられるようでしたら教えてください。
檀那寺の住職さんの話では、鎌倉時代、下野国長井から田総荘(総領町)の地頭として来た 長井時広(大江広元嫡男)と共に関東からきた一族らしいのですが、関連がよくわかりません。
富山県上新川郡大山町上滝、群馬県高崎市上滝町、栃木県宇都宮市平手町上滝にお住まいの 上滝さん 上瀧さん、お知りあいの方、情報をお待ちしてます。
 また、それ以外の地域からでも結構です。お待ちしてます。
 家紋は 藤 ですが、その種類は調査中です。
 よろしくおねがいします。


[66] こんにちは 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2003/10/09(Thu) 18:20  

上瀧 真佐子様
はじめまして。(^^)
「かみだき」さんはTaikiさんの知り合いの方に続いて二人目ですね。
しかし、ご訪問頂いたのは初めてですね。ありがとうございます。
かみだきという地名がある事は知っていましたが、その名字の方が居られるとはTaikiさんに教えて頂くまで知りませんでした。

> お聞きしたいのですが、Taikiさんの知り合いの「かみだき」という方はどちらに住んでおられるのですか?
直接お聞きした事は無いのですが、恐らくTaikiさんのお近くの方と思いますので、石見(島根)辺りの方ではないでしょうか?
一度、Taikiさんにメールでお聞きしてはいかがでしょうか?心良く教えていただけると思いますよ。
お話では鎌倉時代よりの歴史がある「かみだき」姓ですが、それが事実であるならば私の調べている佐賀を中心とした上瀧氏とルーツが違うようですね。
ただ、私の調べている物が間違っている可能性は十分あります。実は怪しい点は色々あるんです。
名門清和源氏の流れを汲む秋山氏がルーツとなっていますが、秋山氏の資料には載っていない人物がいる。
またこの秋山氏自体も源氏の秋山氏ではなく、別の流れである可能性もあります。(これは可能性高いです)
調べていくと意外な所で一緒だったということも有り得ると思います。
それでは今後とも宜しくお願い致します。(^^)

落葉 剛さん
ず〜っと、レスしなくてごめんなさい。(^^;
私も最近、全然調査していません。このHPの存在を忘れかけてるくらいの勢いです。(笑)
> >上瀧泰嗣(佐賀市在住)さん
> おばあちゃんに聞いたら親戚だそうです(爆)
本当に意外な所で繋がってましたねぇ。しかも微妙に近い。
私もネットで同姓の方を探していて、結構大きい会社の社長さんがいたのでそれと父親に話したら、祖父の兄が創業した会社だったなんて事がありました。
祖父の兄って、言い方変えたら、私の父親の伯父さん。
「思いっきり親戚やん!」て感じです。(^^;


[65] 投稿者:上瀧 真佐子 投稿日:2003/10/06(Mon) 21:18  

お聞きしたいのですが、Taikiさんの知り合いの「かみだき」という方はどちらに住んでおられるのですか?


[64] 投稿者:上瀧 真佐子 投稿日:2003/10/03(Fri) 22:40  

我が家では<かみだき>と読みます。何時もまともに呼ばれたことがなく、子供の頃は結構嫌でしたが・・・・。生家のそばに瀧があります。お寺では、鎌倉時代からの歴史があると言われたのですが、その寺も鎌倉時代に建立されたもののようですが、過去帳が火事で焼失したらしくルーツを辿ろうにも困難を極めています。今ではこの名字にとても誇りを持っていますので、同じ名字の方を見るととても嬉しくなります。もっと詳しい歴史が知りたい!


[63] お久しぶりです。 投稿者:落葉 剛 投稿日:2003/08/19(Tue) 12:42  

どうも、落葉です。なんだかんだでぜんぜん調査できてませんがなんとなく学生生活楽しんでます。

>上瀧泰嗣(佐賀市在住)さん
おばあちゃんに聞いたら親戚だそうです(爆)
おばあちゃんの従兄弟の息子だとか…8親等はなれた親戚ということになりますね。

ちなみにHP作りました。上瀧とは縁もゆかりもないHPですがよろしくです(笑)

http://puteputeweb.hp.infoseek.co.jp/MyHP/top.htm


[62] いらっしゃいませ 投稿者:管理人@太郎  投稿日:2003/06/26(Thu) 21:44  

>こうたき さとしさんへ
はじめまして。ご訪問ありがとうございます。
皆さん、名前を呼ばれるときは同じ思いをしているようですね。(^^;
実は私も「こうたき」姓ですが、特に「こうたき」という読みは一般的にしないので、大変ですね。
しかし、この名字もこの様な歴史で脈々と受け継がれていったものだと考えると、逆に誇りにさえ思えますね。(^^)
それでは今後とも宜しくお願い致します。

>上瀧 一輔さんへ
ついにきましたね。「はなわ」ネタ・・・。(って、ネタか?)
こちら九州でも結構流れてますよ。でも関東ほどは強い関心無いかも。
と、いうのも都会じゃ面白く思える内容も、こっちじゃ「えっ?それって普通じゃなかったの?」と思える内容もあるからです。
それで自覚するのです。「やっぱりここは田舎なんだ」と。(^^;
実は私も最近聞きました「キャミソールって何?」(『服らしいもの』としか知りませんでした。)
まぁ、それだけのんびりしているのが佐賀のいい所なんですが。(^^)


[61] はじめまして 投稿者:こうたき さとし 投稿日:2003/06/22(Sun) 00:32  

なんとなく検索で打ち込んでみたらこのホームページ見つけました。現在大阪在住ですが佐賀県出身です。
昔からちゃんと名前を呼んでもらえず嫌な思いをしていましたが上瀧の歴史とかを見て少し自分の名字をうれしく思えるようになりました。またちょくちょく覘いてみようと思います。


[60] はなわ! 投稿者:上瀧 一輔 投稿日:2003/06/19(Thu) 04:46  

久々にカキコミさせて頂きます。

上瀧姓と直接関係の無いハナシで恐縮なんですが、
ベース漫談(?)の「はなわ」って人が唄っている
『佐賀県』という歌。コチラ関東では、毎日のように
ラジオでかかっています。佐賀県を皮肉っているようで
歌詞は、親父の実家を彷彿させる内容で笑って聞いてます。

管理人さん、変なカキコミでスミマセン…。
次回はジョウタキ姓について書きますね。


[59] こんにちは 投稿者:管理人@太郎  投稿日:2003/05/20(Tue) 20:47  

>こうたきさんへ
はじめまして。
お!南国宮崎ですね。(^^)
私が九州の中であまり行ったことがないのが鹿児島と宮崎です。(すいません)
しかしさぞ、お父上はご苦労されたでしょう・・・。(^^;
佐賀で「こうたき」姓はほとんどいない為に、必ず「じょうたき」と間違えられます。いかがでしょうか?
私もちょくちょく佐賀に行きますが、必ず間違えられます。佐賀でも間違えられないのは福岡に近い地域だけでしょう。
ちょっと興味深いのは九州地方に龍造寺氏が居られることです。
確か龍造寺氏(本家筋)は龍造寺伯庵の頃、会津藩御預かりになった為に九州地方に居られなかったはず。
なので、今現在九州に居られる龍造寺氏は会津地方に居られた子孫の方がこちらに移ったか、
もしくは別の流れの龍造寺氏か。(龍造寺隆信の子孫ではないという意味)
いや、確か後者もいないはずです。鍋島藩政が始まる時に都合が悪いので、龍造寺の名字は使わなかったはず。
村田、後藤、諫早、多久、江上、須古等(あと鍋島もいたかな?)に名字を代えていたと思います。
あと考えられるのは明治期に名前を上記の家が龍造寺に戻したかですね。
すいません。江戸期の歴史には詳しくはないもので・・・。(^^;
それでは今後とも宜しくお願い致します。(^^)

>落葉 剛さんへ
お久しぶりですね。ハンドル名換えられたんですね。
大学受験されてたんですね。って、三年経ってれば当たり前か・・・。(^^;
まずは大学合格おめでとうございます。(^^)
>あと、「上瀧泰嗣(佐賀市在住)さんという方がおられるようです」と〔42〕の記事がありましたが、佐賀大の教授です。
お、そういえばそうですね。これも何かの縁。授業が楽しみですね。(^^)
>佐賀城跡付近には古いお墓も多いので「両弾二島」のお墓が探したらあるかもしれません。が、どうでしょう?
う〜ん、どうでしょ〜う。(ミスター長嶋風)
と、冗談はさて置いて、私の考えでは多分無いだろうと思います。
と、いうのも「両弾二島」の「弾」の方、犬塚弾正のお墓ですが一応、居城であった森丘城近くにあるようです。
一応といったのは、実際にそこに遺体、遺骨が納められていない場合もありますので。
例えば戦死した武将の遺体は戦場に放置される事も多かったでしょうから、遺体を納めていない取り敢えずの墓を作る事もあったと思います。
ですが、そういう風に作られたお墓が意味がないかといえば、そうはならないと思いますけどね。
しかし実際、お墓探しは難しいでしょうね。文献などに埋葬地・菩提寺などの記載があれば早いんでしょうけど、
上瀧志摩守の場合、それが無いので、とてつもなく大変な作業だと思いますよ。
多分全然関係ない人の墓に踏み込む事もあるでしょうから、最後には霊に取り憑かれたりとか・・・。(怖)
ま、まぁ、頑張って下さい。(笑)
可能性でいえば、やはり塩田町五町田の寺などにあると考えたほうがいいと思います。

> 上瀧裕二さん、Taikiさんへ
今が一番いい季節ですね。そういえば私が初めて武雄の上滝に行ったのもこの頃でした。
新緑美しく、大変いい思い出ですね。(^^)
これからもゆっくりだとは思いますが、地道にルーツ解明をやっていきたいと思います。


皆様、レスが遅れて大変申し訳ありませんでした。
実は4月にパソコンを修理に出してまして、4月末頃に戻ってきたはよかったが、
バックアップを取っていた外付けHDが不調でデータ復帰が出来ず、一から手作業でインストール。(泣)
修理にはハードディスクの内容を全部消去して出してしまったので大変です。
幸いにもバックアップは完全に駄目ではなかったみたいで、大事なデータ類はなんとか無事でした。
またこのパソコンは仕事にも利用しているので、仕事を優先させていたら(仕事もお陰でおくれてしまって)、
結果的にこんなに遅くなってしまいました。大変失礼しました。m(_ _)m
皆さん、バックアップは確実にしておきましょうね。(笑)


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