上瀧氏交流掲示板
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[149] 筑前@上瀧さんへ 投稿者:yagyu 投稿日:2007/01/02(Tue) 23:33  

家系図に喜兵衛さんがのってたとのこと、驚いています。
最近忙しくなり、資料に目を通すこともなくなりましたが、今まで調べた資料では、九州の上瀧氏には複数の流れがあるようです。

武雄の上瀧・・・・後藤氏の家人、上瀧権兵衛の流れ
藤津の上瀧・・・・上瀧志摩守に代表される豪族
小城の上瀧・・・・千葉氏家臣、中村氏の家人
神崎郡の上瀧・・・犬塚氏の家人
北方町の上瀧・・・薩摩橘氏と関連がある上瀧源六の流れ 

源流は上瀧山がある武雄市か北方町らしいのですが、どのように分れ、流れていったのかわかりません。一筋縄ではいかない古い家系なのかもしれません。
家系図が残っていることは、とてもすばらしいことだと思います。大切になさってください。        
          


[148] yagyuさんへ 投稿者:筑前@上瀧 投稿日:2007/01/01(Mon) 20:57  

今晩は筑前@上瀧です。去年のyagyuさんの書き込みで、
>>陣屋村(三井郡北野町陣屋)・・・日本歴史地名体系 平>>凡社
>> 宝永7年(1710)床島堰渠築造を出願。正徳2年(1712)>>の普請では庄屋 上滝喜兵衛 は水道大工方を努めた。(床島堰渠志料)
>>享和3年(1803)当村の北野組大庄屋 上滝茂吉 が阿波国>>から玉藍の製法を学び、瀬下町の松屋より資金の融通をう>>け、久留米藩の協力を得てその製造を近隣村に広めた(三>>枝家文書)

>>管理人さんと関係がある方たちでしょうか。

家の家系図から『上瀧喜兵衛』見つけました。
家系図では
『貞晴 同 市左右エ門 後改喜兵衛 陣屋村住居』
とだけ書いてありました。
父親は上滝安右エ門貞元になってました。


[147] Re:はじめまして 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2006/12/28(Thu) 06:07  

> はじめまして。私は上瀧(ジョウタキ)です。
> こんなサイトがあるなんて・・・管理人さんに感謝です。
> 僕の大叔父さんは九州に住んでいるのですが、
> 小さいころに行ったきりなので、また行って色々調べてきたいです。

Jhon瀧さま、はじめまして、管理人の龍魁です。
ご訪問いただきまして、有り難うございます。レスが遅くなり失礼致しました。
趣味が高じて調べている程度で、まだまだ勉強不足の部分が多分にありますが、
末永くお付き合いいただけたらと思います。今度とも宜しくお願い申し上げます。


[146] はじめまして 投稿者:Jhon瀧 投稿日:2006/12/22(Fri) 10:18  

はじめまして。私は上瀧(ジョウタキ)です。
こんなサイトがあるなんて・・・管理人さんに感謝です。
僕の大叔父さんは九州に住んでいるのですが、
小さいころに行ったきりなので、また行って色々調べてきたいです。



[145] 筑前@上瀧さまへ 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2006/12/17(Sun) 17:17  

はじめまして、管理人の龍魁です。
ちょっと野暮用で四国に行っていたりしまして、お返事が遅くなってしまいました。
ご訪問いただきありがとうございます。感激して頂いた様で、良かったです。(^^)
私もコウタキですから、恐らくほとんど先祖は同じ流れかと思います。
また筑前@上瀧さんの方で家系図が分かりましたら、教えて頂ければ幸いです。
平安時代からというと、当サイトで紹介している系図では新羅三郎辺りに遡りますので、大変貴重ですね。(^^)

それでは今後ともどうぞ御贔屓に宜しくお願い申し上げます。


[144] Re:[128] 上滝(こうたき)喜兵衛・茂吉 投稿者:筑前@上瀧 投稿日:2006/12/10(Sun) 23:39  

> しばらく九州を離れて全国の上滝の地名の由来を調べています。佐賀と違って、資料が少ない(殆どない)のがつらいところですが、偶然、江戸期の「こうたき」に出会いました。やはり九州、北野町です。

三井郡北野町は私の父親の実家になります。
ますます興味が湧いてきました。私もこの流れかもしれませんね。



[143] はじめまして 投稿者:筑前@上瀧 投稿日:2006/12/10(Sun) 22:51  

はじめまして、私も上瀧(こうたき)です。
ネットで自分の名字を検索してみたらこのサイトがヒットしました。
こんなサイトがあったなんて!!ちょっと感激しました。
自分のルーツか分かるなんていいですよね。
うちの実家にもかなり昔からの(平安時代?)ぐらいからの家計図がありました。正月実家に帰ったらちょっと家系図調べてみます。



[142] こんばんは 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2006/08/19(Sat) 03:23  

>タッキーさん
はじめまして、管理人の龍魁です。
現在小休止中になっておりますが、少しずつ続けて参りますので、
末永くお付き合いいただければと思います。

ご覧いただいている皆様へ
現在更新が滞っていて、管理人はなにをしているんだ?と思われていると思いますが、
普通に生活しとりますので、ご心配はいりません。(^^;

yagyuさんには特に色々お調べいただいて、大変助かっております。この場を借りてお礼申し上げます。
元々、先祖調べとは急いで調べても分かるという分野ではございませんので、焦れったくはありますが、時間を掛けて調べるしかありません。
なのでゆっくりではありますが、少しずつ調べて行こうと思っています。
勿論、閉鎖等も全く考えておりませんので、交流の為にも御利用いただければと思います。(^^)


[141] 無題 投稿者:タッキー 投稿日:2006/08/19(Sat) 01:53  

 はじめまして、タッキーと申します。会社の同僚に「こんなサイトあったよ。」と、urlが送られてきて、サイトを拝見させていただきました。自分の苗字の由来が佐賀県だと初めて知りました。たしかに、以前ひい祖母さんが佐賀の出身だと聞いたことがあります。自分はいま東京に住んでいますが、いつかは自分の起源の佐賀県を訪れたいと思います。今後も貴重な情報を全国の「上瀧」に発信していただきたいと思います。


[140] 竜造寺胤直 戦死 投稿者:吉富正和 投稿日:2006/05/13(Sat) 13:30  

天文14年正月 竜造寺胤直公 嬉野市塩田久間冬野にて敗北して戦死。

http://yositomi@pastel.ocn.ne.jp


[139] 上 ・ 瀧 投稿者:yagyu 投稿日:2006/05/07(Sun) 23:54  

 これまで資料に基づいて調べてきた上瀧ですが、以下の書き込みは我家のいいつたえ、いわば口伝ですので半分物語だと思って下さい。
 祖父は上瀧の名前は「上」と「瀧」という”うえ”を意味する2つの名前が訓・訓で合わさったものだと話していたそうです。また、遠縁の老人が一度、先祖のことを問わず語りに話してくれましたが、夢物語のようでまともに聞いてなくて、キーワードしか憶えていません。出身は京都の横、大伴家持の大伴、鈴鹿、山中鹿之助。その地から移動、甲斐→千葉→鎌倉→広島へと、だいたいこのような壮大な内容でした。
 若い頃は家系とかルーツに興味もなく、忘れかけていましたが、次の世代にバトンタッチする年代に入り、このままではいけない、たくさんある古い墓の一つ一つが一体誰なのか、自分とどう繋がっているのか本気で知りたいと思ってた矢先、このサイトに出会い、「同じ名前の人がいるなんて!」と驚き、うれしくなりました。しかし、我家は鎌倉以来ずっと同じ場所に住んでいるらしく、管理人さんの佐賀とは流れが違うようでした。
 ただ、姓氏家系大辞典にでてきた上瀧(かみだき)源六が佐賀なので、糸口になるかもしれないと調べるうち、面白くなり九州にはまってしまいました。肝心の広島、富山、鎌倉から何もでてこなくて半ば諦めていましたが、上滝豊久さんからの情報で、木瓜紋を調べるうち、近江国甲賀郡に辿り着きました。
 「京都の横、大伴、鈴鹿、山中鹿之助」のキーワードが一致しました。近江国は滋賀県。甲賀郡瀧(多喜)邑より起こった瀧氏は大伴氏族で、山中鹿之助は甲賀郡山中より起こった橘姓氏族です。近くに鈴鹿山脈があります。地名が残っていれば移動の証拠となるのですが、甲斐の国、千葉とも地名は「滝」はあっても「上滝」の確たるものはありません。(千葉の横芝町に上滝ノ下”かみたきのした・うえたきのした”はありますが、ちょっと強引かも)。
 上氏は渡来系の古代氏族とか、賀美、加美の地名から起こった氏族とか、いろいろ説があり、はっきりとわかりません。いずれせよあまりにも遠い昔です。

 真偽は別として先祖からのいいつたえは、埋もれてしまわないように次世代へ大切に伝えるのが、自分の世代の務めだと思っています。3年間、このサイトで皆様からの情報を得ながら、国会図書館に通えたことは上瀧を調べるうえで、天佑であったと感謝しています。まだ目を通していない資料は山のようにありますが、残念ながら、転勤で図書館とはお別れになります。
 地元の図書館の郷土コーナーにひっそりと置かれている小冊子にも、大きな図書館にはない貴重な資料があります。機会があれば、是非目を通してみて下さい。

 最後に、古い墓の文字を読む簡単な方法をひとつ。雪が積もった日、まず墓の主に手を合わせてから墓石に雪をすりこみます。くぼんだ部分に雪がはいりこみ文字が浮かびあがります。後始末はいりません。溶ければきれいになります。季節限定ですが、私はこの方法で200年以上前の墓石を解読できました。
 一度お試し下さい。




[138] 地名 投稿者:yagyu 投稿日:2006/05/06(Sat) 17:06  

 平成の市町村大合併により、従来の地名が変わったり消えたりしています。地名はそれぞれに由来由緒があり、地形、歴史的背景、支配していた氏族など成り立ちは様々ですが、地名と同じ名前を持つ武将、氏族は少なくありません。

上瀧(滝)の地名を北からあげてみます。

宮城県 伊具郡丸森町   上滝(かみだき)・・岩戸系神楽の上滝十二神楽を伝え、駒場滝不動尊の4月祭日に演じられる。

福島県 いわき市遠野町滝 上滝村(かみたきむら)

栃木県 黒羽町北滝    上滝村(かみたきむら)・・近くに銭室塚古墳群(6世紀後半)あり。
    藤原町滝     上滝(かみたき)・・近くに滝温泉、鬼怒川温泉あり。
    宇都宮市平出町  上滝(かみたき)

群馬県 高崎市上滝町   上滝村(かみたきむら)・・伊野川沿いに古墳時代〜奈良平安時代集落の遺跡あり、又、滝宮神社あり。

富山県 上新川郡大山町  上滝(かみだき)・・上滝不動尊あり。

兵庫県 氷上郡山南町   上滝(かみたき)・・古代からの多紀郡あり。

佐賀県 武雄市朝日町甘久 上滝(わたき)・・上滝神社あり。近くに弥生中期、古墳時代の遺跡あり。

 明治以前の村、大字、小字の地名ですが、割と広範囲に分布しているようです。これ以外にもあるかもしれません。地名に因んだ上瀧さんがいるのではと期待できそうです。
 参考書籍 日本歴史地名体系・平凡社  角川日本地名大辞典



[137] サイトを移転しました。 投稿者:Taiki 投稿日:2006/04/01(Sat) 21:51  

「陰陽散策」 http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/ のTaikiです(^^)この度、ホームページを移転しパワーアップしました、今後も宜しくお願いします。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~onmyousansaku/


[136] 無題 投稿者:どうしょう 投稿日:2006/03/31(Fri) 20:32  

永田左京亮が源右衛門と同一人物であることは間違いないようですね。yagyuさんの遠いご先祖様と私がお世話になっているお寺を建立した永田氏が戦国時代ともに戦場を駆けていたとは本当に感慨深いものがあります。yagyuさんのおかげで今まで分からなかった、お寺のルーツを知ることができ本当にありがとうございました。これは余談ですが、私が僧侶になるために、修行していたとき、たまたま一緒の班になった方の話です。その方はソウルに仕事で行かれて、初めて行った場所にも関わらず、街のどこそこには何があるっていう風に、不案内の場所にもかかわらず地理が分かったらしいです。帰国後、著名な霊能者にその話をしたところ、「前世であなたが朝鮮の役に行ったからですよ」と言われたそうです。私は前世とかは信じていないですが、この時ばかりは不思議な因縁を感じました。yagyuさんともネットでのやり取りではありますが、やはり不思議な縁を感じます。ちなみに私の家に伝わる家系図によりますと、私のご先祖様は二階堂貞藤です。どちらにしても武士の家だったようですね。


[135] 上瀧孫左衛門 投稿者:yagyu 投稿日:2006/03/29(Wed) 23:37  

文禄元年(1592)4月、秀吉の朝鮮出兵が始まり、肥前鍋嶋氏からも12000人余りの武士たちが渡海します。

鍋嶋直茂家から
 竜造寺六郎次郎家久(のち多久安順)、手勢800余人と共に渡海
 永田源右衛門・永田十兵衛

鍋嶋平五郎組から  上瀧兵太郎

鍋嶋三郎兵衛組(藤津衆)から 上瀧勝次郎(のち孫兵衛)

 おそらく上瀧孫左衛門は、多久安順の手勢の中にいたものと思われます。直茂公譜の文禄元年11月10〜16日、咸興府両度御合戦の項で「此節戦死ノ者、江副新太郎、副嶋次右衛門、詫摩宗助、西山四郎左衛門、上瀧孫左衛門以下数十人ト、 多久戦功記」と記されています。
 多久戦功記は残念ながら、佐賀の図書館か、東大の資料室にしかないので気軽に見られませんし、私の方も少し時間がなくなりつつあります。

 直茂公譜の戦死者を見てて、ふと気がついたのですが、○○右衛門・前名丹後守、□□左衛門・前名伯耆守、△△左衛門・対馬守。たしか永田左京亮は源右衛門だったはず、としたら、もしかしたら、この上瀧孫左衛門は 上瀧志摩守盛員ではないかと。

 史料はなく、臆測でしかありません。しかし秀吉の時代になると、もはや○○守は大名でないと名乗られなくなり、代わって右衛門、左衛門が家中では高い地位をあらわしていたように見受けられます。たとえ志摩守以外の人でも、ある程度以上の武士だったのでしょう。

 永田左京亮(源右衛門)も3ヶ月後の2月中旬に、同じ咸興で戦死します。もし孫左衛門が志摩守だとしたら、共に戦国時代を駆け抜け、同じ異国で終焉を迎えたのも奇縁と、感慨深いものがあります。
  参考書籍 直茂公譜・直茂公譜考補・北方町誌・多久市史
 



[134] 永田氏 2 投稿者:yagyu 投稿日:2006/03/11(Sat) 02:26  

永田氏を調べていくと、いままで見落としていた上瀧氏を見つけることがあり、かえって感謝するくらいです。もうすこしお付き合い下さい。

天正4年2月 横造城の戦い(有馬VS竜造寺)で藤津衆のうち、はじめから竜造寺方に加わっているのが辻氏、最後まで有馬方に従ったのが岩永氏、原左近大夫。はじめ有馬方に従い、戦い半ばで竜造寺方についたのが嬉野氏、原豊後守、永田備前守、永田左京亮通清、吉田氏、久間薩摩守、上瀧志摩守盛貞。この原因については、後藤氏との関係が考えられます。

永田氏は後藤家文書の中で天正2年6月、永田民部大輔通定、永田左京亮通清、辻、志田、久間図書亮盛直らと連名で、後藤貴明に対して起請文を出しています。上瀧氏もそうですが、永田氏もかなり前から後藤氏と交流があったように思えます。

横造城の戦いは竜造寺方の大勝利に終り、有馬氏は高木へ敗走。藤津は有馬氏から竜造寺氏へと支配が変わります。藤津衆はまず既存の領地を認められます。鍋島豊前守信房がリーダーとして鹿島に据えられ、有馬氏再侵入の備えとして森岳城、松丘城に上瀧志摩守盛員(貞)、永田左京亮通清、辻甚七郎を格番にして入れ置かれる(仕事でしょうね)。

その後、藤津衆は鍋島豊前守信房旗下で各地に転戦していきます。
天正8年(1580)肥後、柳河出陣。この合戦で永田氏は武功を認められ、先祖相伝の旧領肥後国永田郷を与えられています。このことは隆信公幕下帳に記述があります。肥前、肥後に領地が存在したことになります。
  150町  長田左京亮
  100町  上瀧志摩守
天正11年(1582) 深江出陣。深江城主安富氏を救う。
  12年3月  島原合戦出陣(竜造寺VS島津・有馬)。この戦いで竜造寺隆信は圧倒的な兵力で臨んだにもかかわらず油断したのでしょう、まさかの敗戦。自身は戦死します。永田左京亮通清、上瀧志摩守盛員は鍋島豊前守信房の指揮のもと、シンガリで参戦していますが、戦死者の中には名前はありません。しかしこの合戦以降、歴史書から2人の名前は消えます。
永田氏の戦死者として、永田清左衛門の名が見えます。

永田備前守純晴の長男が 大蔵(清右衛門・島原合戦々死)
        次男が 左京亮(源右衛門・朝鮮で戦死)
となっている文献もありますが、大蔵について藤津郡志襍爼では「文禄中、鍋島直茂に従い朝鮮に出陣。のちに蓮乗院の僧となる。直澄公が吉浦至誠山に隠居した頃、重用された」とあります。また、直茂公譜にも島原合戦以後の項に名前が見えます。
 昔は官位のみの記述や、名前を途中で変えたりしたので大変わかりにくくなっています。

時代は、竜造寺氏から鍋島氏そして豊臣秀吉の全国統一へと大きく動いていきます。藤津衆も次世代の名前が出てきます。朝鮮での戦、そして戦死者。直茂公譜のなかで偶然みつけたのが、
上瀧孫左衛門、朝鮮で戦死。この人は誰なのか、上瀧勝次郎(孫兵衛)なのか。すこし時間がかかりそうです。
 




[133] yagyu殿へ 投稿者:どうしょう 投稿日:2006/03/10(Fri) 10:56  

 わざわざ永田氏について調べていただきありがとうございます!! 確かに、違う名前の同一人物がいるようですね。私の寺坊(お寺)には、確かに、永田備前守純晴と永田源右衛門の墓があるようです。しかし、藤津郡衆の名前ですが、塩田近辺に今でも地名として沢山残っているので、なるほどって感じです。本当に貴重な情報ありがとうございます。上瀧氏についても、何か情報が入ればお知らせします。
 そういえば松ヶ丘城だとは思うんですが、今でも五町田の山中で井戸や石垣の後だけは残っているようです。何も整備はされていなようですけど。


[132] 永田氏 1 投稿者:yagyu 投稿日:2006/03/05(Sun) 02:23  

様々な文献に藤津衆として、嬉野、原、永田、吉田、久間、辻、上瀧の名前がセットで出てきます。塩田地方は大村、有馬、千葉、後藤、竜造寺など戦国武将の攻略の交差点みたいな場所で、支配者が変わるたびに藤津衆は一族の存亡をかけて苦慮していた様子が伺えます。

永田氏は 藤原姓原氏族譜 によると
 家一(原讃岐守)から4代目の家順(永田備前守・入道覚蓮)が家祖であるとされています。建武3年(1336)足利尊氏に属して多々良浜で戦功をあげ、肥前国長嶋庄の内と肥後国雌庄永田郷を恩賞としてもらっています。長嶋庄に別館を建てて住み、雌庄永田の地士を館辺に移したのが永田縄手の由縁だそうです。

時は移り、永正11年(1514)有馬氏が藤津郡に侵攻し、藤津衆は従属します。1550年前後が有馬氏全盛時代です。
永禄5年(1562)丹坂の戦い(有馬VS竜造寺)では藤津衆は有馬方として参戦しています。しかし、この戦で有馬氏は敗れ、以後徐々に勢力が衰え塩田地方の支配はゆるくなり、後藤氏や渋江氏の進出を許すことになっていきます。

天正4年(1576)後藤氏と提携した竜造寺氏が藤津に侵攻開始。横造城の戦いになります。このあたりから永田、上瀧の名前が歴史書の中に登場してきます。

文献に登場する永田氏(ダブっている可能性あり)
 永田備前守純晴・・・はじめ有馬氏に従いのちに竜造寺氏に従う。元和3年(1617)美濃村の寺に埋葬。
 永田左京亮通清・・・横造城、筑前、筑後、肥後、島原に転戦、上瀧志摩守盛員と一緒に出てくる。
 永田大蔵・・・???
 永田源右衛門・・・文禄2年(1593)2月16日朝鮮かん興にて戦死。
 永田清左衛門・・・天正12年(1584)3月24日島原にて戦死。
 永田太郎右衛門・・左京亮の嫡男?
 永田市兵衛(十兵衛)・・左京亮の次男?朝鮮にて戦死。
 永田民部大輔通定(のち永田河内守通定)・・後藤家文書にでてくる。天正2年(1574)・天正13年(1585)

文献によってまちまちになってる人もいるので少し整理してみます。上瀧氏とともに戦場を駆け巡っていたようですね。
 参考文献 歴代鎮西要略・北肥戦誌・五町田村誌・鹿島市史・藤津郡誌・後藤家文書・武雄市史



[131] 追記 投稿者:どうしょう 投稿日:2006/02/15(Wed) 22:50  

森丘城があった塩田町にも上滝(じょうたきと読みますが)という姓は数軒あるようですが、上瀧氏と関係があるのかは分かりません。また、永田左京亮ですが、森丘城勤務ではなく、城番が正しいです、はい(^^;)


[130] はじめまして 投稿者:どうしょう 投稿日:2006/02/15(Wed) 22:27  

 はじめて投稿します。何気なく自分のお寺のルーツを調べていますと、このサイトへたどり着きました。お寺は佐賀県嬉野市塩田町にあります。今現在は塩田町塩田という地区になりますが、昔は五町田村でした。お寺の建立は元和三年(1617年)で、そのお寺を建立したのが当時塩田町美野を治めていた永田大倉守であり、息子の永田左京亮(源エ門)が文禄二年二月十六日に朝鮮の役に出兵し感興にて戦死しています。その息子の菩提を弔うためにお寺を建立したそうです。残念ながら、お寺は百年後に焼き討ちにあい消失してしまい、今現在は当時を知る資料は皆無ですが、永田左京亮を調べていると、森丘城または松ヶ丘城にて勤務(というのでしょうか?)していたそうなので、永田氏について何か知っている方がいないかなと思いメールしました。


[129] アドレスを変更しました。 投稿者:武富 投稿日:2006/02/05(Sun) 15:51  

上瀧 様

お世話になっております。武富です。
この度、諸般の事情によりホームページのアドレスを変更しました。
お手数をおかけしますが、リンクにおけるアドレス(下記が新規)の変更をお願い致します。

http://www.bbweb-arena.com/users/takedomi


[128] 上滝(こうたき)喜兵衛・茂吉 投稿者:yagyu 投稿日:2006/01/09(Mon) 00:05  

しばらく九州を離れて全国の上滝の地名の由来を調べています。佐賀と違って、資料が少ない(殆どない)のがつらいところですが、偶然、江戸期の「こうたき」に出会いました。やはり九州、北野町です。

陣屋村(三井郡北野町陣屋)・・・日本歴史地名体系 平凡社
 宝永7年(1710)床島堰渠築造を出願。正徳2年(1712)の普請では庄屋 上滝喜兵衛 は水道大工方を努めた。(床島堰渠志料)
 享和3年(1803)当村の北野組大庄屋 上滝茂吉 が阿波国から玉藍の製法を学び、瀬下町の松屋より資金の融通をうけ、久留米藩の協力を得てその製造を近隣村に広めた(三枝家文書)

管理人さんと関係がある方たちでしょうか。

>>126 柏紋は9個目の家紋ですね。ちょっと異色の家紋ですが、上滝神社、上滝不動尊があるので柏紋もありかなと思っています。
125の続きです。
柏紋(かしわ)
?@柏の葉から
 昔、食器のかわりに葉が大きく肉厚で、お皿に適していた柏の葉を使っていた。時代が進み、食器が陶製になっても神事には変わらず柏葉が使われ続けたことから、柏は神聖な木として尊重され、神職の家の家紋となっていく。
?A 神社系では、伊勢皇大神宮、尾張熱田神宮、備前吉備津宮、筑前宗像神宮、に奉仕していた大宮司、社司など神職の家の家紋。恵比寿の神紋(商売の神様)。
 公家では神道で朝廷に仕えた卜部(うらべ)氏。
 鎌倉時代では奥州葛西氏、山内(首藤)氏(尾張、美濃、丹波など八ヶ国)
 江戸時代では大名が山内(首藤)、牧野、中川、蜂須賀の四氏。幕臣はかなり多くの家で用いられいた(40家とも100家とも)
?B藤原氏支流 清和源氏支流 藤原氏秀郷流

柏紋はいろいろ種類があり、見て楽しめる家紋のひとつですが、三つ柏と抱き柏が多いようです。 


[127] あけましておめでとうございます 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2006/01/02(Mon) 17:45  

新年明けましておめでとうございます。本年も皆様、宜しくお願い致します。


[126] (こうたき きよみ)です。 投稿者:上瀧 聖美 投稿日:2005/12/27(Tue) 00:21  

初めまして!びっくりしました!
こんなサイトがあるなんて!
私の先祖は胃腸薬「上瀧」という名前の漢方薬を作っている人でした。それより古い情報はわかりません。墓は東京の高田馬場にあります。かなり古い墓で聞いた話では250〜300年は経っているとの事。家紋は「丸に三つ柏」です。この柏紋は日本十大家紋の一つらしいですよ。なにか情報を頂ければ幸いです。


[125] 家紋 投稿者:yagyu 投稿日:2005/11/10(Thu) 01:05  

上瀧の家紋として、8種類出てきています。三ッ鎖・洲浜・九曜・片喰・木瓜・蔦・藤・五弁の花びらのようなもの。
それぞれ調べてみましたが、家紋は、同じというだけで先祖家系を特定できる確たるものではなく、同族、主従、集合体、地域などの要因、各家の選択肢の都合などが複雑にからまったものであること、また様々な説があり、以下の書き込みもかなりアバウトなものであることを最初にお断りしておきます。
 参考書籍  日本紋章学 沼田頼輔著・家紋大図鑑 丹羽基二・日本家紋大鑑 能坂利雄
  ?@ 由来、歴史
  ?A 代表姓氏、分布
  ?B 使用している姓氏 多い順から上位3〜4位 

三ッ鎖 大変申し訳ないのですが、私自身、形がよくわからないので、たぶん 輪違紋(わちがい)の三つつなぎ金輪か三つ輪違ではないかと推定しました。間違ってたらごめんなさい。
?@ 丸い輪から。
  文様としては平安時代から。家紋として出てきたのは南北朝。
?A 高階氏(高氏) 戦国時代末には脇坂氏
?B 藤原氏支流  宇多源氏佐佐木流  清和源氏支流

洲浜(すはま)
?@ 河口付近の浜辺にできる島形の洲
  文様としては平安時代から。
?A 小田氏の代表家紋。小田氏は藤原道兼の後裔(肥前の小田氏も同族)。常陸(茨城県)を中心に下野(栃木県)上野(群馬県)など北関東に多い。
?B 藤原氏各流  清和源氏各流  宇多源氏各流

九曜(くよう)
?@ 九曜とは古代インドにおいて占いに用いられた九つの星。月星を崇拝する妙見菩薩信仰にもとづいた紋章で、平安時代から信仰、文様とも存在している。
?A 平氏良文流の出である氏族が多く用いた。千葉氏およびその一族(肥前の千葉氏、犬塚氏も同族)。上総下総(千葉県)、陸奥(宮城県)、相馬(福島県)など千葉氏の勢力範囲に多い。
?B 藤原氏支流  平氏良文流  清和源氏支流  藤原氏秀郷流

片喰(かたばみ) 
?@ 植物のカタバミから
  文様としては平安時代より、家紋としては南北朝の頃から。
?A 各姓氏を通じて広く用いられている。剣が入っているのは武家が多い。戦国時代は長曾我部氏、徳川時代は酒井氏など。
?B 藤原氏支流  清和源氏支流  藤原氏秀郷流

木瓜(もっこう)
?@ この文様はなにをもとにしたのかわからない。中国渡来の文様ともいわれている。神社の御簾(みす)の縁どりの文様によく描かれていて、その布を帽額(もこう)といってたことから、もっこう紋になったという説もある。
模様としては奈良朝時代以前から、家紋としては平安時代後期、公家の徳大寺家が使用。
?A日下部氏、伴氏、紀氏から出た氏族の代表家紋。戦国時代は朝倉氏、織田氏、有馬氏など。但馬(兵庫県北部)、近江(滋賀県甲賀郡)、越前(福井県)など多く分布。
?B 藤原氏支流  藤原氏秀郷流  藤原氏為憲流  清和源氏支流

蔦(つた)
?@ 植物の蔦から
  文様は平安時代より、家紋の始まりははっきりしないが徳川時代になり多く用いられた。
?A 松平氏の代表家紋。もともと葵だったが徳川氏をはばかり蔦紋に変えた。大名では藤堂氏、六郷氏など。
?B 藤原氏支流  平氏支流  源氏各支流

藤(ふじ)
?@ 植物の藤から
  文様は平安時代より。公家藤原家の家紋としていたのは以外に少なく10%に満たない。
?A 藤原家から出た武家の藤原氏利仁流、秀郷流の代表家紋(肥前後藤氏は利仁流)
?B 藤原氏支流  藤原氏秀郷流  藤原氏利仁流  平氏支流

五弁の花びらのような家紋
 似たような家紋は、五つ葵、梅、唐草、桔梗、桜、撫子、五つ木瓜がありますが、実物をみていないのでわかりません。ただ、
牛津の近くなら藤津郡の土地柄、有馬氏の関係で、五つ木瓜(織田瓜)の可能性が高いのではないでしょうか。
  
いろいろ家紋をみてきて、日本の家紋はシンプルで美しいと改めて感じました。猛々しい戦国武将でさえ、花、草、星、鳥など優しい家紋を使っています。これからも大切にしていこうと思います。


  


[124] 初めまして 投稿者:上瀧迅 投稿日:2005/10/26(Wed) 21:56  

こんばんは、初めて書き込みました。
自分の苗字を試しに検索してみたらこんなすばらしぃ
サイトに出会えるとわ!!
管理人さんこれからもがんばってくださいね☆
自分はどうしても上瀧家の家紋が見たいです!
お願いします


[123] ハンドルネーム変更しました 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2005/09/29(Thu) 19:17  

こんばんは、管理人の太郎 改め 上瀧龍魁 です。
この度、ず〜っと取り敢えずのハンドルネームであった「太郎」を
「龍魁」(りゅうかい)へ改める事に致しました。
今後はこの名乗りで発言していきますので、宜しくお願い致します。

競艇好きさん、cinemaさん、はじめまして。
どうぞ今後とも御贔屓に宜しくお願い致します。


[122] びっくりです 投稿者:cinema 投稿日:2005/09/16(Fri) 09:27  

こんにちは、はじめまして。
上瀧と申します。
読みは、うわたきです。

何気なく自分の名字で検索してみまして、こちらのサイトを知りました。
今まで上瀧氏の家系の事などを良く知らなかったので、大変驚きましたし、勉強になりました。

ちなみに肥前産です、私。



[121] 競艇選手 投稿者:競艇好き 投稿日:2005/09/04(Sun) 23:20  

競艇にも「上瀧和則」(登録番号3307)という選手がいます。
佐賀の選手です。

このサイトで紹介されている上瀧氏の家系かもしれませんね。


[120] リンクありがとうございます。 投稿者:武富 投稿日:2005/08/12(Fri) 20:08  

上瀧 様

こんばんは。武富です。
リンクありがとうございました。

今後とも、よろしくお願い致します。

http://www.sagataketomi.com/


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