上瀧氏交流掲示板
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[179] 投稿者:yagyu 投稿日:2007/07/26(Thu) 14:33  

五年乙酉。 千葉喜胤興有馬純長。相闘於横邊田。
須古城主平井山城守經則屬有馬而逼千葉。千葉衆敗
於大町郤于砥河。有馬平井追討来。亦相闘於田利野
敗矣。有馬衆乗勝遂北。千葉方大町土佐守砥川刑部丞
陣内上瀧以下武士數人。殲於八幡山砦。

大永5年(1525年)歴代鎮西要略の原文です。
以前、討ち死にと書き込みましたが正しくは「八幡山砦において殲する」です。
「殲」このぶっそうな表現を作者がどのような時に使っているのか
1184-1557年まで拾ってみました。10ヶ所ありました。
例をあげると、
平氏一族の滅亡、神風による蒙古軍の壊滅、北條一族の滅亡、
天文14年(1545)龍造寺氏本家一門全員が馬場頼周により惨殺された時、同年、今度は馬場頼周親子が討たれた時。
普通の戦死ではなく、系統の断絶につながる壮絶な殲滅として使われているようです。

以下推測になります。
この戦いで、上瀧氏(おそらく北方、源六の流れ)は一族の殆どが戦死し、存亡の淵に立たされたのではないかと。
残された数少ない一族の者達は養子か婿養子をたてて、家を存続させようとして
主家である橘中村氏に頼みます。白羽の矢を立てられたのが秋山源次郎。上瀧義重と名乗り中村氏から領地を安堵されます。

この時のものかわかりませんが、橘中村文書に「上瀧のたうせう知行分注文」が載っています(注文=記録)。


[178] 管理人様、yagyu様、田中様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/25(Wed) 19:09  

そうだったのですか!秋山氏と上瀧氏の繋がりはやはりあったのですね。先祖が清和源氏だろうと石川五右衛門であろうと構わないのですが、正しいルーツが分かるのは嬉しい事です。久留米の秋山氏とコウタキ氏の関係が分かって胸のつかえが取れた気持ちです。3人様に厚くお礼申し上げます。しかし皆様はよく調べられていますね。私は教えて貰うだけです。久留米の秋山氏が九州探題についてきた秋山光長のながれか?別系統なのかは今後の課題ですね。先日ネットの中で《秋山元吉親子は豊臣秀吉から目の仇にされ、秋山通総の出世とは対照的に瀬戸内での居住を許されず筑前や長門に移住する事になった》というのを見つけました。1278〜88年に幕府の命を受け西讃岐10カ所を領する事になった秋山光季の流れだと思われます。筑前に秋山という地名があったらしのですが北野町の秋山氏と繋がりがあったのか?話は変わりますが、【1580年柳川出陣の功により上瀧志摩守100町、長田左京亮150町の土地を得る】とありましたが、もしかしてこの100町が大和町久池井ではなかったのか?と感じています。藤津郡の五町田から鍋島本藩に出仕は遠すぎます。志摩守と兵太郎は本藩に仕え、重清は暫くは五町田に住み藤津衆として参戦し後に本藩に仕えたのでは?と考えられます。五町田の土地と大和町久池井の土地が交換になったのか疑問です。新しい情報をお待ちします。


[177] 探題 投稿者:yagyu 投稿日:2007/07/25(Wed) 11:07  

動乱の南北朝(1336-1392)が終り、室町幕府は九州の統治を安定させようと、
1396年、一族の渋川満頼を九州探題に任じます。秋山氏もその時同行してきたのでしょうか。
綾部城に入り、任務遂行の拠点とします。

探題とは幕府の出先機関で(今でいえば九州支社)、自前の領地、収入、兵力が十分確保されてない所への赴任。
幕府の権威だけでは、独立性の強い九州の豪族を押さえ込むのは難しく、筑前の少弐氏、筑後の大友氏、肥後の菊池氏などは公然と反抗するようになります。
すこしヤバイと感じた幕府は、中国の大内氏に九州探題の後見役をたのみます。
一定の効果はあったものの動乱はおさまることなく、戦国時代に突入していきます。

千葉家内紛では西千葉方を、少弐氏が、
東千葉方を、探題渋川氏、大内氏、筑前の秋月氏が、
あと押しし、代理抗争の様相を呈していきます。
当然、家勢は衰えていき、高木の有馬氏がたびたび杵島郡をうかがうようになります。

1525年、歴代鎮西要略に出てくる上瀧氏は、東千葉の千葉喜胤に従軍し、有馬氏と交戦します。
1514年に藤津の上瀧盛氏は有馬氏に従属してるので、たぶんこの戦いにも有馬方として加わっていたのでしょう・・。





[176] Re:[174] 上滝家のル−ツ 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/07/24(Tue) 15:34  

> > はじめまして。田中と申します。
> 私の本家は、福岡県久留米市北野町中で菩提寺が浄土宗西方寺です。
> この寺は、寛永7年(1630年)に久留米城主田中主膳正則政(吉信)公の菩提を弔う為に建立された寺です。
> この時、建立に関わったのが後の上滝家の先祖の主膳正の臣秋山藤右衛門と云われています。
> 現在この寺の、参道右横に上滝家累代の墓地がありこの中に
> 則政公の墓があり門の石碑に上滝家のル−ツが、書いてあります。

田中やすひろさん、初めまして。書き込みありがとうございます。(^^)
久留米市北野町の「こうたき」氏は西方寺が菩提寺という方はやはり多いですね。(^^;
ただ西方寺の建立に関しては私も知りませんでしたので、大変勉強になりました。ありがとうございます。
実は、その秋山藤右衛門と上瀧(こうたき)氏は縁戚関係になります。
秋山藤右衛門の息子が上瀧氏の娘と結婚して、婿養子として上瀧氏を継いでいるのです。
またこの秋山氏は、室町時代に上瀧氏が「上瀧」と名乗る前に別れた本家筋の家のようです。
確か秋山藤右衛門は、御井(三井)郡(現久留米市の一部)の郡長という役職だったと思います。
この婚姻を通して、筑後に於ける上瀧氏の地位が保たれる訳ですね。
まだこの辺りは、情報を纏めて公開して行かなければ行けない所です。(^^;

それと西方寺の門の石碑についてですが、その石碑は西方寺に入って直ぐのお墓の石碑ですよね?
そうですね…あれは情報の一つとして捉えるべきだと思います。
何故かと申しますと、確かそのお墓の石碑は「正統上瀧氏」という、失礼ながらなんとも怪しげなお墓のルーツとして書かれた石碑でして、
「正統上瀧氏」とは何を持ってそう言われているのか?また他の上瀧氏は正統ではないのか?(笑)
何とも他の方々にも失礼な建て方をされたお墓でして、正当性を主張したいが為に、
捏造されている可能性も考えられますので、内容自体の信憑性がありません。

この際ですので、この場を借りて、掲示板をご覧の皆様にも伝えておきたいと思いますので、
お墓の建てた方には失礼を承知で書きますが「正統◯◯」などという事を公言されるという事は、
裏を返すと「正統である事を証明出来ない為の公言」という事で、自信の無さを示していて、逆に違うと公言しているに等しいです。
他に証拠や資料があり、土地の人も皆、知っているという場合には、態々お墓にそういった事を彫ったりしませんからね。
お墓とはそういう事を証明する為の道具や手段であってはなりません。
これは死者や先祖に対して非常に失礼な行為でありますし、品性を疑われる行為です。
お墓とは本来、亡き家族などの死者を弔う場所であり、今まで命を繋いで頂いた先祖の方々に感謝を捧げる場所であると思います。
正統や嫡流など、世俗的な事柄を持って、騒がせていい場所ではありません。

私の知っている本当の(北野町での)上瀧氏本家といわれるお墓は参道奥の右側に、ひと際大きい立派なお墓があります。
また、仰る通りに参道右横にも上瀧氏累代のお墓がずらりとありますね。
まぁ、こちらにずら〜と並んだお墓を見れば自ずとその一族の歴史が見えてきますし、
真っ新な墓石で「正統◯◯」などと、自分達だけ特別扱いの気分で建ててしまったお墓が、非常に恥ずかしい事だと分かると思うのですが。
本当に正統や本家を名乗るならば、それだけの責任や品格が問われますから。
正統云々を公言する前に、今まで自分のやって来た事、社会的な信用や貢献度、人から尊敬されるべき人間かどうか?
そのような事を考えてみれば、また違った考え方を持たれるのでは無いかと思います。
歴史を振り返れば、名家、大名などと呼ばれ、家柄に胡座をかいて滅亡した家がごまんとあります。
一々、正統争いするよりも、今をどう生きるか、子孫に誇れる人生であるかを見つめてほしいものですね。

ちょっと熱くなってしまいましたが(^^;、この様な事でその石碑は非常に信憑性が怪しいとなります。(笑)
こうたき氏の方々は一度、その西方寺に行かれたら、良く分かる事かと思います。
なので、あくまでも情報の一つとして捉えて、参考程度に留めた方が良いかと思います。


[175] 橘中村氏 投稿者:yagyu 投稿日:2007/07/24(Tue) 09:45  

ミツゴロウ様 
「かみだき」です。清和源氏、秋山氏との関連はなく別系ですが、唯一共通点があるとすれば関東から移り住んだということでしょうか。(口伝ですが)

橘公業には4人の息子がおり、長男公村が本家を相続して渋江と改め、
次男公茂に牛島を、三男公光に中村を、四男時業に中橋を与え分立させています。
本家を中心にゆるやかな支配体勢を保ち、なにか事が起きると一族結束して行動し
1527年、渋江公勢の毒死まで長島庄地頭として300年余にわたり君臨しています。

中村氏の南北朝期の所領は、北方村、大崎村、橋下村近辺へと徐々に拡大し、小城まで進出するようになります。
また、肥前の守護代千葉氏に重用され、次第に千葉家に影響力をもつ存在になっていきます。

千葉氏は源頼朝より小城郡晴気荘地頭職を与えられています。建武元年(1336年)関東千葉家より分かれて、胤貞が小城に下向し住み始めます。以降、勢力を拡大し所領は小城郡、杵島郡、佐賀郡西部に及び1460年頃全盛期を迎えます。

その後、同族内紛により東千葉、西千葉に分裂し衰えをみせはじめますが、中村氏との関係は続いていきます。
中村氏は橘一族に属しながら、千葉家の中枢にも入り込んでいたようで(一時期家老になっています)、上瀧氏、千葉氏、渋川氏、秋山氏邂逅のキーパーソンではと推測しています。



[174] 上滝家のル−ツ 投稿者:田中やすひろ 投稿日:2007/07/23(Mon) 21:46  

> はじめまして。田中と申します。
私の本家は、福岡県久留米市北野町中で菩提寺が浄土宗西方寺です。
この寺は、寛永7年(1630年)に久留米城主田中主膳正則政(吉信)公の菩提を弔う為に建立された寺です。
この時、建立に関わったのが後の上滝家の先祖の主膳正の臣秋山藤右衛門と云われています。
現在この寺の、参道右横に上滝家累代の墓地がありこの中に
則政公の墓があり門の石碑に上滝家のル−ツが、書いてあります。


[173] yagyu様、管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/19(Thu) 16:32  

前回の書き込みの部分で上瀧源六の名が出たのが1377年とメモし間違って調べていました。1337年でした。詳しくお調べ頂きお二人には感謝致しています。yagyu様の呼び方は源六と同じ(かみだき)ですか?源六の名前が1337年に出てるとすると武雄近辺の土豪だったと考えたくなります。少し気になるのが2004年12月の上瀧豊久様の書き込みの【吉田へ落ち武者のようにたどり着き、寺子屋をした】との口伝は源六の先祖では?嬉野近辺で平家部落の話を読んだ記憶があります。話は変わりますが父の口伝があり秋山氏との接点を求めて、お二人が調べて頂いた上瀧氏の名が出てくる年を年表にして考えてみました。疑問のひとつ、久留米の(こうたき)家がどうして鍋島藩務めを辞め、有馬藩に仕えたのか?大庄屋をするほどの土地がどうして手に入れられたのか?庄屋秋山家とは2〜3Kの隣同士です。年表を見ながら考えると1533年九州探題渋川伊茂の甥、堯顕が裏切り少弐氏に付きますが攻められ有馬氏を頼って藤津へ来ます。この中に秋山源次郎【後上瀧義重】も居たのでは?堯顕は有馬氏に保護され食客みたいになります。食客では大勢の家臣は養う事は出来ないでしょう。その後上瀧家に婿養子で入り(かみだき)を地名に鑑み(わたき)と変えた。とすれば久留米の秋山とは親戚でしょから行き来が出来ます。同じ年に九州探題は滅びます。少し強引でしょうかね。参考に《天正20年、乃美宗勝は筑前秋山で中風の為病死、享年66才】というのを見つけました。秋山という地名があったのですね。前からの書き込みを読んでまして二期会員で画家の上瀧泰嗣氏は私の従兄弟です。それに【両弾二島】の百武家は私の叔母の嫁ぎ先で親戚になります。歴史とはおもしろいものですね。


[172] 点と線 投稿者:yagyu 投稿日:2007/07/19(Thu) 00:03  

管理人さんが言われるように先祖探しは、なかなか時間がかかるもので、ご先祖様は容易に姿をみせてくれません。

古文書、文献、家系図を点とし、情報いいつたえをもとにした推測を線で結び、佐賀の歴史とともに上瀧氏の情報を鎌倉期より、すこしずつ書き込んで行きたいと思います。
不完全ですが、すこしでも参考にしていただければ幸いです。

薩摩橘氏の先祖は遠江(静岡県)を拠点としていた武家の橘氏です。
鎌倉幕府成立(1192年)の時、公長が源頼朝に属し戦功をあげ、有力御家人になります。
その子、公業の時(1236年)、肥前国(佐賀県)杵島郡長島庄、豊前国(福岡県)副田庄、肥後国(熊本県)球磨郡久米郷、大隅国(鹿児島県)種島を恩賞として与えられ
惣地頭として長島庄に下向し住み始め、勢力を広げていきます。

それから100年後、
1333年、鎌倉幕府が倒れ、建武の新政、南北朝のはじまりです。
1337年、橘氏は足利尊氏に属して戦い勝利します。
その恩賞配分記録に上瀧源六の息子、房丸の名前がのっています。房丸の評価は、十段階中の十位と最下位で地位や力はまだまだのような感じですが、西山村に領地をもらっています。
1350年に上瀧山が古文書に地名としてでてきます。この頃には武雄北方地方で、ある程度の勢力をもった上瀧氏(おそらく源六)が存在していたことをうかがわせます。
橘氏とともに移住してきたか、在来の豪族で鎌倉方に加わり領地を安堵されたか、どちらかでしょう。豪族というのは土着した氏族が多く、それぞれの姓氏をもち、単なるお山の大将ではないようです。

南北朝の頃より、上瀧の名前や地名が古文書にちょこちょこ出てくるようになります、佐賀だけではなく富山でも。



[171] yagyu様へ 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/13(Fri) 15:53  

1337年に上瀧源六の名が見えるとすると元々藤津で豪族だったのか?【出兵し恩賞を貰う】とは2〜3人ではなく、それなりの勢力を持っていたのでしょう。日本の苗字で見れば上瀧姓は日本で多い順から4735番目で約2200軒あるそうです。秋山、小笠原、南部は特別で逸見1632番9800軒、加賀美3254番3900軒に比べれば少なく改姓した可能性は高いと考えます。前の姓は秋山か?九州探題渋川満頼ではなく渋川義行に従ってたとなると話は合うのですが…1365年に探題になり九州に入ることなく5年後に解任されています。秋山光長は1365年に備後国(広島)に来て、12年後に改姓して上瀧源六で名が出てくるなら秋山と上瀧が繋がらないとも言えません。好き勝手に想像すれば、解任された渋川義行はいくつかの領土はあるにせよ多くの兵を必要とせず、兵は次の探題今川了俊に従った。秋山氏は客将の立場で今川、後藤、橘の連合軍で戦い南朝方菊池氏を破り恩賞に西村山領土を得た。今川の家臣では橘氏から恩賞を貰う訳にはいかないでしょうから。今川家に秋山という家臣はいたそうです。武田家に仕えた流れかもしれませんが。以上秋山氏と上瀧氏の系図の接点を無理に想像してみました。


[170] ミツゴロウ様へ 投稿者:yagyu 投稿日:2007/07/12(Thu) 00:48  

先祖を遡れば遡るほど、糸はひろがり複雑になっていきます。
説明不足のため混乱を招いてしまい、申し訳ありません。
私も渋川氏、秋山氏などざっと調べてみました。
共通するのは祖先が清和源氏で、出身地が関東であること。
甲斐源氏の故郷は常陸国(今のひたちなか市)、渋川氏は群馬県。
神崎郡の犬塚氏は千葉県、小田氏は常陸国でともに関東で名族です。
鎌倉時代には御家人がごっそりと他国へ移住し、先住の豪族との諍いが絶えなかったようで、
同族、姻戚関係のある氏族で結束して領地を守っていたのでしょう。

薩摩橘氏も鎌倉幕府より肥前国長島庄を恩賞として与えられており、関東と縁があるようです。
姓氏の資料は複雑なのであまり読みきっていません。
すこしずつ見ていきます。




[169] 無題 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/11(Wed) 16:26  

上瀧氏の先祖を調べながら、秋山氏との接点も調べていたのですが九州探題、渋川満頼に従って来たとされる秋山光長の父朝政と同じ名の武将を太平記で見つけました。その後は探題渋川伊茂の甥堯顕が裏切り有馬家を頼って藤津へ来たというくらいでした。渋川家は140年ほど東佐賀近くで活動していますので仕えていた秋山氏もかなり分家して秋山姓が残って居るのでは?と調べたら久留米、北野町、大刀洗町に特別多い事が分かりました。探題が居たとされる中原では5軒だけでした。中原から北野町まで目算で15K位です。治水工事に貢献した八重亀村庄屋秋山新左右衛門という人がいたので秋山姓は多いのでしょう。大庄屋上瀧(こうたき)嘉兵衛は北野町陣屋で秋山家とは2k位の近さです。繋がりを感じたくなるのですがyagyu様の上瀧源六の書き込みを見て考えこんでいます。


[168] 管理人さんへ 投稿者:yagyu 投稿日:2007/07/10(Tue) 00:16  

お久しぶりです。
全国の上瀧氏を調べてみたら一番古いのが1337年(かな?)に出てくる上瀧源六(小鹿島文書、北方町誌)です。
北方町は奈良平安時代から朝廷の出先として発達して、上村にあたるところです。おそらくこのあたりが九州上瀧氏の源流ではと思われます。
薩摩橘氏に属して上瀧源六の息子、房丸が出兵し恩賞として西山村に領土を与えられています。西山村は藤津五町田に近く、後藤氏、久間氏との関係も深い場所です。

栄枯盛衰は時代とともに興り、薩摩橘氏は公勢をピークに分裂し衰えて、後藤氏、千葉氏に飲み込まれていきます。中村、渋江、牛嶋、中橋など数派に分かれていきます。上瀧氏もそれぞれの土地、主従関係で九州に分かれていったのではと思われます。

神崎郡の上瀧氏はおそらく千葉氏(犬塚氏)関連でしょう。北野町の上瀧氏に州浜の家紋が多いのは小田氏(藤原氏)関連かもしれません。小城の上瀧氏は中村氏より「おか」に屋敷を、ほかにも寺、神社、田畑を与えられています。そのまま明治までいったのではないかなぁ・・と。
それぞれ戦国時代をたくましく生き抜く姿が想像できて面白いです。

九州とは事情が違うかもしれませんが、我家で伝わっている分家の方法は同じ発音の「かみだき」には「上滝」の字を、または家紋をすこし変えていたようです。祖父からきいた話しです。
「瀧」の字は〒の縦の部分がカタカナの「ノ」のようになっています。小学生のころ書くのがめんどくさいので「上滝」と書いて祖父に怒られました。うちのたきは「瀧」だと。

しかし発音や字、家紋をかえながらも守りつづけた「上瀧」の苗字は一体なんだろうと不思議に思えるのです。 

九州は比較的資料がおおく、図書館で並べられている開架だけではなく、閉架の本もあるとおもいますが、
なによりも家に伝わるものが一番の資料でしょう。






[167] Re:[149] 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/07/09(Mon) 20:47  

> 九州の上瀧氏には複数の流れがあるようです。
>
> 武雄の上瀧・・・・後藤氏の家人、上瀧権兵衛の流れ
> 藤津の上瀧・・・・上瀧志摩守に代表される豪族
> 小城の上瀧・・・・千葉氏家臣、中村氏の家人
> 神崎郡の上瀧・・・犬塚氏の家人
> 北方町の上瀧・・・薩摩橘氏と関連がある上瀧源六の流れ 

yagyuさんの調べて頂いた情報を少々精査していたのですが、
どうもこの以下の3系統は繋がりがあるかもですね。
武雄の上瀧・・・・後藤氏の家人、上瀧権兵衛の流れ
小城の上瀧・・・・千葉氏家臣、中村氏の家人
北方町の上瀧・・・薩摩橘氏と関連がある上瀧源六の流れ

まだ単なる思い付きの範囲ですが、この中村氏は橘薩摩氏と元は同族ですし、
その後の中村氏は後藤家に従属していたようですから、これらに関係する上瀧氏は同じ流れの可能性もありますね。
順番としては、橘氏→橘薩摩氏→中村氏→後藤氏という感じです。



[166] 上瀧慰右衛門は… 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/07/08(Sun) 19:37  

上瀧ミツゴロウさん、ありがとうございます。
佐賀で色々、資料館に行かれた様で、大変なご苦労だったと思います。

庄屋の記述が無かった様で残念ですが、「上瀧慰右エ門」の名前で繋がる人物が見つかりました。(^^)
以前、yagyuさんがお調べになっていた「上瀧空蝉」の父親になる人物が「上瀧慰右エ門」の様です。(過去ログ「[89] あちこち」を参照してください)
その「上瀧空蝉」の記述をこちらに引用しますと…、

上瀧空蝉ー天保9年(1838年)4月4日生、小城郡小城町鯖岡。父ー上瀧慰右衛門、小城藩士御徒頭として大阪御倉方も勤めたひとである。
空蝉は長男、通称 惣右衛門また惣平。15歳で出仕。30有余にして京都に学び、帰郷後、時の小城藩主の乞いに従い祐筆として仕える。
明治以降、大野区長として林業開発、教育に貢献し1918年(大正7年)他界。

藩主直々に祐筆に招いた様ですから、かなり地位も高い御方だったろうと思います。
ただ、上瀧空蝉は読みが「わたき」となっていますので、「じょうたき」氏と直接の関わりがあるかどうかは微妙な所です。
「こうたき」氏と同じで、藩仕えの武士から、庄屋などに移っていく過程で
「じょうたき」氏も読みを変えたのかも知れませんね。

↓は上瀧空蝉の事が載っているサイトです。

http://www2.saga-ed.jp/school/hokuzan/chiikinojouhou/h14-5nen/watakioushoutokuhi.htm


[165] 上瀧美和さんへ 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/07/08(Sun) 19:15  

上瀧美和さん、こんにちは。初めまして…になるのでしょうか?(^^;
みんな、「上瀧」さんか「上滝」さんなので、最近分からなくなってきてます。すいません。(^^;

>自分の瀧の字ゎ〒のほうですが皆様はどうですか?
私も同じく「瀧」の右下は三本線ではなく、「〒」になってます。
上瀧美和さんと同じく「こうたき」なので当然と言えば当然なのですが。
しかし、これも実は結構難しい問題なんですよね。
「滝」と「瀧」の違いについても、本当は「竜」という字が最初にあって、その後に「龍」になったとか仮説もありますね。
なので、「瀧・滝」の違いについても、その仮説からすれば「滝」が最初かな?となりますし、
瀧の三本線も、昔は〒だったのもが略されたのか、それとも元々違いを持つ漢字なのか。

そういえばちょっと前になりますが、役所から「瀧」の〒の字が電子化によって使えなくなると、
通知が来てましたね。皆さんも来ませんでした?
普通に漢字を使う分には全く問題ないと思いますが、電子情報上では普通の「瀧」が正式になったんですね。

↓参考になるかわかりませんが、こちらでは「龍」と「竜」の違いを述べてあります。

http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=479641


[164] 無題 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/08(Sun) 14:55  

北方出の上瀧美和さんへ。佐賀のジョウタキです。初めまして。わが家も貴女と同じく〒です。管理人さんに言い忘れましたが紋は丸に三柏です。本家は丸みを帯びた三柏ですが、分家のわが家は少し細めの高知の山之内家と同じ形です。本家と分家を区別するために祖父が変えたのかと思っています。


[163] 無題 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/08(Sun) 14:36  

ムツゴロウは使っている人がいますのでミツゴロウにしました。用事で佐賀へ行く機会がありましたので、武雄市、大和町、小城市の歴史資料館のハシゴをして来ました。主な目的は大和町史にある《旧春日村は佐賀藩で大字久池井は上佐嘉上郷(小字の川を含む)大字尼寺は上佐嘉下郷に属し、それぞれ大庄屋によって支配されていた》とネットで調べていましたので、その庄屋の名前の確認でした。鍋島藩当時は郡代と代官の下に大庄屋があり、大庄屋が各村の庄屋を支配していたとの事でした。大庄屋は郡代、代官側に属し、領主から帯刀格式を与えられ1郡を担当し士分からなっていたそうです。判明している分として宝暦10年(1760)上佐嘉上郷大庄屋=野口九郎次、上佐嘉下郷大庄屋=原貞十の名だけでした。記録はそれだけしか残っていないらしく上瀧の名を見つける事は出来ませんでした。大庄屋とは交代していたのかどうかは分かりませんでした。久池井の上瀧(じょうたき)家は士分だったと聞いていたからです。刀はかなりの本数があったらしく、戦後アメリカの進駐軍が武器の回収で日本刀を回収しようとしたらしく、私の本家は家の周りの堀に、筒に油を入れ投げ込んだり、麦わら作りの屋根のわらの中に入れたりして隠したそうです。そのことを忘れ屋根を瓦に変える時に古いわらは燃やした燃え後から刀が出てきたとのことです。分家の私の家にも何本もの刀があったらしく、軍人だった義叔父2人(戦死)や友人に軍刀としてあげたと父に聞きました。残っていた刀は筒に油を入れて地下に埋めたそうです。戦後の苦しい生活に追われ皆そのことを忘れていたのでしょう。私の兄は刀を埋めるのを見ていたので場所も知っていたのですが、埋めた場所は一時、国の社宅用に土地を貸し、その上に家が出来たのでそのままでした。その後家を壊したので刀を探したのですが見つかりませんでした。おそらく工事中に誰かがみつけ持ち帰ったのではと兄弟で話しています。幸いな事に我々兄弟が子供の時におもちゃがわり使っていた小刀1本が残り、かなり良い刀らしく研ぎに出して芸術品として弟が所持しています。失われた刀は名刀が何本もあったらしく皆で残念がっています。話がそれましたが、苗字帯刀を許されていた上瀧家の記録が見つけられなかったのは残念でした。管理人さんはもうご存じだと思いますが《小城藩着到記録》の中に上瀧の名は見つけられませんでしたが、幕末の小城藩邸武家屋敷地図の中で地図のなでなく付属文の中に上瀧慰右エ門の名をみつけました。中町、切、11となっいました。おそらく本藩から小城藩に送られた77人の中の一人、上瀧の子孫だろうと思いました。大胆な推測では、久留米がコウタキ、佐賀がジョウタキ、親たちの方法に習って小城をウエタキとしたのでは?と考えたりしています。



[162] ^^ 投稿者:上瀧美和 投稿日:2007/07/03(Tue) 23:06  

こんにちは。自分は福岡県の久留米市(旧北野町)出身です。ちなみにこうたきです。自分の瀧の字ゎ〒のほうですが皆様はどうですか?


[161] 江戸期の庄屋について 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/06/26(Tue) 19:19  

ちょっと調べものをしていて、詳しく解説されたものがありましたので、ご紹介しておきます。
また皆様の方でも色々とお調べ頂くと、庄屋がどのような身分、立場であったか分かるかと思います。

http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/jphys.htm#anchor174888


[160] Re:[159] 貴方ページに感謝しています 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/06/26(Tue) 19:09  

上瀧(ジョウタキ)さん、はじめまして。ご訪問ありがとうございます。
大和町久池井のご出身で、今は大阪に住んでおられるのですね。
プライバシーの都合上、あまり詳細は明かせませんが、上瀧(ジョウタキ)さんと同じ読みの方で、
こちらへお越し頂いた方にも、同じ出身地の方が多く居られましたよ。

上瀧(ジョウタキ)さんのお父様のお話も興味深いですね。
「じょうたき」姓の方のお話で、ここまで詳しく内容が伝えられている方は初めてです。
確かにこちらで紹介している話と符合する部分が多いですね。
しかも「こうたき」氏が久留米へ移住して、読みを変えた事などをご存知とは驚きです。
また「佐賀へ分かれた方をジョウタキと呼び名を変えた」という部分は正に改姓を裏付ける証言です。
お父様が御存命であれば、その証言の元となった物を教えて頂けたのでしょうが、残念ですね。

また「その後久池井で庄屋をしていた」という部分もそうですね。
以前、とある方からご相談を受けて、色々な方のご協力のもと、私なりに結論を出したのが、
「江戸期の『じょうたき』氏が大和町久池井の地方で、名字帯刀を許された庄屋をしている」というものでした。
江戸期の士農工商と身分制度は名目上のものであり、実生活では大庄屋・庄屋の方が実力はありました。
その場合、また名字も名乗っている事から、名字帯刀を許された立場であったと思われます。
実質的には、その辺の武士よりは上の立場で、それなりの権力もあったと思われます。

こちらこそ、貴重な情報を教えていただきありがとうございます。
お父様から、上瀧(ジョウタキ)さんに伝えられた口伝によって、仮説が確信に近づきつつあります。
また何か分かりましたら、是非とも「じょうたき」姓の方々の為にも、お教え頂ければと思います。
慣れないメールで、お手間をお取り頂くかも知れませんが、よろしくお願い申し上げます。

また今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。(^^)


[159] 貴方ページに感謝しています 投稿者:上瀧 投稿日:2007/06/21(Thu) 14:30  

初めまして。上瀧(ジョウタキ)と云います。出身は佐賀県大和町久池井です。死んだ父に子供の時に聞いていた先祖の話は「先祖は源氏で、武雄に住んでいたが、一族が二つに分かれ、久留米へ移住した方をコウタキ、佐賀へ分かれた方をジョウタキと呼び名を変えた。その後久池井で庄屋をしていた」と云う事でした。管理人さんのページでは確かにそのとうりでした。私にも孫ができ、先祖の事を教えておく必要を感じ先祖探しをしていましたが、管理人さんのページでかなり疑問点が分かりました。私の先祖は八院の戦で戦死した上瀧兵太朗だろうと思います。私は今大阪に住んでいますが、佐賀へ帰ったら確認して来たいと思っています。新しい情報が得られればメール致します。携帯でのメール交換は出来るのですがパソコンでは管理人さんが初めてなのです。確実に着くかどうか心配です。


[158] Re:[156] 2年ぶり 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/05/15(Tue) 18:51  

> 約2年ぶりに、訪ねてみました。
> 過去ログを見ていると、おそらく自分の弟と
> 思われる人物が、仮名を使って、書き込みをしていたので、
> おもしろかったです。「上瀧」の読み方と仮名の使い方等で
> わかってしまいました。今度、会ったときに伝えようかとおもいます。
>
> HPの運営、大変だと思いますが、これからもがんばってください。

sleepyさん、こんばんは。ご訪問ありがとうございます。
折角ご訪問頂いたのにすいません、2年前とあまり代わり映えしておりません…。(^^;
面白いですね。ご兄弟でそれぞれ書き込んで頂いて、それを見付けるなんて。
ご兄弟様でご贔屓にして頂いてありがとうございます。(笑)
また温かい応援メッセージもありがとうございます。
そろそろリニューアルも考えておりますので、楽しみしていて下さい。(^^)


[157] Re:[155] びっくりです 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/05/15(Tue) 18:42  

> 私も同姓です。曽祖父が伝八さんという方がいらっしゃい
> ましたが、おそらく同じ流れかと思います。

上瀧(ウエタキ)さん、はじめまして。ご訪問ありがとうございました。
地道に細々とやっているサイトですが、少しでも皆様のお役に立てれば幸いです。
「曽祖父は伝八」さんと数代遡れば同じ先祖だったという事もありえますね。
私もこちらにご訪問頂いた方と、お会いする機会を頂いたのですが、
その方の家とは江戸時代で分かれた同族の方でした。ちょっと遠めのご親戚さんですね。(^^)


なるほど、上瀧(ウエタキ)さんの元々のご出身は小城なんですね。
本当に小城出身の方は多いので、やはり小城は江戸期の上瀧氏と関わりが深いですね。
またご商売をされていた方も多いですね。遺伝的特質でもあるんでしょうか?
戦国期・江戸期・近代と、本当に時代の移り変わりと共に上瀧氏は強かに生き残ってますね。
滅亡した家も多い中、素晴らしい事ですね。ご先祖様に感謝です。(^^)

上瀧(ウエタキ)さん、どうぞ今度とも宜しくお願い申し上げます。


[156] 2年ぶり 投稿者:sleepy 投稿日:2007/05/14(Mon) 05:10  

約2年ぶりに、訪ねてみました。
過去ログを見ていると、おそらく自分の弟と
思われる人物が、仮名を使って、書き込みをしていたので、
おもしろかったです。「上瀧」の読み方と仮名の使い方等で
わかってしまいました。今度、会ったときに伝えようかとおもいます。

HPの運営、大変だと思いますが、これからもがんばってください。



[155] びっくりです 投稿者:上瀧(ウエタキ) 投稿日:2007/05/09(Wed) 22:35  

こんばんは。
なんと上瀧の歴史を紐解くサイトがあったとは驚きです。
私も同姓です。曽祖父が伝八さんという方がいらっしゃい
ましたが、おそらく同じ流れかと思います。
大阪の阿倍野で商いをしていたと聞いたことがあります。
火事を起こして下女が亡くなったという話まで聞きました。
元は佐賀の小城だそうです。


[154] 秋さん・上瀧敏昭さんへ 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/02/24(Sat) 01:43  

秋さん・上瀧敏昭さん、はじめまして、管理人の龍魁です。
ご訪問頂きまして有り難うございます。

秋さんのご先祖様は、北野町出身で「こうたき」さんという事でしたら、私の家とほとんど同じ流れかと思います。
>仏壇のお位牌の中に名前の書かれた手帳
おそらく過去帳の事かと思いますが、仰る様に繋がりのあるご先祖がいらっしゃるかもですね。(^^)

上瀧敏昭さんの名字は「じょうたき」さんで宜しいのでしょうか?メールアドレスからの推測ですが。
「じょうたき」姓は佐賀に多く、また別系統もある可能性がありますので何とも言えませんが、
こちらで紹介している上瀧氏自体が清和源氏らしく、甲斐の武田氏も源氏です。遡れば同じ新羅三郎義光を祖先とするとしています。
そういった意味で甲斐の武田氏との繋がりはあると思いますが、山本勘助は武田支族の出ではないと思いますので繋がりがあるかは微妙ですね。
ただ山本勘助の血筋は源氏との説もあるようですね。(^^)

可能性を追求するには、山本勘助の系統をやはりお調べになる方が、資料の少ない上瀧氏を調べるよりは効率的かと思います。
ただ勘助自体も実在の可能性を議論されていた様な人物なので、調べるのは大変かも知れませんが。(^^;

それでは秋さん・上瀧敏昭さん、今後ともよろしくお願い申し上げます。(^^)


[153] 上瀧 敏昭さんへ 投稿者:筑前@上瀧 投稿日:2007/02/21(Wed) 14:25  

こんにちは上瀧 敏昭さん。
上瀧氏にもいくつか系統が有るようですが、私の家は北野町出身で家紋は三鎖です。我が家の家系図では山本勘助とは関係ないようです。他の系統のことは分かりません。
お力になれなくて申し訳ありません。
上瀧 敏昭さんのほうでも何か分かりましたら教えてください。


[152] 教えてください 投稿者:上瀧 敏昭 投稿日:2007/02/12(Mon) 14:25  

上瀧の祖先を調べたいのですが何も分らないのです。山本勘助のまつえかも、、、と、死んだ兄が言っていたことを昔ながらかすかに、覚えている程度です。


[151] はじめまして 投稿者: 投稿日:2007/01/27(Sat) 06:30  

はじめまして上瀧(こうたき)と申します。
こんなサイトがあった事に 自分の家系・先祖を知る資料を拝見させていただける事に感謝致します。すごく おもしろいですw

私の実家は 福岡県久留米市北野町(旧三井郡北野町)です。
みなさんのお話の中に自分の故郷の事が書いてある事にちょっとびっくりしてしまいました。
祖父に、先祖が その昔、北野町のある地主だったと聞いた事があります。
また 有馬藩につかえていたらしいってのも聞いた事があります。
でも家系図も 見た事がなくて 「へ〜 そうなんだ」って感じで
本当の過去ってわかりませんでした。
小さい頃に 仏壇のお位牌の中に名前の書かれた手帳が入っていたような記憶もあります。もしかしてそれになにかあったのかも?
幼くて 何が書いてあるかは解りませんでしたが、もしかしたら 皆様との繋がりがあるのかもしれませんね。同じ名字の知り合いもなく 家系図の話などした事がなかったのですが、なんか わくわくしてきました。

上瀧の歴史を知る事ができて大変感謝しています。ありがとうございました。


[150] 明けましておめでとうございます 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/01/05(Fri) 19:07  

明けましておめでとうございます。
皆様、本年も宜しくお願い申し上げます。

yagyuさん
実は申し遅れてしまったのですが、私の家の系図にも『上瀧喜兵衛』さんが載っていました。
私の家と筑前@上瀧さんのお家は、ほとんど同じ流れの様です。(^^)
また『上滝茂吉』も系図ではないですが、上瀧氏菩提寺に確かお墓があった記憶が。
上滝茂吉さんはその近くの神社にも寄付をされていた様です。

しかし、yagyuさんの仰る様に一筋縄ではいきませんね。
資料にも点在する程度なので、それと繋ぎ合わせてもやっと推測が出来る程。
九州の上瀧氏だけでもこういう状態で、全国の上瀧氏で考えると・・・。
が、頑張ります・・・マイペースで非常にスローですが。(^^;
>>>>>>
皆様
勉強不足で分からない事が多々あり、ご迷惑をお掛けしますが、
今後ともご指導、ご鞭撻、またご協力の程、宜しくお願い申し上げます。

本年も良い年になります様、御祈り申し上げます。


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