上瀧氏交流掲示板
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[329] >327様 投稿者:上瀧 投稿日:2012/01/03(Tue) 13:12  

上瀧 英(ヒデル)とよみます。
私の祖父です。おっしゃるように戦国の上瀧の子孫です。


[328] 志摩守は、わたきと呼んでいたのか? 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/12/16(Fri) 13:42  

『佐賀の戦国人名志』川上茂治著に書かれています。
上瀧志摩守盛氏は、龍造寺隆信の幕下知行に、百十町、藤津郡上瀧の城主とある。【中略】
上瀧について佐賀県下では「うわたき」と「じょうたき」が一般的な呼び名である。この他に武雄市橘町に「わたき」の呼称がある。ただし、隆信公年譜には、上瀧志摩守を「はたき」と振り仮名を付けており、隆信公年譜に従って呼称する。

著者は、上瀧盛氏と上瀧志摩守が別人なのに、同一人物として混同して書かれています。
盛氏が藤津衆として、有馬氏に属すのは1514年。
志摩守が、有馬氏側から龍造寺氏氏に変わるのが横造城の戦いの1576年。両弾二島の武勇伝の話は1579年。
志摩守が110町の知行になるのは、武勇伝の後の事で、盛氏が有馬氏側になった、65年後の事です。
志摩守は、その後も十数年、藤津衆として、戦場で活躍することになりますから、まったく別人で、私は祖父と孫の関係だと推察しています。
注目すべきは、志摩守の苗字に(はたき)と振り仮名がしてあるということです。                 上瀧姓に幾つかの呼称があったので、わざわざ仮名を付けたのだと思われます。
(は)と(わ)は、waと同じ発音され、しばしば混同されて使われることもあり、(わたき)と同じだと考えられます。
私の推理では、秋山源次郎が、上瀧美濃守信重と改姓した時に、幾つかの分流があった上瀧(うわたき)姓の流れと、自分の秋山姓の区別するために、当時、(うわたき)から(わたき)と呼び名が変わっていた方を採ったのではないか?
仮に、この推理を更に進めれば、現在、橘町と多久市にある、上瀧(わたき)姓の方々は、志摩守の兄弟か、又は、兵太郎、勝次郎、以外にもいた兄弟の子孫ということになると思われますが、如何なものでしょうか?




[327] Re:[101] 投稿者:久富 投稿日:2011/12/09(Fri) 13:28  

> 人物辞典で上滝の名前が出ていましたので、紹介します。
>
> 上滝 英(ジョウタキ ヒデ)文献「九州やくざ物」藤田五郎著 九州一の昇り竜上滝一家二代目(初代久太郎の甥) 上滝建設会長 社長は長男、久太郎 昭和14年65歳没 佐賀直川生まれ
>
> 上滝 孝(カミタキタカシ) 現代人物辞典 昭和15年入隊23年復員 林業経営、昭和40年農協に入り47年総領町農協組合長大正9年8月22日生まれ広島県 
>
> 上滝博正(コウタキヒロタダ)現代人物辞典 東京出版販売kk取締商品管理部長 昭和4年12月12生まれ福岡県      
>
> 上滝洋三(コウタキヨウゾウ) 現代人物辞典 上滝公認会計士事務所長、叔父哲太郎、大正15年12月2日生まれ福岡県
>
> 上滝致孝(ジョウタキ) 現代人物辞典 住友重機機械工業kkシステム研究所長、大正13年生まれ福岡県
>
> 上滝 勝(ジョウタキ) 現代人物辞典 ?樺キ崎上滝建設代表(昭和30年〜)昭和3年4月10日生まれ佐賀県
>
> 上滝正衛(ウワタキ) 昭和人名事典第巻 酒造業上瀧(名)代表、傳蔵 次男 先代正記の後をつぐ 福岡
>
> 上滝隆三 日本紳士録 ポッカコーポレーション取締食品部長 昭和12年生まれ東京都生まれ
>
> 上瀧益雄(ジョウタキ) 日本人事録 上瀧益雄事務所長、税理士 大正6年12月12日生まれ佐賀県
>
> 上滝治夫(コータキ) 昭和人名事典 兼松羊毛工業監査明治25年5月20日生まれ  京都府 福太郎次男浄土宗
>
> 上滝孝治朗(カミタキ) 日本紳士録 足利短期大学副学長大正3年6月22日生まれ富山県
>
> 上滝 ミノト(コウタキ) 日本農業研究所専務理事大正8年6月13日生まれ 東京
>
> 上滝敦三(ジョウタキ) ニッカウヰスキー?叶齧ア大正14年12月1日生まれ東京
>
> 上滝致孝(ジョウタキ) 住友重機械工業?葛Z監住重イートンシステム取締 大正13年生まれ福岡
>
> 上滝貝貞(ジョウタキトモサダ) 工博 九州共立大工学部教授  九工大名誉教授 大正4年8月1日生まれ福岡宗像(生まれ佐賀鍋島村)
>
> 上滝長久(ジョウタキ)伊万里信用金庫理事長 大正9年8月20日生まれ佐賀県
>
> 日本紳士録や人名事典に掲載されていた方々です。なにかお役に立てばと列挙してみました。


[326] 新羅三郎義光の墓 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/12/08(Thu) 14:30  

甲斐源氏の祖といわれる新羅三郎の墓は、滋賀県大津市役所の近くにあります。
JR大津京(旧西大津)駅や京阪線別所駅から、それほど離れていません。
国宝の新羅善神堂から少し離れた所に墓があり、石の柵に囲まれた中央に、土まんじゅうが盛り上げられていて、それが墓になっています。
新羅三郎は、官職を投げ捨てて、兄(八幡太郎)の援軍として寒い出羽へ駆けつけた話や、援軍に向かう途中で、自分が戦死して、笙の秘曲が滅びるのを恐れ、その曲を伝授したとの美談が若い時に残るほどの人なのに、後半では、甥と合戦したり、河内源氏の棟梁の座を狙って、兄の子の暗殺を謀るなど、行動の落差が大きすぎて、唖然としてしまいます。
今は、木以外何もない静かな山中に、ひとつだけポツリとあります。
墓から少し行くと、東海道自然歩道があり、20〜30分程歩くと、歴史博物館と三井(園城)寺があります。
大津のJR膳所(ぜぜ)駅の近くには、義仲(ぎちゅう)寺があって、木曽義仲と巴御前の墓と、奇妙なことに松尾芭蕉の墓もあります。
どこも琵琶湖の側で、比叡山は間近に見え、関西にお住まいの上瀧姓の方々に、日帰り出来るお勧めコースです。


[325] 加賀美館と秋山光朝墓を訪ねて 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/11/20(Sun) 17:58  

静岡への出張を利用して、山梨県まで足をのばしてきました。先の台風の為に、JR鉄道のレールが寸断された状態らしく、特急は走っていなくて、各駅停車のみの鈍行で時間の掛かる旅でした。しかも、身延と内船間はバスの代替え輸送というおまけまでありました。

甲府で泊まり、武田氏3代の館跡、武田神社に参拝を済ませ、南アルプス市へ向かいました。
JR身延線東花輪駅が加賀美館跡に行くには最短駅です。
加賀美館跡は現在、真言宗の法善寺が建っています。
かなり広い敷地でした。
秋山光朝墓をみつけるのには、タクシーの運転手さんもかなり苦労していて、交番にまで行って尋ねたのですが、若い新任らしく、いくつかの地図を開いて、やっとのこと探し出してくれました。
ネットで調べて行った私の感覚では、誰でも知っているようなつもりでしたので、多少のとまどいを覚えました。
入り込んだ狭い道だったので、運転手さんも自信をなくして、更に地元のオジサンに尋ねました。
「光朝公の墓は、高い杉の木が見える、アレですよ」さすがに地元では呼び捨てではなく『公』を付けて呼ばれているみたいです。
その方が秋山姓の方だっかどうか分かりませんが、近所の表札で秋山姓を幾つか目にしました。
墓は小さな石が3個並んであり、加賀美遠光、秋山光朝、妻の茂子夫人のものだとか。
秋山光朝を祀る熊野神社は、墓より少し離れていて、数百メートル位あったでしょうか?タクシーで別の道から行ったので正確な距離は分かりません。
まわり一帯は果樹園がひろがり、見晴らしの良い所でした。
墓にお参りした後、来てよかった!!と思いました。


[324] [323]を補足します。 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/11/09(Wed) 17:10  

誤解が生じないように補足させて頂きます。
池田、井上、太田、小川、堀内などの姓は多数姓なので、久留米にも沢山あります。しかし渋川氏に仕えて後、帰農したとされる新田開発地にこれらの姓があり、帰農した末裔の姓ではないかと考えられます。
当時は同じ主人に一族で仕えますから、秋山氏がそうだったように、関東の渋川氏に仕えながら、九州探題に仕えて九州へ別れるたように、上記の姓の方々も九州探題に随従した可能性もあるという意味で、確証は全くありません。
多数姓なので久留米に同じ姓が沢山ありすぎて、その流れの可能性があっても分からなくなってしまいます。

昨日、書き忘れた名前があります。
北野町で一番多いとタクシー運転手と聞いた黒岩姓、轟
堀田、松隅、脇田の各姓も新田開発地にあります。


[323] 管理人様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/11/08(Tue) 17:05  

先日、4日に柳川からの帰り道、北野に寄らせてもらいました。北野図書館と西方寺、それに北野天満宮を覗いて来ました。
西方寺にある上瀧様のお墓には圧倒されました。佐賀の玉林寺にある、ジョウタキ家の墓とはあまりにも違いすぎます。
先祖崇拝の意識の差でしょうか!!
門柱の裏に刻まれている文章にも目を通しましたが、赤い色で読みやすくなっていましたが、管理人様の仕事の跡ではないかと推測しながら読ませて頂きました。

話は変わりますが、九州探題渋川氏が朝日山城かで戦死した後、家臣の秋山氏が北野へ落ち着く迄が気になって調べてみました。当然落ち武者の状態ですからひとりではなかったと思われます。
先日の蕨市と川口市にまたがる新田開発地に今お住まいの方々の姓と、久留米市北野町の方々の同じ姓の方を拾い出し、一つずつ選択しながら拾い出しました。
私の考えでは、秋山氏一族が関東の渋川氏に仕えたり、九州探題に従って九州へ来たりと、秋山氏みたいな行動は他の姓の方々にもあったと思われます。
各個の姓は、あくまでも推測に過ぎませんが、渋川家臣団はグループで北野に住んだのは間違いなさそうです。
秋山姓以外では井口、池田、井上、太田、小川、川村、堀内、松林ではないかと思われます。
綿密にやればもう少し見つかるかも知れませんが根気が続きそうにありません。


[322] 管理人様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/10/30(Sun) 11:16  

少し言葉足らずでしたので追加します。
渋川氏の家臣達が帰農して干拓したとされる塚越は、蕨市と川口市の境界に隣接しています。
今回の名前は塚越地区と、塚越に接する蕨市の南町、中央地区の名前です。一方、川口市は塚越に接する並木、青木、芝、前川、前上地区から調べた名前です。

これらの地区に分布する渋川氏に仕えたと思われる家臣の名前から、甲斐源氏の庶流の人々が、栄達した渋川氏を頼って、同じ流れを持つ縁で仕官していた事が想像されます。
管理人様が提示して下さった九州探題に従って九州へ来た秋山光長の存在と加賀美氏に繋がる系図は、真実のものだと私には信じる事が出来ました。
本当に有り難うございました。


[321] 久留米秋山氏はどこから来たのか? 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/10/29(Sat) 13:50  

九州探題渋川氏に従って来たとされる秋山光長の存在を求めて、久留米の秋山姓の方々と交信したのですが、江戸時代迄にしか遡れませんでした。
方向を変えて、九州探題の部下としての秋山氏の記録を探したのですが、9人の部下の名前はありましたが秋山姓は見つかりません。
更に見方を転じて、渋川氏側を探ってみました。
渋川氏は、将軍の正妻の実家として優遇され、九州探題以外に関東探題の職も得ています。
全国に所領を得て、活動の拠点を次第に西国に移し、出身の上野国渋川郷との関係は薄くなっていきます。
関東探題としての拠点は、埼玉県蕨市に蕨城を築きます。
戦国の世になると、北条氏と扇ガ谷上杉氏との狭間で、北条氏方の援軍として、上総三舟山で戦いに敗れ滅びます。
渋川氏の家臣達は、蕨城周辺に帰農し沼沢地帯の干拓を行い塚越新田を開いたとされています。
そこでNTTハローページ個人名、今年の8月分の版で調べました。
塚越の地名は蕨市にありますが、干拓新田は隣の川口市にも広がってあります。
私が以前に見つけた、九州探題の家臣は板倉、森戸、吉見、加賀、斉藤、足助(あすけ)、香月、碧海(あおみ)、国木原の9姓でした。
香月、碧海、国木原の3姓を除き、皆、塚越近辺にあります。
秋山姓は27軒ほどあります。
驚いた事に、秋山光朝の兄弟だったとされる、小笠原、南部姓があり、光朝の父、加賀美遠光の兄弟、逸見、武田、安田の姓が、逸見姓を除けば、加賀美も揃って残っているのです。
新田干拓は蕨市のホームページに、渋川氏の家臣達が行ったと書かれていますので、これらの名前の人々は渋川家に仕えていたものと推測できそうです。
秋山光長が蕨から九州へ随従した可能性は高く、私も同感だった、管理人様の系図の信憑性についての疑問が少しやわらぐ感じもしています。



[320] 上瀧豊久様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/10/24(Mon) 20:18  

豊久様の上瀧氏に関する書き込みは、江戸時代以前の話と思われ、数少ない貴重な口伝だと感謝しています。
私は、この口伝を元に色々と模索していますがいっこうに前に進めません。
先日再度読み返して、千葉氏の部下で一部が薩摩へ行くというくだりを棒読みしている事に気がつきました。
yagyu様がこのページの[316]で薩摩へ行った千葉氏の事を書き込んでくださいましたので、NTTのハローペジで調べて見ました。
鹿児島の出水市、阿久根市、長島町版では、上瀧の姓は読み方を変えても1軒もありませんでした。
一方、千葉氏の山門姓は、サンモンは1軒も無く、ヤマト姓の読み名の方が4軒出水市にありました。
大阪市の図書館で人名辞典を調べたのですが、千葉氏に随行て薩摩へ行った上瀧氏の記録を探せませんでした。少し関係ありそうな記述はありました。
『上瀧(ウヘタキ)肥前千葉氏の配下の将にして、歴代鎮西要略大永5年の條に見え、又永禄5年有馬氏に従う。藤津郡の豪族に此の氏みゆ。』角川書店、太田亮著
姓氏家系大辞典、第1巻、P923
ウエタキのエの部分がヘになっています。
大永5年の歴代鎮西要略の武将と云えば、yagyu様が書き込んで頂いた、千葉氏と有馬氏の戦いで八幡山砦で殲滅した上瀧氏の事だと思われます。
私はこれまで、戦死した上瀧氏は、千葉氏の家老、橘中村氏の配下だったと思いこんでいましたので、薩摩へ行った上瀧氏と小城で千葉氏に仕えていた上瀧氏が居たとなると認識を大きく変える必要があります。
もしこのページを引き続きお読みでしたら、お読みになった人名辞典の名前を教えて頂ければありがたいのですが…
20年近く前の事と書かれていますので無理なお願いと分かっていますが、電話帳での上瀧姓の分布を詳しく書かれていますので一緒にメモでも残っていましたなら、勝手なお願いですが宜しくお願い致します。


[319] yagyu様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/10/20(Thu) 12:55  

上滝の地名が見つかりました。
千葉県夷隅(いすみ)郡岬町嘉谷上滝(うえだき)
位置的には上総になりそうです。太東崎の近く、夷隅川を少し遡った所にあります。
私が見ている関東道路地図には嘉谷だけで、上滝の地名の記載はありませんが、近くに中滝という場所が載っています。
yagyu様のウワダキとウエダキの違いはありますが、少しでも参考になれば幸いです。


[318] yagyu様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/10/18(Tue) 13:26  

さすがですねー!私のような早とちりにとってはyagyu様の博識がどれだけ役にたっているか、感謝のみです。
豊久様の記述からは、上滝氏は房総の千葉氏に随行して小城へきて、その一部が更に薩摩へ付いて行ったと解釈できます。
とすれば千葉氏の領地に上滝の地名が残っている可能性もあるはずです。
yagyu様はご存じの事と思いますが、このページの読者の皆様にお調べの手間を省くために書き込みます。
千葉県に上瀑(かみたき)村という地名があります。
消滅した村名の中に、上滝田村という地名があって江戸時代には安房勝山藩の所領だったそうです。
地名は上滝田村⇒滝田⇒三芳(みよし)村と変遷しています。郡も平(へい)郡⇒安房郡⇒館山市とその名を変えています。
上滝という滝の名もあります。
鎌倉期以前の古地名に上滝があるのか?上滝田村がどんな呼称だったのかは調べていません。
上滝姓の武士が千葉から小城へ来ていたとすると、武雄の上瀧村の地名や上瀧源六、房丸親子の先祖との絡み、落ち武者などでやっかいな謎解きになりそうですねー。


[317] つづき 投稿者:yagyu 投稿日:2011/10/13(Thu) 12:38  

栄えています。種国の孫、秀忠は源頼朝に仕え、山門太郎といわれてました。ここに上滝氏の一部が移動した可能性があります。
薩摩の上瀧氏がいたらいいなと思います。

わが家は言い伝えのみで、千葉氏との関連は?です。
前にも書き込みましたが、関東にも上滝の地名がいくつか点在しており、上瀧氏が存在していたのではないかと期待しています。


[316] 薩摩千葉氏 投稿者:yagyu 投稿日:2011/10/12(Wed) 22:44  

上瀧豊久様の情報は、上瀧氏を調べるうえで大変参考になりました。
実は薩摩に上瀧氏がいないか、すこし調べたことがありました。
結果は残念ながらわかりませんでした。
その過程で薩摩千葉氏をざっと読み流していたのですが、改めて年代をつき合わせてみると、豊久様の情報と一致しました。
「1220年、田村良真氏が京都から八天神社に来た」
田村氏は京都の宮司の家系で1187年、源頼朝より御教書をもらったとされています。それで田村氏族の良真氏が八天神社に来られたのでしょう。
「千葉氏もその前に小城に来られた」
垣武平氏流、千葉常胤、源頼朝の宿将。1192年、関東所領+小城郡晴気をもらっています。本人は関東にいたのでしょうが、西遷御家人といわれる一族が移ってきたのかもしれません。
「部下に上滝の氏見ゆ、その一部は薩摩にゆく」
この上滝氏はみつかりませんでしたが、千葉氏は薩摩に行ってます。千葉系図に、1160年頃千葉氏の族、 平 種国、山門院の院司となり亀井山城を治所とする、と記されています。出水郡野田郷上名村。山門氏(サンモン、やまと)と称し1197年頃には600町を超える豪族になって


[315] yagyu様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/10/07(Fri) 16:57  

ありがとう御座います。上瀧空蝉の伝記に(うわたき)とされているなら、それが正解でしょうね!
上瀧道可についての見解は、yagyu様とは反対で若いお側衆ではなかったか?と感じています。
その根拠は忌み名が書かれていないからです。
上瀧美濃守義重の場合、義重が忌み名だそうで、50人の名を見ると、忌み名のある人と無い人が居ますが、無い人達は若くて、忌み名を付けるまでの年齢では無かったのではないかと解釈しています。

話は変わりますが、yagyu様のご先祖に関係あるか?と思える記述を見つけましたので、ご紹介します。
この《上瀧氏の歴史》[98]上瀧豊久様の書き込みで、下から7桁目《確か千葉氏もその前に小城に来られたと読んだ事があります。その時、部下に上瀧の氏見ゆその一部は薩摩にゆく》
yagyu様のご先祖は確か、関東より鎌倉へ御家人として来たとされていましたので、関東の千葉氏と源頼朝との繋がりを考えれば、あり得ない事もないかなー参考までにお知らせ致します。
この記述をそのまま解釈すると、中村氏に仕えた上瀧氏や上瀧源六、房丸親子とが絡んできて、もつれた釣り糸になってしまいます。

こんな大事な書き込みの記述を読み逃していたとは、つくずく棒読み癖を反省しています。


[314] 私も上瀧 投稿者:上瀧 投稿日:2011/10/01(Sat) 07:13  

こんにちは。

こんなに同じ苗字の人がいるとは知りませんでした。

私は国外に移り住み子供も上瀧の苗字を受け継いでいるので、この地でもこの苗字をしっかり残していくことと思います。


[313] ミツゴロウさま 投稿者:yagyu 投稿日:2011/09/16(Fri) 00:38  

おひさしぶりです。
上瀧空蝉(うわたきうつせみ)についてですが、田中雄一氏は冨士町史編修に係わって「上瀧空蝉」の人と業績に興味をもって研究されたようです。

冨士町史のなかの「学者、教育」人物欄に上瀧空蝉(うわたきうつせみ)として載っています。
天保9年〜大正7年(1838〜1918) 地方開発者
天保9年4月4日小城郡小城町にて出生。学者であり、特に書をよくし、人格、見識共にすぐれ、政治力豊かな人物であった。
明治5年第18大区(小城郡南山村、北山村)戸長になる。
住民を説得して当時の官有地(国有地)を私有林として払い下げをうけるよう勧誘し、それが実を結び、住民の私有林造成への意欲を沸き立たせ、林業に大きく貢献をした。また子弟の教育にも熱心で、私塾を開いて多くの人に教え、塾生のなかから多くの優秀な人材を世に送った。
林業開発、教育文化、地域社会の善導にあたり大きな治績をあげた。
後年熊本県天草郡福連木の村長に迎えられ、晩年は故郷の小城町に帰り、80歳で他界。

先見の明があり、決断力も優れた人物として記されています。

上瀧道可、松浦道可、偶然にも名前が同じですね。推測ですが、というかカンですが上瀧道可はあまり若くないような気がします。お坊さんか学者の名前みたいです。
上瀧氏の流れは長い歴史があり、複雑に拡がっているような感じです。犬塚氏の家人がいたように龍造寺家信のまわりに上瀧氏がいても不思議はありません。また志摩守の関係者であることも否定できません。ただ横造城の戦から1年くらいでは藤津衆はさほど信用されていませんし、むしろ信用を得るために転戦に転戦を重ねていった時期でもあります。歴史の奥は深いです。


[312] 訂正いたします 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/09/15(Thu) 15:57  

[256]に龍造寺家信に随従して後藤氏へ行った50人士の中に上瀧道可の名を書きましたが、西暦年号を1557年、横造城の戦いを1558年と間違って表示している事に気がつきました。
随従したのが1577年で、横造城の戦いは1576年でした。
訂正しお詫び致します。

この誤りのために、上瀧道可は志摩守と関係が無く、犬塚氏の家人だった上瀧氏の関係か?しかし、龍造寺氏からすればまた者の立場の者を部下にするか?そんな感じでした。
年号表記の間違いに気づき、考えてみると、横造城の戦いで上瀧志摩守が龍造寺隆信の部下となり、その後に、龍造寺家信に上瀧道可が随従していますので、道可は志摩守に関係のある人物と考えられるのではないか?
想像を飛躍させて怒られそうですが、兵太郎が鍋島茂里、勝次郎が龍造寺政家の部下になったように、もうひとりの弟が家信の部下になったと仮定するのは如何でしょうか?
仮定ついでに言わせて貰えれば、道可が志摩守の子供だったとすれば、当然、武雄や嬉野方面の地理に状況に詳しく、人脈もあって、佐賀育ちの家信にすれば重宝な存在だった可能性があります。
あくまでも、思いつきの想像です。


[311] yagyu様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/09/06(Tue) 13:52  

お久しぶりです。お元気でしょうか?
yagyu様が[111]に書き込まれていた後藤貴明が謀反を起こした義理息子、惟明を簡単に許している事に疑問を書かれていましたが、私も同感でした。
先日、この件についての記述を見つけましたので、既にご存じかもしれませんが、お知らせいたします。
『この反乱を許した(貴明が)裏には惟明の実家、平戸の松浦道可(惟明の父)との和親関係を崩したくなかった。
この事態に進展するや、貴明は直ちに平戸の松浦氏へ使者を送り、自分の立場を釈明すると共に、特に惟明に敵意をもっていない、おろそかにはしないという事を誓い、松浦道可も貴明の意向を諒解し、他意は抱かない旨の起請文をよこした。
この事件のため後藤、松浦両家の和親を崩さないことを両家で誓いあった。』武雄市史、中世二、松浦氏との関係



[310] 管理人様 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/08/12(Fri) 13:58  

御丁重なご指導ありがとうございました。お気遣い感謝いたします。
私も何で誤解が生まれたのかと原点を見つめてみて気がつきました。
この《上瀧氏の歴史》の中の【上瀧氏略系図】にあります
信重(志摩守)⇒重清(勝次郎)⇒筑後上瀧氏(こうたき)へ
信重(志摩守)⇒能宗(兵太郎)⇒肥前上瀧氏(じょうたき)へ
私の頭の中にはこの事が完全に擦り込まれていますから、肥前、じょうたき、兵太郎(長男?)100町の恩賞、じょうたき本家、庄屋などに連動したまでの事で、嫡流や庶流などの問題には無関心でした。
そんな事よりも、本藩から小城藩へ随従した上瀧空蝉の先祖と思われる上瀧氏が誰なのか?という事の方が重要な課題でした。
今でもこの課題に悩んでいます。
上瀧空蝉について、管理人様は(わたき)yagyu様は(うわたき)《出典、上瀧空蝉小伝(田中雄一著)》とされていて、私は小城市には(じょうたき)姓が沢山あって、(わたき)(うわたき)姓が何で少ししか無いのかが不思議なのです。
先日、安武氏ページに《戦国時代は家名と血統が並列し、有効な方を強調した。江戸時代は家名を第一とした》とされ、理由のひとつに《側室を持つ力が無い家が大半だから、家名維持のため養子を迎える事も多く、血統がめまぐるしく変わるから》と参考になる事が書かれていました。
私なりの仮定ですが、秋山氏と上瀧氏の改姓問題にも関係ありそうな気もするのですが…



[309] ミツゴロウ様、皆様へ 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/08/11(Thu) 15:51  

ミツゴロウ様、この度は私の不用意な発言で、失礼致しました。私が誤解していた様です。申し訳ありません。
私の家もこうたきの分家・庶流になります。しかし、正直こだわりがないかと言えば嘘になります。
もちろん自分が本家になろうとは思いませんが、嫡流や本家とはこうあって欲しいという想いはあります。
それは過去ログ[176]にも書いた事がありますし、常々申し上げるのは「家系や先祖は自慢ではなく励みにして欲しい」という事です。

ちょうどお盆も近いので、皆様にも先祖というものを改めて考えて頂きたいのですが、どのような命の繋ぎ方であっても、今の自分は先祖のお陰だと思います。
しかし、今ある自分の命をどう繋いで行くかは、考えなくてはいけません。
正統や嫡流で争うよりも、どう生きてどう死んで行くか。また限りあるその人生の中で何をしたか。
先祖に対して、恥ずかしい生き方や偽りの人生を生きていないか。
その様な事を意識して生きた人生は、必ず子孫が誇りに想い、また励みとして繋いで行くでしょう。

本家であると偽ったり、分家である事を隠したり、それは逆に恥ずべき行為で、先祖への冒涜です。
今いる自分へ繋いだ命の途中の誰かの人生を否定する事です。それがどんな人生であっても、命のルーツです。
私も「上瀧」の色々な方を知ったり、見たりしておりますが、はっきり申し上げて血筋だけの嫡流や本家は意味がありません。
例えば薩摩島津家なども、島津貴久・義久・義弘などの奥州家・伊作家と呼ばれる流れは本来分家です。
人類誕生まで遡ると、所詮は人間全部なにがしかの分家、分かれですから、分家で良いではありませんか。
大事なのは、そこに何が受け継がれているかだと思います。そういう意味では一子相伝の武術は素晴らしい事だとも思います。

ここまでは掲示板をご覧頂いてる皆様への内容でした。
ここからはミツゴロウ様宛で。
この度は嫌な思いをさせてしまい、誠に申し訳ございません。
>管理人様に誤解されたのは、私の手法だと気づきました。
>自分でも多少強引かなーと思う仮定の仕方でしょうか?
そうですね、出来れば一つだけお願いしたいのは、仮説は仮説と前置きするなどの配慮をして頂ければと思います。
口伝で受け継がれている事、じょうたき氏が嫡流と信じる事、久池井の領地など信じる事は、勿論自由です。
しかし、じょうたき、うわたき、わたき、はたき、かみたき、うえたき、こうたき等色んな方々がおられます。
その中にはミツゴロウ様が口伝を信じると同様に、それぞれの人が、それぞれに信じている事があると思います。
強引な仮説や仮定は、それぞれの人の信じる事を結果的に否定したりする事もあるかと思います。
ですので出来れば仮説との前置きで、色々な事話して頂けたらと思います。
それだけあれば、「上瀧氏はスーパーヒーロー説」等、どんな事も自由に考えて投稿頂いて構いませんので(笑)

>今までの書き込んで来た中には、今から思えば赤面するような的外れの仮定も幾つかあるのは良く覚えています。
>元々歴史の好きな私に火をつけてくれたのがこのページで、その後、上瀧氏に関する事を調べては、何か新しい事が見つかると上瀧の皆様のお役に立てればとせっせと書き込んできました。
赤面は私も同じくです。今でも不勉強が多く、ご迷惑をかけている事が多々あるかと思います。
上瀧氏の流れは勿論の事ですが、上瀧志摩守も龍造寺家のちょっと有名な小隊長レベルでしょうから、やはり資料が少ないですよね。
だからどうしても、仮定の話になってしまい、結果的に的外れな事になる事もあるでしょう。
しかし、それは恥ずかしい事ではありませんし、ミツゴロウ様の今までの努力は素晴らしい物だと思います。
そのお陰で新しい名前や事実が分かって来たのですから。このHPもミツゴロウ様やyagyu様、多くの方の支えで成り立っております。
その事は本当に有難く思っております。どうぞまた久池井の領地の話などお聞かせ願えたらと思います。
また今後共、末永くお付き合いをお願い出来たらと思います。どうぞ宜しくお願い申し上げます。


[308] 管理人 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/08/10(Wed) 14:47  

お久しぶりです。手明槍の名簿有り難う御座いました。
これで又一人、鍋島藩に仕えていた上瀧姓の名が増えました。
この度、私の書き込みの事で誤解されて伝わっているみたいなので書かせて頂きます。
その前に管理人様の《上瀧氏の歴史》のホームページに対する私の気持ちをお伝え致します。
私の兄弟からの連絡でこのページを知ったのですが、正に感激しました。
幼い頃、先祖の事は多少、父に聞いていましたが【上瀧】に関する歴史がこれだけ詳しく書かれている物を見るのは初めての事でした。
元々歴史の好きな私に火をつけてくれたのがこのページで、その後、上瀧氏に関する事を調べては、何か新しい事が見つかると上瀧の皆様のお役に立てればとせっせと書き込んできました。
そんな気持ちですので、このページの管理人様には心から感謝しています。同時に新しい事実が数多く資料として見つかればと期待もしています。
このページが末永く続きますようにと思っています。

誤解を受けていますのが私が無理に【じょうたき】姓を嫡流にしようとしているとのご指摘でした。
私は最初何のことか理解出来ませんでした。何故なら私は嫡流とか庶流などの事には関心があまりないからです。
言われてみれば、私の家も祖父の代から【じょうたき】の庶流になります。
私は勝次郎の流れだとしても全く気になりません。
管理人様に誤解されたのは、私の手法だと気づきました。
自分でも多少強引かなーと思う仮定の仕方でしょうか?
私の場合、兵太郎と勝次郎の兄弟が昔に居たとなると兵太郎が兄で、弟が勝次郎だと決めてかかります。
そんな今の自分なりの常識的な判断で、点(資料)と点(資料)の空間(不明点)を仮定し、調べています。
今までの書き込んで来た中には、今から思えば赤面するような的外れの仮定も幾つかあるのは良く覚えています。
時々突拍子もない推理をすることがありますが、あくまでも真実を見つけたいためのものであって全く他意はありません。
久池井100町の件については、別に私なりの意見もありますが又の機会と致します。



[307] 兵太郎と勝次郎 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/08/02(Tue) 13:46  

家督相続を複雑に考えました。完全な仮説です。
勝次郎が次男と仮定します。次男である為か、小姓の様な役割もあったろう政家公の御側定詰番になります。
御側定詰番は信用の無い藤津衆の人質の役割と、外様の上瀧氏を龍造寺家の譜代の家臣へとして、また政家公の子飼いの武将として育てるなど意味二つがあると思います。
しかし政家公隠居の為に勝次郎は藤津衆に復帰します。
その代わりに、鍋島直茂の養子の鍋島平五郎茂里に属する立場に、長男の兵太郎が招集されます。
なぜ勝次郎ではなく、兵太郎か?それは龍造寺の息の掛かった近習を遠ざけて、鍋島に忠誠を誓う者を育ておく為。
勝次郎は政家公の御側定詰番なので、龍造寺家からの政権委譲を実現したい鍋島家は側には置かないでしょう。
なので勝次郎は仕方なく藤津衆へ復帰します。しかしながら藤津衆の優れた武闘派としての組織をなんとか譜代に組み入れたい為に兵太郎に目を付ける。
兵太郎は長男ながらも、佐賀の中心へと組み入れられ、鍋島家中でも勇猛で常に先鋒を務める鍋島平五郎茂里へ預ける事になります。
しかし兵太郎は後の立花との戦いにおいて戦死します。そして上瀧氏は勝次郎が継いでいく事となる。こんな考えも面白いかもしれません。

ただ一つ問題は系図でも勝次郎(孫兵衛)=重清と断言出来ない部分です。恐らくは藤津衆に属している等から間違いないとは思いますが。


[306] 大和町久池井の領地 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/08/02(Tue) 10:19  

やっぱり加増で大和町久池井100町はおかしいと思います。
私が志摩守の領地を五町田110町としている資料が天正8年の隆信公幕下着到帳です。

それが同じ天正8年の柳川出陣の功で大和町久池井の領地を得たはおかしいと言わざる得ません。
その根拠がyagyu様記載の直茂公譜考補の天正8年(1580年)「隆信公五箇國御領地ノ節御一門並肥前國中譜代幕下侍領地弐拾町以上配分覚」では理屈が合いません。

どちらも知行を示す同年の資料で、110町と100町、五町田と久池井が二つ領地があったとなり、おかしな事になります。

隆信公幕下着到帳に記載されているのは五町田ですので、110町や100町と多少の間違いがあっても、久池井ではありません。

資料で「上瀧志摩守 100町 久池井」と明らかに記されているならば、まだ分かりますが。

もし久池井の領地を龍造寺家、鍋島家から得たとしても、天正8年以降なのは確かだと思います。


ずばり申しますが、なぜ無理矢理じょうたき氏を上瀧の嫡流としたいのでしょうか?
そのような意図が見えて仕方ありません。今までは黙って見ておりましたが、無理な仮説や事実を歪曲するのは違うと思います。
佐賀にじょうたき姓の立派な本家と言われる所があるのでしょう。ならば、それだけで良いではありませんか?

久池井を領地で貰って志摩守と兵太郎が移った?恐らく無いでしょう。
藤津衆はなぜ、戦で先陣が多く、多くの戦場に参戦したのか。それは龍造寺家の新参者で信用がないからです。
元は有馬に居た裏切り者です。先祖代々の家臣ではありませんので、死んでも惜しくはありません。
確かに藤津衆は武闘派であり、戦闘での利用価値は高く評価されていたでしょう。
ならば余計に佐賀の近く久池井などの手元ではなく、遠くに据え置くはずです。
近くには一族衆、譜代の重臣など、信用置けるもの、そういった者を置くでしょう。


[305] 肥前春日流春日会? 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/08/02(Tue) 08:12  

実は肥前春日流春日会というのは前々から知っておりますが、一代一人相伝の武術を継承してあるのはこちらでしょうか?
うーん、どうでしょうね?ミツゴロウ様の仰る一代一人相伝なら、同じく仰る仮説の上瀧へ婿入りして継いだ秋山流上瀧氏よりも、
秋山氏以前よりあったと言われるの上瀧氏が武術を継いでいないとおかしくなりませんか?
じゃないと秋山氏流が上瀧宗家になりますよね?

そう考えると過去ログ[235] の
>一人相伝とは、自分の跡継ぎ一人だけに継いでいく方法です。
>と云う事は、志摩守⇒兵太郎⇒兵太郎の子(跡継ぎ)〜⇒と私が知っている方へ引き継がれている事を思えば、久池井の【じょうたき家】は兵太郎の子孫になる筈です。
客観的にこれは仮説としては矛盾を産むのではないかと思います。志摩守が一人相伝の武術を編み出した根拠もありません。
確かに志摩守は武勇に秀でていた為に討ち入りの逸話も生まれたのだと思いますが、そこと嫡流や跡継ぎを結びつけるのは強引な気がします。
また武士ならば武芸の嗜みは当然だと思いますので、普通に家系の武芸に優れた後世の方が一人相伝として繋がれたのだと思います。

http://www.eonet.ne.jp/~hizenkasuga/outline/index.html


[304] 浪人の理由 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/08/02(Tue) 07:33  

上瀧重清の子が浪人した事は書きましたが、手明槍でなんとなく理由が分かりますね。
財政難の佐賀藩が、リストラ出来そうな人間や理由を探していたと考えると納得出来ます。

また佐賀のじょうたき氏が「大和町久池井の地方で、名字帯刀を許された庄屋をしている」と推理した事がありましたが、手明槍がそれを証明する物でもあると考えます。
武士ですから名字帯刀は当たり前として、庄屋ではないにしても商いや、町道場で武芸指南など、無役(仕事が無い)の手明槍の身分ですから、日常は出仕せず勝手気ままが許される訳です。
そして自然と移行していき庄屋としての地位を築いたのかも知れません。藩にとっては表だってリストラはしないものの、本当は辞めてもらって好都合な訳ですから。
また私は一代一人相伝の武術というのは、志摩守の時代からは無かったと思いますが、後年、町道場などを興されたと考えると武術戦略が一代一人相伝としてその頃編み出されたとしてもおかしくはないと思います。

それと突然ですが前に五ヶ国が分からないと、ミツゴロウ様が仰っていましたが、ここでレスを。遅くてすいません。(^^;
正確には過去ログ[226] で
>五ケ国とは何処かは今の私には理解出来ていませんが
これは龍造寺隆信公が好んで使ったとされる「五州二島の太守」「五州太守」からも分かります。
つまりは肥前、肥後、筑前、筑後、豊前などになるかと思います。二島は壱岐、対馬ですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/浪人


[303] 佐賀藩手明鑓 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2011/08/02(Tue) 06:42  

少々、調べ物しておりましたら、上瀧の記述がありましたので、紹介します。
引用元は2chからなんですが、佐賀藩の藩政時代の上瀧氏の待遇を知る事も出来ます。
念の為に投稿の全てを引用させていただきます。
---------------------
佐賀藩手明鑓(元禄15年)

鍋嶋左大夫与内 中嶋七兵衛組
横尾惣左衛門、北原孫三郎、執行三左衛門、古賀太左衛門、千々岩覚左衛門、
原五郎左衛門、千々岩藤兵衛、大野千兵衛、江里口庄左衛門、千々岩長右衛門

鍋島主水組内 大隈加兵衛組
富永弥六衛、池田弥兵衛、上野利兵衛、前山十郎右衛門、北嶋三左衛門、
牟田十五左衛門、池田藤左衛門、横尾孫助、大渡甚左衛門、成富伊右衛門、
諸岡杢兵衛、堤与市左衛門、犬塚弥次兵衛、横尾内蔵允、田原利左衛門、
田代小左衛門、久保与右衛門、蒲原藤五左衛門、高木代右衛門、本村作助、
田代正右衛門、柿原利右衛門、北原太兵衛、深川幸左衛門、大嶋八郎兵衛、
安住格右衛門、馬渡平左衛門、高木安兵衛

鍋島主水組内 村上孫兵衛組
重松源衛門、山田嘉兵衛、小林源七、野田吉十、小嶋与左衛門、牧口与市、
香田貞兵衛、秀嶋藤右衛門、小嶋次郎兵衛、加々良八郎左衛門、久富善左衛門、
南里六郎左衛門、加々良九五郎、林武左衛門、小林安右衛門、江頭十郎兵衛、
相蒲藤左衛門

石井修理組内 石井小右衛門組
井上嘉兵衛、赤星久右衛門、吉原甚太郎、香田市郎左衛門、北村善左衛門、
杉町孫助、増田左助、志波勘左衛門、副田喜左衛門、堤弥右衛門、嶋五郎助、
古賀利兵衛、嶋清右衛門、藤山藤七兵衛、牛嶋新五郎、鮎川貞右衛門、大塚与助、
執行十郎兵衛、坂井戸兵衛、青柳藤次左衛門、堤善助、東嶋彦左衛門、
増田藤右衛門。

鍋嶋喜左衛門与内 倉町市郎右衛門組
大坪忠左衛門、成冨八兵衛、早田儀左衛門、小川源左衛門、真崎右之助、
平野次郎八、石井久左衛門、久冨貞右衛門、吉田弥五兵衛、香田清兵衛、
俣野久左衛門、牟田部兵衛、永渕九兵衛

千葉頼母組内 西五太輔組
光岡清左衛門、光安源次郎、土山与助、渡辺徳右衛門、諸岡喜兵衛、松岡新之丞、
藤瀬源左衛門、馬郡久五郎、古賀市良左衛門、執行太郎左衛門、増田孫左衛門、
灰塚五郎左衛門、小柳伊右衛門、大庭平次兵衛、廉江八十郎、大江新左衛門

鍋嶋庄兵衛与内 川瀬十郎左衛門組
高木久兵衛、増田彦左衛門、立川十之允、大石小兵衛、栗波弥右衛門、
中溝部右衛門、川原千兵衛、野田利右衛門、中村平太輔、江頭孫六、
土屋三五左衛門、中山新次左衛門、梅崎治部右衛門、武冨次兵衛、永田太右衛門、
田尻善左衛門、徳嶋弥左衛門、福田幸左衛門、南里忠左衛門、武冨次六、
岸川弥五右衛門

鍋島靭負組内 諸岡彦右衛門組
副田藤次兵衛、野口武左衛門、犬塚平内、堤三左衛門、上野兵助、野田平蔵、
石田兵左衛門、新郷千兵衛、松永弥太右衛門、小川与兵衛、副島久右衛門、
藤山諒斉、吉原五右衛門、藤野蔓竹、相良九八郎、横尾弥吉郎、空閑三五右衛門、
江口九郎左衛門、江口藤次郎、江口吉左衛門、江口半右衛門、山辺惣右衛門、
江口小左衛門、柳川弥右衛門、原十郎右衛門、百武勘右衛門、牟田嘉左衛門、
宮地甚兵衛、城島六右衛門、吉村源内

中野数馬組内 犬塚武左衛門組
安住二左衛門、井上吉左衛門、藤井福右衛門、諸隈孫三郎、牛島作右衛門、
小出次左衛門、中野真右衛門、福田文蔵、小川茂右衛門、江口武右衛門
古賀権内、成富三右衛門、古川権太夫、無藤助右衛門、三上平八、槙利右衛門、
指山源六、野口甚兵衛、秀島嘉平次、蒲原八右衛門、上瀧久五郎、井上甚九郎

成富九郎兵衛組内 古賀清兵衛組
江越太郎右衛門、田中善次郎、宮地八郎左衛門、福地藤七兵衛、江嶋二兵衛、
江嶋吉兵衛、田口久左衛門、牛嶋利右衛門、中溝源六、藤崎万吉、藍川次郎左衛門、
陣内覚兵衛、海野千右衛門、野副二左衛門、■田六右衛門、大隈藤左衛門

鍋島官左衛門組内 深堀新左衛門組
川副戸右衛門、川副祐右衛門、中西源之允、秀嶋新右衛門、坂井太左衛門、
千布用之助、円城寺権兵衛、田代藤左衛門、江口彦左衛門、仁戸田正左衛門、
赤司市左衛門、堤次郎左衛門、松野喜兵衛、志岐新五右衛門、枝吉清兵衛、
林吉兵衛、杉町牛兵衛、馬渡佐左衛門、執行孫兵衛、伊東二右衛門、古賀与左衛門、
草野藤五左衛門、柴田伝兵衛、堤与兵衛、石井弥右衛門、亀川新右衛門、
相浦五郎右衛門、伊東近右衛門、森戸次左衛門、相浦近左衛門
---------------------


これは佐賀藩手明鑓と呼ばれる家臣団です。


---------------------
(以下Wikipediaの「佐賀藩」より引用)
手明槍
龍造寺隆信の全盛期、北九州一帯の大小名を包括して家臣団がにわか形成されたが、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信の横死により、龍造寺家の勢力が衰退し、支配地は大幅な減少を見せた。にも関わらず、初期の家臣団をそのまま維持していたため、大きな財政負担になりつつあった。そこで初代藩主鍋島勝茂は、知行50石以下の侍の知行地を召し上げ、無役とし、蔵米から禄を支給することにした。
ただし、戦時の際には、槍一本具足一領で軍役を担うこととされた。後年に至っては、手明槍でも諸役に任じられるようになった。
---------------------

ここから分かるのは元禄時代(1700年頃)の藩政の上瀧氏の中には知行地を召し上げられ、直接の禄を支給される者も居たという事で、つまり大幅な減給ですね。
前に上瀧志摩守の収入を計算した事がありました。五町田110町=1000石。
石高換算で1000石は現在の価値で1億円としましたが、一般的な換算ではもう少し少ない様です。
1石の米=7万円程度となり、7千万円となります。五公五民(年貢制度。領主と農民で平等に分けて)で考えると、3千5万円程度が上瀧志摩の当時の年収となります。
しかし、これは現在の米の値段で計算ですので、実際は江戸期に米の価値を考えるとやはりもう少し高いかも知れません。
手明槍は50石の知行を一律切米15石の現物支給に減給したと事です。換算すると350万円の収入の家臣を、105万円にしたということですね。
105万円といっても、米の現物支給ですから、まぁ米を喰うには困らないにしても、武士だけを生業にしては生きて行くのが大変でしょう。
ちなみに1石は大人1人が1年間に食べる量ですから、この収入では大家族だったら大変ですね。
つまりはリストラはしないけども、普段は出勤しなくて良いから、自分で稼いでねって制度が手明槍なわけです。

http://toki.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1271704721/


[302] 空閑、栗原姓を追ってみました。 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/07/31(Sun) 12:38  

藤津へ来た秋山義重が上瀧氏の婿養子になったのではないのかと私は推理しているのですが、空閑氏も同じような事があったように思えます。
そこでNTTハローページ2011年版を取り寄せ調べてみました。ハローページは全ての人が登録されている訳でもありませんので正確なものとは思いませんが、大体のことを推測するには簡単に入手出来て便利です。
山梨県全体の数字です。
空閑(くうが)姓=0、栗原姓=88軒《山梨県全体に分散し分布》、古賀=6軒《甲府3軒、甲斐2軒、都留1軒》
空閑(こが)1軒《甲府》
結果をみれば、空閑姓は山梨県には昔は無かったのではないか?と推察出来そうです。
武田系の武士だった(以前の姓は不明ながら)男性が、九州の空閑氏に婿養子として空閑姓を名乗り、昔の自分の系譜に繋げていることが推測出来ます。
私が推理している秋山氏と上瀧氏との関係と同じパターンのように思われるのですが如何でしょうか?



[301] 空閑、栗原姓をみつけました。 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/07/25(Mon) 13:26  

龍造寺隆信の3男、家信が武雄後藤氏の養子として後藤家に行くときに随従した50人の家臣の名簿の中に上瀧道可の名前があると以前に書き込みましたが、空閑太郎左衛門信貞と栗原帯刀久直の名前もありました。
余談ながら、久池井一童信喜の名もあります。
他に、鍋島藩朝鮮出兵名簿、成富茂安組の中に空閑可清、左衛門太夫、忠兵衛の3人の空閑姓が出ています。
秋山姓を探しているのですがみつかりません。どなたかご存じ方がありましたらお教え下さい。
小城藩成立時に随従した家臣の中にあったような気もするのですが、あいにく手元に資料がなく確かめようがありません。


[300] 秋山氏のその後 投稿者:ミツゴロウ 投稿日:2011/07/22(Fri) 21:12  

九州探題が滅び、探題に仕えていたと思われる秋山氏のその後の動向を探している時、ネットでおもしろい書き込みを見つけました。
【2001年、大江さんの公開メール】のページで《晴わたる》様書き込み7月4日分の中に、佐賀藩士名として秋山、上滝、空閑(くが)、栗原《武田系》との記述があります。
出典が書かれていませんが佐賀藩史にかなり詳しい方と思われます。
事実とすれば、探題が滅びた後、龍造寺氏が筑後攻略前後あたりに龍造寺に仕え、その後の鍋島氏支配に組み込まれたものと思われます。
上瀧志摩守の口添えがあったのかもしれません。
空閑、栗原姓が武田系とありましたので興味があって調べてみました。
空閑姓は少数姓で栗原姓は多数姓なので、空閑氏の方が調べ易い感じでしたが、空閑は古賀に通ずと云う事で出自が熊本や長崎、大村と掴みきれないでいます。
ところが、名前の分布をNTTの電話帳で調べると、秋山氏の分布と良く似ているのです。
まさか、九州探題、渋川氏に従ってきた秋山光長と同じく随従してきたのでは?と感じたくなります。


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