上瀧氏交流掲示板
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[239] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/11(Sat) 18:01  

有り難うございます。助かりました。          yagyu様の博学と調査能力にはただただ感服するばかりです。
今日は仕事が休みで、朝から上瀧氏と秋山氏の繋がりを考えています。
仮に、秋山源次郎が九州探題の甥、堯顕と共に藤津へ落ちのびて来たと仮定した場合、九州探題渋川伊茂を裏切った方に付いた訳で、実家へは帰れなかったでしょう。
かといって、堯顕は有馬氏に客分として迎えられていますので大勢の家臣を引き連れて行かない状況だと思います。
有馬氏としては、残った人を橘家にゆだねます。
その後はyagyu様が推理された形か、管理人様の推理のようになっていったのでは?
1533年に堯顕が藤津に来ていますが、この時の秋山源次郎が20歳前後だったとすると、43年後《1576年》に源次郎の子供、志摩守が《久間衆連署記請文》で出てくる時が35歳前後だったとしても矛盾は感じません。
問題は婿養子で上瀧を継いだか、管理人様が言われる断絶した上瀧源六の流れを継いだかは難しい判断です。
私の考えは婿養子として上瀧家に入り、系図が無かったか、無名の系図だったので自分の系図と繋げた。
源六親子の出現から久間衆で志摩守の名が出るまでには既に240年位の年月を経ていまのすので、幾つかの分家もあります。
その当時は《うわたき》と呼んでいた事が記録や現在の嬉野市吉田に多い《うわたき》様の呼称で推測されます。
その《うわたき》だった呼称を書く字を変えず地名の《わたき》に因んで改氏したのではないか?
その前例を孫達が踏襲し、《こうたき》《じょうたき》と字を変えずに、呼び名だけを変えたのでは?とも考えています。


[238] 小鹿島文書 投稿者:yagyu 投稿日:2009/07/11(Sat) 14:31  

源六親子が北方に居たとの根拠ですが、小鹿島文書の建武元年(1334)橘薩摩淨蓮が塚崎後藤経明に宛てた召文です。6人の名前を記して参戦させるよう要請しています。そのなかに房丸がいます。上村片房丸。片の詳しい解釈はわかりませんが、上村の片隅にいる房丸と解釈しました。
上村とはどこか。北方町史には長島庄は上半分を上村、下半分を下村とし、上村の範囲は武雄市の一部河上と北方町、白石町の一部大渡りを含む大きな地域と書かれています。

後藤氏に要請しているのですから塚崎に近い地域である可能性が強く、甘久に地名や神社が残っていることから北方ではないかと推測しました。
いやしきのちうもんの地名については、かなり調べましたがわかりません。

それと上瀧志摩守が久池井に移住した時期は、やはり天正12年以降だと考えられます。隆信戦死以降の肥前については後日書き込みます。


[237] 管理人様、yagyu様、上瀧豊久様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/10(Fri) 18:45  

私は過去ログを読み返し、上瀧の名が出る年号を古い順に整理してみました。
するとyagyu様の過去ログ《179》管理人様の《208》にありますように、上瀧源六の流れに秋山源次郎が加わり上瀧義重と名を変えたとするのが自然かなと考え始めています。
過去ログの中で、数少ない口伝の《98》【先祖が吉田に落武者のようにたどり着いた。その後先祖の誰かが寺子屋を開いた】との書き込みを吉田の上瀧豊久様がされています。
いつも気になっていたのですが、この落ち武者こそ、上瀧源六か秋山源次郎のどちらかなのでは?と推理しています。
落ち武者の年号が書かれていませんので、どちらとも言えません。
《1533年》九州探題、渋川伊茂の甥、堯顕が敵方少弐家に寝返った為に攻められ、家臣の森戸、板倉に助けられ有馬氏を頼って藤津へ来ます。堯顕は有馬氏の客分として迎えられ、《たんじゃあ屋敷》に住んでいたとの記憶があります。
この時に堯顕と共に来て、上瀧となった可能性があります。
それとも1333年に北条氏が滅亡しますが、九州に領土を多く持っていた北条氏に仕えていた《上瀧源六(かみだき)親子》が落ちて来たとも考えられます。
食べる為に寺子屋を開き、3年後の足利尊氏の多々良が浜の戦い時に、橘氏の要請を受け参戦したとも考えられます。
どちらも上瀧の名前の始祖になりそうだからです。


[236] 管理人様、yagyu様、 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/10(Fri) 15:11  

yagyu様が見つけて書き込んで頂いた過去ログ《70》【上滝(かみだき)源六の子、房丸、西山村分】の場所らしい所がありました。
現在の嬉野市久間西山と云う所で、志田神社のある所です。
昔は村の規模が小さかったので、このあたりは西山村と言われていたものと推測しています。
お二方に教えて頂きたい事があります。
過去ログ《167》【北方の上瀧…薩摩橘氏関連がある上瀧源六の流れ】とありますが、源六親子が北方に居たとの根拠が何かなのかが分かりません。
yagyu様の過去ログ《183》【うわたきの…】は塩田あたとの見当はつくのですが、【いやしきのちうもん】が北方かな?と調べてるのですが、それらしき地名が見つかりません。よろしくお願い致します。


[235] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/01(Wed) 18:55  

お元気ですか?暫く書き込みが無いので健康を害されているのでは?と心配しています。
管理人様とyagyu様の貴重な情報のお陰で、戦国期前後の【上瀧氏の歴史】が、かなり推理出来るようになりました。
私も上瀧氏と秋山氏の結びつきを知りたくて、北野町の秋山姓の方々に情報のご提供をお願いして60通以上の手紙をだしましたが、まだご報告出来るような情報は有りません。
ところで管理人様の過去ログ《213》《兵太郎の子も若く家督相続には無理があり弟の勝次郎が相続した》旨の推理がありますが、私には少し違和感を覚えます。
ひとつの理由は、志摩守が編み出したと推理していますが、一代一人相伝と云われる極秘の武術戦略が久池井の【じょうたき家】に伝わっていると云う事実です。
私はその武術を伝授された方を知っていますが、その事実さえ同じ家に住む人も知らないで習ったそうです。
一人相伝とは、自分の跡継ぎ一人だけに継いでいく方法です。
と云う事は、志摩守⇒兵太郎⇒兵太郎の子(跡継ぎ)〜⇒と私が知っている方へ引き継がれている事を思えば、久池井の【じょうたき家】は兵太郎の子孫になる筈です。
私も管理人様と同じく兵太郎の子は幼かったと思っていたのですが、《1578年の横造城の戦いで藤津衆が竜造寺氏に降る》この時は志摩守は藤津衆のリーダー格だった事と《両弾2志摩》の討ち入りを考えにいれ35歳前後だったとして、早婚で跡継ぎを早く望む当時からすれば、1600年に八院の戦いで兵太郎が戦死する時の年齢は36歳位で、息子は15歳位の元服出来そうな年では無かったか?とも想定することは出来ます。
そのくらいの年だったら《一代一人相伝》も継がれたと思っています。


[234] 管理人様、yagyu様、 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/01(Wed) 14:51  

yagyu様の資料で考えますと、1580年、大和町久地井に100町の領地を得た上瀧志摩守は急ぎ屋敷を必要としたと思います領地の管理以外に、春日山城(砦)の防衛も大きな任務をになっていた筈です。それに加え兵太郎は鍋島平五郎組の精鋭部隊に属しているので、住まいも近い久池井からの出仕だったと思われます。 
有能であった志摩守も本藩詰めが多かった筈ですから、春日山の防衛の任もあり、兵太郎と同じ住まいだった筈です。
そうなると、1581年迄には、兵太郎は久池井に移動して来て居て、弟の勝次郎は1592年の【朝鮮出兵】時頃は藤津衆として五町田に住まいをしていたのではないでしょうか?
その後、勝次郎は病に因って職を辞す訳ですが、息子が浪人して筑後の秋山氏を頼って移動した時に《こうたき》《じょうたき》と二つの呼び名に変えたのではないかと考えます。大きな謎は、浪人だった勝次郎の息子の子孫が江戸時代に筑後川堰の工事や、藍染め等で庄屋として活躍されています。疑問なのは、当時どうして庄屋を出来るほどの土地を得る事ができたのか?
五町田の土地を売って、筑後の土地を買ったのか?
当時そんな事ができたのかは私には分かりません。
yagyu様の推測のように戦功で以前に竜造寺氏に貰っていたのかもしれません。当時は豊臣から徳川へ移行するときのドサクサ時代なので、そのような事もあったのでしょうかね?  


[233] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/06/30(Tue) 15:19  

貴重な資料を整然とまとめて頂いたので、私の推測もはっきりとしてきました。有り難う御座いました。
資料に基づいた、私の推測では、上瀧志摩守は五町田の領土110町を次男の勝次郎に、100町の久池井の領土を兵太郎に与えたと考えます。
しかし、勝次郎は後年なんらかの事情で110町の土地を手放さざるを得なかったようです。
管理人様の過去ログ《213》(2008年5月10)にありますように《勝次郎は病にかかって職を辞す。その子も影響で浪人をしていて、筑後の秋山氏を頼ったそうです》
私が五町田の地図で上瀧姓の所在を調べても、庄屋として残った形跡が見あたらないのです。
領土が無くなったから、勝次郎の子供は秋山氏を頼って筑後へ移住したのでしょう。
話は変わりますが、yagyu様のお考えの志摩守=孫左衛門につきましては私も同意見です。
確か、豊臣時代に大名以下の身分では、志摩守、伊勢守等の《守》を使う事が禁じられたので、志摩守を孫左衛門に変えたのか?とも推察しています。
天正8年、志摩守100町の領土を得たのが、大和町久池井とすれば、この土地に長男の兵太郎と共に住み、五町田へも時々行き来をするような状況ではなかったのかなと思います。


[232] ミツゴロウ様 投稿者:yagyu 投稿日:2009/06/27(Sat) 00:15  

まず柳川攻略に藤津衆は参戦していません。
次に、上瀧志摩守が藤津衆でいた時期ですが、天正12年島原の合戦に上瀧志摩守盛員は藤津衆として、いつものように出陣しています。
これが最後です。それ以降の藤津衆には上瀧勝次郎(孫兵衛)が出てくるようになります。

天正20年、朝鮮出陣の折には
鍋島三郎兵衛組(藤津衆)から上瀧勝次郎
鍋島平五郎組から上瀧兵太郎
鍋島当家から竜造寺六郎次郎家久(多久安順)の配下として上瀧孫左衛門
が3つの組に分かれて参戦しています。

天正12〜20年の間は隆信の戦死により五国二島の支配がいっきに崩れて、領地の内外は混沌とした状態だったようです。上瀧氏のみならず多くの家で変化があったのでしょう。
口伝のとおり、もし2つに分かれたのならこの間か、または文禄元年(1592)上瀧孫左衛門(たぶん上瀧(わたき)志摩守盛員)が戦死した後に、じょうたき こうたき に分かれたのではないでしょうか(推測です)。

久池井や久留米などの領地は、天正8〜12年に各地に転戦した折に戦功として竜造寺氏から与えられたものかもしれません(推測です)。
広大な新しい領地はこの時期にでもなければ獲得できないとおもわれます。

次に、五町田は武雄と呼んでいたかとのことですが、これは・・わかりません。一般的には藤津と武雄は別物ですが・・
ただ、上瀧氏の場合、武雄の北方が起点になり、長い間に複雑に拡がっていった経緯があり、又、後藤氏との関連もありますので、いちがいに違うとも言えません。


[231] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/06/22(Mon) 15:29  

早速、情報提供有り難う御座いました。yagyu様の調査力の高さには敬服するばかりです。 
過去ログで頂いた、新情報は【上瀧氏の歴史】にとっては、大きな前進になりました。
5国2島の領土範囲も調べる事も無くなり、豊前侵攻で3郡を切り取った事も分かりました。
ところで、竜造寺政家を大将に柳川城を攻略するのが天正8年春、藤津衆の肥後出陣が4月とすると、藤津衆は柳川攻略には参加していなかった訳ですね。(後で援軍として参戦した場合は別にすると)
はっきりするのは、天正8年(1580)迄は、上瀧志摩守が藤津衆として、おそらく五町田近くに住んでいたと云う事です。同じ年に戦功として100町の領土を久池井に得て、その後、武雄《五町田?》から佐賀へ移動したグループを【じょうたき】と呼び名を変えたとする流れは父から聞いていた、じょうたきの口伝と同じです。
ただ、武雄から移住したと聞いたのですが、当時は五町田当たりも一般には武雄と呼んでいたのでしょうか?


[230] 訂正 投稿者:yagyu 投稿日:2009/06/21(Sun) 21:06  

秋、筑前侵攻ではなく豊前侵攻です。


[229] ミツゴロウ様 投稿者:yagyu 投稿日:2009/06/20(Sat) 22:55  

お久しぶりです。忙しくて遠ざかっていました。ミツゴロウ様の行動力と情熱には頭が下がります。手元の資料を紐解いてみる気になりました。
天正8年、この年に竜造寺氏は野火が広がるような勢いで近隣諸国に侵攻して行きます。
天正8年春、竜造寺政家を大将にして柳川の蒲池鎮並を攻めるも篭城戦となります。なかなか落とせず取り囲んだまま矛先を肥後に向けます。
4月、肥後侵攻開始。この時藤津衆は鍋島豊前守信房をリーダーとして犬塚、上瀧、永田、吉田、久間、辻、嬉野が塩田より出船して肥後の高瀬大島に漕ぎ向かい、戦功を挙げるとあります。
永田氏はその功により、昔の領地、肥後国永田郷をもらっていますが、上瀧氏については確たる記述は見当たりません。
同年夏、隆信は筑前侵攻。大友方の戸次道雪と戦になりますが、筑紫上野介広門の仲介により和議成立。筑前国15郡のうち西南9郡を得ます。
さらに秋、筑前侵攻。3郡を切り従えます。いまの福岡付近です。
藤津衆も筑前筑後肥後に転戦との記述がみえます。
5国2島、肥前・肥後・筑前・筑後・豊前・壱岐・対馬の太守となった年です。
なお翌9年に蒲池鎮並は島津と通じたとして殺されています。

大和町久池井の上瀧氏の領地がどのくらいだったのかわかりませんが、100町規模といえばかなりの広さだと推測します。
久池井の文献がほとんどありません。もう一度見直してはみますが・・・



[228] 続き 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/06/16(Tue) 14:56  

《パソコンが動かなくなり、失礼しました。》
推測しています。残念ながら、この戦の資料がいまのところ手元にありませんので詳細は分かりません。
龍造寺隆信は、この年博多にも侵攻しているみたいですが、これも詳細は不明です。知っている方がありましたらお教え下さい。


[227] 管理人様、yagyu様、 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/06/16(Tue) 14:42  

yagyu様がお調べ頂き書き込まれた過去ログ《134》
天正8年(1580)肥後、柳川の出陣で長田左京亮=150町、上瀧志摩守=100町を得る。どんな戦いがあったのか?
天正6年(1578)薩摩の島津氏と豊後の大友氏が耳川の戦いで大友氏が大敗し、この機を狙って大友氏の支配地を龍造寺隆信が攻略していた時代です。
天正8年、龍造寺氏は柳川城の蒲池鎮並を隆信の長男、政家に13000人に兵を与えて柳川城を攻めますが、300余日も攻略出来ず、田尻鑑種の仲介で和議を結びます。
この時に龍造寺隆信の娘、玉鶴姫を蒲池鎮並に嫁がせた(側室)ともされています。
和議で自分の娘まで出していることから、蒲池の領土を得る事は出来なかった筈です。
ということは長田左京亮や上瀧志摩守はこの柳川ではなく筑後での戦いで戦功を上げた事になります。
見つけました!《天正8年(1580)龍造寺隆信は大友家の名将、立花道雪【戸次鑑連(べっきあきら)】の軍勢と戦って、有利に和議を整え、筑前国のうち西南9郡を得た》とあります。
立花道雪とは、大友家の知勇兼備猛将で生涯37度の戦いに全て勝った言われる程の人と戦い、9郡を得たとすれば、多分この戦いでの戦功ではないかと推測s


[226] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/06/10(Wed) 17:04  

昨日、五ケ国御領地之節配分帳に記載の領土の数字違いを書きましたが、これは書かれた時期の違いではないか?と推察しています。
五ケ国とは何処かは今の私には理解出来ていませんが、上瀧志摩守は藤津郡に110町の領土を持っていました。
管理人様の過去ログ《219》にもありますように、【竜造寺隆信幕下の知行に110町、藤津郡上滝の城主。】と川上茂治氏の資料を紹介されていましたが、私も武雄、塩田にお住まいの上瀧姓の方々に手紙を出した後に電話で先祖の事をお聞きした方の中で「先祖は城主だった」と口伝が有ることを知りました。
yagyu様の過去ログ《218》【隆信公五箇國御領地ノ節御一門…】の記載が天正8年(1580)で肥後、柳川出陣の功で上瀧志摩守=100町、長田左京亮=150町の領土を得た年と同じです。
この時の100町は佐賀市大和町久池井にほぼ間違いないと思いますので、この頃の志摩守は藤津郡に110町、久池井に100町の領土を所有していたものと思われます。


[225] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/06/09(Tue) 19:23  

お久しぶりです。前に体調不良を書き込まれていましたので、その後の管理人様の書き込みがないので、入院でもされているのでは?と案じています。
1年ぶりに佐賀へ帰りましたので、県立図書館を覗いてきました。
yagyu様の過去ログ《218》と同じものと思われますが少し数字に違いが書いてありましたので、参考に書き込みます。 肥前鍋島家分限帳、高野和人著、青潮社
付録、龍造寺隆信幕下着到、五ヶ国御領地之節配分帳より
百武志摩守賢兼=280町、上瀧志摩守盛員=110町
百武100町⇒280町、上瀧100町⇒110町
最後が【国内侍205人、5,323町6反】とあります。




[224] はじめまして 投稿者:上瀧 弘次 投稿日:2009/02/05(Thu) 16:54  

佐賀県出身で現在和歌山県に住んでおります
上瀧 弘次(ジョウタキ ヒロジ)と申します。
偶然このサイトを見ました。
まだ全てに目を通してはおりませんが、何かの御役に立てましたら幸いで御座います。私の叔父にもこのサイトの事を知らせます。叔父の方が興味を持ってくれるかも知れません。
私は今まで(まもなく49歳)親族以外で同じ読み方の人は
競艇選手の「上瀧 和則氏」以外会った事は御座いません。
7〜8年位前に「上瀧(コウタキ)」と読む男性と1度会った事は有りますが、その方は広島県の出身と言っておりました。何か情報が有りましたら御連絡致します。
宜しくお願い致します。




[223] はじめまして 投稿者:上瀧 達也 投稿日:2008/09/13(Sat) 01:48  

佐賀県に住んでいる
上瀧 達也(ジョウタキ タツヤ)と申します。

あまりない名字だということでルーツをたどることは出来ないものだと思っていました。

しかし、このサイトでヒントは得られたのかなと思います。

私が出来る範囲の努力をして上瀧家の情報を集めたいと思います。


[222] お久しぶりで御座います。 投稿者:上瀧 康高 投稿日:2008/09/11(Thu) 06:31  

2年程前にお邪魔させて頂きました
上瀧 聖美(コウタキ キヨミ)の息子で御座います。
管理人様、その節はご丁寧に有難う御座いました。

息子である私も性を「上瀧」に変え(諸事情がありまして・・・)上瀧氏のルーツに興味が湧いてきました。

そこで、祖父が言っていたという話を母が思い出したと
いうので、分かることがあれば教えて下さい^^;

祖父が言うには「私たちのご先祖様は薬を作っていた人で、偉いお殿様のお付の人だった」と。
以前の書き込みでもお伝えした通り、「上瀧」と書かれた薬の瓶を母が幼い頃に見た記憶があるそうです。


私は勝手に「爺や」的な存在の方だったのかな?なんて考えたりしてました(笑)

墓は東京の高田馬場。
家紋は「丸に三つ柏」です。

何か知っている方がいらっしゃいましたらお願い致します^^



[221] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/06/19(Thu) 16:37  

ネットで調べ物をしていて次ぎのような文を見つけましたので、ご存じかもしれませんがお知らせします。
《下野戦争》嬉野弥平次、佐賀藩士、侍隊5番隊長、慶応四(1868)年6月、下野日光上滝で戦死。


[220] 家紋を調べてみました 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/06/19(Thu) 15:53  

NTT電話帳から武雄、嬉野、鹿島の各市の上瀧様の家32軒に簡単な上瀧氏の歴史と挨拶を書き送りました。
留守の家と物売りと間違われて電話を切られたのを除いて11軒の方に話しを聞く事が出来ました。家紋は
【じょうたき】ツタ紋、掛け房紋、4ツ菱、5,3の桐、
【うわたき】丸に3ツ柏(2軒)、6丁字、大根2個、不明(2軒)
【わたき】4ツ菱、
私は5月の連休に佐賀市大和町の【じょうたき】の先祖の墓参りをしてきたのですが、一族の墓は近くにまとまってあり、皆同じ《丸に3ツ柏》でしたが、武雄、嬉野ではバラバラの感じです。
口伝を2軒から聞きました。《先祖は武士で、住吉城の城守をしていた。(山内大野黒髪の近く)》
《上瀧の一族が久留米(こうたき)と佐賀(じょうたき)に分かれ呼び名を変えた》
11軒の内2軒は「おじいちゃんが養子にきたので先祖の事は全く聞いていない」とのことでした。



[219] Re:[218] 隆信公幕下帳 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/05/17(Sat) 14:05  

yagyuさん、隆信公幕下帳受け取りました。もう何とお礼を言って良いやら。
この為に資料作りして頂いたとの事で、大変有り難うございます。

実は最近ちょっと体調壊してしまっているのですが、何とか頑張って書きますと、先ず、論功行賞ではないと思いますよ。
頂いた資料と別に、実は以前マモル氏のHPに掲載されていた「五ヶ国御領地之節配分帳-隆信公幕下着到-(佐賀県立図書館所蔵)」
という題名の着到帳をこんな時の為に保存していたのです。(マモルさん、ありがとう(^^))
yagyuさんから頂いた資料と、マモルさんの資料を見比べてみると、明らかに記述に違いがあります。
また別の資料として川上茂治氏の「佐賀の戦国人名志」を挙げますと「上瀧志摩守盛氏」の項には
「竜造寺隆信の幕下知行に、百十町、藤津郡上滝の城主とある」と記されています。
川上氏・マモル氏は共に知行面積を百十町とされていますので、同じ資料を元にしていると思います。
(※マモル氏は『五箇国配分帳』と『五ヶ国御領地之節配分帳』の二つより引用との事でした)
今回のyagyuさんの隆信公幕下帳は直茂公譜考補からということですので、
恐らく別資料の着到帳にはまた違う内容・詳細が掲載されていると思われます。
それとこれらの資料は誤字や間違いも目立つそうです。
マモル氏から教えて頂いた内容では「立花飛騨守(宗茂)」と飛騨守で書かれていますが、
当時は宗茂は飛騨守ではなかったそうです。これは他の資料でも言えますね。
当時はその名前・通称ではなかったが後年になって、分かり易い名前や通った名前で記述されている等。
しかしそれを言い出すと、どこからどこまで疑ったが良いのか分からなくなってきますが。


それでここからが論功行賞ではない事の根拠を申すのですが、えーっと何でしたけ?(頭がボーッとしてます)(^^;
そうでした、頂いた資料の領地面積を全て合計して、また石高(あくまで推定)に換算してみますと、
龍造寺一門・肥前の国侍のみで6万町以上となり、石高60万石という数字になってしまいます。
全ての土地から米・作物が豊富に収穫出来る訳ではないでしょうから、実際はこの2/3程位かも知れません。
江戸期の佐賀藩の石高が35万7千石ということなので、結構妥当な数字になると思います。
つまりこの資料が論功行賞であれば、もう一つ佐賀藩が出来る程の領地を配分している事になります。
元々、着到帳とは、他の地域では分限帳とも呼ばれるもので、その当時の侍名簿と今現在の領地や禄高を記したものです。

>はじめはそれぞれの知行数だろうと思っていましたが、すこし変だと感じてきました。
>久間薩摩守がいない。辻氏もいない。なぜリーダーの鍋島豊前守と嬉野越後守が同じ知行?
>犬塚播磨守に至っては70町も多い。ほかにも30町、60町、50町の人が結構いる・・譜代なのに・・
久間薩摩守や辻氏がいないのは、私も分かりませんが、一門衆や鍋島家が知行が思ったより少ないのはうーん、分かりません。(^^;
でも一応考えてみますと、敵対している大名や豪族と隣接している500町の領地と、敵から攻められる危険性の少ない中心地の500町と考えると、
その領地から自ら率いる兵士も出すでしょうから、敵地に近いとずっと戦に駆り出される土地という事にもなりますし、当然戦死者もでますよね?
そうなると農作をする農民も少なくなり、領地はあっても米や作物が収穫出来ないという土地の可能性もありますし。(^^;
ここが石高と町(面積)の違いの難しい所ですね。それと百に満たない知行地は、一族単位で見ての知行面積かも知れませんね。

因みに推定1000石程の上瀧志摩の収入は五公五民の計算で500石。
これをまたまた私の勝手な試算で現在のお金に換算すると5000万円!お〜なかなか凄いですね。(^^)
しかしここからほぼ全ての戦備品(馬や配下兵士の鎧・槍・刀など)を用意しますので、残りは少ないでしょうね。
これも推定ですが率いた兵士の数は石高の計算で、約20〜35名程度だと思います。これは領地の村の農民がほとんどでしょうね。

あ!もしかして久間薩摩守や辻氏がいないのは陪臣となっていたとかは無いですよね?
例えば龍造寺四天王で有名な江里口信常は鍋島直茂の家臣で、龍造寺直臣ではないらしいので。
江里口も載っていませんよね。

>彼は高橋氏とともに大友氏の忠臣ですが、この時は竜造寺氏と手打ちをしたのでしょうか、名を連ねています。
>戸次道雪は人格、武力共優れた武将で、竜造寺氏も一目おいていたようにみうけられます。
これも何か理由があった気がするのですが・・・忘れてます。
勿論、実際は龍造寺の配下ではない訳ですが考えるに、五箇国となっている様に「五州太守」や「五州二島の太守」と謂われる龍造寺隆信が
肥前・肥後・筑前・筑後・豊前の支配の正当性や支配権を訴える為、また立花道雪などは大友配下といっても大名レベルでしょうから、
領地を安堵するといった安堵状(離反を促す)の意味、さらには知行=課税という事もあるでしょうから税の要求といった事があるのではないでしょうか?
すいません、私レベルではここまでが限界です。(笑)m(_ _)m


[218] 隆信公幕下帳 投稿者:yagyu 投稿日:2008/05/17(Sat) 00:47  

直茂公譜考補と成松家文書に記載されています。すこし違いはあるものの大筋で合っています。見やすいので直茂公譜考補でいきます。
天正8年(1580年)
「隆信公五箇國御領地ノ節御一門並肥前國中譜代幕下侍領地弐拾町以上配分覚」で209人の名前と知行が記載されています。
例をあげると
500町  鍋島豊前守信房
390町  綾部備前守
500町  嬉野越後守家守
570町  犬塚播磨守盛家
150町  長田左京亮
50町  久間孫太郎
100町  百武志摩守賢兼
100町  上瀧志摩守 

はじめはそれぞれの知行数だろうと思っていましたが、すこし変だと感じてきました。久間薩摩守がいない。辻氏もいない。なぜリーダーの鍋島豊前守と嬉野越後守が同じ知行? 犬塚播磨守に至っては70町も多い。ほかにも30町、60町、50町の人が結構いる・・譜代なのに・・
もしかしたら、論功行賞の覚書ではないかと思った次第です。

続いて「肥後、筑後、筑前、豊前幕下侍」では
34人の武将の知行が記載されています。
12000町  蒲池兵部太夫鎮漣
9000町  草野筑後守
1000町  問注所左衛門太夫
5000町  阿蘇太宮司
1000町  高橋
5000町  戸次道雪
5000町  立花飛騨守
特に興味深いのは北野町に関係のある戸次道雪です。
彼は高橋氏とともに大友氏の忠臣ですが、この時は竜造寺氏と手打ちをしたのでしょうか、名を連ねています。戸次道雪は人格、武力共優れた武将で、竜造寺氏も一目おいていたようにみうけられます。

どこの領地か記されていませんが、すでに安堵された領地は隆信といえども手をつけられませんから、新しく切り取った領地を与えるか、交換するかどちらかでしょう。
江戸時代に関してはよくわかりませんが、あまり領地の変動はなかったのではと思ってます。幕藩体制で固められていたような気がします。久池井の春日山城は誰の侵入に備えていたか、竜造寺隆信の時代と重ねていけば年代が出てきそうですね。
幕下帳の全文は管理人さんにメールで送ります。
参考にしていただければ幸いです。



 



[217] Re:[216] 管理人様 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/05/15(Thu) 21:01  

そうですねー、ちょっと詳しく調べるにも資料(着到帳など)が無いので、何ともですが、手元にある資料でみますと、
上瀧志摩が多く載っている「藤津郡志襍爼」には、龍造寺隆信に従う前、つまり有馬に従っていた時代から五町田の領地はあった様です。
また他の資料ではその当時「城持」とも記されていますので、大規模な城ではないにしろ五町田周辺に砦は構えていたのかも知れません。

以前「肥前の熊と佐嘉の赤熊」のサイトを開かれていたマモル氏に聞いたのですが、逸話以前は(天正五年頃)嬉野・徳島・上瀧・吉田・永田という家中の序列との事で、
天正八年着到帳の徳島左馬助の領地が八十町。つまり上瀧志摩はそれ以下の領地となります。その後、1579年の逸話があり、1580年の着到帳では百十町になっています。
逸話が事実との前提で話しますと、逸話以前は80町以下の領地が、大村弾正成敗の加増で110町になっているという事になります。
また有馬の時代から五町田を有しており、龍造寺隆信公に従った時にはその五町田の本領安堵をされています。
その後逸話の通り、近くの領地(必ずしも五町田とは限りませんが)を有していたと思われる大村弾正を討ち取り、
その手柄で少なくとも30町以上の加増(計で110町)というのが私の思う所です。

>当然百武志摩も恩賞を貰った筈です。念のため五町田、塩田に百武姓を調べましたが電話帳にはありませんでした。武雄には12軒、嬉野に2軒あります。
百武志摩守賢兼も沖田畷で戦死しており、本家は弟が継いだ様ですが、賢兼の家督は養子の百武茂兼(石井賢次二男、鍋島勝茂従兄)が継いだようです。
この時は龍造寺氏から鍋島家への政権委譲の過渡期だと思いますので、鍋島の血縁者が入ると言う事は領地替えの様な事もあるかもですね。
また百武賢兼の本領は佐賀の様なので、恩賞で飛び地として藤津を有した可能性も有り得るかもですね。
そういえば未だに疑問なんですが、なぜ藤津の逸話に巨魁の一人として百武賢兼が出て来るんでしょうね?(^^;
活躍して転戦していた百武さんの事なので、逸話通りに一時的に藤津の砦の一つを守っていたんでしょうかね。


ミツゴロウさんの言われる上瀧志摩柳川出陣の恩賞とは、このyagyuさんの書き込みの事ですよね?
過去ログ<[134] 永田氏 2>
>天正8年(1580)肥後、柳河出陣。この合戦で永田氏は武功を認められ、先祖相伝の旧領肥後国永田郷を与えられています。このことは隆信公幕下帳に記述があります。肥前、肥後に領地が存在したことになります。
>  150町  長田左京亮
>  100町  上瀧志摩守

ここでyagyuさんが「永田氏は・・・」と書いておられたので、永田氏のみの加増だと思いました。
大変お恥ずかしい事ですが、私は隆信公幕下帳は見た事ないのでなんとも言えない所です。(^^;
しかし柳河城攻撃で100町の手柄を立てたとなるともう少し何かしらの記述が資料で残りそうですが。
100町というと今の面積単位で1km×1kmですから、小さな村ひとつ分です。かなりの褒美です。
前に自分で勝手に試算したのですが(^^;、よくテレビで使われる「石」の単位だと、
五町田という稲作に適した立地ですと、一千石近くになると思います。
大和町久池井も立地的には同じ様な感じですね。
ただ上瀧兵太郎が鍋嶋平五郎組に属していた事もありますし、大和周辺に領地があった可能性はありますね。


>秋山家の本家は八重亀の5軒の内に、こうたき家の本家は2軒の内のどちらかで引き継がれているものと思います。
こうたきを代表して言わせていただくと、庄屋となったこうたきは江戸期に数軒あったようですから、本家が陣屋とは限らないですね。
また北野という場所は、中、今山あたりが当時の村の中心でしょうから、そちらに近い方が可能性が高いと思います。
それと秋山氏の本家も同様ですね。先ずは下のURL先のサイトをご覧下さい。
ここに八重亀の秋山氏も、陣屋の上瀧氏も出て来ますが、ご覧になるとわかりますが、「役回り」として名前が挙がっています。
秋山氏に至っては、「御用手伝御用開 守部村庄屋 (秋山) 善太郎」と別の村の庄屋も出て来ます。
御井郡長の秋山氏の本拠は分かりませんが、御井郡というとかなり広いですからね。旧久留米市の半分ほども入りますし。

http://snkcda.cool.ne.jp/ohokisi/4sho/6tokosima.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/御井郡


[216] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/05/15(Thu) 16:41  

こだわるようですが五町田の110町の土地の件で私の考えを述べますと、
1579年12月《両弾2志摩》の記述では、上瀧志摩が大村弾正を討ち取ります。当然大村弾正の領地は没収されます。弾正の領地は五町田でした。近くに住んでたとされる志摩が恩賞として得たのではないか?当然百武志摩も恩賞を貰った筈です。念のため五町田、塩田に百武姓を調べましたが電話帳にはありませんでした。武雄には12軒、嬉野に2軒あります。
1580年《隆信公幕下着到帳》の110町の記録。
1580年2月《龍造寺隆信柳川城攻撃》
この攻撃時になんらかの功績があったための恩賞として100町の土地を貰うのでしょうが、1570年の《今川の戦い》で春日山城を取られた苦い経験もあり、久池井にしたのではないかと考えます。
江戸時代には勝手に他藩を攻める事は出来ず、新たな領土を得れなくなりよほどの功績がなければ直轄地の少ない鍋島藩としては100町の土地を与えるのは難しかったと思います。


[215] 福岡県の秋山姓の分布を調べました。 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/05/12(Mon) 14:21  

管理人様。二重投稿の削除をしていただき有り難う御座いました。少しずつ馴れるように頑張りますので懲りずおつき合いのほどお願い致します。
NTTハローページ2007〜8年版より。
久留米【181(内北野70、内八重亀5)】朝倉【13】うきは【3】小郡【20】筑後【14】筑前【2】太刀洗【19】大牟田【7】大川【5】柳川【0】八女【43(内柳島29)】大野城【10】福岡市【103】北九州、中津、豊前は省略。
ちなみに佐賀市【22】武雄【1】嬉野【1】でした。
上瀧《こうたき》
久留米【22(内北野13内陣屋2)小郡【7】筑前【1】福岡市【3】
秋山家の本家は八重亀の5軒の内に、こうたき家の本家は2軒の内のどちらかで引き継がれているものと思います。

《管理人様へ》上瀧志摩柳川出陣の恩賞100町の土地の件ですが、前の書き込みの中で、確かyagyu様だったと思いますが、永田氏150町、上瀧氏100町を得たと記憶しています。
大和町久池井の《じょうたき》本家の口伝によれば(これは前出のカマキリ様よりの又聞きですが)龍造寺氏より久池井の土地を貰ったのは、佐賀に於ける戦略上の重要拠点、春日山城(甘南備城)の城守りの任務もあって、この地を含む久池井を得たと聞いています。多分上瀧志摩と思われます。


[214] 秋山系図 投稿者:yagyu 投稿日:2008/05/12(Mon) 00:34  

尊卑分脈は南北朝までの各家の系図です。
それ以降は群書類従で各系図が載っていますが、変動の時代の為かそれぞれ多少の齟齬があるようです。
秋山系図でもそれはあり、同姓同名、兄弟相続など混乱を招く一因にもなっているようです。
氏族支流は「その他一族多し」で済まされているのでますますわかりにくいのです。甲斐國誌まで調べてみようかとも思った時期もありましたが、あまりに広く深いので断念しました。今は惜しい気持です。恥ずかしながら太平記は全然知りませんでした。

1185年 秋山光朝 平家寄りだとして排除され京都に住むようになる。
1220?年 秋山光朝 承久記に載る(北条側についた?)
1349年 秋山朝政、太平記に載る。
1352年 秋山光政、太平記に載る。
1396年 秋山光長、渋川満頼に従い九州に来る。

秋山光政、朝政の活躍により秋山氏は足利幕府に重用されるようになったのでしょう。
管理人さんの系図が清和源氏流であると思うには2つの理由があります。
1つは渋川氏に同行したこと。清和源氏足利氏族である渋川氏は同族で信用できる者でないと動乱の地、九州には同行させないだろう。
2つ目は綾部氏に婿入りしたこと。綾部氏は藤原氏族の肥前の名家で、出自のはっきりしたものでないと受けいれないだろう。
あらためて見ると、光朝から光長まで10代、211年の時が流れているのですね。現代まで823年、気が遠くなりそうです。

隆信公幕下着到帳については、いま思案中です。





[213] 上瀧志摩100町の領地 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/05/10(Sat) 01:36  

>柳川出陣の時に龍造寺氏より100町の土地を恩賞として貰ったのは大和町久池井と思われますが、久池井へ一度来て戻ったのか、居続けたまま呼び名だけを変えたのか?

恐らく誤解があると思うのですが、この100町の領地は五町田の領地の事だと思います。
柳川出陣の戦功で新たに領地を得たのは永田氏の事だと思われます。
隆信公幕下着到帳というのがあるのですが、ここに天正八年(1580年)時点での領地が記されています。
そこに「上瀧志摩 / 百十(町)/ 盛員(藤津郡士)<藤津郡>」という記載があるそうです。(すいません、実物見た事ありませんので)
領地が藤津郡ということは五町田の事だと思われます。
恐らくですが大和町久池井の土地は江戸に入ってからではないかと思います。


>《うわたき》が武雄、嬉野に22軒あるのは、《じょうたき》と《こうたき》とに別れる時に一族全てが移動したのではなく、残った人達も居たということでしょうね。

結構多いですよね。まぁ塩田の隣が武雄になるので、塩田から流れたとも考えられますが。また以前述べた秋山支流とは違う別系の可能性もありますし。
うーん、推測でしかないのですが、上瀧兵太郎の子孫がうわたき・じょうたきの二系統に別れて、上瀧勝次郎(孫兵衛)の子孫がこうたきの一系統になった気がします。
これも推測ですが、名前からも分かる通り、もしかしたら兵太郎が長子で、勝次郎が次子ではなかったかと思います。
しかし兵太郎が関ヶ原後の八院の戦いで戦死したため、勝次郎が家督を引き継いだので、名前も改めて上瀧孫兵衛としたのかも。
また何故「孫兵衛」と「孫」の字がつく名前を選んだのかも気になる所ですね。
もしかすると上瀧と名字を改めて3代目という事も関係しているのかも知れません。(ちょっと考え過ぎかも)
そういえば上瀧孫左衛門という人物がもし上瀧志摩守と同じ人物なら通称の継承(孫の一字)も有り得ますね。

じょうたきへの改姓があるとすれば、この辺の家督相続への配慮が関係しているのかも知れません。
兵太郎にも恐らく子があり、この流れがうわたき・じょうたきになるのですが兵太郎戦死の時にはその子も若く家督を相続には無理があった。
(勝次郎が重清と同一人物と考え、重清は壮年(25〜44才程度)で亡くなっている為、その兄弟の兵太郎の子も当時はまだ若かったと思われます)
その為に勝次郎が家督を相続し、孫兵衛と名を改め正統とした。しかし長子兵太郎にも子がありこちらを正統と考える者はうわたき姓を続け、
孫兵衛を正統として後押しする者は同姓・同音を遠慮し、じょうたきと名乗りあえて分家である事を主張した。
これは主家である龍造寺氏が鍋島家への配慮に倣ったと考えると、もしかすると有り得るかなと思います。

勿論、この様な事をする意図する事はただ一つ。家の分裂・争いを起こさない為です。
上瀧氏の家紋である三鎖ですが、なぜこの様な鎖の文様を選んだかも考えると、家の結び付きを大事に考えての事かも知れません。
その様な家紋を掲げる家だからこそ、争わずにスムーズな家督相続をと考えたのかも知れませんね。

(※注意:あくまでも推測や妄想の類と思って聞いて下さいね。)(^^;


>また《じょうたき》姓の人が北方と塩田にいるということは、塩田、五町田に上瀧志摩の土地が存続していたことを意味するのでしょうか?

そうですね。孫兵衛がこちらの系図の重清と同一人物ならば、病に因って職を辞しています。
その子もその影響でか浪人をしていて、筑後の秋山氏を頼ったそうですので、そうなると自然の成り行きでは鍋島家での職は兵太郎の子孫が受け継ぐ事になるでしょうね。
しかし兵太郎は朝鮮出兵時に鍋嶋平五郎組に組しているので、既に領地というか本拠地が大和町周辺に変わっていた可能性があります。
もし兵太郎の後継者が2名以上居れば、大和・塩田の両方の領地を領した可能性は有り得ると思います。
しかしながら江戸時代に入ってからも土地を知行として得るといった、室町の制度がこの時期も引き継がれたどうかは、
私が肥前の江戸期に詳しくないのでえ〜っと・・・yagyuさんや他の方にお願いします。(笑)m(_ _)m


[212] 佐賀県の上瀧姓を調べてみました。 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/05/09(Fri) 15:54  

NTTハローページ2007〜8年度版にて、呼び名、場所、軒数を調べました。携帯電話の普及により若い人の中には固定電話を使わない人もいますのでその点を考慮して下さい。
《わたき》 武雄【1】多久【2】合計3軒
《うわたき》武雄【10(内、北方6)】嬉野【12(内、吉田10)】小城【1(牛津)】伊万里【1】有田【2】合計26軒
《こうたき》佐賀市【2】有田【1】合計3軒
《じょうたき》武雄【6(内、北方2)】嬉野塩田【4】鹿島【2】太良【1】多久【6】伊万里【2】小城【18(内、牛津11,三日月4)】佐賀市【36(内、久池井10,尼寺7,久留間9)】神崎【3】みやき【1】合計78軒
これをみますと、小城に多いと聞いた《うわたき》が1軒しかなく《じょうたき》が18軒もあります。
《うわたき》が武雄、嬉野に22軒あるのは、《じょうたき》と《こうたき》とに別れる時に一族全てが移動したのではなく、残った人達も居たということでしょうね。また《じょうたき》姓の人が北方と塩田にいるということは、塩田、五町田に上瀧志摩の土地が存続していたことを意味するのでしょうか?
柳川出陣の時に龍造寺氏より100町の土地を恩賞として貰ったのは大和町久池井と思われますが、久池井へ一度来て戻ったのか、居続けたまま呼び名だけを変えたのか?


[211] 嬉野市の五町田へ行って来ました 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/05/07(Wed) 17:15  

今度の連休で上瀧志摩の領地があった塩田、五町田と武雄の上瀧(わたき)神社へ行ってきました。五町田は五歌人の一人の和泉式部の出身で、式部公園もあります。五町田は和泉式部の両親に天皇が五町の土地を与えた事に由来するとのことでした。式部の像があり、その上の広場が草スキー(人工芝)が出来る斜面があり、滑り用具も無料で貸してくれます。歴史に興味の無い孫や親の息子までが夢中で遊んでいました。そこからは五町田も一望できお勧めの場所です。
徳永様が書き込まれた1336年東氏九州入りの話は、足利尊氏の多々良浜の戦いと同じ年で何か関係ありそうで興味深井ですね!
先日の管理人様が書かれた太平記、秋山光政、朝政の事は正に名表現で「ほんとじゃろか」
【修正とお詫び】先に鎮西探題館があった乙隅を大刀洗町と書き込みましたが、正しくは小郡市でした。修正しお詫びいたします。


[210] Re:[209] 上瀧義雄さんが見つかりました 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/05/03(Sat) 21:56  

ご連絡頂きまして有り難うございます。
お捜しの方が見付かった様で良かったですね。私も何だか嬉しいです。
偶然の連続がこの様に人と人を結ぶのだなぁ、人の縁や繋がりは興味深いものだなと改めて思いました。
徳永さんも、これをキッカケに色々交流が深まるといいですね。

また今回ご尽力頂きました皆様、また上瀧ミツゴロウさん、カマキリさんに、お礼申し上げます。ありがとうございました。




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