上瀧氏交流掲示板
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[209] 上瀧義雄さんが見つかりました 投稿者:徳永 投稿日:2008/05/03(Sat) 18:19  

小生の先祖が明治33年に上瀧義雄雅兄宛てに書いた手紙の受取人らしき方が、管理人さんのお陰で見つかりました。
意外にも地元の方で、25歳年下の方ですが、学校の先生をしておられたそうです。雅兄とは、文学上の友人に対する敬称を意味するらしいので、年下でも不自然ではないと思います。手紙を出した目的は?@先祖が手がけていた鉱山の関連?A3夫婦揃っていた内の最年長者が傘寿や米寿の時にもらった和歌の短冊関連?B先祖が関わっていた銀行・鉄道・材木会社関連などが推測されますが不明です。今回のことがあったので、この掲示板をじっくり読ませていただきましたら、小城千葉氏なる文言が出てきました。千葉氏の一統である、小城藩士東氏は1336年に九州へ就いたといわれています。
小生は、千葉六党の中の美濃東氏の末裔ですので、皆どこかで繋がっているのだなあと興味をそそられました。取り急ぎ関係各位の皆様に御礼まで。



[208] ミツゴロウ様、yagyu様、上瀧洋介様 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/05/01(Thu) 21:13  

皆様、大変詳しく調べられていて、私もお話についていくのがやっとになりそうですが、
少々思った事を述べさせていただきます。

確かにミツゴロウさんの仰る様に、系図自体が誤りがある可能性は多分にあります。
私の掲載している系図にも少々、怪しい部分がありますし、一部混乱を招いて間違えている部分もあるようです。
そのような事もあり、全ての内容を掲載するとあらぬ誤解、また混乱を招く為に、あえてしていない部分もあります。

例えばyagyuさんがお調べ頂いたとの事ですが、秋山光時の子、秋山光政ですが、
系図では「秋山新蔵人光政」となっており、あの太平記に登場する秋山光政と同一人物となっています。
その子である秋山朝政も太平記に登場している様です。(これはご存知でしたね)どちらも足利直義方に属しています。
うーん、本当じゃろうか?と思ってしまいます。(^^;
※参考にネットで見付けた秋山氏の系図です。(↓URL参照)
一応、その後も申しますと、その子光長の代に渋川入道道鎮に従い下向するとなっています。
その後も代々秋山氏は九州探題に従っていた様です。
また義重の父である秋山家能は綾部氏一族の聟となり、肥前での地位を築いたのではないかと。

この流れ(秋山氏から上瀧氏)は、もしかすると上瀧源六の流れが殲滅し、断絶したので、
そこそこの知名度のある、その名字を引き継いだ。もしくはその地域を支配する正当性を主張する為。
そのような裏といいますか、意図があっての改姓の可能性もありますね。勿論、全然の別系の可能性もあります。
おっと、これはyagyuさんも同じ仮説を立てておいででしたね。見落とす所でした。
yagyuさんもご指摘の様に、各資料を調べておりますと、戦国期当時やはり上瀧氏は複数の流れがあったのでは?と思います。
なので、もし別系であった場合、上瀧源六親子と秋山氏との結びつけを捜していてもなかなか難しいのではないかと思います。

また穿った見方をすると、本当は秋山氏と上瀧氏は江戸期まで全く交流はなく、系統も別々だった。
しかし何かしらの出来事があって、秋山・上瀧両家での縁組みが成立。戦国期以前が不明だった上瀧氏の系図も秋山氏流と塗り替えられた。
こんな仮説も考えましたが、秋山氏に何のメリットもないので、流石にこれはないだろうと…。(^^;
相変わらず点ばかりで線に繋がりませんね。しかしながら皆様のお陰で、点の面積がちょっとずつ広くなったように感じます。
この点がもっと広くなれば、疑問だらけの白紙も黒く塗りつぶせるかも知れませんね。


上瀧洋介様
ご訪問、ありがとうございます。
そうですね、確かに全国の上瀧さんは優秀な方々が多いかもですね。私を除いてですが。(^^;
このように歴史を調べるだけでも、こんなにもその時代時代を逞しく生き抜いてこられたというのが分かりますから、
我々子孫も恥ずかしくない様に頑張らないといけませんよね。

http://www.harimaya.com/o_kamon1/buke_keizu/html/akiyam_k.html


[207] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/04/30(Wed) 20:09  

仰るとおり私も秋山氏と上瀧氏の系図を前提に調べているつもりですが、上瀧源六親子の出現と恩賞として得たとされる西村山(塩田らしい)を考えれば、この新しい事実を推
理せざるを得ません。
最近気が付いたのですが【両弾二島】に出てくる上瀧志摩が大村弾正を討ち取った事件では、塩田に得た土地に住んだ源六の子孫の志摩が、すぐ近くに住む大村弾正を討ち取り、大村の領地、五町田を龍造寺隆信より恩賞として得たという推測は可能だと思います。
上瀧源六の出現を事実と受け止め、系図をそのまま受け止めるためにいろいろ調べた上での仮説が、鎮西探題と九州探題の口伝の誤記ではないかとの推理です。
4月29日の投稿後に分かったのですが、加賀美遠光の子【南部光行】その子【実光と時実親子】が将軍の供奉謹番更に得宗北条家の側近として仕えていたとの記述を見ました。
上瀧氏に繋がるとされる秋山光定と、四国の讃岐へ行った秋山光季と南部時実は従兄弟同士になる訳ですから秋山光定か、その子の時忠あたりが鎮西探題に従って九州へ行ったとしてもおかしくないと感じます。
私は源六親子の出現に驚き調べていくうちに、少し懐疑的だった秋山氏と上瀧氏の系図は真実ではないかと感じるようになりました。しかし私の仮説の鎮西探題に従って九州へ来たという記述はいまだ見つかりません。


[206] ミツゴロウ様 投稿者:yagyu 投稿日:2008/04/29(Tue) 01:44  

上瀧氏と秋山氏との接点については管理人様の系図通りではないかと思ってます。
各家に伝わる口伝や系図は真実であることが多いからです。
我家でも江戸中期の人が神社に奉納していたと聞かされた、その事実が文献で確かめられました。
祖父母の言ってたことは真実だったのです。
秋山氏の系図は南北朝(光時)までは尊卑分脈に載っています。清和源氏加賀美氏流として。
その後は秋山系図などありましたが、複雑なうえ大まかな流れしかなかったせいか途中で断念してしまいました。

上瀧源六、房丸の存在も年代もまた真実であり、1525年の戦いで
上瀧氏が敵味方で争っているのも真実です。また、この戦いで千葉氏側で参戦した上瀧氏が殲滅したのも事実です(たぶん・・)。

古い歴史には、相容れないものや整合性のないものが多くありますが、長い研究と史料の発見などで繋がっていく可能性を秘めています。
いまは時間がとれませんが、資料にも徐々に目を通していきたいと思います。

余談ですが、我家の故郷にも甲斐源氏の秋山氏が1350年に来られています。我家とは交流はなかったようです。




[205] 続けて 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/04/19(Sat) 12:05  

少し言葉足らずがありましたので補足します。秋山氏も上瀧氏も地方の小土豪ではなかっのか?とはいつも思いながらも甲斐源氏の秋山氏、それに繋がる上瀧氏の系図をキーワードしてその断片を繋ぐ試みをしています。
《上瀧源六親子》の出現は、《秋山光長、九州探題渋川氏に従い来る》という上瀧氏系図と相容れない事になります。
源六親子が《かみだき》と書かれている呼称の疑問はあるにせよ、恩賞として得たとされる塩田あたりの地理的状況からして上瀧氏の宗祖と考えざるを得ない感じです。
管理人様が書かれた《北野町秋山氏は室町時代から上瀧氏の本家筋にあたる》との言葉には私も強く同感しています。
鎮西探題が乙隅にあったとの文章を見つけた時に私は鎮西探題に従ってきたのでは?と感じました。探題の立場なら近くの土地を部下に与え住まわし、急用に備えるのは当然の事だからです。又秋山光季が讃岐へ転封されたように北条氏と秋山氏にはある程度の人脈のパイプがあったように感じます。室町時代の九州探題は8代138年も続きますので、九州の人々の記憶には、幕府の出先機関としての探題は九州探題の名前が一般的だった筈ですから、始めは鎮西探題と口伝された名前も幾世代かの口伝のなかで九州探題に変化していったと考えても不思議ではないのではと感じます。
場合によっては、主家北条が滅んだ後、九州探題渋川家に仕えた(地理的にも政治的にも可能)としたら尚更混同される可能性は高くなります。


[204] 管理人様、yagyu様、カマキリ様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/04/18(Fri) 18:48  

お久しぶりです。yagyu様の大発見《1337年上瀧源六親子》の出現は私にとって正に青天の霹靂でした。藤津衆として上瀧の名が出る188年も前に遡る事に加え、秋山光長が九州探題渋川氏に従い九州へ来るとされている59年前には既に上瀧の名が出てきてしまったのです。
1337は足利室町幕府の草創期です。北野町の秋山氏の系図が出てくれば照らし合わせて正確な情報も得られるでしょうが、今の時点では事象を集め推測するしか方法がありません。
視点を源六親子に移して調べてみました。
甲斐源氏の勢力拡大を恐れた源頼朝は、秋山氏宗祖光朝を滅ぼしますが、頼朝の死後に起こる【承久の乱】で北条政子側に付いた秋山一族は再び世に出ます。時は移り、2度にわたる【元寇】による苦い経験から、北条鎌倉幕府は西国の守りを固めるために多くの東国御家人を九州や四国に転封させます。甲斐巨摩秋山を本領としていた秋山光季(上瀧氏に繋がるとされる秋山光定の兄弟)は幕府の命を受け四国、讃岐の高瀬郷を領有し移住します。
九州では鎮西奉行を鎮西談義所と改め、北条一門が大量に進出します。更に1293年(年は各説あり)鎮西探題と改め北条一族の九州に於ける領土拡大を続けます。秋山氏が居た筑後も北条氏の所有となります。
鎮西探題は博多、姪の浜、乙隅(おとぐま)にあったとされ、乙隅は今の大刀洗町で北野町からは数キロの隣です。
この地理的、政治的な状況を考えれば、秋山氏は九州探題ではなく鎮西探題に従い九州へ来たのではないか?
九州の探題は、鎮西奉行⇒鎮西談義所⇒鎮西探題⇒九州探題(室町時代)と変遷していますので普通はひっくるめて九州探題としますので、上瀧氏系図の作者は口伝で誤って伝えられたそのままに九州探題としてしまったのでは?
仮に鎮西探題に従って秋山氏が九州へ来たとしたら、1333年に主家の北条氏が滅んだ後、足利幕府の九州探題、渋川氏に仕えた可能性は十分考えられるでしょう。
以上調べた断片を集めて推理したみましたが、皆様のご意見もお聞かせ下さい。この推理からすると、もうひとつ秋山から上瀧への改氏の件でも大きな疑問が出てくるのですが次の機会に致します。



[203] お久しぶりです。 投稿者:カマキリ 投稿日:2008/04/14(Mon) 01:11  

管理人様、ミツゴロウ様、皆々様、お久しぶりです。
私の祖父の名前が出てきましたので書き込みさせていただきます。
徳永様。祖父は1896年、明治29年の生まれだったように思いますので、残念ながら、お尋ねの人物とは異なると思います。
祖父は農業に従事し、生涯を土に生きた人でした。
同名で記録に残る人がいらしたと言うのは、なんとなく嬉しい気がします。
義雄氏の詳細が紹介される日を楽しみにしています。


[202] 神戸のコウ瀧です 投稿者:上瀧洋介 投稿日:2008/04/11(Fri) 11:35  

はじまして,33歳の男です6の能力や芸術、高感度の感受性身体能力 瞳力、上瀧の血族がこんなにも存在するなんてすばらしかぎりです。膨大な記憶が今 繋がるのが認識できます父が福岡 母が熊本 熊本で生まれました後に大阪へ1歳位迄居たらしく、関西で まず 上瀧は 在り得ない皆さんキャラ濃い、価値観が直ぐに染み込んで来ます、知的な斬新的かつ、鋭くカリスマ性がありますね我が血族は、想像道理で納得、血族で、同力、発動して活躍しよう、完璧なセンスを使いこなそう、私は、ブロードバンド全般、の仕事です、自営業です、名前は、上瀧 洋介、33歳、168cm体重、変動型です、コウタキの家紋は、鎖で、当たりです、遠い過去に雲仙で犠牲になり、現世で精神、は、折れず、強い念は、私の残留私怨として、チラつく沢山の水晶があるが石集めは、趣味のひとつだ、中に、透明の煙石に、白いロザリオが現れる
後マリア様、最近は、ない その意識 の中に、アル組織に気を、つけなさい、世界中に、日本にも、周りに、すでに 反キリスト勢力が、、、


[201] 徳永様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/04/11(Fri) 10:28  

私が知っている上瀧義雄様はお生まれは明治だろうと思います。お仕事は農業をされていました。そのお孫様は何度かこの掲示板に書き込みをされたことがあります。


[200] 徳永さま 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/04/10(Thu) 22:14  

掲示板への書き込み有り難うございます.
今日の書き込みで、ふと気になる事を思い出しました。
多少、他の方のプライバシーに関わる事かも知れませんので直接メールさせて頂きました。
後でご確認頂ければと思います。


[199] Re:[197] 徳永様 投稿者:徳永 投稿日:2008/04/10(Thu) 21:53  

ミツゴロウ様
上瀧義雄という方は明治の方でしょうか。ご職業など関連情報あれば教えてください。


[198] 無題 投稿者:徳永 投稿日:2008/04/10(Thu) 21:25  

上瀧義雄雅兄として毛筆の手紙風のものを奈良県吉野郡に住んでいた先祖が明治33年2月に書いています。
自分の家の系統ならびに履歴表や村の起源や天誅組のことや郡市町村沿革や郡役所の沿革なども書かれています。何の目的で書いたのかが知りたくて、電話帳を見ましたが奈良県には上瀧なる名前はありません。先祖は堺県会議員や大阪府会議員や奈良県会議員を勤めたことのある人物なので、堺市の電話帳を見て問い合わせましたが違いました。しかしながら、この方は佐賀県出身でした。


[197] 徳永様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2008/03/12(Wed) 14:20  

関西での役人ではありませんが、九州の佐賀県大和町久池井と云う所に、上瀧義雄と名前の方が居ました。私の本家に当たります。そのお孫さんもこの掲示板に書き込みをされたことがあります。


[196] 二島由紀夫さん、徳永さんへ 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2008/03/05(Wed) 01:21  

はじめまして、こんばんは。
お返事遅くなりまして申し訳ございません。

二島由紀夫さん
検索・ご訪問いただきありがとうございます。

>歴史を紐解くことって楽しいですね。
>上瀧氏もページがあるくらいだから偉いんでしょうね!!
>「橘氏」も見てくださると嬉しいです♪
そうですね、歴史を紐解いていくことは楽しいですね。
思いがけない所で繋がっていたりして、新たな発見があったりで。
またルーツともなると、どのように自分へ命が繋がっているのかを
再認識して感謝にも繋がりますね。(^^)

橘氏とは上瀧氏も繋がりがあったのではないかとyagyuさんが
指摘されていますし、資料も残っているようです。
これが別系統の「上瀧氏」なのかどうかこれからの課題ですね。
そういう意味では橘氏とは非常に縁の深い間柄です。(^^)
後程、お邪魔しますね。


徳永さん
ご訪問いただきありがとうございます。
残念ながら、私はお探しの方のお名前は存じませんが、他の方がご存知かも知れません。
また皆様の中でご存知の方がいらっしゃいましたら、是非とも徳永さんへお知らせいただければと思います。
どうぞよろしくお願い致します。



[195] 上瀧義雅 義雄 投稿者:徳永 投稿日:2008/03/04(Tue) 16:40  

上瀧義雅もしくは上瀧義雄という方について。
明治33年2月頃に関西地区のお役人さんではないかと思われる人物居られたと思うのですが、ご存知ないでしょうか。


[194] 天皇家と橘公業 投稿者:二島由紀夫 投稿日:2008/01/16(Wed) 08:10  

私の実家・武雄市で検索しました。
歴史を紐解くことって楽しいですね。
上瀧氏もページがあるくらいだから偉いんでしょうね!!
「橘氏」も見てくださると嬉しいです♪

http://metabo36.seesaa.net/article/78708094.html


[193] 今年もお世話になりました。 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2007/12/31(Mon) 23:06  

今年も一年、皆様にはお世話になりました。
なかなか更新出来ずに申し訳なく思っておりますが、これからも何卒宜しくお願い申し上げます。

今年も後1時間を切りましたが、皆様、良い年が迎えられます様、心よりお祈り申し上げます。



[192] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/09/19(Wed) 16:54  

このページをきっかけにしてカマキリ様とお会いすることが出来ました。私は分家した祖父から3代目、カマキリ様は祖父の兄から4代目で、本家との行き来は少ないながらあるのですが初めて顔あわせでした。歴史にも大変詳しく祖父から聞いたと云われる佐賀久池井上瀧氏の知らなかった話を聞くことが出来ました。その中でもジョウタキ、コウタキに繋がると思われる伝承の武術は大変興味深いものでした。カマキリ様に掲示板に載せられるようお願いしておきましたので、いずれその話を書き込んで下さると思っています。このページに感謝いたします。


[191] カマキリ様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/09/06(Thu) 16:33  

メールを有り難う御座いました。カマキリ様は誰のお子様か推測出来ます。私的なやりとりはこの掲示板の中で迷惑になると思いますのでお電話を頂けませんでしょうか?同じ大阪に住んでおられるのなら是非お会いしてお話をお聞きしたいものです。夜は帰りが遅いので会社の方の電話です。電話06―6934―8111です。よろしくお願いします。管理人様失礼しました。


[190] お久しぶりです 投稿者:カマキリ 投稿日:2007/09/06(Thu) 00:00  

大変ご無沙汰いたしております。
2000年の1月以来の書き込みです。管理人様、覚えていらっしゃいますでしょうか。当時プテのHNで後に落葉剛といたしました者の父でございます。時々ROMさせていただいておりました。ずいぶんとディープな世界になってきていましたので、なんとなく書き込みから離れておりました。

さて、上瀧ミツゴロウ様。うちの息子に呼びかけいただきましてありがとうございます。ご推察の通り、貴家の本家筋に当たります久池井上瀧の者です。現在は、私も分家となりまして大阪に在住いたしております。
実家の母にミツゴロウ様の最初に書き込みの内容を確認いたしましたところ、曽祖父は当家が竜造寺ゆかりの士族であったと話していたそうです。それと、麦わら作りの屋根の刀の件ですが、私が子供の頃に小屋を建て替える際のエピソードです。ずいぶんと父が探したのですが発見できず、屋根を焼却した焼け跡に刀身だけが残り、父は大変残念がっておりました。このあたりのことは、改めてメール等させていただこうかとおもっています。

公共の掲示板をお借りいたしまして大変失礼いたしました。


[189] 管理人様、yagyu様、 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/08/29(Wed) 18:33  

【1337年、上瀧(かみだき)源六の子、房丸出兵の恩賞として西村山を得る】とのyagyu様がお調べ頂いた文を見て私の頭はパニクッていました。【1396年、九州探題渋川満頼に従い秋山次郎三郎光長九州へ来る】を基準に上瀧氏と秋山氏の繋がりを調べていたからです。秋山次郎が九州に来る59年前に上瀧源六の名が出てきたからです。とすれば源六が一番重要な人物になってきます。1336年に足利尊氏が天皇方に戦で敗れ筑前に到着します。筑前多々良浜で天皇方、菊池、阿蘇軍を破り京都へ東上します。この戦いでは少弐氏と共に肥前国長島荘の橘氏も足利方に付き、1337年に将軍になった尊氏に味方した武将達に恩賞を与えます。この時の出兵の恩賞として上瀧房丸が橘氏から貰ったものでしょう。上瀧源六と秋山氏との繋がりは??@yagyu様が推測された橘氏に従って来たか??A土着の豪族だったか?との推測も成り立ちそうですが?@の場合、家来の出兵に恩賞とはしっくりしない感じがします。出兵とは1人や2人でなくある程度の人数だと考えられます。とすれば?Aの土着の豪族だったのかと考えると久留米北野町の秋山氏との繋がりが説明出来ません。悩んだ末に推測をしてみました。足利尊氏が筑前に来ます。筑前には秋山と云う地名があったそうですが、そこか北野町に住んでいた秋山氏は足利方に付きます。軍の中では橘氏の指揮下に組み入れられ軍功を立て恩賞として西村山を貰います。秋山源六は分家の立場だったので、恩賞の地へ移住しその土地名を取って上瀧を名乗ります。ここで問題なのが何故わたきでなく(かみだき)と名乗ったのか?考えても今は分かりませんので駄洒落の積もりで読んで下さい。恩賞を貰って橘氏に仕えるようになった源六親子は改名の報告を領主にします。中央政治に詳しい橘氏は鎌倉に名のある武将【かみだき】氏にならって【かみだき】と呼ぶように教えた。代々経つうちに皆が地名の《わたき》と云うようになった。


[188] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/08/27(Mon) 16:15  

先ほど私の会社へ訪問された印刷関係の営業の人と名刺交換しましたら『「こうたき」様でしょうか?』と聞いてきましたので、今までの経験で(こうたき)という知り合いがいるなとピンときました。聞いてみると、約20年ほど前彼が学んでいた京都の立命館大学に(こうたき)と云う教授が在職されていたそうです。直接受講してないので何学部の教授だったか忘れたけど、珍しい名前なので覚えているとのことでした。皆様も同じ経験をされていることと思いますが、(じょうたき)とまともに呼んで貰ったことはなく、もし呼んでくれる人はほとんどが佐賀出身者でした。前にも(こうたき)と名刺交換時に呼んだ人の話では、神奈川県に(こうたきセメント)と云う会社があるそうです。


[187] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/08/23(Thu) 16:17  

先日の2つの疑問のうち、上瀧盛貞と盛員が同一人物か親子なのかと書かれていました件。浅学非才の私の考えを述べさせて下さい。確か1525年に藤津衆の起請文に出てくるのが盛貞で、1576年に久間衆起請文に出ているのが盛員だったと思います。年数と名前が間違いなければ、2つの起請文の間では51年間となります。起請文に名を連れるとすれば上瀧家の当主だと思います。成人の筈ですから仮に盛貞が25才だったとしますと51年後は盛貞は76才となります。当時の短命な時代からすれば、生きていたとしても隠居して息子に当主の座を譲っていたのではないでしょうか?久間衆で盛員の名が出るという事は、2人は親子だったのではないでしょうか。例外的には80才代で戦場にいたと云われる北条草雲(?)がいますが、草雲の場合は指令を出す立場ですからそれでも良かったのでしょうが、76才での命のやりとりをする戦場での斬り合いをしなければならない立場の身分ではきつすぎるのではないでしょうか。以上私の考えです。


[186] 投稿者:yagyu 投稿日:2007/08/20(Mon) 09:13  

歴史にはいろいろな疑問がつきものですが、
いままで調べたもので2つ??のものがあります。

1つは上瀧盛員と上瀧盛貞との関係です。
どの本にも盛貞(員)とか、はじめ盛貞で出てきてたのに、いつのまにか盛員になっていたり、
交互に出てきたりダブったり。同人物なのか、親子なのか。
親子なら盛員が久間衆にはまり込んでいるのに、盛貞は藤津衆として泰然としている。
この微妙な隙間感がなんとも不思議な気がします。ただ盛員は、
力だけでなく文武、知略、指導力に長けた人物であったことは、文面から伺えます。

もう1つ、これが一番謎なのですが、
上瀧源六を「かみだき」とした根拠がどうしてもみつかりません。
肥前風土記には磐田杵村(いわたき)、地名ではわたき、各歴史書にも うわたき、は(わ)たき と出てきます。
うわたき もしくは うえたき の方がしっくりくる気がします。

姓氏家系大辞典で何故「かみだき」なのか、もし著者の太田亮先生がご存命であれば、
ぜひともお尋ねしたいところですが、残念です。
謎は謎のままで、後世にまかせるのも一興でしょう。

後書きになりますが、
上瀧空蝉彰徳碑の表の碑文は、子爵海軍中将、小笠原長生(旧唐津藩主)の書で、
空蝉が人格知識、人脈の広さ、社会貢献の大きさなど傑出した人だったようです。

祖先を探すことは、過去と未来の真中の自分の立ち位置を確認することだと改めて感じます。
このホームページと管理人さんに感謝いたします。





[185] その後 投稿者:yagyu 投稿日:2007/08/17(Fri) 12:51  

天文年間(1532-55)より龍造寺氏の勢いが増してきます。
本家の断絶という悲劇の中から、分家筋の青年僧、圓月を還俗させて、
天文15年(1546年)跡目を継がせます。龍造寺隆信です。
以降、その勢力はますます拡大していきます。
千葉氏は衰退し、龍造寺氏に併呑され、後藤氏は惟明の乱に乗じて間隙をつかれた形で飲み込まれ、
有馬氏は藤津より追い出されます。探題渋川氏は代を重ねるごとに威勢が衰え、
ついに1533年7代で亡びます。その子孫は大村家臣や鍋島藩士として流れていきます。

上瀧氏もこの頃から、あちこちの歴史書にたびたび登場してきます。
1562年  有馬氏に従軍する藤津郡の上瀧氏
1569年  神崎郡崎村 犬塚長門守鎮直とともに討ち死にする上瀧氏
1574年  後藤惟明の乱に加わる後藤家重臣、上瀧権兵衛
1576年  久間衆連署起請文の上瀧刑部少輔盛員
1576年  横造城の戦いで龍造寺氏につく上瀧志摩守盛貞
1583年  島原合戦に出陣する上瀧志摩守盛員
1592年  朝鮮出兵する 上瀧兵太郎・上瀧勝次郎
1592年  朝鮮咸興で戦死する上瀧孫左衛門

龍造寺隆信の戦死を機に、勢力は鍋島氏に移ります。
江戸時代の上瀧氏については調べていません。そろそろ各家の墓ができて流れがわかりやすくなるのと、資料も膨大なものになり時間がとれなくなってきたからです。
ただ、佐賀の藩は武士が多く、それだけ手取りが少なくやり繰りが大変で、
武士をやめて庄屋になったり商人になった者が多いと、なにかの本で見た記憶があります。
 


[184] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/08/04(Sat) 14:37  

小城市の地図が手元に無かったので確認はしていませんが、五町田の近くに鳥越という地名を記憶してましたので開いて見ました。昭文社、2006年発行。《伊万里、武雄、嬉野、有田》地図です。鳥越は塩田町谷所にありました。その他の地名は推測の域を出ませんがそれらしいものが幾つかありましたので報告致します。【天神=おうくまのやま】鳥越の近くに八天神社がありました。【こうろしま】】八天神社の近くに味島神社と云う神社がありますが(あじしま)か(みしま)と呼ぶのかは分かりませんが【しま】の名はこの近くにはこれだけでした。【ろくがさき】真崎(まつさき)の側に三ケ崎と云う地名がありますが六ケ崎と云う地名もあったのでは?【くま=うちまへだ】は久間の事ではないでしょうか?塩田の隣は久間ですから久間にあったのかも知れませんが残念ながら【うちまへだ】は見つかりませんでした。【くまの=五郎町薬師めん】五町田に熊野権現神社がありますのでここいらのことでは?【五郎町薬師めん】は見つかりません。熊野神社は北方町芦原にもあります。【ふるつぼ、上ふるつぼ】橘小学校の近くに《おつぼ山》がありますが少し離れすぎか?【みや田】真崎の近くに五の宮神社がありますが、神社が所有していた土地を《宮田》と呼んでいたのかも。琴平神社近くに《橋北》《橋南》の地名がありますが、この名は近代に付けたような感じで、昔はこの川のどこか近くに橋があって【はしもと】と呼んでいた感じを受けます。【たかわら】鹿島高校の側に高津原があります。海にも近かっと思われますが、【たかわら】⇒高津原に《少し強引でしょうかね》強引ついでに【さかもと=えのきその】味島神社の側に鳥坂がありますが元々は坂本と呼んでいたのでは?上瀧氏が居た、吉田、五町田近くを探しましたが、はっきりしているのは鳥越だけでした。




[183] 橘中村文書 投稿者:yagyu 投稿日:2007/08/03(Fri) 12:15  

うわたきのたうせうちきやう分
1町 5反     ふるつほ     
1町        たかわら      
6反3丈      上ふるつほ
1町        はしもと
3反   くまの  五郎町薬師めん
1町        くいせまち
4反        きしそい
2反3丈      たかわら
1町        ふちつまち
1町        てらしまち
3反2丈中     みや田
2反        つしまち
1反        しまさき
5反  くま    うちまへた
4反        ろくかさき
1反3丈      とりこえ
1町        堂かまち
  以上20町1丈中  

  いやしきのちうもん
1所          おかのいやしき
1所          や□その
1所  しんしやう   やけんしかその
1所  さかもと    えのきその
1所  寺       こおろしま
1所  天神      おうくまの山
  以上6ヶ所

たかわらの地名で小城だと思いました(たかわらは昔そうめんの産地)。しかし他の小字名はわかりません。もしかしたら違う地域かも。
中村氏から上瀧氏への領地安堵の文書のようです。(□は判読不明文字)

拠点としていた杵島郡に有馬氏が侵攻し、かつ、橘一族の要がなくなり、加えて千葉氏の勢力も衰えてしまい、地盤が不安定になった橘中村氏は一時期有馬氏に属して、横辺田砥河村の地を与えられています。
そして24代中村公顕の時、武雄 後藤貴明から50町の領地を与えられて家臣となります。永禄(1558-1569)の終わり頃のことです。
                


[182] 大和町の 落葉剛様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/08/01(Wed) 16:54  

2004年5月14日の貴方の書き込みを見て、私の親戚の方だと推測しました、申し遅れましたが、以前久池井に住んでいましたジョウタキと言います。私の本家は久池井のお宮さんから100m位南にありますが、分家の私の家はお宮さんから東南方向へ300m位の所に赤いレンガ塀のある家でした。小字久池井には上瀧家が5軒ほど、野口に1軒があり皆親戚でした。お寺は玉林寺で盆前には親戚同士で墓掃除に行ってました。寺以外の惣座にも誰だか分からない先祖の古い墓があってそこも掃除をしていました。落葉様が聞かされていたと言われるように、分家である私の家の周りもほとんどがわが家の土地だったそうです。分家にそれだけの土地を分け与えられる本家は相当の土地を所有していたのでしょう。その後の土地改革で祖父が校長をしていたので、不耕地地主と云う事で政府に買いあげられたそうです。いくらかの畑と2反ほどの田が残され子供の時に手伝わされました。300坪ほどの家と庭も父の代で没落し人手に渡りました。私は今大阪に住んでいます。3年に1回くらいは大和町に行きますが、昔ののどかな田園風景が様変わりして寂しい気もしています。故郷を離れた郷愁よりも、実際にそこで暮らしている人々は我々の先祖みたいに逞しく生きておいでなのでしょうね。またこの掲示板で交流してください。


[181] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/26(Thu) 17:06  

訂正します。7月25日の私のメールで【秋山元吉親子が…】としましたが、詳しく調べましたら【村上水軍の惣領と呼べる能島村村上武吉、元吉親子…】となっていました。たしか秋山の項目を調べていたときなのですが、どうしてこんな事になったか不思議です。お詫びして訂正いたします。


[180] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2007/07/26(Thu) 15:17  

7月24日の管理人様の文章を見て霧の中にかすかな明かりが見えた感じです。あの文を参考にしながら上瀧氏の系図に照らし推理してみました。室町時代初頭1337年、上瀧源六の名がでます(多分在所は藤津郡)1533年九州探題渋川伊茂の甥、堯顕が探題を裏切り有馬を頼って藤津へきます。同じ年に渋川探題家は滅亡します。1576年久間衆記請文に上瀧志摩守が。1578年横造城攻防戦にて志摩守が有馬氏から龍造寺氏へ降ります。渋川探題家が滅ぶ43年後に志摩守の名が出てきます。志摩守が25〜30才位だったとすれば、系譜からみて秋山家能の代に渋川探題が滅んだと考えられます。家能にとっては主家が滅び、次に仕える先を縁を頼って探します。久留米北野町秋山氏と遠縁の藤津の上瀧氏、又は探題の甥、堯顕のグループを頼ったか?系図によれば秋山家能の子【義重】が秋山⇒上瀧に名を変えたとなっています。家能は一時有馬氏に仕えたか、上瀧氏に所属いたか?秋山から上瀧に名を変えるには、義重は婿養子入ったとしか考えられません。秋山家能には当然出身の秋山氏の親戚が違う場所に住んでいたでしょう。秋山藤右衛門の息子が上瀧の婿養子で名を上瀧に変えたように、秋山義重が上瀧義重に名を変えたとしてもおかしくありません。しかしそんなふう仮定した場合、上瀧源六の先が又同じ秋山氏だったのと考え込んでしまいます。


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