上瀧氏交流掲示板
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[119] 掲示板のバージョンアップ+ログの整理 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2005/08/02(Tue) 01:46  

管理人の太郎です。
近頃、当サイトに全く関係の無い宣伝の書込みが増えてきましたので、
これを機に掲示板のバージョンアップをしました。
前のものに比べ、見た目は殆ど変わりませんが、機能が多少アップしています。
主な点は暗証キーを投稿の際に、設定して頂くと、投稿者自身において記事の修正が可能になりました。

また掲示板の変更に伴い、勝手ながらログも多少整理(削除)させて頂きました。
投稿番号がずれているのもその為です。


[118] 宣伝行為は禁止です 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2005/07/26(Tue) 03:10  

当掲示板において、当HPの主旨に関係のない宣伝、広告等の書き込みを禁じます。
その様な書き込みは発見次第、削除致します。
勧告に承諾して頂けない場合はしかるべき処置をとらせていただきます。


[117] びっくりしました 投稿者:上瀧 投稿日:2005/06/27(Mon) 05:49  

はじめまして〜こうたきと申します。
同じ苗字の方がサイトされてるとは・・
荒川区に住んでおります。うちの父が福岡出身です。北野町に父の従兄弟にあたる方が住んでまして、そこにお墓があったような・・
家紋は丸の中に四角い輪が3個重なりあったようなものだったとおもいます。あまりよくわからなくてすいません


[116] 珍しい苗字なので、気に入っています 投稿者:sleepy 投稿日:2005/06/12(Sun) 06:36  

はじめまして。上瀧(こうたき)と申します。

このサイトを見つけて驚き、家系というものの奥の深さを始めて知りました。書き込まれている方の中には、同じ系だと思われる方もいらっしゃいますし。

うちのお墓は北野町のお寺で(おそらく「西方寺」)、家紋は丸にすはまです。従って、上瀧稀一郎さんと同じルートになるのかと思われます。ただ、私の場合、曽祖父が分家をしたようです。

私の知る限り、私の家系は江戸時代の明和までは遡れますが、それより古くなるとあまり分かりません。ただ、遡れば出身が越後あたりになるのかもしれない、と話を聞いたことがあって、それからすぐ、たまたま同じ家紋の和菓子屋のお土産を、新潟にスキーにいった友人からもらって驚きました。


[115] 小城 投稿者:曾祖父は伝八 投稿日:2005/06/04(Sat) 22:36  

管理人さん、こんばんは。
実家に聞いてみたところ、以下のことがわかりました。
母はある程度佐賀の本家(?)について知っていたのですが
曾祖父の伝八の兄弟に要(かなめ…漢字が合っているかわかりませんが)という方が小城にいたそうです。職業は船乗りだそうで、腕にはイカリマークの刺青があったそうです。その方にはお子さんがいなかったため、代々を祀る墓石(かなりの大きさらしいです)は小城の禅寺(名前は調べればわかるそうです)に永代供養してもらうようにしたそうです。


[114] 官位 投稿者:yagyu 投稿日:2005/06/01(Wed) 22:52  

時代劇で昔の武士や貴族など名前より官位で呼んでいるのをよく耳にします。
たとえば 石田三成、冶部殿とか。大谷刑部殿とか。

戦国時代では官位は割とルーズになっていったらしく、朝廷から加冠されなくても自称したり臣下に与えたり。それでも権威はあったようです。むしろ権威をつけるために重要。そこで、官位から推測していくと。(史料がまちまちで少し自信ありませんが)

刑部少輔・・・・従五位下  官位30階の上から14番目
志摩守・・・・・従六位下     〃     16番目
権兵衛・・・・・??  兵衛府の権官 権とは代理の意味

上瀧権兵衛が後藤惟明に荷担して、天正2年に敗れてから2年の後、官位が急激に上がることは少し無理な気がします。要略の文面、序列からすると惟明に従う若い近習というイメージがします。(権兵衛ファンです)

上瀧刑部少輔盛員=上瀧志摩守かもしれませんが、上瀧刑部少輔盛員=上瀧権兵衛ではないかも・・ 
しかし権兵衛さんは後藤家の中枢に座していた人には間違いないでしょう。




[113] 補足 投稿者:曾祖父は伝八 投稿日:2005/05/27(Fri) 21:11  

家紋は蔦です。手元に現物がないので詳しくはご連絡できません。私も実家に戻った際に少し調べてみます。


[112] 私も上瀧です 投稿者:曾祖父は伝八 投稿日:2005/05/27(Fri) 20:57  

管理人さん、はじめまして。
私も上瀧姓です(読みはうえたき)。
先祖はやはり佐賀県出身です。恐らく?曾祖父が大阪で商いを行っていたようです。名前は伝八だったと記憶しています。



[111] 蜘蛛の糸 投稿者:yagyu 投稿日:2005/05/19(Thu) 21:58  

管理人さんの情報に触発されて再度、歴代鎮西要略を見直したら、ありました。上瀧權兵衛さん。天正元年から8年までの間かなり上瀧に関する記述がのっています。まだ見つけたばかりで解読できていませんが、權兵衛=上瀧志摩守のような、ないような。
 天正元年〜2年の項に後藤惟明の謀反に加わる九人、松尾豊前守、中野兵庫助、小楠兵部丞、馬塲隼人助、田中大蔵助、上瀧權兵衛、上彌三郎、下忠助、八並右衛門尉が密談している様子がリアルに書かれています。この乱で後藤貴明は龍造氏に援軍を頼み、以後後藤氏は竜造寺氏の軍門に下ることになります。
 優勢となった後藤貴明、龍造寺氏、佐賀勢は惟明の城を取り囲み落城寸前。城には松尾、中野、小楠、八並、加加良、宮村、渋江、谷、田中、馬塲、上瀧、上、下、などの士卒数百人。二千騎相手では戦意喪失。竜造寺隆信は無血開城を許可し、惟明以下一命を助け、惟明は平戸(実家)へ送り返し、兵は平戸か、自分の所か??
(其中出仕于隆信者有)ここがビミョーなところ。敵味方で戦った者をあっさりと部下にできるのか、龍造寺氏はいいとしても、後藤貴明は許せるのか。これが戦国なのでしょうか・・ということでいまのところよくわかりません。もう少し読み込めたらもっと違う面も出てくると思うのですが。
 
線とはいかないまでも蜘蛛の糸くらいの繋がりは見え始めました。    




[110] 上滝治夫さんは 投稿者:小谷勝彦 投稿日:2005/05/15(Sun) 19:51  

始めてメールさせてもらいます
「101」の文書に記載されている「上滝治夫」様という
方は、50年ほど前に神戸市の旧葺合区熊内町にお住まいの方ではなかったですか、ふるいそろばんのコレクションをしておられましたが・・・


[109] こういう事かな? 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2005/05/15(Sun) 16:25  

後藤家に属していた事がイコール、有馬家に属していたとみられているのかな?
多分、順序では有馬家>後藤家>藤津衆>久間衆>上瀧 という並び。
有馬と後藤は姻戚関係にありましたが、後藤貴明の代になってからは争っていたようです。


[108] チンプンカンプン(死語) 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2005/05/14(Sat) 20:01  

yagyuさん

ご無沙汰しておりました、太郎です。(^^)
改めて調べて頂いて有り難うございました。

上瀧刑部少輔盛員はやっぱり「上瀧」で正解かも・・・。
う〜ん、批判ではありませんが、川上氏の著書はちょこちょこ間違いがあったりします。(^^;
それでもここまで佐賀の戦国武将人物伝を纏め上げるのは尊敬します。

ただ、「上瀧」刑部少輔盛員だったとして、何故、有馬、後藤両家に名前が存在するのか?
(正確には上瀧刑部少輔と上瀧志摩守)
たしか有馬と後藤は争っていたはず。
私の知ってる限り「上瀧」の名前は1544年頃に初めて資料に出てきます。
この上瀧が上瀧美濃守としても、その子が後藤家に?
上瀧氏がある地方の土豪であって、その時々で主・・・というか、
誰に味方するか決めていたと考えても、後藤家で重臣扱いされていたとは考え難いし。
やはり志摩守と権兵衛は別人なのか、もしくは同時期に複数の系統があったのか?

あれ?そういえば久間薩摩守も同じ様な感じですね。
有馬家から龍造寺家へ帰属した時も、久間薩摩、上瀧志摩、両名の名前が出てきます。
それで後藤家の文書に久間薩摩。この人物を調べていけば、分かりそうですね。
久間村と五町田村が近いという点も見逃せないし、久間衆連署起請文に署名している点でも興味深いですね。

是非とも久間衆連署起請文のメールお願い致します。m(_ _)m
少し、糸口が見えてきた様です。(^^)

>上瀧権兵衛さん、この名前いいですね。どんな人なんでしょう。
ほんとにどんな人だったのしょうね。今の所、調べても後藤家の乱に名前が出てくるのみ。
情報だけでいえば「名無しの権兵衛さん」状態です。(^^;


[107] お久しぶりです 投稿者:yagyu 投稿日:2005/05/13(Fri) 23:30  

私の情報がお役にたてれば嬉しいです。子供たちからはオタク扱いされているもので。

さて、上瀧刑部少輔盛員ですが、久間衆連署起請文では、もし久間村の中で敵方の不穏な動きを見つけたら、ただちに久間薩摩守殿まで通報することを約束しています。 久間薩摩守殿 です。
管理人さんのコメントを見て思わず手元の資料を見直しました。なんど見ても 上瀧刑部少輔盛員 です。

後藤文書の中で 久間図書亮盛直 という人がいます。天正2年(1574年)永田通定外四名連署起請文に署名した5人のうちの一人です。この人の方が薩摩守の子か親族のような・・・

久間衆連署起請文は管理人さんに原文をメールします。私は漢文とかの素養がないので割とアバウトに解釈してしまうのでよろしくお願いします。

上瀧権兵衛さん、この名前いいですね。どんな人なんでしょう。



    


[106] やっぱり佐賀県史料集成! 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2005/05/11(Wed) 18:29  

ここが一番、情報が多そうですね。しかし、yagyuさんの様に調べられるかどうか。
そもそも恥ずかしながら、実物見たことないです。(^^;
資料としては、後藤家文書、綾部家文書写、綾部家文書、犬塚家文書このあたりに記載があるかも知れないですね。
http://homepage2.nifty.com/hutongmi/sagakensiryousyuusei.htm

しかし、本当に点しか見えてきてない。いつ線に繋がっていくのか。(^^;



[105] 久しぶりにちょっと更新 投稿者:管理人@太郎 投稿日:2005/05/11(Wed) 13:09  

ご無沙汰しておりました、管理人の太郎です。(^^;
どうにも仕事が忙しく、なかなか更新出来ずにおりました。
また本当は掲示板の書込みにも時間を取って、お一人お一人にレスしたかったのですが、
考えている暇がないという悪循環で、こんなにも遅くなってしまいました。(^^;
本当に皆様にはご迷惑お掛けして、申し訳ありません。m(_ _)m

最近は、私よりも研究熱心な方に、多数参加していただいていますね。本当に、嬉しいことです。
それに甘えてしまっている自分がちょっと情けないですが、皆さんからの情報を纏める事に、
少し重点を置いて、更新していこうかと考えています。

例えばyagyuさんの情報。
>次に後藤家文書の中の”久間衆連署起請文”天正4年(1576年)6月16日 上瀧刑部少輔盛員を筆頭に60名の署名があります。
>おそらく後藤貴明に対する忠誠を神かけて誓った起請文だと思われます。
>天正2〜5年の間に同様の起請文が各所から寄せられています。そのなかの1つです。
>後藤氏と上瀧氏がいつごろから関わっていたのかわかりませんが、天正12年5月22日後藤家事跡には
>猪熊砦の修復に携わっている10ヶ村のなかに上瀧村が北方村や河上村などと共に載っています。

この情報は本当にすごい情報だと思いました。
私も後藤貴明の重臣の「上瀧権兵衛」なる人物を調査していたのですが、
その人物が上瀧盛員、恐らくは上瀧志摩守であったのでは?という資料の一つだと思います。
そこでちょっと調べてみます・・・ん?なにか違う。おかしい。
川上茂治氏の佐賀戦国人名志の「久間薩摩守盛種」の項に天正四年、龍造寺隆信に謁して領土安堵された
人物の一人に久間刑部少輔盛員という人物がいます。あれれ?
この久間刑部少輔盛員は恐らく久間薩摩守盛種の子の事だと思われます。
久間薩摩守盛種は貴明と惟明の家督争いで惟明の謀反をいち早く貴明に知らせ、信任されます。
また久間刑部少輔盛員も貴明幕下で仕えていたようです。
たしか天正八年隆信公幕下着到帳にある上瀧志摩は盛員となっていたはず。
なんだかこの辺が、??なんですが、もしかしてという仮説も。
もしかして上瀧志摩守盛員=久間刑部少輔盛員か?
ここでyagyuさんの情報の信頼性が大事になってくるんですよね。(^^;

こういう風に情報を纏めていくのですが、「上瀧刑部少輔盛員」一つで
ここまで苦労していては進まないはずですね。頑張ります。(^^;
なんだか、文章滅茶苦茶ですね。資料漁りながら、書込みしてますので。(笑)


[104] はじめまして 投稿者:戸村 憲一 投稿日:2005/05/02(Mon) 15:55  

はじめまして 仙台在住の戸村 憲一(旧姓 上滝 ジョウタキ)と申します。
私の父は上滝 欽三で、父の一番上の兄が上滝 敦三 次が雅三
欽三、父の弟が隆三となります。
私の祖父は、私が生まれる前に亡くなっていましたが、名は貞三
(ていぞう)で出身は、佐賀です や○ざ稼業が嫌で東京の新橋
に出てきたそうです。新橋で上滝商店として革製品を取り扱っていたそうです。




[103] こんにちは 投稿者:Taiki 投稿日:2005/02/23(Wed) 20:11  

いろいろ上滝氏を調べられていますね、自分も今年に入りまた本腰を入れて歴史を調べるようになりました、今後も宜しくお願いします。

http://www9.ocn.ne.jp/~t-sanaba/sansaku2.htm


[102] あけましておめでとうございます 投稿者:上滝 豊久 投稿日:2005/01/06(Thu) 23:12  

2005年の幕開けです。管理人さんはじめ皆さん今年もよろしくお願いします。管理人さんとは、まだ、ごあいさつを交わしておりませんが、なんとなく、お体の方とか心配しております。もしかしたら、昨年の投稿を読みやすいように御編集していただいたのでは、とか思っています。うちの父は養子で上滝を継いだのですがその実家と言えるものは幼少の頃にはもう既になにもなく住居も転々としたみたいです。私がまだ、20代の頃ルーツという外国映画をみまして、自分のルーツに大変興味がありました。30過ぎくらいでしょうか暇があったら佐賀へ行って図書館やお寺周りをしていました。もう、15年以上前です。本物の古文書を見たときは感動しましたが、いかんせ、同じ日本語なのにさっぱり、読めないのには、驚かされました。いまは、ほんとうに、便利になりました。このパソコンのおかげで、居ながらにして様々な情報を入手できます。そして、あれやこれや探っているうちにこのホームページに、出会えました。まさか、まさかの思いでした。管理人さんはじめ上滝の皆さんどうぞ、今年もよろしくお願いします。



[101] 投稿者:上滝 豊久 投稿日:2004/12/24(Fri) 11:20  

人物辞典で上滝の名前が出ていましたので、紹介します。

上滝 英(ジョウタキ ヒデ)文献「九州やくざ物」藤田五郎著 九州一の昇り竜上滝一家二代目(初代久太郎の甥) 上滝建設会長 社長は長男、久太郎 昭和14年65歳没 佐賀直川生まれ

上滝 孝(カミタキタカシ) 現代人物辞典 昭和15年入隊23年復員 林業経営、昭和40年農協に入り47年総領町農協組合長大正9年8月22日生まれ広島県 

上滝博正(コウタキヒロタダ)現代人物辞典 東京出版販売kk取締商品管理部長 昭和4年12月12生まれ福岡県      

上滝洋三(コウタキヨウゾウ) 現代人物辞典 上滝公認会計士事務所長、叔父哲太郎、大正15年12月2日生まれ福岡県

上滝致孝(ジョウタキ) 現代人物辞典 住友重機機械工業kkシステム研究所長、大正13年生まれ福岡県

上滝 勝(ジョウタキ) 現代人物辞典 ?樺キ崎上滝建設代表(昭和30年〜)昭和3年4月10日生まれ佐賀県

上滝正衛(ウワタキ) 昭和人名事典第巻 酒造業上瀧(名)代表、傳蔵 次男 先代正記の後をつぐ 福岡

上滝隆三 日本紳士録 ポッカコーポレーション取締食品部長 昭和12年生まれ東京都生まれ

上瀧益雄(ジョウタキ) 日本人事録 上瀧益雄事務所長、税理士 大正6年12月12日生まれ佐賀県

上滝治夫(コータキ) 昭和人名事典 兼松羊毛工業監査明治25年5月20日生まれ  京都府 福太郎次男浄土宗

上滝孝治朗(カミタキ) 日本紳士録 足利短期大学副学長大正3年6月22日生まれ富山県

上滝 ミノト(コウタキ) 日本農業研究所専務理事大正8年6月13日生まれ 東京

上滝敦三(ジョウタキ) ニッカウヰスキー?叶齧ア大正14年12月1日生まれ東京

上滝致孝(ジョウタキ) 住友重機械工業?葛Z監住重イートンシステム取締 大正13年生まれ福岡

上滝貝貞(ジョウタキトモサダ) 工博 九州共立大工学部教授  九工大名誉教授 大正4年8月1日生まれ福岡宗像(生まれ佐賀鍋島村)

上滝長久(ジョウタキ)伊万里信用金庫理事長 大正9年8月20日生まれ佐賀県

日本紳士録や人名事典に掲載されていた方々です。なにかお役に立てばと列挙してみました。


[100] Re[99]: 私の所も木瓜紋です。 投稿者:上滝 豊久 投稿日:2004/12/24(Fri) 10:02  

> 以前、書き込みしました。上滝です(>>32)
> 私は、現在嬉野の吉田に住んでいますが、家紋も木瓜紋で(ネットで検索しました)、
> 本家が本覚寺のそばにあります。それと、昔、田畑を結構所有していたという話しもきいたことがあるので、豊久さんの遠い親戚にあたるかもしれません。
> 祖父もなくなり祖母も倒れたため、詳しいことは知りませんでしたが
> そのような歴史があると聞き、驚いています。
> 詳しい説明を書いていただきありがとうございます。 ありがとうございます。
上滝家の親戚交流とは無縁でしたので、とても、新鮮な気持ちです。たぶん戦前戦後を通じて様々な動乱の時期があったのでしょう。うちは私から 豊久ー喜八郎ー喜兵衛ー長造ー惣左衛門と言う流れです。、この惣左衛門さんの兄弟に卯惣次さん興兵衛さん、貞兵衛さんがいます。吉田の上滝さんはこの中のだれかの御子孫ではないですか。


[99] 私の所も木瓜紋です。 投稿者:吉田の上滝です 投稿日:2004/12/23(Thu) 12:40  

以前、書き込みしました。上滝です(>>32)
私は、現在嬉野の吉田に住んでいますが、家紋も木瓜紋で(ネットで検索しました)、
本家が本覚寺のそばにあります。それと、昔、田畑を結構所有していたという話しもきいたことがあるので、豊久さんの遠い親戚にあたるかもしれません。
祖父もなくなり祖母も倒れたため、詳しいことは知りませんでしたが
そのような歴史があると聞き、驚いています。
詳しい説明を書いていただきありがとうございます。


[98] うえたきです 投稿者:上滝豊久 投稿日:2004/12/21(Tue) 04:25  

父に聞いた話です。父も私の祖父から聞いたとか、まず、?@先祖が吉田に落ち武者のようにたどり着いた。?Aその後、先祖の誰かが寺子屋を開いた。?B先祖の誰かが鍋島さんの乳母を勤めた。?Cまた、先祖の誰かは鍋島に仕えその人はとても字が上手だった。?D吉田村は代々一之瀬家、上滝家、岡家で取り仕切ってきた。この話は別になにか資料などが残っている訳ではありません。なにか手がかりみたいな話があれば教えてください。うちは私のひいじいちゃんの代に没落した吉田村の庄屋だったそうです。日蓮宗の本覚寺という寺に近い所に今では畑ですが少し石垣が残っているくらいです。その寺にはうちの先祖の墓があります。本収院日俊上人だったかそのような名前の上人さんの墓もあります。同じ名前の墓が佐賀の大きなお寺で本行寺にもありました。実家の仏壇には日蓮上人の仏像がありますので小城の光勝寺〔九州日蓮宗総本山)とはなんらかの関係があったと思われます。また、千葉氏ともなんらかの関係があったかもしれません。最近気づいたのですが吉田村と塩田の間に鳥越峠というのがありますがそこに昔、富永氏が明治の終わりくらいまで在所を構えていたのですが父はそこから上滝に養子として出されたようです。没落したとは言え八天神社の田村氏と富永氏は上滝の名前を途絶えさせないように影に日向に努力なされた。そのおかげで今私がいるのだと思うと先祖に感謝しないわけにはまいりません。うちの紋は木瓜紋です。織田信長の紋に似ています。豊臣秀吉が恩賞のかわりにこの紋を与え安売りしたと聞いたことがありますが少なくとも戦国時代になんらかの関係があったのでしょう。他に有馬、大村、冨永、八坂神社、二ノ宮尊徳、などと同じです。先週12月18日八天神社のお祭りに寄って来たのですが由来の看板が設けられていたので読んでいたら1220年田村良真氏が京都からおいでになったと書いてありました。確か千葉氏もその前に小城に来られたと読んだ事があります。そのとき、部下に上滝の氏見ゆその一部は薩摩にゆく、と人名辞典で見たことがあります。もう20年近くなりますが暇だったのでしょう電話帳で調べたことがありました。ジョウタキは佐賀、唐津、多久、伊万里、武雄、鹿島、大和、神崎、小城、杵島、藤津に90軒、特に大和に35軒と最も集中していました。ウワタキは伊万里、武雄、小城、杵島、藤津に23軒、特に藤津郡嬉野町に10軒と集中していました。この10軒に残念ながらうちは入っていません。後はコウタキで有田、唐津、佐賀市に5軒、カミタキは佐賀県には一軒もありませんでした。千葉県にはいづれの呼び名もありましたが、あわせても11軒でした。あと九州では久留米、鳥栖、大宰府、福岡市(30軒),飯塚、黒崎、小倉、門司といわゆる関門海峡から大村湾に至る直線上に300軒以上あるようです。中世というよりは古代地図にみる北部九州の駅路一帯に広がっているように思えました。少々長くなりました。なにか色々ご存知の方どうぞ宜しくお願いします。


[97] うえたきといいます 投稿者:上滝豊久 投稿日:2004/12/20(Mon) 01:34  

元々うわたきと呼んでいたそうですが、藤津郡の嬉野の上の方にある吉田村で父が二十歳くらいまで住んでいたそうです。塩田の八天神社は父の母の実家になります。私は熊本に住んで30年になりますが、ルーツに興味があります。このコーナーに出会えて喜んでいます。宜しくお願いします。


[95] 点在 投稿者:yagyu 投稿日:2004/11/19(Fri) 23:35  

房丸さんを追っていて偶然に上瀧に関する記述を見つけました。
まず、房丸さんですが3人います(いまのところ)
1人目は橘中村家の嫡流 
 中村房丸(掃部助公明)〜橘中村文書1395年記載
2人目は上瀧源六の息子
 房丸〜小鹿島文書1336年頃記載
3人目は謎の人物です。
 房丸〜中村女子加子鶴女の息子 年代も父親も特定できません。 この系図に出てくる人物を調べると藤原氏系の人々かな・・と推測できますが断言できません。上記の2人のうちの1人なのか全く別の人なのか今の段階ではわかりません。

次に橘中村文書の中の”上瀧(うわたき)たうせう知行分注文”
田畑?分として たかわら くいせまち 五郎町 てらしまち 等廿町一丈中。居屋敷として おかのいやしき 寺(こおろしま?) 天神(おうくまの山)など6ヶ所を知行分として注文しています。年代は特定できません。

次に後藤家文書の中の”久間衆連署起請文”天正4年(1576年)6月16日 上瀧刑部少輔盛員を筆頭に60名の署名があります。おそらく後藤貴明に対する忠誠を神かけて誓った起請文だと思われます。天正2〜5年の間に同様の起請文が各所から寄せられています。そのなかの1つです。後藤氏と上瀧氏がいつごろから関わっていたのかわかりませんが、天正12年5月22日後藤家事跡には猪熊砦の修復に携わっている10ヶ村のなかに上瀧村が北方村や河上村などと共に載っています。

古文書に点在する”上瀧”ですが、解読してラインでつないでいくのはかなり大変です。佐賀県史料集成古文書編の研究資料があれば楽なのに・・・とか思っているこの頃です。

さて、我家ですが、300年くらい前までは墓石と位牌で存在が確認できました。それ以前は古くからの言い伝えでしか推測できませんが、敷地内にある戦国期の供養塔からおそらく江戸時代以前からその地に住んでいたものと思われます。
家紋は丸に下がり藤です。


   



[94] はじめまして 投稿者:上瀧 徹 投稿日:2004/11/12(Fri) 03:46  

こんばんは!私の名前は上瀧 徹といいます。正直言ってこんなサイトがあるとは思いもよりませんでした。私も自分の苗字にはとても関心があり、興味があります!これから色々な情報を教えてもらえると幸いであります・・・ちなみにうちの父は福岡県北野町出身です


[93] はじめまして 投稿者:上瀧氻の孫 投稿日:2004/09/27(Mon) 23:05  

はじめまして。私は上瀧氻の孫です。
幼いころからこの上瀧という名前に興味を持っておりました。このサイトに出会って、大変喜ばしく思っております。
私の祖父もルーツは嬉野といっておりました。
祖父の父に上瀧嵬(こうたきたかし)という人物がおりまして、
この人は医者で、芥川龍之介と大変親しい仲であったと聞いています。芥川の研究書にもこの人の名前が出てくるので多分そうだったのだろうと想像しております。どなたかこのあたりの話を聞いて、
「そうそう!!」と思い当たる節があれば教えてください。
私自身は東京の生まれですが、現在、縁があって九州(福岡)に住んでいます。一度ルーツを探ってみたいと思っていますので何か他にも情報があれば教えてください。


[92] 猛暑 投稿者:yagyu 投稿日:2004/09/04(Sat) 00:01  

暑くて家にこもっていました。古文、漢文の解釈が難しくて調査は進みません。
瀧上さんと同じように 瀧 の字を見ると親近感をおぼえます。瀧上さんは九州の方でしょうか。豊前、豊後に瀧上氏が、又武蔵国、美作国にも一族の名前があるようです。氏名、地名にはそれぞれ歴史があっておもしろいですね。


[91] はじめまして 投稿者:瀧上 投稿日:2004/07/28(Wed) 12:44  

苗字を検索したらここにたどりついてしまいました。逆の苗字ですが何か妙に親近感がわきました。瀧上もそんなに多い苗字ではないので・・・。ちなみに(たきがみ)と読みます。


[90] 同じ名前ですが。。 投稿者:上瀧 千恵美 投稿日:2004/07/22(Thu) 14:38  

なんとなく自分の苗字を検索したらここにたどりついてしまいました。
自分には何も情報はなく、ただ同じ苗字ですが御先祖さまがどんな人たちか気になりました^^


[89] あちこち 投稿者:yagyu 投稿日:2004/07/01(Thu) 22:39  

OO町史(誌)にはまっています。
その地域の歴史、地理、民俗など詳細に記載されていて、わかりやすく思わぬ発見をすることもあります。
大町町史に[86]の上瀧氏、富士町史に上瀧空蝉の記載がありました。
また、佐賀の歴史と民俗・福岡博先生古希記念誌のなかに 上瀧空蝉(うわたきうつせみ)小伝 (田中雄一氏)を見つけました。
かなり詳細に書かれてありましたが、さわりの部分だけ。

上瀧空蝉ー天保9年(1838年)4月4日生、小城郡小城町鯖岡。父ー上瀧慰右衛門、小城藩士御徒頭として大阪御倉方も勤めたひとである。空蝉は長男、通称 惣右衛門また惣平。15歳で出仕。30有余にして京都に学び、帰郷後、時の小城藩主の乞いに従い祐筆として仕える。明治以降、大野区長として林業開発、教育に貢献し1918年(大正7年)他界。

よく行く図書館は借りることは出来ませんが請求すれば、広範囲の資料を閲覧できます。転勤があればこの便利なドラえもんのポケット図書館とはお別れになります。それまでは出来るだけ上瀧について調べようとあちこち手をだしています。今は房丸さんを追いかけていますが、なかなか難物です。


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