上瀧氏交流掲示板
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[269] なんとかまとめてみました! 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/10/03(Sat) 16:52  

吉田や久間に関係ありそうですが、多数姓の場合には判断がつきかねますので、少奇姓に絞り込みました。
{吉田}
《伊勢系》打田、中森、向井、東、松林
《常陸系》石永、白岩、成瀬、早瀬、鶴島、土田?
{久間}
《伊勢系》高井、
《常陸系》志田、大曲、諸井、石滝、杉光
{武雄、真手野}
《伊勢系》伊勢馬場、奥山、船岡(近江)戸野(奈良)
《常陸系》立山、遊佐、平島? 元山 堀切?

?は常陸にも伊勢にも姓があり、佐賀県には少なく、伊勢系か常陸系か確信が持てない姓です。
《伊勢馬場》姓の場合は、【馬場】姓が武雄67軒、嬉野44軒、佐賀140軒と多く、伊勢にも馬場姓多く、吉田へ来た伊勢の馬場氏が、佐賀の馬場姓との違いを分かるために改姓したものと私が独断したものです。
私が常陸系だとした姓が、三重県に少数ずつ点在していますが、羽取山で敗れた志田義広軍の兵が一部伊勢に残り居着いたものと考えます。
一方、嬉野や武雄に来た兵は、平家と合流し戦い敗れ、落ちてきたものと推理します。


[268] 伊勢の次ぎは常陸(茨城)でした。 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/30(Wed) 16:45  

源頼朝の叔父にあたる源義広(志田三郎先生義広)は、頼朝征伐の為2万(3万の説もあり)の兵を挙げ、下野の戦で敗れ、木曽義仲と合流します。義仲が源義経に敗れると伊勢国羽取山(三重県上野市)
で抵抗し、頼朝軍に討ち取られます。
当然、本拠地の常陸国信太荘(茨城県稲敷市)は失い、子の志田義延は母と共に丹波国へ逃れて、成長します。
その後、丹波上杉庄の領主、上杉氏に見いだされ武士として上杉氏に仕えます。その後、名を《志駄》として上杉氏に従い越後へ移動します。
NHK大河ドラマ《天地人》にも、志駄氏の名が出ていました。
この志田義広がキーマンになりそうです。
嬉野の吉田や久間に集中してある名前で佐賀県にあまりない名前を調べ、三重県に多い名をさがし出しました。しかし三重県にもない名前が幾つか出てきて、常陸国(茨城県)にやっと見つける事ができました。
《白岩》嬉野4軒(吉田3軒)外佐賀県では3軒のみ。三重県は四日市に1軒のみ。【茨城県27軒】
《早瀬》嬉野8軒(吉田6軒)外佐賀県14軒。三重県17軒。【茨城県148軒】
《志田》嬉野12軒(久間7軒)外佐賀県39軒。三重県16軒。【茨城県65軒】
《諸井》嬉野15軒(久間11軒)外佐賀県5軒のみ。三重県2軒のみ。【茨城県29軒】
ついでに真手野の浮立は平家の踊りとされていましたので真手野も調べてみました。
《遊佐》武雄1(真手野1)佐賀県は0軒。三重県も0軒。【茨城県15軒】
《立山》武雄4軒(真手野2軒)外佐賀県では4軒。三重県は7軒【茨城県31軒】
このほかにも幾つかありますが、精査して書き込みます。
これまでの調べでは、吉田、久間、真手野には、伊勢系と常陸系があり、私の推測では、伊勢の羽取山で大将の志田義広を討ち取られた志田軍の兵は、伊勢に残った人もあり、敵の敵は味方で、平家に合流した可能性があります。
吉田、久間、真手野の3ヶ所共に常陸系と伊勢系の名が混在しているからです。
このほか近江系と思われる名が出てきましたので調べてみます。


[267] 続き 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/23(Wed) 20:12  

《東》【嬉野7(吉田4)】【武雄2】【佐賀13】他20軒
三重県【尾鷲154】【熊野62】他149軒
★このほか多数姓なので諸流がありそうですが、吉田と伊勢と関係が有りそうな姓は、《向井》《林田》《平野》《増田》《山上》のお名前です。
驚いたことに過去ログ《264》に書き込みました《佐熊》姓が三重県にもあり、もしかしたら吉田の佐熊姓は伊勢からの流れかもしれません。
何故なら、私の早とちりで《久池井氏》が出てきたので、隣の村、佐熊にも《佐熊氏》が居たのではとの推測したもので、確認した訳ではありませんから…
すこしおかしいかな?と感じたのは《久池井氏》は武雄に、《佐熊氏》は吉田にあると云う事でした。
仮に龍造寺氏から逃れ、有馬方へ落ちのびてきた場合、行動も住まいも近くに居る方が安心感があるはずなのにと思っていたのです。


[266] キーワードは伊勢でした。 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/18(Fri) 19:30  

平家の落ち武者を探して苦闘していましたが、その答えは伊勢にありました。
嬉野の吉田に【打田】と云う姓が1軒だけあります。佐賀県の多くの市には1軒もありません。
三重県には【津13】【松坂6】【四日市15】【鈴鹿123】【桑名3】【鳥羽1】【名張1】
佐賀、三重ともに【内田】姓は多くあります。
《高井》佐賀【嬉野18(吉田18)】【武雄1】【唐津1】【伊万里、有田 各2】【鹿島7】【小城1】
《高井》三重【桑名50】【四日市48】【津24】【各市に分散し42】
《中森》佐賀【嬉野3(吉田2)【多久1】4軒のみ
《中森》三重【伊賀260】【名張83】各市に分散し543軒
《土田》佐賀【嬉野5(吉田4)】【伊万里5】【佐賀3】
《土田》三重【津19】【四日市16】【伊賀12】【伊勢7】【その他24】
上の数字と吉田だけに多い姓を出してみましたが、私にはこの姓の人々は伊勢国から吉田に来たのではなかと推測していますが、皆様のご意見をお願いします。
他に10姓ほどの名があるのですが、連休を釣りに行く約束があり、今から出かけますので、次回に書き込みます。


[265] 渋川堯顕の流れか? 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/11(Fri) 15:56  

渋川姓が武雄2軒、伊万里に1軒ありました。藤津へ落ちて来たと云われる九州探題の甥の子孫なのか?そういえば先日、小城藩士名簿の探題という姓の名があったと書きましたがメモが出てきました。探題新右衛門でした。
それに、久池井氏は武雄図書館にある《石井文庫》によれば石井氏の分家と書いてありました。
橘姓渋江氏は武雄に1軒、佐賀市に1軒だけですが、牛島氏は各地にあり合計107軒。改姓と思われる牛嶋の嶋の姓が13軒。中村姓は多すぎてどこの流れか分かりませんので野副氏を調べました。
《野副》肥前国彼杵郡大草邑野副発祥。(橘氏中村氏流)
各市に広がり53軒。
平家かどうかは分かりませんが、外部から来て久間に居着きひろがったのでは?と思われる姓がありました。
《諸井氏》諸井公(日向、武蔵に存す)嬉野15軒(久間11軒) 武雄1軒  唐津3軒
《大曲氏》桓武平氏、岩城流(磐城)肥前にも。【日本の苗字】
嬉野29軒(久間24軒) 武雄7軒 有田5軒 小城2軒佐賀市17軒


[264] 久池井氏について 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/08(Tue) 14:35  

「あんたも暇ねー」と思われてるでしょうが、武雄、久間、吉田に平氏に関わりのありそうな名前を探しても、いまだこれといった物は見つかりません。
平家の出自とされてる久間、辻氏を調べてみました。
佐賀県の各市の分布です。
《久間氏》嬉野1 武雄1 伊万里2 有田8 唐津1 神崎2 佐賀6 鳥栖1
《辻氏》嬉野28(久間6)(吉田11)  鹿島11 武雄24  【各市にかなり有り以下省略】
久間氏は出自の久間を離れ佐賀市や有田に移動しているみたいです。
調べているなかで、武雄で見た《久池井商店》の看板を思い出しました。自分の出身の土地の名なので気になっていたのですが、思い出して調べてみました。
《久池井氏》肥前國佐賀郡久池井邑発祥。出身不詳。現在北九州に多い。【日本の苗字より】
これには、さすがに驚きました。私を含め先祖が住んでいた土地の先住の人の姓が出てきたのです。
私が前に書き込んだ《本家のある家は、堀の位置や老木の古さから見て、先住の誰かの屋敷あとでは?》と推理した先住の人とは久池井氏だったのではないか!
そこで「さては?」お思いだしました。
嬉野の《佐熊氏》を【日本の苗字】で探したのですが、名前の多い順に11541番とあるのですが、その部分が空白で出自が分からなかったのです。
久池井の隣の村を佐熊と言います。
久池井氏と佐熊氏は高木氏に仕えていて、高木氏が龍造寺氏に滅ぼされた後、龍造寺と敵対していた有馬氏の領地へ逃げ込んだのでは?
久池井の右隣の村、北原【きたばる】も出てきました。【きたはら】とも読めますので確認が要ります。
《久池井氏》武雄3軒、久地井1軒  《佐熊氏》嬉野15
軒  《北原》嬉野4軒  武雄2軒  鹿島3軒


[263] 平家の落人にゆかりのあるとされる姓 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/05(Sat) 16:01  

《261》で久間、吉田発祥と思われる姓を書きましたが、平家に繋がると思われるものを見つけることが出来ませんでした。平が田平姓になったか?とも考えられない事も無いのですが、平戸の田平【たびら】姓が吉田へ来て【たひら】と呼び名を変えたとする方が自然な気がします。
HP《平家の落人 Wikipedia》に【平家の落人にゆかりのある姓】として46姓が書いてあります。
この46姓を武雄と嬉野に絞ってNTTハローページで調べてみました。
《大庭》武雄5嬉野1《平山》武雄24嬉野5《池田》武雄92嬉野113《織田》武雄5嬉野35《梶原》武雄34嬉野34(吉田)12《久保》武雄85嬉野12《平野》武雄11嬉野36《高倉》武雄4嬉野2《安徳》武雄1《小松》武雄2《平》武雄2《渋谷》武雄2《伴》武雄1《長尾》武雄1《野崎》武雄1《星野》武雄1《宗》武雄1《土肥》武雄1



[262] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/09/01(Tue) 13:36  

先日の《260》で北野町を北方では?としましたが、私はてっきり源六親子が洲浜紋を使っていたの記述があったのかと早合点していたみたいです。
後になって気付いて、過去ログを調べてみたら《85》と《116》に【こうたき】様の家で使われているのを読み過ごしていたみたいです。
【こうたき】氏は三鎖の家紋という思いこみがありました。
訂正しお詫びいたします。


[261] 吉田、久間発祥と思われる姓? 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/31(Mon) 15:21  

NTTハローページで吉田と久間出自であろうと思われる名前を調べてみました。基本として、その土地に集中してある名前と近辺市に少し散在するか、他の近辺市には全く無い名を調べました。
【吉田】
《石永》嬉野10(吉田6)武雄3鹿島1
《佐熊》嬉野15(吉田9)他0
《白岩》嬉野 4(吉田3)唐津2
《成瀬》嬉野 4(吉田4)武雄1伊万里1唐津1伊万里1
《納所》嬉野13(吉田11)武雄1唐津2鹿島3多久1
《早瀬》嬉野 8(吉田6)武雄1唐津4小城2
《田平》嬉野14(吉田12)唐津1鹿島2
※吉田の田平姓は【たひら】と言うそうです〔現地に確認〕1軒だけ【たいら】となっています。
長崎県平戸市の田平は【たびら】と呼び、昔は田平氏が居たそうですが、周辺に同姓が少なく違う流れかも?と思います。
【久間】
《糸山》嬉野24(久間20)武雄3唐津6鹿島4小城13
《大曲》嬉野29(久間24)武雄7小城2
《佐熊》嬉野15(久間 9)他0
《貞包》嬉野13(久間11)武雄1唐津3鹿島3小城1
※【少弐豊後國景資が1333年、大友貞宗の庇護を受け貞包と 命名した】とあります。
吉田には上瀧【うわたき】姓が10軒あります。



[260] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/28(Fri) 15:09  

吉田の落ち武者を平家では?と仮説を立てて調べていくなかで、yagyu様のログ《168》《北野町?》【北方では?】の上瀧氏に洲浜の家紋が多いのは小田氏(藤原氏)関連かもしれません》を読み落としているのに気がつきました。
【洲浜紋】は小田氏の代表紋だとしたら、彼等は源氏方に属していますので落人になるはずはありません。
平氏で州浜紋を使っていたのが、守山氏だったとありました。
《守山氏、近江國野洲郡守山より起こる平氏の出自。丸に州浜紋。》【日本の苗字】では桓武平氏(近江)
HP【徳川旗本八万騎】では《森山家。洲浜紋。もとは近江の守山から起こったもので守山とも森山とも書く。のち信州佐久地方に移り、そこに住んだので森山となったところもある》とあり、信州では武田氏に仕え、武田氏滅亡後は徳川氏に仕えます。
徳川氏の時は、森山盛冶が本多隊に属し、大阪夏、冬の陣に加わっていたとの事です。
この平氏の守山氏が州浜紋を使っていたそうなので、この人を追っているのですが、源平の戦いに参戦していたのかサッパリ分かりません。
これは又yagyu様にお願いするしかないかなーと云うとこです。


[259] 誤り 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/21(Fri) 13:58  

《258》の書き込みで149年間を10代以上の代変わりと書き込んでいますが、6代以上の書き誤りでした。
訂正しお詫び致します。


[258] 続吉田の落ち武者 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/14(Fri) 18:08  

仮に吉田にたどり着いた落ち武者が平家の武士だったとすると、源六親子の先祖は平家に仕えていたことになります。
生活するためには、寺子屋も開いたでしょう。
私なりの強引な仮説を述べさせて頂ければ、源平の戦いに於いて、1185年(文治3年)3月、壇ノ浦の戦いからyagyu様が調べて頂いた上瀧房丸、召し状が出る1334年の間迄の期間が149年もあります。
これは10代以上の代変わりがあった事になります。
その中の一つの分家が橘姓中村氏に仕え、北方上瀧に土地を得て改氏したことになります。
となると吉田には今も改氏前の名前が残っているのでは?
北方の上瀧氏を継いだ秋山源次郎は、当時の政権は源氏の足利氏でもあり、誇りある自分の系図に繋げたのでは?


[257] 吉田の落ち武者 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/14(Fri) 16:18  

前の書き込みで、落ち武者は北方に辿り着きその後吉田の地を得たと書き込みましたが、上瀧豊久様の《吉田にたどり着く》の原文を忘れていました。
私の推測では北条氏に仕えて、北条氏が滅ぶに至り武雄へ来たとしていましたが、どう考えても納得出来ないでいました。
そこで、まさか?と思いながらも平家まで遡ってみました。
そこには何と藤津衆に出てくる、久間氏、辻氏は平家の落ち武者の子孫とあります。
武雄には平家の落ち武者の話が多く残り、武雄6代当主、後藤常明は《窮鳥懐に入る》と平家の落ち武者には寛大だったようで《真手野の面浮立》は武雄の領主が平家の落ち武者を住まわせ、雨乞い祈願に奉納したのが始まりとも云われます。
久間氏、辻氏の平家落ち武者の話は、《久間の落ち武者》をキーワードで打ち込むと《平家物語を熱く語ろう》が出てきますのでご覧下さい。上瀧志摩守の名も出てきますので、管理人様と交流の有る方のページだと思われます。


[256] 上瀧道可とは? 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/14(Fri) 15:36  

1557年、龍造寺家信に随従した上瀧道可を調べてみました。
1558年に【横造城の戦い】以後に上瀧志摩守は龍造寺氏に仕える事になりますので、志摩守の関係者ではなく、おそらく神崎の犬塚氏に仕えた流れだろうと思います。


[255] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/13(Thu) 18:48  

お久しぶりです。病気ではなかったとお聞きして安心しました。
ご忠告有り難う御座います。単細胞なので新しい事実が見つかると嬉しくなって少々強引な推理をしてしまう癖がありますのでお許し下さい。
新しい上瀧の名を見つけました。
1557年(天正5年)5月、龍造寺隆信の三男《家信》は塚崎(武雄)の後藤貴明の養子となる。
この時、佐賀より家信に隋従してきた50人余りの諸士がいる。俗に云う《50人士》である。
この50人の名簿の中に上瀧道可の名が見えます。
《龍造寺家信の随従者》で見て下さい。


[254] ご無沙汰しておりました 投稿者:管理人@上瀧龍魁 投稿日:2009/08/12(Wed) 00:21  

長い事、書き込みをしておらずご心配をおかけしました。
仕事が忙しく、なかなか時間が取れずにおりました。
病気などではございませんので、どうぞ安心していただきますようお願い致します。

ミツゴロウ様
一つ気になる事が。
兵太郎は長男、勝次郎は次男としておられますが、名前だけで判断は出来ないと思います。
勝次郎=重清が同一人物としますと、通字であろう「重」の字を名乗っておりますし、嫡流の印の家宝を受け継いでいる様です。
それを踏まえると、もし仮説の兵太郎=長男、勝次郎=次男であった場合、兵太郎は庶子や廃嫡、または戦死の為、家督を弟に譲った等になると思います。
名字の読みも家督相続時の遠慮などから読みを変える事もあるかと思います。

すいません、なかなか時間が取れず申し訳ありません。
こちらの掲示板をミツゴロウ様、yagyu様に盛り上げていただいて感謝しております。(^^)


[253] 上瀧兵太郎の年齢 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/10(Mon) 15:25  

志摩守の長男、兵太郎は《八院の戦い》で1600年に戦死します。
私は過去ログ《235》で戦死時の年齢は35歳前後だったのでは?と推理していたのでですが、yagyu様の《242》の書き込みのお陰で更に詳しく計算できるようになりました。
1582年、龍造寺隆信《沖田畷の戦いで戦死》
この年、隆信の長男、龍造寺政家の御側本丸詰番として、志摩守の次男勝次郎(孫兵衛)が居たとされています。
この時の勝次郎の年齢はおそらく20歳前後と思われます。
目安として18歳±2歳とします。《16〜20歳》
そうすると、長男である兵太郎は最低2歳以上は上でしょうから20歳±2歳となります。《18〜22歳》
1582年の沖田畷の戦いから1600年の八院の戦いで戦死するまでの間が18年間。
加えると、勝次郎=34〜38歳。兵太郎=36〜40歳。
通常で考えれば、兵太郎の長男は15歳以上であったであろうと考えられます。


[252] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/07(Fri) 17:02  

上瀧豊久様の過去ログ《98》での【落ち武者】を天正、慶長時代では?と推理されていますが、少し異論があります。
この時代は豊臣政権と徳川政権にほぼ統一され、勝手な私闘は政権交代期を除き許されなかった筈です。
小さな小競り合いはあったにせよ、領土を奪われて帰る所も無くなって落ち武者として、異国に住まなければならないような大きな戦は私の知るかぎり思いつきません。
仮に、この時代だったとしたら、吉田の《うわたき》姓の方々は志摩守とは全く関係の無い、別の系統の《うわたき》姓と云うことになります。
yagyu様は鍋島、寺子屋、落ち武者と書かれていますが、豊久様は落ち武者⇒寺子屋⇒鍋島の順になっていますので、そのへんでの勘違いでは?と思いますが…


[251] 天正16年〜慶長12年 投稿者:yagyu 投稿日:2009/08/06(Thu) 22:45  

天正16年正月 龍造寺政家は西郷弾正の反乱に備えて多久・武雄両家及び藤津郡衆に藤津郡飯田の砦を守らせたとあります。
その城番 一番 後藤家信
     二番 龍造寺家久(多久安順)
     三番 藤津郡衆8人
        (犬塚宗哲・犬塚掃部助・徳島治部大輔・永田左京亮・吉田太郎右衛門尉・嬉野淡路守・嬉野左衛門助・嬉野大和守)
となっていて上瀧志摩守も勝次郎も藤津衆にはいっていません。

天正18年 龍造寺政家、隠居。隠居料として佐賀郡大俣(久保田町)五千石を秀吉から与えられ、その長男、高房は人質として秀吉のもとに置かれます。
鍋島直茂が国政を任されることになります。

そして天正20年、7年間にわたる朝鮮での戦が始まります。藤津衆として勝次郎の名前があがってくるのはこの年です。
政家が隠居したので本丸勤めから藤津へ変わったのでしょうか。
この後の勝次郎や兵太郎については調べていません。

ただ興味深いのは藤津郡のリーダー、鍋島豊前守信房の動向です。
彼は天正4年から32年間、鹿島に城を構え居住していましたが、慶長12年(1607)74才の時、鹿島・塩田・吉田の領地を返上して島原の神代(こうじろ)の鶴亀城に移っています。
同じ慶長12年、龍造寺高房・政家親子が亡くなり、鍋島氏が名実ともに龍造寺氏の後を継ぐことになります。

信房は慶長14年に亡くなりますが、その子、茂成が吉田邑を領有し、孫の茂教の時、永寿寺を開基し邑主鍋島氏の菩提寺とします。信房の位牌も伝えられているそうです。

上瀧豊久さんの口伝、吉田に落武者のように辿りついた上瀧氏はこの時代変動のなかでの動きではないかと思いますが、なにぶん記録記述を見つけることができません。鍋島、寺子屋、落武者などキーワードが生々しく江戸時代に近い感じがします。

源六・房丸はあまりに遠すぎて史料が無さ過ぎて霞のなかに存在している感じです。
もう出てこないだろうと諦めかけていた頃に、ふらっと現れるかもしれない、そんな面白さが歴史にはあります。久留米や佐賀、神崎、福岡、肥後などまだ手付かずのものはいっぱいありますが、今は時間がとれません。また忙しさのなかに帰ります。落ち着いたらまた再開したいと思います。


[250] 上瀧源六、房丸親子 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/08/06(Thu) 15:55  

過去ログ《240》で少し早トチリしてしまいました。
《源六親子が2ケ所の(吉田と北方)領地が持ち得たのか》
これは私の早呑み込みで、最初に北方に住み、上瀧(うわたき)に改氏し、その後の戦功により吉田の地を得たと考えれば納得できそうです。当時吉田の地を誰が支配していたかはまだ解明出来ていません。
源六親子とは何者なのか?
嘉歴3年(1328)3月、鎮西探題、北条英時、橘公有法師に長島庄下村の田畠在家山野及び皮古山の地頭職を安堵する。
元弘元年(1331)5月、天皇の倒幕計画が洩れ、これに参画した朝臣が捕らえられる。
同年8月、天皇、奈良に移り、ついで笠置に移る。
同年9月、九州では、京都の騒乱により鎮西探題、武雄社に祈祷させる。
10月、これより先、九州の御家人ら召しに応じて、鎮西探題府に参集し、今月に至るまで博多に留まる。
1333年5月25日、鎮西探題、北条英時、少弐、大友、島津連合軍に攻撃され一族240人自刃。
この攻撃時、武雄宮司代は少弐氏に従い戦闘に参加していますが、《後藤光明、中村公有ら亦少弐氏の軍に従って戦うと伝える》と武雄市史にあり、実際の戦闘には加わったのか不明で消極的だった感じも受けます。
橘姓中村氏にすれば、北条英時に長島庄を安堵されていますのであまり恨みも無かったのかも知れません。
私の推察では、御家人達が探題府に留まる際の世話や連絡の中で、上瀧源六と中村氏は交友があったのでは?と考えています。
元吉田にお住まいだった上瀧豊久様の口伝《落ち武者》を基に我流の推測を勝手にさせていただければ、源六は鎮西探題府に仕えた武士で、北条鎮西探題府が滅びた1333年に中村氏を頼って北方へ来たのではないか?
中村氏に仕える以上、北条方に仕えた名前では主家に迷惑をかけるので、急ぎ改氏の必要があったのでは?
改氏は始め《うわたき》⇒《わたき》⇒《じょうたき》《こうたき》と分家したものと思われます。


[249] 筑前秋山 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/30(Thu) 18:57  

過去ログ《178》で書き込んだ【筑前に秋山と云う地名があった】事の事実が分かりましたので報告致します。
現、福岡県太宰府市石坂の一部、安喜山とも記す。
《太宰府市史、中世資料編》


[248] 渋川堯顕について 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/24(Fri) 19:12  

堯顕は最後の九州探題、渋川義長の弟とも従兄弟とも甥とも云われ正体がはっきりしない人物みたいです。
秋山源次郎が堯顕と共に藤津へ来たのではないか?の推理で詳しく調べてみたら、何と!博多の姪の浜に堯顕の墓であろうとされる探題塚と呼ばれる物があるそうな。
これには少々面くらいました。
2年前に読んだ《中原町史(上)》『九州探題渋川伊繁の甥、堯顕は綾部城の少弐方に寝返る。天文2年(1533)大内の将、陶は伊繁と共に綾部城(少弐)を攻撃。1533年11月、甥の堯顕は家臣の森戸、板倉に助けられて有馬氏を頼って藤津に落ちた。堯顕の墓は【たんじゃ墓】と呼ばれ長崎にある。
孫の光氏は小城藩に仕え明治に至る。』
そういえば小城藩士名簿に《探題》と云う姓の武士が居たのを思い出しました。
どちらかといえば中原町史の方が正しそうですね。
また九州探題義長も長年の庇護者であった大内氏を裏切り、逆に宿敵であった少弐氏に通じた為に大内軍の攻撃を受け天文3年(1534)肥前朝日山城を落とされて自害。
義長が戦死すると堯顕は九州探題と称し挙兵し、筑前姪の浜で大内軍に敗れて戦死。これが【探題塚】との事です。
この事件は堯顕が先に少弐氏に寝返り、その後義長も寝返ったのか?それとも一緒に寝返ったのに、混同されたのか?
九州探題の部下として秋山氏の名が出て来ないか調べているのですが、なかな顔を出してくれません。
渋川万寿丸を殺害した家臣、足助、森戸、斉藤。
堯顕を助けた家臣、森戸、板倉。
森戸氏は渋川満頼の重臣、板倉宗寿は満頼の奉行人だったとのことなので、その子孫なのでしょう。


[247] ミツゴロウ様 投稿者:yagyu 投稿日:2009/07/21(Tue) 22:17  

上瀧志摩守盛員が島原合戦の後どうなったのか、ずっと追っていました。戦死者のなかにも名前がなく、資料や藤津衆にも出てこなくなり、ひそかに島原の草地に沈んでしまったのか、などと感傷に浸っていた時、偶然上瀧孫左衛門をみつけました。
なぜ多久軍にいるのか不思議でしたが、ミツゴロウ様の口伝で納得できたような気がします。
口伝というのは、結構真実であることが多く、史料に埋もれたままの有名でない人々がたくさんいます。
上瀧氏を追い続けて6年になりますが、おそらくまだまだ出てこない上瀧氏もいると思います。
九州は上瀧孫左衛門の戦死で一応区切りをつけて資料集めをやめています。佐賀の歴史にもうすこしお付き合いください。


[246] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/20(Mon) 19:07  

《242》に書き込まれていました《すでに隆信から飛び地として貰ったものでは》と書かれていました100町の領地こそ、yagyu様が前にお調べ頂き、書き込んで頂きました《1580年、肥後、柳川の出陣の功により長田左京亮150町、上瀧志摩守100町》の分だと確信します。
【じょうたき】本家の前に書きました「一代一人相伝」の武術をお祖父様に習い、その時に領していた土地も教えて貰ったとの事でした。
又聞きした私が地図を基に計算しましたら、横に約1,6?q縦に600m、山間部に矩形があり合計で約100数町位です。
私が子供の頃に本家に行ったときに、一番強く感じたのは屋敷の裏にあった大きな古木です。
堀もあり屋敷と関係ない所まで伸びていました。
今こうして《上瀧氏の歴史》調べる事になって気付いたのですが、じょうたき本家は高木氏の武将が元々住んでいたのではないか?
高木氏は隆信に敗れ、最後に暗殺されて滅びますが、元々春日城は高木氏が保有していました。
あの古木と堀の形を見て今はそんな感じを受けます。
ところでyagyu様が言われた天正12年に志摩守は久池井に移動したのでは?の件ですが志摩守は別にしても1580年(天正8年)に領土を得て4年間もほっとく筈もなく、長男の兵太郎は鍋島平五郎組として、直ちに久池井に移動したと思います。


[245] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/19(Sun) 08:54  

有り難う御座います。私も気になって調べてみました。時間がかかりましたが推測出来る手掛かりを見つけました。
《肥前國藤津郡能古見庄(現、鹿島市)深木村、参十町地之事坪付別紙有隆為加地、遺置侯就御知行肝要之状如件、天正12年11月18日、政家(隆信長男)【花押】      安富下野守との》
肥後を領していた安富純泰が、沖田畷の戦いの為に肥後より参戦し、島津氏の侵攻で肥後の領地を失った安富に与えた書状と思われます。
隆信死後、8ヶ月後に政家から出されたものです。    その後、安富純泰は藤津郡に移り深江下野守と称した。
これを見れば、龍造寺軍は沖田畷の敗走から陣を立て直し、有馬軍から藤津郡を奪い返した事が読みとれます。
《武雄市史》より
天正12年(1584)4月、大村領波佐見衆、後藤家信に起請文を入れる。
天正13年(1585)6月、大村純重ら16名、永田通貞ら30名、岡通晴ら17名、それぞれ連署の起請文を家主(貴明の子晴明)に入れる。
天正14年(1586)2月、後藤家信、後藤山城(塚崎城、御船山城)から黒髪城(住吉城)に移る。
yagyu様が言われるとうり藤津、武雄一帯は有馬氏に対して緊張状態が秀吉の九州仕置き迄続いたと思われます。


[244] 天正13〜15年 投稿者:yagyu 投稿日:2009/07/18(Sat) 20:12  

天正13年、島津氏が大友氏の本拠、豊後に攻め入ります。
時を同じくして龍造寺氏も隆信の死後、大友氏に奪われていた筑後肥後へ攻勢をかけます。両方から攻められ切羽詰った大友氏は、秀吉に助勢を乞います。
この頃には体制を立て直した龍造寺氏は、杵島藤津を取り戻しつつあったのではと思います。

秀吉は、九州での停戦を諸将に命じますが、九州全土制覇を目指す島津氏は無視して侵攻を続けます。

天正14年、秀吉の島津攻め決定。
先陣を許可された龍造寺軍2万の兵は、筑後から肥後の島津支配下へ進発。
龍造寺政家、鍋島直茂、龍造寺家晴、龍造寺家久らが奮戦。肥後の南関の諸城を焼き討ちにし、薩摩の湯浦まで打ち入ったとされています。秀吉これに大いに喜ぶとの書状があります。
この頃の武雄、藤津、杵島は相当の緊張状態にあったようです。
天正14年2月、武雄の後藤家信は塚崎城を出て、住吉城に移っています。家族は宮野に引越しさせています。島津の進撃に備えて住吉城で篭城し決戦を覚悟するほどの状況だったのでしょう。結果的には島津軍との交戦はなかったようです。

たしか住吉城の城守をご先祖様にもつ上瀧氏がおられたましたね。

天正15年正月、秀吉による本格的な島津攻めが行われ
     4月、秀吉自身が九州入り
     5月、島津義久降伏
     6月、諸大名への知行割りが行われる
肥前国の7郡、佐賀・小城・神崎・三根・杵島・藤津・松浦を龍造寺政家に。
基■(津みたいな字でわからないのですが)郡のうち9千石と養父郡のうち1万石を鍋島直茂に。



[243] yagyu様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/17(Fri) 18:54  

新しい情報を有り難う御座います。この資料に因れば上瀧孫兵衛は龍造寺隆信の長男、政家のお側衆だったと云う事では有能な人物だったと想定出来ます。
隆信の戦死がなければ、普通なら次ぎの領主、政家の重役候補でもあったはずです。
《沖田畷の戦い》で勝利した有馬氏は杵島、藤津を蹂躙し、隆信が与えた知行を取り上げたとされていますので、上瀧志摩守の領地、五町田110町は取り上げられた可能性がありますね。
その後、杵島、藤津は鍋島藩の領土になりますが、鍋島藩が戦いで奪い返したのか?その後の豊臣秀吉による九州平定による九州仕置(戦後処理)により戻ったのかは、いまのとこ分かりません。
有馬氏が杵島、藤津をいかに欲しがっていたかの話を見つけましたので参考まで書きます。
《岡本大八事件》慶長17年(1612)キリシタン大名、有馬晴信は先祖が所有していた杵島、藤津を取り戻したい野望があり、家康の側近、本多正純の家臣で長崎貿易にかかわっていた岡本大八に多額の工作資金を渡した。
その事が露見し、収賄の罪で大八は火刑。贈賄の罪で晴信は改易、流罪。
じょうたき氏の100町の件は、改めて書き込みます。


[242] 天正12年 投稿者:yagyu 投稿日:2009/07/16(Thu) 23:06  

3月24日隆信戦死。
4年前の天正8年に隆信は隠居して須古(白石町付近)の城に住むようになり、武雄、多久、佐賀、神崎、柳川、肥後に親族を配して周りを固め、藤津の先の有馬、島津に睨みをきかせていました。
藤津衆は最前線にいた訳で、その時期に隆信の背後の久池井に移住するのは無理ではないかと思います。
しかし隆信の戦死で状況は一変します。
北肥戦誌には、有馬氏が杵島、藤津へ軍を進め龍造寺氏のあちこちの領内を焼き払い、隆信が郷士に与えた知行の判物を取り上げ、新たに有馬氏から判物を渡したと書かれています。
敗走した龍造寺軍、鍋島直茂もようやく柳川に帰りつきます。3月25日です。
筑後、肥後の諸将も動揺し離反するものも現れます。佐賀の龍造寺政家と柳川の鍋島直茂は協力して敗戦後の領国の維持にあたりますが、島津、大友の勢力が増大してきます。肥後の南関まで治めていた龍造寺家晴は撤退を余儀なくされ、筑後の柳川城に戻り、柳川に居た直茂は城を明渡し、蓮池城に入ります。4月です。
肥後は完全に島津の勢力下に入り、筑後にも島津が侵攻を始めます。当然、大友氏と衝突します。大友VS島津VS龍造寺。
ここで島津と龍造寺が和平協定を結び、大友VS島津・龍造寺になります。利害関係が一致したのでしょう。
この頃、政家の御側本丸詰番衆として上瀧孫兵衛の名がみえます。
もし移住してきたのなら、龍造寺譜代の侍が多く討ち死にし、手薄になった佐賀付近の大友氏の侵入を防ぐ戦力として久池井、春日山城に居を構えたとすれば口伝と一致するような気がします。
領地はこの先減ることはあっても、増えることはない時代に入りますから、すでに隆信から飛び地として貰っていたものでは


[241] 管理人様 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/14(Tue) 18:14  

スナックでマイクを独り占めしてカラオケを歌う酔客みたいに、私一人で沢山書き込んで少々気が引けています。
今日、手紙を出していました秋山様のおひとりから連絡を頂きました。
お名前は伏せますが、その方のご先祖様の家系は1600年代まで遡る家系図があるそうです。現在は20代目。
筑後川の堰工事で活躍された秋山新左右衛門の流れで、代々《重》の字を引き継いでおられるとの事。
家紋は長方形の重なった鍵みたいなL字と言われましたが、調べてみないと分かりません。
お話では《元々は…家【伏せ字にします】と云う武士の家で4代目に秋山氏から婿養子を迎えた。その後何故だか…家ではなく秋山姓に変わった》
…家の3男の方が、八重亀村を興したと事でした。
なかなか秋山次郎三郎光長までは遡れません。
 


[240] 吉田に住みついた落ち武者とは? 投稿者:上瀧ミツゴロウ 投稿日:2009/07/13(Mon) 17:02  

落ち武者で住み着くとは、仕えていた主家が消滅し、自分の帰る土地も失い、仕方なく異なる場所に居着くことでしょうか。
平家の落ち武者の伝説は多くありますが、没落した北条氏の落ち武者の話はあまり聞きません。源頼朝の鎌倉幕府はかなり厳しい追討があったそうです。
それに比べ、北条氏を倒した勢力は、その後の政権争いの方が重要で、落人狩りどころでは無かったのでしょうか?
上瀧豊久様の口伝《吉田にたどり着いた落ち武者》とは、ズバリ上瀧(かみだき)源六と房丸親子だったと推測します。
?@yagyu様から教えて頂きました、源六親子が1334年  北方に居た。
?A吉田にお住まいの方々は【うわたき】と呼称されている。
                           ふたつの事から推測出来るのは、落ち武者が辿り着いた時の吉田の【うわたき】と北方の【源六親子】は同じ家族だったと思われます。何故なら=落ち武者の源六親子は、居着いた地名に因り改氏して【うわたき】とした筈です。
同じ家族でしたら吉田の方も同じに名にしたでしょう。
問題なのは、吉田と北方。現在の地図で測っても約21?q。
徒歩で約4時間30分。落ち武者の源六が2ヶ所に所領を持つ事が出来たのか?
私の推測では、源六は橘家か後藤家に何らかの縁故があったのか?又は落ち武者になる前には、ある程度の名の知れた武士であったのでは?
1333年、北条氏が滅び、鎮西探題も滅びます。
点在していた九州の北条氏に仕えていて、特に鎌倉方面から北条氏に長年従って来た部下は、帰る所が無かったでしょう。もし北条氏に仕え多少名のある武将だったとしたら、次ぎに成立する足利政権や、後藤氏や橘氏への配慮からも改氏する必要があったのかも知れません。
yagyu様の資料によれば、1334年には橘氏からの出兵要請がある訳ですから、有力な兵は少しでも多く欲しかった事情はあったのでしょう。
源六が多少は名の知られた武士だったと思われますのは、多々良が浜での戦いの恩賞を貰う記述《これもyagyu様の資料より》房丸がわざわざ源六の子、とされているからです。それだけ房丸は若くて無名で親の名が高かったのでしょう。
但し、源六は高齢だったか?負傷していたのか?戦闘には出ていない感じを受けます。


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