趣味の経済学
死刑廃止でどうなる?
刑法を経済学的に考えてみよう
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill  30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    死刑制度とは残酷な制度である。しかしこれに代わるよりよき制度は考えられない。従って、死刑制度は維持すべきである。    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいとです      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

2007年9月10日更新  

▲ 趣味の経済学 Index
$ FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を
2%インフレ目標政策失敗への途 各種経済指標から推移を追ってみましょう
(2013年5月8日)

……… は じ め に ………
 ♣ 刑法は、 だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
 その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。 人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
 けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、それに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。 それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。 そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。

 ♣ これは『刑法という法律』改訂版(古田佑紀著 国立印刷局出版 2005.4.1)の1ページ目の文章だ。 平成17年8月に最高裁判所の判事に就任した古田佑紀が、法務省大臣官房審議官に書いた本で、刑法をこのように表現している。 その「分かったようで」「よく分からない」刑法を経済学の見方で考えてみようと思い立った。と言っても、その内のほんの一部分、「死刑制度」について考えてみることにした。 専門家の中にも「死刑廃止」を主張する人がいる。その根拠は大体同じ様なものだ。よく考えると「死刑を廃止するとおかしなことが起こる」「死刑に代わる適当な制度がない」「従って死刑制度は存続すべきだ」となるのだが、そのような考え方は、専門家の中からは出てこない。また、死刑を廃止した後にどのような刑を作るのか、ハッキリしない。「死刑廃止を主張する。後は専門家に任せる」ということなのか? そこで、アマチュアエコノミストが「法曹界の匂いのしない立場」から、死刑制度を話の取っかかりとして、刑法を経済学的に考えてみることにした。 どのように展開して行くのか、多分、いつもと同じように、ダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。

目次  死刑廃止でどうなる?  刑法を経済学的に考えてみよう
(1) 人を殺さなくても実質的な死刑  「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある ( 2007年3月19日 )
(2) 団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう  人格の尊厳を認める法理論とは ( 2007年3月26日 )
(3) 死刑執行停止法の制定という主張  仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案 ( 2007年4月2日 )
(4) 死刑廃止を支持する女性作家の意見  法体系とは無関係の立場からの感想 ( 2007年4月16日 )
(5) 宗教家も死刑廃止を強く主張する  実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教 ( 2007年4月23日 )
(6) 人の生命は、全地球よりも重いか  残酷な死刑は廃止したい、という感情論 ( 2007年4月30日 )
(7) 法曹界の死刑廃止論を聞いてみよう  誰も銀行強盗事件は予想もしていない ( 2007年5月7日 )
(8) 殺人犯でなくても、実質的な死刑は必要  銀行強盗以外のケースを想定する ( 2007年5月14日 )
(9) 1人の生命が重いからこそ死刑制度を  軽いのなら関係者同士で仇討ちを ( 2007年5月21日 )
(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの?  目には目を、反省・償い、抑止力 ( 2007年5月28日 )
(11)『刑法という法律』をやさしく解説  古田佑紀、今は最高裁判事の著書から ( 2007年6月4日 )
(12)法律のセンスに馴れておこう  法律解説書から刑法のポイントを説明する ( 2007年6月11日 )
(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ  「感情」から「勘定」への判断へ ( 2007年6月18日 )
(14)レント・シーキングと規制緩和  法曹界に市場経済の空気を入れてみよう ( 2007年6月25日 )
(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか?  東京裁判・仇討ち・必殺仕事人 ( 2007年7月2日 )
(16)法と正義の経済学の立場から見る  死刑に代わるべき制度が見つからない ( 2007年7月9日 )
(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった  旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産 ( 2007年7月16日 )
(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑  理想の共和国では銀行強盗は起きない ( 2007年7月23日 )
(19)カント、ベッカリーア、団藤重光  誰も銀行強盗事件@ABは予想していない ( 2007年7月30日 )
(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論  原初状態と格差原理と誤判と死刑 ( 2007年8月6日 )
(21)ノージックの最小国家という自由論  自由を保証する国家権力を忘れている ( 2007年8月13日 )
(22)本当に人1人の命は地球より重いのか?  遺伝子は、自身の繁栄を優先する ( 2007年8月20日 )
(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論  危機管理意識のない死刑廃止論 ( 2007年8月27日 )
(24)他業種からの考え方を移入すると  雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待 ( 2007年9月3日 )
(25)功利主義的な死刑制度  とりあえず、これに代わりうる制度は考えられない ( 2007年9月10日 )

(1)人を殺さなくても実質的な死刑 
「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある
 死刑制度廃止を訴え続ける法曹界の人がいる。それに応えるかのように市民運動を繰り広げる人たちがいる。 なぜ死刑制度を廃止すべきか、との理由を幾つか挙げて運動を進めている。その理由は「死刑は残酷、非人道的」というのが主なもののようだ。TANAKAはそうした論争とは違った観点から「死刑制度は存続すべきだ」と主張する。まず次の例を読んで頂きましょう。
<銀行強盗事件@>
 某年某月某日15時00分、窓口業務が終了する直前、M銀行S支店に拳銃を持った強盗が入った。強盗は行員と客を人質に取り、3億円を要求した。 S支店ではなるべく時間稼ぎをしようと、ゆっくり準備する。強盗は苛立ち「グズグズせずに早く出せ!」と怒鳴る。それでもゆっくり準備をしていると「早くしろ、分からないのか!」と怒鳴り、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 行員たちは慌てて準備する。3億円の現金はすべて本物の札束で用意された。かつて、似たような銀行強盗があった時、札束の外側は本物で中身は偽物を用意していた銀行もあったがM銀行ではそのようなことはしない。 犯人が偽物だと知ったとき、凶暴になる怖れがある、金で解決できるなら、3億円は高くない。人1人の命に比べれば3億円は安いと判断する。
 さて、15時なって銀行の窓口営業は終了し、ATMコーナーと窓口との間を仕切るシャッターは下りている。行員が机の下の非常ボタンを押したため、事件は警察に通報され、さらに非常ベルが鳴り、事件を知った群集が支店の回りに群がり、警察官が群集を支店から遠ざけ、犯人の説得にあたる。 犯人は3億円を受け取ると今度は逃亡用のワゴン車を要求した。行員男女1人ずつを人質にワゴン車で逃亡する言う。ワゴン車で移動するとなると、どこへ向かうか分からない。警察としてはこの支店で事件を解決したい。 そのため返事をせずに時間稼ぎをする。犯人はイライラし、拳銃を乱射する。弾は沢山もっているようだ。犯人の拳銃がパトカーに命中した。警察官は冷静さを失った。パトカーを管理する警察官は自分に責任がなくても、パトカーが傷つけられれば、それだけで将来の昇進が絶望的になる。
 支店の周りには狙撃手が到着し機会をうかがうがチャンスがない。支店内では犯人がますます凶暴になり、このままではさらに人質に犠牲者が出ると思われた。特にこの日は「もの日」でもあり、15時過ぎてもロビーには客が溢れていた。「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 その行員を射殺した。このままでは何人も殺されるかもしれない。スキをみて若い行員が犯人に飛びかかった。他の行員や客も数人が犯人の上に重なり合った。 こうして犯人は銀行員=民間人に逮捕された。しかし、この格闘の間に、初めに飛びかかった若い行員が射殺された。このように行員3名が犠牲になっていた。
 さて、この銀行強盗の犯人は行員3名を射殺したのだが、死刑制度が廃止されたために無期懲役の判決が出た。世間では次のように噂した。「刑務所で17年も過ごせば、仮釈放になり、最後は畳の上での大往生になるだろう」と。
<銀行強盗事件A>  前記銀行強盗事件があってから1年後のこと、同じ様な銀行強盗事件があった。犯人の要求する逃亡用のワゴン車を用意せず、時間稼ぎをしていた警察。 イライラし凶暴になった犯人。「3億円、早く用意しろ!」と天井めがけて威嚇射撃をする。そして支店には狙撃手が到着したが、チャンスがない。犯人はますます凶暴になる。 「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 天井の蛍光灯を威嚇射撃する。「きゃー!きゃー!」という若い女性の叫び声が支店の外まで聞こえてくる。 警察官の間では1年前の事件のことが頭に浮かぶ。行員が射殺されたのに、死刑制度が廃止されたので、裁判での判決は無期懲役であった。 狙撃手が躊躇せずに撃っていたら犠牲者は出なかったかもしれない、と警察関係者は後悔の念にさいなまれていた。
 「このままでは昨年のように、犠牲者が出る怖れがある。スキをみて犯人を射殺するように」との指令が出た。皆、息を呑んで狙撃手の動きを見守る。凶暴になり、冷静さを失った犯人が窓際に来て外の様子を窺った。その時射撃手が日頃の訓練の成果を披露した。1発で犯人は倒れた。
 人質は無事解放され、犯人は救急車で運ばれた病院で死亡が確認された。犯人は実質的な死刑になった。
<銀行強盗事件B>  銀行強盗事件@が起きてから17年後のこと、同じ様な銀行強盗事件が起きた。今度は犯人が3人であった。主犯格Aが拳銃で脅し、3億円を要求し、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 また、「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、その行員を射殺した。
 共犯者Bは日本刀を振り回し、カウンターの中を歩き回っている。若いテラーたちが「きゃー、きゃー」叫ぶと嬉しそうな顔をする。共犯者Cは拳銃を持ち、天井の蛍光灯を撃ったり、外のパトカーを狙ったりして、西部劇の主人公を気取っているようだ。
 逃走用の車の用意が出来ていないか、主犯Aはさかんに気にしている。「警察はワゴン車を用意していないか?ちょっと外を見てみろ」。そう言われて共犯者Cが窓から外を見た。 その瞬間狙撃手の人差し指が動いた。共犯者Cは一発で倒れた。それを合図のように、行員が犯人AとBに向かっていった。主犯格Aには若い行員をはじめ数人が重なり合った。 主犯格Aはこうして逮捕されたが、その際に若い行員が射殺された。共犯者Bはというと、ベテラン行員がシャッターの後ろに隠してあった木刀を取り出し、共犯者Bに向かっていった。 しばらく日本刀と木刀の試合になったが、別の行員が近くにあった消化器を取って、共犯者Bに投げつけた。消化器は共犯者Bの後頭部に当たり、そこに倒れた。 このようにして犯人ABCは警察に引き渡されることになった。
 拳銃をもてあそんでいた共犯者Cは狙撃手に1発で射殺され、実質的な死刑になった。
 日本刀の共犯者Bは消化器が後頭部に当たり倒れたが、その後、後遺症が残り、半身不随で言葉が正常には話せなくなった。このため公判維持は不可能と認められ、不起訴になったが、結局住み慣れた土地を離れ、近所つき合いもなく、一生半身不随で車椅子の生活をおくることになった、と言われている。
 主犯格Aは行員3人を殺したが死刑にはならず無期懲役になった。この主犯格Aは実は、銀行強盗事件@の犯人であった。あの事件後、17年の刑務所生活をおくり、仮釈放になった。 前回は1人で失敗したので、今回は仲間を募って3人で実行したのだった。結局今回も前回と同じ様に3人を殺したが逮捕され、失敗に終わった。そして裁判では無期懲役となり、前回より長い刑務所生活を送ってから仮釈放になり、最後は畳の上での大往生であったと言われる (この時代では、個人情報保護が徹底され、犯人のその後の生活は取材も報道もされなくなっていた)。
 主犯格Aに関しては別の噂も流れていた。それは、「6人も殺しておいて最後が畳の上で大往生とは許せない」と、刑務所の中で、囚人たちが集団リンチを起こし、亡くなった。囚人たちはたとえ事件が知られても死刑になることはないと安心してリンチに加わり、看守たちはそれを知っていながら、臭い物には蓋と、単なる事故として処理をして外部には漏れていない、とまるで見てきたような噂も流れていた。 法務省は「個人情報に関しては発表しません。問題になるようなことはありません」としか発表しなかった。 死刑制度が廃止されてから、重大な事件でも判決は死刑ではなく、無期懲役に決まっているので、マスコミは大きく報道しなくなった。このため、殺人事件が起きても大きな社会問題にはならなくなっていた。
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<場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」> 上記<銀行強盗事件@AB>と同じことを少し状況の設定を変えて説明した文章があるのでここで引用することにしよう。
大和 国家成立のための形式的条件は、通常、領土があること・人民がいること・主権があることと言われているが、さらに実質的条件を加えれば、「力の独占」と「領土内人間の保護」の2つが国家の基本としてあげられる。 「力の独占」とは国家権力による力の独占であり、国民当事者同士での「私刑(リンチ)」を許さず、国家がそれに代わるというものだ。早い話が、昔のような仇討ち、すなわち個人的懲罰は許さず、被害者の代わりに国家が公的懲罰を加害者に行うというものだ。また、「領土内人間の保護」とは犯罪等から国民を守ることであり、いわゆる警察機構を考えればよい。 この2つがもし欠けておれば、たとえ領土や国民や主権が存していたとしても、国家とは言い難い。
赤井 うむ、自立した法治国家であるためには、その2点確かに必要だ。
大和 よし、ではこの2点について話をすすめよう。話を分かりやすくするために次のような状況を想定してみよう。2階建てのビルの屋上で1人の男が妊婦を人質にしてたてこもっている。妊婦は椅子に縛られ、隣には日本刀を手にしたその男が立っている。ビルの周りは警官によって取り囲まれているが、屋上であるため強行突入ができない。 と、突然、犯人は持っていた刃で妊婦の足を刺し始めた。血を流し絶叫する妊婦。そして刃が次に妊婦の大きな腹に向かおうとしたその時・・・。この時、国家すなわち警察は何をしなければならないのか?言うまでもない、犯人を狙撃しなければならない。
赤井 ・・・。
大和 反論があれば、言ってもらってもかまわぬぞ。
赤井 いや、残念ながら、それ以外妊婦の助かる道はなさそうだな。
大和 そうだ、このような場合国家は国民を犯罪から守るため、人殺しも敢えてせねばならぬのだ。つまり、「国家は人を殺してもよいのか」ではなく、場合によっては「国家は人を殺さなければならぬ」のであり、これは国家に課せられた義務なのだ。
赤井 なるほど、その点は認めるとしよう。だが、このように妊婦を救うためなら緊急避難という点から仕方がないにしても、死刑は、すでに身柄を拘束され抵抗することのできない者に対する一方的な殺人ではないのか。
大和 うむ。この反論に答えるため、再び同様の例を用いてみよう。
 先の犯人Aが警察によって射殺され、妊婦が無事救出された次の日、また妊婦を人質にするという同様の事件が起きた。ところが、この犯人Bは先日の事件をニュースで知っていたため、狙撃防止用のバリケードを築き、さらに防弾チョッキを身にまとっていた。こうして自分の身の安全をはかった上で、先日同様妊婦の足を刺し始めた。妊婦は血を流しながら絶叫する。 警察は犯人狙撃が不可能なため強硬突入を試みるが、屋上であったためにどうしても時間がかかり、屋上に着いた時には妊婦は腹を断ち割られ胎児とともに刺し殺されていた。犯人Bは下手に抵抗すれば射殺される可能性もあると素早く計算し、刀を捨て素直に逮捕された。そして、裁判にかけられたが「死刑制度が廃止されていたため」死刑にならずにすんだ、と仮定しよう。
 犯人Aの罪状は「殺人未遂」であり、国家が与えた罰は「死」である。妊婦は無事生きている。他方、より狡猾で残忍な犯行を現に行った犯人Bの罪状は、無論「殺人」である。当然、妊婦・胎児ともに死亡した。にもかかわらず、死刑制度が廃止されておれば、犯人Bは国家から「死」を与えられることはない。罪状の重い犯人Bが、犯人Aより軽い罰ですむというこのような不均衡が、法の下で平等を唱える法治国家で許されて良いのか、 と問われれば、廃止論者であるお前は何と答えるつもりだ。
赤井 ・・・。
(『平等主義は正義にあらず』から)
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<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生> 銀行強盗事件@AB、赤井vs大和の対話、死刑制度が廃止されるとこのようなことが起こり得る。死刑は残酷であるし、非人道的であるとしても、このような不均衡が予測される制度は「欠陥制度」だ。 死刑廃止論者は「気配り半径が狭く」「視野狭窄」であり、あくまで感情的な死刑廃止論にしがみつくのは新興宗教家にも似た態度だと言わざるを得ない。 死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」と主張するが、「銀行強盗事件@B」では被告が銀行員3人を殺したことに関して誤判はあり得ない。
 死刑廃止論者は死刑の代替として、仮釈放なしの終身刑を主張する。けれどもこれは認められない。刑務所で人を殺しても、真面目に過ごしていても何も変わらない。素直に、真面目に生活していればいずれ仮釈放になる、だから模範囚になろうとする。 真面目に生活するインセンティブが働かない。
 赤井vs大和の対話、のポイントは見出しでも書いた、場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」、ということだ。人を殺すことは残酷だし、非人道的であることは確かだ。しかし、場合によっては「国家がその残酷なことを行わなければならないこともある」ということがポイントになる。
 死刑制度が残酷であるとか、非人道的であるとか、世界の流れであるとか、誤判は避けられないとか、理由はいろいろ付けることができるが、この様な不均衡なことが解決できなければ、死刑制度は維持しなければならない。上記例では、被告が人を殺したことに関して誤判はあり得ない。 しかし、法律書・刑法の解説書ではこのような事例は想定されていない。多分法曹界も「法曹界の匂いのしない者の意見は聞かない」ことになっているのだろう。 農業界での「土の匂いのしない者の意見は聞かない」と同じような態度、経済学教育界での「マルクス経済学者の意見は聞かない」 と同じような態度なのだろう。
 法曹界の動きを見て、ロースクール制度や裁判員制度の導入は、経済学の観点からは「レント・シーキング」 となるのだが、それでも、裁判員制度で法曹界の人が民間人に接して、民間人の感覚に驚くことがあれば、それは良いことかも知れない。かつての226事件、青年将校たちが「政治は腐敗している。国民はそれに気づいていない。われわれが立たなければ日本はダメになる」と思い上がり、ルール違反をして立ち上がった。 それは、「われわれは正しく状況判断できるが、国民はできない」との独断的な思い上がりであのような無謀な行動に出たのだった。青年将校たちが一般民間人とよく話し合っていればこのようなことは起きなかったかも知れない。TANAKAが提唱する、自衛隊への体験入隊制度 はこうした危険性を回避する制度になると思う。 大切なことは、一般人が業界人を知ることではなく、業界人が一般人の感覚を知ることだ。業界人が、好奇心と遊び心を持っていれば、その制度は生きてくる。
 死刑廃止論者は、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言う。そして、だから死刑制度は廃止すべきだ、と言う。 その論理は間違っているのであって、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」だからこそ、人の命を奪う犯罪には、死刑制度という厳しい態度をもって、国は対処しなければならない。そうした毅然とした態度がなければ「生命は尊貴である」とは、単なる言葉の遊びでしかなくなる。 もしも、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言っていれば人命が尊重されると言うならば、それは「言霊信者」の言うことだ。
 ところで、命がけで、犯人に飛びかかっていった若い行員の行動は何だったんだろう。犯人逮捕に結び付いた。それは確かだ。そして、実は犯人の命を救ったのだった。そう、自分の命を懸けて、犯人が実質的は死刑になるのを救ったのだった……何か割り切れない。行員の遺族の気持ちはどのようなものだろうか?このような法秩序が許されるのだろうか?
 銀行強盗事件で現場に到着した警察はまず何をするだろうか?最初にすることは、犯人への呼びかけだろう。「銀行は警察が包囲した。もう逃げられない。武器を捨てて出てきなさい。今なら死刑になることもない。大人しく出てきなさい」。このように犯人を説得するだろう。 しかし、死刑が廃止されたら、「今なら死刑にはならない。これからも死刑にはならない」では説得にならない。死刑制度が抑止力になっているかどうかは、どちらも証明できないが、警察の説得力が弱まるのは間違いない。 事件が起きたとき、事態がより悪化するのを防ぐために、死刑制度は「抑止力」として有効だ。
最後までのお付き合いのほど、よろしくお願い致します 死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」 と主張する。死刑存続論者であってもこれを論破することはできない。無理に方法を考えれば、「銀行強盗事件@Bのように、誤判の恐れのない事例以外は死刑を適用しない」という非現実的なことしか考えられない。 では、それでも死刑は存続すべきだ、と主張するのは何故か?それは 「死刑を廃止した場合のメリット(冤罪により命を失う人がいなくなる)、デメリット(現実の社会と法体系に矛盾が生じる)を天秤にかけてみて、デメリットの方が重い」と考えるからだ。
 このHP「死刑廃止でどうなる?」では、そうした死刑廃止論者の主張を一部(誤判は避けられない)認めながらも、それでも「死刑は存続さすべきだ」を主張していくことにする。 いつも通り、毎週、毎週の自転車操業でキーボードを叩き、アップロードしていくので、右へ左へ、前へ後へのダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版    古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
『平等主義は正義にあらず』   山口意友 葦書房      1998. 3.10 
( 2007年3月19日 TANAKA1942b )
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(2)団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう
人格の尊厳を認める法理論とは

 死刑廃止論者がどのように主張しているのか?ここでは、廃止論を紹介しよう。 初めに引用するのは、団藤重光著『死刑廃止論』。最高裁判所判事も勤め、1995年には文化勲章を受章している、代表的な死刑廃止論者だ。
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<「目には目を」の由来と批判> 第1部のお話の中で申しましたように、「目には目を、歯には歯を」というのは最初に旧約聖書に出てくることばです。 引用してみますと、『出エジプト記』(21章24節、なお12節以下)には「目には目。歯に歯は。手には手。足には足。」とあり、『レビ記』(24章20節・21節)には「目には目。歯には歯。人に傷を負わせたような人には人は自分もそうされなけらばならない。 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を撃ち殺す者は殺されなければならない。」、さらに『申命記』(19章21節)には「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」というように記されています。いずれも、主(神)がモーゼに告げて言われた言葉であります。
 このような「目には目を、歯には歯を」という法を「タリオの法」ないしは「同害報復の法」と言いますが、これが果たしてキリスト教の教義だと言ってよいのでしょうか。 新約聖書になると、『マタイの福音書』(5章38節以下)には、イエスの説教の中に次のようなくだりがあるのをご存知でしょう。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」また、『ルカの福音書』にも、イエスが言われた中に「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」 (6章29節)という言葉を含む一連の有名なくだりがあります。
 同じく新約聖書のパウロの『ローマ人への手紙』(12章19節・21節)の中には、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。それは、こう書いてあるからです。 『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』……善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 これは旧約聖書の『申命記』(32章35節)に主のことばとして、「復讐と報いはわたしのもの」とあるのを受けているのでしょうから、すでに旧約聖書にも、本当はこのような考えがあったものといってよいでしょう。 人間同士の間では復讐的であってはならないものとされているのです。
 このように見てきますと、キリスト教の教義として、「目には目を歯には歯を、生命には生命を」ということが、主の復讐原理としては別論として、少なくとも人間社会の在り方として認められるとは決して言えないように思われます。 キリスト教者の中に多くの強い死刑廃止論者があるのは、もっともなことであります。いな、キリスト教では『ルカの福音書』(6章37節)にも見られますように、死刑どころか、そもそも人を裁くことじたいが問題になる位です。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」 (『ヨハネ福音書』8章7節)というのも、ご承知のとおり、この文脈でよく引用されるイエスの言葉です。要するに、「キリスト教によって死刑を基礎付けようとする見解くらい非キリスト教なものはない」 (リープマン)と言ってよいのではないでしょうか。ユダヤ教でも、1950年代以降のアメリカでは──一部の正統派の宗教以外は──死刑を聖書に反するものと見るようになって来ているそうです。
 これまでキリスト教の聖書を中心に見て来ましたが、コーランにも同じく「生命には生命を、目には目を……」という言葉があり、イスラームの教義の重要な部分になっているのです。 イスラームはユダヤ教、キリスト教に続く同じセム人種の宗教で、姉妹宗教といってよい同系の宗教で、コーランは旧約聖書を至るところで意識的に踏まえているのですから、これは当然のことでしょう。 コーランではキリストの福音書さえもが踏まえられているようですが、キリストはイスラームでは預言者の1人にすぎないのですから、ここに述べたような新約聖書はイスラームには入ってきません。 ですから、「生命には生命を、目には目を……」ということも、キリスト教の場合とは教義上かなり違ったニュアンスをもって来てるようです。
 ともあれ、「目には目を、歯には歯を」というのが、社会的事実として、古代の人たちの素朴な正義感情であったこと自体は、疑いないでしょう。 これは、現代人にも言えることで、応報観念は現代の法や裁判の上で軽視することはできません。その現代的な意味の1つは、刑罰が重くなり過ぎないように、その限界を決める点にあります。 刑法の大原則である罪刑法定主義の一要素としての罪刑の均衡ということは、こうした応報観念が基礎になっています。 (『死刑廃止論』第4版 から)
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殺人罪に死刑は相当か 私は以上で、「目には目を、歯には歯を」「生命には生命を」というタリオの考え方が刑法においては適当でないことを論じてみたのですが、同時に被害者感情をも含む応報観念そのものは軽視してならないことを述べてみたいのです。 言い換えれば、応報観念を考えるについて、個人対個人のレベルで形式的に──民事的──考えるべきではなく、全体対個人の問題として犯人に国家的刑罰を科するのにはどうすれば──刑事法的に──実質的に適正を期することができるか、を考えなければならないのです。
 よく、人を殺した者は自分も殺されるのが当たり前で、「自分が殺されないで人を殺す権利」を持つというのはおかしい、という議論がありますが、ここには思考の混線があります。 死刑を廃止すればもちろん「殺されない権利」ができるわけですが、それはどこまでも「殺されない権利」にとどまるのであって、「殺されないで殺す権利」など絶対にありません。
 われわれは、ここで2つの平面を区別して考えなければなりません。それは、犯罪の行われる事実の面と刑罰を科する規範の面との区別です。 理論的に厳密にいうと、非常にむずかしい議論になりますが、ここではごく常識的な意味でいうのです。
 国家ないしは法が殺人犯人を死刑にするというのは、規範面のことです。犯罪の事実面は不合理の世界、不正の世界ですが、刑罰を科するという規範面は合理性の世界、正の世界でなくてはなりません。 不正に対する正をもってするのが刑罰でなければなりません。犯人が被害者を殺すのは不合理の世界であって、これと同じレベルで国が死刑によって犯人を殺すことを考えることは許されません。 もし同じレベルで考えるならば、それは法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自己を低める、貶(おとし)めることになります。 犯人が人を殺したのだから法はその犯人を殺す、死刑にするのだ、という議論は、法を堕落させる議論ではないでしょうか。法は一段の高みに立たなければならない。 殺人犯人を死刑にするには、単に人を殺したからという以上の、十分な合理的根拠がなければならないはずであります。はたして、それだけの根拠があると言えるのでしょうか。
「人を殺すなかれ」という規範を法が掲げるのは、世の中に殺人が行われないようにするためです。それなのに法自身が死刑によって人を殺すことを規定したのでは、法がみずから規範を破ることになりはしないか。 むしろ、法が自ら悪い手本を示すことになりはしないか。第T部のお話の中で引用したドストイェフスキーやカミュのことばを、ここでもう一度思い出していただきたいと思います。(以下略) (『死刑廃止論』第4版 から)
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私の人格責任論・動的刑罰論と死刑廃止論 この辺で、とくに私自身の刑法理論と結び付けて、そういう角度から、改めて死刑廃止を論じておきたいと思います。 私の刑法理論は一口で言えば、人間あるいは人間性をもとにした刑法理論です。法は人間の行為を律するものですし、こと刑法は人倫と密接に関係するものなのですから、これはあまりにも当然のことなのですが、世の中では必ずしも、 そのように考えられていないようなので、私はこれを強調しなければならないのです。私のいわゆる主体性の理論、それから派生する人格責任論、さらには動的刑罰理論などが、私の刑法理論の骨格をなすわけですが、ここでは簡単に要点だけを説明しておきましょう。たいへん舌足らずなお話になりますが、お許しを頂きたいと思います。
 主体性の理論は、何よりもまず、個々の人間についての至上性すなわち人格の尊厳を認めることから出発します。一人ひとりの人間がそれぞれに根元的な価値をもつものであって、いわば自己目的的なものであり、ほかのものの単なる手段として扱われてはならないことは、カントの言っている通りだと思うのです。 法哲学者のコーイングが書いていますように、「死刑は犯罪者自体を否定するものである。しかし、国家はそのような権利を持つものではない。なぜならば、それは一人の人間を国家の目的に捧げることになるからである。 だから、死刑は法の理念に反する」ものと言うべきであります。 (『死刑廃止論』第4版 から)
団藤 重光(だんどう しげみつ) (1913年11月8日 - )刑法学者。戦後の日本刑事法学の第一人者。 東京大学名誉教授、元最高裁判所判事(1974〜1983)。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章
 立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになったきっかけを次のように言っている。 死刑廃止info! アムネスティ死刑廃止ネットワークセンター から引用しよう。
最高裁判事としての痛切な経験
裁判官がみんな席に着き、裁判長が「本件上告を棄却する」と言いました。棄却するということは死刑が確定するということです。
そして裁判官専用の出入り口から私たちが退廷し始めたその時です。
「人殺し!」という声が法廷中に響いたのです。罵声です。私たちが罵声を浴びせられたのです。
私はいつもでしたら傍聴席のこんな罵声くらいで驚きはしませんが、正直なところ、「本当にこの人がやったのだろうか」という一抹の不安を持っていましたので、このときの「人殺し!」という声はこたえました。その声は今でも忘れられません。
その事件で私が感じたわずかな不安というものは、多分に主観的なもので、人によって違うと思います。その小法廷の5人の裁判官の中でも、そういう不安を持ったのは、おそらく私だけだったでしょう。残り4人の裁判官は、自信を持って死刑判決を言い渡したと思います。
でも私には、わずかに引っかかるものがありました。
しかし現在の司法制度の下では、このようなケースで判決を覆すことはできません。そして死刑制度がある以上、この事件で死刑が確定したことはやむを得ない結果でした。
私はこの経験を通して、立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになりました。
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学問の道を究めると宗教家になる? 学問の世界で、ユニークな理論を発表するのは若い世代だ、と言われている。中年以降は後輩を指導する立場になる。 そして、ごく一部の人は、専門分野を基盤とした哲学の分野に足を踏み入れる。そして、それがさらにすすむと、宗教家=新興宗教の教祖になる。
 実現不可能な理想で、しかし誰もそれを否定できないスローガン。過去の専門分野での実績が大きいので、その分野の後輩は批判できない。 経済学の分野でも、理論物理学の分野でも、実業界の分野でも、そして法曹界でも……。
 「世界人類が平和でありますように」と言われて、それを否定することは難しい。「核兵器廃絶」に反対はしにくい。けれども最大の核兵器保有国のアメリカが核兵器を破棄したら、北朝鮮はじめ多くの国が核開発を進めるのは間違いない。 アメリカが核兵器を保有することによって、諸国の核開発が乱開発されずに済んでいる。「死刑が行われることがないような社会になったら良い」に反対する人はいないだろう。 しかし、死刑制度が廃止されると法体系が不自然になり、現実の防犯システムとの整合性が失われる。「死刑廃止」とは、このような種類の問題なのだと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止論』第4版      団藤重光 有斐閣      1995. 1.30 
『死刑廃止論』第5版      団藤重光 有斐閣      1997. 6.30 
( 2007年3月26日 TANAKA1942b )
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(3)死刑執行停止法の制定という主張
仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案

 今週は死刑廃止論者のうち、菊田幸一著『死刑廃止に向けて』から引用します。副題に「代替刑の提唱」とあり、本文中では、仮釈放なしの終身刑を提唱している。
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<死刑廃止に向けて> 私はかねてから死刑廃止への手段の1つとして、@死刑執行停止法の制定、A死刑に代替する終身刑の提唱、をしてきた。死刑廃止を推進する議員連盟および弁護士会が終身刑を具体的に提唱していないのには、それぞれの事情と配慮があるのであろうが、今、死刑に関し意識ある国民の多くが求め、期待しているのは死刑に代替する終身刑の導入にあると、私は確信している。 そのような具体的提言なくして死刑執行停止は実現できない。
 私が微力ながら協力してきた韓国での現在の死刑廃止法案は、当初の仮釈放付終身刑を修正し、仮釈放のない絶対的終身刑を死刑に代替する内容となって、今国会に提出されている。 国連の規約人権委員会での日本の死刑に対する勧告でも死刑のモラトリアム実現の手段としての終身刑について触れている。
 死刑廃止は、根強い存置論者をいかに廃止に向かわせるかにかかっている。その橋渡しの手段として提唱するのが終身刑である。終身刑には「死刑より残虐である」との批判のあることは承知している。 しかし死刑のある今の日本では、その議論は、わが国の死刑制度がなくなってからでも遅くない。
 本書は、死刑廃止への戦略を紹介してきた。これまでの論文に若干の集成を加えて収めたものであるが、重複の部分はそのままにした。日本の死刑廃止への具体的戦略として役立つならば望外の幸せである。
 2005年3月 著者  菊田幸一
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人間尊厳の普遍性 人間の尊厳が実定法として明瞭にされたのは1945年6月25日に調印された国際連合憲章である。 同憲章はその前文において「基本的人権と人間の尊厳および価値」に言及している。そして1948年12月10日に国連で採択された世界人権宣言と称せられる「人権に関する普遍的宣言」(Universal Declaration of Human Rights)は、法的拘束力はないが人権の普遍性を鮮明にした。その前文において「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と、平等で譲ることのできない人権とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である……」 と述べ、第1条において「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」と規定し、人間の尊厳の普遍性を明瞭にしている。 その意味するところは「国際社会が国家のみによって構成されているという立場を意図的に排除して、人類それ自体を含ませるという考えにたっている」ところにある。
死刑に代替する終身刑について 死刑制度を廃止するに際し、その代替刑として終身刑を採用することは、これまでの死刑廃止先進国が、いずれの国においても経験しているところである。 むろん死刑廃止に伴う直接の代替刑として終身刑を採用する国もあれば、死刑廃止後の最高刑として、従来からの終身刑が残されたにすぎない国もある。 わが国においては、死刑に次ぐ最高刑は無期懲役であるから、ここに改めてそれとは異なる終身刑の採用が問題となる。
 アメリカにおいては死刑廃止州と存置州があり、すでに死刑を廃止した州においては終身刑の問題は、その現実を行政問題として議論の対象としており(死刑を廃止したヨーロッパ諸国でも同様の動きがある)、 他方、存置州においては、死刑廃止に向けての代替刑として、終身刑に関する議論が中心となる。その意味では、アメリカにおける終身刑論議を知ることは近い将来での死刑廃止を検討するわが国において格好の素材を提供するものである。 本稿は、主としてアメリカの終身刑論議を素材とし、日本における終身刑採用の具体的方策を探ることを目的とする。
日本における死刑代替刑論議 まず、日本における最近の死刑代替刑論議を簡略に紹介しておきたい。 死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している。 死刑廃止実現の見通しには、楽観論、悲観論のいずれにもそれなりの客観的状況判断があるにしても、単に成り行きを見守るのではなく早期実現を具体的に手中にしなければならない。 そのためには可能な限りの実現可能な施策を提唱しその段取りをしていかなければならない。それには、もっとも悲観的状況判断から対策をとることが、短距離であるという認識も必要である。 私は、率直にいって現行刑法典から「死刑罪名」を削除するという、いわば正面からの死刑廃止は困難であると考える。事実上の死刑執行停止を実現することに当面の課題がある。 そのためには、こんにちの死刑と無期懲役の格差をなくする、いわゆる終身刑の採用を早急に実現する必要がある。またその採用に賛成する意見は各方面から出ている。(中略)
 現実に死刑制度があり、定期的に処刑がある日本の現状や被害者感情を考えれば「凶悪犯人は死刑にせよ、さもなくば生涯を刑務所で」の声が今日の日本における多数の意見であると思われる。 実は、このような状況は、死刑を廃止したフランスやドイツあるいはアメリカで言えば死刑廃止州において同様な現象がみられる。
終身刑の導入 わが国において、死刑に代替する終身刑を早期に導入すべき時期にあることを冒頭でも述べた。 その終身刑がいかなる種類のものであるかは、前提として、わが国の犯罪者処遇の実態をとらえておかなければならない。たとえば確定死刑囚といえども現実には厳正独房に近い日常生活を強いられており、これは明らかに国際準則に違反している。 かれらは、文字どおり処刑を待つための生のみを強いられている。さらに言えば、厳正独房に収容されている長期受刑者の非人間的扱いが実態としてある。その現実のうえに死刑制度がある。
 その死刑制度を廃止することがいかに厚い壁であるかを改めて認識しなければならない。
 このような現状認識のもとにあっては、死刑の代替刑提示、残念ながら限りなく死刑に近い代替制を提示することで一般多数の賛同を得るものでなければならない。 現に死刑制度があり、定期的に死刑執行がなされている日本の現状からすれば、死刑に次ぐ、もっとも厳しい終身刑を自ら選択せざるを得ない。それは仮釈放のない終身刑である。 仮釈放のない終身刑が死刑より残虐であるとする論理は通用しない。
 確定死刑囚・大道寺将司は次のように述べている(要旨)。「死刑囚は、単に長期間拘禁されたからではなく、死刑囚として、いつ処刑されるかわからないという状況に置かれてが故に、精神的に病んでしまうのです。 ”いつ処刑されるかわからない”という思いを抱かずにすむものであれば、長期間拘禁されても、精神的に病む人は少なくなるはずです。
 たとえ生涯、塀の外に出ることができなくともです。塀の中の生活もまた人生です。シャバとはかけ離れた厳しい生活のなかにも、喜びや生きがいを見出しことは可能です。
 終身刑を死刑の代替刑とすることで、百年先の死刑廃止よりも、近未来の死刑廃止の実現をめざすべきだと思います」
 死刑に値するような凶悪な犯罪を犯した者には、生涯にわたり刑務所から出ることができない刑罰を科せられても現実問題として、これに耐えるしかないとの認識を、あえて持たねばならない。 他人の生命を抹殺した反動として死刑への恐怖を伴わない終身刑は刑罰の1つとしてあり得る。自らの生涯を刑務所内で生きるのも刑罰の1つとしてあってしかるべきである。 終身刑受刑者として刑務所内で被害者への贖罪と労働に服することも行刑の1つである。ただし終身刑そのものがイコール残虐であるとする考えも間違っている。ここで採用する終身刑の処遇が19世紀初頭におけるヨーロッパの監獄のように暗い部屋に生涯閉じ込めるものであるはずがない。 日本における「厳正独居」が想定されてはならない。むろん仮釈放のない終身刑にこだわっているわけではない。前提として事実上の死刑廃止ないしは死刑執行停止を早期に実現することが担保されるならば、もっとも厳しい終身刑が存置論者を説得しやすいと、戦略として考えているにすぎない。
 どのような終身刑を具体的に採用するかは、さらに検討されるべきであるが、段階的に死刑、仮釈放のない終身刑、無期懲役(日本の現行法)の3種の選択から出発し、次の段階において仮釈放のない終身刑と無期懲役の選択、さらにその終身刑も20〜25年後に仮釈放を許す変遷が予定されてよい。 (『死刑廃止に向けて』から)
菊田 幸一(きくた こういち) (1934年12月15日 - )滋賀県長浜市出身の刑事法学者・弁護士(東京第二弁護士会所属)。専攻は犯罪学(刑事政策)。明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)。
 著者・菊田幸一に関しては< ウィキペディア>を参照のこと。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止に向けて』代替刑の提唱   菊田幸一 明石書店      2005. 3.30
( 2007年4月2日 TANAKA1942b )
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(4)死刑廃止を支持する女性作家の意見 
法体系とは無関係の立場からの感想
 『女たちの死刑廃止「論」』と題する本があって、多くの人の意見が掲載されている。 その中からよく知られた女性作家の意見を引用しよう。この人たちは法曹界の人ではない。だから「法体系」がどうのこうの、という点については追求しない。 多くの人の意見を聞いて、法体系として矛盾のないものに仕上げていくのは専門家の仕事であって、作家の仕事ではない。ということで、ここでは銀行強盗事件のことは考えずに、いろんな人の──アマチュアの意見を聞くことにしよう。
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誰の罪か=三浦綾子 島秋人という死刑囚がいた。彼はもう10年も前に死刑になっている。 「遺愛集」という心に沁みる歌集を1冊残して、33才の生涯を閉じた。
 彼はある日、獄窓に於いて、自分の一生を思い出してみた。が、人にほめられた思い出は、何ひとつなかった。もう一度、くり返し思い出してみた。 と、中学時代、図工の教師に、
「お前は絵は下手だが、構図はクラスで1番よい」
 とほめられたことがあるのに気づいた。
 この話をある牧師から聞いて、わたしは涙がこぼれた。今、死を前に、たった1度しかほめられたことがなかった人生を省みるこの青年の淋しさは、一体どんなであろうと思ったからだ。
 父が、母が、近所の人が、受け持ちの教師が、なぜ1度もほめ言葉をかけてやらなかったのかと、わたしはふしぎでならなかった。 それほど、この青年は、ひねくれ者で乱暴者であったのか。
 そう考えているうちに、わたしは、はっと1つのことに気づいた。それは、人間というものは、なかなか、人をほめない存在だということである。
 恐らく、この青年にも、小学校1年から、中学3年まで、何人かの受持教師がいたであろう。しかし、教師は多数の生徒を相手にしている。 非常に朗読の上手な生徒とか、他にすぐれて運動神経の発達している生徒とかを、度々賞賛することはあるかも知れない。
 だが、どのクラスにも、目立たない生徒がいるものだ。すると、教師は、つい今日もその生徒に声をかけない。明日もほめてやらないということになるかも知れない。
 たとえその生徒が、隣の友だちに、ビー玉をやるとか、ちり紙を分けるとか、些細な親切をしていても、教師が気づかない。積極的に教師に話しかけてくる子や、懐(なつ)いてくる子とは話をしても、毎日クラス全体の子と話すとは限らない。
 そんな日が、つみ重なって、教師から特別にほめ言葉をもらえないという生徒がないとは言い切れない。運がわるいと、次の教師も、そして又次の教師もその生徒をほめることなく何年間が過ぎるということも考えられる。
 しかも、教師は、ともすればほめるよりも咎める言葉、叱ることば、注意する言葉を多く口から出すかも知れない。と、いうことで、ついにどの教師からも、1度もほめられることなく中学を卒えるということがないわけではない。
 それは、わたし自身教師の経験があるのでよくわかる。ある時期、わたしは受持生徒一人一人の日記を毎日書いたことがある。 戦時中のことだから、生徒数が多く、60人から80人ぐらいもいた。
 その一人一人の日記を書くということは、つまり生徒一人一人の心の動きを心にとめておかなければならぬということである。これはもう至難なことで、どうしても、今日何をしたか、何を言ったか思い出せない生徒が何人かいた。 わたしは、その思いだせぬ子の名を教卓に貼っておき、翌日は真先にその子たちに声をかけるようにしたが、しかし、それでも毎日何人かの生徒の言動を心にとめることができなかった。
が、今になってつらつら思うに、私はつとめて生徒たちに言葉をかけた。が、それは、
「昨日の日曜日何をしたの?」
「おばあちゃんの病気よくなった?」
 というようなことばかりだったような気がする。言葉をかけること即ち賞めるということではなかったはずだ。と、すれば、私に何年間受け持たれても、一言もほめてもらえなかった生徒がいたかも知れないということだ。 それを考えると、私の心は激しい悔恨に襲われずにいられない。
 二、三年前、ある集会で、
「あなたは妻の料理をほめるか」
 という話題が出たことがあった。
 ところが驚いたことに、かなり仲のいい夫婦であっても、必ずしも妻の料理をほめることはないという夫たちが何人かいた。
 では、その妻たちは料理が下手かというと、決してそうではない。いずれも、玄人はだしの腕前の持ち主ばかりなんじょだ。それなのに、その夫たちは、只黙って食べるというのである。
 仲のいい夫婦の場合でさえ、妻が心をこめて造る毎回の料理をほめないのだ。と、いうことは、人間はなかなか人をほめないものだということだ。 だから自分のした善行なら、いささかでも誇るが、他の人が同じ善行をしても、先ず人はほめない。「金がある」から」「世話好きだから」「ひまがあるから」したのだと、半分くさすような言い方をする。
 島秋人は、たった1度、中学の教師にほめられただけであった。その1度がなければ、彼はこの世に生まれてきれ、ただの1度も人にほめられたことなく一生を終わったことになったであろう。
 考えてみると、くる日もくる日も、ほめてくれる人のいない人生は沙漠のようなのもだ。島秋人を殺人に追いやったのは、その沙漠のような、この社会ではないだろうか。
 しかし、彼は、自分を冷たく扱ったこの世に対して、恨みを抱いて新だのではない。キリストへの信仰と、短歌をつくることに依って、彼は支えられた。
  この手もて人を殺めし死囚われ同じ両手に今は花活く
  主のみ手にすがる外なき囚われに冬のさ庭の陽があたたかし
  世のためになりて死にたし死刑囚の目はもらひ手もなきかも知れぬ
 ほめられたことのなかった彼の罪か、ほめなかったもの立ちの罪かと、私はこの歌を読み返すのである。 (『本』昭和五十四年七月号) (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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私の書いた死刑囚たち=瀬戸内寂聴 明治44年(1911)1月24日、午前7時から午後3時半まで8時間かけて、11名の死刑が極秘のうちに決行された。 場所は東京市ヶ谷監獄であった。幸徳秋水以下11面で、翌25日には管野スガ子が同じ絞首台の露と消えた。所謂明治の大逆事件で裁かれた者たちであった。 大逆事件がいかに政府が社会主義者を取締るためのフレームアップのでっちあげ事件であったかは、今では世界中によく知られている。
 管野スガ子自身が獄中で書いているように、この事件は、須賀子をはじめ、2,3人が責任を負う程度の事件で、しかも、実行まではとうてい及び難い幼稚な計画だけの机上の空論にすぎなかったのだ。 主犯とされた幸徳秋水でさえ、このプランからはすでに下りていたのであり、他の人々に至っては、全く関知しない事件であったのだ。 如何に当時の裁判が言語道断のものであったかを歴史に示している。世界中に、日本の裁判の汚点を広告したような事件であった。
 私は小説家として、この事件で只一人の女性死刑囚管野スガ子を『遠い声』という作品に書いたため、この死刑者たちと無縁でなくなった。当時の裁判を調べて知れば知るほど、死刑という制度について考えこまされずにはいられなくなったのだ。 裁判そ恐ろしさの方が、罪人と称せられる人間の犯す罪よりずっと甚大であることも知った。
 大正の大逆事件と呼ばれる朴烈、文子事件も取り上げ、金子文子を『余白の春』で書いた。この二人も死刑の判決を受けたが、それは関東大震災のドサクサまぎれに社会主義者やアナーキストを一掃しようとした政府の謀略による裁判であった。
 文子と朴烈は幸徳秋水たちと同じ刑法73条の「大逆罪」によって裁かれ死刑の宣告を受けたが、翌日天皇の恩赦という形で無期懲役に減刑された。その報せを受けた文子は、
「人間の命を玩具にするな」
と怒り、恩赦の紙を奪ってその場で引き裂いてしまった。後、文子は刑務所の独房で自殺している。文子にとってこの減刑はむしろ屈辱以外の何ものでもなく、自殺によって「死刑」に抗議したものと見なしてよいだろう。
 朴烈、文子の裁判の記録を見ても、二人の幼稚な自己顕示欲をあおり立てて、幻めいた皇太子暗殺計画をそそのかし挑発し自白させたという形が歴然としており、それが如何に意図的に仕組まれた裁判劇であったかは判然している。
 幸徳事件の時も、最初の死刑判決は24名であった。それを宣告の判決言い渡しの翌日に天皇の特赦という形で半数の12名が無期に減刑されている。 その減刑について、獄中の管野スガ子は、手記『死出の道艸』の中で、
 「一旦みどい宣告を下して置いて、特に陛下の恩赦によってというような勿体ぶった減刑をする──国民に対し外国に対し恩威並び見せるという抜目ないやり方は、感心といおうか、狡猾といおうか」
と書き残している。
 私は全く偶然のなりゆきで、管野スガ子や金子文子のことを書いたため、日本の暗黒裁判の歴史を知り、無実のものが死刑にされた恐怖を味った。そのため、裁判といい死刑といい、全く自分と無関係のように思っていたことが決して自分と無関係でないことを思い知らされた。 更に「徳島ラジオ商殺し」と呼ばれている富士茂子さんの裁判で、無実を主張しつづけている茂子さんと関わるようになって、明治以来今につづく日本の裁判並びに権力の暴力を憎むようになった。
 人間が人間を裁く時、絶対まちがいが起こらないとは言い切れないことをこれらの事件は示している。しかし、死刑という処刑は人の命を奪ってそれを生きかえらすことは出来ないのである。 こんな恐しいことを人間は平気で行うのだ。
 現在でもアムネスティの報告によれば、世界中で1日に何百人もの政治犯が死刑になっているし、刑の執行を待っている者もそれに続いているという。 政治犯というのは自分の思想や信念が現在の権力と相反するために捕らえられたのであるから、その立場に同情するむきもあって当然だが、単なる強盗殺人や、けんかの上での殺人や情痴殺人となると、その犯罪者を人は当然のように軽蔑し憎悪する。 そんな奴は死刑にして当たり前だし、極刑がないと、世間はそういう犯罪に対して不安でたまらないという。極悪非道の殺人者は殺せというのが世間の人情であり、その人情は当然正しいものとされている。 見せしめという言葉は、善良そうな人もど軽く口にする。
 しかしそんな次第で人を罰しつづけるなら、戦争に行って生き残った人間の誰が死刑をまぬがれることが出来ようか。戦犯として死刑にあった軍部の指導者だけが人を殺したわけではないし、戦争をしたわけではない。 戦争に反対することも出来なかった国民の無知もまた罰せられるべきであり、国家の元首こそ大殺人を命じた責任者として死刑にあうべきであろう。
 人間の行うことは所詮人間の浅い知恵の枠内であいか行えない。罪を憎んで人を憎まずといった聖哲の言葉など、現在では学校でさえ教えられない。 怨みに報いるに怨みを以てすれば永遠に殺しつづけなけらばならない。
 人を殺した者を必ず殺していけば限りもない殺人がつづいていく。
 人を殺してはいけない。人は人を殺させてもいけないという釈尊の言葉を私は今はよりどころにして、死刑廃止運動に連っている。
 一思いに殺された方が無期より楽だという説もある。けれども無期で罪をつぐなうことが如何に苦しそうに見えても、生きてさえいれば、人は自分を変える無数の機会が恵まれる。 人間はいつ、どう変化するかわからない心を持った動物である。生きている限り、人の心は動きつづけることが出来る。
 人は人の未来を奪う権利はない。
 死刑がどんなに野蛮な刑であるかは、もう世界の文明国が次々この刑を廃していることでも証明されつつある。日本は今や数少なくなった野蛮国の1つとして、まだ死刑を存続させているし、させつづけようとしている。恥ずかしいことである。 (『自由と正義』1982年12月号) (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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死刑に反対する=田辺聖子 今東光氏がまだご存命のころ、死刑廃止の議論に対して、
「しかし、無惨に殺された人の遺族の身になってみれば、なあ……」
 といわれていたのを私はおもいだす。
 総論的には死刑反対だが、「しかし……」とつくのも人情であろう。だが、やっぱり私は、極悪人に対しても、死刑に反対せざるを得ない。 殺人を犯した人間に対して、法の名でまた殺人を犯すということに釈然としないのである。
 1975年から1979年にかけてカンボジアではポル・ポト政権の自国民に対する大虐殺がおこなわれた。人口7百万のこの国で実に半数近い3百万人の民衆が ジェノサイドの犠牲になった。やっとポル・ポト政権が倒され、新政府のヘン・サムリン政権が立って荒廃した国土のあと始末にかかったが、以前にポル・ポトの手先になって民衆を殺したり迫害したりした連中はどうなったろうか。 彼らは民衆に摘発され、糾弾されたが、処刑されることはなかった。再教育センターへ送られて、何週間が服役し、洗脳されて釈放された。
 目の前で肉親が殺された人々は、残虐行為を命じたり、直接手を下したりした人間を指さし、
「あいつが私の夫を、子を、(あるいは妻を、兄弟を、両親を)殺した!」と叫んで、どんなにか報復したかったことだろうと思う。 それが人間の情だろう、しかし新政府は、「復讐を生む」として報復処刑を許さなかったと伝えられる。
 カンボジアのジェノサイドは特殊な例であるが、私は「目には目を」という死刑に、どうしても与(くみ)することはできない。 私は反戦に署名し、核兵器に反対し、原発にも反対するものである。原子力の平和利用というけれど、原子力利用には根本的な不信感をもっている。 そういう立場の人間が、死刑制度に賛成、というのは矛盾がある。私は使役廃止を唱(い)わざるを得ない。
 私は何ら特定の宗教を信仰するものではないが、人のいのちの尊さを説きつつ、片方で命を奪う書類にサインすることはできない。 我々が死刑制度存続をきとめていることは、全国民があげて処刑命令書にサインすることだから……。大いなる超越者からごらんになれば、それは人間としてまことに不遜な所業と譴責されるのではあるまいか。
 これは国民一人一人の胸に問われる問題である。
 自由を剥奪され、ひとところに閉じこめられるという」ことは、人間として大きい苦痛だと思う。禁錮される苦痛で、人間はその罪を贖う、と考えてもいいのではなかろうか。 死刑を廃止にしたとき、反戦・非戦思想も現実性を帯びてゆく気がする。 (『女たちの死刑廃止「論」』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『女たちの死刑廃止「論」』            死刑をなくす女の会 三一書房   1984.11.15
( 2007年4月16日 TANAKA1942b )
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(5)宗教家も死刑廃止を強く主張する 
実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教
 死刑廃止を主張するグループがいくつかあり、その中でも宗教家グループの影響力は大きいに違いない。 なにしろ、死刑廃止の主張そのものが宗教的なものだからだ。法律のそれも刑法という硬い分野でありながら、その主張の根拠は極めて宗教的だからだ。 ここでは『死刑廃止とキリスト教』の掲載された意見を引用することにしよう。また、死刑問題の捉え方が「宗教的」なので、宗教家ではない人たちの思いも取り上げてみた。 ここでも、「法体系」などというヤボなことは抜きにして、しばらく宗教的な雰囲気に浸ってみましょう。
*                      *                      *
死刑についての私の一言=荒井献 私が死刑に反対する理由は、極めて単純です。 人間は相対的存在です。このことをお互いに認め合うところに、「愛」の関係が生ずるのです。人間が相対的判断に基づいて、他者を絶対的に抹消し、「愛」の関係を断ち切ることは、いかなる理由があっても、ゆるされるべきではありません。 (荒井献=恵泉女学園大学学長 日本基督教団まぶね教会会員)
死刑についての私の一言=田畑忍 人を殺すことは大罪です。最悪の殺人は、権力が死刑執行の公務員を用意して、殺人犯やその他の事由で人を殺す死刑です。 死刑廃止は当然に必要です。
 歴史を遡って考えてとよく分かります。死刑制度がありましたので、聖人のイエス・キリストが十字架にかけられたり、賢人のソクラテスが毒殺されたりしました。 このような事例は少なからずあります。
もちろん、死刑を廃止しても殺人犯は決して増えません。また、死刑制度があっても殺人等の犯罪はなくなりません。大きく考えれば、他の刑罰も無駄です。 死刑などの代わりに、福祉や教育や医療等々の方法を導入して、犯罪をなくすべきです。アメリカやイギリスでは既にそうした運動が台頭している、と聞いています。
 日本こそ、戦争(憲法9条)の完全実施とともに、思い切って刑罰の廃止に踏み切るべきです。そうして完全なる社会福祉の国になるべきである、と思います。 完全なる社会福祉の国では、殺人もその他の犯罪も激減して、刑罰の必要は完全になくなるでしょう。日本国憲法31条と36条をさらに大改正すべきだと考えています。 (田畑忍=同志社大学名誉教授 滋賀県・草津キリスト教会会員)
死刑についての私の一言=本田哲郎 いったい誰が人の死を要求できるのか。個人であろうと組織や制度の上に立つ権威であろうと、人の命を断つことは許されない。 人と人とが詫び合い許し合ってともに生かされてこそ、明日に期待することができる。個人やグループによる殺人が許しがたい犯罪であるのと同じく、国家権力による殺人も認めてはならない。 命あってこそ罪を悔い、詫びることも償うこともできるのである。死は決して償いにはならない。責任を取って腹を切るというのも、責任を追及して命を奪うというのも、どちらもおかしなはなしである。 結果的には純然たる責任放棄ではないか。犯した罪は死をもって償うことをいさぎよりとえうる日本人の未成熟な発想がわざわいしているのかもしれない。 これも裁判が公正に行われたものと過程しての話である。昨今、次から次に免罪の事実が明るみに出ることを思えば、死刑制度は直ちに廃止すべきである。 (本田哲郎=カトリック司祭)
死刑についての私の一言=免田栄 私は昭和24年1月から昭和58年まで死刑囚として獄中に居り、生か死か、真実か否かの問題で闘い、34年の歳月を経て社会に帰り、自分の生涯の経験から、人間の裁きが神の裁きに等しいか否かを思考した上で、人間の裁きが完全でないことを悟り、死刑廃止運動に投じたいと志している者です。
 私とキリスト教の関係は昭和26,7年頃から開始されています。強盗殺人という罪を一方的に負わされまして、3年ほどの裁判で死刑が確定して死線をさまよい狂苦している時、カナダ人で教誨師として毎週来られていたテロリという神父さんから、死刑確定者に再審という手続きがあることを教わりまして、それから発奮しまして司法を相手に闘い、昭和58年7月15日に無罪を勝ち得ました。
 この間に7回最高裁まで上告して7,80人の裁判官に接し、個人的に言って私の訴えを認めた裁判官は2名です。
 この間に約70名の死刑囚が処刑されていますが、その中に免罪を訴えていた者が5,6名おり、確定判決に不服を訴えていた者が20名ほどいます。 人間の裁判は完全でないし、また完全を怠る裁判官が多くいます。
 多くに方が死刑という問題に感心をもたれ、廃止に努力されていることに心から御礼申し上げます。皆さんのこの姿を無実で処刑された者その他の方々がどんなに喜んでいるか分かりません。
 死刑の問題は被害者問題もかかわって難しくありますが、犯罪も戦争も被造者の弱さから起こる問題です。自分の体験から、死刑は再考される時代が来ていると思います。 (免田栄=元死刑囚)
時代遅れだけでない日本の死刑制度=ホセ・ヨンパルト 後藤田法務大臣は、就任の記者会見で死刑について「法に即して執行する必要がある」と述べたようである。 「殺したのだから、殺されるべきだ」という。死刑存置論者の考え方は非常に古い。人類初の殺人を犯したカインは、「わたしに出合うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言った。 しかし、主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ7倍の復讐を受けるであろう」。
 むろん、その後のモーゼの律法などに、死刑制度があったのは事実である。これは神さまが突然考えを変えたのではなく、当時の社会においては、死刑はどうしても必要だっっらからであろう。 カトリック教会では、死刑についての公式な教えはないが、私の近いでは、死刑制度はいかなる社会、いかなる時代でも常にいけないものとは言えないと思う。 ただ。「人を殺すなかれ」という聖書にある神の掟に対して、死刑のような例外を認めるには、それを正当化するだけの明白な理由が必要である。 そのはっきりした理由がない限り、やはり死刑は神の掟に反すると同時に、殺人でもあると言うべきであろう。
 1992年、マス・メディアでも注目された全世界のカトリックのためのカテキスム(公教要理)が発行された。カトリック信者が、当然このカテキスムに書かれたすべてのことを信じなければならないわけではないが、 ここでは一見すると、「非常に重い犯罪」を犯した場合は死刑が認められるような表現がある。だが、この部分の前後関係を見逃してはならない。 なるほど、もし正当防衛という理由から死刑制度がまだ必要だとすれば、この制度は正当化されるであろう。さて、これではこの理由が、現在の日本に該当するかを考えてみよう。 今の日本で、死刑は正当防衛として必要だろうか。問題はこれだ。1993年現在、日本には57名程の死刑囚がいるらしいが、この57名の命を奪うことが正当防衛に当たるのだろうか。
 法務大臣は「法に即して執行する必要がある」と言うが、果たしてそうだろうか。日本の死刑に関する法律が正しいとされても、私は法学者の立場からそれを否定したい。その証明はそれ程難しいことではない。
 先ず第一に、裁判官が被告人を死刑にしない限り、死刑は執行されない。そして日本の実定法では、裁判官が「法に即して」死刑判決を言い渡すよう拘束される場合は、唯一、外患誘致罪(刑法81条)だけなのである。 だが、今までこのような犯罪が行われたことはなく、今後も起こる可能性はなさそうである。つまり、他のすべての場合、裁判官は自らの良心に従って、死刑か無期懲役かを選ぶことができるわけである。 実定法(憲法)は、裁判官は自らの良心に従うべきとは言っているが、必ず死刑にしろとは言っていない。だから、すべての裁判官が「殺したのだから殺されるべき」という考え方を変えるとしたら、実定法を変えなくても、死刑執行はゼロになる可能性がある。
 第二の問題点は、現役の法務大臣が死刑執行命令を下すという点である。3年程前から死刑が全く執行されないという事態が起こってきらが、これに対して、法務大臣(または法務省)が怠慢ではないかという声が時々聞かれる。 しかし、この法務大臣が十代な仕事がけっして「法に即して」行なわれてこなかった事実は、戦後の死刑執行者数の年度統計を見ればすぐ分かる。 執行ゼロの年もあれば(1964,68)、死刑執行大好きの法務大臣が就任すると、絞首台はラッシュ・アワー並みになる。例えば、1957年、60年は何と各39人にも上り、その後は──2回ゼロになり(前述)──1970年、75年は各17人が処刑されている。
 日本国民が国家権力に任せた、この人命を奪うという責任ある仕事に、なぜこのようなアンバランスがあるのか。答えは簡単。 良く言えば、死刑執行は法務大臣(とその顧問たち)の自由裁量に任せられているから、悪く言えば、恣意に任せられているからである。
 このことを考えると、3年前から各法務大臣が執行命令にハンコを押さないようになったことは、賢明なことであり、高く評価しべきであろう。 むろん、今、この瞬間にも法務大臣がハンコを押す可能性はあり、この不安は死刑制度が廃止されない限り、ずっと続くのである……。 (カトリック司祭、上智大学法学部教員)(『死刑廃止とキリスト教』から)
<ストックホルム宣言> アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中近東、南北アメリカおよびカリブ地域からの200名以上の代表と参加者からなる死刑廃止のためのストックホルム会議は
 死刑がこの上もなく残酷、非人道的かつ屈辱的な刑であり、生きる権利を侵すものであることを想起し
 死刑が反対派、人権、民族、宗教およびしいたげられた諸集団に対する抑圧の手段としてしばしば行使され
 死刑の執行が暴力行為であり、暴力は暴力を誘発しがちであり、
 死刑を科し、それを執行することは、その過程にかかわるすべての者の人間性を傷つけており、
 死刑が特別な抑止効果をもつことはこれまで証明されたことはなく、
 死刑がますます、説明不能な失踪、超法規的な処刑、および政治的な殺人の形をとりつつあり、
 死刑執行が取り返しがつかず、しかも無実の人に科されることがありうることを考慮し
自国の管轄内にあるすべての人の生命を例外なく保護することが、国家の義務であり、
政治的強制を目的とする死刑執行は、政府機関によるものであれ、他のものによるものであれ、等しく容認されず
死刑の廃止がこれまで宣言された国際基準の達成によって不可欠のものであることを確認し
死刑に対して全面的かつ無条件ぬ反対すること
いかなる形にせよ、政府によりおかされた、あるいは黙認されたすべての死刑執行を非難すること
死刑の世界的規模での廃止のために活動すると誓約することを宣言し
国内的および国際的な非政府系機関に対して、死刑の廃止という目的に資する情報資料を人々に提供するため、集団的および個別的に活動すること
すべての政府に対して、死刑の即時・全面的な廃止を実現すること
国際連合に対して、死刑が国際法宇藩であると明白に宣言することを要求する
    1977年12月11日  アムネスティ・インターナショナル 死刑廃止のためのストックホルム会議 (『死刑廃止とキリスト教』から)
<死刑廃止にむけての市民的および政治的権利に関する国際規約第二選択議定書>(1989年12月15日)
 本議定書の締結国は、
 死刑の廃止が人間の尊厳の高揚と人権の一層の増進に寄与すると堅く信じ、
 1948年12月10日の採択された世界人権宣言第3条および1966年12月16日に採択された市民的および政治的権利に関する国際規約第6条を想い起こし、
 市民的および成自邸権利に関する国債規約第6条が、死刑の廃止が望ましいことを強力に勧めて死刑廃止に言及していることに留意し、
 死刑廃止のためのあらゆる措置は、生命に対する権利の享受の進展であると考えられるべきであると確信し、
 ここに死刑廃止にむけての国際的な誓約を行うことを求め、
 次の通り協定した。
第1条 1 本選択議定書の締結国の締約国の管轄下にある者は、何人も処刑されるっことはない。
2 各締約国は、その管轄下において死刑廃止のためのあらゆる必要な措置を講じなければならない。
第2条 1 批准または加入の際になされた、戦時に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決に従い、戦時に死刑を適用する規定に関する留保を除き、本選択議定書に対しいかなる留保も付することも許されない。
2 かかる留保を付そうとする締約国は、批准または加入の際に、戦時に適用される国内法の関連する規定を国際連合事務総長に通報するものとする。
3 かかる留保を付そうとする締約国は、その領域における戦争状態の開始、または終了を国際連合事務総長に通告するものとする。
第3条 本選択議定書の締約国は、本議定書の実施のために講じることとした措置に関する情報を、規約第40条の規定に従って人権委員会に提出する報告書に記入しなければならない。
第4条 規約第41条の宣言を行った規約の締約国に関しては、当該締約国が批准または加入の際に自国につき認めない旨の宣言を行わない限り、この規約に基づく義務を他の締約国が履行していない旨を主張するいずれかの締約国からの通報を人権委員会が受理しかつ審議する権限は、本議定書の規定に及ぶものとする。
第5条 1966年12月16日に採択された市民的および政治的権利に関する国際規約についての(第1)選択議定書の締約国に関しては、当該締約国が本議定書の批准または加入の際に自国につき認めない旨の宣言を行わない限り、その管轄下にある個人からの通報を人権委員会が受理しかつ審議する権限は、本議定書の規定に及ぶものとする。
第6条 1 本義低所の規定は、規約の追加条文とみなされ、かつ適用されるものとする。
2 本義低所第2条に定める留保の可能性を辛亥しない限り、本議定書第1条第1項で保証される権利は、規約第4条による例外によって侵されることはないものとする。
第7条 1 本議定書は、規約に署名したすべての国による署名のために開放される。
2 本議定書は、規約を批准しまたは規約に署名したすべての国により批准されなければならない。批准書は、国際連合事務総長に寄託するものとする。
3 本議定書は、規約を批准しまたは規約に加入した国による加入のために開放される。
4 加入は、国際連合事務総長に加入書を寄託することによって効力を生じる。
5 国際連合事務総長は、本議定書に署名しまたは加入したすべての国に対し、批准書または加入書の寄託を通知する。
第8条 1 本議定書は、10番目の批准書または加入書が国際連合事務総長に寄託された日の3ヶ月後に効力を生じる。
2 10番目の批准書または加入書の寄託後に本議定書を批准しまたは加入書が寄託された日の3ヶ月後に効力を生じる。
第9条 本議定書の規定は、いかなる制限または例外もなしに、連邦国家のすべての地域について適用する。
第10条 国際連合事務総長は、規約第48条第1項に掲げるすべての国に次の事項を通報するものとする。
(a) 本議定書第2条による留保、通報および通告
(b) 本議定書第4条または第5条による宣言
(c) 本議定書第7条による署名、批准および加入
(d) 本議定書第8条による本議定書の効力発生の日
第11条 1 本議定書は、アラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語およびスペイン語による本文をひとしく正文とし、国際連合に寄託される。
2 国際連合事務総長は、本議定書の認証謄本を規約第48条に掲げるすべての国に送付する。
[註]本議定書は通称「死刑廃止条約」と呼ばれている。 (『死刑廃止とキリスト教』から)
*                      *                      *
<アムネスティは、なぜ死刑廃止を求めているのですか?> 世界人権宣言の前文には、「人間社会のすべての構成員が生まれながらもっている尊厳と、平等で譲ことのできない権利を認めることは、世界における自由、正義そして平和の基礎である」と書かれており、 また第3条には「人は皆、生命、自由および身体の安全を守る権利を持つ」、第5条にな「人はだれも、拷問を受けたり、残酷で人道に反する、あるいは品位を傷つける待遇や刑罰を受けたりすることはない」 (訳文はすべて、アムネスティ・インターナショナル日本支部編『はじめてよむ世界人権宣言』<小学館>より)と明記されています。
 ここでいう人権とは、行いの良い人には政府から与えられ、悪い人の場合は取り上げられるようなものではなく、誰でも分けへだてなく生まれながらに所有するものなのです。 この「人権」の前では国家といえども、1人の人間に対して何をしてもよいというものではなく、さまざまな制約を受けます。
たとえば、罪を犯した人に対して国家が一定の処刑を科すこと、その人が罪に応じた処罰を受けることは一般的によしとされています。 罰金を支払って罪を償う(財産刑)、刑務所のなかで自由を制約される(自由刑)など、裁判の結果に不満かどうかはさておき、広く合意されている処罰だと思われます。
 では、みずから命を奪われる死刑(生命刑)はどうでしょうか。人としての権利のうち、財産や自由を刑罰によって制限されることはあったとしても、「基本的人権の原点である生命権」は何人も侵すことのできない権利です。 思想信条の自由や財産所有の権利など、すべての権利はこの生命権の上に築かれています。したがって、その原点である命を奪うことは誰にもできないのです。 そのできないことをしてしまった殺人事件の犯人には厳しい罰が与えられることになりますが、たとえ国家であったとしても犯人の命を奪う権利はありません。それが人権なのです。
 そもそも、「人を殺してはいけない」というルールを守るために、その罪を犯した人間に国家が「死刑」という殺人を行うのは矛盾しています。 たとえ凶悪といわれる罪を犯した人であっても、「人の命は尊く誰も命を奪ってはならない」と国が率先して主張しなければなりません。 「人の命は尊いのだ、どんな罪を犯した人の命も尊いのだ」という意識を拡げることが、今大切なのです。暴力は新たな暴力を呼ぶ、憎しみは憎しみを呼ぶ、というこの悪循環を断ち切る必要があるのです。
 これまで各設問で見てきたようの、「死刑」という刑罰は、一般に考えられている以上に多くの問題点をかかえている制度です。「死刑」は、人の命を国家権力が奪うという重大なことですから、一点のミスも許されません。 しかし、ミスのない「死刑」などというものがあるでしょうか。
 まず、裁判は裁判官・検事・弁護士という人間が行うものです。人間のやることに「絶対」はありません。これまでの記録から見ても、一審で無罪、二審・三審で死刑判決を受けた人がいます。 また、死刑と無期懲役の間で判決が揺れ動いた例もありました。人間の下す判決であるがゆえに「絶対」はないと考えれば、「絶対的な人の命」を誰も奪ってはならないのです。 また、死刑が執行され、その後真犯人が現れたとしたら取り返しがつきません。無実の人が法の名の下に殺されてしまうほどひどい不正義はありません。死刑制度があるかぎり、誤判による処刑の可能性は否定できないのです。
 さらには、人種的・民族的・宗教的な違いや対立などを理由に死刑制度が政治的な弾圧の手段として使われる場合もあります。
 アムネスティは、以上のようなさまざまな理由から、例外なくすべての死刑に反対しており、1977年にアムネスティが採択した「ストックホルム宣言」にもとづいて行動しています。 (『知ってますか?死刑と人権』から)
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<死刑廃止を推進する議員連盟設立趣意書> 今や世界は死刑廃止の流れの中にあります。既に90ヶ国が法律上または事実上死刑を廃止しており、先進民主主義国にあっては、唯一、日本と米国の36州のみが、依然として死刑を存置している状況となっています。 国連では既に2年前に死刑廃止条約が発効しており、日本も国際社会の1員としてこれを批准することが求められており、昨年11月には国連規約人権委員会が日本国に対して死刑廃止に向けて努力するよう勧告しています。
 日本にあっては、昨年、約3年4ヶ月間の死刑執行停止状態を破って、7名という近年まれにみる大量の執行が行われ、これを契機として国民の死刑制度に対する関心はにわかに高まり、いくつかの地方自治体では死刑廃止の決議がなされるに至っています。
 日本は正に死刑を廃止するか否かの重大な転換点にあるます。廃止国の多くでは、死刑の存置を支持する多数の世論に抗して議会が主導すて死刑の廃止を実現してきました。その歴史に鑑みますと、今や私たち議員の1人1人が、死刑制度について考え、決断することを求められています。
 死刑制度を廃止すべきか否か、そのために一定期間執行を停止すべきか否か、そして廃止に伴って新たな刑を導入すべきか否か等々、議員が国民に指針を示して議論をたたかわすべき時期にきています。 そのためには、先ず死刑制度を廃止することに関心のある議員が集まり、互いに意見を交換し、思索をめぐらすことが肝要です。
 そこで、超党派の議員により、死刑阿世度について議論し考察する場として、また国会において死刑制度を推進する母体として死刑廃止を推進する議員連盟の設立を提唱させていただくことになりました。
 私たちは、過去5度にわたって行われた議員の先輩諸氏の背刑廃止への試みを踏まえて、6度目の挑戦にとりかかりたいと考えています。
 右の趣旨を御理解いただき、多数の議員の方々の御参加をお願い申し上げます。
  平成6年4月6日
 死刑廃止を推進する議員連盟 設立発起人
  田村元、栗橋喬、猪熊重二、海江田万里、笹川尭、佐藤恵、志賀節、竹村泰子、田沢智治、高市早苗、田英夫、中野寛成、錦織淳、橋本敦、早川勝、二見伸明、正森成二
(『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』から)
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<死刑執行停止法の制定を──日本弁護士連合会> 日本弁護士連合会(以下「日弁連」という)は、2002年11月22日、理事会において「死刑制度問題に関する提言」を全会一致で採択した。 その内容は、「死刑制度の存廃につき国民的議論を尽くし、また背刑制度に関する改善を行うまでの一定期間、死刑確定者に対する死刑の執行を停止する旨の時限立法(死刑執行停止法)の制定」を提唱するとともに、 死刑に関する刑事司法制度の改善、犯罪被害者・遺族に対する支援、被害回復、権利の確立などの取り組みを推進していく、というものであった。
 なぜ、日弁連は死刑執行停止法の制定を求めたか。そては何よりもまず、死刑判決にも誤判があることが明らかになったことである。 1983年からわずか6年の間に、4人の死刑確定者が再審で無罪確定によって死刑台から生還したことは、決して忘れてはならない事実である。 そしてわが国の裁判ではその後も冤罪が続いていたが、2005年4月4日には、名古屋高等裁判所が、33年前に死刑が確定した名張事件の奥西勝氏に対して再審を開始するに至った。 また、わが国の死刑制度は、正規に直面する者に対する権利保障が不十分で、誤判防止のための制度も欠如し、死刑の適用基準も不明確であって、さらに死刑確定者の処遇が非人道的であるなど、制度上、運用上に基本的な人権問題をかかえている。 日弁連は、かかる状況下において、死刑の執行はもはや許されないと考えるに至ったのである。
 死刑をめるる国際的潮流はどうなっているか。国連は1989年に死刑廃止条約を採択したが、それにより今日、死刑存置国75か国に対して、法律上ないし事実上の死刑廃止国は121か国・地域となっている(2005年9月現在)。 いわゆる先進国で死刑を存置しているのは、わが国とアメリカだけである。そのアメリカでも、12州とコロンビア特別区が死刑を廃止しているほか、現在、上下院の連邦議会に死刑執行停止法案が上程されて審議中であり、ABA(アメリカ法曹協会)は1997年に死刑執行停止を決議した。 そしてイリノイ州では2003年1月、拷問によって強制された自白が有罪の根拠となっていたとして4人の死刑確定者を特赦し、残りの167人を一括減刑するに至った。 アジアでも、カンボジア、東チモール、ブータンが死刑を廃止しているほか、韓国でも1998年以来、死刑の執行が停止され、国会において死刑廃止法案が審議されている。 今や死刑廃止、執行停止は世界的な流れになっていると言ってよい。これらの背景には、死刑問題というのは国家の刑罰制度の問題である以上に、人権と民主主義社会のあり方に関する基本問題であるという思想が横たわっている。
 わが国における運用はどうなされているか。国連の死刑廃止条約の採択や4大死刑再審無罪事件等の影響で、1989年11月から3年4か月間、事実上死刑の執行が停止された時期があったが、それ以後は、毎年、多い時で7人、少ない時で1人という形で死刑執行が継続されている。
 そうした中で、日弁連は、死刑という最も重いテーマを、日弁連最大の行事の1つである第47回人権擁護大会のシンポジウムで取り上げる決断をした。 私たち実行委員会は、これを受けて精力的な取り組みを展開してきた。本報告書に盛られているようなさまざまな内容の調査研究はもとより、全国9か所(札幌、仙台、埼玉、東京、名古屋、大阪、広島、松山、福岡)のおいてプレシンポジウムを開催し、多くの弁護士、市民とともにさまざまな角度から死刑問題を深めてきた。 その過程で「死刑廃止を推進する議員連盟」との連携も強めてきた。同連盟はは時化制度に関する法律案を国会へ提出すべく準備中である。
 死刑制度の存廃問題をめぐっては、その性質上、日弁連の内外において厳しい対立意見が存在していることは否めないが、最も大切なことは、1人でも多くの人がこの問題に真正面から向き合い、死刑執行停止状態の中で、活発かつ真摯な議論を重ねていくことであると確信してやまない。
 日本弁護士連合会が、死刑執行停止法の制定を提言するに至った経緯を、広く弁護士のみならず、学者・研究者、さらには一般市民に対して紹介しようとの意図のもとに本書の出版の企画が進められた。 本書は、シンポジウムにおける基調報告書をベースとして、死刑制度に関する基本的問題点を読者の方々に提示すること、および専門家や実務家の方々には、研究や刑事弁護実務に役立つ資料を提供することを目的としたものであり、本書が広く活用され、死刑制度問題に関する活発な議論が巻き起こることを切望するものである。
  日本弁護士連合会第47回人権擁護大会 シンポジウム第3分科会実行委員会 委員長 寺井一弘
(『死刑執行停止を求める』はじめに から)
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止とキリスト教』               死刑廃止キリスト者連絡会編 新教出版社    1994. 1.25
『知ってますか?死刑と人権』一問一答  アムネスティ・インターナショナル日本支部 解放出版社    1999.12.10
『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』  年報・死刑廃止編集委員会編 インパクト出版会 1996. 5.10
『死刑執行停止を求める』                   日本弁護士連合会編 日本評論社    2005.12.25
( 2007年4月23日 TANAKA1942b )
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(6)人の生命は、全地球よりも重いか
残酷な死刑は廃止したい、という感情論

 今週は、日本評論社から出版された『死刑廃止を求める』からの引用を紹介します。この本には多くの人の主張が掲載されている。 その中から興味を引いたものをここに紹介しよう。
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<死刑はやはり廃止した方がよい=佐伯千仭 現在わが国において死刑の存続を肯定する側の理論的な代表者としては、まず畏友竹田直平博士の名をあげるべきであろう。 博士によると、苟(いやしく)も一国の立法が、人命の尊厳と平等を保全しようとする以上、それは当然に、「私はあなたを殺さないことを約束する。 若しこの約束に違反してあなたを不法に殺すことがあれば私の生命を提供する」という社会契約を土台とし前提としなければならない。 しかるに、死刑の廃止を主張する人達は、「私はあなたを殺さないことを一応約束する。しかし、この約束に違反して、恣意的にあなたを殺すことがあっても、あなた達は、私を殺さないことを約束せよ」と要求していることになるのであって、全く筋が通らないといわれるのである (『刑法と近代法秩序』289頁以下、とくに319頁)。まことに説得的で、博士と同じ社会契約説の立場に立てば、これを論破することは難しい。
 それでは、死刑という問題は、殺人という犯罪がなくならない限り、なくなる見込みは全然ないのかというと、そうでもないのである。 今日すでに多くの国で刑罰としての死刑が廃止されているし、とくに1988年12月15日に国連総会で採択された第2選択議定書──正確には「市民的および政治的権利に関する国際規約(1966年12月6日、わが国は1979年に批准)の死刑の廃止を目的とする第2選択議定書── は多くの国によって批准されすでに発効しているのであって、現にわが国もその批准を求められているのである。国連までまったく筋の通らぬ矛盾をおかしているといってすますわけにはいくまい。問題は、もう少し別の角度から考えてみる必要があるように思われる。
 まず、前述の竹田説では、現に裁判の結果死刑に処せられる被告人が、そのような死刑にあたる犯罪を犯し有罪であることが間違いなく真実であると証明されていることが前提になっている。 ところで、有罪の証明とは、裁判官が証拠に照らして被告人が被害者を殺したに相違なく、その点について合理的な疑問を入れる余地がないと確信するということである。 しかし、その裁判もしょせん有限な人間による判断であるから、裁判官自身は疑いの余地がなく、有罪と信じて判決を下したとしても、時にはそれが間違っていることもある。 竹田博士もこのことを否定はされないけれども、ただそんなことはきわめて稀は例外中の例外であるから仕方がないとされるようであるが(前掲書325頁)、これはいかがなものであろうか。
 この誤判の問題は、死刑以外の懲役刑や禁固刑等の自由刑や罰金、科料等の財産刑の言渡についても生じ得る。しかし、それらの場合には、誤判とわかったところで、自由刑では前の有罪判決を取り消して受刑者の身柄を釈放して再び自由の身に立ちかえらせ、あるいは納めさせた罰金等を戻してやれば、何とか一応の取り返しがつく。 しかし死刑の場合には、いったん執行されれば、再び生き返らせることは不可能で絶対に取り返しがつかないのである。間違った、すまなかったといくら詫びたところで、処刑された人は生き返ってこない。 そんなことは滅多にない、まったく例外中の例外だし、秩序維持のためにはそれも止むを得ない犠牲として諦めろと突き離せる問題ではない。 竹田博士の死刑肯定論は、理論的にはまことに一貫しているけれども、この誤った裁判による不当な死刑の執行があり得るということに対しては少し冷たすぎるように思われる。(中略)
 天地自然の運行、あるいは神仏、全能者の摂理である因果応報には、このような間違いは有り得ないであろう。しかし、有限な人間の営みである刑事裁判──正確には警察や検察官の犯罪捜査、訴追から裁判官による刑事裁判の全過程を通じて──では、それにあたる人間達が主観的にはどのように誠実かつ勤勉であろうとも、このような誤判の発生する危険が至るところに孕まれている。 誤判など滅多にない例外中の例外だからやむを得ないものだといって黙殺し去るわけにはまいらないのである。むしろ人間は、人間としての有限性を自覚しその営みについて謙虚であるべきである。 絶対者あるいは神仏の摂理に属する「応報」の道理を人間が自らとり行うなどと思い上がるべきではない。誤りを犯しがちなわれわれ人間にはそんな資格はない。 それができると思うのは人間の思い上がりであるというのが、私の考えである。(中略)
 死刑制度の廃止に反対する人達は、自分自身はそんな死刑になるような犯罪など決して犯さないという固い信念の持ち主であろう。しかし、さきに引き合いに出した免田事件その他の再審で無罪になった人達も、事件に巻き込まれ刑事被告人にされるまでは、同じように自分は決して死刑になるような犯罪は犯さないし、そんな嫌疑を受けるようなこともないと信じていた人々である。 この人達は幸い再審で助かったが、そのように助からないで誤って死刑を執行されてしまった人が何人もいることであろう。同じような目に会わないという保障は誰にもないのである。
 このように間違えば取り返しのつかぬことになる死刑だけは、法の定める刑罰のリストから取り外しておくべきではあるまいか。
 [『死刑廃止を求める』・佐伯千仭(さえき・せんじん/立命館大学名誉教授)『死刑はやはり廃止した方がよい』から]
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<生命の尊重と死刑は両立するか=名和鐵郎> 「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」。この言葉は、死刑の合憲性に関するリーディング・ケースとされる1948年の最高裁判決(最大判23年3月12日刑集2巻3号191頁)のなかで用いられたものである。 これを文字通りに解釈すれば、生命は無類の絶対的価値を有するから死刑制度も廃止すべきことになるはずであるが、結論的にはこの判決は死刑を合憲として死刑を容認している。 この判決には論理的な矛盾があることは明らかであるが、連続殺人・強盗殺人・強姦殺人・誘拐殺人など悪質な犯罪に直面する場合には、犯人の生命を尊重すべきか、死刑にすべきかという選択はたいへん困難な決断であろう。 それでは、今日における内外の動向に照らして、生命の尊重という理念と死刑制度とは両立し得るのであろうか。
 この点について、死刑を肯定する立場からは、生命の尊重といっても、他人の生命を奪いながら、その本人に生命だけは尊重されるというのでは、生命尊重の趣旨が一貫せず、被害者やその遺族を含め社会の納得が得られないばかりか、人殺しなどの悪質な犯罪を抑止する観点からも不都合であるといったことが強調される。
 [『死刑廃止を求める』・名和鐵郎(なわ・てつお/静岡大学教授)『生命の尊重と死刑制度』から]
<世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?──変わりやすく、また不完全な世論の数字=園田寿> 89年の総理府世論調査によれば、死刑存置66.5%、廃止は15.7%である。廃止は確かに少数であるが、調査における設問の内容的問題を含めて、国民が犯罪状況についてどの程度の知識をもって回答しているかが問われるべきである。 たとえば、殺罪と強盗によって命を落とす人は年間数百人であるが、実際の死刑判決は年間数件であること、犯罪の総量は史上最高であるが、大半は窃盗と交通関係業過であり、殺人等の凶悪犯は減少傾向にあること、日本は先進国の中でも治安が極めて良好であるにもかかわらず死刑を存置している数少ない国の1つであり、世界から強く死刑の廃止を求められていることなど。 このような情報は国民一般にはほとんど伝わっていないと思われる。与えられる情報量によって、世論の数字は劇的に変化する可能性がある。
 刑罰制度が国民の支持を得ているこのは、刑罰の最も重要な条件の1つである。しかし、国民の多数が支持しているからといって、その刑罰制度が常に正しいとは限らない。かつてフランスが死刑を廃止した時(81年)には、存置62%、廃止33%であった。 変わりやすく、また不完全な世論の数字に、死刑存廃の議論は依拠すべきではないと思う。
 [『死刑廃止を求める』・園田寿(そのだ・ひさし/関西大学)『変わりやすく、また不完全な世論の数字』から]
<世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?──生命の剥奪を国民の多数意志によって決することは許されない=三島聡> 国民の多数が死刑存置を支持しているからという理由で死刑制度を維持することは、一見民主的なようにみえる。 だが、本当にそうだろうか。国家が一部の国民ではなくすべての国民の利益のために存在すること、そして国民ひとりひとりの持つ利益が国政の上で最大限尊重されなければならないということが民主主義国家の大前提である。 そうだとすれば、生命はその人の生存の基礎であり、すべての生活利益の根源であるから、民主主義国家はこれをすべてに先んじて保護すべき任務を負っているはずである。 したがって、民主主義を標榜する国家が国民の生命を剥奪する権限を持つというのは、この任務に矛盾するといわざるを得ない。そしてこのことは、国民の多数が死刑の存置を望んでいるか否かに左右されるものではない。 なぜなら、世論によって死刑制度の存否を決することは、生命の存続・剥奪を多数決によって決めることを意味し、これは先の前提に真っ向から反するからである。 もちろん、死刑の廃止にあたっては、十分な情報提供を行って、多くの国民の支持が得られるようのするのが望ましい。しかし、その努力が未だ不十分だからといって、死刑を存置すべきだという理屈にはならない。
 [『死刑廃止を求める』・三島聡(みしま・さとし/一橋大学)『生命の剥奪を国民の多数意志によって決することは許されない』から]
<死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない=白取裕司> 1981年のフランスの死刑廃止法は、わずか1箇条「死刑を廃止する」と規定するのみで代替刑や刑の均衡を図るための条項はなかった。 私が聞いたポワチェ大学(フランス)の刑法の講義では、死刑廃止法をこのようなシンプルなものにしたのは司法大臣パダンテール(当時)の卓見で、おかげで代替刑などの余計な議論を避けるころができた、と説明されていた。
 しかし、死刑復活論者からの攻撃は予想以上に強かった。1986年9月9日法律は、拷問を伴う殺人、15歳未満の少年や保護を要する者、司法官、陪審員、警官などに対する殺人に最大30年の保安期間(絶対仮釈放されない期間)を付すことを認めた。 さらに昨年12月、日本でも報道されたが、15歳未満の未成年に対し性的暴行などの残虐な行為を伴う殺人を犯した者に「真の終身刑」を創設する刑法一部改正案が成立し、本年3月から施行された。
 ここからが、私の意見である。私は、死刑廃止を主張する側から代替刑を提案する必要はないと考えている。理由は、そもそも一国の政策判断として死刑を存置すべきか否かという問題と、廃止と決定された場合の調整措置の問題とは、議論を混乱させないためにも区別すべきだからである。 日本が仮に死刑を廃止して、その後フランスのようにジリジリ後退を続けることになるか否かは、日本の社会ないし政治の成熟度合い次第といえよう。
 [『死刑廃止を求める』・白取裕司(しらとり・ゆうじ/北海道大学)『死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない』から]
<死刑に代わる刑の在り方や制度の模索・検討を=中川裕夫> 死刑の代替刑については、@仮釈放のない完全な終身刑、A安易な仮釈放は運用の問題として解決されるべきで、現行法の無期懲役・禁固(団藤)、 B絶対的無期刑ではなく、再社会化の希望を確保しつつ、人格の破壊に至らないように、判決確定後最低15年または20年間は仮釈放を認めない仮釈放と連動した無期刑(大原)、 C刑の執行後20年を仮釈放起算日として社会感情が仮釈放を承認されうる必要条件とした特別の無期自由刑(加藤)等の見解があげられる。(中略)
 死刑に代わる刑罰として終身自由刑の導入を考える。恩赦により無期の懲役・禁固への減刑を可能とし、人間の尊重、再社会化・社会復帰を目指して処遇する。 また、犯罪被害者補償法を整備・充実して被害者や遺族の応報感情の緩和・解消や物的・経済的援助を行うべきことをも構想するものである。
 [『死刑廃止を求める』・中川裕夫(なかがわ・さちお/龍谷大学)『死刑に代わる刑の在り方や制度の模索・検討を』から]
<刑罰であることを否定する死刑=西嶋勝彦> 刑罰の究極にあるものは、犯罪者の社会復帰である。犯罪者も変わる。そこに犯罪者処遇の原点がある。釈放を予定されない犯罪者は、刑罰においては背理である。
 死刑は、変化とも、社会復帰とも無縁である。そこにあるのは報復思想のみである。
 戦争犯罪=戦争責任者に対して、最高刑の死刑が用意されることとは次元を異にする。人道に対する罪、残虐な他民族支配に対する国際的制裁として何を用意するのか。 被害の甚大さ、正義の貫徹の観点から、戦争責任者に死を求めるのである。それは刑罰ではない。国債法秩序の回復手段とととして責任、ケジメなのである。革命においても、類似の現象がみられる。
 たしかに社会には極悪犯罪もある。変化を期待することに躊躇を覚える殺人犯もいる。社会復帰のない刑罰、つまり仮釈放なき無期懲役刑を対置することによって死刑を回避することはできる。 それは妥協ではあるが、誤判を考えたときは、この刑罰も許容され得るであろう。(誤判の場合に「社会復帰」が可能となる点において刑罰の範疇に止まりうる)。
 [『死刑廃止を求める』・西嶋勝彦(にしじま・かつひこ/弁護士)『刑罰であることを否定する死刑』から]
<合意が得られる代替刑を=林田丞太> 代替刑を導くためには次の2点が重要と考える。第1に、受刑者を社会生活に適応できるよう改善し、彼らに社会復帰を期待する以上、受刑者に希望を失わせる刑罰であってはならない。 代替刑として説かれる終身刑はこの点から認め難い。第2に、凶悪犯罪の累犯者など改善困難な受刑者が存在するという事実である。
 これらの点を考えると不定期刑を導入すべきであろう。現行法の無期刑は運用上、受刑者の改善度合いにより、その多くは比較的短い期間での仮釈放が認められている。 このことは、無期刑が実質的に不定期刑としての内容をもつことを示している。
 そして不定期刑をとり入れた代替刑を簡略に示すと、無期刑の廃止に伴う次の案となる。
 ・死刑→25年以上の不定期刑。
 ・無期刑→15年以上25年未満の不定期刑。
 [『死刑廃止を求める』・林田丞太(はやしだ・じょうた/神奈川歯科大学)『合意が得られる代替刑を』から]
<終身刑も残酷だ=前野育三> (前略)死刑と無期懲役との落差があまりのも大きいので、死刑廃止時に、仮釈放の可能性のない文字どおりの終身刑で代替すべきだという意見もある。 私は、それには反対である。どんなに前非を悔いても、どんなに社会適応への能力をしっかりと示しても、刑務所から出されることがないというのは、やはり耐えられない残酷である。 受刑者が生きていて、日々その苦悩が観察できるだけに、その残酷さは耐えられないものとな、るであろう。観点を変えれば、殺してしまって、この苦悩を表現する機会さえ奪ってしまい死刑が、一層残酷であるのは、言うまでもない。 犯罪事件に関連して最も気の毒なのは被害者であるが、加害者に残虐刑を科したからといって救えるものでもない。
 [『死刑廃止を求める』・前野育三(まえの・いくぞう/関西学院大学)『終身刑も残酷だ』から]
<終身懲役刑の提唱=宮野彬> 死刑に代わる刑罰として「終身懲役刑」を提唱したい。これによれば、生涯、刑務所暮らしということになる。その実態は、(1) 仮釈放はない。(2) 恩赦の適応はない。 (3) 一生、刑務作業に従事する。(4) 刑務所から出られるのは獄死か自殺か再審による無罪のときのみ、ということで、「絶対的無期懲役刑」と呼んでもよい。 これに対して現行の無期刑は、仮釈放や恩赦などが認められるために、「相対的無期刑」と呼べるような内容のものとなっている。 「人を殺したら死刑になる」という意識に代えて、「人を殺したら一生刑務所から出られない」というのも、かなり犯罪の抑止力になるのではなかろうか。(後略)
 [『死刑廃止を求める』・宮野彬(みやの・あきら/明治学院大学)『終身懲役刑の提唱』から]
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止を求める』 佐伯千仭+団藤重光+平場安治・編著 日本評論社  1994.12.20
( 2007年4月30日 TANAKA1942b )
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(7)法曹界の死刑廃止論を聞いてみよう
誰も銀行強盗事件は予想もしていない
<死刑廃止論のイロイロ=『死刑廃止を求める』から> 先週、取り上げた『死刑廃止を求める』には、「私の死刑廃止論(意見集)」として多くの死刑廃止の意見が掲載されている。 先週取り上げたのはその一部なので、この他にどのような意見があるか、見出しと著者だけを抜き出して引用しよう。一部先週に引用した文章もあるので、それは先週分を参照のこと。
T 死刑廃止を目指して
「死刑はやはり廃止した方がよい」=佐伯千仭(さえき・せんじん/立命館大学名誉教授)  「死刑廃止論の出発点」=団藤重光(だんどう・しげみつ/東京大学名誉教授) 「死刑廃止を目指して──なぜ、今」=平場安治(ひらば・やすはる/京都大学名誉教授)
U 死刑廃止論の現在
「刑罰制度の本質を考える」=山中敬一(やまなか・けいいち/関西大学教授) 「生命の尊重と死刑は両立するか」=名和鐵郎(なわ・てつお/静岡大学教授) 「被害者(遺族)感情=応報=死刑に疑問がある」=高橋則夫(たかはし・のりお/東洋大学助教授) 「科学的証明がない死刑の犯罪抑止効果」=葛野尋之(くずの・ひろゆき/静岡大学助教授) 「死刑の存続は世論で決まる問題か」=平川宗信(ひらかわ・むねのぶ/名古屋大学教授) 「世界では死刑をどう考えているか」=辻本義男(つじもと・よしお/中央学院大学教授) 「誤判の可能性と死刑制度」=大出良知(おおで・よしもと/九州大学教授) 「「三重の残虐性」をもつ死刑の現実」=村井敏邦(むらい・としくに/一橋大学教授) 「死刑廃止論の現状と課題」=内藤謙(ないとう・けん/創価大学教授)
A−Q1 死刑は正義を守るという観点から必要か?
「近代自由刑の「正義」とギロチンの「正義」」=赤池一将(あかいけ・かずまさ/高岡法科大学)  「正義の意味も考えよう」=荒木伸怡(あらき・のぶよし/立教大学)   「正義を守るための刑罰としては、危険で不完全」=石原明(いしはら・あきら/神戸学院大学)  「正義を守るためにこそ死刑は不要である」=井戸田侃(いどた・あきら/大阪国際大学)   「死刑は廃止すべきである」=井上裕司(いのうえ・ゆうじ/名古屋経済大学)  「アルトゥール・カウフマンの批判」=上田健二(うえだ・けんじ/同志社大学)   「加害者と被害者(遺族)との共生」=岡田久美子(おかだ・くみこ/一橋大学)  「同害報復の理論は破綻している」=笠井治(かさい・おさむ/弁護士)   「応報的正義理念だけでは死刑を正当化できない」=島倉隆(しまくら・たかし/中央学院大学)  「死刑によって守られる正義とは?」=真鍋毅(まなべ・たけし/佐賀大学)   「正義の実現としての死刑は許されるか」=平田元(ひらた・はじめ/三重大学)  「人間の本質から正義と死刑を考える」=船山康範(ふなやま・やすのり/日本大学)  
A−Q2 他人の生命を尊重しない者に対しては、死刑によって生命の尊重を知らしめる必要があるか?
「生命への畏敬を否定しつつ生命の尊貴を知らしめようとは矛盾」=大國仁(おおくに・じん/海上保安大学)  「死刑はヒューマニズムに反する」=大嶋一泰(おおしま・かずよし/岩手大学)   「非難の対象そのものの抹殺より生涯かけての贖罪(悪の善用)を!」=恩田紀治(おんだ・のりじ/大阪府立岬高校)  「生命の尊重と死刑」=甲斐克則(かい・かつのり/広島大学)   「生を否定し死を無価値とする死刑制度」=河田英正(かわだ・ひでまさ/弁護士)  「三つの問題」=楠本孝(くすもと・たかし/中央大学比較法学研究所嘱託研究員)   「殺した者は殺されて当然か」=小西吉呂(こにし・よしろ/沖縄大学)  「死刑廃止を主張するということ」=高内寿夫(たかうち・ひさお/白鴎大学)   「死刑は生体の構造を否定する」=都築廣巳(つづき・ひろみ/東京電気大学)  「生命を尊重しない思想からのみ死刑は正当化される」=中村義孝(なかむら・よしたか/立命館大学)   「人間の尊厳を無視する死刑」=松原昌樹(まつばら・まさき/愛知医科大学)  「生命尊重のこころは、教育活動によって得られる」=山岸秀(やまぎし・しげる/立正大学)  
A−Q3 被害者(遺族)の問題をどのように考えるか?
「殺伐とした社会と死刑制度」愛知正博(あいち・まさひろ/中央大学)  「被害者感情は死刑を正当化するか」=安部哲夫(あべ・てつお/北陸大学)   「被害者(遺族)の救済を考えたい」=稲垣清(いながき・きよし/弁護士)  「死刑と被害者感情」=上田信太郎(うえだ・しんたろう/香川大学)   「死刑は被害者感情を癒していない」=菊田幸一(きくた・こういち/明治大学)  「「被害者感情」が可哀想だ」=酒井安行(さかい・やすゆき/国士舘大学)   「被害者(遺族)との連帯のために」=金澤文雄(かなざわ・ふみお/岡山商科大学)  「「仇討ち」を復活しよう」=佐藤直樹(さとう・なおき/福岡県立大学)   「被害者遺族救済の重要性」=佐藤美樹(さとう・みき/宮崎産業経営大学)  「遺族のためにこそ死刑廃止を」=沢登佳人(さわのぼり・よしと/白鴎大学)   「法制度としての刑罰」=城下祐二(しろした・ゆうじ/札幌学院大学)  「物質的・精神的救済が必要」=竹内正(たけうち・ただし/松山大学)   「二つの疑問」=立石雅彦(たていし・まさひこ/京都学園大学)  「現在の死刑制度は被害者感情を満足させるものではない」=立山龍彦(たてやま・たつひこ/東海大学)   「人の生命は、もっと尊い」=野々村路子(ののむら・みちこ/岐阜女子大学)  「死刑と被害者感情」=三井明(みつい・あきら/弁護士)   「被害者危機援護事業の必要性」=山口幸男(やまぐち・さちお/日本福祉大学)  「法そのものの自己矛盾」=鷲尾祐喜義(わしお・ゆきよし/立正大学)  
A−Q4 死刑は凶悪犯罪の予防に役立つか?
「死刑の威嚇力は迷信」=大野真義(おおの・まさよし/摂南大学)  「死刑を廃止しても凶悪犯罪は増加しない」=佐々木養二(ささき・ようじ/東北工業大学)   「「死刑」が削ぎ取る人権意識」=斎藤義房(さいとう・よしふさ/弁護士)  「死刑を廃止すれば凶悪犯罪は増加するのか」=前田忠弘(まえだ・ただひろ/愛媛大学)   「死刑のパラドックス」=増田豊(ますだ・ゆたか/明治大学)  「死刑の威嚇力は、一つの神話」=横山実(よこやま・みのる/国学院大学)  
A−Q5 世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?
「死刑存続は「日本の為政者の方針」」=五十嵐二葉(いがらし・ふたば/弁護士)  「世論の中身は何か」=上口祐(かみぐち・ゆたか/南山大学)   「自己の信念に基づいて廃止決議を」=神山敏雄(かみやま・としお/岡山大学)  「変わりやすく、また不完全な世論の数字」=園田寿(そのだ・ひさし/関西大学)   「世論調査の結果は「市民の意見」か」=田村章雄(たむら・あきお/大学院生)  「主権者の良心に訴える」=福田育子(ふくだ・いくこ/甲南大学)   「世論の前提条件」=松原芳博(まつばら・よしひろ/九州国際大学)  「生命の剥奪を国民の多数意志によって決することは許されない」=三島聡(みしま・さとし/一橋大学)  
B−Q1 死刑は残虐な刑罰ではないのか?
「死刑の執行待ちの苦痛」=秋葉悦子(あきば・えつこ/富山大学)  「「人間の尊厳」を否定し、刑罰の目的を超えた残虐な刑罰」=石橋恕篤(いしばし・ただあつ/富山大学)   「残虐な刑罰であることを正しく認識」=石松竹雄(いしまつ・たけお/弁護士)  「今世紀中に終わらせたい」=覚正豊和(かくしょう・とよかず/明治大学)   「実効性のない刑罰法規」=北原康司(きたはら・やすのり/佐賀女子短期大学)  「「積徳」国家に向けて死刑廃止を」=門田成人(かどた・しげと/島根大学)   「死刑ほど血なまぐさい残虐な刑罰はない」=佐藤多美夫(さとう・たみお/駒沢大学)  「時代とともに変遷する残虐性の基準」=平野泰樹(ひらの・やすき/國學院短期大学)   「憐れみの情」=松生建(まついけ・はじむ/海上保安大学校)  「死刑は本当に合憲か」=吉利用宣(よしとし・もちのぶ/九州工業大学)
B−Q2 誤判の危険があっても死刑制度は許されるのか?
「誤判によってとり返しのつかないものは死刑である」=安里全勝(あさと・ぜんしょう/山梨学院大学)  「絶対的刑罰と相対的人間」=安藤博(あんどう・ひろし/茨城キリスト教大学)   「死刑存廃議論を契機に」=飯尾滋明(いいお・しげあき/松山東雲短期大学)  「刑事弁護の「空白」と一人の「いのち」」=石塚伸一(いしづか・しんいち/北九州大学)   「誤りをなさない人間はいないし、誤判のない裁判はありえない」=大久保哲(おおくぼ・さとし/筑紫女子学園短期大学)  「誤判にもとづく死刑は「生命の尊厳」に反する」=大塚祐史(おおつか・ひろし/海上保安大学)   「再審制度があるにしても、それが絶対的なものとはいえない」=大橋昭夫(おおはし・あきお/弁護士)  「死刑は絶対的回復不可能性を特徴とする刑罰」=川崎一夫(かわさき・かずお/創価大学)   「現実を直視して死刑廃止を」=川崎英明(かわさき・ひであき/東北大学)  「救済回復の道はない」=桑原洋子(くわばら・ようこ/龍谷大学)   「誤判の可能性と被害者・国民感情をどう考えるべきか」=繁田實造(しげた・じつぞう/龍谷大学)  「やり直しがきかない」=下村幸雄(しもむら・さちお/弁護士)   「死刑制度自体が、不要な死刑を創出していないか?」=田淵浩二(たぶち・こうじ/静岡大学)  「誤判の危険は死刑廃止の決定的論拠」=中田直人(なかた・なおと/茨城大学)   「人間の限界を超える死刑の廃止を求める」=長田秀樹(ながた・ひでき/創価大学)  「回復可能性がない死刑」=庭山英雄(にわやま・ひでお/専修大学)   「遺族の感情、死刑こそ残虐」=原田香留夫(はらだ・かおる/弁護士)  「誤判救済と死刑執行」=久岡康成(ひさおか・やすなり/立命館大学)   「死刑廃止は不正義か」=福井厚(ふくい・あつし/法政大学)  「生命刑としての死刑の特異性」=丸山雅夫(まるやま・まさお/南山大学)   「誤判の危険性こそが死刑廃止の理由である」=道谷卓(みちたに・たかし/関西大学)  「免罪を生む構造が未解体のままでの死刑制度は許されない」=三原憲三(みはら・けんぞう/朝日大学)   「制度として許容されるのは、「終身刑」とすべきである」=村上健(むらかみ・たけし/福島大学)  「誤判の危険がある裁判では、死刑制度を廃止する方向で考えるべきだ!」=山内義廣(やまうち・よしひろ/敬愛大学)   「裁判所に誤判の危険を回避しようとする真摯な態度が見られない」=山本正樹(やまもと・まさき/近畿大学)  「誤判と死刑は切り離せるか」=吉弘光男(よしひろ・みつお/かごや経済大学)  
B−Q3 死刑制度の実際の運用をめぐる問題は?
「議論を回避する姿勢」=指宿信(いぶすき・まこと/鹿児島大学)  「否定できない運・不運」=岩井宜子=(いわい・よしこ/専修大学)   「法相の義務とは」=新村繁文(にいむら・しげふみ青森大学)  「名古屋アベック殺人事件の傍聴席からみる死刑制度」=服部郎(はっとり・あきら/愛知学院だいがく)   「死刑制度の運用にも問題あり」=ホセ・ヨンパルト(José  Llompart/上智大学)  「偏見・不公平の介在を避けられない死刑制度」=松岡正章(まつおか・まさのり/甲南大学)   「死刑の「執行を待つ間」の非人間性」=水谷則男(みずたに・のりお/三重短期大学)  
B−Q4 死刑に代わる刑罰は?
「死刑廃止運動の一歩前進のために」=浅田和茂(あさだ・かずしげ/大阪市立大学)  「死刑廃止の実現を求めるなかで、これに代わるべき刑罰の探索は必要か」=上野達彦(うえの・たつひこ/三重大学)   「新に特別に重い無期刑を制度化する必要はない」=斉藤豊治(さいとう・とよじ/甲南大学)  「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」=白取祐司(しらとり・ゆうじ/北海道大学)   「死刑に代わる刑の在り方や制度の検索・検討を」=中川祐夫(なかがわ・さちお/龍谷大学)  「刑罰であることを否定する死刑」=西嶋勝彦(にしじま・かつひこ/弁護士)   「合意が得られる代替刑を」=林田丞太(はやしだ・じょうた/神奈川歯科大学)  「終身懲役刑の提唱」=宮野彬(みやの・あきら/明治学院大学)   「死刑の法的正当性とは何か」=宗岡嗣郎(むねおか・しろう/久留米大学)  「新しい教育系の模索を」=水野益継(みずの・ますつぐ/琉球大学)  
B−Q5 死刑をめぐる国際的動向は?
「死刑廃止への着実な国際的歩み」=非嘉康光(ひが・やすみつ/立正大学)  「司法判断における国際的動向の注視」=山口直也(やまぐち・なおや/一橋大学)  
B−Q6 死刑廃止のとって今後の課題は?
「今や、決断のとき」=足立昌勝(あだち・まさかつ/関東学院大学)  「死刑廃止立法は国民の義務」=生田勝義(いくた・かつよし/立命館大学)   「権利(人権)のための闘争」=大野平吉(おおの・へいきち/専修大学)  「被害者感情をのりこえて死刑廃止を!!」=田中肇(たなか・はじめ/高知短期大学)   「死刑廃止は政治的決断」=寺島健一(てらしま・けんいち/創価大学)  「死刑問題の検討委員会の設置を」=中山研一(なかやま・けんいち/北陸大学)   「刑罰制度の矛盾と死刑廃止」=平澤修(ひらさわ・おさむ/中央学院大学)  「死刑廃止への実現方法」=八木國之(やぎ・くにゆき/中央大学) 「教科書の中の死刑問題」=吉田卓司(よしだ・たかし/西宮市立西宮高等学校)  
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<これだけ多くの人が発言して、銀行強盗事件は思いもつかないらしい> TANAKAの主張は、銀行強盗事件@ABの<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生>のようなことが起こるとしたら、死刑制度は存続させるべきだ、ということだ。 死刑が残虐だとしても、死刑が殺人事件の抑止力になるかならないか、いろんな意見があるとしても、現実に実質的な死刑が行われる現在、法体系として矛盾があってはいけない、ということだ。
 死刑廃止を主張し、それを正当化しようと、目標に向かってまっしぐらに理論を進めた結果、気配り半径が狭くなり、視野狭窄になっているのだろう。 育種学での用語、「雑種強勢」とか「自家不和合性」という言葉をイメージすると、法曹界の閉鎖性が感覚的に理解できる。
 「B−Q4 死刑に代わる刑罰は?」「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」ということは、「とにかく今の制度はよくないから壊してしまえ」との主張になる。 「その後どのような制度になるのかは責任を持たない」ということは「暴力を使ってでも現政府を倒してしまえ。その後、誰がリーダーになろうとも──スターリンでも、ヒットラーでも、フセインでも構わない」。日本ではかつて、日本赤軍とか京浜安保共闘とかいうグループがあった。 今でもその考え方は法曹界の中に生きている。
 「A−Q5 世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?」 ということは、「世論の支持を根拠にしてはいけない」と言いたいのだろう。では何を根拠にするのか? 「われわれ法曹界の専門家は物事を正確に判断できるが、一般人はそうではない。だから多数決原理は採用しない。われわれ専門家が集団を作って、あるいは政党=前衛党を結成して、無知な一般人を指導・教育しなければならない。 そうでなければ<愚衆政治>になってしまう」という主張になってくる。
 TANAKAは、<<デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である ウィンストン・チャ−チル   デモクラシーとは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく,政治的・経済的な個人の自由を保証するための 功利的な制度なのである フリードリッヒ・A・ハイエク>>との考え方を支持し、それが民主制度だと考える。 民主制度では、皆で十分討議し、最終的には多数決で結論を出す、というシステムになっている。その多数決での結論が必ずしも公平でない場合もあるかも知れない。 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても、「稼ぎが悪くて、最低の税金しか払っていない人と、オレのように人の何倍もの税金を払って、日本社会に貢献している人間と同じ一票なのか?」と言っても、選挙では同じ一票。これが民主制度の基本だ。 たとえ「愚衆政治」と非難される可能性があるとしても、隠れコミュニストの描く前衛党が人民を指導する社会 よりも健全だと思う。
 この点に関してもう1つの見方がある。それは「死刑存廃を決めるのは世論ではなく、立法府=国会=国会議員である」ということだ。世論調査で死刑は存続さすべきだとなっても、日本では直接民主主義を採用しているわけではない、国民投票を行うわけではない、国会で刑法を改定すれば死刑廃止はできる。 本当は「国会議員が死刑は存続すべきだ、と考えている」からなのだ。ではなぜ世論調査が問題になるのか?それは、「国会議員は死刑廃止論者と議論をしたくない」からだ。「自分はこのように思う」とは言いたくなく、「世論が死刑廃止を望んでいない」と責任を世論にすり替えていると考えると分かりやすい。 なぜか?答えは「新興宗教の信者と神学論争はしたくない」。
 「死刑執行停止法の制定」という主張がある。これは、「法律を変えずに既成事実を積み重ねて実態を変えよう」ということだ。 日本では、「憲法で軍隊は持てないことになっているので、警察予備隊をつくろう」「反対が余りない。それならこれを保安隊に変えよう」「大丈夫。軍隊ではない、自衛隊をつくろう」 「野党の反対は少ない。自衛隊を海外に派遣しよう」「防衛庁では不満だ。防衛省に昇格しよう」と同じ考え方。
 かつてヒットラーもフランス・イギリス・アメリカの顔色を窺いながら東欧諸国に侵略を始めた。ムッソリーニも関東軍も同じ行動をとった。法曹界の中に同じ行動を取るべきだ、との主張がある。
 「死刑廃止への具体的な道筋」と題された項目はこの本にはない。そこで、TANAKAが廃止論者たちの意見をまとめてみた。
 法務大臣が就任したら「死刑執行命令書にサインしないで欲しい」と訴える。もしサインしそうなら「法務大臣は非人道主義者だ」と非難する。死刑判決が出ても執行されない死刑囚が増える(現在100人を超えた)「実際に死刑は執行されないのだから、死刑判決を出さないように」と世論に訴え、特に民間の裁判員を意識して訴える 裁判で、民間裁判員は死刑判決を出さなくなる「死刑執行停止法」という名の法律を制定し、死刑執行に厳しい条件を付ける「実際に死刑は行われないのだから、法律を現実に近づけて、刑法を改正し、死刑を廃止しよう」と訴える。
 簡単に言えば、「規制事実を積み重ねて、法律を現実に合わせる」こと。 法律というルールよりも既成事実を重視するやり方。これが死刑廃止論者たちの主張を要約した「死刑廃止への具体的な道筋」だ。 こうしたやり方、日本では政治の分野で行われていた。
 憲法9条に次のようにある。
 日本国憲法 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 このように、日本では軍隊を持つことができないことになっている。そこで、「警察予備隊」をつくろう。これなら反対者も少ないだろう。 警察予備隊に対する反対は少なかった。これなら、「保安隊」に名前を替えても野党の反対は国民に支持されないだろう。思った通りだ。これなら一気に、軍隊ではない「自衛隊に変えよう」。 せっかくアジアでも有数な強力な戦力になったのだから、海外へも派兵できるようにしよう。海外でも活動も定着した。これを機会に「防衛庁」から「防衛省」に昇格させよう「国民のみなさん、自衛隊はこのように日本に定着しました。 憲法を現実に合わせて「改正」しましょう」
 日・独・伊の軍指導者たちは先進国の顔色を窺いながら、植民地政策を拡大していった。政府自民党は国民の顔色を窺いながら、憲法9条を既成事実を積み上げて改定しようとする。 死刑廃止論者も、法律を軽視し、既成事実を積み上げて「死刑廃止」を実現しようとする。法曹界の業界人が法律を軽視し、既成事実の積み上げでルールを変えようとしている。
 いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。 法曹界はどうなのだろう?誰も、「法律を軽視し、既成事実の積み重ねで、世論とは違う結果をつくろう」との、いたずらっ子に対して「法律は尊重しなければいけませんよ。たとえ、悪法だと思っていても、国民みんながそれに従っているのだから、法律を守る業界の人間ならなおさら、法律を尊重しなさい。既成事実を積み重ねてルールを変えようなんて姑息な手段はやめなさい」と忠告はしないのだろうか?
 法曹界の専門家であっても、銀行強盗事件を想定することはできない。脇目もふらずに「死刑廃止」を唱えていると、視野が狭くなり、法律家から宗教家になる。専門家以外ではユニークな見方をする人たちがいる。 裁判員制度に関して「陪審員は忠臣蔵をどのように裁くか?」とか、「死刑が廃止されると、必殺仕事人稼業が栄える」とか、「仇討ちが合法化されるとどうなるか?」など、法曹界の匂いのしないところからユニークな発想が生まれている。 規制を緩和して、ロースクールなど止めて、新規参入を促した方がよさそうだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止を求める』 佐伯千仭+団藤重光+平場安治・編著 日本評論社  1994.12.20
( 2007年5月7日 TANAKA1942b )
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(8)殺人犯でなくても、実質的な死刑は必要 
銀行強盗以外のケースを想定する
 TANAKAは「死刑制度は存続させるべきだ」と主張する。その根拠として、銀行強盗の例を挙げた。けれども「このような銀行強盗はめったに起きない。 (このように書いたけれど、2007年5月1日、名古屋で大阪国税局の職員が、とても成功しそうもない銀行強盗を働いた。これを例外として扱う) そうした、めったに起きないことを例に主張するのは説得力がない」と反論するかもしれない。確かに、最近はこうした銀行強盗は起きていない。 金融機関への強盗事件は、@特定郵便局への強盗事件。A現金輸送車への強奪事件。この2つのようだ。そこで、初めに挙げた銀行強盗とは違った例を挙げて、「死刑制度存続論」を主張しようと思う。 ただしこれらはすべてフィクションです。「死刑制度存続」を主張するために考え出した作り話です。
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<小学校乱入殺傷事件@> 2001年6月8日午前10時過ぎ、大阪市の小学校に男(当時37歳)が車で乗り付けて乱入した。 男は包丁を振り回しながら、1・2年生の教室に乱入し、1・2年生の児童8人を包丁で切りつけて死亡させ、児童13人と教員2人に重軽傷を負わせた。
 午前10時半頃、事件を聞いて駆けつけた教諭2人が男を取り押さえ現行犯逮捕し、駆けつけた警察官に男の身柄を引き渡した。
 大阪地検は2001年9月に殺人・殺人未遂・住居侵入・銃刀法違反の容疑で男を起訴。 男は、公判では遺族感情や世論を逆なでするような暴言を繰り返し、反省の弁などを述べることはなかった。 2003年9月、被告人宅間某への死刑判決が確定した。
(T注)これは死刑制度が存続していた時代のできごと。その後、死刑廃止論者の活躍や市民運動の活発化によって死刑が廃止された。
<小学校乱入殺傷事件A> 現在小学校の校門に警備員が立哨しているところが多い。これは小学校に暴漢が乱入して児童・生徒が被害を被った事件が起きたからだ。 小学校が児童・生徒にとって安全な場所ではない、というショッキングな出来事が各地で起きた。ここで取り上げる事件はこうした事件の多発から学校・警察が神経質になっているときに起きた。
 まだ警備員が配置するなどの対策が取られていないときのこと、授業中に男が小学校に入ってきた。先生・生徒があっけにとられて見ているうちに、男は1年生の教室に入ってきた。 先生が「授業中です。出ていって下さい」と言うと、男はいきなり刃物を取り出し、子どもたちに斬りつけてきた。アッという間の出来事で、逃げる間もなく数人が斬りつけられ、血を流し始めていた。 騒ぎを聞きつけて職員室から教師が集まってきた。放っておく訳にはいかない。若い先生が暴漢に飛びかかっていった。倒れながら暴漢は先生を斬りつけた。他の先生も飛びかかって暴漢を取り押さえる。 ここに暴漢は先生たちに逮捕された、しかし、児童3人が死亡し、最初に暴漢に飛びかかって行った若い先生は、暴漢に斬りつけられ救急車で病院に運ばれる途中で息を引き取った。
 死刑制度が廃止されたために、先生たちに逮捕された暴漢に対し、検察は無期懲役を求刑した。世間では、「無期懲役が宣告され、真面目にやっていれば、15年ほどで仮出所になり、最後は畳の上で大往生を遂げるだろう」と噂した。
 教訓 民間人は現行犯逮捕に協力するよりも、兎に角「三十六計逃げるにしかず」をモットーとすべし。こう考えるようになってしまう。
<小学校乱入殺傷事件B> 上記事件があってからしばらく後のこと、別の地方で、同じような事件が起きた。この時は、警察官が小学校を回って、状況調査をしていた。 この学校では、不審な動きは感じられないか?もしもの場合の対策はどうなっているのか?警察への通報体制はできているのか?などを調査に来ていた。 そうした状況の下で事件は起きた。
 今度の暴漢は6年生の教室に入ってきた。刃物を振り回す暴漢に対し先生・生徒は抵抗した。机の上の、文房具、カバン、椅子などを暴漢に向かって投げ始めた。 先生は「危ないから、逃げるように」と指示したが、生徒の抵抗は続いた。騒ぎを聞きつけて、職員室にいた警察官も到着した。そのとき生徒の1人が暴漢に捕まった。警察官が「生徒を放しなさい」と言いながら、空に向かって威嚇射撃をした。 一瞬ひるんだ暴漢だったが、別の生徒を捕まえた。警察官は暴漢の足を狙って拳銃を発射する。足に当たって、暴漢は手を離したが、また別の生徒の腕を掴んだ。 警察官は、これっかぎりと、暴漢を狙って撃つ。ここに日頃の訓練の成果が発揮された。一発で暴漢は倒れた。暴漢は実質的な死刑になった。
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<ストーカー殺人事件@> 1999年10月26日午後12時53分頃、S県O市のJRのO駅前の路上で自宅から乗ってきた自転車に鍵をかけようとしていた女子大生(21才)が、突然男に背中と胸部の2ヵ所を鋭利な刃物で刺された。 通行人らが女子大生を介抱したが即死状態だった。目撃者の証言によると犯人は女子大生を刺した後、ニタっと薄笑いしながら逃走したという。
 この事件は、女子大生とつき合っていた男が、だんだん異常な行動を見せ暴力を振るうなどしたことから、女子大生は別れ話を切り出すが、男は家族に危害を加えるといった脅迫をし交際の続行を強要。 その後も女子大生に対する脅迫・ストーカー行為が続いた。警察署に相談に行ったが、「民事不介入」を理由に、O署は全く取り合わなかった。女子大生とその家族に対する脅迫は続いた。そうした状況での殺人事件であったので、犯人はすぐに特定できて逮捕された。 裁判では犯人が無期懲役になり、見張り役の共犯者は懲役15年の刑が確定した。遺族は警察の怠慢を訴え裁判を起こした。 このS県(S県警)に対する国家賠償請求訴訟の判決で、S地裁は、「捜査怠慢」を認め計550万円の支払いを命じた。
<ストーカー殺人事件A> ストーカー殺人事件後、民間の警備会社にボディーガードを依頼するケースが増えた。このケースでは、ガードマンがほんのちょっと油断した隙に、女子大生がストーカーに刺された。 警備員が大声で「ストーカーだ」と叫び、犯人を追いかける。通行人が気づき犯人に飛びかかった。しかし、犯人は飛びかかった通行人を斬り、さらに逃走する。 しかし、人通りの多い道で、多くの人が犯人を捕まえようと取り囲んだ。犯人はさらに1人を切ったが、多勢に無勢、警備員に逮捕された。
 犯人は女子大生を含め3人を殺害した。この被告人に対する判決は死刑ではなく無期懲役であった。 判決が言い渡されたとき、傍聴席には被告に殺された犠牲者の遺族が涙を流して判決に聞き入っていた。 そして裁判官専用の出入り口から裁判官たちが退廷し始めたその時、 「裁判長!あなたは人殺しの味方なのですか?」という声が法廷中に響いた。罵声だった。裁判官たちが罵声を浴びせられたのであった。
<ストーカー殺人事件B> 上記ストーカー事件と同じような事件が起きた。警備員の「ストーカーだ!」の叫び声に多くの通行人が気づき、犯人を取り囲んだ。 犯人はそれでも通行人の1人を掴んだ。手には刃物を持っている。通報により警察官が到着した。「近寄るな!」犯人の叫びで警察官の動きが取れない。「無駄な抵抗は止めなさい」との警察官の声は無視された。「近寄るな!近寄ると殺すぞ!」。 そのように叫びながら、捕まえた通行人の腹を刃物で刺した。通行人はもがくが逃れられない。警察官は銃を構えているが撃つことはできない。後ろから若い男が犯人に近づいた。「近寄るな!」と叫び、犯人は別の刃物をその若い男に投げた。刃物は足に刺さった。 通行人を捕まえたまま、犯人は車道の方に行く。そこには大型バイクがエンジンかけっぱなしのまま、置かれていた。それで逃げようとするに違いない。 ここで逃したら捕まえられなくなる。その時、通行人は思いきり犯人をけ飛ばし、犯人から逃れた。その時警察官の銃口が火をふいた。 ストーカーは実質的な死刑になった。
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<世田谷一家4人殺人事件@> 警察は事件が起こるまでは、「民事不介入」を理由に、事件を未然に防ぐことはしない、ということがハッキリした。 そこで、ストーカー殺人事件以後に民間の警備会社にガードマンを依頼するケースが増えた。この事件も、民間のガードマンが登場する。
 中堅企業社長宅が正体不明の人間に脅迫され始めた。長女の女子大生がストーカーにつけ回され、嫌がらせ・脅迫電話がかかるようになった。この家では民間の警備会社に夜間、自宅を見張って貰うよう「私邸警備」を依頼した。
 高級住宅街・世田谷区上祖師谷の社長宅の玄関先に警備会社の乗用車を停め、警備員2人が夜間警備に当たることになった。2人の警備員は交代で仮眠し、警戒に当たった。2000年12月30日の夜、警備員Aは社長宅の異変に気づいた。 夜中の11時半頃、あちこちの部屋の電気がついたり、消えたりした。警備員Aは仮眠中の警備員Bを起こして家を調べに行った。正面玄関の鍵は掛かっていたが、裏口・勝手口の鍵は掛かっていない。すぐに車に戻り、警備員Bに「コントロールセンターに連絡するように」と言い、 再び勝手口に向かう。静かに扉を開ける。電気がついている。そっと入ると、居間に人が倒れている。よく見ると血を流して死んでいる。そこに警備員Bも入ってくる。 2人で家の中を調べると、台所に男がいた。見つからないように見ていると、男は冷蔵庫にあったアイスクリーム3個とメロンを手づかみで食べ、ペットボトル2リットルを一気飲みした。
 警備員Bはコントロールセンターに事情を連絡し、110番通報するよう要請した。男が気づいた。警備員Aは大声で「こらー、何者だ!」と怒鳴る。血の付いた出刃包丁を振り回す男に対し、警備員は警戒棒で応戦する。 警備員Bが足を切られた。警備員Aの動きが鈍くなる。そこに連絡を受けた警察官が到着した。「無駄な抵抗はやめろ」との警察官の声に男はひるんだ。そのとき、警備員AとBが飛びかかり男を押さえつけた。しかし、若い警察官が手錠をはめようとした一瞬に、犯人の刃物が若い警察官を刺した。 すぐにもう1人の警察官が手錠をはめ、現行犯逮捕した。刺された警察官は救急車で運ばれた病院で息を引き取った。
 室内を調べると、社長は、首や腕など数個所刺され階段の下で死亡。妻の泰子さんと女子大生は2階の階段近くで、数箇所刺されて死亡。礼ちゃんは3階の屋根裏部屋の寝室のベットで窒息死していた
 4人を殺害した男は、無期懲役の判決を受け、その後仮釈放になり、刑務所を出て、最期は畳の上で大往生を遂げた。
 2人の勇敢な警備員のお陰で、男は実質的な死刑にならずに済んだ。そして、若い警察官は自分の命と引換に犯人が実質的な死刑になるのを助けたのだった。
<世田谷一家4人殺人事件A> 上記、世田谷の1家4人殺害事件、最期の警察官が到着してからが違っていたらどうなるか?
 警備員Bが足を切られた。警備員Aの動きが鈍くなる。そこに連絡を受けた警察官が到着した。「無駄な抵抗はやめろ」との警察官の声に男はひるんだ。 しかし、男は警備員Bの足をさらに刺し、警備員Aの足も狙う。警察官は威嚇射撃をする。男はかまわず警備員Aに向かい、警備員Aの足を刺した。「離れろ!」警察官が叫んだ。 警備員Aは倒れながらも男から離れた。その瞬間、警察官は狙いを定め引き金を引いた。男は実質的な死刑になった。
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<9.11同時多発テロ以後> 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起きた。これ以後テロ対策が強化された。 もし旅客機がハイジャックされ、テロリストが政府重要施設に向かうことが推定されるようになったら、その旅客機は撃墜されることになる。 国家権力は殺人犯を死刑にするし、殺人未遂犯をも実質的な死刑に処することがあるし、そうして、全く罪のない民間人をも殺さなくてはならない時が来るかも知れない。 こうしたルールから目を逸らして「死刑制度」を論じることはできない。
 日本政府が「1人の生命は、全地球よりも重い」と言って日本赤軍の要求を受け入れたために、以後どのような事件が起きたかについては <人の命は地球より重いのか?>を参照のこと。
<国家権力は犯人を殺さなければならない> 死刑廃止論の主要な論点は「人を殺すのはよくない。国家権力が人を殺すのはよくない」ということだ。 しかし、見てきたように、「国家権力は、その権力故に、人を殺さなければならないときがある」ということに気づかなければならない。 死刑が廃止されると、法体系として大きな矛盾が生じる。ありとあらゆるケースを想定して法体系を整えなければならない。素人がいろんな意見を言うことは大切なのことであるけれど、専門家である法曹界の人は、それらを聞きながらも、法体系として矛盾のないものに整えなければ、専門家とは言えない。 法曹界の業界人が素人のレベルで発言するのを見ると悲しくなる。
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<主な参考文献・引用文献>
( 2007年5月14日 TANAKA1942b )
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4 (9)1人の生命が重いからこそ死刑制度を
軽いのなら関係者同士で仇討ちを

 死刑廃止論の理由の1つに「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」から死刑は廃止すべきだ、というのがある。 「これを文字通りに解釈すれば、生命は無類の絶対的価値を有するから死刑制度も廃止すべきことになるはずである」と死刑廃止論者は主張する。しかしそれは間違っている。 「生命が重いからこそ、その生命を奪う者には毅然とした態度をとるべきだ」という論法が正しい。しかしこれだけの説明ではなかなか納得しないかもしれない。そこで、反対のことを考えてみよう。つまり「人の生命なんて、社会に大きな影響を与えるほどでない人のために国家が多くの費用を払う必要はない」となったらどうなるか、ということだ。 たとえば日本国家に特別必要な人間はともかく、それほどでない人間が殺されたとする。型どおりの捜査はするが、犯人が特定できなければ捜査本部はすぐに解散する。そして警察は声明を発表する。「これで捜査は打ち切る。後は関係者で捜査するように。犯人が特定できたら、国家は、<仇討ち許可証>を発行する」と。
 このシリーズの最初に取り上げた「銀行強盗事件」、射撃手が犯人を射殺する正当性は何か?1人の生命が重いから、「1年前のようなことになってはいけない。何としても犠牲者を出さないようにしなくては、そのためには、惨いようだけれども犯人を射殺すべきだ」となったはずだ。 もし、そうではなく、「銀行員や利用客の1人や、2人の生命は奪われてもしようがない」ならば、時間をかけてでも犯人の説得にあたり、狙撃手の日頃の訓練の成果を見せる必要はなかった。
 もし、1年前の事件があっても、警察がなかなか犯人を撃たなければ、「警察は1年前の事件を忘れたのか!犠牲者が出てもいいのか!人1人の生命はそれほど神経質になるほどは重くないのか!」との批判が出るだろう。
 特に、赤井vs大和の対話の例では、ハッキリするはずだ。それでも、「犯人の生命も尊重すべきだ」との趣旨の発言をするとしたら、それは人権主義ではなくて、単なる臆病、でしかない。優柔不断で事なかれ主義で。厳しい現実から常に目を逸らそうとしているに過ぎない。
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<臆病主義がヒットラーの暴走を許したのだった!>  「とにかく戦争はイヤだ」ONT color=#004000>と臆病主義に徹して歴史に大きな汚点を残したのが、1938年9月29日、30日のミュンヘン会議だった。 これについては<日本の安全保障 軍事介入の政治経済学>で書いた。その一部をここに転載しよう。
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<チェンバレンの誤算> 1938年9月30日の朝、深刻な意見の対立が生じていたイギリスへ帰る直前に、ネヴィル・チェンバレンはヒトラーの説得に成功し、英独不戦条約の調印にこぎつけた。これこそ、ドイツからロンドン郊外クロイドン空港に戻ってきた飛行機のタラップを降りるとき、チェンバレンが高々と振ってみせた有名な1枚の紙切れである。待ちかまえていた記者団のマイクロフォンとニュース映画のカメラの前で、チェンバレンはその文面を読み上げた。彼が下院で再び条文を読み上げたとき、一部の人びとを除く全員がさしあたり戦争の心配はなくなったとして胸をなでおろした。この条約の内容は、次のようなものだった。
「ドイツ国総統兼首相とイギリス首相は、本日新たな会談にのぞみ、英独関係こそ両国およびヨーロッパにとって第一義の重要性をもつという点で見解の一致を見た。
「われわれは、昨夜調印した協定ならびに英独海軍協定を、二度と英独が戦うことがあってはならないという、両国国民の希望を象徴するものと見なす。
「われわれは、両国にかかわる他の問題が生じた場合にも、協議という方法でその解決にあたることを決意し、また将来に禍根を残しかねない要因を除去すべく、両国がひきつずき努力することによって、ヨーロッパの平和の確立に貢献できるものと考える」
 だが、1年とたたないうちに、ドイツとイギリスは交戦していた。
 ミュンヘン協定は、ヒトラーの最大の勝利として世界に宣伝された。イギリス議会ではチャーチルとアンソニー・イーデンとダフ・クーパー(これほど恥ずべき行為には賛同しかねるとして、海軍大臣を辞任した)が、これを痛烈に非難した。中央ヨーロッパにおけるフランスの立場は、あっという間に弱くなってしまった。「ボヘミアを制する者がヨーロッパを制す」という言葉がある。そのボヘミア----チェコスロバキア----は、国境の防御を剥ぎ取られ、同盟国もなく、まさに無防備な状態で、いまやヒトラーの手中にあった。プラハの市街を行き交う人びとは、衝撃と失望の色を隠せなかった。 フランスのM・ダラディエ首相は、ミュンヘン協定の締結をみじめな敗北と思うあまり、ミュンヘンから戻ったとき、ル・ブールジェ飛行場に出迎えた群衆を、抗議に集まった暴徒の群れと勘ちがいしたという。
(「第二次世界大戦はこうして始まった」ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995.6.23 から)
 当時、ヒトラー、ムッソリーニに対する当事者=チェンバレン、ダラディエが宥和策をとり、政権から遠い人が強攻策を主張した。フセイン政権に対するブッシュ大統領の強硬策とは逆。こちらはアメリカ、イギリスが強硬派、フランス、ドイツ、ロシアが宥和策派、そうして政策決定とは遠いところにあり、結果の責任を問われない市民、マスコミが宥和政策を強く主張した。
 ところで当時のアメリカはというと、1937年から40年までジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・P・ケネディ(Joseph Patric Kennedy 1888-1969)が駐英大使を勤めていた。そしてミュンヘン宥和策を支持したとして批判されている。
<「ぶれてはだめよ、ジョージ」>
毎日新聞のコラムに興味深い文があったので一部引用しよう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。 ナチス・ドイツとの戦争を回避するために、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させた。揚げ句の果ては第二次大戦だ。「すべてお前のせいだ」と指弾され、失意のまま政界から消えた。 英政界では「第二のチェンバレン」というレッテルは、死の宣告に等しい。90年湾岸危機の際、サッチャー英首相がブッシュ父米大統領に「ぶれてはだめよ、ジョージ」と強い態度を曲げないように助言したのもそのせいか。 ( 毎日新聞「余禄」2003年3月2日から)
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<臆病主義が日・独・伊の3国同盟を許した>  第1次世界大戦後から第2次世界大戦に至る過程で、象徴的な出来事が<ミュンヘン会議>であった。そして「臆病主義」は徹底していて、 日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまった。これに関しては<フランス政治の混乱>を参照のこと。
 日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまったことに関しては、<いたずらっ子が不良になる>と題して次のように書いた。
 いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。
 フセイン政権が続いていたらどうなったであろう?国連の査察団に適当に対応しながら、「わが国は十分制裁を受けた。これからは主権国家として自国の平和と安全に責任を負うことを宣言する」と、大量破壊兵器を開発した時点で表明したに違いない。
 拡散した核を元に戻すのは不可能、まるでエントロピーのようだ(熱力学の第2法則)。かつて一部のマスコミが「地上の楽園」と呼んだ彼の国、核保有国となったらアジア軍事情勢はどう変わるだろうか?1962年10月16日からのキューバ危機 (Cuban Missile Crisis)が思い起こされる。「とにかく戦争はいやだ」との市民感情では対応できない危機になることは間違いない。
<第1次世界大戦の人的被害の大きさは……>
 第1次世界大戦による人的損失を正確に計算することは困難である。その理由は、この時代のデータにあまり信頼性がないばかりではなく、戦争そのものによる死者は、記録された死者の総数のわずかな部分しか占めていないからである。 戦場よりも、飢餓と疾病あるいは内戦のために死んだ人の方が多かった。しかも、戦争のために出産が低下し、人口が減少したことについて基づいて作成されなければならなかった推計もある。ロシアの統計は、悪名高いまでに解釈が困難である。
 戦争そのものによる死者は、相対的に極めて少なかった。戦争中に、約8,500万人(ロシアの推計も含めて)が従軍中に死んだ。すなわち、徴兵により動員された人々のおよそ15%にあたる。 これは、ヨーロッパの総人口の2%未満であり、男性の総労働力のおよそ8%に相当した。さらに、約700万人の人々が生涯身体障害者になった。それに加えて、1,500万人が相当程度負傷した。
 戦闘員が最大の被害を被ったことは疑えないが、死者の数には相当違いがあった。最も死者が多かったのはドイツとロシアで、それぞれ200万人と170万人であった。 フランスは140万人、オーストリア─ハンガリーが120万人。英国とイタリアは、ほぼ75万人。小国では、ルーマニアは25万人、セルビアとモンテネグロは32万5000人が死亡し、重大な被害を受けた。 しかしながら、大抵の場合、人口の比率に与えた影響は極めて小さかった。大国の中で、フランスが最大の減少を被り、戦闘行為により人口の3.3%を失った。 ドイツはそれとあまり変わらず、3%であった。たの大抵の国は、2%以下であった。実際、相対的には、小国の方が、最悪の事態になるのが一般的であった。たとえばセルビアとモンテネグロは人口の10%を失った。
 もちろん、死者の絶対数そのものよりも、それが与えた衝撃の方が大きかった。なぜなら、死者の大半は人生の盛りに命を奪われたのであり、それゆえ労働力の中で最も生産的な部分を構成していたからである。 ここでドイツを引き合いに出そう。死者の40%が20〜24歳の年齢層であり、20〜30歳の年齢層は63%であった。フランスもドイツも、男性労働力の約10%を失った。イタリアは6%、英国は5%であった。 他方、無情なことのように思われるだろうが、両大戦間期に雇用機会が制限されたことを考えると、このような死者数は、不幸に見えるが、実際にはある種の天恵であったかも知れない。 (『20世紀のヨーロッパ経済』から)
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<東条英機を死刑にしたのは間違っていた?>  『ヒットラーでも死刑にしないの?』と題された本があり、著者は次のように書いている。
 「今まで、そんな場合について考えたことがありませんでした。言われてみると本当に、ヒットラーも死刑にしないのは、なんだか割り切れない気がします。 けれども、さっきお話したとおり、どんな人であれ、任意に殺す権利は誰にもない、と思います。ヒットラーは憎むべき存在ですけれど、それでもやっぱり、死刑にしないほうがいい、と私は思います」
 この考えに従えば、フセインの死刑には反対だし、チャウシェスク元ルーマニア大統領を殺したのも間違っていたし、東京裁判で東条英機以下7名が死刑になったことにも反対という「東京裁判批判派」なのだろう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。しかし、日本では、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させたチェンバレン首相と同じ考えが現代でも生きている。 それは「歴史に学ぶ」姿勢がないからだろう。もしかしたら、日独伊3国同盟を支持し、「大東亜戦争」を肯定し、東条英機を擁護する立場なのかも知れない。そうした考えの人は政治家にはならない方がいい。
 けれどもフランスでは2007年2月に、「死刑を永久に廃止する」ということが憲法に書き加えられることが可決された。フランスでは、「とにかく戦争はいやだ」「たとえヒットラーとでも戦争はしない」「ヒットラーでも死刑にしない」という宥和政策が現在でも支持されている。
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<狙撃手が銀行強盗を射殺するのにも反対なのか?> 死刑反対の論理を進めていくと、「銀行強盗の生命も重い。射撃手が撃つのは良くない」となってしまう。その現場にいて、そのように主張できる人間はいない。 けれども一般論としては、「たとえ人を殺した人間でも、その人なりの事情があったり、あるいは十分悔い改めているのなら、殺すのは良くない」と主張するに違いない。
 そのような、臆病主義が日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまったのだし、最初の銀行強盗事件で行員が殺される事態を招いてしまったのだった。
 「世界が平和であって欲しい」「武力紛争が起きないで欲しい」「そうした庶民の気持ちを打ち砕く事件が起きたらどうするか?」。ここで2つの主張が分かれる。 「人の生命は地球よりも重い。だから反社会的な人間でも、むやみに殺していいわけではない。死刑制度は廃止しべきだ」VS「地球よりも重い人の生命を奪う行為には毅然とした態度で向かうべきだ。 それは平和な社会を維持する基本である」。
 このように2つの考え方を並べて書いてみた。「それでも、人を殺すのは良くない。死刑制度は廃止すべきだ」と主張する人は出てくるだろう。 日本では、そうした考えですら主張する自由がある。デモクラシー=民主制度を採用する限り、国民全員がまったく同じ価値観で結ばれるということはない。多くの異質の意見が混在することが、民主制度がうまく機能していることの証明になる。 それでこそ、雑種強勢とか、一代雑種が期待できる。 そうでないと、自家不和合性に陥る恐れがある。 <民主制度の限界>で書いたように、全会一致は怖ろしい。 よく言われる「国民、みんなが心を一つにして」とか「価値観・歴史観を共有しよう」との主張は、結局のところ異質な考えを排除し、独裁政治への道を開くことになる。
 こうした点を考慮しても、「1人の生命は、全地球よりも重い。だから死刑制度を廃止せよ」は筋の通らない感情論だ思う。
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<仇討ちが合法化されたらどうなるか?> 「1人の生命は、全地球よりも重い」からこそ、その人命を奪う犯罪には厳しい姿勢で臨むシステムになっている。 もし、「1人の命は、それほど重くはない」となったら、国家は殺人犯に対して現在ほど厳しい姿勢で臨まず、「関係者で解決するように」となるだろう。 つまり「敵(かたき)討ち法成立」となる。近未来、「敵(かたき)討ち法成立」となり、仇討ちが合法化されたという設定の映画、「フリージア」がこの「死刑廃止問題」を考える場合に参考になるかどうかはわからないが、いろんな面から考えると今までとは違った面が見えてくる。 「気配り半径」が狭くなったり、「視野狭窄」になったり、法曹界の人たちは「自家不和合性」に陥りやすい。
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<主な参考文献・引用文献>
『第二次世界大戦はこうして始まった』ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995. 6.23
『20世紀のヨーロッパ経済』   D・H・オリドクロフト 玉木俊明・塩谷昌史訳 晃洋書房   2002.11.30
『ヒットラーでも死刑にしないの?』                  中山千夏 築地書館   1996.11.27
( 2007年5月21日 TANAKA1942b )
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(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの? 
目には目を、反省・償い、抑止力
 … は じ め に …で取り上げた、古田の文章にはこのように書いてある。
 世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 そこで、今週は「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」と題して書くことにした。あまりにも当たり前のように思っているが、この問いに対する答えの違いが「死刑反対」になったり、「死刑は存続すべし」になったりする。
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@<「目には目を」との考え> 江戸時代武士社会では仇討ちが認められていた。やったらやり返す。ごく自然のルールのように思われる。 ただしこれを個人間でやると、やったらやり返す、それに対してさらにやり返す、それに対してやり返す、と際限なく続いていく可能性がある。 仇討ちとか、やったらやり返す、を個人間では禁止し、国家がこれを行う、という考えだ。このように説明すると何となく理解したような気分になってしまう。
 個人が犯罪を犯し、個人が被害を受けた。それなのに、国家が個人に代わって処刑する。なぜ国家がそこまで個人間の争い事に関与するのだろう? それは「殺人は絶対に許されない」という毅然とした態度を国家が示すためだと考えると分かる。もし「殺人は良くないが、かと言って国家が関与するほど重大なことではない」となれば、死刑制度は必要ない。 このように考えていくと、死刑制度があるということは、国家が「人を殺すという殺人事件は絶対に許さない、という硬い決意を示すためだ」ということが分かるはずだ。 従って「人一人の命は地球よりも重い。だから死刑は廃止せよ」は間違っているのであって、「人一人の命は地球よりも重い。だからそれを犯す犯罪には毅然とした決意を示すべきだ」となるはずだ。
 ただし、「目には目を」というのは比喩的な表現であって、他人を傷つけ、「目が見えなくなったので、犯人も目が見えないような刑罰を与えるべきだ」という理論にはならない。 それでも、殺人事件で犯人に死刑ではなく無期懲役の判決が出たときに、被害者の家族が「納得出来ません。犯人には厳しい判決が出ると思っていました」と報道されるということは、 世間一般が「目には目を」ということをある程度容認しているからだ、と考えられる。同じように被害者の遺族が「極刑が出たことに満足しています」というのも、「目には目を」との考えの表れと考えられる。 つまり、「目には目を」との考えが正しいかどうかは人によって考えが違うだろうが、一般的に「目には目を」との考えは否定されていない。あるいは「そう言う考えの人がいても当然だ」と認められていると考えられる。 「人一人が命を失ったことに対し、あまりにも刑が軽すぎる」との感想もこの考えなのだろう。
A<反省し、社会貢献のための懲役>> 「悪いことをしたのだから、時間をかけて反省し、社会に復帰したら過去を取り戻すべく真面目に生活して欲しい」そのための懲役だ。 ということを言ってはいないけれど、そうした意味で「懲役刑」を考えることもできる。悪いことをした、その程度によって反省すべき時間が違ってくる。 うんと悪いことならば、反省のために長い時間が必要になり、懲役刑も長くなる。普通の人は刑務所で反省するのだが、普通の人ではない人、つまり未成年者は刑務所ではなくて少年院で反省することになる。 大人は刑務所に入れば自然と反省するようになるが、未成年者は反省のための指導者とか施設が必要になる。
 この考えに従うと、犯罪を犯した人は刑務所で反省し、社会に復帰して過去を償うことになる。だから、死刑になったら、反省する時間もないし、どんなに反省しても社会に復帰して過去を償うことができない。 せっかく反省しても、過去を償う事を拒否する「死刑制度」は良くない、という論理になる。このことだけから考えれば、「死刑制度は良くない」は実に筋の通った主張と言える。 ただし、「死刑制度を廃止して、仮釈放なしの終身刑を」は矛盾した主張になる。死刑になれば過去を償う事はできない、そして、同じように、仮釈放なしの終身刑でも、社会復帰して過去を償う、ということができない。 「反省し、社会貢献のための準備期間としての懲役」との考えに従えば、死刑制度はよくないし、それに代わる「仮釈放なしの終身刑」も良くないことになる。この考えに立つ人は「死刑制度を廃止して、仮釈放なしの終身刑を」と主張する人を批判することになるだろう。
 判決を言い渡したあとで、裁判長が言う「法廷で、大変なことをしてしまった、という反省の気持ちが伝わって来なかったのは事実です。それがいらだちを感じます。姉歯被告はどこまで責任を感じているのでしょうか」。なぜ裁判長はこのような事を言うのだろうか? 反省の気持ちが伝わって来たら、判決内容が違っていたのだろうか?「被告は十分に反省している」として刑が減軽される、ということは「刑罰とは、被告が反省し、社会に復帰したとき社会貢献するであろう事を期待して刑の重さを決める」ということになるのだろう。 しかし「裁判長がそのように言うのは余計なお節介だ」との感想もあるようだ。
 「彼のやったことは、5年ではとても償い切れるもではないと思います」との感想は、反省し、償う期間が量刑の長さと考えていると考えられる。
B<抑止力としての処刑> 「ヤバイことすると結局は損する社会」というのがTANAKAの基本的な捉え方だ。 企業不祥事があったときに「利益追求のあまり法律を犯してしまった」などの言い訳をすることがある。けれどの「利益追求のあまり」ではなくて、利益追求がどのようなことか余り考えずに行動した結果、と言った方が良い。 現代社会は「ヤバイことすると結局は損する社会」になっている。その良い例が、食肉偽装事件の食品会社だ。2002年、日本ハムは食肉偽装で1,000万円程度の不正利益を得ようとして、結局200億円の損失を出した。 <企業・市場・法・そして消費者>を参照のこと。 発覚する確率が20%程度と考えても、「やった方が得か、やらない方が得か?」損得勘定で計算すれば、やらない方が得だと気づくはずだ。 このホームページの初期の頃にも<接待汚職の経済学>と題して同じ様な趣旨で書いた。
 この場合の量刑は、犯罪の重大性ということとは別に、それが発覚する確率も考慮に入れる必要がある。同じ程度の犯罪でも、見つかりやすい犯罪の量刑はあまり重くなく、 見つかりにくい犯罪の量刑は重くする。抑止力としての刑罰という点から考えるとこのような発想になる。
 死刑問題を議論するとき「死刑制度は抑止力として働くか?」と言うことは、「量刑は抑止力を考えて決めるべきだ」ということを前提としている、ということだ。
<量刑を決める3つの要素> 「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」そして「量刑はどのようにして決まるのか?」について3つの要素を取り上げてみた。 どれも「これ1つで完璧」というものはない。それぞれが絡み合って量刑が決められている。しかも、それぞれがどの程度量刑に影響を与えているかもハッキリしない。 だから、どれか1つの要素を強調して、「量刑はこうあるべきだ」というのは説得力がない。「刑罰を与えてもそれで、元の状態に戻るとは限らない。まして、死刑になったら、社会貢献もできない。だから死刑は廃止すべきだ」は通用しない。
 それでも、この3つを頭に置きながら「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」とか「量刑はどのようにして決まるのか?」を考えると、おおよそのイメージはつかめてくる。 人々は3つの要因を意識しているわけではない、その時、その時に使い分けている。ということは、結局3つの要因を基に判決を評価している、ということだ。
 ここで大切なことは、「どれも「これ1つで完璧」というものはない」ということだ。死刑は廃止すべきか、存続させるべきか?これを考える場合、「これ1つで完璧」という理由はない、ということだ。 こうしたもの考え方は、「結局曖昧なことばかり言って、ハッキリしない」と原理主義者からは批判されるだろう。バランス感覚ということは、将来ものの価値基準が変わったら、賛否も変わってくるだろう。死刑制度に対する評価も変わってくるかも知れない。
*                      *                      *
<「どうして人を殺してはいけないのですか?」> 死刑に関する本を読んでいて、法律書以外にも参考になる本はないかと捜していた。『「おろかもの」の正義』とのタイトルに惹かれて読んでみた。 その中に「なぜ人を殺してはいけないのか」ということがテーマとして書かれていた。そこの文章を少し引用することにしよう。
 20世紀の末に「なぜ人を殺してはいけないのか」ということが話題になったことがある。これは、そういう子どもの問いかけに、その場にいたインテリたちが明確に答えられなかったことがきっかけだった。この問題について、雑誌で特集が組まれ、本も出版された。
 これは、まず驚くべきこと、悲しむべきことだろう。日本には「なぜ人を殺してはいけないのか」という素朴な問いかけに対して、答えをもっていない大人が非常に多いのだ。 宗教の権威が弱体化してから久しく、成長と進歩の前に伝統は輝きを失い、政治家は並以下の人間としか思われず、正義を語る習慣もなく、「無限の正義」が胡散臭さを漂わせる現代。たぶん、わたしたちはもうとっくに気づいてしまっているのだ、人を殺してはいけない絶対的な理由などないことを。
 だが、この事件は希望でもある。それは「絶対的な権威」を信じられなくなっていても、それでもなお「正義・正しさ」への求めがあることを示しているからだ。
「人を殺してはいけない理由はない。人殺しはムカツクから捕まえて殺すか閉じこめる。殺す方にも捕まえる方にも正義はない。力の強いほうが勝だけだ」こう言い切ることには、一種の爽快感があるかもしれない。 しかし、われわれの多くはそう考えはしなかったのだ──はっきりとは言えないけれど、やっぱり人を殺してはいけないんじゃないか。そう思う人が多かったからこそ、答えを求めて雑誌や本を手に取ったのだろう。 人にはなお、正義・正しさへの求めがある。 (『「おろかもの」の正義』から)
 神や天のような、人間より上位の絶対的権威に訴えることなく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えるにはどうすればいいのだろうか。
 この本で著者は問題提起はしたが自分では答えを出していない。評論家とはそうした態度をとるものなのかも知れない。ハッキリ自分の主張を言えば、それだけ批判されることも多くなる。 それならば、解説・評論・予想・などを書いている方が楽だろうから。そこで、同じ問題を違った本から引用してみることにした。
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<大江健三郎も答えられなかった「人を殺してはいけない理由」>  評論家の筑紫哲也が視界するテレビ番組に「ニュース23」(TBS)というのがある。 報道番組ではあるが、ときどき時事問題について特集を組み、学生、市民らが参加するなか関係者や識者がパネリストとして本音で討論するというので、評判を呼んでいる。 それで1997年の夏に、その年の冬から春にかけて神戸で起こった14歳の少年による小学生連続札沼事件がテーマとなった。「人の命はそんなに大事ですか。アリやゴキブリと一緒やないですか」、 「猫を殺すのと人を殺すのとどう違うんですか」などという、漏れ伝わる少年の言動をめぐって、活発に議論が展開されていた。その最中に、ふと一人の男子高校生が「どうして人を殺してはいけないのですか」と訊ねた。 その瞬間、並み居る論客たちがぎょっとして押し黙ってしまった。言葉を探しあぐねている雄弁家たちの不安げな死線を、テレビカメラが一つ一つ映しだした。視聴していた私には、学生の問いかけよりも、その沈黙が実に重苦しく異様に感じられた。
 しばくしてそのことを作家の大江健三郎が新聞のコラムで取り上げ、次のように述べた。「私はむしろ、この質問に問題があると思う。 まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」「人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観に逆らう無意味な行為で、誇りある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」。
 大江の見解は列席していたパネリストたちが見せた反応に呼応するもので、当時で恐らく50歳以上の世代が共有する素朴な感想を、飾らず正直に語ったものと言えよう。 ところが、それが直接、間接に驚くばかり大きな反響を巻き起こした。「どうして人を殺してはいけないのか」が論断の一大テーマとなり、雑誌の特集号や単行本が出たりしたのである。 そしてその問いは、その後も現在に至るまで、脳死や安楽死、妊娠中絶など生命倫理の諸問題や死刑論、戦争論などにも関連づけられて、広く取り上げられている。現代という時代を象徴するテーマとなったのだ。
 しかしながら、問題は広まったものの、問題の重さのわりに議論が深まったようには見えない。そこで私は、この小論で、再生観と倫理観についての比較思想的関心を根底に置きつつ、そのテーマを発端から哲学的に整理し分析してみたい。 (『柔らかなカント哲学』から)
 この本ではこのように問題提起し、多くの人の意見を紹介している。そこに登場するのは、児童文学者の灰谷健次郎、不登校などの問題を抱える親と子のグループ「バクの会」代表である主婦、滝谷美佐子、社会経済学者の佐伯啓思、 精神科医の町澤静夫、社会学者の大澤真幸、社会学者の宮台真司、精神科医の香山リカ、哲学教師の永井均、ホッブス、ベッカリーア、親鸞、旧約聖書、神戸連続児童殺傷事件弁護団長の野口善國、評論家の芹沢俊介、カント、亡命ユダヤ人のカール・マンハイム、
 このように多くのひとの意見を紹介しながら著者は「なぜ人間は人間を殺してはいけないのか──法と道徳と宗教──」と題して結論を書いている。
結論
 ここで簡略に結論を述べれば、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いは、生命権、すなわち「殺されない権利」を認めるか認めないかで、答えは差し当たり2つに分かれる。
 生命権を認めなければ、人を殺していけないことはない。この場合、剥き出しの生存本能を制御するルールは存在せず、ホッブスの言う自然状態となる。 人と人との関係は生き残りを賭けた戦時状態にあり、死者はもとより生者にも一切の権利が認められない。神戸の殺人少年もポスト全共闘世代の論客も生命を補償されず、アリやゴキブリのように殺されても仕方がない。 こうなると「どうして人を殺してはいけないのか」という問いを発する余裕もなく、問うこと自体が愚問どころか、無意味となる。
 したがって、有意味な答えを求めるならば、生命権を認めざるを得ない。人は相互に生命権を承認することによって公共社会を樹立し、人と人との間の存在、すなわち人間、となる。すると問いは、「なぜ人間は人間を殺してはいけないのか」へと変換(相転移)する。
 しかし、生命権の承認が相対的あるいは手段的なものであれば、生命権は実質的に尊重されず、生存競争がサバイバルゲームとして復活する。 人間関係は駆け引きに満ちた緊張状態となり、立て前では生命権をより尊重し本心ではより尊重しないものが、有利となる。法も道徳も宗教も、生き残ったものがさらに生き残るための手段とされ、殺された死者は文字どおり切り捨てられる。 これは外形的な法論理が貫徹する功利主義の社会であり、加害者など生者の論理が、殺された被害者の論理を圧倒する。この場合、問いの答えは、殺さないほうが生き残るに有利だから、となる。
 これに対し、生命権の承認が絶対的なものであれば、正当な理由もなく生命権を侵害した者は社会の正当な一員としての資格を剥奪され、また、生命権を侵害された者については、公共社会が当人に代わって可能な限り侵害された権利を回復しなければならない。 それが正義の実現となる。殺された死者の権利そ殺した生者の権利と対等に扱い、前者が後者を制限する論理を、私は道徳的論理と呼びたい。 道徳的権利が尊重される社会では、生命権という根元的権利の回復に関わるがゆえに、殺された被害者の論理に優位性が与えられる。この場合、問いの答えは、生命権は絶対に守らなければならないから、となる。
 だが、死者が現実に生き返るわけではないから、理念的に来世を想定して死者の冥福を祈ることが論理的に要請される。それで、こうした贖罪のための奉仕活動が、義務として殺した加害者に課せられなければならない。 道徳的論理が尊重される社会では、生者のための論理である法と、生者と死者が対等な論理である道徳と、死者のための論理である宗教とが、互いに調和しながら、それぞれに固有の機能を発揮することができる。
 結局、「どうして人を殺してはいけないのか」と問われたら、誰にだって絶対に「殺されない権利」があるから、と私は答えたい。 (『柔らかなカント哲学』から)
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<「自分がして欲しくないことは、他人にするな」これが社会の基本原則> 「なぜ人を殺してはいけないのか?」この問いに対する答えは、「自分がして欲しくないことは、他人にするな。これが社会の基本原則だ」と言うのがTANAKAの答えだ。 子供が疑問を投げかけた。それなら子供にも分かる答えを出すべきだ。誰にも分かる答えを出してこそ、多くの人に理解・支持され、社会の常識になる。カント哲学を研究した人にしか理解できない答えは、結局誰も支持しない。 子供の質問にこそ「素人さんお断り」ではない答えを出すべきだ。
 子供が犯罪を犯し、その結果被害者が死んだとすると「命の大切さを教える」などと教育関係者は言う。「命の大切さ」などという抽象的なことを、人に教えることができると思っているのだろうか。 それよりも「自分がして欲しくないことは、他人にするな。これが社会の基本原則」と教えた方が分かりやすい。「打たれたらいやだろう」「イジメられるのはいやだろう」「だったらそういうことを友だちにするのは良くないことだ、と分かるだろう」と説明すべきだと思う。
 哲学の分野も、教育の分野も、同じ業界内の人間にだけ通じる言葉で話している。以前に政治哲学に関して同じ様に感じた。 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても選挙では同じ1票。これがデモクラシー=民主制度だ。 多くの人に理解されるような分かりやすい・やさしい言葉で語りかけてこそ、その考えが正しいのか、間違っているのか判断される。「素人さんお断り」の文章は評価の対象から外される。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『「おろかもの」の正義』                    小林和之 ちくま新書    2000.12.10
『柔らかなカント哲学』増補改訂版                平田俊博 晃陽洋書房    2001. 6.20
( 2007年5月28日 TANAKA1942b )
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(11)『刑法という法律』をやさしく解説 
古田佑紀、今は最高裁判事の著書から
 今週は、このシリーズの最初に取り上げた、古田佑紀の著書『刑法という法律』から引用する。 刑法とはどういう法律なのか、専門家の著書を読んでそのセンスに馴れることにしよう。
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刑法は常識のかたまり? 刑法は、だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
 その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。 人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
 けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、しれに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。 それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。 そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 この2つの印象は、おそらく、どちらも正しい。確かに、刑法は社会が素朴に悪いことだろ思うことを処罰することが基本になっている。しかし、刑法の性格からこれが濫用されたときにはたいへん不幸なことが起こるので、人類の長い間の知恵で、そんなことが起こらないようにいろいろな歯止めが掛けられている。 その歯止めは、刑法のなか自体に直接決められていたり、あるいはその解釈によって掛けられているものもあるし、人を刑法によって実際に処罰するための手続きを慎重に行うことを要求することによっているものもある。 また、それに携わる人について、裁判官とか検察官とか弁護士とかある一定の資格を要求するなど、制度の面からも歯止めが掛けられている。
 そこで、悪いことは処罰されるという基本は変わらないが、このような歯止めが働いた場合に、一見すると、なにか素朴な常識に反するように感じられる場合がでてこることになる。 このような場合は、刑法はもしかすると非常識のかたまりということとなるかもしれない。そこで、この本では、刑法に関して、なんとかく素朴な常識に反すると感じられるであろうと思われる問題、いわば「刑法の常識は世の中に非常識」といった問題を取り上げ、刑事の世界ではなぜそうなっていくかということを考えてみることとしたい。
なぜ処罰される?
さて今、刑法は濫用されると危険は法律だといったが、そのことが「非常識な常識」の理由に共通する流れであるので、個々のテーマに入る前にこの点についてもう少し詳しく考えてみて、刑法の性質というようなものを探ることとする。
 最初に、刑法は、悪いことをした者を処罰するものだと素朴に考えられるという話をした。しかし、悪いことをしたら、なぜ処罰されるのだろうか。 そんなことは自明のことだと言われるかもしれない。しかし、どうして人が人を処罰するのか、その理由を考えてみると、なかなか簡単にはいかない。
 試しに何人かに理由を尋ねてみると、まず、最初に返ってくる答えは、おそらく、悪いことをしたのだから、苦痛を与えて懲らしめなければならない、という答えだろう。 しかし、そばに物事を傍らから斜めに見る七目氏がいて、それでは結論をいっているだけで、なぜ懲らしめられなければならないか理由をいっていない、と反論するに違いない。 これに対しては、悪いことをして他人に迷惑をかけ苦しみを与えたのだから、自分も苦痛が与えられるべきだ、という答えもあろうし、悪いことをすることを止めさせるためには、痛い目に遭わせなければならないからだ、という答えも出てくるだろう。 なかには、悪いことをする奴は危険だから、刑務所に入れて閉じこめておくために罰を加えるのだ、という人もいるかもしれない。 以下、会話の紹介という形で、話を進めてみる。
 さて、こんな議論に対し、七目氏が、殺人や脅迫などは人に苦しみを与えるだろうが、犯罪のなかには、たとえば賄賂罪のように、だれかに苦しみを与える犯罪とはいえないものもあるし、悪いことをすることを止めさせるためだと言うならば、父親の酒乱にたまりかねてとうとう父親を殺してしまったわかい娘のような場合は二度とそのような事件を起こすことは考えられないから、 処罰する必要も、閉じこめておく必要もないことにならないか、と疑問を出してくる。
 そのうちに、一杯きげんの哲学者が話しに加わり、世の中にはまず正義があり、犯罪は正義が保たれている状態を覆すものであるので、犯罪者に罰を加えて、正義が回復された状態にする必要がある、それがカント、ヘーゲル以来の弁証法的帰結であると主張する。 すると、七目氏は、それはまことに立派なお話であるが、そうだからといって、犯罪がなくならない現実をどうするか、とからめ手から茶々を入れてくる。
 そのうちに、犯罪の原因はなにかということを研究している人が数人酒をたっぷり飲んで登場して、口をそろえて、犯罪を防止できない刑法は無力であり、単に罰を加えることで物事が解決しないことは明らかで、まず、犯罪の原因をはっきりさせて、それからどうしたらよいかを考えることが大事だと言い出すが、仲間の間で、原因は、犯罪者の性格など本人に問題があるから、教育として罰を考えるべきだと主張する者と、社会に彼らを犯罪に追い込む原因があるので、犯罪者を保護にながら、我らが犯罪に追い込まれる環境を取り除くことを目的とするべきだと主張する者が出てきて大激論が交わされる。 それをそばで聞いていた哲学者が、もし、悪い性格を問題にするならば、犯罪によって起こった害悪の程度は問題とならず、軽い犯罪の場合であっても、性格の悪い者は長く刑務所に入れることとなり、犯罪の重さとバランスを欠く結果となって、人権を侵害することが甚だしいし、社会の原因があるとするのは、理性を持って自分で自分の行動を決めるという人間のあり方を無視するものであると批判を加える。
 ここまでくると、話は日常の素朴な会話を離れて、哲学論争となる。そこへ再び登場するのが七目氏で、七目氏は、興奮して何かしゃべっている異国の人を連れてきて、
「皆さん口角泡を飛ばして議論しているけれども、この人は『この国に来て酔っ払いが堂々と外を歩いているのでびっくりしました。私の国では、酔っ払ってそとをうろうろしていると捕まえられて処罰されます。悪いことかどうかは、だれがどんな基準で決めるのでしょうね。 よく分からなくなりました。もともと、犯罪というものがあるわけではなく、だれかが犯罪と決めたから、犯罪というのでしょうか』と言っていますよ」
 と紹介し、すべての議論を混ぜ返してしまった。 (『刑法という法律』から)
刑法とは
以上の話は、刑法に絡まるすべての問題を含むものではない。しかし、刑法を考える上で、これまで激しい議論が行われた多くの重要な問題を含んでいる。
 最初の話は、刑法を復讐ないし応報として考える一番基本的な考え方を示していることはいうまでもない。これが典型的に現れるのが有名な「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典の言葉ある。 いずれにせよ、この報復の思想が刑法の始まりであったろうことは確かであろう。正義の回復という哲学者の主張も、基本的には、このような流れに立つものであるといえる。 このような考えは、処罰自体をいわば自己目的的にとらえるものとはいえ、強いてほかに目的を考えると、応報感情、正義感情の満足をその目的とするということができる。 ただ、ハムラビ法典の同害報復の思想で注意しなければならない点は、応報感情の満足を図ることを積極的に認めたものと考えるべきではなく、これをやくを得ないものと受けとめ、その限度を同害の範囲に制限したものと見るべきことである。
 次に、処刑をある具体的な目的を持ったものと考えて、犯罪者に苦痛を与えて、悪いことをさせないという考えも、おそらく古くからあった考えであろうし、社会の棄権を防止するという考えも、わかりやすい考え方である。 ただ、この2つの考え方は、その結果においてかなり違ったものとなる。前者のような考え方は、ある犯罪をさせないようにするために苦痛を与えるのであるから、その基本は、犯罪の結果に比例した範囲でだけ与えられるべきであるということとなり、犯罪の結果を超えるような処罰は、許されないという考えに結びつく。 これに対し、社会の危険を防止するという考えは、処罰の範囲も、その危険そ程度によって決まられるということとなり、実際の結果とは必ずしも結びつかない。
 処罰を具体的な目的を持ったものと考える立場を徹底させ、かつ、犯罪の防止を強調する考えに立つと、犯罪の原因を研究している者の話に見られるように、刑罰が処罰の範囲を超えて、本来、犯罪の原因を除くための教育的ないし保護・治癒的なものととらえられることとなる。 このような考え方は、応報の思想あついは苦痛を与えるという考え方が陥りやすい、犯罪者に対する処遇を人道的なものとする上では、重要な役割を持つ。
 これらの考え方は、いずれも、犯罪あるいは刑法のある側面を見てみると、それぞれ、もっともな部分がある。しかし、いわゆる近代刑法の1番基本的な枠組みは、処罰を具体的な目的を持つものとする考えに対する哲学者の主張及び批判であるといえる。 すなわち、したことに対する応報ではなく、犯人の危険性に着目する考え方は、過去、多くの政治的な濫用を生んできた。外国においてはソクラテスやキリスト、我が国においては有馬皇子など、政治的な理由により刑死し又は実質的に刑死したと思われる人は少なくない。 さらに、過去、君主の意思などにより恣意的に刑を科せられた者がたくさんいたであろうことは、想像にかたくない。現在においても、世界の一部では、似たようなことがしばしば起こっているということが伝えられる。 哲学者の主張と批判は、刑罰制度の持つこのような危険性に着目したものであり、その意義は、このような問題を生じる可能性をできる限り防止しようとするところにあると言える。
 しかし、この哲学者の主張のみでは、なお、問題がある。それは、異国の人間の観察である。哲学者は、客観的な正義がまずあり、これが侵害されたとき、そのバランスを回復させる限度で処罰を主張しているのであるが、実は、正義も、必ずしも、常に普遍的、客観的に共通なものであるとは限らず、それがある特定の社会の感情や考え方に支えられた主観的なものである場合も少なくない。 ガリレイに「それでも地球は回っていえう」とつぶやかせた過去の宗教裁判はこのようなものであることが少なくないし、現代になってからも、何年か前に、イラン王女が姦通の罪で、石を投げつけられるという方法により死刑になったという報道があった。 しかし、現在、姦通罪の規定を持っている国は、いわゆる先進国ではないようであるし、我が国においても、現在、これが、道徳的非難はともかく、刑罰を科してまで個人の自由を制約すべき性質の行為とは一般には考えられていないであろう。 そうすると、種々の価値は相対的であり、ある社会のある時期における感情や考え方に反する行為であるということだけでは、これを刑法によって処罰することには大きな問題があるということになる。
 結局、刑法は、その出発点で常識的なものであるが、同時にその出発点が人の感情の問題であるだけに、その根源において非常に不安定なものを持っており、ある場面、ある時期あるいはある者の感情によって動かされるようなことがあったときには、制裁が最も厳しいものであるため、たいへん危険な存在となるし、また、政治的な濫用が起こりやすいことは過去の歴史が示している。 そこで、ある特定の場面から見れば、「悪い者」を見逃すこととなるような非常識と思われる結果になることがあっても、長い目で、かつ、広い範囲で見れば、大きな弊害が起こらないこととすることが必要であると考えるのが、歴史の教訓に基づく人間の理性的な判断として、常識となっているのである。 (『刑法という法律』から)
刑法とは大変わかりにくい法律だと思った
率直にいって、刑法という法律は、大学で勉強しているとき、たいへんわかりにくいものの1つであった。 その理由は様々だけれども、1つには刑法の講義で使われる言葉が具体的にどんなことを意味しているのか、イメージが実につかみにくかったことがある。 法律としての刑法の用語が難しい感じが入った文語体でわかりにくいと言われるが、それよりも刑法で使われる言葉のほうが、私にとってははるかに難しかった。
 たとえば、どのくらいまでの範囲で共犯者が処罰されるかという議論で、共犯独立性説と共犯従属性説という学説があり、共犯従属性説のなかには、さらに、制限従属性説、極端従属性説等々があると言われて、目を白黒させた覚えがある。 簡単に言えば、人に犯罪をそそのかしたときに、そそのかされた人が、実際に犯罪行為にでなくても処罰されるというのが共犯独立性説、犯罪行為にでた場合に限って処罰されるというのが共犯従属性説で、制限従属性説というのは、たとえば、泥棒をそそのかされた人が、小さな子どもで処罰の対象にならないとしても、 やったことが間違いなく泥棒で客観的に悪いといえるものであれば、そそのかした者を処罰するのには十分だという考えであり、極端従属性説というのは、それでは足りずに、そそのかされた人が子どもでないとか、個人の特別は事情からしても処罰されるべきものだということまで至らなければ、そそのかしたほうも処罰されないという考えである。 しかし、このようなことは言葉を聞いただけではすぐにはわからないし、まして、刑法の条文を見ても、見当がつかない。それと、刑法がわかりにくかったもう1つの理由は、先ほどの例のように、素朴に考えればそう問題になりそうもないことでも、あれこれ難しい議論がついて回り、その意味合いがどうも現実感を以てピンとこないということだった。
 その後、主に刑法の世界で仕事をするようになってから20年以上の年月がたち、その間、よくわからなかったことについて、もしかするとこのようなことかも知れない、と自分なりに思うところが多少出てきたところ、時の法令の編集者から、刑法のことでなんとなく分からないという気がする問題をいくつか分かりやすく書いてもらいたい、という話があり、 身の程をわきまえず、時の法令に2年にわたって連載することになった。
 本書は、その連載に多少の追加、補筆をして1冊にまとめたものである。ここに書いた刑法についての考えは、もちろん、私なりに1つの理解にすぎないが、普段なんとなく寄りつきがたい感がある刑法の議論に、少しでも読者の方に親しみを持っていただくきっかけになれば幸いである。
 平成5年8月  法務省大臣官房審議官  古田佑紀    (『刑法という法律』はしがき から)
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<刑法とはチャレンジし甲斐のある分野なのだろう>  悪いことをすると刑法に従って罰する。刑法とはとても分かりやすい、しかし、とても分かりにくい面もある。あの頭の良い古田が、それを承知でチャレンジしたのだから、刑法とは法律のなかでも奥の深い、チャレンジし甲斐のある分野なのだろう。
 このように書くと専門家に任せておくべき分野のように思われるかも知れない。けれども日本はデモクラシー=民主制度の国だ。専門家に任せて素人は黙っていれば良い、という社会ではない。 愚衆政治と非難される恐れがあっても、国民みんなが同じ1票をもって問題に向かい、答えを選択する仕組みになっている。だから、専門家に任せておけば良い、というわけにはいかない。 素人もそれなりに参加すべきだし、参加できるような分かりやすい議論をすべきだと思う。『刑法という法律』という本は素人にも分かりやすく書いてある。そこで、このシリーズで取り上げることにした。 「死刑は廃止すべきか?存続させるべきか?」アマチュアなりに分かりやすい論理を展開していこうと思う。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版    古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
( 2007年6月4日 TANAKA1942b )
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(12)法律のセンスに馴れておこう
法律解説書から刑法のポイントを説明する

 今週は刑法を扱った本から、分かりやすい部分を引用して、刑法とはどのようなものなのか、その感覚に慣れ親しんでみようと思う。 いろんな本からややアトランダムに選んだのでまとまりはないかも知れないが、それなりに法律の世界、刑法の感覚を知ることができると思う。
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<刑法はどのような役割をもっていますか=『刑法がわかった』(船山泰範)>  刑法の3つの役割
 刑法は、犯罪がなされたときに刑罰を科すものですが、その役割としては、次の3つが主なものです。
@ 予め犯罪窃盗事件とそれに対する刑罰を規定しておくことによって、犯罪の発生をできるだけ未然に防ごうとすることです。
 たとえば、窃盗事件を犯すと一番重いときは10年の懲役に処すると規定されています(235条)。これは、一般の国民に対する関係で、ある程度、威嚇効果が期待されるでしょう。
A 実際に犯罪を犯した人に対して刑罰を科すことによって、2度と同じような過ちを犯さないよう、更生を願うことです。
 今日の刑罰の中核を担っている懲役刑は、受刑者の自由を剥奪することによって、行った犯罪に戒めを与えるだけではありません。 それとともに、警務作業や規律ある生活、篤志面接委員による助言指導などを通して、受刑者が刑務所を出た後、社会生活をやり直すことを期待しているのです。
 なお、篤志面接は、民間の篤志家が刑務所に出向いて、受刑者が抱えている精神的な悩みや、家庭・職業・将来の生活設計等の問題について相談にのるものです。
B 刑法も犯罪の被害者やその家族に対する配慮を怠ってはならないということです。
ただし、ここで忠治しなければならないのは、今日の刑法では、犯罪を社会共同生活に対する悪事ととらえて、理非曲直(⇒正しいことと、そうでないこと)を明らかにするために、国家として刑罰を科すのですから、刑罰について、単に私的制裁の肩代わりと考えてはならないということです。
 したがって、刑法が被害者・その家族に配慮するということは、被害者らの処罰感情が強ければ重くすればよいという短絡的なことではありません。 刑法を適応する実現過程で、被害者の立場を考えた施策がなされるべきだということです。その一例として、犯罪の被害者と加害者とが和解するための場を設けることが検討されています。
 以上3つの役割をまとめると、結局、刑法は明るい社会の実現を目指しているのだと言えます。 (『刑法がわかった』 から)
<無期懲役は終身刑ではないのですか=『刑法がわかった』(船山泰範)>
 終身刑と無期懲役の違い
 終身刑とは、一生、刑務所から出ることのできない刑罰のことです。自由刑(⇒自由という法益を奪う刑罰)の1つの究極の形と言えるでしょう。 諸外国の中には、そのような刑罰を採用している国もあります。
 これに対して、わが国の無期懲役は必ずしも一生出ることができない、というものではありません。というのは、無期懲役・無期禁固についても仮出獄を受けることが可能だからです。
 ここで、懲役と禁錮について説明しておきますと、両者とも監獄(刑務所)に身柄が拘束される点では変わりがありませんが、懲役の場合には、所定の作業(刑務作業)を行うことが義務とされています。
 無期刑については、入獄後、10年を経過した場合に仮出獄の最低条件が整います。ただし、実際に認められるためには、受刑者に改悛の情(⇒自分の犯した罪を悪かったと反省して、あらためる様子)が認められることと、地方更生保護委員会という行政官庁は許可することが必要です。 無期懲役囚についての仮出獄までの入獄期間の平均は約19年10か月です。なお、1999年末現在、無期懲役で服役している受刑者は全国で1,200人に上ります。
 ところで、有期刑については、残った期間をいわば真面目に過ごせば刑期を完うしたことになるのですが、無期刑の場合は、再入獄することがないとしても、一生、仮出獄の身分ということになります。 (『刑法がわかった』 から)
<私人による現行犯逮捕は認められますか=『刑法がわかった』(船山泰範)>
 国民が逮捕される場合
 国民が逮捕されるのは、憲法により、@現行犯逮捕と、A令状による逮捕(逮捕状による通常逮捕)に限られています(憲法33条)。
 これは、」犯罪の疑いがる場合でも、逮捕という行為が国民の身体や自由に対する侵害という面を有しているため、基本的人権の保障にの一環として、特に限定しているのです。
 なお、刑事訴訟法には、別に、重大犯罪について緊急を要する場合に、逮捕をしておいてから後で逮捕状をもらうという、B緊急逮捕(刑訴210条)を規定していますが、憲法違反ではないとするのが判例です。 逮捕状を発布するのは、捜査当局とは別の立場からチェックすることを期待されている裁判官です。
 逮捕をするのは誰か
 逮捕する側として考えられているのは、警察官や検察官という犯罪捜査に携わる人です。
 ところで、現行犯人に接するのは、警察官よりはむしろ一般国民(私人)の方が多いはずです。また、私人が現行犯人を逮捕する機械を奪うのは、犯罪防止の面からも得策ではありません。 むろん、その私人の中に被害者自身も含まれます。
 そこで、刑事訴訟法は、現行犯人については、何人(なにびと⇒だれでも、ここでは、とくに警察官などでない一般の国民でも、という意味)でも逮捕状なくして逮捕することができる旨の規定を置いたのです(刑訴213条)。
 このように、私人による現行犯逮捕が刑事訴訟法によって認められていることから、刑法35条の1つである法令行為に含まれることになります。 また、私人による現行犯逮捕が許される以上、それを実現するための実力行為も許されることになります。
 法令行為については、一般に、違法性阻却事由としてとらえられます。刑罰の執行や警察官の具気使用も法令行為の例です。 (『刑法がわかった』から)
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<犯罪の予防とその鎮圧=『刑法の基本思考』(中村勉)> 人間が社会生活を営み、秩序ある生活を始めてから、種々な犯罪防止と、その鎮圧のための対策が考えられてきました。 しかし、その中でも一番有効で、しかも速効性のある手段として実施されてきましたのが「刑罰」というものでしょう。私たちの社会生活には、ルールを維持するために様々な制裁手段があります。 過程生活においても、親が子供の教育のために不正な行いをした場合に加える懲戒という「制裁」、社会生活において、一定の団体や組織に一員として守るべき責任を怠ったりする場合の訓戒、減俸、 免職といった「制裁」があるでありましょう。また、契約関係において、不当に損害を与えた場合の損害補償といった「制裁」があるわけです。 この点で、私たち社会生活の秩序というものは、種々の内容と種類の「制裁」よって維持されてきていると言っても言い過ぎではないこらいです。 多分、「なになにをしてはいけません」と言い続けられ、それに反する行為をしたとき、精神的意味でも肉体的意味でも、制裁を受けたのではないでしょうか。そのため、人間の社会とは「してはいけない」ことばかりに囲まれて、不自由で息苦しい世界であると感じたことがあるのではないでしょうか。 しかし、なぜ「○△してはいけない」ことがあるのかは、犯罪の考えのところで学んでいるはずですから、想い出して戴きましょう。
 犯罪を行った──特に重罪を犯した──者には、よほどの例外がないかぎり刑罰が加えられるでしょう。刑罰との不利益が加えられるのです。 刑罰も犯罪も条件に加えられる「制裁」なのです。この刑罰という犯罪予防と鎮圧の手段は、人間が国家という社会組織を営むことになって以来、社会生活秩序を平和的に維持するために用いてきた「制裁」なのです。 (『刑法の基本思考』から)
<刑罰改善運動=『刑法の基本思考』(中村勉)>
人間が人間として生きる基本的権利は、犯罪者といえども当然に約束されなければならないという「人間の尊厳性」と「人道主義(人間愛)」の基本精神に基づき、耐え難い残忍な刑罰、不当に重い刑罰、犯罪と均衡のかけた刑罰を改良、改善しなければならないとの改革運動が展開されてくることになるわけです。
 すでに、この改革の点に、私たちは触れています。今から約200年前にイギリスでベッドフォードの執行官であったジョン・ハワードを挙げることができるわけです。 彼は私財を投げうって当時のイギリスをはじめ、ヨーロッパ各国の刑務所の実情を克明に調べ、直接受刑者の様子を実見し、その調査内容を本にして一般に出版にしたのであります。 それが『監獄事情 (The State of the Prisons)』であります。それが刑務所の運営改善と囚人の待遇改善運動の強力な引き金となったのです。 この当時の囚人の取り扱いの実情や、刑務所及びその内部の運営状況を克明に実態調査・記録し、つつみ隠さず報告され、一般国民の理解と啓蒙に大いに寄与することになったのです。 刑務所内の秩序は乱れ、腕力と顔のきく者が暴力的に支配する世界であり、看守はピンはねを公然と行い、食糧事情も貧困で、ほとんど慢性的栄養失調状態であり、構内は悪臭をはなち、不衛生も極に達し、疫病が蔓延し、この伝染病のために、死亡する者は、死刑による死者の数よりはるかに多いという惨状の地獄的状態であったという。 この悲惨な窮状を忠実に国民に知らせ、当局(国家)に改善を訴え、人道主義の観点から、囚人の扱いを抜本的に改めるべきことを世に問うものであったわけです。 このような身を挺した改善の努力と批判の結果、囚人の処遇は大幅に改善が進められ、囚人といえども、人間としての基本的権利を保障すべきことが地道に続けられてきているのです。 この努力は、今日でも怠られてはならないのです。常に、人間として幸福に生きる基本的自由が、犯罪者にいかに行刑の内で可能か、このための最良の方策は、常に模索され続けられなければならないのです。 もちろん、囚人(犯罪を犯したがゆえに一定の事由剥奪という刑罰執行の対象者)であることから、一般人のように、完全な形で、基本的な事由が、約束されるべきものでないことは当然であり、やむを得ないことであります。 刑罰の執行のゆえに、一定の自由拘束や制限は受けざるを得ません。しかし、だからといって、犬や猫のような扱いを受けたり、牛や馬のように酷使されて良いわけではありません。 やはり、最低限、人間としての尊厳性は尊重されなければならないことを忘れてはいけないでしょう。
 このように、犯罪と刑罰、特に刑罰の合理性を社会契約説の立場から根拠づけ、不当な刑罰を批判したのが、イタリアの思想家チェーザレ・ベッカリーアその人であります。 かれは、人間の基本的自由を擁護して死刑の廃止をはっきり訴えた人であります。国家といえども、最も基本的な自由の根拠となる「生命」を奪うことはできないし、それは人間性を無視した、野蛮な行為であると非難したわけです。 彼の著書『犯罪と刑罰 (Dei delitie delie pena,1776)』は、当時のヨーロッパの超ストセラーとなったものです。いかに犯罪と刑罰の理解と、その人道主義的啓蒙に寄与したかがはかり知れないと言えるのです。
 もちろん、この刑罰の改良の点で、わが国においても、世界に誇りうるものが、江戸時代の後期に芽生えていたことは特記すべきことです。 それは、テレビの時代劇にもなっている「鬼平犯科帳」のモデルとなった実在の人物、火附盗賊改方の長谷川平蔵その人なのです。彼の建議によって「人足寄場」という授産目的(今日の職業訓練)と同時に石田梅岩の始めたいわゆる石門心学による教誨教導による道徳的教育を施すことによって、いわゆる無宿者や軽い犯罪を行った者を教育改善しようとする事業が展開され、実際に、社会復帰に成功したことが、伝えられていることは注目に値するというべきでしょう。 この犯罪者や無宿者の社会復帰のための改善・更生の施設と、改善のための基本理念は、わが国独自の発想によるものであることに誇りをもって良いでしょう。 もちろん、今日のように、人権思想の下に、展開されたものでないことは言うまでもないことです。しかし、この江戸幕府による犯罪者の改善及び更生の事業は、幕末に至って見る影もないほど衰退し、困窮し、維新政府に引き継がれず、近代的発展が期待できなくなったのは、誠に、残念なことであったと言わなければならないでしょう。 (『刑法の基本思考』から)
<犯罪者の人権尊重=『刑法の基本思考』(中村勉)>
犯罪者といえども人間として、その者の基本的人権が尊重されなければなりません。では、ジャン在社の人権を尊重し、刑罰を科するとはどのような意味なのでしょう。
 すでに、犯罪を私たちの社会から放逐する有力な手段の1つとして、「刑罰」が必要であることを学んでいるにしても、人権を無視したり、踏みにじるような苛酷な「刑罰」は許されないでしょう。 刑罰は犯罪者にとっても、また、一般国民にとっても「正義」に適っていると感じ、納得できるものでなければなりません。そこで、正義に適ったといえる刑罰とは、どのようなものなのか。 この点が明らかにされなければならないでありましょう。
 適正な──正しいと言える──刑罰とはなにか。このことを問題にするわけです。これは、実は、刑罰の本質とはなにかという最も重大な、そして基本的な問題なのです。
 かつて、ドイツの有名な哲学者であるカントは、人間とはそれ自体目的であって、決して他の人間の手段とはなり得ないと、人間の自由の尊重を高く唱えていました。 この人間観の下では、刑罰は一般予防の手段とか、他の犯罪の予防・鎮圧の手段のために、加えられるべきものではないと考えたのです。 すなわち、人間は、他の者の手段として存在するのではなく、あくまでも、自己喚声のためのみ存在するものであり、それ以外のために、決して存在するものであってはならず、それゆえ、処罰されるものも自己喚声のための自己自身(完結)の存在の確認にあると主張したのであります。 それが人格的存在者として扱うことになると考えたわけです。
 犯罪者を処罰することによって、つまり刑罰が苦痛であることを周知徹底させることによって、国民に管財に近づかないよう威嚇するのは、犯罪者を手段──犯罪予防の道具──として利用したことになるから、決して許されないと批判したわけです。 一般予防のための刑罰は、犯罪者(人間)を他の人の犯罪予防のための手段として用いたというわけです。
 同様に、このカントの考え方は、かの有名なドイツの哲学者ヘーゲルによっても唱えられていたのです。彼は、犯罪者を処罰して、他の国民を犯罪に近づけないように利用するのは、犯罪者を犬や猫のように利用することに等しいことになる、と厳しく反対したのであります。 刑罰を犯罪予防や犯罪者の更生の手段として用いるのは、人間の尊厳性を無視することであると考えたわけです。
 それゆえ、彼ら両哲学者は、刑罰を科する根拠は、犯罪を行ったという理由のゆえに、犯罪に対する報復(応報)としてのみ可能なのであると考えたのです。 このような犯罪に対する報復(応報)として刑罰を捉える考え方を「応報刑主義」と呼んでいるのです。特に、刑罰を加える根拠をもっぱら犯罪の存在のみに求めるわけですから、すなわち、刑罰の根拠は」犯罪のみに絶対的に存在するわけなので、これを「絶対的応報主義」と呼んでいるわけです。 「犯罪」という被害を加えたわけですから、犯罪者は、刑罰によって加えた被害と、同様の被害を身に受けなければならないと見ることになるのです。 これを「同害同報の刑(タリオ)」と呼ぶのです。有名な言葉、「目には目を、歯には歯を」の侵害と同様の被害によって償いをすることが正義に適うと考えたのです。 物理的に全く同じ害をもって報復するわけです。それがカントの刑罰論です。これに対して同じ応報でありながら、すこし、意味を異にするのがヘーゲルです。 彼は、カントのように、物理的な「同害同報」といった応報ではなく、法的価値の視点から応報を捉えようとしたのです。法的価値の視点から、犯罪によって侵害された法的価値を回復するに、相応しい反動としての害を刑罰として加えればよいと考えたわけです。 法的公平の視点から、等価的報復(応報)として刑罰を捉えようとしたと言って良いでしょう。 (『刑法の基本思考』から)
<刑罰の軽重はどうやって決めるのだろう=『刑事法を考える』(石塚伸一・大山弘・渡辺修)>
法定刑を比較するルール
 法定刑の軽重は、@刑法9条に規定する順序によるが、懲役と禁錮の間には、若干の修正のためのルールがある。A無期と有期では、無期の方を重い刑とする。B有期の禁錮の長期が、有期の懲役の2倍を超えるときには、禁錮を重い刑とする。同じ刑の中では、 C自由刑ならば長期の長いもの、財産刑ならば多額の多いものを重い刑とする。D長期または多額が同じときには、短期の長いもの、寡額の多いものを重い刑とする。 そして、刑がまったく同じときには、E犯情の軽重によって、刑の軽重を決める。
 刑法典中の229の既遂犯罪型を上記のルールに従って、法定刑の重い順に並べ、その上限を死刑、無期懲役、無期禁固、15年の懲役、10年の懲役、7年の懲役、5年の懲役、10年の禁錮、7年の禁錮、3年の懲役、2年の懲役、1年の懲役、6月の懲役、罰金および拘留に分類し、 その実数、累積数、構成比および累積比を整理に、それをヒストグラムで表したものが図表1.4.2である。
 生命刑と財産刑は、いずれも5.2%にすぎず、ほぼ90%が自由刑であることがわかる。最も重い犯罪は外患誘致罪であり、最も軽い犯罪は屈辱刑であることがわかる。 業務上堕胎、保護責任者遺棄、逮捕監禁、未成年者略取・誘拐など、3月以上5年以下の懲役の犯罪が中央値付近の犯罪である。
刑法典の刑罰の種類
 主刑
   死 刑
   無期懲役
   無期禁固
   有期懲役(1月以上15年以下)
   有期禁錮(1月以上15年以下)
   罰 金 (1万円以上)
   拘 留 (1日以上30日未満)
   科 料 (千円以上1万円未満)
 付加刑
   没 収 (追 徴)
      (★:生命刑 ◎:自由刑 〇:財産刑)
刑法典中の229の既遂犯罪類型の法定刑の上限
刑の上限 累  計    
死  刑  12件─  5.2% 殺人・強盗致傷・強盗強姦
無期懲役 22件─  9.6%   
無期禁固 23件─ 10.0% 強盗・強姦・傷害致死
懲役15年 48件─ 21.0% 窃盗・傷害
懲役10年 92件─ 40.2% 強制わいせつ
懲役7年 107件─ 46.7% 業務上過失致死傷
懲役5年 138件─ 60.3%   
禁錮10年 140件─ 61.1%   
禁錮7年 141件─ 61.6% 常習賭博・贈賄・器物破損等
懲役3年 169件─ 73.8%   
禁錮5年 170件─ 74.2% 暴行
懲役2年 192件─ 83.8%   
禁錮3年 197件─ 86.0% 遺棄・遺失物横領
懲役1年 211件─ 92.1% 公然わいせつ
懲役6月 216件─ 94.3% 過失致死・賭博・過失傷害
罰  金 228件─ 99.6% 侮辱
拘  留 229件─100.0%   
総  数 229件─100.0%   

 被害者の死亡
 人の生命や身体に危害を及ぼす犯罪について、その軽重を考えてみよう。
 @他人を殺すつもりで行為をすれば殺人罪である(刑199条[死刑又は無期もしくは3年以上{15年以下}の懲役])。 未遂の場合は、減軽することができる。
 A他人を傷つけるつもりだったが、穂会社が死亡してしまったのであれば、傷害致死罪である。(刑205条[2年以上{15年以下}の懲役])。
 B他人を傷つけるつもりで、傷つければ傷害罪である(刑204条[10年以下{1月以上}の懲役または30万円以下の罰金若しくは科料])。
 C業務上必要な注意を怠って他人を死傷させると業務上過失致傷害罪である(刑211条[1月以上]の懲役又は禁錮又は50万円以下の罰金)。
 D他人を傷つけるつもりで、傷害までいたらなければ暴行罪である(刑208条[2年以下{1月以上}の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料])。
 E過失によって他人を死亡させると過失致死罪である(刑210条[50万円以下の罰金])。
 F過失により穂とを傷害すれば過失傷害罪である(刑209条[30万円以下の罰金又は科料])。(中略)
 自由の値段
 それでは、刑罰は、どのように適用されているのだろうか。確定した判決を見てみると、財産刑が約95%を占め、自由刑は5%程度にすぎない。 死刑は年間数件、無罪は100件前後といったところである。このように、法定刑レベルでは自由刑が90%を占めているにもかかわらず、宣告刑レベルでは95%が財産刑であることをどう考えたら良いのだろうか。
 思うに、近代の資本主義経済社会においては、すべての構成員が自らの財産を商品として売ることによって生活の糧を得て生活をしている。 ところが、プロレタリアート(無産者)と呼ばれる人たちは、財産を持ち合わせていないように見える。しかし、よく考えてみると、どの人も、自らの労働力という商品を持っている。 これを時間という単位で市場に売り出せば、財貨を得ることができる。労働を商品として売り出すという偉大で苛酷な発明が、近代市民社会における商品交換のスピードを速め、生産力を飛躍的に発展させた。
 大学に入り、アルバイトを始めた学生諸君には、労働力を時間で売るということが実感として理解できるであろう。懲役1年を自給800円で計算してみれば、いくらぐらいになるであろうか。 その意味で、罰金は軽い刑である。
 私たちにとって、自由はとても貴重な財産だ。他人の自由を大切にしない人は、自分の自由も大切にできない。刑罰として自由を奪われるということの意味をよく考えてもらいたい。 そして、大学生活の中で自由の意味をじっくり考えてほしい。 (『刑事法を考える』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版             古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
『刑法がわかった』                船山泰範 法学書院     2000. 9.30
『刑法の基本思考』                 中村勉 北樹出版     2000. 3.25
『刑事法を考える』        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社    2002. 7.20
『いちばんやさしい刑事法入門』 佐久間修・高橋則夫・宇藤崇 有斐閣アルマ   2003. 4.30
『刑事法を考える』        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社    2002. 7.20
( 2007年6月11日 TANAKA1942b )
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(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ 
「感情」から「勘定」への判断へ

 今週は趣を変えて、法曹界以外=経済学者から見た法曹界を取り上げる。死刑制度にな拘らず、 「法曹界の匂いのしない意見」を取り扱うことにする。ポイントは、<「感情」のよる判断から「勘定」による判断へ>ということだ。 ここでは竹内靖雄著『経済倫理学のすすめ』を中心に話を進めて行くことにする。
*                      *                      *
<「希少性」の制約と倫理問題> 本書は「経済学の発想による倫理学入門」である。
 ここで、「倫理学入門」とは言っても、古代以来数多くの哲学者、思想家が書き残してきた数多くの倫理学的入門書とは、必要とするもの趣を異にする。 本書で取り扱われるのは、「希少性」という制約の下で人々が行動する場合に生じる問題、例えば「人々が欲しがっているものが全員に行き渡るほどには存在しない時に、どのようにしてそれを人々に分配すればよいか」といった 性質の問題である。これを「どのように分配するのが正しいか」、「分配の正義とは何か」という形で議論すれば、普通の倫理学の教科書と似たスタイルになる。 アリストテレスやトマス・アクィナスによってすでに十分論じられたこの「分配の正義」という言葉は、本書でももちろん取り上げるが、ただ、この言葉の意味、用法の学説史的な穿鑿はしない。 例えばこの「分配の正義」ということは。早く言えば「どのように分配すればよいか」という問題であるから、この問題は、誰もがもっている経験と想像力と推理力、要するに「常識」を動員して、単刀直入に考えてみればよい、というのが本書の立場なのである。 しばしば必要以上に難解な、もってまわった表現で語られることの多い哲学者たちの説を紹介するよりも、現実に起こりうる状況を想定して直接問題を解いてみる方が、「頭の訓練」にもなってはるかに有益ではないだろうか。
 ありとあらゆるものが無限に存在して「ただで」手に入り、いくら使ってもなくなるということがない「おとぎの話のワンダーランド」では、他人からものを奪って損害を与える「窃盗」もなければ、分配の仕方が不公平だという問題もない。 おまけに「生命も無限」にあって、人々が不老不死ならば、「殺人」という犯罪もない。このような「夢のユートピア」では、倫理問題も経済問題もなく、したがって倫理学も経済学も消滅しているはずである。 そして、そこに残るただ1つの問題は、「何が美しいか」、「高貴な行動とは何か」、「優雅な態度とは何か」等々の美学的問題になる。実はこれまで倫理学の名で論じられてきた「人間の徳」の中には、この種の美醜の問題に属するものが案外多いのではないか。 「衣食足りて礼節を知る」と言われるのはまさにその例で、「希少性」の制約がゆるんだ豊かな社会では、何よりも「カッコよさ」が求められるのである。「礼節」というのは倫理的に正しい行為というよりも、「サマになってカッコいいマナー」のことを指している。
 しかし、これは倫理学の終わったあとの話になる。残念ながら、本書ではこのような「人間の徳」、つまりわれわれが称賛し、身につけたいと願うような「優れた人間としての質」の問題にはほとんど立ち入ることができない。 ここではあくまでも倫理問題がテーマであって、言いかえると、「どのような行為が称賛されるか」ではなくて「どのような行為が非難されるか」、「何が正義で、何が不正か」、「何が妥当な解決か」といった、ある意味では厄介で不愉快な性質の問題を取り上げる。 希少性の制約の下で「何事もままならぬ」状況から生じるのが倫理問題であるから、もともとそれは考えて愉快になるような問題ではない。 そこで人々は考えることを停止し、思考を節約して、いきなり感情的非難に走ったり怒りを爆発させたりすることになる。これは度を過ぎれば愚行につながり、しばしば困った結果を生む。
 もともと倫理問題は感情問題でもある。「ある人のある行為は正しいか」という問題は、「それが是認できるか、それとも許せないと思うか」という問題であり、数学の問題のように論理だけで正解を見つければよいという性質のものではない。 倫理問題は論理のレベルだけで扱える問題ではない。あるいは哲学者好みの言葉で言えば、「理性」に属する問題ではない。これはデオヴィッド・ヒュームのとった立場であるが、われわれもここではこの立場をとることにする。
 例えば「人々が何を、なぜ不正と考えるか」という問題に対しては、「それは聖書に書かれた神の言葉によって明らかだ」とか、「神が人間が与えた理性に照らして自明のことだ」といった形で答えることはできない。 それどころか、この問題は、人々の「反感」や「嫉妬」のような感情を抜きにしては考えられない性質のものである。また、人が「不公平だ」と言うのは、その人が直接不利益を蒙る場合は無論のこと、そうでなくても他人が「濡れ手に粟」で利益を得たのを知ったりした時であり、このあとの場合、「不公平」という認識を支えているのは明らかに嫉妬という感情である。 「他人の幸福は自分の不幸」であり、だからその逆もまた真で、「他人の不幸は自分の幸福」なのである。しかし、このような嫉妬はどう考えても「高級な感情」ではない。 人前にさらけだすのが憚られるような「劣情」であることは否定できない。そこで人は「濡れ手に粟」の利益を得た行為が、実は「不正な行為」ではないかと疑う。 そして法律に照らして違法であるかどうか、贈収賄にあたるかどうかといった「ケジメ」(区別)はそっちのけで、「何が何でも悪を摘発せよ」という声が高まる。マスメディアも人々の嫉妬を煽り、この声を増幅して、「世論によるリンチ」に熱中する。 倫理問題はしばしばこのような感情問題として人々を興奮させる性質のものである。
 贈収賄が違法であり、不正であることは間違いない。ただ、贈収賄という犯罪は、殺人、強盗、詐欺などの犯罪とは違って、明確な「被害者」がいない。 贈賄をもらった方も渡した方もそれぞれ得をしているけれども、関係のない第三者の「庶民」にどのような実害を与えたかははっきりしない。 それがなぜ犯罪になるか、なぜ贈賄を禁止するルールが必要か、という問題については、感情問題とは別に、もう少し複雑な理由づけを要する。 それにしても贈収賄事件は「庶民の感情を逆撫でする」ものであって、人々がむきになって起こることは殺人や窃盗の比ではない。 その怒りの正体も嫉妬であろうが、このような感情を人間から一掃するわけにはいかないものの、度を過ぎて感情に支配される社会は健全であるとは言えないのである。
 このように、倫理問題のあるものは、ほとんど感情だけで構成されている「感情問題」そのものであって、このことを無視して倫理学を「理性」の領域に閉じこめようとする立場は間違っている。 嫉妬を抜きにした正義論などはセックスの問題に触れない恋愛論に似ている、とはいうものの、何が不正であるかという問題を、人々が嫉妬の情を発動して決めるのに任せておけばよい、ということにはならない。 多数の感情が支持することが正義になる、と言って済ませておくわけにはいかないであろう。 それでは単なる集団的愚行に終わるだけではないか、という疑問が残るのである。人々が「革命的情熱」に駆られて王や王妃の首を切り、あるいは「反革命分子」の粛清と称して大量虐殺に走ったという愚行の歴史を、われわれは後世の第三者として肯定するわけにはいかない。
 そこでわれわれは倫理問題を、その成立の根は感情問題にあることを認めながら、できるだけそれを感情のレベルでは処理せず、可能な限り「勘定」の問題として取り扱う、という立場をとりたい。 というのも、問題の性質が「希少性」という枠の中で妥当な解決を見いだすべきものである以上、できるだけ人々の利益や満足を大きくするような、あるいは損失や不満を少なくするような、無難な答えを得なければならないのであって、それには損得勘定が不可欠なのである。
 しかしそれならば、倫理問題・経済問題はすべて国家が中に入って「公平な分配」を決める、というような形で解決されるかと言えば、そうではない。 どんなに強力な全体主義国家や社会主義国家を考えてみたところで、国家がすべてを計画し、命令し、生産し、配給するという形で「正義」を実現することは不可能である。 それが可能であり理想である、という思いこみがどのようにして裏切られたかは、過去の歴史を眺め、近くはロシア革命以後のソ連の経験、戦後の中国の経験などを眺めてみるだけで十分理解できるであろう。
 むしろ、倫理問題・経済問題は、人々が自由にしたいことをしながら解放されていくのが理想である。そして、「希少性」という制約がある以上、各人が自由に利益を追求するならば「競争」は不可避となる。 そこで適当なルールの下で競争が行われるようにすれば、それは力づくの「闘争」ではなくて「ゲーム」になるから、人々がどのような状態に落ち着くかはゲームの結果に任せればよい、ということになる。
 この競争的な「ゲームのシステム」──経済の場合なら「市場システム」──がうまく働くようにしておけば、ほとんどの経済問題とともに、同じような構造をもつ倫理問題も解決されて、いわば問題としては「消去」されえうことになる。 本書の狙いは、こうして厄介な倫理問題とされているものを極力「消去」していくことにある。つまり、新しい解決と称して複雑な答えを書き加えることではなく、問題の性質、構造を明らかにした上でそれを消していく消しゴムの役目を引き受けようというものである。
 この「消却」と「損得勘定」という手続きは、伝統的な倫理学が固定してきた感情をしばしば「逆撫でする」ことがあるかも知れない。例題として設定した問題にはその種のものが混じっている。 また、それに対して示した「考え方の例」にも習慣化した道徳感情の動きとは食い違うものがあるかもしれない。しかし本書はこれらの問題に決定的な解答を用意したものではなく、問題の解き方のヒントを示したものにすぎない。 倫理問題は、数学の演習問題と同じで、原理を明確につかんだ上で実際に解いてみることに意味がある、ということなのである。 (『経済倫理学のすすめ』から)
*                      *                      *
<「感情の問題」を「勘定の問題」に> 経済問題と倫理問題は同型の構造をもっている。この点に着目すれば、倫理問題すなわち「感情の問題」を可能な限り「勘定の問題」に還元し、競争の場である市場にゆだねて解決することができる。 同じように、感情に支配される世界の常識(実は非常識)を、市場の論理を使ってくつがえしていくと、嫉妬に発する私欲否定の正義がしばしば愚行に終わることも明らかになる。
 この本も、感情を勘定に還元して倫理問題を消却しようとする立場に立ちながら、成熟した市場社会である日本の社会と日本人の行動の表層を批評する試みになっている。 そして日本人がその行動を倫理的に正当化するために利用し、あるいは私益追求の行動の指針として採用しているさまざまな思いこみや知識、イデオロギーなどを「迷信」と名づけ、その正体を分析することを目指している。 つまり、この本はその意味で、迷信の「見えざる手」の働きを明らかにしようとした「経済倫理学応用編」であるということができる。(中略)
 今日の市場社会ではさまざまな迷信が流通している。
 この迷信とは何の根拠もない荒唐無稽な説ではない。迷信にはそれぞれもっともらしい根拠があり、信じるに足りる理由が用意されている。 だから人はその説をもっともらしいと思って信じるのである。信じるに足りる理由がかならずしも「盲信」や「妄信」ではない。 血液型で性格が決まるという説にも「**を食べれば健康になる」という説にもそれなりの理論があり、経験上の裏づけらしいものがあるし、「**を信じることによってあなたも救われる」という宗教的な教えは、しばしば複雑精妙な教義の体系で支えられている。 そして簡単には反論を許さない。ここが実は迷信の迷信たるゆえんで、その誤りが簡単に証明されたり、簡単に論破されたりするような「謬説」、「珍説」のたぐいでは大した迷信とは言えない。 第1級の迷信は、それが間違っていると証明することが不可能であるためにまさに正しいと信じられてしまうような説なのである。 「宇宙人の乗ったUFOは存在する(それを見た人がある)」という説に対して、「それは存在しない(見たというのは間違いである)」ということを証明することは不可能であろう。同様に、「神は存在しない」ことを証明するのも至難のわざである。
 日本も他の国に劣らず迷信の栄える国である。その繁栄ぶりからいえば世界有数の迷信大国かもしれない。その最大の理由は、日本には一神教タイプの宗教という、他を寄せつけないような「大迷信」や多くの人を支配する「大思想」(たとえばかつてのマルクス主義)の独占的状態が存在しないことにある。 つまり日本は宗教、思想、迷信などの情報市場が競争的で、人々が消費して楽しめるような迷信情報が氾濫しているのである。宗教をとってみても、日本人は冠婚葬祭から入学、病気快癒等々まで、その時々の必要に応じていくつもの宗教のお世話になり、お賽銭、戒名料、お布施などを支払っている。 こうして、宗教も今ではサービス産業の1つとして繁盛しており、日本人はある宗教を信じて命を捨てたり他人を殺戮したりするといった行動とはおよそ無縁である。 このようは社会の居心地のよさに日本人は気がついているのかいないのか、日本には本物の宗教がないとか、日本人は信仰心がないとか、不思議な迷信を真に受けて肩身の狭い思いをしている。
 何が真実であるか、何が正しい説であるか、何が正義であるかについてむきになって議論するという習慣は日本がまだ貧しい時代のものであった。 その頃の貧しい欲求不満人間の代表であった学生たちの中には、そういう議論に明け暮れて、ついにはマルクス主義を奉じ、「革命」のために闘うといって警察官を相手に市街戦ごっこに熱中するものもあった。 しかし高度成長の達成とともに、学生たちもこのような思想にとりつかれて行動するという「まじめさ」を卒業したようである。かれらも豊かな消費者の仲間入りをしたので、今は消費生活とそのためのアルバイトにだけ関心があり、ポスト・モダン系その他、多種多様な思想のファッションも遊びの情報も、すべて消費して愉しむだけである。 こういう状況は、成熟した市場社会にふさわしい情報市場の姿であり、「知的消費生活」の姿であって、今後この傾向が逆転することはないであろう。
 そこで人はそれぞれ自分の立場と現状を正当化してくてる迷信を信じて「かのように」行動し、快い迷信を選んで消費しながら生きている。 この「かのように」の生き方、「かのように」でつくられた世界というものが、実は普通の生き方であり、普通の世界なのである。 それをとりあえず本物とみなして生きることが普通の人の知恵であり、またそれが大動乱でも起こらない限り一番無難な生き方でもある。
 人はさまざまな迷信にもとづいて行動した結果、愚行に走ることもある。しかしそれが愚行であるかどうかは簡単には分からないことが多いので、愚行のために自分が損をしたり、世間に迷惑をかけて非難されたりした時にはじめて、それが愚行であったことに思いいたるのである。 そして賢い人ならそれを引き起こした考え方の間違いに気づき、それがまさしく迷信にほかならなかったことを知るのであろうが、ほとんどの人はこの経験もしないまま生きていく。 だから多くの迷信は安泰である。そして人々が飽きて捨てるまで迷信は栄える。
 こうして迷信の繁栄とともに、いたるところで「小愚行」のバブルが発生するけれども、全体として社会は安定して存続し、社会そのものが破滅的な「大愚行」に陥ることはない。 この不思議さ、あるいは「いい加減さ」をアダム・スミス流に説明するならば、すべては迷信の「見えざる手」に導かれるかのように進行し、かつ大過ない結果に到達する、ということになる。 人は国家から「唯一の正しい説」を配給してもらうわけでもなく、政府に正しい行動を指示されるわけでもなく、また大賢人の説に導かれて行動するわけでもなく、それぞれ迷信を奉じて「愚考」し、「愚行」する。 しかしそれで社会が大過なく動いていくのは、根本のところで人々の目的がそれぞれの自己利益にあるからで、迷信は人々を試行錯誤へと導く「見えざる手」となっているからである。 つまり、これがアダム・スミスの「見えざる手」が働く世界の表層の姿にほかならない。
 ただし、ここで個人も社会も大きな愚行に陥らないためには、迷信の迷信たることを知った上で、それを真なりと認める「かのように」行動することが重要である。そこで迷信の薄い皮を剥がしてその正体をよく吟味してみることが必要になる。
 本書ではこのような立場から迷信の繁栄する市場社会の姿を分析している。それは、さまざまの迷信が嘘であり間違っているということを「証明」しようとするものではなく、それらの迷信の正体と役割を明らかにすることをめざしている。 (『迷信の見えざる手』から)
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<「利己的な遺伝子」> 問題 人間には自分が犠牲になってわが子を助けるといった利他的行動が数多く見られる。 動物の場合も、母鳥が自分を危険にさらして襲撃者を引きつけることでヒナを守ったり、カマキリのオスが交尾の際メスに食われてメスのための栄養源になったりするような、一見利他的に見える行動が知られている。 動物、人間を問わず、「種の維持」に貢献する自己犠牲はある種の合理性をもつ行動として一般に行われているのではないか。
 確かに、この種の行動は広く見られるもので、人間や動物の「母性愛」あるいは「母性本能」という言葉で説明され、美化されている。 それと同時に、こうした一見利他的な行動は、その種族の集団全体の生き残りという目的に照らして合理的なものである、という説明もよく聞かされてきたところである。
 たとえば、40歳の母親が生き残るよりは10歳の子供が生き残る方が、将来子孫を残す可能性が大きい。「母性愛」に導かれた母親の自己犠牲は、結果としては人類全体の生き残りに貢献することになる。 このような「有益な利他主義」は、人間にも動物にも、いわば行動プログラムとして内蔵されているのではないか、「個体の生き残り」を至上とする利己主義の原則には反していても、この限りにおいて合理性があるのではないか…… といった説明は一応もっともらしい。それは利己主義の原則に加えて、種の保存という目的にとって有効な利他主義的行動を、例外的な補完物として認めよう、という立場である。
 もちろん、これは証明することはできない1つの「解釈」であるにすぎない。それならば、同じ解釈としては、単一の原理による例外なしの統一的な解釈の方が優れているのではないか。 そこで注目されるのがR・ドーキンスなどが提唱する「利己的遺伝子」(selfish genes) という考え方である。この考え方によれば、個体の種の保存あるいは集団全体の利益にかなうよう行動する、という曖昧な解釈を採らず、動物の行動は、結果において遺伝子自身の永続と拡散に役立つようプログラムされているかのように見える、ということになる。 もちろん、動物の個体がそのことを意識して行動するわけではない。また個体が「利己的な遺伝子」から直接指令を受けてそのように行動するわけでもない。 結果がそのように、つまり遺伝子が自己保存を目的として行動しているかのように解釈できる、ということなのである。
 例えばライオンのオスが、ライバルのオスを追放してメスを手に入れた時、前のオスとの間にできた子は殺してしまう。ゴリラのオスは子連れのメスかた子供を奪って殺す。 すると子供を奪われたメスは発情し、そのオスについていく。
 これらの行動は、「子供の生き残りを図ることが種の保存に一層貢献する」ということでは説明できない。母親はなぜ自分の生んだ子供を新しい夫から守らないのか。 人間の場合はさらに極端で、愛人や新しい夫に嫌われないように、邪魔になる自分の連れ子を母親自身が捨てたり殺したりする例があとを断たない。
 オスの立場からすれば、他のオスの遺伝子をもっている子を殺し、それによって授乳中は発情しないメスを発情可能な状態に導き、自分の遺伝子をもった子を残す方が合理的である。 メスの立場からすれば、前のオスよりも強くて優秀な(ということはオス同士の戦いによって結果が出ている)オスの子をつくる方が、これまた自分の遺伝子の永続にとっては有利である。 したがってライオンその他の「種内の幼児殺し」は異常な行動ではなくて、きわめて合理的な行動だということになる。動物の世界には、原則として、合理性から逸脱しているという意味で異常なものはない。すべては余りにも合理的である。 (『経済倫理学のすすめ』から)
<犯罪を経済学的な観点から見る> 犯罪はある人間が他人に危害や不利益を与える行動であるから、犯罪があればかならず不正が生じる。 被害者は正義回復のための措置を取らなければならない。一方、国家は犯罪者を逮捕し、処罰するが、これは被害者の正義回復を代行してくれるものだろうか。 たとえば、人を殺した者を裁判にかけて死刑にすることは、国家は犯罪を抑止するという国家自身の目的のために犯罪者に刑罰を科すのであって、被害者の正義の回復は、これと別に、加害者に対する損害賠償請求によって行うほかない。
 犯罪を抑止するためにはさまざまなコストがかかる。社会はいくらでもコストをかけて犯罪の絶滅を目指すというわけにはいかない。 また、警察が個人に関するあらゆる情報を持っているような「超警察国家」をつくることもできない。犯罪を抑止するためには、まず犯罪を行うことが「引き合わない」ような厳しいペナルティを用意することが必要である。 2200年以上前にこの経済学的な発想をはっきり述べたのは韓非であった。何をしても「怖いものがない」社会では、多発する犯罪に対応するためにますます多くのコストをかけなければならないし、しかもその効果が期待できない。 犯罪者を罰しないで保護・管理することが人権拡大だと思うには錯覚である。
 市場では、ルールの下で、自分の責任において、自分の利益を自由に追求するのが原則である。今日の市場社会は、個人が最大限の「自己決定」の自由を主張する方向に進んでいるが、この最大限の自己決定権と抱き合わせになるべきものが最大限の自己責任である。 自由に行動する以上、失敗した時に国家の救済や保護を当てにすることはできない。
 本書では、人権派と同じく、最大限の自己決定の自由を支持する立場をとる。ただし、人権派とは違って、同時に最大限の自己責任を要求する立場をとる。 刑事裁判においても、被告の責任能力を最大限に認めることを原則とすべきであり。犯罪者についても、「心神喪失」といった自己決定能力欠陥を軽々しく認めるべきではない。 それは犯罪者の人権を無視することになる。未成年者についても同様である。
 日本でも、「お上」すなわち「官」が、さまざまなトラブルを規制・指導・保護といった行政的な手法で処理する形から、裁判によって司法的に解決する形へと移行する傾向が見られる。 このことは、日本もアメリカ型の訴訟社会に近づかざるを得ないことを意味する。「お上の裁き」に近い性格を残している日本の裁判も、「両当事者が判定者を前にして争うゲーム」の性格の鮮明なアメリカ型の裁判に近づくことになるであろう。 しかしそれは、日本もアメリカ型の陪審裁判を採用すれなよいということではない。陪審制にしても参審制にしても、市民参加型の裁判には重大な難点がある。 司法改革がこの方向を目指すことには賛成できない。また、アメリカのように、企業から巨額の懲罰的損害賠償を獲得する一攫千金的ビジネスとしての弁護士産業が膨張していくのも歓迎すべきことではない。 とはいうものの、日本のようの弁護士・裁判官・検察官が人口に比べて異常に少ない状態をこのまま続けることはできない。超難関の司法試験によって法曹人口の「供給制限」をすることで。司法サービス産業を競争の少ない「聖域」に隔離しておくのは間違っている。 (『法と正義の経済学』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『経済倫理学のすすめ』「感情」から「勘定」へ  竹内靖雄 中公新書   1989.12.20
『迷信の見えざる手』              竹内靖雄 講談社    1993. 9.30
『法と正義の経済学』              竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』         小谷清 日本評論社  2004. 5.20
( 2007年6月18日 TANAKA1942b )
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(14)レントシーキングと規制緩和
法曹界に市場経済の空気を入れてみよう

 今週も先週に引き続き法曹界以外=経済学者から見た法曹界を取り上げる。死刑制度に拘らず、 「法曹界の匂いのしない意見」を取り扱うことにする。キーワードは「レントシーキング」だ。どういうことか?徹底した自由経済の立場からの意見を聞いてみよう。
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<陪審員制度・公的領域への参加は国民の義務か> 「公」の領域への一般市民の参加は市民の権利であり義務である、というタテマエに隠れて人は気づかないかも知れないが、陪審制や参審制は、素人を低報酬で使う、民間活力の悪しき利用の例である。 市民の参加といえば、民主主義の精神からしてそれは当然のこと、「多々益々弁ず」と信じて疑わない人が多い。しかし現実の陪審制や参審制は、こうした美名の下に一般市民に奉仕活動を強いるものであり、低報酬での奉仕活動を欲しない人たち、つまり多忙で高収入の人たちに忌避される仕事であることは間違いない。
 現にアメリカでは、安い日当でもないよりましという人、仕事のない人(失業者を除けば、専業主婦と老人)が陪審員をつとめる傾向がある。 日本にも暇を持て余している人が多いので、こういう人たちは低報酬など問題にせず、進んで参加しようとするかもしれない。 しかしカルチャーセンターや宗教団体の奉仕などへの参加と裁判への参加とでは、事の性質がまったく違うのである。
 政治に参加すると称して数千万票の中の1票を行使するのと、政治家、すなわち国会議員として立法の仕事に従事したり、大臣になって他国の首脳と会ったりするのとでは、参加の性質に根本的な違いがある。 後者のような政治参加は、選挙で選ばれ、正式に任命された人にしかできない性質のものである。官僚は選挙で選ばれた人間ではないが、それでも国家試験に合格して採用された人たちである。 行政参加と称して一般市民が官僚の仕事を分担することはできない。できるのは「1日警察署長」、「1日税務署長」までである。
 江戸時代には公務員としての警察官(与力・同心)はきわめて少なかったので、実際の捜査活動や情報収集は、正規の警察官でも何でもない目明かし・岡っ引きなどと呼ばれる町人が、わずかな小遣いをもらい、あるいは「目こぼし料」その他の好ましからざる収入を自ら稼ぎながら手伝っていた。 よくいえば「警察への市民参加」であり、実際はいい加減な民間下請け制であり、要するに「民間活力」の利用による公的支出の節約である。 陪審制・参審制にも民間人の利用という点で、これと同じ意味が含まれていると言わなければならない。 (『法と正義の経済学』から)
陪審裁判への根本的な疑問
陪審制や参審制がなぜ好ましくないか。
 個人が政治、行政、裁判に対して自由に批判し、不適正な政治、行政、裁判が行われるのを何らかの方法でやめさせる行動がとれる、ということは重要である。 その方法とは、選挙で落選させることで、そして、訴訟を起こすことである。アメリカでは政治家だけでなく、判事・検事も選挙で選ぶことができる。 ということは、好ましくない判事や検事を当選させないこともできる、ということを意味する。日本では最高裁判所判事が国民の審査を受けることになっているだけである。
 しかし参加する意志のない個人を、義務だと称して政治、行政、裁判に強制的に参加させるのは好ましいことではない。 これは消費者を製品の製造現場に参加させるようなものである。個人は自分の責任で自分の仕事をするのが原則で、自分が好きで選んだものではない国家の仕事(公務)を割り当てられ、強制的にやらせるべきではない。
 政治家(国会議員)、官僚、裁判官などの公務員は、いずれも自ら進んでその仕事を選び、報酬を得てその仕事をしている。 そしてその仕事に責任を負っている。裁判の仕事も裁判官に任せるべきであり、「1日○○」」を体験してもらうだけならともかく、責任ある仕事を責任のとれない素人に分担させるべきではない。
 個人が自分の仕事を離れて公務に参加すればよい、という「参加主義」は特殊な思想である。かりに個人が全員平等に国家の仕事(司法・立法・行政)を分担すべきだということなら、抽選で議員になって議会で仕事をすべきだし、「1日警察署長」ではなく、交代で警察署長や警官の仕事も実際にやるべきであろう。 もちろん、兵役の義務も全員に課すべきであり、少なくとも抽選で兵役に服することにしなければならない。
 古代ギリシャのポリスでは成人男子の市民には兵役の義務があった。ポリスのような小規模な都市国家では、成人男性の市民全員が兵士として戦うことを原則としなければ、対外戦争もポリスの防衛も成り立たなかったのである。 この「国民皆兵」の原則は、近代になってナポレオンが復活させたが、数千万から数億規模の近代国家ではこの原則は無理であると同時に不必要でもある。 現在、多くの国では徴兵制度をやめており、平時には、職業として軍人になることを選んだ者だけが軍隊を構成している。同じことが政治、行政、司法についても言えるはずである。 公的サービスの供給は、それを専門の職業とする公務員によって行われており、それを職業としない「素人」にまで供給側の仕事を強制するのは変則的なやり方である。
 一般市民の裁判への参加を義務づけることが望ましいというのであれば、次の条件が必要になる。
@陪審員または参審員の選任は無作為抽出を原則とする。
A例外的な理由(病気、心身の能力に問題がある者、選挙で選ばれた公職にある者など)による場合を除いて、選任を拒否することはできない。
B陪審員または参審員に選任されたことでこうむる金銭的不利益やチャンスの喪失その他の不利益については、十分な補償を行う。
 @、Aのような厳しい条件で国家への奉仕の義務を課されることになると、これはかの徴兵制度と何らかわりがないではないか。 国民全員が平等に司法参加の義務を果たすべきだという立場は、同様にして全員が平等に兵役の義務を果たすべきだという立場に対応している。 後者には反対だが前者は歓迎するというのは筋が通らない。
 陪審制にしても参審制にしても、職業裁判官以外の市民を参加させることの1つの利点は、その方が明らかに安上がりだということである。 彼らは「薄謝」(きわめて安い日当)でその義務を果たすことになる。重要な仕事を抱え、それによって高い報酬を得ている人に対してその仕事上のロスや「失われた報酬」を十分に補償するといったことは、一般には不可能であろう。 アメリカでもそれは行われていない。とすれば、別の分野で専門的な仕事をもち、高収入を得ているような「信頼できる人」ほど裁判への参加を忌避する強力な動機をもつことになる。 さらに、陪審員や参審員を引き抜かれた企業、学校その他の組織では、そのために生じた仕事の穴を埋めるためのコストを負担させられることになるが、国家にはそれに対する補償までする気はないであろう。 (『法と正義の経済学』から)
裁判はボランティアには任せられない では陪審員はやりたい人がやる、というボランティア活動方式はどうだろうか。実はこれこそもっとも好ましからざりやり方である。陪審員や参審員を意欲があって応募してくる人にやってもらうということにすれば、特殊な考え方の人だけが熱心に応募してくる恐れがある。 高額の報酬を支払う場合には、それを目当てに応募してくる人も増えるであろう。いずれにしても、この制度が偏った考え方のグループに「活用」され、自分たちの利益実現のために利用されることになるのはもっとも好ましくない。
 もちろん、ボランティアを募って陪審員または参審員を任せるという方式こそ市民参加の司法のあり方にふさわしいと考える人も少なくないであろう。 しかしこれが最悪の方式である理由は別にある。それは、裁判のような公的な意志決定に、「資格を審査されず、投票による支持も得られていない市民」を直接参加させるべきではない、ということにほかならない。 積極的に裁判に参加したい市民には参加する権利がある、という考え方は間違っている。
 自分から手を挙げる人々を参審員として認める場合は、「参審員試験」によって資格ないしは適正を認定するか、立候補制にして選挙で選ぶか、いずれかの手続きを経なければならない。 裁判所が適当に審査して「公平で良識ある」参審員候補を選び、その中で引き受けてくれる人を選任する、といった手続きではダメである。
 さらに重要な問題点は、こうして裁判に参加した素人市民に対して、誤審や「問題判決」の責任をどのように追求するのか、ということである。 一体、彼らは参加することにのみ意義があると称して参加した市民代表であって、その仕事ぶりや責任は一切問われなくてよいということだろうか。
 市民参加型裁判が物事を画期的に改善するだろうという期待には根拠がない。それは、消費者を工場の生産現場に参加させればよい製品ができる、あるいは欠陥製品の生産が防止できる、といった考え方に似ている。 こんなことは実際にできない相談である。 (『法と正義の経済学』から)
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<ロースクール構想の経済学・どのような制度なのか> ロースクール構想と呼ばれた企画に基づいて法科大学院が2004年4月に開設される予定である。 この構想は、適切な法曹人の選抜方法として機能していないと現行司法試験制度を強く批判した上で、ロースクールを中核とした法曹人養成を求めている。 より具体的には、この構想は司法試験制度を廃止し、新たに設立するロースクールの卒業を法曹人となる唯一の資格要件とすることを提言している。 構想では、新たな形で司法試験が存続する場合にはロースクール卒業を受験資格とし、ロースクール卒業生のほとんど、8割程度が新司法試験に合格するものとされた。(中略)
 社会の基本的条件から生じ、政府の作為なしで生じる秩序(自生的秩序)と一致するのでなくて、政府の作る公的秩序は花壇が原野に戻るように自生的秩序に取って代わられてしまう。
 ロースクール構想の目的は、内容は何であれ政府認定のロースクール卒業を法曹人となる唯一の要件に、(事実上)することによって、官製秩序である公的法曹教育とその関係者を自生的秩序から守ることと思う。 つまり、ロースクール構想は法曹人口の拡大を目的としてあげるなど一見規制緩和の一環として進められているように見えるが、自生的秩序の形成に対抗するための法曹に対する規制強化であり、経済学でいうレントシーキングである。
 自生的に生じる秩序は混乱・不潔といったものにしか多くの人々には見えない。それは、いかがわしく、不正規なものと、ときには道徳的糾弾を伴って嘆かれたりさえする。 このような自生的秩序に対する一般的反応を背景とすると、公的秩序に利益を有する人々が自生的秩序に抗い、レントシーキングを行うとき、彼らが正義の側に立っているかのように映る。 ロースクール構想はこのような例である。
 ロースクール構想はレントシーキングであるのにもかかわらず、市場主義の旗を掲げる人々がこの問題に沈黙を保ってきたのは興味を引かれる現象である。 その理由の1つは、法学部同僚の利益にはあえて反対しないのは仁義(暗黙の結託)であるという常識的な考慮であろう。しかし、もっと奥深い理由も存在するように思われる。 それは、日本的市場主義者が市場さえも官製であると考えるほどの設計主義者・制度主義者であることである。彼らは本当の自生的秩序には共感がなく、不潔感をむしろ抱く一方で、官製の公的秩序(本章では法曹教育の場として政府の決めた教育機関)を当然のものと見がちである。 このため、教科書的条件反射を引き起こさないロースクール構想のような非教科書的文脈でのレントシーキングに対しては、日本的市場主義者は官製秩序を守る側に自然に立つ。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
レントシーキング ロースクール構想と呼ばれるものは論拠薄弱な現状批判に基づいたものである。そのようなものがなぜ強く推進されるのかを憶測すれば、ロースクール構想は経済学でいうレントシーキングを本当の目的としているからだと思われる。 レントシーキングとは、特定の集団が、法的行政的な各種規制の導入や保護策などの供給制限的措置によって、さもなければ得られないような権益・特権を自分たちに付与するように政府に働きかけることである。 政府の認定を受けたロースクールの卒業生を事実上唯一の法曹人になる必要要件とするのは、政府の認可した整備工場で検査を受けなければ車検を得られないとか、自動車運転免許の更新の際の提出書類は自動車免許試験場の周囲に群がる事務所に作ってもらわないと事実上受け付けてもらえないとか、 国際競争力に劣る日本の農業やアメリカの鉄鋼業界が国内需要を自分たちに向けさせようと輸入規制を政府に働きかけるとの同じことである。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
公的法曹教育の衰退
法曹界にあって中心的な存在であったとはいえない大学法学部は、代替的な法律教育機関である司法試験受験予備校の最近の伸長によって法律教育機関としての地位をも大きく脅かされるようになった。 日本の農業と同じように成り立ちえなくなった法学部業界は(事実上の)ロースクール義務化によって自らへの需要をつけてくれるよう政府に要求しているのである。これがロースクール構想の主眼である。
 旧帝国大学の大学院重点化によって制度的に拡充された旧帝大の法学系大学院では閑古鳥が鳴いている。これが一般に知られて法学系大学院の社会的低評価とその拡充の無用さが、だれの目にも明らかになれば、直接間接の不利益を旧帝大法学系大学院は被る。 ロースクール義務化によって定員を埋めて(振り替えて)、これを未然に防ぐこともロースクール構想の目的とされているのであろう。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
花壇を蔽う雑草
指定工場での車検や運転免許更新書類作成の問題は規制緩和によって消滅した。農業保護策も旗色が悪い。しかし、規制緩和の一環と一般には理解されているものの中に、新たな規制強化がすべり込まされようとしている。食料に不自由しない国での農産物輸入規制はそれほど重要でもない分野での規制であり、レントシーキングである。また、それによって利益を得る人々も日本社会では必ずしも恵まれているとは言えない人々である。 ところが、司法という社会の根幹とされる分野で大学法学教授のように恵まれていないとは言えない人々が、規制緩和の美名の下で政府からの保護と権益を求めている。
 ロースクール提唱者は、現行法曹選抜制度の不適さの象徴として司法試験予備校についていかがわしい印象が抱かれるように努めている。 しかし、有力大学法学部学生が有力大学法学部の授業をなおざりにし、有力大学法学部教授を無視して、いかがわしい予備校に通学して司法試験に合格し、しかも有力法学部も卒業する。 これほど有力法学部の社会的威信を揺るがすものは少ないであろう。司法試験予備校の繁栄は有力法学部が裸の王様であるにすぎないことを示し、長く批判されてきた受験体制や学歴主義の土台を掘り崩す最も有効な働きとして歓迎すべきものではないだろうか。 ロースクール義務化は、ロースクール設置対象校とされる無用な権威を永続化するのに役立つだけではないだろうか。
 政府が意図したからといって望んだ秩序が生まれるわけではない。経済社会の基本的条件に合致しなければ、それは存続し得ない。 花壇が雑草に蔽われる如く、官製秩序は自生的秩序に取って代わられてしまう。国公立、私立を問わず、法学部は法曹養成を目的とした官製秩序である。 この花壇は、自生的に生じた雑草のような司法試験予備校に取って代わられてしまった。ロースクール構想は、予備校という雑草から花壇を守るための除草剤といえよう。
 長く社会的権威を保ち続けたものが、その権威を支えていた社会的意義を失ったとき、その穴を埋めるものがひっそりと自生的に生まれる。 それは、成長するにつれていかがわしく、胡散臭くスキャンダラスな存在として軽蔑され、社会の庶子のように白眼視される。 しかし、それは既存の無内容な権威の基礎を白アリのように着実にむしばみ世の中を変えていく。既成の権威はその非正規性をさげすむように対抗し、その社会的認知を遅らせようとする。 現代日本社会で盛んに試みられている、政治家・官僚・ジャーナリズムとそれに連なる人々が行政的にまたは法令によって社会を変えようとする行為は、本当の改革ではない。 市場経済化とか既成緩和といった美名の下で行われていても、社会主義的・計画経済的発想の権威的行為である。本当の社会改革・市場主義的改革とは、社会的に胡散臭く見られている非正規の存在が既存の権威を朽ちさせていく、一見猥雑で不潔な印象を与える過程である。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
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<治癒力・自生的秩序・盲目の時計職人> ほんの少し前まで「平成不況から脱出するため、日銀は買いオペを進め、インフレターゲット政策を行うべきだ」との主張が聞かれた。そこには、「日銀の政策次第で不況から脱出できる」との期待があった。 つまり「不況は日銀の政策次第で脱出できる」「経済はコントロールできる」との考えがある。それに対して「自生的秩序」があると考える人は、そうした考えを「設計主義」と批判する。「設計主義」と同じようなイメージに、TANAKAがよく使う「治癒力」やR・ドーキンスの「盲目の時計職人」などがある。
 生物の進化は、ある一定の方向を持っているわけではない。現在、生態系のバランスがとれているからと言って、神がこの秩序をつくったわけではないし、初めからこの秩序に向けて進化が進んできたわけでもない。それをR・ドーキンスは「盲目の時計職人」と表現した。 ハイエクは「設計主義」「自生的秩序」という言葉を使った。こうしたセンス・感覚は、違う感覚の人には理解も納得もできないかも知れない。それでも、「自生的秩序」「治癒力」「盲目の時計職人」といったイメージを持つ人がいることだけは知っておいて欲しい、と願う。
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<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』       竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』  小谷清 日本評論社  2004. 5.20 
( 2007年6月25日 TANAKA1942b )