死刑にしたい独裁者がいる
死刑廃止でどうなる?
廃止論者は代替え案の提示を
試案
@死刑 A無期懲役 B懲役30年
ABで10年服役したら「仮釈放」の申請ができる。許可されなければ以後10年ごとに申請できる。過去許可されたのは7人。
ABで仮釈放され10年したら「釈放」の申請ができる。許可されなければ以後10年ごとに申請できる
ABで最短20年少しで釈放される可能性がある。犯行後の、反省、社会復帰への意欲、ボランティア等、評価される
2007年9月10日更新
▲
趣味の経済学 Index
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/
▲ 戦後最大の金融事件は進行中
FXは相対取引
客の損した分が業者の売上
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/fx-24.html
▲
日銀は失敗を隠している
量的緩和政策は ひびの入った骨董品
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/inflation.html
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/inflation-2.html
……… は じ め に ………
♣ 刑法は、
だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。
人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、それに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。
それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。
そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
♣ これは『刑法という法律』改訂版(古田佑紀著 国立印刷局出版 2005.4.1)の1ページ目の文章だ。
平成17年8月に最高裁判所の判事に就任した古田佑紀が、法務省大臣官房審議官に書いた本で、刑法をこのように表現している。
その「分かったようで」「よく分からない」刑法を経済学の見方で考えてみようと思い立った。と言っても、その内のほんの一部分、「死刑制度」について考えてみることにした。
専門家の中にも「死刑廃止」を主張する人がいる。その根拠は大体同じ様なものだ。よく考えると「死刑を廃止するとおかしなことが起こる」「死刑に代わる適当な制度がない」「従って死刑制度は存続すべきだ」となるのだが、そのような考え方は、専門家の中からは出てこない。また、死刑を廃止した後にどのような刑を作るのか、ハッキリしない。「死刑廃止を主張する。後は専門家に任せる」ということなのか?
そこで、アマチュアエコノミストが「法曹界の匂いのしない立場」から、死刑制度を話の取っかかりとして、刑法を経済学的に考えてみることにした。
どのように展開して行くのか、多分、いつもと同じように、ダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。 (勝手に引用して御免なさい ぶるでん へ)
目次
死刑廃止でどうなる?
刑法を経済学的に考えてみよう
♣(1) 人を殺さなくても実質的な死刑
「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある
( 2007年3月19日 )
♣(2) 団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう
人格の尊厳を認める法理論とは ( 2007年3月26日 )
♣(3) 死刑執行停止法の制定という主張
仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案
( 2007年4月2日 )
♣(4) 死刑廃止を支持する女性作家の意見
法体系とは無関係の立場からの感想 ( 2007年4月16日 )
♣(5) 宗教家も死刑廃止を強く主張する
実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教 ( 2007年4月23日 )
♣(6) 人の生命は、全地球よりも重いか
残酷な死刑は廃止したい、という感情論 ( 2007年4月30日 )
♣(7) 法曹界の死刑廃止論を聞いてみよう
誰も銀行強盗事件は予想もしていない ( 2007年5月7日 )
♣(8) 殺人犯でなくても、実質的な死刑は必要
銀行強盗以外のケースを想定する ( 2007年5月14日 )
♣(9) 1人の生命が重いからこそ死刑制度を
軽いのなら関係者同士で仇討ちを ( 2007年5月21日 )
♣(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの?
目には目を、反省・償い、抑止力 ( 2007年5月28日 )
♣(11)刑法という法律』をやさしく解説
古田佑紀、今は最高裁判事の著書から ( 2007年6月4日 )
♣(12)法律のセンスに馴れておこう
法律解説書から刑法のポイントを説明する ( 2007年6月11日 )
♣(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ
「感情」から「勘定」への判断へ ( 2007年6月18日 )
♣(14)レント・シーキングと規制緩和
法曹界に市場経済の空気を入れてみよう ( 2007年6月25日 )
♣(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか?
東京裁判・仇討ち・必殺仕事人 ( 2007年7月2日 )
♣(16)法と正義の経済学の立場から見る
死刑に代わるべき制度が見つからない ( 2007年7月9日 )
♣(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった
旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産 ( 2007年7月16日 )
♣(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑
理想の共和国では銀行強盗は起きない ( 2007年7月23日 )
♣(19)カント、ベッカリーア、団藤重光
誰も銀行強盗事件@ABは予想していない ( 2007年7月30日 )
♣(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論
原初状態と格差原理と誤判と死刑 ( 2007年8月6日 )
♣(21)ノージックの最小国家という自由論
自由を保証する国家権力を忘れている ( 2007年8月13日 )
♣(22)本当に人1人の命は地球より重いのか?
遺伝子は、自身の繁栄を優先する ( 2007年8月20日 )
♣(23)
ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論
危機管理意識のない死刑廃止論 ( 2007年8月27日 )
♣(24)他業種からの考え方を移入すると
雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待 ( 2007年9月3日 )
♣(25)功利主義的な死刑制度
とりあえず、これに代わりうる制度は考えられない ( 2007年9月10日 )
(1)人を殺さなくても実質的な死刑
「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある
死刑制度廃止を訴え続ける法曹界の人がいる。それに応えるかのように市民運動を繰り広げる人たちがいる。
なぜ死刑制度を廃止すべきか、との理由を幾つか挙げて運動を進めている。その理由は「死刑は残酷、非人道的」というのが主なもののようだ。TANAKAはそうした論争とは違った観点から「死刑制度は存続すべきだ」と主張する。まず次の例を読んで頂きましょう。
<銀行強盗事件@>
某年某月某日15時00分、窓口業務が終了する直前、M銀行S支店に拳銃を持った強盗が入った。強盗は行員と客を人質に取り、3億円を要求した。
S支店ではなるべく時間稼ぎをしようと、ゆっくり準備する。強盗は苛立ち「グズグズせずに早く出せ!」と怒鳴る。それでもゆっくり準備をしていると「早くしろ、分からないのか!」と怒鳴り、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。
行員たちは慌てて準備する。3億円の現金はすべて本物の札束で用意された。かつて、似たような銀行強盗があった時、札束の外側は本物で中身は偽物を用意していた銀行もあったがM銀行ではそのようなことはしない。
犯人が偽物だと知ったとき、凶暴になる怖れがある、金で解決できるなら、3億円は高くない。人1人の命に比べれば3億円は安いと判断する。
さて、15時なって銀行の窓口営業は終了し、ATMコーナーと窓口との間を仕切るシャッターは下りている。行員が机の下の非常ボタンを押したため、事件は警察に通報され、さらに非常ベルが鳴り、事件を知った群集が支店の回りに群がり、警察官が群集を支店から遠ざけ、犯人の説得にあたる。
犯人は3億円を受け取ると今度は逃亡用のワゴン車を要求した。行員男女1人ずつを人質にワゴン車で逃亡する言う。ワゴン車で移動するとなると、どこへ向かうか分からない。警察としてはこの支店で事件を解決したい。
そのため返事をせずに時間稼ぎをする。犯人はイライラし、拳銃を乱射する。弾は沢山もっているようだ。犯人の拳銃がパトカーに命中した。警察官は冷静さを失った。パトカーを管理する警察官は自分に責任がなくても、パトカーが傷つけられれば、それだけで将来の昇進が絶望的になる。
支店の周りには狙撃手が到着し機会をうかがうがチャンスがない。支店内では犯人がますます凶暴になり、このままではさらに人質に犠牲者が出ると思われた。特にこの日は「もの日」でもあり、15時過ぎてもロビーには客が溢れていた。「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、
その行員を射殺した。このままでは何人も殺されるかもしれない。スキをみて若い行員が犯人に飛びかかった。他の行員や客も数人が犯人の上に重なり合った。
こうして犯人は銀行員=民間人に逮捕された。しかし、この格闘の間に、初めに飛びかかった若い行員が射殺された。このように行員3名が犠牲になっていた。
さて、この銀行強盗の犯人は行員3名を射殺したのだが、死刑制度が廃止されたために無期懲役の判決が出た。世間では次のように噂した。「刑務所で17年も過ごせば、仮釈放になり、最後は畳の上での大往生になるだろう」と。
<銀行強盗事件A>
前記銀行強盗事件があってから1年後のこと、同じ様な銀行強盗事件があった。犯人の要求する逃亡用のワゴン車を用意せず、時間稼ぎをしていた警察。
イライラし凶暴になった犯人。「3億円、早く用意しろ!」と天井めがけて威嚇射撃をする。そして支店には狙撃手が到着したが、チャンスがない。犯人はますます凶暴になる。
「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、
天井の蛍光灯を威嚇射撃する。「きゃー!きゃー!」という若い女性の叫び声が支店の外まで聞こえてくる。
警察官の間では1年前の事件のことが頭に浮かぶ。行員が射殺されたのに、死刑制度が廃止されたので、裁判での判決は無期懲役であった。
狙撃手が躊躇せずに撃っていたら犠牲者は出なかったかもしれない、と警察関係者は後悔の念にさいなまれていた。
「このままでは昨年のように、犠牲者が出る怖れがある。スキをみて犯人を射殺するように」との指令が出た。皆、息を呑んで狙撃手の動きを見守る。凶暴になり、冷静さを失った犯人が窓際に来て外の様子を窺った。その時射撃手が日頃の訓練の成果を披露した。1発で犯人は倒れた。
人質は無事解放され、犯人は救急車で運ばれた病院で死亡が確認された。犯人は実質的な死刑になった。
<銀行強盗事件B>
銀行強盗事件@が起きてから17年後のこと、同じ様な銀行強盗事件が起きた。今度は犯人が3人であった。主犯格Aが拳銃で脅し、3億円を要求し、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。
また、「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、その行員を射殺した。
共犯者Bは日本刀を振り回し、カウンターの中を歩き回っている。若いテラーたちが「きゃー、きゃー」叫ぶと嬉しそうな顔をする。共犯者Cは拳銃を持ち、天井の蛍光灯を撃ったり、外のパトカーを狙ったりして、西部劇の主人公を気取っているようだ。
逃走用の車の用意が出来ていないか、主犯Aはさかんに気にしている。「警察はワゴン車を用意していないか?ちょっと外を見てみろ」。そう言われて共犯者Cが窓から外を見た。
その瞬間狙撃手の人差し指が動いた。共犯者Cは一発で倒れた。それを合図のように、行員が犯人AとBに向かっていった。主犯格Aには若い行員をはじめ数人が重なり合った。
主犯格Aはこうして逮捕されたが、その際に若い行員が射殺された。共犯者Bはというと、ベテラン行員がシャッターの後ろに隠してあった木刀を取り出し、共犯者Bに向かっていった。
しばらく日本刀と木刀の試合になったが、別の行員が近くにあった消化器を取って、共犯者Bに投げつけた。消化器は共犯者Bの後頭部に当たり、そこに倒れた。
このようにして犯人ABCは警察に引き渡されることになった。
拳銃をもてあそんでいた共犯者Cは狙撃手に1発で射殺され、実質的な死刑になった。
日本刀の共犯者Bは消化器が後頭部に当たり倒れたが、その後、後遺症が残り、半身不随で言葉が正常には話せなくなった。このため公判維持は不可能と認められ、不起訴になったが、結局住み慣れた土地を離れ、近所つき合いもなく、一生半身不随で車椅子の生活をおくることになった、と言われている。
主犯格Aは行員3人を殺したが死刑にはならず無期懲役になった。この主犯格Aは実は、銀行強盗事件@の犯人であった。あの事件後、17年の刑務所生活をおくり、仮釈放になった。
前回は1人で失敗したので、今回は仲間を募って3人で実行したのだった。結局今回も前回と同じ様に3人を殺したが逮捕され、失敗に終わった。そして裁判では無期懲役となり、前回より長い刑務所生活を送ってから仮釈放になり、最後は畳の上での大往生であったと言われる
(この時代では、個人情報保護が徹底され、犯人のその後の生活は取材も報道もされなくなっていた)。
主犯格Aに関しては別の噂も流れていた。それは、「6人も殺しておいて最後が畳の上で大往生とは許せない」と、刑務所の中で、囚人たちが集団リンチを起こし、亡くなった。囚人たちはたとえ事件が知られても死刑になることはないと安心してリンチに加わり、看守たちはそれを知っていながら、臭い物には蓋と、単なる事故として処理をして外部には漏れていない、とまるで見てきたような噂も流れていた。
法務省は「個人情報に関しては発表しません。問題になるようなことはありません」としか発表しなかった。
死刑制度が廃止されてから、重大な事件でも判決は死刑ではなく、無期懲役に決まっているので、マスコミは大きく報道しなくなった。このため、殺人事件が起きても大きな社会問題にはならなくなっていた。
* * *
<場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」>
上記<銀行強盗事件@AB>と同じことを少し状況の設定を変えて説明した文章があるのでここで引用することにしよう。
大和 国家成立のための形式的条件は、通常、領土があること・人民がいること・主権があることと言われているが、さらに実質的条件を加えれば、「力の独占」と「領土内人間の保護」の2つが国家の基本としてあげられる。
「力の独占」とは国家権力による力の独占であり、国民当事者同士での「私刑(リンチ)」を許さず、国家がそれに代わるというものだ。早い話が、昔のような仇討ち、すなわち個人的懲罰は許さず、被害者の代わりに国家が公的懲罰を加害者に行うというものだ。また、「領土内人間の保護」とは犯罪等から国民を守ることであり、いわゆる警察機構を考えればよい。
この2つがもし欠けておれば、たとえ領土や国民や主権が存していたとしても、国家とは言い難い。
赤井 うむ、自立した法治国家であるためには、その2点確かに必要だ。
大和 よし、ではこの2点について話をすすめよう。話を分かりやすくするために次のような状況を想定してみよう。2階建てのビルの屋上で1人の男が妊婦を人質にしてたてこもっている。妊婦は椅子に縛られ、隣には日本刀を手にしたその男が立っている。ビルの周りは警官によって取り囲まれているが、屋上であるため強行突入ができない。
と、突然、犯人は持っていた刃で妊婦の足を刺し始めた。血を流し絶叫する妊婦。そして刃が次に妊婦の大きな腹に向かおうとしたその時・・・。この時、国家すなわち警察は何をしなければならないのか?言うまでもない、犯人を狙撃しなければならない。
赤井 ・・・。
大和 反論があれば、言ってもらってもかまわぬぞ。
赤井 いや、残念ながら、それ以外妊婦の助かる道はなさそうだな。
大和 そうだ、このような場合国家は国民を犯罪から守るため、人殺しも敢えてせねばならぬのだ。つまり、「国家は人を殺してもよいのか」ではなく、場合によっては「国家は人を殺さなければならぬ」のであり、これは国家に課せられた義務なのだ。
赤井 なるほど、その点は認めるとしよう。だが、このように妊婦を救うためなら緊急避難という点から仕方がないにしても、死刑は、すでに身柄を拘束され抵抗することのできない者に対する一方的な殺人ではないのか。
大和 うむ。この反論に答えるため、再び同様の例を用いてみよう。
先の犯人Aが警察によって射殺され、妊婦が無事救出された次の日、また妊婦を人質にするという同様の事件が起きた。ところが、この犯人Bは先日の事件をニュースで知っていたため、狙撃防止用のバリケードを築き、さらに防弾チョッキを身にまとっていた。こうして自分の身の安全をはかった上で、先日同様妊婦の足を刺し始めた。妊婦は血を流しながら絶叫する。
警察は犯人狙撃が不可能なため強硬突入を試みるが、屋上であったためにどうしても時間がかかり、屋上に着いた時には妊婦は腹を断ち割られ胎児とともに刺し殺されていた。犯人Bは下手に抵抗すれば射殺される可能性もあると素早く計算し、刀を捨て素直に逮捕された。そして、裁判にかけられたが「死刑制度が廃止されていたため」死刑にならずにすんだ、と仮定しよう。
犯人Aの罪状は「殺人未遂」であり、国家が与えた罰は「死」である。妊婦は無事生きている。他方、より狡猾で残忍な犯行を現に行った犯人Bの罪状は、無論「殺人」である。当然、妊婦・胎児ともに死亡した。にもかかわらず、死刑制度が廃止されておれば、犯人Bは国家から「死」を与えられることはない。罪状の重い犯人Bが、犯人Aより軽い罰ですむというこのような不均衡が、法の下で平等を唱える法治国家で許されて良いのか、
と問われれば、廃止論者であるお前は何と答えるつもりだ。
赤井 ・・・。
(『平等主義は正義にあらず』から)(著者の承諾を得て掲載しています)
* * *
<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生>
銀行強盗事件@AB、赤井vs大和の対話、死刑制度が廃止されるとこのようなことが起こり得る。死刑は残酷であるし、非人道的であるとしても、このような不均衡が予測される制度は「欠陥制度」だ。
死刑廃止論者は「気配り半径が狭く」「視野狭窄」であり、あくまで感情的な死刑廃止論にしがみつくのは新興宗教家にも似た態度だと言わざるを得ない。
死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」と主張するが、「銀行強盗事件@B」では被告が銀行員3人を殺したことに関して誤判はあり得ない。
死刑廃止論者は死刑の代替として、仮釈放なしの終身刑を主張する。けれどもこれは認められない。刑務所で人を殺しても、真面目に過ごしていても何も変わらない。素直に、真面目に生活していればいずれ仮釈放になる、だから模範囚になろうとする。
真面目に生活するインセンティブが働かない。
赤井vs大和の対話、のポイントは見出しでも書いた、場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」、ということだ。人を殺すことは残酷だし、非人道的であることは確かだ。しかし、場合によっては「国家がその残酷なことを行わなければならないこともある」ということがポイントになる。
死刑制度が残酷であるとか、非人道的であるとか、世界の流れであるとか、誤判は避けられないとか、理由はいろいろ付けることができるが、この様な不均衡なことが解決できなければ、死刑制度は維持しなければならない。上記例では、被告が人を殺したことに関して誤判はあり得ない。
しかし、法律書・刑法の解説書ではこのような事例は想定されていない。多分法曹界も「法曹界の匂いのしない者の意見は聞かない」ことになっているのだろう。
農業界での「土の匂いのしない者の意見は聞かない」と同じような態度、経済学教育界での「マルクス経済学者の意見は聞かない」 ▲ と同じような態度なのだろう。
法曹界の動きを見て、ロースクール制度や裁判員制度の導入は、経済学の観点からは「レント・シーキング」▲
となるのだが、それでも、裁判員制度で法曹界の人が民間人に接して、民間人の感覚に驚くことがあれば、それは良いことかも知れない。かつての226事件、青年将校たちが「政治は腐敗している。国民はそれに気づいていない。われわれが立たなければ日本はダメになる」と思い上がり、ルール違反をして立ち上がった。
それは、「われわれは正しく状況判断できるが、国民はできない」との独断的な思い上がりであのような無謀な行動に出たのだった。青年将校たちが一般民間人とよく話し合っていればこのようなことは起きなかったかも知れない。TANAKAが提唱する、自衛隊への体験入隊制度 ▲ はこうした危険性を回避する制度になると思う。
大切なことは、一般人が業界人を知ることではなく、業界人が一般人の感覚を知ることだ。業界人が、好奇心と遊び心を持っていれば、その制度は生きてくる。
死刑廃止論者は、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言う。そして、だから死刑制度は廃止すべきだ、と言う。
その論理は間違っているのであって、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」だからこそ、人の命を奪う犯罪には、死刑制度という厳しい態度をもって、国は対処しなければならない。そうした毅然とした態度がなければ「生命は尊貴である」とは、単なる言葉の遊びでしかなくなる。
もしも、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言っていれば人命が尊重されると言うならば、それは「言霊信者」の言うことだ。
ところで、命がけで、犯人に飛びかかっていった若い行員の行動は何だったんだろう。犯人逮捕に結び付いた。それは確かだ。そして、実は犯人の命を救ったのだった。そう、自分の命を懸けて、犯人が実質的は死刑になるのを救ったのだった……何か割り切れない。行員の遺族の気持ちはどのようなものだろうか?このような法秩序が許されるのだろうか?
銀行強盗事件で現場に到着した警察はまず何をするだろうか?最初にすることは、犯人への呼びかけだろう。「銀行は警察が包囲した。もう逃げられない。武器を捨てて出てきなさい。今なら死刑になることもない。大人しく出てきなさい」。このように犯人を説得するだろう。
しかし、死刑が廃止されたら、「今なら死刑にはならない。これからも死刑にはならない」では説得にならない。死刑制度が抑止力になっているかどうかは、どちらも証明できないが、警察の説得力が弱まるのは間違いない。
事件が起きたとき、事態がより悪化するのを防ぐために、死刑制度は「抑止力」として有効だ。
最後までのお付き合いのほど、よろしくお願い致します
死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」
と主張する。死刑存続論者であってもこれを論破することはできない。無理に方法を考えれば、「銀行強盗事件@Bのように、誤判の恐れのない事例以外は死刑を適用しない」という非現実的なことしか考えられない。
では、それでも死刑は存続すべきだ、と主張するのは何故か?それは
「死刑を廃止した場合のメリット(冤罪により命を失う人がいなくなる)、デメリット(現実の社会と法体系に矛盾が生じる)を天秤にかけてみて、デメリットの方が重い」と考えるからだ。
このHP「死刑廃止でどうなる?」では、そうした死刑廃止論者の主張を一部(誤判は避けられない)認めながらも、それでも「死刑は存続さすべきだ」を主張していくことにする。
いつも通り、毎週、毎週の自転車操業でキーボードを叩き、アップロードしていくので、右へ左へ、前へ後へのダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。
(^o^) (^o^) (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版 古田佑紀 国立印刷局 2005. 4. 1
『平等主義は正義にあらず』 山口意友 葦書房 1998. 3.10
( 2007年3月19日 TANAKA1942b )
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(2)団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう
人格の尊厳を認める法理論とは
死刑廃止論者がどのように主張しているのか?ここでは、廃止論を紹介しよう。
初めに引用するのは、団藤重光著『死刑廃止論』。最高裁判所判事も勤め、1995年には文化勲章を受章している、代表的な死刑廃止論者だ。
* * *
<「目には目を」の由来と批判>
第1部のお話の中で申しましたように、「目には目を、歯には歯を」というのは最初に旧約聖書に出てくることばです。
引用してみますと、『出エジプト記』(21章24節、なお12節以下)には「目には目。歯に歯は。手には手。足には足。」とあり、『レビ記』(24章20節・21節)には「目には目。歯には歯。人に傷を負わせたような人には人は自分もそうされなけらばならない。
動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を撃ち殺す者は殺されなければならない。」、さらに『申命記』(19章21節)には「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」というように記されています。いずれも、主(神)がモーゼに告げて言われた言葉であります。
このような「目には目を、歯には歯を」という法を「タリオの法」ないしは「同害報復の法」と言いますが、これが果たしてキリスト教の教義だと言ってよいのでしょうか。
新約聖書になると、『マタイの福音書』(5章38節以下)には、イエスの説教の中に次のようなくだりがあるのをご存知でしょう。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。
悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」また、『ルカの福音書』にも、イエスが言われた中に「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」
(6章29節)という言葉を含む一連の有名なくだりがあります。
同じく新約聖書のパウロの『ローマ人への手紙』(12章19節・21節)の中には、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。それは、こう書いてあるからです。
『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』……善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。
これは旧約聖書の『申命記』(32章35節)に主のことばとして、「復讐と報いはわたしのもの」とあるのを受けているのでしょうから、すでに旧約聖書にも、本当はこのような考えがあったものといってよいでしょう。
人間同士の間では復讐的であってはならないものとされているのです。
このように見てきますと、キリスト教の教義として、「目には目を歯には歯を、生命には生命を」ということが、主の復讐原理としては別論として、少なくとも人間社会の在り方として認められるとは決して言えないように思われます。
キリスト教者の中に多くの強い死刑廃止論者があるのは、もっともなことであります。いな、キリスト教では『ルカの福音書』(6章37節)にも見られますように、死刑どころか、そもそも人を裁くことじたいが問題になる位です。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」
(『ヨハネ福音書』8章7節)というのも、ご承知のとおり、この文脈でよく引用されるイエスの言葉です。要するに、「キリスト教によって死刑を基礎付けようとする見解くらい非キリスト教なものはない」
(リープマン)と言ってよいのではないでしょうか。ユダヤ教でも、1950年代以降のアメリカでは──一部の正統派の宗教以外は──死刑を聖書に反するものと見るようになって来ているそうです。
これまでキリスト教の聖書を中心に見て来ましたが、コーランにも同じく「生命には生命を、目には目を……」という言葉があり、イスラームの教義の重要な部分になっているのです。
イスラームはユダヤ教、キリスト教に続く同じセム人種の宗教で、姉妹宗教といってよい同系の宗教で、コーランは旧約聖書を至るところで意識的に踏まえているのですから、これは当然のことでしょう。
コーランではキリストの福音書さえもが踏まえられているようですが、キリストはイスラームでは預言者の1人にすぎないのですから、ここに述べたような新約聖書はイスラームには入ってきません。
ですから、「生命には生命を、目には目を……」ということも、キリスト教の場合とは教義上かなり違ったニュアンスをもって来てるようです。
ともあれ、「目には目を、歯には歯を」というのが、社会的事実として、古代の人たちの素朴な正義感情であったこと自体は、疑いないでしょう。
これは、現代人にも言えることで、応報観念は現代の法や裁判の上で軽視することはできません。その現代的な意味の1つは、刑罰が重くなり過ぎないように、その限界を決める点にあります。
刑法の大原則である罪刑法定主義の一要素としての罪刑の均衡ということは、こうした応報観念が基礎になっています。
(『死刑廃止論』第4版 から)
* * *