死刑にしたい独裁者がいる
死刑廃止でどうなる?
廃止論者は代替え案の提示を

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill  30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル      If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill  30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    死刑制度とは残酷な制度である。しかしこれに代わるよりよき制度は考えられない。従って、死刑制度は維持すべきである。    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいとです      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します
2007年9月10日更新  


趣味の経済学 Index
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金融商品取引法に基づく合法のみ行為  FX、仕組みの解明に挑戦
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2%インフレ目標政策失敗への途
  量的緩和政策は ひびの入った骨董品  審議委員は失敗を隠している
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……… は じ め に ………
 ♣ 刑法は、 だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
 その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。 人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
 けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、それに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。 それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。 そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。

 ♣ これは『刑法という法律』改訂版(古田佑紀著 国立印刷局出版 2005.4.1)の1ページ目の文章だ。 平成17年8月に最高裁判所の判事に就任した古田佑紀が、法務省大臣官房審議官に書いた本で、刑法をこのように表現している。 その「分かったようで」「よく分からない」刑法を経済学の見方で考えてみようと思い立った。と言っても、その内のほんの一部分、「死刑制度」について考えてみることにした。 専門家の中にも「死刑廃止」を主張する人がいる。その根拠は大体同じ様なものだ。よく考えると「死刑を廃止するとおかしなことが起こる」「死刑に代わる適当な制度がない」「従って死刑制度は存続すべきだ」となるのだが、そのような考え方は、専門家の中からは出てこない。また、死刑を廃止した後にどのような刑を作るのか、ハッキリしない。「死刑廃止を主張する。後は専門家に任せる」ということなのか? そこで、アマチュアエコノミストが「法曹界の匂いのしない立場」から、死刑制度を話の取っかかりとして、刑法を経済学的に考えてみることにした。 どのように展開して行くのか、多分、いつもと同じように、ダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。

目次  死刑廃止でどうなる?  刑法を経済学的に考えてみよう
(1) 人を殺さなくても実質的な死刑  「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある ( 2007年3月19日 )
(2) 団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう  人格の尊厳を認める法理論とは ( 2007年3月26日 )
(3) 死刑執行停止法の制定という主張  仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案 ( 2007年4月2日 )
(4) 死刑廃止を支持する女性作家の意見  法体系とは無関係の立場からの感想 ( 2007年4月16日 )
(5) 宗教家も死刑廃止を強く主張する  実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教 ( 2007年4月23日 )
(6) 人の生命は、全地球よりも重いか  残酷な死刑は廃止したい、という感情論 ( 2007年4月30日 )
(7) 法曹界の死刑廃止論を聞いてみよう  誰も銀行強盗事件は予想もしていない ( 2007年5月7日 )
(8) 殺人犯でなくても、実質的な死刑は必要  銀行強盗以外のケースを想定する ( 2007年5月14日 )
(9) 1人の生命が重いからこそ死刑制度を  軽いのなら関係者同士で仇討ちを ( 2007年5月21日 )
(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの?  目には目を、反省・償い、抑止力 ( 2007年5月28日 )
(11)『刑法という法律』をやさしく解説  古田佑紀、今は最高裁判事の著書から ( 2007年6月4日 )
(12)法律のセンスに馴れておこう  法律解説書から刑法のポイントを説明する ( 2007年6月11日 )
(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ  「感情」から「勘定」への判断へ ( 2007年6月18日 )
(14)レント・シーキングと規制緩和  法曹界に市場経済の空気を入れてみよう ( 2007年6月25日 )
(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか?  東京裁判・仇討ち・必殺仕事人 ( 2007年7月2日 )
(16)法と正義の経済学の立場から見る  死刑に代わるべき制度が見つからない ( 2007年7月9日 )
(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった  旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産 ( 2007年7月16日 )
(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑  理想の共和国では銀行強盗は起きない ( 2007年7月23日 )
(19)カント、ベッカリーア、団藤重光  誰も銀行強盗事件@ABは予想していない ( 2007年7月30日 )
(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論  原初状態と格差原理と誤判と死刑 ( 2007年8月6日 )
(21)ノージックの最小国家という自由論  自由を保証する国家権力を忘れている ( 2007年8月13日 )
(22)本当に人1人の命は地球より重いのか? ♣ 遺伝子は、自身の繁栄を優先する ( 2007年8月20日 )
(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論  危機管理意識のない死刑廃止論 ( 2007年8月27日 )
(24)他業種からの考え方を移入すると  雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待 ( 2007年9月3日 )
(25)功利主義的な死刑制度  とりあえず、これに代わりうる制度は考えられない ( 2007年9月10日 )

(1)人を殺さなくても実質的な死刑 
「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある
 死刑制度廃止を訴え続ける法曹界の人がいる。それに応えるかのように市民運動を繰り広げる人たちがいる。 なぜ死刑制度を廃止すべきか、との理由を幾つか挙げて運動を進めている。その理由は「死刑は残酷、非人道的」というのが主なもののようだ。TANAKAはそうした論争とは違った観点から「死刑制度は存続すべきだ」と主張する。まず次の例を読んで頂きましょう。
<銀行強盗事件@>
 某年某月某日15時00分、窓口業務が終了する直前、M銀行S支店に拳銃を持った強盗が入った。強盗は行員と客を人質に取り、3億円を要求した。 S支店ではなるべく時間稼ぎをしようと、ゆっくり準備する。強盗は苛立ち「グズグズせずに早く出せ!」と怒鳴る。それでもゆっくり準備をしていると「早くしろ、分からないのか!」と怒鳴り、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 行員たちは慌てて準備する。3億円の現金はすべて本物の札束で用意された。かつて、似たような銀行強盗があった時、札束の外側は本物で中身は偽物を用意していた銀行もあったがM銀行ではそのようなことはしない。 犯人が偽物だと知ったとき、凶暴になる怖れがある、金で解決できるなら、3億円は高くない。人1人の命に比べれば3億円は安いと判断する。
 さて、15時なって銀行の窓口営業は終了し、ATMコーナーと窓口との間を仕切るシャッターは下りている。行員が机の下の非常ボタンを押したため、事件は警察に通報され、さらに非常ベルが鳴り、事件を知った群集が支店の回りに群がり、警察官が群集を支店から遠ざけ、犯人の説得にあたる。 犯人は3億円を受け取ると今度は逃亡用のワゴン車を要求した。行員男女1人ずつを人質にワゴン車で逃亡する言う。ワゴン車で移動するとなると、どこへ向かうか分からない。警察としてはこの支店で事件を解決したい。 そのため返事をせずに時間稼ぎをする。犯人はイライラし、拳銃を乱射する。弾は沢山もっているようだ。犯人の拳銃がパトカーに命中した。警察官は冷静さを失った。パトカーを管理する警察官は自分に責任がなくても、パトカーが傷つけられれば、それだけで将来の昇進が絶望的になる。
 支店の周りには狙撃手が到着し機会をうかがうがチャンスがない。支店内では犯人がますます凶暴になり、このままではさらに人質に犠牲者が出ると思われた。特にこの日は「もの日」でもあり、15時過ぎてもロビーには客が溢れていた。「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 その行員を射殺した。このままでは何人も殺されるかもしれない。スキをみて若い行員が犯人に飛びかかった。他の行員や客も数人が犯人の上に重なり合った。 こうして犯人は銀行員=民間人に逮捕された。しかし、この格闘の間に、初めに飛びかかった若い行員が射殺された。このように行員3名が犠牲になっていた。
 さて、この銀行強盗の犯人は行員3名を射殺したのだが、死刑制度が廃止されたために無期懲役の判決が出た。世間では次のように噂した。「刑務所で17年も過ごせば、仮釈放になり、最後は畳の上での大往生になるだろう」と。
<銀行強盗事件A>  前記銀行強盗事件があってから1年後のこと、同じ様な銀行強盗事件があった。犯人の要求する逃亡用のワゴン車を用意せず、時間稼ぎをしていた警察。 イライラし凶暴になった犯人。「3億円、早く用意しろ!」と天井めがけて威嚇射撃をする。そして支店には狙撃手が到着したが、チャンスがない。犯人はますます凶暴になる。 「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 天井の蛍光灯を威嚇射撃する。「きゃー!きゃー!」という若い女性の叫び声が支店の外まで聞こえてくる。 警察官の間では1年前の事件のことが頭に浮かぶ。行員が射殺されたのに、死刑制度が廃止されたので、裁判での判決は無期懲役であった。 狙撃手が躊躇せずに撃っていたら犠牲者は出なかったかもしれない、と警察関係者は後悔の念にさいなまれていた。
 「このままでは昨年のように、犠牲者が出る怖れがある。スキをみて犯人を射殺するように」との指令が出た。皆、息を呑んで狙撃手の動きを見守る。凶暴になり、冷静さを失った犯人が窓際に来て外の様子を窺った。その時射撃手が日頃の訓練の成果を披露した。1発で犯人は倒れた。
 人質は無事解放され、犯人は救急車で運ばれた病院で死亡が確認された。犯人は実質的な死刑になった。
<銀行強盗事件B>  銀行強盗事件@が起きてから17年後のこと、同じ様な銀行強盗事件が起きた。今度は犯人が3人であった。主犯格Aが拳銃で脅し、3億円を要求し、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 また、「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、その行員を射殺した。
 共犯者Bは日本刀を振り回し、カウンターの中を歩き回っている。若いテラーたちが「きゃー、きゃー」叫ぶと嬉しそうな顔をする。共犯者Cは拳銃を持ち、天井の蛍光灯を撃ったり、外のパトカーを狙ったりして、西部劇の主人公を気取っているようだ。
 逃走用の車の用意が出来ていないか、主犯Aはさかんに気にしている。「警察はワゴン車を用意していないか?ちょっと外を見てみろ」。そう言われて共犯者Cが窓から外を見た。 その瞬間狙撃手の人差し指が動いた。共犯者Cは一発で倒れた。それを合図のように、行員が犯人AとBに向かっていった。主犯格Aには若い行員をはじめ数人が重なり合った。 主犯格Aはこうして逮捕されたが、その際に若い行員が射殺された。共犯者Bはというと、ベテラン行員がシャッターの後ろに隠してあった木刀を取り出し、共犯者Bに向かっていった。 しばらく日本刀と木刀の試合になったが、別の行員が近くにあった消化器を取って、共犯者Bに投げつけた。消化器は共犯者Bの後頭部に当たり、そこに倒れた。 このようにして犯人ABCは警察に引き渡されることになった。
 拳銃をもてあそんでいた共犯者Cは狙撃手に1発で射殺され、実質的な死刑になった。
 日本刀の共犯者Bは消化器が後頭部に当たり倒れたが、その後、後遺症が残り、半身不随で言葉が正常には話せなくなった。このため公判維持は不可能と認められ、不起訴になったが、結局住み慣れた土地を離れ、近所つき合いもなく、一生半身不随で車椅子の生活をおくることになった、と言われている。
 主犯格Aは行員3人を殺したが死刑にはならず無期懲役になった。この主犯格Aは実は、銀行強盗事件@の犯人であった。あの事件後、17年の刑務所生活をおくり、仮釈放になった。 前回は1人で失敗したので、今回は仲間を募って3人で実行したのだった。結局今回も前回と同じ様に3人を殺したが逮捕され、失敗に終わった。そして裁判では無期懲役となり、前回より長い刑務所生活を送ってから仮釈放になり、最後は畳の上での大往生であったと言われる (この時代では、個人情報保護が徹底され、犯人のその後の生活は取材も報道もされなくなっていた)。
 主犯格Aに関しては別の噂も流れていた。それは、「6人も殺しておいて最後が畳の上で大往生とは許せない」と、刑務所の中で、囚人たちが集団リンチを起こし、亡くなった。囚人たちはたとえ事件が知られても死刑になることはないと安心してリンチに加わり、看守たちはそれを知っていながら、臭い物には蓋と、単なる事故として処理をして外部には漏れていない、とまるで見てきたような噂も流れていた。 法務省は「個人情報に関しては発表しません。問題になるようなことはありません」としか発表しなかった。 死刑制度が廃止されてから、重大な事件でも判決は死刑ではなく、無期懲役に決まっているので、マスコミは大きく報道しなくなった。このため、殺人事件が起きても大きな社会問題にはならなくなっていた。
*                      *                      *
<場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」> 上記<銀行強盗事件@AB>と同じことを少し状況の設定を変えて説明した文章があるのでここで引用することにしよう。
大和 国家成立のための形式的条件は、通常、領土があること・人民がいること・主権があることと言われているが、さらに実質的条件を加えれば、「力の独占」と「領土内人間の保護」の2つが国家の基本としてあげられる。 「力の独占」とは国家権力による力の独占であり、国民当事者同士での「私刑(リンチ)」を許さず、国家がそれに代わるというものだ。早い話が、昔のような仇討ち、すなわち個人的懲罰は許さず、被害者の代わりに国家が公的懲罰を加害者に行うというものだ。また、「領土内人間の保護」とは犯罪等から国民を守ることであり、いわゆる警察機構を考えればよい。 この2つがもし欠けておれば、たとえ領土や国民や主権が存していたとしても、国家とは言い難い。
赤井 うむ、自立した法治国家であるためには、その2点確かに必要だ。
大和 よし、ではこの2点について話をすすめよう。話を分かりやすくするために次のような状況を想定してみよう。2階建てのビルの屋上で1人の男が妊婦を人質にしてたてこもっている。妊婦は椅子に縛られ、隣には日本刀を手にしたその男が立っている。ビルの周りは警官によって取り囲まれているが、屋上であるため強行突入ができない。 と、突然、犯人は持っていた刃で妊婦の足を刺し始めた。血を流し絶叫する妊婦。そして刃が次に妊婦の大きな腹に向かおうとしたその時・・・。この時、国家すなわち警察は何をしなければならないのか?言うまでもない、犯人を狙撃しなければならない。
赤井 ・・・。
大和 反論があれば、言ってもらってもかまわぬぞ。
赤井 いや、残念ながら、それ以外妊婦の助かる道はなさそうだな。
大和 そうだ、このような場合国家は国民を犯罪から守るため、人殺しも敢えてせねばならぬのだ。つまり、「国家は人を殺してもよいのか」ではなく、場合によっては「国家は人を殺さなければならぬ」のであり、これは国家に課せられた義務なのだ。
赤井 なるほど、その点は認めるとしよう。だが、このように妊婦を救うためなら緊急避難という点から仕方がないにしても、死刑は、すでに身柄を拘束され抵抗することのできない者に対する一方的な殺人ではないのか。
大和 うむ。この反論に答えるため、再び同様の例を用いてみよう。
 先の犯人Aが警察によって射殺され、妊婦が無事救出された次の日、また妊婦を人質にするという同様の事件が起きた。ところが、この犯人Bは先日の事件をニュースで知っていたため、狙撃防止用のバリケードを築き、さらに防弾チョッキを身にまとっていた。こうして自分の身の安全をはかった上で、先日同様妊婦の足を刺し始めた。妊婦は血を流しながら絶叫する。 警察は犯人狙撃が不可能なため強硬突入を試みるが、屋上であったためにどうしても時間がかかり、屋上に着いた時には妊婦は腹を断ち割られ胎児とともに刺し殺されていた。犯人Bは下手に抵抗すれば射殺される可能性もあると素早く計算し、刀を捨て素直に逮捕された。そして、裁判にかけられたが「死刑制度が廃止されていたため」死刑にならずにすんだ、と仮定しよう。
 犯人Aの罪状は「殺人未遂」であり、国家が与えた罰は「死」である。妊婦は無事生きている。他方、より狡猾で残忍な犯行を現に行った犯人Bの罪状は、無論「殺人」である。当然、妊婦・胎児ともに死亡した。にもかかわらず、死刑制度が廃止されておれば、犯人Bは国家から「死」を与えられることはない。罪状の重い犯人Bが、犯人Aより軽い罰ですむというこのような不均衡が、法の下で平等を唱える法治国家で許されて良いのか、 と問われれば、廃止論者であるお前は何と答えるつもりだ。
赤井 ・・・。
(『平等主義は正義にあらず』から)(著者の承諾を得て掲載しています)
*                      *                      *
<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生> 銀行強盗事件@AB、赤井vs大和の対話、死刑制度が廃止されるとこのようなことが起こり得る。死刑は残酷であるし、非人道的であるとしても、このような不均衡が予測される制度は「欠陥制度」だ。 死刑廃止論者は「気配り半径が狭く」「視野狭窄」であり、あくまで感情的な死刑廃止論にしがみつくのは新興宗教家にも似た態度だと言わざるを得ない。 死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」と主張するが、「銀行強盗事件@B」では被告が銀行員3人を殺したことに関して誤判はあり得ない。
 死刑廃止論者は死刑の代替として、仮釈放なしの終身刑を主張する。けれどもこれは認められない。刑務所で人を殺しても、真面目に過ごしていても何も変わらない。素直に、真面目に生活していればいずれ仮釈放になる、だから模範囚になろうとする。 真面目に生活するインセンティブが働かない。
 赤井vs大和の対話、のポイントは見出しでも書いた、場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」、ということだ。人を殺すことは残酷だし、非人道的であることは確かだ。しかし、場合によっては「国家がその残酷なことを行わなければならないこともある」ということがポイントになる。
 死刑制度が残酷であるとか、非人道的であるとか、世界の流れであるとか、誤判は避けられないとか、理由はいろいろ付けることができるが、この様な不均衡なことが解決できなければ、死刑制度は維持しなければならない。上記例では、被告が人を殺したことに関して誤判はあり得ない。 しかし、法律書・刑法の解説書ではこのような事例は想定されていない。多分法曹界も「法曹界の匂いのしない者の意見は聞かない」ことになっているのだろう。 農業界での「土の匂いのしない者の意見は聞かない」と同じような態度、経済学教育界での「マルクス経済学者の意見は聞かない」 と同じような態度なのだろう。
 法曹界の動きを見て、ロースクール制度や裁判員制度の導入は、経済学の観点からは「レント・シーキング」 となるのだが、それでも、裁判員制度で法曹界の人が民間人に接して、民間人の感覚に驚くことがあれば、それは良いことかも知れない。かつての226事件、青年将校たちが「政治は腐敗している。国民はそれに気づいていない。われわれが立たなければ日本はダメになる」と思い上がり、ルール違反をして立ち上がった。 それは、「われわれは正しく状況判断できるが、国民はできない」との独断的な思い上がりであのような無謀な行動に出たのだった。青年将校たちが一般民間人とよく話し合っていればこのようなことは起きなかったかも知れない。TANAKAが提唱する、自衛隊への体験入隊制度 はこうした危険性を回避する制度になると思う。 大切なことは、一般人が業界人を知ることではなく、業界人が一般人の感覚を知ることだ。業界人が、好奇心と遊び心を持っていれば、その制度は生きてくる。
 死刑廃止論者は、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言う。そして、だから死刑制度は廃止すべきだ、と言う。 その論理は間違っているのであって、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」だからこそ、人の命を奪う犯罪には、死刑制度という厳しい態度をもって、国は対処しなければならない。そうした毅然とした態度がなければ「生命は尊貴である」とは、単なる言葉の遊びでしかなくなる。 もしも、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言っていれば人命が尊重されると言うならば、それは「言霊信者」の言うことだ。
 ところで、命がけで、犯人に飛びかかっていった若い行員の行動は何だったんだろう。犯人逮捕に結び付いた。それは確かだ。そして、実は犯人の命を救ったのだった。そう、自分の命を懸けて、犯人が実質的は死刑になるのを救ったのだった……何か割り切れない。行員の遺族の気持ちはどのようなものだろうか?このような法秩序が許されるのだろうか?
 銀行強盗事件で現場に到着した警察はまず何をするだろうか?最初にすることは、犯人への呼びかけだろう。「銀行は警察が包囲した。もう逃げられない。武器を捨てて出てきなさい。今なら死刑になることもない。大人しく出てきなさい」。このように犯人を説得するだろう。 しかし、死刑が廃止されたら、「今なら死刑にはならない。これからも死刑にはならない」では説得にならない。死刑制度が抑止力になっているかどうかは、どちらも証明できないが、警察の説得力が弱まるのは間違いない。 事件が起きたとき、事態がより悪化するのを防ぐために、死刑制度は「抑止力」として有効だ。
最後までのお付き合いのほど、よろしくお願い致します 死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」 と主張する。死刑存続論者であってもこれを論破することはできない。無理に方法を考えれば、「銀行強盗事件@Bのように、誤判の恐れのない事例以外は死刑を適用しない」という非現実的なことしか考えられない。 では、それでも死刑は存続すべきだ、と主張するのは何故か?それは 「死刑を廃止した場合のメリット(冤罪により命を失う人がいなくなる)、デメリット(現実の社会と法体系に矛盾が生じる)を天秤にかけてみて、デメリットの方が重い」と考えるからだ。
 このHP「死刑廃止でどうなる?」では、そうした死刑廃止論者の主張を一部(誤判は避けられない)認めながらも、それでも「死刑は存続さすべきだ」を主張していくことにする。 いつも通り、毎週、毎週の自転車操業でキーボードを叩き、アップロードしていくので、右へ左へ、前へ後へのダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版    古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
『平等主義は正義にあらず』   山口意友 葦書房      1998. 3.10 
( 2007年3月19日 TANAKA1942b )
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(2)団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう
人格の尊厳を認める法理論とは

 死刑廃止論者がどのように主張しているのか?ここでは、廃止論を紹介しよう。 初めに引用するのは、団藤重光著『死刑廃止論』。最高裁判所判事も勤め、1995年には文化勲章を受章している、代表的な死刑廃止論者だ。
*                      *                      *
<「目には目を」の由来と批判> 第1部のお話の中で申しましたように、「目には目を、歯には歯を」というのは最初に旧約聖書に出てくることばです。 引用してみますと、『出エジプト記』(21章24節、なお12節以下)には「目には目。歯に歯は。手には手。足には足。」とあり、『レビ記』(24章20節・21節)には「目には目。歯には歯。人に傷を負わせたような人には人は自分もそうされなけらばならない。 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を撃ち殺す者は殺されなければならない。」、さらに『申命記』(19章21節)には「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」というように記されています。いずれも、主(神)がモーゼに告げて言われた言葉であります。
 このような「目には目を、歯には歯を」という法を「タリオの法」ないしは「同害報復の法」と言いますが、これが果たしてキリスト教の教義だと言ってよいのでしょうか。 新約聖書になると、『マタイの福音書』(5章38節以下)には、イエスの説教の中に次のようなくだりがあるのをご存知でしょう。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」また、『ルカの福音書』にも、イエスが言われた中に「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」 (6章29節)という言葉を含む一連の有名なくだりがあります。
 同じく新約聖書のパウロの『ローマ人への手紙』(12章19節・21節)の中には、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。それは、こう書いてあるからです。 『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』……善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 これは旧約聖書の『申命記』(32章35節)に主のことばとして、「復讐と報いはわたしのもの」とあるのを受けているのでしょうから、すでに旧約聖書にも、本当はこのような考えがあったものといってよいでしょう。 人間同士の間では復讐的であってはならないものとされているのです。
 このように見てきますと、キリスト教の教義として、「目には目を歯には歯を、生命には生命を」ということが、主の復讐原理としては別論として、少なくとも人間社会の在り方として認められるとは決して言えないように思われます。 キリスト教者の中に多くの強い死刑廃止論者があるのは、もっともなことであります。いな、キリスト教では『ルカの福音書』(6章37節)にも見られますように、死刑どころか、そもそも人を裁くことじたいが問題になる位です。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」 (『ヨハネ福音書』8章7節)というのも、ご承知のとおり、この文脈でよく引用されるイエスの言葉です。要するに、「キリスト教によって死刑を基礎付けようとする見解くらい非キリスト教なものはない」 (リープマン)と言ってよいのではないでしょうか。ユダヤ教でも、1950年代以降のアメリカでは──一部の正統派の宗教以外は──死刑を聖書に反するものと見るようになって来ているそうです。
 これまでキリスト教の聖書を中心に見て来ましたが、コーランにも同じく「生命には生命を、目には目を……」という言葉があり、イスラームの教義の重要な部分になっているのです。 イスラームはユダヤ教、キリスト教に続く同じセム人種の宗教で、姉妹宗教といってよい同系の宗教で、コーランは旧約聖書を至るところで意識的に踏まえているのですから、これは当然のことでしょう。 コーランではキリストの福音書さえもが踏まえられているようですが、キリストはイスラームでは預言者の1人にすぎないのですから、ここに述べたような新約聖書はイスラームには入ってきません。 ですから、「生命には生命を、目には目を……」ということも、キリスト教の場合とは教義上かなり違ったニュアンスをもって来てるようです。
 ともあれ、「目には目を、歯には歯を」というのが、社会的事実として、古代の人たちの素朴な正義感情であったこと自体は、疑いないでしょう。 これは、現代人にも言えることで、応報観念は現代の法や裁判の上で軽視することはできません。その現代的な意味の1つは、刑罰が重くなり過ぎないように、その限界を決める点にあります。 刑法の大原則である罪刑法定主義の一要素としての罪刑の均衡ということは、こうした応報観念が基礎になっています。 (『死刑廃止論』第4版 から)
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殺人罪に死刑は相当か 私は以上で、「目には目を、歯には歯を」「生命には生命を」というタリオの考え方が刑法においては適当でないことを論じてみたのですが、同時に被害者感情をも含む応報観念そのものは軽視してならないことを述べてみたいのです。 言い換えれば、応報観念を考えるについて、個人対個人のレベルで形式的に──民事的──考えるべきではなく、全体対個人の問題として犯人に国家的刑罰を科するのにはどうすれば──刑事法的に──実質的に適正を期することができるか、を考えなければならないのです。
 よく、人を殺した者は自分も殺されるのが当たり前で、「自分が殺されないで人を殺す権利」を持つというのはおかしい、という議論がありますが、ここには思考の混線があります。 死刑を廃止すればもちろん「殺されない権利」ができるわけですが、それはどこまでも「殺されない権利」にとどまるのであって、「殺されないで殺す権利」など絶対にありません。
 われわれは、ここで2つの平面を区別して考えなければなりません。それは、犯罪の行われる事実の面と刑罰を科する規範の面との区別です。 理論的に厳密にいうと、非常にむずかしい議論になりますが、ここではごく常識的な意味でいうのです。
 国家ないしは法が殺人犯人を死刑にするというのは、規範面のことです。犯罪の事実面は不合理の世界、不正の世界ですが、刑罰を科するという規範面は合理性の世界、正の世界でなくてはなりません。 不正に対する正をもってするのが刑罰でなければなりません。犯人が被害者を殺すのは不合理の世界であって、これと同じレベルで国が死刑によって犯人を殺すことを考えることは許されません。 もし同じレベルで考えるならば、それは法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自己を低める、貶(おとし)めることになります。 犯人が人を殺したのだから法はその犯人を殺す、死刑にするのだ、という議論は、法を堕落させる議論ではないでしょうか。法は一段の高みに立たなければならない。 殺人犯人を死刑にするには、単に人を殺したからという以上の、十分な合理的根拠がなければならないはずであります。はたして、それだけの根拠があると言えるのでしょうか。
「人を殺すなかれ」という規範を法が掲げるのは、世の中に殺人が行われないようにするためです。それなのに法自身が死刑によって人を殺すことを規定したのでは、法がみずから規範を破ることになりはしないか。 むしろ、法が自ら悪い手本を示すことになりはしないか。第T部のお話の中で引用したドストイェフスキーやカミュのことばを、ここでもう一度思い出していただきたいと思います。(以下略) (『死刑廃止論』第4版 から)
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私の人格責任論・動的刑罰論と死刑廃止論 この辺で、とくに私自身の刑法理論と結び付けて、そういう角度から、改めて死刑廃止を論じておきたいと思います。 私の刑法理論は一口で言えば、人間あるいは人間性をもとにした刑法理論です。法は人間の行為を律するものですし、こと刑法は人倫と密接に関係するものなのですから、これはあまりにも当然のことなのですが、世の中では必ずしも、 そのように考えられていないようなので、私はこれを強調しなければならないのです。私のいわゆる主体性の理論、それから派生する人格責任論、さらには動的刑罰理論などが、私の刑法理論の骨格をなすわけですが、ここでは簡単に要点だけを説明しておきましょう。たいへん舌足らずなお話になりますが、お許しを頂きたいと思います。
 主体性の理論は、何よりもまず、個々の人間についての至上性すなわち人格の尊厳を認めることから出発します。一人ひとりの人間がそれぞれに根元的な価値をもつものであって、いわば自己目的的なものであり、ほかのものの単なる手段として扱われてはならないことは、カントの言っている通りだと思うのです。 法哲学者のコーイングが書いていますように、「死刑は犯罪者自体を否定するものである。しかし、国家はそのような権利を持つものではない。なぜならば、それは一人の人間を国家の目的に捧げることになるからである。 だから、死刑は法の理念に反する」ものと言うべきであります。 (『死刑廃止論』第4版 から)
団藤 重光(だんどう しげみつ) (1913年11月8日 - )刑法学者。戦後の日本刑事法学の第一人者。 東京大学名誉教授、元最高裁判所判事(1974〜1983)。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章
 立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになったきっかけを次のように言っている。 死刑廃止info! アムネスティ死刑廃止ネットワークセンター から引用しよう。
最高裁判事としての痛切な経験
裁判官がみんな席に着き、裁判長が「本件上告を棄却する」と言いました。棄却するということは死刑が確定するということです。
そして裁判官専用の出入り口から私たちが退廷し始めたその時です。
「人殺し!」という声が法廷中に響いたのです。罵声です。私たちが罵声を浴びせられたのです。
私はいつもでしたら傍聴席のこんな罵声くらいで驚きはしませんが、正直なところ、「本当にこの人がやったのだろうか」という一抹の不安を持っていましたので、このときの「人殺し!」という声はこたえました。その声は今でも忘れられません。
その事件で私が感じたわずかな不安というものは、多分に主観的なもので、人によって違うと思います。その小法廷の5人の裁判官の中でも、そういう不安を持ったのは、おそらく私だけだったでしょう。残り4人の裁判官は、自信を持って死刑判決を言い渡したと思います。
でも私には、わずかに引っかかるものがありました。
しかし現在の司法制度の下では、このようなケースで判決を覆すことはできません。そして死刑制度がある以上、この事件で死刑が確定したことはやむを得ない結果でした。
私はこの経験を通して、立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになりました。
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学問の道を究めると宗教家になる? 学問の世界で、ユニークな理論を発表するのは若い世代だ、と言われている。中年以降は後輩を指導する立場になる。 そして、ごく一部の人は、専門分野を基盤とした哲学の分野に足を踏み入れる。そして、それがさらにすすむと、宗教家=新興宗教の教祖になる。
 実現不可能な理想で、しかし誰もそれを否定できないスローガン。過去の専門分野での実績が大きいので、その分野の後輩は批判できない。 経済学の分野でも、理論物理学の分野でも、実業界の分野でも、そして法曹界でも……。
 「世界人類が平和でありますように」と言われて、それを否定することは難しい。「核兵器廃絶」に反対はしにくい。けれども最大の核兵器保有国のアメリカが核兵器を破棄したら、北朝鮮はじめ多くの国が核開発を進めるのは間違いない。 アメリカが核兵器を保有することによって、諸国の核開発が乱開発されずに済んでいる。「死刑が行われることがないような社会になったら良い」に反対する人はいないだろう。 しかし、死刑制度が廃止されると法体系が不自然になり、現実の防犯システムとの整合性が失われる。「死刑廃止」とは、このような種類の問題なのだと思う。
死刑廃止後の制度は専門家に任せる?死刑廃止後の制度はどうするのが良いのか?その具体的提案はない。ということは、「私は法律の専門家ではないので、廃止後の制度をどうするか?は専門家に任せます」との考えと見た。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止論』第4版      団藤重光 有斐閣      1995. 1.30 
『死刑廃止論』第5版      団藤重光 有斐閣      1997. 6.30 
( 2007年3月26日 TANAKA1942b )
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(3)死刑執行停止法の制定という主張
仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案

 今週は死刑廃止論者のうち、菊田幸一著『死刑廃止に向けて』から引用します。副題に「代替刑の提唱」とあり、本文中では、仮釈放なしの終身刑を提唱している。
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<死刑廃止に向けて> 私はかねてから死刑廃止への手段の1つとして、@死刑執行停止法の制定、A死刑に代替する終身刑の提唱、をしてきた。死刑廃止を推進する議員連盟および弁護士会が終身刑を具体的に提唱していないのには、それぞれの事情と配慮があるのであろうが、今、死刑に関し意識ある国民の多くが求め、期待しているのは死刑に代替する終身刑の導入にあると、私は確信している。 そのような具体的提言なくして死刑執行停止は実現できない。
 私が微力ながら協力してきた韓国での現在の死刑廃止法案は、当初の仮釈放付終身刑を修正し、仮釈放のない絶対的終身刑を死刑に代替する内容となって、今国会に提出されている。 国連の規約人権委員会での日本の死刑に対する勧告でも死刑のモラトリアム実現の手段としての終身刑について触れている。
 死刑廃止は、根強い存置論者をいかに廃止に向かわせるかにかかっている。その橋渡しの手段として提唱するのが終身刑である。終身刑には「死刑より残虐である」との批判のあることは承知している。 しかし死刑のある今の日本では、その議論は、わが国の死刑制度がなくなってからでも遅くない。
 本書は、死刑廃止への戦略を紹介してきた。これまでの論文に若干の集成を加えて収めたものであるが、重複の部分はそのままにした。日本の死刑廃止への具体的戦略として役立つならば望外の幸せである。
 2005年3月 著者  菊田幸一
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人間尊厳の普遍性 人間の尊厳が実定法として明瞭にされたのは1945年6月25日に調印された国際連合憲章である。 同憲章はその前文において「基本的人権と人間の尊厳および価値」に言及している。そして1948年12月10日に国連で採択された世界人権宣言と称せられる「人権に関する普遍的宣言」(Universal Declaration of Human Rights)は、法的拘束力はないが人権の普遍性を鮮明にした。その前文において「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と、平等で譲ることのできない人権とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である……」 と述べ、第1条において「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」と規定し、人間の尊厳の普遍性を明瞭にしている。 その意味するところは「国際社会が国家のみによって構成されているという立場を意図的に排除して、人類それ自体を含ませるという考えにたっている」ところにある。
死刑に代替する終身刑について 死刑制度を廃止するに際し、その代替刑として終身刑を採用することは、これまでの死刑廃止先進国が、いずれの国においても経験しているところである。 むろん死刑廃止に伴う直接の代替刑として終身刑を採用する国もあれば、死刑廃止後の最高刑として、従来からの終身刑が残されたにすぎない国もある。 わが国においては、死刑に次ぐ最高刑は無期懲役であるから、ここに改めてそれとは異なる終身刑の採用が問題となる。
 アメリカにおいては死刑廃止州と存置州があり、すでに死刑を廃止した州においては終身刑の問題は、その現実を行政問題として議論の対象としており(死刑を廃止したヨーロッパ諸国でも同様の動きがある)、 他方、存置州においては、死刑廃止に向けての代替刑として、終身刑に関する議論が中心となる。その意味では、アメリカにおける終身刑論議を知ることは近い将来での死刑廃止を検討するわが国において格好の素材を提供するものである。 本稿は、主としてアメリカの終身刑論議を素材とし、日本における終身刑採用の具体的方策を探ることを目的とする。
日本における死刑代替刑論議 まず、日本における最近の死刑代替刑論議を簡略に紹介しておきたい。 死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している。 死刑廃止実現の見通しには、楽観論、悲観論のいずれにもそれなりの客観的状況判断があるにしても、単に成り行きを見守るのではなく早期実現を具体的に手中にしなければならない。 そのためには可能な限りの実現可能な施策を提唱しその段取りをしていかなければならない。それには、もっとも悲観的状況判断から対策をとることが、短距離であるという認識も必要である。 私は、率直にいって現行刑法典から「死刑罪名」を削除するという、いわば正面からの死刑廃止は困難であると考える。事実上の死刑執行停止を実現することに当面の課題がある。 そのためには、こんにちの死刑と無期懲役の格差をなくする、いわゆる終身刑の採用を早急に実現する必要がある。またその採用に賛成する意見は各方面から出ている。(中略)
 現実に死刑制度があり、定期的に処刑がある日本の現状や被害者感情を考えれば「凶悪犯人は死刑にせよ、さもなくば生涯を刑務所で」の声が今日の日本における多数の意見であると思われる。 実は、このような状況は、死刑を廃止したフランスやドイツあるいはアメリカで言えば死刑廃止州において同様な現象がみられる。
終身刑の導入 わが国において、死刑に代替する終身刑を早期に導入すべき時期にあることを冒頭でも述べた。 その終身刑がいかなる種類のものであるかは、前提として、わが国の犯罪者処遇の実態をとらえておかなければならない。たとえば確定死刑囚といえども現実には厳正独房に近い日常生活を強いられており、これは明らかに国際準則に違反している。 かれらは、文字どおり処刑を待つための生のみを強いられている。さらに言えば、厳正独房に収容されている長期受刑者の非人間的扱いが実態としてある。その現実のうえに死刑制度がある。
 その死刑制度を廃止することがいかに厚い壁であるかを改めて認識しなければならない。
 このような現状認識のもとにあっては、死刑の代替刑提示、残念ながら限りなく死刑に近い代替制を提示することで一般多数の賛同を得るものでなければならない。 現に死刑制度があり、定期的に死刑執行がなされている日本の現状からすれば、死刑に次ぐ、もっとも厳しい終身刑を自ら選択せざるを得ない。それは仮釈放のない終身刑である。 仮釈放のない終身刑が死刑より残虐であるとする論理は通用しない。
 確定死刑囚・大道寺将司は次のように述べている(要旨)。「死刑囚は、単に長期間拘禁されたからではなく、死刑囚として、いつ処刑されるかわからないという状況に置かれてが故に、精神的に病んでしまうのです。 ”いつ処刑されるかわからない”という思いを抱かずにすむものであれば、長期間拘禁されても、精神的に病む人は少なくなるはずです。
 たとえ生涯、塀の外に出ることができなくともです。塀の中の生活もまた人生です。シャバとはかけ離れた厳しい生活のなかにも、喜びや生きがいを見出しことは可能です。
 終身刑を死刑の代替刑とすることで、百年先の死刑廃止よりも、近未来の死刑廃止の実現をめざすべきだと思います」
 死刑に値するような凶悪な犯罪を犯した者には、生涯にわたり刑務所から出ることができない刑罰を科せられても現実問題として、これに耐えるしかないとの認識を、あえて持たねばならない。 他人の生命を抹殺した反動として死刑への恐怖を伴わない終身刑は刑罰の1つとしてあり得る。自らの生涯を刑務所内で生きるのも刑罰の1つとしてあってしかるべきである。 終身刑受刑者として刑務所内で被害者への贖罪と労働に服することも行刑の1つである。ただし終身刑そのものがイコール残虐であるとする考えも間違っている。ここで採用する終身刑の処遇が19世紀初頭におけるヨーロッパの監獄のように暗い部屋に生涯閉じ込めるものであるはずがない。 日本における「厳正独居」が想定されてはならない。むろん仮釈放のない終身刑にこだわっているわけではない。前提として事実上の死刑廃止ないしは死刑執行停止を早期に実現することが担保されるならば、もっとも厳しい終身刑が存置論者を説得しやすいと、戦略として考えているにすぎない。
 どのような終身刑を具体的に採用するかは、さらに検討されるべきであるが、段階的に死刑、仮釈放のない終身刑、無期懲役(日本の現行法)の3種の選択から出発し、次の段階において仮釈放のない終身刑と無期懲役の選択、さらにその終身刑も20〜25年後に仮釈放を許す変遷が予定されてよい。 (『死刑廃止に向けて』から)
菊田 幸一(きくた こういち) (1934年12月15日 - )滋賀県長浜市出身の刑事法学者・弁護士(東京第二弁護士会所属)。専攻は犯罪学(刑事政策)。明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)。
 著者・菊田幸一に関しては< ウィキペディア>を参照のこと。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止に向けて』代替刑の提唱   菊田幸一 明石書店      2005. 3.30
( 2007年4月2日 TANAKA1942b )
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(4)死刑廃止を支持する女性作家の意見 
法体系とは無関係の立場からの感想
 『女たちの死刑廃止「論」』と題する本があって、多くの人の意見が掲載されている。 その中からよく知られた女性作家の意見を引用しよう。この人たちは法曹界の人ではない。だから「法体系」がどうのこうの、という点については追求しない。 多くの人の意見を聞いて、法体系として矛盾のないものに仕上げていくのは専門家の仕事であって、作家の仕事ではない。ということで、ここでは銀行強盗事件のことは考えずに、いろんな人の──アマチュアの意見を聞くことにしよう。
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私の書いた死刑囚たち=瀬戸内寂聴 明治44年(1911)1月24日、午前7時から午後3時半まで8時間かけて、11名の死刑が極秘のうちに決行された。 場所は東京市ヶ谷監獄であった。幸徳秋水以下11面で、翌25日には管野スガ子が同じ絞首台の露と消えた。所謂明治の大逆事件で裁かれた者たちであった。 大逆事件がいかに政府が社会主義者を取締るためのフレームアップのでっちあげ事件であったかは、今では世界中によく知られている。
 管野スガ子自身が獄中で書いているように、この事件は、須賀子をはじめ、2,3人が責任を負う程度の事件で、しかも、実行まではとうてい及び難い幼稚な計画だけの机上の空論にすぎなかったのだ。 主犯とされた幸徳秋水でさえ、このプランからはすでに下りていたのであり、他の人々に至っては、全く関知しない事件であったのだ。 如何に当時の裁判が言語道断のものであったかを歴史に示している。世界中に、日本の裁判の汚点を広告したような事件であった。
 私は小説家として、この事件で只一人の女性死刑囚管野スガ子を『遠い声』という作品に書いたため、この死刑者たちと無縁でなくなった。当時の裁判を調べて知れば知るほど、死刑という制度について考えこまされずにはいられなくなったのだ。 裁判そ恐ろしさの方が、罪人と称せられる人間の犯す罪よりずっと甚大であることも知った。
 大正の大逆事件と呼ばれる朴烈、文子事件も取り上げ、金子文子を『余白の春』で書いた。この二人も死刑の判決を受けたが、それは関東大震災のドサクサまぎれに社会主義者やアナーキストを一掃しようとした政府の謀略による裁判であった。
 文子と朴烈は幸徳秋水たちと同じ刑法73条の「大逆罪」によって裁かれ死刑の宣告を受けたが、翌日天皇の恩赦という形で無期懲役に減刑された。その報せを受けた文子は、
「人間の命を玩具にするな」
と怒り、恩赦の紙を奪ってその場で引き裂いてしまった。後、文子は刑務所の独房で自殺している。文子にとってこの減刑はむしろ屈辱以外の何ものでもなく、自殺によって「死刑」に抗議したものと見なしてよいだろう。
 朴烈、文子の裁判の記録を見ても、二人の幼稚な自己顕示欲をあおり立てて、幻めいた皇太子暗殺計画をそそのかし挑発し自白させたという形が歴然としており、それが如何に意図的に仕組まれた裁判劇であったかは判然している。
 幸徳事件の時も、最初の死刑判決は24名であった。それを宣告の判決言い渡しの翌日に天皇の特赦という形で半数の12名が無期に減刑されている。 その減刑について、獄中の管野スガ子は、手記『死出の道艸』の中で、
 「一旦みどい宣告を下して置いて、特に陛下の恩赦によってというような勿体ぶった減刑をする──国民に対し外国に対し恩威並び見せるという抜目ないやり方は、感心といおうか、狡猾といおうか」
と書き残している。
 私は全く偶然のなりゆきで、管野スガ子や金子文子のことを書いたため、日本の暗黒裁判の歴史を知り、無実のものが死刑にされた恐怖を味った。そのため、裁判といい死刑といい、全く自分と無関係のように思っていたことが決して自分と無関係でないことを思い知らされた。 更に「徳島ラジオ商殺し」と呼ばれている富士茂子さんの裁判で、無実を主張しつづけている茂子さんと関わるようになって、明治以来今につづく日本の裁判並びに権力の暴力を憎むようになった。
 人間が人間を裁く時、絶対まちがいが起こらないとは言い切れないことをこれらの事件は示している。しかし、死刑という処刑は人の命を奪ってそれを生きかえらすことは出来ないのである。 こんな恐しいことを人間は平気で行うのだ。
 現在でもアムネスティの報告によれば、世界中で1日に何百人もの政治犯が死刑になっているし、刑の執行を待っている者もそれに続いているという。 政治犯というのは自分の思想や信念が現在の権力と相反するために捕らえられたのであるから、その立場に同情するむきもあって当然だが、単なる強盗殺人や、けんかの上での殺人や情痴殺人となると、その犯罪者を人は当然のように軽蔑し憎悪する。 そんな奴は死刑にして当たり前だし、極刑がないと、世間はそういう犯罪に対して不安でたまらないという。極悪非道の殺人者は殺せというのが世間の人情であり、その人情は当然正しいものとされている。 見せしめという言葉は、善良そうな人もど軽く口にする。
 しかしそんな次第で人を罰しつづけるなら、戦争に行って生き残った人間の誰が死刑をまぬがれることが出来ようか。戦犯として死刑にあった軍部の指導者だけが人を殺したわけではないし、戦争をしたわけではない。 戦争に反対することも出来なかった国民の無知もまた罰せられるべきであり、国家の元首こそ大殺人を命じた責任者として死刑にあうべきであろう。
 人間の行うことは所詮人間の浅い知恵の枠内であいか行えない。罪を憎んで人を憎まずといった聖哲の言葉など、現在では学校でさえ教えられない。 怨みに報いるに怨みを以てすれば永遠に殺しつづけなけらばならない。
 人を殺した者を必ず殺していけば限りもない殺人がつづいていく。
 人を殺してはいけない。人は人を殺させてもいけないという釈尊の言葉を私は今はよりどころにして、死刑廃止運動に連っている。
 一思いに殺された方が無期より楽だという説もある。けれども無期で罪をつぐなうことが如何に苦しそうに見えても、生きてさえいれば、人は自分を変える無数の機会が恵まれる。 人間はいつ、どう変化するかわからない心を持った動物である。生きている限り、人の心は動きつづけることが出来る。
 人は人の未来を奪う権利はない。
 死刑がどんなに野蛮な刑であるかは、もう世界の文明国が次々この刑を廃していることでも証明されつつある。日本は今や数少なくなった野蛮国の1つとして、まだ死刑を存続させているし、させつづけようとしている。恥ずかしいことである。 (『自由と正義』1982年12月号) (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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誰の罪か=三浦綾子 島秋人という死刑囚がいた。彼はもう10年も前に死刑になっている。 「遺愛集」という心に沁みる歌集を1冊残して、33才の生涯を閉じた。
 彼はある日、獄窓に於いて、自分の一生を思い出してみた。が、人にほめられた思い出は、何ひとつなかった。もう一度、くり返し思い出してみた。 と、中学時代、図工の教師に、
「お前は絵は下手だが、構図はクラスで1番よい」
 とほめられたことがあるのに気づいた。
 この話をある牧師から聞いて、わたしは涙がこぼれた。今、死を前に、たった1度しかほめられたことがなかった人生を省みるこの青年の淋しさは、一体どんなであろうと思ったからだ。
 父が、母が、近所の人が、受け持ちの教師が、なぜ1度もほめ言葉をかけてやらなかったのかと、わたしはふしぎでならなかった。 それほど、この青年は、ひねくれ者で乱暴者であったのか。
 そう考えているうちに、わたしは、はっと1つのことに気づいた。それは、人間というものは、なかなか、人をほめない存在だということである。
 恐らく、この青年にも、小学校1年から、中学3年まで、何人かの受持教師がいたであろう。しかし、教師は多数の生徒を相手にしている。 非常に朗読の上手な生徒とか、他にすぐれて運動神経の発達している生徒とかを、度々賞賛することはあるかも知れない。
 だが、どのクラスにも、目立たない生徒がいるものだ。すると、教師は、つい今日もその生徒に声をかけない。明日もほめてやらないということになるかも知れない。
 たとえその生徒が、隣の友だちに、ビー玉をやるとか、ちり紙を分けるとか、些細な親切をしていても、教師が気づかない。積極的に教師に話しかけてくる子や、懐(なつ)いてくる子とは話をしても、毎日クラス全体の子と話すとは限らない。
 そんな日が、つみ重なって、教師から特別にほめ言葉をもらえないという生徒がないとは言い切れない。運がわるいと、次の教師も、そして又次の教師もその生徒をほめることなく何年間が過ぎるということも考えられる。
 しかも、教師は、ともすればほめるよりも咎める言葉、叱ることば、注意する言葉を多く口から出すかも知れない。と、いうことで、ついにどの教師からも、1度もほめられることなく中学を卒えるということがないわけではない。
 それは、わたし自身教師の経験があるのでよくわかる。ある時期、わたしは受持生徒一人一人の日記を毎日書いたことがある。 戦時中のことだから、生徒数が多く、60人から80人ぐらいもいた。
 その一人一人の日記を書くということは、つまり生徒一人一人の心の動きを心にとめておかなければならぬということである。これはもう至難なことで、どうしても、今日何をしたか、何を言ったか思い出せない生徒が何人かいた。 わたしは、その思いだせぬ子の名を教卓に貼っておき、翌日は真先にその子たちに声をかけるようにしたが、しかし、それでも毎日何人かの生徒の言動を心にとめることができなかった。
が、今になってつらつら思うに、私はつとめて生徒たちに言葉をかけた。が、それは、
「昨日の日曜日何をしたの?」
「おばあちゃんの病気よくなった?」
 というようなことばかりだったような気がする。言葉をかけること即ち賞めるということではなかったはずだ。と、すれば、私に何年間受け持たれても、一言もほめてもらえなかった生徒がいたかも知れないということだ。 それを考えると、私の心は激しい悔恨に襲われずにいられない。
 二、三年前、ある集会で、
「あなたは妻の料理をほめるか」
 という話題が出たことがあった。
 ところが驚いたことに、かなり仲のいい夫婦であっても、必ずしも妻の料理をほめることはないという夫たちが何人かいた。
 では、その妻たちは料理が下手かというと、決してそうではない。いずれも、玄人はだしの腕前の持ち主ばかりなんじょだ。それなのに、その夫たちは、只黙って食べるというのである。
 仲のいい夫婦の場合でさえ、妻が心をこめて造る毎回の料理をほめないのだ。と、いうことは、人間はなかなか人をほめないものだということだ。 だから自分のした善行なら、いささかでも誇るが、他の人が同じ善行をしても、先ず人はほめない。「金がある」から」「世話好きだから」「ひまがあるから」したのだと、半分くさすような言い方をする。
 島秋人は、たった1度、中学の教師にほめられただけであった。その1度がなければ、彼はこの世に生まれてきれ、ただの1度も人にほめられたことなく一生を終わったことになったであろう。
 考えてみると、くる日もくる日も、ほめてくれる人のいない人生は沙漠のようなのもだ。島秋人を殺人に追いやったのは、その沙漠のような、この社会ではないだろうか。
 しかし、彼は、自分を冷たく扱ったこの世に対して、恨みを抱いて新だのではない。キリストへの信仰と、短歌をつくることに依って、彼は支えられた。
  この手もて人を殺めし死囚われ同じ両手に今は花活く
  主のみ手にすがる外なき囚われに冬のさ庭の陽があたたかし
  世のためになりて死にたし死刑囚の目はもらひ手もなきかも知れぬ
 ほめられたことのなかった彼の罪か、ほめなかったもの立ちの罪かと、私はこの歌を読み返すのである。 (『本』昭和五十四年七月号) (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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死刑に反対する=田辺聖子 今東光氏がまだご存命のころ、死刑廃止の議論に対して、
「しかし、無惨に殺された人の遺族の身になってみれば、なあ……」
 といわれていたのを私はおもいだす。
 総論的には死刑反対だが、「しかし……」とつくのも人情であろう。だが、やっぱり私は、極悪人に対しても、死刑に反対せざるを得ない。 殺人を犯した人間に対して、法の名でまた殺人を犯すということに釈然としないのである。
 1975年から1979年にかけてカンボジアではポル・ポト政権の自国民に対する大虐殺がおこなわれた。人口7百万のこの国で実に半数近い3百万人の民衆が ジェノサイドの犠牲になった。やっとポル・ポト政権が倒され、新政府のヘン・サムリン政権が立って荒廃した国土のあと始末にかかったが、以前にポル・ポトの手先になって民衆を殺したり迫害したりした連中はどうなったろうか。 彼らは民衆に摘発され、糾弾されたが、処刑されることはなかった。再教育センターへ送られて、何週間が服役し、洗脳されて釈放された。
 目の前で肉親が殺された人々は、残虐行為を命じたり、直接手を下したりした人間を指さし、
「あいつが私の夫を、子を、(あるいは妻を、兄弟を、両親を)殺した!」と叫んで、どんなにか報復したかったことだろうと思う。 それが人間の情だろう、しかし新政府は、「復讐を生む」として報復処刑を許さなかったと伝えられる。
 カンボジアのジェノサイドは特殊な例であるが、私は「目には目を」という死刑に、どうしても与(くみ)することはできない。 私は反戦に署名し、核兵器に反対し、原発にも反対するものである。原子力の平和利用というけれど、原子力利用には根本的な不信感をもっている。 そういう立場の人間が、死刑制度に賛成、というのは矛盾がある。私は使役廃止を唱(い)わざるを得ない。
 私は何ら特定の宗教を信仰するものではないが、人のいのちの尊さを説きつつ、片方で命を奪う書類にサインすることはできない。 我々が死刑制度存続をきとめていることは、全国民があげて処刑命令書にサインすることだから……。大いなる超越者からごらんになれば、それは人間としてまことに不遜な所業と譴責されるのではあるまいか。
 これは国民一人一人の胸に問われる問題である。
 自由を剥奪され、ひとところに閉じこめられるという」ことは、人間として大きい苦痛だと思う。禁錮される苦痛で、人間はその罪を贖う、と考えてもいいのではなかろうか。 死刑を廃止にしたとき、反戦・非戦思想も現実性を帯びてゆく気がする。 (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『女たちの死刑廃止「論」』            死刑をなくす女の会 三一書房   1984.11.15
( 2007年4月16日 TANAKA1942b )
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(5)宗教家も死刑廃止を強く主張する 
実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教
 死刑廃止を主張するグループがいくつかあり、その中でも宗教家グループの影響力は大きいに違いない。 なにしろ、死刑廃止の主張そのものが宗教的なものだからだ。法律のそれも刑法という硬い分野でありながら、その主張の根拠は極めて宗教的だからだ。 ここでは『死刑廃止とキリスト教』の掲載された意見を引用することにしよう。また、死刑問題の捉え方が「宗教的」なので、宗教家ではない人たちの思いも取り上げてみた。 ここでも、「法体系」などというヤボなことは抜きにして、しばらく宗教的な雰囲気に浸ってみましょう。
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死刑についての私の一言=荒井献 私が死刑に反対する理由は、極めて単純です。 人間は相対的存在です。このことをお互いに認め合うところに、「愛」の関係が生ずるのです。人間が相対的判断に基づいて、他者を絶対的に抹消し、「愛」の関係を断ち切ることは、いかなる理由があっても、ゆるされるべきではありません。 (荒井献=恵泉女学園大学学長 日本基督教団まぶね教会会員)
死刑についての私の一言=田畑忍 人を殺すことは大罪です。最悪の殺人は、権力が死刑執行の公務員を用意して、殺人犯やその他の事由で人を殺す死刑です。 死刑廃止は当然に必要です。
 歴史を遡って考えてとよく分かります。死刑制度がありましたので、聖人のイエス・キリストが十字架にかけられたり、賢人のソクラテスが毒殺されたりしました。 このような事例は少なからずあります。
もちろん、死刑を廃止しても殺人犯は決して増えません。また、死刑制度があっても殺人等の犯罪はなくなりません。大きく考えれば、他の刑罰も無駄です。 死刑などの代わりに、福祉や教育や医療等々の方法を導入して、犯罪をなくすべきです。アメリカやイギリスでは既にそうした運動が台頭している、と聞いています。
 日本こそ、戦争(憲法9条)の完全実施とともに、思い切って刑罰の廃止に踏み切るべきです。そうして完全なる社会福祉の国になるべきである、と思います。 完全なる社会福祉の国では、殺人もその他の犯罪も激減して、刑罰の必要は完全になくなるでしょう。日本国憲法31条と36条をさらに大改正すべきだと考えています。 (田畑忍=同志社大学名誉教授 滋賀県・草津キリスト教会会員)
死刑についての私の一言=本田哲郎 いったい誰が人の死を要求できるのか。個人であろうと組織や制度の上に立つ権威であろうと、人の命を断つことは許されない。 人と人とが詫び合い許し合ってともに生かされてこそ、明日に期待することができる。個人やグループによる殺人が許しがたい犯罪であるのと同じく、国家権力による殺人も認めてはならない。 命あってこそ罪を悔い、詫びることも償うこともできるのである。死は決して償いにはならない。責任を取って腹を切るというのも、責任を追及して命を奪うというのも、どちらもおかしなはなしである。 結果的には純然たる責任放棄ではないか。犯した罪は死をもって償うことをいさぎよりとえうる日本人の未成熟な発想がわざわいしているのかもしれない。 これも裁判が公正に行われたものと過程しての話である。昨今、次から次に免罪の事実が明るみに出ることを思えば、死刑制度は直ちに廃止すべきである。 (本田哲郎=カトリック司祭)
死刑についての私の一言=免田栄 私は昭和24年1月から昭和58年まで死刑囚として獄中に居り、生か死か、真実か否かの問題で闘い、34年の歳月を経て社会に帰り、自分の生涯の経験から、人間の裁きが神の裁きに等しいか否かを思考した上で、人間の裁きが完全でないことを悟り、死刑廃止運動に投じたいと志している者です。
 私とキリスト教の関係は昭和26,7年頃から開始されています。強盗殺人という罪を一方的に負わされまして、3年ほどの裁判で死刑が確定して死線をさまよい狂苦している時、カナダ人で教誨師として毎週来られていたテロリという神父さんから、死刑確定者に再審という手続きがあることを教わりまして、それから発奮しまして司法を相手に闘い、昭和58年7月15日に無罪を勝ち得ました。
 この間に7回最高裁まで上告して7,80人の裁判官に接し、個人的に言って私の訴えを認めた裁判官は2名です。
 この間に約70名の死刑囚が処刑されていますが、その中に免罪を訴えていた者が5,6名おり、確定判決に不服を訴えていた者が20名ほどいます。 人間の裁判は完全でないし、また完全を怠る裁判官が多くいます。
 多くに方が死刑という問題に感心をもたれ、廃止に努力されていることに心から御礼申し上げます。皆さんのこの姿を無実で処刑された者その他の方々がどんなに喜んでいるか分かりません。
 死刑の問題は被害者問題もかかわって難しくありますが、犯罪も戦争も被造者の弱さから起こる問題です。自分の体験から、死刑は再考される時代が来ていると思います。 (免田栄=元死刑囚)
時代遅れだけでない日本の死刑制度=ホセ・ヨンパルト 後藤田法務大臣は、就任の記者会見で死刑について「法に即して執行する必要がある」と述べたようである。 「殺したのだから、殺されるべきだ」という。死刑存置論者の考え方は非常に古い。人類初の殺人を犯したカインは、「わたしに出合うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言った。 しかし、主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ7倍の復讐を受けるであろう」。
 むろん、その後のモーゼの律法などに、死刑制度があったのは事実である。これは神さまが突然考えを変えたのではなく、当時の社会においては、死刑はどうしても必要だっっらからであろう。 カトリック教会では、死刑についての公式な教えはないが、私の近いでは、死刑制度はいかなる社会、いかなる時代でも常にいけないものとは言えないと思う。 ただ。「人を殺すなかれ」という聖書にある神の掟に対して、死刑のような例外を認めるには、それを正当化するだけの明白な理由が必要である。 そのはっきりした理由がない限り、やはり死刑は神の掟に反すると同時に、殺人でもあると言うべきであろう。
 1992年、マス・メディアでも注目された全世界のカトリックのためのカテキスム(公教要理)が発行された。カトリック信者が、当然このカテキスムに書かれたすべてのことを信じなければならないわけではないが、 ここでは一見すると、「非常に重い犯罪」を犯した場合は死刑が認められるような表現がある。だが、この部分の前後関係を見逃してはならない。 なるほど、もし正当防衛という理由から死刑制度がまだ必要だとすれば、この制度は正当化されるであろう。さて、これではこの理由が、現在の日本に該当するかを考えてみよう。 今の日本で、死刑は正当防衛として必要だろうか。問題はこれだ。1993年現在、日本には57名程の死刑囚がいるらしいが、この57名の命を奪うことが正当防衛に当たるのだろうか。
 法務大臣は「法に即して執行する必要がある」と言うが、果たしてそうだろうか。日本の死刑に関する法律が正しいとされても、私は法学者の立場からそれを否定したい。その証明はそれ程難しいことではない。
 先ず第一に、裁判官が被告人を死刑にしない限り、死刑は執行されない。そして日本の実定法では、裁判官が「法に即して」死刑判決を言い渡すよう拘束される場合は、唯一、外患誘致罪(刑法81条)だけなのである。 だが、今までこのような犯罪が行われたことはなく、今後も起こる可能性はなさそうである。つまり、他のすべての場合、裁判官は自らの良心に従って、死刑か無期懲役かを選ぶことができるわけである。 実定法(憲法)は、裁判官は自らの良心に従うべきとは言っているが、必ず死刑にしろとは言っていない。だから、すべての裁判官が「殺したのだから殺されるべき」という考え方を変えるとしたら、実定法を変えなくても、死刑執行はゼロになる可能性がある。
 第二の問題点は、現役の法務大臣が死刑執行命令を下すという点である。3年程前から死刑が全く執行されないという事態が起こってきらが、これに対して、法務大臣(または法務省)が怠慢ではないかという声が時々聞かれる。 しかし、この法務大臣が十代な仕事がけっして「法に即して」行なわれてこなかった事実は、戦後の死刑執行者数の年度統計を見ればすぐ分かる。 執行ゼロの年もあれば(1964,68)、死刑執行大好きの法務大臣が就任すると、絞首台はラッシュ・アワー並みになる。例えば、1957年、60年は何と各39人にも上り、その後は──2回ゼロになり(前述)──1970年、75年は各17人が処刑されている。
 日本国民が国家権力に任せた、この人命を奪うという責任ある仕事に、なぜこのようなアンバランスがあるのか。答えは簡単。 良く言えば、死刑執行は法務大臣(とその顧問たち)の自由裁量に任せられているから、悪く言えば、恣意に任せられているからである。
 このことを考えると、3年前から各法務大臣が執行命令にハンコを押さないようになったことは、賢明なことであり、高く評価しべきであろう。 むろん、今、この瞬間にも法務大臣がハンコを押す可能性はあり、この不安は死刑制度が廃止されない限り、ずっと続くのである……。 (カトリック司祭、上智大学法学部教員)(『死刑廃止とキリスト教』から)
<ストックホルム宣言> アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中近東、南北アメリカおよびカリブ地域からの200名以上の代表と参加者からなる死刑廃止のためのストックホルム会議は
 死刑がこの上もなく残酷、非人道的かつ屈辱的な刑であり、生きる権利を侵すものであることを想起し
 死刑が反対派、人権、民族、宗教およびしいたげられた諸集団に対する抑圧の手段としてしばしば行使され
 死刑の執行が暴力行為であり、暴力は暴力を誘発しがちであり、
 死刑を科し、それを執行することは、その過程にかかわるすべての者の人間性を傷つけており、
 死刑が特別な抑止効果をもつことはこれまで証明されたことはなく、
 死刑がますます、説明不能な失踪、超法規的な処刑、および政治的な殺人の形をとりつつあり、
 死刑執行が取り返しがつかず、しかも無実の人に科されることがありうることを考慮し
自国の管轄内にあるすべての人の生命を例外なく保護することが、国家の義務であり、
政治的強制を目的とする死刑執行は、政府機関によるものであれ、他のものによるものであれ、等しく容認されず
死刑の廃止がこれまで宣言された国際基準の達成によって不可欠のものであることを確認し
死刑に対して全面的かつ無条件ぬ反対すること
いかなる形にせよ、政府によりおかされた、あるいは黙認されたすべての死刑執行を非難すること
死刑の世界的規模での廃止のために活動すると誓約することを宣言し
国内的および国際的な非政府系機関に対して、死刑の廃止という目的に資する情報資料を人々に提供するため、集団的および個別的に活動すること
すべての政府に対して、死刑の即時・全面的な廃止を実現すること
国際連合に対して、死刑が国際法宇藩であると明白に宣言することを要求する
    1977年12月11日  アムネスティ・インターナショナル 死刑廃止のためのストックホルム会議 (『死刑廃止とキリスト教』から)
<死刑廃止にむけての市民的および政治的権利に関する国際規約第二選択議定書>(1989年12月15日)
 本議定書の締結国は、
 死刑の廃止が人間の尊厳の高揚と人権の一層の増進に寄与すると堅く信じ、
 1948年12月10日の採択された世界人権宣言第3条および1966年12月16日に採択された市民的および政治的権利に関する国際規約第6条を想い起こし、
 市民的および成自邸権利に関する国債規約第6条が、死刑の廃止が望ましいことを強力に勧めて死刑廃止に言及していることに留意し、
 死刑廃止のためのあらゆる措置は、生命に対する権利の享受の進展であると考えられるべきであると確信し、
 ここに死刑廃止にむけての国際的な誓約を行うことを求め、
 次の通り協定した。
第1条 1 本選択議定書の締結国の締約国の管轄下にある者は、何人も処刑されるっことはない。
2 各締約国は、その管轄下において死刑廃止のためのあらゆる必要な措置を講じなければならない。
第2条 1 批准または加入の際になされた、戦時に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決に従い、戦時に死刑を適用する規定に関する留保を除き、本選択議定書に対しいかなる留保も付することも許されない。
2 かかる留保を付そうとする締約国は、批准または加入の際に、戦時に適用される国内法の関連する規定を国際連合事務総長に通報するものとする。
3 かかる留保を付そうとする締約国は、その領域における戦争状態の開始、または終了を国際連合事務総長に通告するものとする。
第3条 本選択議定書の締約国は、本議定書の実施のために講じることとした措置に関する情報を、規約第40条の規定に従って人権委員会に提出する報告書に記入しなければならない。
第4条 規約第41条の宣言を行った規約の締約国に関しては、当該締約国が批准または加入の際に自国につき認めない旨の宣言を行わない限り、この規約に基づく義務を他の締約国が履行していない旨を主張するいずれかの締約国からの通報を人権委員会が受理しかつ審議する権限は、本議定書の規定に及ぶものとする。
第5条 1966年12月16日に採択された市民的および政治的権利に関する国際規約についての(第1)選択議定書の締約国に関しては、当該締約国が本議定書の批准または加入の際に自国につき認めない旨の宣言を行わない限り、その管轄下にある個人からの通報を人権委員会が受理しかつ審議する権限は、本議定書の規定に及ぶものとする。
第6条 1 本義低所の規定は、規約の追加条文とみなされ、かつ適用されるものとする。
2 本義低所第2条に定める留保の可能性を辛亥しない限り、本議定書第1条第1項で保証される権利は、規約第4条による例外によって侵されることはないものとする。
第7条 1 本議定書は、規約に署名したすべての国による署名のために開放される。
2 本議定書は、規約を批准しまたは規約に署名したすべての国により批准されなければならない。批准書は、国際連合事務総長に寄託するものとする。
3 本議定書は、規約を批准しまたは規約に加入した国による加入のために開放される。
4 加入は、国際連合事務総長に加入書を寄託することによって効力を生じる。
5 国際連合事務総長は、本議定書に署名しまたは加入したすべての国に対し、批准書または加入書の寄託を通知する。
第8条 1 本議定書は、10番目の批准書または加入書が国際連合事務総長に寄託された日の3ヶ月後に効力を生じる。
2 10番目の批准書または加入書の寄託後に本議定書を批准しまたは加入書が寄託された日の3ヶ月後に効力を生じる。
第9条 本議定書の規定は、いかなる制限または例外もなしに、連邦国家のすべての地域について適用する。
第10条 国際連合事務総長は、規約第48条第1項に掲げるすべての国に次の事項を通報するものとする。
(a) 本議定書第2条による留保、通報および通告
(b) 本議定書第4条または第5条による宣言
(c) 本議定書第7条による署名、批准および加入
(d) 本議定書第8条による本議定書の効力発生の日
第11条 1 本議定書は、アラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語およびスペイン語による本文をひとしく正文とし、国際連合に寄託される。
2 国際連合事務総長は、本議定書の認証謄本を規約第48条に掲げるすべての国に送付する。
[註]本議定書は通称「死刑廃止条約」と呼ばれている。 (『死刑廃止とキリスト教』から)
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<アムネスティは、なぜ死刑廃止を求めているのですか?> 世界人権宣言の前文には、「人間社会のすべての構成員が生まれながらもっている尊厳と、平等で譲ことのできない権利を認めることは、世界における自由、正義そして平和の基礎である」と書かれており、 また第3条には「人は皆、生命、自由および身体の安全を守る権利を持つ」、第5条にな「人はだれも、拷問を受けたり、残酷で人道に反する、あるいは品位を傷つける待遇や刑罰を受けたりすることはない」 (訳文はすべて、アムネスティ・インターナショナル日本支部編『はじめてよむ世界人権宣言』<小学館>より)と明記されています。
 ここでいう人権とは、行いの良い人には政府から与えられ、悪い人の場合は取り上げられるようなものではなく、誰でも分けへだてなく生まれながらに所有するものなのです。 この「人権」の前では国家といえども、1人の人間に対して何をしてもよいというものではなく、さまざまな制約を受けます。
たとえば、罪を犯した人に対して国家が一定の処刑を科すこと、その人が罪に応じた処罰を受けることは一般的によしとされています。 罰金を支払って罪を償う(財産刑)、刑務所のなかで自由を制約される(自由刑)など、裁判の結果に不満かどうかはさておき、広く合意されている処罰だと思われます。
 では、みずから命を奪われる死刑(生命刑)はどうでしょうか。人としての権利のうち、財産や自由を刑罰によって制限されることはあったとしても、「基本的人権の原点である生命権」は何人も侵すことのできない権利です。 思想信条の自由や財産所有の権利など、すべての権利はこの生命権の上に築かれています。したがって、その原点である命を奪うことは誰にもできないのです。 そのできないことをしてしまった殺人事件の犯人には厳しい罰が与えられることになりますが、たとえ国家であったとしても犯人の命を奪う権利はありません。それが人権なのです。
 そもそも、「人を殺してはいけない」というルールを守るために、その罪を犯した人間に国家が「死刑」という殺人を行うのは矛盾しています。 たとえ凶悪といわれる罪を犯した人であっても、「人の命は尊く誰も命を奪ってはならない」と国が率先して主張しなければなりません。 「人の命は尊いのだ、どんな罪を犯した人の命も尊いのだ」という意識を拡げることが、今大切なのです。暴力は新たな暴力を呼ぶ、憎しみは憎しみを呼ぶ、というこの悪循環を断ち切る必要があるのです。
 これまで各設問で見てきたようの、「死刑」という刑罰は、一般に考えられている以上に多くの問題点をかかえている制度です。「死刑」は、人の命を国家権力が奪うという重大なことですから、一点のミスも許されません。 しかし、ミスのない「死刑」などというものがあるでしょうか。
 まず、裁判は裁判官・検事・弁護士という人間が行うものです。人間のやることに「絶対」はありません。これまでの記録から見ても、一審で無罪、二審・三審で死刑判決を受けた人がいます。 また、死刑と無期懲役の間で判決が揺れ動いた例もありました。人間の下す判決であるがゆえに「絶対」はないと考えれば、「絶対的な人の命」を誰も奪ってはならないのです。 また、死刑が執行され、その後真犯人が現れたとしたら取り返しがつきません。無実の人が法の名の下に殺されてしまうほどひどい不正義はありません。死刑制度があるかぎり、誤判による処刑の可能性は否定できないのです。
 さらには、人種的・民族的・宗教的な違いや対立などを理由に死刑制度が政治的な弾圧の手段として使われる場合もあります。
 アムネスティは、以上のようなさまざまな理由から、例外なくすべての死刑に反対しており、1977年にアムネスティが採択した「ストックホルム宣言」にもとづいて行動しています。 (『知ってますか?死刑と人権』から)
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<死刑廃止を推進する議員連盟設立趣意書> 今や世界は死刑廃止の流れの中にあります。既に90ヶ国が法律上または事実上死刑を廃止しており、先進民主主義国にあっては、唯一、日本と米国の36州のみが、依然として死刑を存置している状況となっています。 国連では既に2年前に死刑廃止条約が発効しており、日本も国際社会の1員としてこれを批准することが求められており、昨年11月には国連規約人権委員会が日本国に対して死刑廃止に向けて努力するよう勧告しています。
 日本にあっては、昨年、約3年4ヶ月間の死刑執行停止状態を破って、7名という近年まれにみる大量の執行が行われ、これを契機として国民の死刑制度に対する関心はにわかに高まり、いくつかの地方自治体では死刑廃止の決議がなされるに至っています。
 日本は正に死刑を廃止するか否かの重大な転換点にあるます。廃止国の多くでは、死刑の存置を支持する多数の世論に抗して議会が主導すて死刑の廃止を実現してきました。その歴史に鑑みますと、今や私たち議員の1人1人が、死刑制度について考え、決断することを求められています。
 死刑制度を廃止すべきか否か、そのために一定期間執行を停止すべきか否か、そして廃止に伴って新たな刑を導入すべきか否か等々、議員が国民に指針を示して議論をたたかわすべき時期にきています。 そのためには、先ず死刑制度を廃止することに関心のある議員が集まり、互いに意見を交換し、思索をめぐらすことが肝要です。
 そこで、超党派の議員により、死刑阿世度について議論し考察する場として、また国会において死刑制度を推進する母体として死刑廃止を推進する議員連盟の設立を提唱させていただくことになりました。
 私たちは、過去5度にわたって行われた議員の先輩諸氏の背刑廃止への試みを踏まえて、6度目の挑戦にとりかかりたいと考えています。
 右の趣旨を御理解いただき、多数の議員の方々の御参加をお願い申し上げます。
  平成6年4月6日
 死刑廃止を推進する議員連盟 設立発起人
  田村元、栗橋喬、猪熊重二、海江田万里、笹川尭、佐藤恵、志賀節、竹村泰子、田沢智治、高市早苗、田英夫、中野寛成、錦織淳、橋本敦、早川勝、二見伸明、正森成二
(『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』から)
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<死刑執行停止法の制定を──日本弁護士連合会> 日本弁護士連合会(以下「日弁連」という)は、2002年11月22日、理事会において「死刑制度問題に関する提言」を全会一致で採択した。 その内容は、「死刑制度の存廃につき国民的議論を尽くし、また背刑制度に関する改善を行うまでの一定期間、死刑確定者に対する死刑の執行を停止する旨の時限立法(死刑執行停止法)の制定」を提唱するとともに、 死刑に関する刑事司法制度の改善、犯罪被害者・遺族に対する支援、被害回復、権利の確立などの取り組みを推進していく、というものであった。
 なぜ、日弁連は死刑執行停止法の制定を求めたか。そては何よりもまず、死刑判決にも誤判があることが明らかになったことである。 1983年からわずか6年の間に、4人の死刑確定者が再審で無罪確定によって死刑台から生還したことは、決して忘れてはならない事実である。 そしてわが国の裁判ではその後も冤罪が続いていたが、2005年4月4日には、名古屋高等裁判所が、33年前に死刑が確定した名張事件の奥西勝氏に対して再審を開始するに至った。 また、わが国の死刑制度は、正規に直面する者に対する権利保障が不十分で、誤判防止のための制度も欠如し、死刑の適用基準も不明確であって、さらに死刑確定者の処遇が非人道的であるなど、制度上、運用上に基本的な人権問題をかかえている。 日弁連は、かかる状況下において、死刑の執行はもはや許されないと考えるに至ったのである。
 死刑をめるる国際的潮流はどうなっているか。国連は1989年に死刑廃止条約を採択したが、それにより今日、死刑存置国75か国に対して、法律上ないし事実上の死刑廃止国は121か国・地域となっている(2005年9月現在)。 いわゆる先進国で死刑を存置しているのは、わが国とアメリカだけである。そのアメリカでも、12州とコロンビア特別区が死刑を廃止しているほか、現在、上下院の連邦議会に死刑執行停止法案が上程されて審議中であり、ABA(アメリカ法曹協会)は1997年に死刑執行停止を決議した。 そしてイリノイ州では2003年1月、拷問によって強制された自白が有罪の根拠となっていたとして4人の死刑確定者を特赦し、残りの167人を一括減刑するに至った。 アジアでも、カンボジア、東チモール、ブータンが死刑を廃止しているほか、韓国でも1998年以来、死刑の執行が停止され、国会において死刑廃止法案が審議されている。 今や死刑廃止、執行停止は世界的な流れになっていると言ってよい。これらの背景には、死刑問題というのは国家の刑罰制度の問題である以上に、人権と民主主義社会のあり方に関する基本問題であるという思想が横たわっている。
 わが国における運用はどうなされているか。国連の死刑廃止条約の採択や4大死刑再審無罪事件等の影響で、1989年11月から3年4か月間、事実上死刑の執行が停止された時期があったが、それ以後は、毎年、多い時で7人、少ない時で1人という形で死刑執行が継続されている。
 そうした中で、日弁連は、死刑という最も重いテーマを、日弁連最大の行事の1つである第47回人権擁護大会のシンポジウムで取り上げる決断をした。 私たち実行委員会は、これを受けて精力的な取り組みを展開してきた。本報告書に盛られているようなさまざまな内容の調査研究はもとより、全国9か所(札幌、仙台、埼玉、東京、名古屋、大阪、広島、松山、福岡)のおいてプレシンポジウムを開催し、多くの弁護士、市民とともにさまざまな角度から死刑問題を深めてきた。 その過程で「死刑廃止を推進する議員連盟」との連携も強めてきた。同連盟はは時化制度に関する法律案を国会へ提出すべく準備中である。
 死刑制度の存廃問題をめぐっては、その性質上、日弁連の内外において厳しい対立意見が存在していることは否めないが、最も大切なことは、1人でも多くの人がこの問題に真正面から向き合い、死刑執行停止状態の中で、活発かつ真摯な議論を重ねていくことであると確信してやまない。
 日本弁護士連合会が、死刑執行停止法の制定を提言するに至った経緯を、広く弁護士のみならず、学者・研究者、さらには一般市民に対して紹介しようとの意図のもとに本書の出版の企画が進められた。 本書は、シンポジウムにおける基調報告書をベースとして、死刑制度に関する基本的問題点を読者の方々に提示すること、および専門家や実務家の方々には、研究や刑事弁護実務に役立つ資料を提供することを目的としたものであり、本書が広く活用され、死刑制度問題に関する活発な議論が巻き起こることを切望するものである。
  日本弁護士連合会第47回人権擁護大会 シンポジウム第3分科会実行委員会 委員長 寺井一弘
(『死刑執行停止を求める』はじめに から)
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止とキリスト教』               死刑廃止キリスト者連絡会編 新教出版社    1994. 1.25
『知ってますか?死刑と人権』一問一答  アムネスティ・インターナショナル日本支部 解放出版社    1999.12.10
『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』  年報・死刑廃止編集委員会編 インパクト出版会 1996. 5.10
『死刑執行停止を求める』                   日本弁護士連合会編 日本評論社    2005.12.25
( 2007年4月23日 TANAKA1942b )
死刑廃止でどうなる
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei.html
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei-2.html
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