死刑廃止でどうなる?▲top  

(19)カント、ベッカリーア、団藤重光
誰も銀行強盗事件@ABは予想していない
 今週は哲学者カントを扱う。カントは死刑存置論者の代表格と見なされているようなので、このシリーズで無視することはできない。 そのカントとベッカリーアや団藤重光も改めて扱うことにしよう。扱う姿勢は、タイトル通り「誰も銀行強盗事件@ABは予想していない」ということだ。 まず初めは、平田俊博著『柔らかなカント哲学』から引用しよう。
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<柔らかなカント哲学>  「人を謀殺したものは、死ななければならない。この場合には正義を満足させる代償物は何もない。 ……たとえ公民的社会が構成員全員の一致で解散されるとしても……。刑務所にいる最後の謀殺者はその前に死刑に処せられなければならないであろう」
 このように語ったことで、哲学者カントは、いまや古今東西を通じてナンバーワンの死刑論者と目されることとなった。 死刑制度廃止論が世界の趨勢となりつつある現在、死刑存置論者が最後の拠り所とするのが、ほかならぬカントなのである。(中略)
 死刑廃止論を口にしやすいのは、それが理想主義的な輝きを放つからである。例えば死刑廃止条約は、生命に対する権利(right to life)ないし生命に対する固有の権利をすべての人間に認めることから出発している。 死刑の廃止が人間の尊厳の向上と人権の漸進的発展に寄与する、と信じているのである。同じ趣旨でアムネスティ・インターナショナルは、死刑を「もっとも基本的な人権を侵害する、法に基づく殺人」「国家による計画殺人」であるとして、糾弾する。 人間の生命の価値を否定する点では、法の外で行われる殺人と同じだと考えるわけである。
 このように人権を正面に据えてかかるのが、現在の死刑廃止論の1つの特徴である。しかし、それは古くからあった主張であって、必ずしも現在に特有なわけではない。 しかも、死刑を殺人罪に限定するなら、被害者の側に立つか加害者の側に立つかで、人権の取り扱いが対立することにもなりうる。人権だけでは水掛け論に終わるかもしれないのである。 例えばカントは、殺人犯への死刑の執行を正義の実現と見なしている。
 そこで、改めて注目されたのが、誤判、つまり誤った判決の問題である。これも古くから死刑廃止論の「有力な論拠のひとつ」に挙げられてはいた。 しかし、今日、決定的な理由へと格上げされる。例えば、国内の死刑廃止運動の「精神的支柱」となっている団藤は、誤判の問題を、死刑廃止論についての「最後の決め手」だと見なしている。 死刑の存廃に関する議論が結局は水掛け論だとしても、「少なくとも誤判の問題だけは水掛け論ではない」と考えるのである。誤判に基づいて執行された死刑は取り返しがつかないからである。
 それを支持する哲学上の見解がある。カール・ポパーの可謬論である。彼は、「人間の可謬性(human fallibility)こそが死刑廃止論の決定的な理由」だと考えている。 哲学者ポパーの見解を紹介しながら、団藤は刑法学者の立場から次のように述べる。
 「裁判が神ならぬ人間の営みである以上は、誤判を絶無にするということは性質上不可能である。死刑制度が存在する以上は、必然的に処刑の可能性が内在しているのである」しかしながら、「万が一にも誤判によって無実の人が処刑されるようなことがあれば、それは言語に絶する不正義であって、それはあらゆる死刑=正義論を根底からくつがえす」
 裁判が構造上誤判の可能性を免れることができず、しかも誤判の事実が内外を問わず多数明らかである以上、「死刑はその積極的存在意義を失っている」というのが、現在の日本における死刑廃止論の独自な特徴である。それは世論にも反映されている。
死刑廃止論と哲学の議論 死刑に関する議論にあっては、廃止論であれ存置論であれ、いずれにしても哲学の議論が必要なことは見てきたとおりである。 としわけカントの死刑論を避けるわけにはいかない。理由は2つある。
 1つには、現在の日本の死刑議論において、対立する両陣営を代表する学者がどちらも、哲学者としてはカントを最も重視しているかれらである。 つまり、団藤は、ドイツの法哲学者ラートブルフを介して、カントの人格論を批判的発展的に継承していると、また植松は、カントの正義論を基本的に踏襲していると考えられるからである。
 2つ目の理由は、近代的な意味での死刑論議は、カントのベッカーリア批判に始まると見ることが出来るからである。人権と社会契約論に立脚して、ベッカーリアは罪刑法定主義を核とする画期的な刑法理論を確立したのであるが、同時に、初めて本格的な死刑廃止論を展開した。 そのベッカーリアは、ほぼ同じ立場を標榜しながら、カントは真っ向から反論したのである。
 さてそこで、次節で、カントの刑罰論と死刑論を、さらにベッカーリア批判でもある反・死刑廃止論を見てみよう。
カントの刑罰論及び死刑論 カントによれば、「刑法は定言的命法」であって、犯罪者はまずもって無条件に罰すべきものと判定されなければならない。 裁判所が下す刑罰は、犯罪を犯したという理由だけで犯罪者に課されてはならないのであり、決してただ単に何か他の善を促進する手段として、犯罪者自身のために、あるいは公民的社会のために、課されなければならない。 つまり、犯罪者の社会復帰とか医学上の人体実験とか犯罪予防上の見せしめとかのために刑罰を用いてはならない。刑罰は整備のためなのである。 それでカントは次のように言う。「もし正義がなくなるとしたら、人間たちが地球上に生きていることには、もはや何の価値もない」
 では、刑罰の種類や程度についてはどうか。それらを規定する公共的正義の原理としてカントが採用するのが、同害報復の法、すなわちタリオの法である。 こうした相等性の原理だけが「刑罰の質と量を確定」できる。つまり、「君が国民の中の他の誰かに不当にどのような害悪を加えようとも、それを君は君自身になすのだ。…… 君が彼から盗むならば、君は君自身から盗むのだ。……君が彼を殺すならば、君は君自身を殺すのだ」
 だが、相等性の原理として提示されるカントの同害報復の法は、「目には目を歯には歯を」という素朴で古典的なタリオの法とは別物である。 この点を団藤は誤解している。カントの同害報復の法は私的な復讐とは無関係な公共的正義の原理なのであり、したがって配分的正義の問題であって、犯罪者個人が国家全体に関わることとなる。 けっして、団藤が語るように民事法的な平均的正義が問題なのではない。加害者と被害者が個人対個人の関係で向き合うこともない。それゆえ、団藤の場合と同様に、被害者への補償とか配慮とかは本質的に問題とはならない。
 こうした点に関して、カントは次のように説明している。「君が彼から盗むならば、君は君自身から盗むのだ、とはどういうことか。盗みをなす者は、他の人たちすべての所有権を不確実にする。 それゆえ、その者は(同害報復の法に従って)可能的な所有権すべての確実性を奪い取られる」要するに、公民的社会にあって物を盗んだ者は、単に物を盗んだだけでなく、所有権そのものを辛亥したことになる。 被害者は、公民的社会であり、公民的社会としての国家そのものなのである。それで、カントは更に続ける。
 「彼は何も持たずまた何も取得できず、しれでいて生きようとする。結局、他人が彼を扶養するしかないわけだ。しかし、こうしたことを国家が無償でするはずはないから、彼は国家に自分の労働力を引き渡して、国家が望む労働(手押し車苦役か懲役労働)をしなければならず、 かくて一定期間、あるいは事情によっては永久に、奴隷身分に陥る」窃盗罪に対してカントは、広い意味での懲役刑を相等だと考えているのである。
 それでは、殺人罪の場合はどうか。本章の冒頭で示したとおり、「人を誅殺したものは、死ななければならない。この場合には正義を満足させる代償物は何もない」というのが、カントの答えである。 どれほど悲惨な生であっても、生と死は全く別物だ。殺人罪に相等する報復は、裁判を経て執行された死しかない。虐待は何であれ、犯人の人格のうちなる人間性を歪めるから、許されない。 もしも殺人犯が処刑されないとしたら、国民全裸委が「正義の公然たる侵害の共犯者」ということになり、国民が殺人の罪を問われる。このようにカントは考えている。
 この際、カントの死刑論を、彼の刑罰論全体の文脈の中で押さえてみるとどうなるであろうか。試みに、先の」盗みに関する」カント自身の説明を読み替えてみよう。すると、以下のようになる。
 <君が彼を殺すならば、君は君自身を殺すのだ、とは、どういうことか。殺人をなす者は、他の人たちすべての生命権を不確実にする。それゆえ、その者は(同害報復の法に従って)可能的な生命権すべての確実性を奪い取られる>
 要するに、「他人を違法に殺害することは死をもって処罰されなければならない」。これは「刑罰正義の定言的命法」なのである。 そして、裁判官が厳格な同害報復の法に則って下す死刑判決だけが、殺人罪における刑罰の相等生を可能とする。
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カント対ベッカリーア 刑罰論 カントの場合、「社会契約の中には、自分を者罰させたり、さらには自分自身や自分の生命を処分したりする約定は全く含まれていない」。 「処罰されることを良くするということは不可能」だとされるからである。それで、刑法(刑罰権、Strafrecht)とは、「従属者にその犯罪のゆえに苦痛を課するという、命令権者の権利」だと定義される。 人間は本体人として社規契約に参加することで国家を創設し、「公民的人格性」を、つまり命令権を獲得するが、犯罪を犯せば、それを喪失して「人格的従属者(persönlicher Unterthan)となる。 つまり、現象人となる。だが、それでいて全くの現象になりきるのでもない。行動すべてを物体の運動のように自然の因果法則で説明し尽くすことに対して、人間の「生得的人格性」が抵抗するからである。 一切の帰責能力の主体として、犯罪者は「あらかじめ可罰的(strafbar)だと判定されていなければならない」。犯罪者は無条件に同害報復の法に基づいて、犯した犯罪に相等する刑罰(苦痛)を受けなければならないのである。 同害報復の法が、公共的正義の原理として質と量を確定する。すでに見たとおり、刑法は定言的命令となる。
 ただし、犯罪の重さを測る基準が、犯罪者の内的な悪意に、つまり犯罪者の意志の違法性にある点に注意しなければならない。なぜなら、「行為の帰責能力(Zurechnungsfähigkeit,imputabilitas)の程度」は、客観的に定まるのではなく、主観的(subjeciv)であって、 行為に際して克服されねばならなかった生涯の大きさに従って評価されるべきだからである。一時の激情に駆られたのか、それとも沈着冷静に理性的に行ったのかという、行為主体の心の状態(Gemüthszestand)が── 犯罪行為においては、内的な悪意の度合いが──、責任の程度を決定することにならざるを得ない。
 これに対し、ベッカリーアでは、刑法の主たる目的は犯罪の「予防」にある。刑罰は必要悪であって、予防のための手段にすぎない。 罰することが不幸(苦痛)の絶対量を増大させるのに対して、、予防は不幸の増大を防ぐからである。そもそも法律は自由人どうしの契約のはずであり、「最大多数の最大幸福(la massina fericità divisanel maggior numero)」を目指すものである。 したがって、人生の幸不幸(快苦)を計算して、「最大限の幸福と竿証言の不幸へ人間を導く技術」が、法律なのである。その意味で法律は「公共的功利(utilità comune)」に他ならず、公共的功利が「人間的正義の基礎」となる。
 それゆえ、犯罪の真の基準となるのは、「国家に与えられた損害(dannno fatto alla nazione)」である。犯罪者の意図(intenzione)を問うのは間違いとされる。
カント対ベッカリーア 死刑論 カントでは、死刑は刑罰正義の定言的命令であり、人を謀殺すたものは同害報復の法に従って死刑に処せられねばならない。
 これに対して、ベッカリーアでは、「各人の自由のできるだけ小さな分担分を統合したものげ、刑罰権の基礎」なのだから、「死刑は権利ではあり得ない」。つまり、自分の生命は誰にも支配されてはならず、死刑は「国家による謀殺(pubblico assassinio)」に他ならない。 と言うのも、生命は誰にとっても「最大の財産」であって、分担分として公共へ差し出されることは絶対にあり得ないからである。
 また、ベッカリーアは、自殺の禁止という宗教的な理由からも、死刑の廃止を訴えている。人間は自分を殺す権利を持たないのだから、その以ていない権利を譲渡しようがないと言うのである。
 さらに、ベッカリーアは、死刑とは、一人の国民に対して国家がなす「戦争」だとも説明する。しかし、通常の場合には、すなわち、国家が対内的にも対外的にも十分の安定していて、犯人を生かしておいても公共の安全に危険がない場合には、死刑は不必要だと主張する。 死刑よりも「終身隷役刑」のほうが、犯罪予防の上で効果が確実だとするのである。
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ラートブルフの死刑廃止論 20世紀前半に活躍したドイツの法哲学者ラートブルフは、カントの人格主義的人間観を批判的に継承しており、日本の法学者にも大きな影響を与えた。 彼によれば、死刑の権利は、「個人主義に立脚して考えることができない」ものであり、ただ「国家契約に基づいて初めて創設される権利としてのみ考えられる」にすぎない。 要するに、「超個人主義的権利観(überindiviualistische Rechtseauffssung)だけが死刑を正当化できる」と言うのである。例えば、カントは次のように述べている。
 たとえ公民的社会が構成員全員の一致で解散されるとしても……刑務所にいる最後の誅殺者はその前に死刑に処せられなければならないであろう。そうすることで、各人は各自の行為に値することをその身に受けるのであり、また、 処刑を行おうとしなかったせいで殺人罪の責めを国民が翁といったこともなくなるのである。と言うのも、処刑を行おうとしまかった国民は、殺人罪という、正義の公然たる侵害の共犯者と見なされうるからである。
 本章の冒頭でも一部紹介したカントのこの有名な文章において、国民という概念が、「個々人の総計としてではなくて、個々人の個人的な利益よりも生命の長い、超個人主義的な固有価値の担い手」として出現しているのを、ラートブルフは私的する。 死刑を応報説(同害報復の法)によって正当化するために、国民という超個人主義的な観点が社会契約説の個人主義的な文脈の上に、言わば、接ぎ木されていると言うのである。
 ラートブルフによれば、もし社会契約説の倫理を貫徹させるなら、「同意説(Einwillingungs-Theorie)しかない。たとえば、ベッカーリアは、人間には自分を殺す権利がなく生命は放棄することのできな法益だから、社会契約において死刑に自殺的に同意することはありえない、と言う。 この、あり得ないという点を、ラートブルフは一段と強調する。犯罪者が死刑に「同意することは許されない」のではなくて、「理性的に判断して(vernünftigerweise)同意することはあり得ない」と言うのである。 なぜなら、「粗景はそれこそ利益の主体を滅ぼすことだから、死刑が犯罪者自身の利益にも奉仕することだとはどうしても証明できない」からである。 したがって、個人を「理性の固まり」だと、見ても、個人が死刑に同意するとは考えられない、とラートブルフは主張する。そう主張することで、カントを批判するのである。 カントによれば、同一人物中の本体人が理性的人格として片割れの現象人たる犯罪的人格に死刑を課す。つまり、犯罪者の理性がそれ自体必然的に、自分の「生命を失わざるを得ないと判断するはずである。 しかし、そういうことはあり得ない、とラートブルフは断言する。
 ラートブルフ自信は、社会的刑法理論としての「保安および改善説(Sichierungs und Besserunguslehre)に立って、カントの応報説を批判している。基本的には個人主義的で非社会法的である応報説では、行為が行為者から、ないしは行為者が人間から分離していて、犯罪者は「行為の没個性的な行為者」であるにすぎない。 その場合、刑法関係は部分的な関係でしかなく、特定の行為の行為者としてのみ人間を見る。それに対して、社規的刑法は、ひとりの人間をまるごと視野に納める。カントにおけるように「抽象的で孤立した個人」ではなくて、具体的で社会化された個性」が問題となるのである。 その結果、刑罰は、個々の犯罪行為にではなくて、個々の個性的な犯罪者に関わるものとなる。
 かりにこの理論を死刑論に適応するとすれば、誅殺行為は死刑に値し、濃い者は誅殺行為に関するかぎりは死刑に値するが、まるごとの人間(ganzer Mensch)としては部分的にしか値しねいこととなろう。 だが部分的な死刑なぞあり得ない。価値相対主義者であったラートブルフは、禁欲的に、そうした論理の一歩手前で立ち止まっている。
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団藤重光の死刑廃止論 ラートブルフの保安および改善説は、ベッカリーアの社会予防説的な教育刑思想を批判的に発展させたものと言えるが、それを更に洗練させたのが、団藤の「人格責任論・動的刑罰論」に他ならない。 彼の人格責任論によれば「犯罪行為はつねに行為者人格と結びつけて理解されなければならない」。「ちょうど作品が作者の人格の現れであるように、我々の行為はすべて我々の人格の発露」だとされるのである。 しかも、人格は、静的・固定的ではなくて、動的・発展的なものと理解されている。先天的と後天的の素質を基礎にして、行為環境と人格環境の制約を受けながら、各自の主体的な人格態度によって、人格は障害にわたって形成され続けるのである。
 また、動的刑罰論によれば、犯罪と刑罰の間に一種の緊張関係が存在する。「犯罪論は静的・固定的」だが、「刑罰論は動的・発展的」なのである。 と言うのは、刑罰が課せられるのは、個々の犯罪行為にではなくて、あくまでも犯罪者という人間にだからである。過去における犯罪行為のゆえに、現在ないし未来の人格に刑罰が課せられるのである。ところが、人格そのものが動的・発展的なのだから、当然それに対応して、刑罰も動的・発展的たらざるを得ないこととなる。 動的刑罰論は、何よりも、犯罪後における犯罪者の人格形成を、そしてまた、犯罪に対する社会や被害者たちの反応の変化をも重視するのである。 したがって、死刑は、更なる人格形成の可能性を全く摘み取ってしまうのであるから、動的刑罰論と「真正面から矛盾する」ものとなる。
 ただし、犯罪論としては、死刑に値する行為も認めざるを得ないのだから、死刑制度の廃止までを要求することはない。「死刑の宣告まではよいとして、最小限度において、死刑の執行だけは認めるべきでないという結論にならざるを得ない」と、団藤は、ひとまず「純理論的」に論断する。 その上で、裁判官という実務上の経験が、氏をさらに「決定的に廃止論者」たらしめることとなる。 (『柔らかなカント哲学』から)
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<死刑を廃止したらどうなるのか?>  偉大な哲学者カントも、死刑を廃止したらどうなるか?については何も言っていないようだ。一つの制度を論じるとき、「それが完璧かどうか?」「欠点はないか?」という議論も必要かも知れないが、では「それに代わる制度はあるのか?」という議論も必要だ。 TANAKAの主張は「死刑制度を廃止したら、法体系に矛盾が生じる」ということだ。その主張を議論するには、「死刑制度を廃止したらどうなるか?」を議論しなければならない。 どのような制度を議論するにしても、その制度が実際に施行されたら、どのようなことが起こるのか?を議論しなければならない。哲学の分野での議論はこの点が欠けているようだ。 そして、そうした点からのカント批判もないようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『柔らかなカント哲学』増補改訂版              平田俊博 晃陽洋書房     2001. 6.20
『ベッカリーアとイタリア啓蒙』               堀田誠三 名古屋大学出版会  1996.11.20
『公共経済の諸要素』      チェーザレ・ベッカリーア 三上禮次訳 九州大学出版会   1997. 2.28
( 2007年7月30日 TANAKA1942b )
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(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論
原初状態と格差原理と誤判と死刑
 今週はジョン・ロールズの『正義論』を扱う。刑法とか死刑廃止論などの本を読んでも『正義論』と死刑廃止の関連を説明したものはない。 また、『正義論』の方から死刑廃止に関する記述も見当たらない。この2つを強引に結び付けようというのが今週の試みだ。どの程度説得力を持つか?チャレンジのし甲斐はある。 そうした強引なチャレンジこそ、アマチュア・エコノミストの特権だと思い、勝手に自分を納得させて、さて、スタートです。
<格差原理のたとえ話>  ジョン・ロールズの『正義論』を真正面から批評しようとしたら、それだけで1冊の本が書ける。そして内容は「素人さんお断り」の難解なものになるだろう。 『正義論』については、<民主制度の限界 (22)『正義論』とはどんな本?> で書いたので、詳しくはそちらを参照して頂くとして、 ここでは「死刑廃止論」との関係だけに絞って扱うことにする。『正義論』のなかで「格差原理」は主要はテーマなのだが、一読しただけでは分かりにくい。 そこで、思いっきり「格差原理」を「素人さん、大歓迎」の文章にするとどうなるか?次のような素人の読者をも意識したやさしい文章が多くなると、政治哲学の分野もアマチュアや他分野からの新規参入が容易になり、F1ハイブリッドが生まれやすくなる、と思って引用してみた。
 むかしむかし、まだ社会というものがなかったころ、人々が集まって社会を作る相談をしたそうじゃ。そこでまず決めなければならなかったのは、社会が何をすべきかの原則、つまり社会にとって正義とは何かということだったんじゃ。みんなは、なんとか自分に一番有利なように正義の原則を決めようと考えた。ところが、人々は始めて会ったので面識もなく相手がどういう人物かはもちろん、これから作られる社会のなかで自分がどういう位置を占めるかも知らなかったそうじゃ。つまり、自分は社会のなかで優れた人間なのか劣っているのか、成功しそうなのかダメそうなのか、自分とは何者なのか分からなかったのじゃ。そこでみんな考えたんじゃ。自分にとって一番最悪な場合、つまり、社会のなかで自分が一番恵まれない人間である場合を考え、そういう自分を救ってくれる正義を考えれば安全じゃ、と。 こうして社会は始まったそうじゃ。
 ロールズはこのフィクションを原初状態と呼び、慎重な個人が最悪な状態に落ち込む危険を心配して共通に示す判断だから、格差原理が正義であることは論証されているとしたのである。彼は、自分が何者であるかを知らないという空想を「無知のヴェール」と表現したが、私は、ロックの時代の「神の前には皆平等」という思想を現代風に洗練したのがこれであると思っている。 (『経済学の知恵』から)
 この『経済学の知恵』の著者は、『経済学の知恵』についてこんな風に書いている。
 ジョン・ロールズを初めて読んだとき私は清々しさと、現代においてこんなことを正面から論じるのはどのような人なのだろうという感慨を抱いた。 そして、そのことは、彼の生い立ちと当時のアメリカの状況を考えるとき、至極当然のここと思うようになったのである。(『経済学の知恵』から)
<自分が一番不利な立場になったら=誤審で死刑判決を受けたとしたら>
 『正義論』を何となくでも分かったら、次は死刑廃止についての話。 死刑廃止論の根拠の1つは、「人が裁く以上誤審は避けられない。死刑が執行されたら、誤審と分かっても元に戻すことはできな」だ。 「もしも貴方が身に覚えのない罪で、死刑の判決を受けたらどうしますか?死刑制度が廃止されていたら、刑務所で有りとあらゆる手段を使って無実を証明しようとするでしょう。 でも、死刑が執行されてしまっては、貴方が無実を証明することはできません。誰かがあなたの無実を証明したとしても、死刑が執行された後だったらどうしようもありませんね」 というのが、死刑廃止の論拠の1つだ。
<ロバート・ノージックの「最小国家」>  話題はドンドン飛びます。次は『正義論』とは対極にある『アナーキー・国家・ユートピア』。ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』の中で、「最小国家」という言葉を使って彼の理論を説明しようとしている。 その「最小国家」とはどのようなものか?ジョナサン・ウルフ著『自由論』から引用してみよう。
 しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する。
 「ユートピアのための枠」の背景にあるのは、人々が彼ら自身のユートピアを構想し、生きることができるような背景の記述を提示するという考えである。最小国家においては、あらゆる資源が共有される共産主義者の村をつくる集団もあってよければ、また、高度な文化の追求のためにあらゆる安楽が犠牲にされる完全主義者の社会を作ってもよい。第3の集団はモデル的な自由市場社会を作り出そうとするかもしれない、等々。つまり、最小国家では、個々人は随意的に様々な種類のサブ国家をつくることができる。そこでは社会は資本主義に基づいて組織されるべきか、それとも社会主義の線で組織されるべきかという議論は不要になる。資本主義を好むものは資本主義国家に、社会主義を好む者は社会主義国家に住むことができる。 (『ノージック』から)
<ジョン・ロールズが主宰する「最小国家」で刑法を定めるとき>
 ここでは、ロバート・ノージックの「最小国家」をジョン・ロールズが主宰しようとした、と仮定して、そのとき刑法をどのように定めるか?を想定してみることにする。
 ジョン・ロールズが「正義論国家」の構成員に呼びかける。「皆さん、正義論国家の刑法を定めたいと思います。先ず私からの提案です。 裁判では誤審はつきものです。神ならぬ人間が裁く以上、完全は期待できません。そこで、もし貴方が、身に覚えのない殺人事件の犯人として起訴され、裁判で死刑を宣告されたらどうでしょう? 終身刑なら刑務所の中から有りとあらゆる手段を使って無実を訴え続けることができます。でも死刑を執行されたら、それは出来ません。 私が言いたいのは「もしも自分が思いもかけぬ一番不利な。不幸な立場になったとしたら、どうしたらいいか?」ということです。 この「正義論国家」では、未だ誰がこの最小国家の代表者になるか?一番の下層階級になるか分かりません。自分が一番不利な立場になっても、ある程度諦められる制度にすべきだと思うのですがいかがでしょうか?」
 この最小国家に集まった人々は全く初めて会った人たちで、前歴はだれも知らない。けれども主催者のジョン・ロールズが『正義論』の著者であることは知っていた。 そこでジョン・ロールズの提案はすぐに理解され、全会一致で可決された。ここに「正義論国家」では「死刑は憲法違反である」と規定することが確認された。
<『正義論』信仰と「死刑廃止」信仰>  『正義論』を信仰すれば、「死刑は廃止せと」になるのは自然だ。同じ様な価値観を持っていると見て良い。 『正義論』側からも、「死刑廃止論」側からも、このような見方は聞かれない。ちょっと離れた所から見ると同じ様な匂いがするのだが、岡目八目かも知れない。 「経済学はセンスだ」がTANAKAの持論だ。理論的であるべき「経済学」なのだが、「センス」の違いが立場・見方の違いに大きく影響するようだ。 考え方の違う者同士が冷静に議論しても「結局、貴方とはセンスの違いですね」ともの分かれになることが多いに違いない。 『正義論』信仰者と「死刑廃止」信仰者とは多くは話さなくても、すぐに理解・納得し合えるの違いない。
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<現実は「格差原理」の社会ではない。何故か?>  「ジョン・ロールズを初めて読んだとき私は清々しさと、現代においてこんなことを正面から論じるのはどのような人なのだろうという感慨を抱いた」 と感激した人がいた。ということは、現実の社会は「格差原理」に従った社会ではない、ということだ。現実の社会と違っていたから、、新しさを感じたのだと思う。 では現実の社会はどうなっているのだろうか?そして何故「格差原理」が採用されないのだろうか?一番弱い・不幸な立場の人にとって住みやすい社会制度にならないのは何故なのだろう? 死刑廃止論からこのような疑問に立ち向かってみることにしよう。 この疑問に関しても、扱っている文献には出合っていない。隙間産業を狙うアマチュアエコノミストとしては格好の狙い目のようだ。
ATM機器は機械嫌いの年寄りには迷惑だ  銀行へ行って振込をしようと番号札をとって窓口へ行くと「当行に口座はお持ちですか?キャッシュカードをお持ちならATMの方が手数料も安く、お得ですよ」とATMへ追いやられる。 ATMに馴れている人ならいいが、機械嫌いの年寄りには、ATMでの振込はけっこう面倒なものだろう。ATMを改良して、最新式のロボットを導入し、対話形式で振込ができるようになれば、お年寄りも、もっとATMを利用するに違いない。
 『正義論』を信仰していれば、この様な発想になるに違いない。ATMは確かに便利で、安く、早く取引ができ、銀行のコストも軽減され、ひいては顧客サービスに結び付く。 その一方で、弱者である機械嫌いのお年寄りには迷惑なシステムだ。その社会での一番の弱者のためにシステムを考えるならば、ATMに対話形式のロボットを導入すべきだ、ということになる。
所得税の基礎控除は超低所得者にメリットはない  所得税の計算は次のようになっている。
 (給与所得−給与所得控除額−基礎控除額)×税率
 この計算式で、給与所得控除額は収入金額×40%(65万円に満たない場合は65万円)となっている。例えば、65万円の人も、50万円の人も、10万円の人も同じ、ということだ。 低所得者層に気を配っているとしても、その中での差はない。低所得者層と超低所得者層とは同じ扱いになっている。『正義論』の考え方からすれば、65万円の人よりも10万円の人の方が優遇されなければならない。
年末調整のサラリーマン減税は弱者にとって利益はあるのか? 経済が成長しているときは毎年のように、年末にサラリーマン減税があった。源泉徴収で天引きされていた税金が戻った。 しかし、これも毎月の給与から税金を天引きされているサラリーマンにのことで、フリーター、ニート、一部の派遣社員には関係がない。もちろん、ホームレスにもだ。
少数の弱者への大きな利益VS多数の中間層への少ない利益 ATMに対話式のロボットが導入されたら、少数の機械嫌いにとっては大きな喜びになる。けれども多数のATMに馴れている人にとってはメリットはない。
 基礎控除で差をつけたとして、少数の弱者には大きな利益はあるだろうが、多くの中間層には関係ない。
 サラリーマン減税は少数の弱者にはメリットはなくて、多数の中間層にはメリットがある。
 ここで、人数かけるメリットの大きさを計算してみよう。
 ATMに対話式のロボットが導入されれば、少数の人に大きなメリットがある。ロボットなしのATMが導入されれば多数の人に少しずつメリットがある。 それぞれを計算すれば、たとえ、ロボットなしでもATMを導入するメリットの方が大きいとなるに違いない。
 基礎控除の場合はどうだろう?やはり、少数の弱者と多数の中間層、そのメリットの合計は現在の計算式で十分中間層にはメリットがあり、基礎控除で差をつけるメリットは小さい、となるに違いない。
 サラリーマン減税も多数の中間層にはメリットがあり、人数かけるメリットの大きさは十分大きいと評価されるに違いない。
接待汚職の被害者は何処にいる? 1998年春、大蔵省金融検査部幹部職員の接待汚職に非難が集まっていた。 ところでこの汚職によって誰が得をして、誰が損をしたのだろう。発覚しなければ銀行と担当者(MOF担)および大蔵省の役人が得をして、一般納税者が損をしたことになる。 他の例と同じように、少数者のルール違反の利益と、多数者の少ない損失。この場合は「ルール違反をすると結局は損するよ」ということをハッキリさせることが大切だ。
少数の土木建設業者の利益VS多数の納税者の利益==談合を考える 談合をすることによって誰が得をして、誰が損をするか?得をするのはすぐ分かる。土木建設業者だ。では損をするのは? それは、土木建設業者も含めた一般納税者だ。けれども損をする一般納税者は自分がいくら損をしたのか知らない。そこで、得をする土木建設業者は「談合は必要悪だ」などと言う。
 ここで例にあげたのと同じようだ。少数の者が大きな利益を得て、多数のものが少しずつ損をする。こうした場合一般的なルールとしては、多数者の利益を重視して「談合は悪だ」と規定する。 市場経済では、競争で負けた者はその市場から撤退し、業界の生産性は向上する。この競争社会を『正義論』信奉者は「弱肉強食の社会」と言って非難する。心のどこかに、「談合を容認すべし」との気持ちを持っている。
誤審により無実で処刑される場合VS殺人未遂で実質的な死刑になる場合 誤審により死刑を宣告された例がある。初めに書いた「銀行強盗事件A」のように殺人未遂で実質的な死刑になる場合もある。 どちらを重く見るか?現在では、殺人未遂で実質的な死刑になるケースを重視していると考えられる。そちらの方が多く起こりそうだからだ。 ただし、「銀行強盗事件@」の場合、犯人が3人を殺したことについて誤審は有り得ない。
基本的な制度は多数者を重視 現在日本の制度は「弱者=一番不利な立場にいる人を守る制度になっている」とは言えない。それよりも上の層=中間層の利益を重視して制度が定められている。 『正義論』の主張する「弱者のための社会制度」にはなっていない。このため「政府は格差を拡げる政策を進めている」「弱者切り捨ての政府与党」と非難する人・グループがいる。 そうした人はかつてはマルクス主義を武器に論陣を張っていたが、マルクス主義に人気がなくなって、ごく一部の人は『正義論』を根拠に論陣を張っている。 そうでない人も結局は、自分では意識していなくても『正義論』を頼りに主張を繰り返している。
 『正義論』は、「弱者=一番不利な立場にいる人を守れ」と主張し、現実社会では「それより上の層=多数派=中間層の利益を重視している」 人数かける利益の大きさ、は現実の社会制度の方が大きい。そこで一般的な制度は、多数派重視の制度になる。ただし現在ではそれだけではない。 一般的なルールの他に、弱者対策別途特別制度を設けていることがある。
 ATMではフロア・スタッフが機械操作の苦手な人の手伝いをする。低所得者には「生活保護制度」がある。
 所得税に関しては、ミルトン・フリードマンの提唱する「負の所得税」がある。これに関しては<新しい所得税法>を参照のこと。 『正義論』とは対極にいる人が、『正義論』よりも具体的な「弱者対策」を提案している。
最大多数の最大幸福 『正義論』が批判する現実の社会は「最大多数の最大幸福」を追求する社会と言えそうだ。 一番の弱者を守る制度、ではなくて、多くの人の利益を多くする制度になっている。別の言い方をすると「個人の快楽の総計が社会全体の幸福である」と言うことができる。 ここまで話を進めて来ると多くの人は気づくに違いない。『正義論』が批判する現実の社会制度は「最大多数の最大幸福」を追求する、功利主義の社会であることに気づくに違いない。
 「最大多数の最大幸福」に対する挑戦には「プロレタリア独裁」を主張するマルクス主義があった。「最大多数の最大幸福」という場合の「最大多数」とはブルジョアのことである、との認識がマルクス主義の中心にあった。 このため、数・人数が問題なのではなく階級が問題であった。けれども、マルクス主義を採用した国々は破綻した。このため、「民主制度」や「最大多数の最大幸福」を批判したい人は、そのための教典を捜していた。 そうした時代に『正義論』が登場すれば、新鮮な驚きをもって、迎え入れた人も多かったに違いない。しかし、時が経って『正義論』の限界が見えてくると、かつての新鮮さを感じる人は少なくなっている。 けれども、そうした人のグループに入るには『正義論』を読んでいなければならない。たとえ完全に理解していなくても、使われている言葉位は知っておかないと恥をかくことになるだろう。
 「最大多数の、最大幸福」=資本主義
 「プロレタリアート階級の、最大幸福」=マルクス主義
 「最も弱者である階層の、最大幸福」=ジョン・ロールズの『正義論』
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<正義の2原理> ジョン・ロールズは『公正としての正義再説』で「正義の2原理」を次のように説明している。
 『正義論』第11−14節で論じた正義の2原理を手直ししたい。それらを今回、次のように修正する。
(a) 各人は、平等な基本的諸自由からなる十分適切な枠組への同一の侵すことのできない請求権をもっており、しかも、その枠組は、諸自由からなる全員にとって同一の体系と両立するものである。
(b) 社会的・経済的不平等は、次の条件を充たさなければならない。第1に、社会的・経済的不平等が、機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた職務と地位に伴うものであるということ。 第2に、社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益になるということ(格差原理)。 (『公正としての正義再説』から)
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<§13 民主的平等と格差原理> 『正義論』と言えば「格差原理」を取り上げなければ話にならない。それほど中心的なキーワードだと思う。「民主制度の限界」でも引用したが、『正義論』の中心的なキーワードなのでここでも引用することにした。
 表にあらわれているように、民主的解釈は、機会の公正な均等という原理を格差原理と結びつけることによってえられる。この原理は、その地位から基本的構造の社会的、経済的不平等が判定される特定の地位を選び出すことによって、効率性原理の不確定性を排除する。平等な自由と機会の公正な均等によって求められる制度の枠組みを仮定すれば、より良い状況にある人々のより高い期待は、次のような場合に限り、正義に適っている。 つまり、そのことが、社会の最も不利な立場にある構成員の期待を改善する図式の一部として作用する場合である。そうすることが不運な人々の有利にならないのであれば、その社会秩序は、より暮らし向きのよい人々の見通しをより魅力的なものにしたり、それを保証したりすることはないというのが、直観的な観念である。
 格差原理を説明するため社会階級間の所得の分配を考えてみよう。様々な所得グループは、その人々の期待との関連で分配を判断することができる代表的個人と相関すると想定しよう。さて、私的所有民主主義において企業家階級の構成員として出発する人々は、いってみれば、未熟練労働者階級にはじまる人々よりも、より良い見通しをもつ、これは、現存する社会的不正義が除去される時でさえ真実であるように思える。その時、人生の見通しにおけるこの種の初期的不平等を、一体、何が正当化できるのであろうか。 格差原理に従えば、期待の差が暮らし向きの悪い代表的人間の、この場合には、代表的未熟練労働者の有利になるならば、その時に限って、それを正当化することができる。期待の不平等は、それをそれを縮小すれば勤労階級の暮らし向きを一層悪化させてしまうならば、その時にのみ、許容される。恐らく、開かれた地位に関する第二原理の中にその条項が与えられる。また自由の原理が一般的に与えられれば、企業家により大きな期待が許されると、企業家達は労働者階級の見通しを引き上げるような事を行なおうするようになるであろう。 彼らのより良い見通しは、誘因として働き、その結果、経済過程はより効率的になり、技術革新はより速い速度で進む、等々のことが生じる。私はこうした種類のことがどこまで真実であるかを考察するつもりはない。これらの不平等が格差原理によって正当化されるならば、この種のことが議論されなければならないというのが要点である。
 さて、この原理について、二、三のことを述べておこう。まず第一に、その適用に際しては、二つの場合を区別すべきである。第一の場合は、最も不利な立場にある人々の期待が実際に最大化されている場合である(もちろん、上で述べた拘束に従う)。暮らし向きのより良い人々の期待をどう変えても、最も暮らし向きの悪い人々の状況を改善することができない。私が完全に正義に適った図式と呼ぶ、最善の取り決めが得られる。第二の場合は、暮らし向きのより良い人々全ての期待が、少なくとも、より不運な人の福祉に寄与する場合である。 すなわち、もし、彼らの期待が引き下げられるならば、最も不利な立場にある人々の見通しも、同様に低下するであろう。だが、未だ最大には達していない。より有利な立場にある人の期待がより高い場合でさえ、最低の地位にある人々の期待を引き上げるであろう。そのような図式は、全体にわたって正義に適うが、私はそういうが、最善の正義に適う取り決めではない。彼らのうちの一人またはそれ以上の人のより高い期待が過大である場合にはその図式は正義にもとる。 これらの期待を引き下げるならば、最も恵まれない人々の状況は改善されるであろう。ある取り決めがどのくらい正義にもとるかは、より高い期待がどのくらい過大であるかに依存し、かかる期待が他の正義の諸原理を、たとえば機会の公正な均等をどの程度まで侵しているかに依存する。 しかし私は、不正義の程度を測定してみようとは思わない。ここで注意すべて点は、格差原理は、厳密に言えば、最大化原理であり、一方、最善の取り決めに達しない諸ケースの間には重大な差がある、ということである。社会は、暮らし向きの良い人々の限界的寄与が負である状況を避けるよう努めるべきである。というのは、他の事情にして等しければ、このことは、こうした寄与が正である時に最善の図式に達しないこと以上に、大きな欠点であるように思える。階級間の差があまりに大きいと、民主的平等だけでなく相互の有利化という原理まで侵されてしまう。 (「正義論」から)
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<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『ロールズ』     チャンドラン・クカサス/フィリップ・ペティット 山田八千子・嶋津格訳 勁草書房    1996.10.14
『公正としての正義再説』 ジョン・ロールズ エリン・ケリー編 田中成明・亀本洋・平井亮輔訳 岩波書店    2004. 8.26
『ロールズ正義論再説』その問題と変遷の各論的考察                渡辺 幹雄 春秋社     2001.12.25 
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
( 2007年8月6日 TANAKA1942b )
死刑廃止でどうなる
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