死刑廃止でどうなる?▲top  
(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか?  東京裁判・仇討ち・必殺仕事人 ( 2007年7月2日 )
(16)法と正義の経済学の立場から見る  死刑に代わるべき制度が見つからない ( 2007年7月9日 )
(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった  旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産 ( 2007年7月16日 )
(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑  理想の共和国では銀行強盗は起きない ( 2007年7月23日 )
(19)カント、ベッカリーア、団藤重光  誰も銀行強盗事件@ABは予想していない ( 2007年7月30日 )
(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論  原初状態と格差原理と誤判と死刑 ( 2007年8月6日 )
(21)ノージックの最小国家という自由論  自由を保証する国家権力を忘れている ( 2007年8月13日 )
(22)本当に人1人の命は地球より重いのか?  遺伝子は、自身の繁栄を優先する ( 2007年8月20日 )
(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論  危機管理意識のない死刑廃止論 ( 2007年8月27日 )
(24)他業種からの考え方を移入すると  雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待 ( 2007年9月3日 )
(25)功利主義的な死刑制度  とりあえず、これに代わりうる制度は考えられない ( 2007年9月10日 )

(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか? 
東京裁判・仇討ち・必殺仕事人
 裁判員制度実施のために各地で事前練習が行われている。新人営業マンがロールプレイングをやるようなものだ。そこで、ここでは法曹界の人が考えつかないような事前練習を考えてみよう。 竹内靖雄著『法と正義の経済学』からの引用で、「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、江戸の町人から陪審員を選定し、陪審裁判にかけたとしたら、どのような評決が出るだろうか」という設定だ。
 この死刑制度を扱って、刑法だとか、死刑廃止だとか、法曹界の人たちの本を読んで感じたのは「気配り半径の狭さ」「視野狭窄」ということ、つまり、発想が皆同じで、2次元的発想から3次元的発想に飛躍するようなものに出合わない淋しさを感じている。 たしかに、裁判員制度導入のために事前練習であれば、起こりそうな事例を設定して練習することになるのだろうが、発想の貧しさを感じてしまう。
 ということで、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件をどのように裁くか?以下の文章を読んで頂きましょう。
*                        *                        *
赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、江戸の町人から陪審員を選定し、陪審裁判にかけたとしたら、どのような評決が出るだろうか。
 弁護士は次のような主張を展開する。
 赤穂浪士の討ち入りは主君浅野長矩の仇討ちである。それは武士の範たるべき義挙であり、その行為は儒教道徳の精髄ともいうべきものである。 彼らは犯罪者ではなく、義士として遇するべきである。なお、この事件の発端となった江戸城松の廊下での刃傷事件は、吉良義央の方に刃傷を誘発する原因があり、少なくとも「喧嘩両成敗」の原則をもって処断すべきところを、原因究明の審理もなく、 浅野を即日切腹、浅野家は改易(領土没収)とし、吉良にはお咎めなしとした措置は不当である。吉良邸討ち入りはこの不正を正し、武家社会の正義を回復する行為でもあった。 赤穂浪士の行為には犯罪性はなく、むしろ顕彰されるべきものである。しかし形式上、法を犯したことも事実であり、何らかの処罰を受けることはやむを得ない。ただし死罪にはあたらない。
 検察側は次のように主張する。
 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、徒党を組み、武装して他人の住居に侵入し、多数を殺傷した最大級の犯罪である。 この行為を仇討ちであり、義挙であると強弁することはできない。主君を殺された家臣がその手下人を討つのが仇討ちであって、本件の場合、そもそも仇討ちにもなっていない。 討てる敵を勝手に決めて恨みを晴らしたにすぎない。武家社会の慣行や儒教倫理など持ち出してこの犯罪行為を正当化することはできない。赤穂浪士全員を極刑に処するのが至当である。
 当時の世論や町人の反応からすれば、陪審の評決はほぼ全面的に弁護士の主張を支持したものとなり、赤穂浪士は無罪放免となったであろう。 法を無視し、感情的正義回復論を支持する形で、陪審員が自分たちで法をつくってしまったことになる。いわゆる「ジュリー・ナリフィケーション」(jury nulification 陪審による法の無視)の好例であろう。 そして赤穂浪士は一定期間謹慎したのち、希望に応じて諸藩に召し抱えられるといった扱いになる。その際、義士というヒーローを召し抱えたいと希望する大名は数多くいるので、ドラフト会議のようなものが開かれ、大名間で調整が行われるであろう。 大石良雄は大藩の家老にスカウトされるのにちがいない。
 しかしこの事件の実際の決着は、赤穂浪士全員の切腹ということであった。被告側は討ち入り(不法侵入・殺傷)の事実を認めているので、陪審裁判に至ることなく、司法取引が成立したとすれば、そのような決着になる可能性もある。 あるいは、弁護人は有罪を認めた上で、情状酌量による助命を主張するが、検察側は死罪を譲らない、という展開もありうる。結局、幕府は、赤穂浪士を罪人として処刑するのではなく、武士としての名誉を尊重し、自ら責任をとらせる形をとることで決着をはかった。 こうして赤穂浪士には切腹が言い渡されたのである。これは実質的には斬首による死刑であるが、名目上は名誉ある自決であり、義士の最期にふさわしいと見られた。 赤穂浪士が自死を受け入れて潔く「散った」ことで、彼らの犯罪性も封印され、こののち、義挙、快挙、美談としての「忠臣蔵」だけが人々の記憶に残ることになる。
 二・二六事件の場合も、陪審裁判の下では似たような評決が出るであろう。被告たち(反乱を指導した将校たち)の行為は「憂国の至情」によるものであり、その目的が正しいものである以上、その手段の違法性を問うわけにはいかない。 あれは反乱ではなく、「昭和維新」のための行動の一環であった……というわけで、ここでも超法規的感情論がまかり通って、法の存在は堂々と無視されることになるであろう。 これも「ジュリー・ナリフィケーション」である。 (『法と正義の経済学』から)
*                        *                        *
<東京裁判、ストーカー殺人事件、フセイン裁判をどう裁くか?>  俗に「東京裁判」と呼ばれる極東国際軍事裁判に陪審員が参加したらどうなるだろうか?ウィキペディア(Wikipedia)で「東京裁判」を引いてみて下さい。 この裁判をどのように評価するか?となると国論を統一することはできないだろう。民主制度の評決の基本は多数決だ。しかし、東京裁判のようなことを多数決で決めることはできるのだろうか?
 1999年10月26日午後12時53分頃、S県O市のJRのO駅前の路上で自宅から乗ってきた自転車に鍵をかけようとしていた女子大生(21才)が、突然男に背中と胸部の2ヵ所を鋭利な刃物で刺された。通行人らが女子大生を介抱したが即死状態だった。目撃者の証言によると犯人は女子大生を刺した後、ニタっと薄笑いしながら逃走したという。
 ストーカー殺人事件と呼ばれるこの事件、犯人は死刑ではなく無期懲役であった。死刑廃止論者はこの判決を批判するはずはないが、一般人はどうだろうか? 「死刑にすべきだ」との声は多いに違いない。
 「世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある」 ということは、一般社会人の常識と、刑法での常識と違うことがあるということだ。
 フセイン裁判となるともうこれは陪審員の判断基準を超えていて、まともな判決は期待できない。
 これらの裁判に陪審員として参加したらどのような判決を下すことになるだろうか?皆さんも、想像逞しく考えてみて下さい。
*                        *                        *
 … は じ め に …で取り上げた、古田の文章にこのように書いてある。
 世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 この文章から分かることは、刑法のルールと世間一般の常識とは必ずしも一致しないときがある、ということだ。陪審員制度は素人が裁判の判決に参加することになる、ということは、刑法のルールを知らない人間が判決に参加するということだ。 上の文章の絡みで言えば、「世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり」という刑法のルールを知らない素人が「それでは世間一般の常識に反する」と異論を唱えることになる。 こうなると、刑法のルールから外れた判決を要求することになる。
 「陪審員制度によって法曹界の人間が、世間一般人の常識を知ることは良いことだ」と書いたが、判決が、刑法のルールから外れたものになるとしたら、これは良くない。 かと言って、「皆さん、陪審員はそのように言いますが、刑法のルールで言えば、それは間違っています」と言って陪審員の判決を無視するとしたら、陪審員制度を採用する意味がなくなる。
 農業問題を扱っていくと、「消費者教育が必要だ」という意見によく出合う。「農林水産省では、食に関する知識と食を選ぶ力を身に付けるための「食育」を推進しています」とは農水省からのメッセージだ。 農業問題を議論していくと、「食品の安全性について消費者教育が必要だ」「消費者は遺伝子組み換えの危険性について考えていない」「そんなに言うなら農村に行ってコメを作ってごらんなさい」 との意見が「土の匂いのしない人」に向かって発せられることがある。「食品の安全性に関しては、消費者の誰よりも私の方が知識がある」との自信と思い上がりに満ちた発言に出合うことがある。
 裁判の判決についていろいろ批判があるようだが、それなら一般人に「裁判で判決を出すということがいかに難しいことなのか、一般人にも分かってもらいましょう。そのためには裁判に参加して貰うのが良いでしょう」 という発想なのだと考えられる。
 乱暴な言い方をすれば「そんなに文句を言うなら、オレたちのやることをお前さんもやってみなさい」ということだ。「そんなに食料自由化を言うならば、農村に行ってコメを作ってご覧なさい」と同じ発言と感じた。
*                      *                      *
 上記文章は頭の体操になったのではないかと思う。ここでもう1つ。頭の体操をして頂きましょう。 それは、死刑に代わる「仇討ち制度」についてだ。上記「陪審員は忠臣蔵をどのように裁くだろうか?」と同じ著者が違う本で書いている。それを引用することにした。
<仇討ちの復活は可能か=死刑廃止をめぐる迷信> 死刑の執行されない国 日本ではこの数年間死刑の執行がなかった。歴代の法務大臣がその職務をサボタージュして、在任中、執行命令書にハンコを捺さなかったからである。 刑法に死刑があり、裁判の結果死刑が確定しているのもかかわらず、その執行だけが理由もなく停止されるという変則的な状態が続いていたのである。 これらの法務大臣は、自分がハンコを捺して人の命を奪うのは後味が悪いとか、死刑制度廃止の声も高まっているおりでもあるし、自分ももともと死刑制度には反対だから、というような理由で、自分の任期中は死刑を執行せず、執行命令書を貯め込んで先送りにしていたらしい。 法はあっても、それをいい加減に運用して「ないに等しいことにする」という、まことに日本的なやり方である。こうして世論の風向きと自分の「良心」(?)の双方に対して「いい顔をする」ことが、格別非難されることもなくまかり通っていたのである。 ようやく職務に忠実な人物が法務大臣に就任して、何人かの死刑の執行を命じると、それを死刑廃止論者たちは非難している。
 このような幼児レベルの知的混乱は別として、死刑そのものを存続すべきかという問題については真面目に検討されてもよい。 日本人の間には、よほどのはっきりした利点がない限り、現状を変更しようとはしない「保守主義の知恵」が働いているので、今のところ死刑廃止は当然、という世論ができあがっているわけではない。 廃止こそ世界の大勢であるといわれても、それではたしてよいのだろうかという懐疑がまだ十分残っているのである。何が何でも死刑は廃止しなければならないという確信にみちた意見は少数であると思われる。
 死刑は蛮行か 死刑に反対する人々の根拠はどういうものだろうか。死刑は国家が法の名において人間の生命を奪う「蛮行」である、というような意見に対しては、人間の歴史の大部分、そしてほとんどの国や社会で死刑は行われてきたのであり、 それにはたんなる「蛮行」というよりもそれ相当の理由があったからではないか、と反問したくなる。死刑廃止論者は、これに十分に答えることができない。 とにかくそれは蛮行であった、許すべからざることであった、と繰り返すのみである。
 人間の生命を奪うことはいかなる理由があっても許されない、という生命至上主義に対しては、ではその生命を奪った殺人犯は許されてよいか、と反問することができる。 これに対する唯一の論理的な答えは「殺人は許すべからざる過ちであった。しかし国家がこの上さらに同じ過ちを重ねるべきではない」というものであろう。 ただしこの答え方は、「死刑を科すべきでないから殺人に対しても死刑を科すべきでない」と言っているだけの循環論法であって、死刑に反対すべき理由の説明にはなっていない。
 一方には、死刑制度がある限り裁判の誤りによって無実の人を死刑にしてしまう恐れがある、という理由をあげる人もある。 しかし裁判に誤りはつきもの、と簡単に言ってもらっては困るのであって、文明国の裁判では、有罪ではないかも知れないという「合理的な疑い」が残る限り有罪にはできない。 その場合は、犯人かも知れないという濃厚な疑いがあっても、有罪とは断定できないのだから無罪(正しくは not guity で「有罪ではない」)となるはずである。 もしも有罪とされたものが、やり直してみるとたちまち「合理的な疑い」が見つかって無罪へとひっくり返るような裁判なら、それは死刑の有無とは別に改善する必要がある。 「裁判は信用できないし、誤審を絶無とすることは不可能だから、死刑は廃止すべきである」という議論の仕方はおかしいのである。 ついでに言えば、裁判とは、神のような「明智」の裁判官が隠れた真実を発見する手続きなのではない。真実は犯人だけが知っている。検察官も裁判官もそれを推定することができるだけである。 けれども、有限回のしかるべき手続きを経て有罪という結論が出れば、それを妥当なものと認めるのが裁判という制度である。
 死刑反対論には、結局のところ、死刑は蛮行である、許せない、情において耐え難い、という感情を持ち出す以外に説得力となるものがない。 しかし実はこの感情論こそ決定的である。死刑には耐えられない、廃止すべきだと人々が感じるようになれば、死刑の存続は事実上不可能となるのである。 ただし、この感情論に対しては、もう1つの協力な感情論が立ち向かうであろう。つまり、自分の子供や妻等々が無惨に殺されて、その犯人が死刑にならないのは耐え難い、納得できない、という被害者側の感情論がそれである。 死刑廃止論者の感情論は、この被害者側の感情論に答えることができない。こちらのほうは公式には無視されされさいる。無視されているのは被害者の遺族の感情だけではない。 殺された人の感情はもっと徹底的に無視されている。なぜなら死んだ人は無であり、もはや感情もあり得ない、というフィクションが受け入れられているからである。 霊魂の不滅を説くような宗教の信者も、こういう時は殺された人の霊魂も感情も無に帰したものと考えるらしい。だから人々は、犯人が処刑されなければ殺された人が「化けて出る」とか祟りをなすといった考え方も今はない。
 要するに、被害者とその遺族たちの感情は無視され、第三者の「死刑はいや」という感情には大いに関心が寄せられる。これは数の問題である。 被害者側の人間はごく少数であるが、第三者は圧倒的多数を占める。多勢に無勢なのである。
 復讐の正義 古い社会の考え方は、何よりも被害者側の感情を尊重するものであった。今Aという人が殺されたとすれば、Aの一族は、殺した張本人のBか、Bの一族のうちAに相当する誰かを殺して復讐しなければ、怒りや悲しみは収まらない、あるいは気がすまない。 「復讐がなされなければ正義は回復されない」というのはこの感情論のことなのである。いわゆる「目には目を」の報復の原則はきわめて古いもので、正義の原型も実はそこにある。 集団対集団」、個人対個人の関係を律する正義の原則とは、この「やられたらやり返す」であり、「贈り物をもらえばお返しをする」である。 互いによいものを「ギブ・アンド・テイク」でやりとりする「交換」の関係も、さらに貨幣を使って交換を行う市場というシステムも、すべてこの古い正義の原則から発展したものである。 死刑廃止論者や教育刑論者のように、報復の原則など古くさいものでもう流行らない、などと言って済ませてしまうのは浅はかと言うべきであろう。
 報復の正義は人間の感情に基礎をおいているが、「やられたらやり返す」原則そのものは、無差別一般的で、関係者の特殊な事情や都合によって左右されるものではない。 極端に言えば、相手に殺意があったか、それとも過失であったかを問わず、人を殺した者は殺されなければならないのであって、この原則はきわめて厳しいものである。 古い社会では、個人の事情や都合は無視されて、一般的なルールが支配するのであり、個人はその支配から逃れることはできない。 そこには個人本位という意味での個人主義はないのである。
 重要なのは、ルール通りに正しく報復が行われることであるとすれば、それを被害者の身内が行うかどうかは関係がなくなる。個人で「仇討ち」をすることがあまりにも大きな負担になるとすれば、報復を国家の手に委ねて代行してもらってもよい、ということになる。 こうして人を殺した者を国家が処刑する制度ができあがったのである。しかしそうなると国家は、復讐の代行ばかりではなく、国家自信が死刑にすべきだと判断する人間も死刑にするようになった。 たとえば、国家に対する反逆者はその理由で国家によって殺される。
 こうして報復の正義から出てきた死刑制度は、その後修正を重ねられて今日にいたっている。修正とは、個人の事情と都合をできるだけ認め、それを重視しようという方向のものである。 殺人についても、なぜ殺したのか、殺さざるを得なかったのかという加害者個人の事情と殺意の有無ということが考慮されるようになる。 そこで自分がその立場に立ってみた時、自分でも殺したであろうと思われるような事情があれば、この人を死刑にするのは妥当ではない、という考え方が出てくるであろう。 また、「邪悪な目的のために人を殺した」のであれば、その感情には同情の余地がなく、このような場合は極刑に処してしかるべきではないか、という感情論も出てくる。 こうして、加害者個人の事情をめぐる感情論が重視されるようになる。今日の裁判の判決理由の文章を読むと、かならずこの感情論が展開されている。 被告は「同情の余地がある」と言われたり、「同情の余地がない」と言われたりするのである。そして死刑が適用されるのは、この「同情の余地がない」場合に限られるようになる。
 このようにして、立場を交換した場合の同情や同感に基づいて正義を決めようというのはアダム・スミス流の考え方である。 これによって死刑の必要を説明するならば、人々がこの殺人については同情の余地はなく、古い豊北の正義によって死を与えるしかないと感じる場合が必ずある、という事実のために死刑は必要なのである。 死刑反対論者も、そのような場合が絶無であると証明することはできないであろう。そこで、「それのもかかわらず死刑には反対する」という立場は、「死刑によって人が殺されることにはやはり耐えられない」という、もう1つの感情論にほかならないのである。 この感情論を持ち出された場合、もはや論理を用いて反論することも正当化を試みることもできない。問題は感情論と感情論の対立という形になってしまうのである。(中略)
 「必殺仕事人」の登場 死刑が廃止され、人を殺しても死刑にはならないということになれば、何が起こるだろうか。 死刑がなくなりさえすればよいという無邪気な死刑廃止論者のために多少の想像力を働かせてみると、おそらく次のようなことがおこりそうである。
 今、強盗殺人や強姦殺人、あるいはM君のような幼女殺害や誘拐殺人で家族を殺された遺族の感情を考えてみよう。犯人はもはや死刑になることはない。たとえば懲役250年といった刑に服することをになるであろう。 終身刑務所から出られないことは確実であるが、これでは気持ちがおさまらない、できれば犯人を「殺してやりたい」と思うことはよく理解できる。 ところで、かりに復讐のため犯人を殺したとしても、死刑にはならず、また情状が酌量されるので懲役100年ということにもなたず、たぶん懲役10年程度ですむであろう。 わが子を殺されて人生に望みを失った親なら「仇討ち」を試みることは大いに考えられる。自分で実行することが困難なら誰かに代行を以来したい。 そこでこの需要に応じて復讐を代行するプロの業者が登場するに違いない。かのテレビドラマでよく知られている「必殺仕事人」がこれである。
 この種の「闇の仕事」は、国家が十分なサービスを提供し得ないである分野には必ず登場してくる。需要を満たす適切な供給がないということは、市場に「隙間」があるということで、この隙間は必ず埋められる。 国家の手で死刑になるべき人が死刑にならないという状況があれば、民間でその死刑を執行しようということになるのである。
 この「必殺仕事人」の殺人代行料金は当然のことながら極めて高額なものになるだろうが、競争の結果、余裕のない顧客のために低料金で仕事を請け負う「いい加減な」業者も出てくるかも知れない。 これは業者も顧客も公になってはならない性質のビジネスであるから、「必殺仕事人」は闇の世界にひそみ、顧客が接触するのは極めて困難である。 そこで、中巻の取次業者も登場する。斡旋料を詐取されて、仕事人に接触できないまま終わるケースも多発するであろう。
 テレビの「必殺仕事人」の場合には、依頼された仕事が、法による処罰を免れている悪業を罰することになるかどうか、殺す対象が私的処刑に値する人物であるかどうかを確認したうえで仕事をする、というこの業界独自の倫理が確立されていた。 「中村主水」以下の仕事人たちは、カネさえもらえばどんな殺しでも引き受けるという殺し屋ではなく、違法であるが、あくまである種の正義にもとづいて行動しているのである。 もしも依頼人のほうに非があれば、依頼人のほうを「処刑する」ことになる。
 闇の世界に果たしてこの種の倫理綱領ができあがるものだろうか。カネでどんな殺人でも引き受ける業者が横行するようになれば、他人の恨みを買えばいつ消されるか分からないという恐ろしい世の中になる。 政治家はライバルを暗殺し、会社でも出世の邪魔になるライバルを消そうとする人が出てくる。国家はこんな状態を放置することはできない。 そこで仇討ちは厳禁され、代行業者も依頼人も、厳罰に処されることになるであろう。しかし少々の厳罰では仇討ちとその代行業を根絶することはできない。 ではどうすればよいか。「報酬を得て仇討ち代行と称して殺人を犯した者は死刑に処す」とでもしなければならなくなる。なんとも逆説的であるが、死刑が廃止された社会では、結局死刑がぜひとも必要となるのである。 (『迷信の見えざる手』から)
*                      *                      *
<刑法の論理か?庶民感情の論理か?> 「裁判員制度」と「犯罪被害者が参加できる法廷」とを考えると同じ様な傾向にあることが感じられる。 それは「刑法の論理か?庶民感情の論理か?」という疑問だ。裁判員制度下での「忠臣蔵裁判」で問題になるのは、刑法の論理よりも庶民感情の論理が重視される、いうことだ。 そして、「犯罪被害者が参加できる法廷」でもそれは問題になる。被害者が裁判に出席して、まったく判決に影響を与えない、とは考えられない。まして、素人の裁判員は影響を受けるはずだ。 まったく影響を受けないのならば、素人が裁判に参加する意味が薄くなる。裁判官という専門家だけの判断だけではなくて、一般庶民の判断も判決に影響させようという意味があるはずだからだ。
 この2つのことは、裁判官が自家不和合性に陥る危険性が薄れる、という意味では評価できるが、判決が、刑法の論理とは違った庶民感覚の論理に大きく影響を受ける、という意味では、不安が残る。
 忠臣蔵事件は過去の出来事だけど、最近の出来事としては、向井亜紀・高田延彦夫妻の代理出産の問題がある。最高裁の古田佑紀は2007年3月25日、双子の男児(3)との親子関係を認めず、日本国籍を認めなかった品川区の判断を支持した。 これに関して、民間の裁判員はどのように判断するだろうか?一般市民感情としては「認めてあげたい」というのが自然のような気がする。法律が整備されていないのだから認める訳にはいかない、とは裁判所の判断と正しいと言えるだろうが、庶民感覚としては少し違うかも知れない。 この問題に関して、一般人としては法律という面からよりも夫婦に対する好悪の感情に支配され易いと思う。
 NOVA裁判はどうだろう?こちらも法律から見ればNOVAの敗訴は正しい。けれども「まとめて買えば安くなる」が否定されることには、簡単に認めたくはない。民間の裁判員はNOVAに対する好悪の感情に支配されやすいだろう。 「感情」か「勘定」か?判断基準が揺れ動くことになりそうだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』                         竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15 
『迷信の見えざる手』                         竹内靖雄 講談社    1993. 9.30 
( 2007年7月2日 TANAKA1942b )
▲top

(16)法と正義の経済学の立場から見る 
死刑に代わるべき制度が見つからない
 死刑制度は存続さすべきかどうか、経済学の視点からの意見をここで1つ取り上げてみよう。
*                      *                      *
死刑は何のためにあるのか 死刑は何のためにあるのか。実はこれについて単純明快な答えはない。
@「仇討ち代行論」 国家が被害者にかわって仇討ちの代行をしてくれる、というわけである。しかしこの説はすでに指摘したように間違っている。
A「刑罰応報論」 国家は刑罰において、「殺人には死刑を」の形でタリオン(同害復讐)を実現するというのであるが、国家と個人との関係にタリオンの原則を持ち出すのはおかしい。 それはあくまでも殺人者と被害者との関係に適応されるべき原則である。
B「犯罪抑止論」あるいは「見せしめ効果論」 刑罰は法を犯したことにたいするペナルティであり、殺人のようなもっとも重大な違法行為に対してはもっとも重い刑罰である死刑が適用されるのは、抑止効果を考慮してのものである。
C「社会の免疫機能論」あるいは「有害人間抹殺論」 死刑は古代に行われていた「追放刑」の形を変えたものである。国家・社会は有害で危険な人間をメンバーとしておくことはできない。 免疫機能が「非自己」と認識したものを排除あるいは無力化して自己を防衛するように、社会もこのような人間を外へ、あるいは「あの世」へ、追放しなければならない。 死刑が廃止された場合は刑務所に「完全隔離」しなければならない。
D「道徳的懲罰論」 これは罪を犯した人間を国家(裁判所)が神にかわって罰しなければならない、という考え方である。 しかし国家を神の代理人にして道徳の管理者であるかのように見るのは、一神教の世界でも(少なくともユダヤ教、キリスト教の世界では)今や通用しにくい考え方であろう。 普通の国家では、神と宗教法に照らして悪を裁き、罰するのではなく、世俗の法に照らして犯罪(違法行為)にペナルティを与えるのである。 世俗の権力である国家に、そしてその官吏の1人にすぎない裁判官に人間を裁く資格はない、といった議論が、国家や裁判官は「神の代理人」でありえないということを主張しているのであれば、それはその通りである。 ただし、それだからといって人間を死刑にする資格はない、ということにはならない。人間を裁くのは人間であるしかなく、その人間が法によって他の人間の生命を奪うのも人間にとって必要な行為である。
 以上のような死刑についての説明のうち、意味があるのはBとCだけであろう。したがって、BとCが期待しているような効果が現実にはない、ということになれば、それが死刑を廃止する合理的な理由になる。 (『法と正義の経済学』から)
脱死刑の傾向 欧米諸国をはじめ、多くの国が死刑を廃止している。また歴史的に見ると、死刑離れの傾向が進んでいる。昔は、日本の平安時代のような例外はあるが、どの社会でも死刑がさかんに行われていた。
 ただし、古い時代には、人間(死刑執行人)が直接人体を切断したりするような、血を流す処刑方法を避ける傾向もあった。 昔の人間は血を恐れたたし、死者は恐ろしい存在であった。古代のもっとも重い刑は、死刑というよりも追放刑だったが、昔の社会は重罪人や危険な人間を死刑または追放刑としないで抱え込んでおくだけの余裕がなく、そのコストに耐えられなかったのかもしれない。 江戸時代までの日本にもカネのかかる刑務所のような施設はなく、懲役にあたるのは島流しであった。社会が豊かになるとともに、死刑になっても当然の犯罪者を死刑にはせず、刑務所に入れて管理していくだけの余裕ができてくる。 そうなると「何も死刑にしなくてもよいではないか」という人権擁護派が登場し、彼らの主張はさらに進んで、「人を死刑にしてはならない」という信念が成立する。
 かつて残虐な死刑がさかんに行われたのは、その時代のその社会の嗜好なのか、支配者の性向の反映なのか、いずれにしてもそれは人権思想の抵抗を排して無理やり行われたわけではない。 人々もそれを支持していたのである。公開の死刑は「見せしめ効果」を期待して行われたとされているが、それを見る人々の反応はそれほど単純ではない。 K・B・レーダーの『図解 死刑物語』(西村克彦・保倉和彦訳 原書房)にも詳しく紹介されているように、公開処刑は民衆にとってまたとない「見せ物」であり、娯楽でもあって、人々は「怖いもの見たさ」で押しかけてきたのである。 もちろん、そのことと「怖いもの」が犯罪に対して抑止効果をもつこととは矛盾しない。人々が興奮して見たがるのは、それが他人の処刑だからで、自分がそのように処刑されることを望むものは誰もいない。
 死刑が忌避され、次第に廃止に向かっている理由は、実に簡単なことである。
 それは死刑のような残酷な刑は人道上許されないということだろうか。あるいは、死刑が最大級の人権侵害だからだろうか。人道主義や人権主義という感情は、もっぱら死刑を執行される者を被害者と見て、その被害者に向けられているが、それはタテマエにすぎず、人々のホンネは、自分だけは何としても死刑になりたくない、それも火あぶり、釜茹で、車裂きといった恐ろしい死刑にはなりたくない、ということに決まっている。 現実には自分が重罪を犯して死刑になるようなことはあるまいと思っている人も、自分がいつか死刑を、宣告される可能性はゼロではない、ということは想像できる。それなら死刑に反対しておいた方がよい、と人は考える。 この利己主義から出てくる結論は完全に合理的なもので、誰もそれに異を唱えることはできない。つまり、死刑反対のホンネは「自分だけは死刑になりたくない」ということであり、それをタテマエとして高く掲げる時の看板が人権尊重や人道主義なのである。
 (T注)死刑反対のホンネは「自分だけは死刑になりたくない」ということに関しては、ジョン・ロールズの『正義論』との関係で後ほど扱います。
 また、人は他人を自分の手で殺すことを望まない。死刑執行人が1つの職務であり、職業であり、報酬や特権を伴うものだとしても、その仕事を望む人だけが死刑執行人になるわけではない。 人は国家の命令で死刑を執行することがその職務である以上、やむを得ないから執行にかかわっているのであり、自分の手で人を殺すころを望んでいるわけではない。 残虐な死刑が廃れ、ついには死刑そのものが廃止される傾向が一貫して進んできたのはこのこととも関係がある。
 国家が行う死刑は違法行為に対する刑罰であり、その目的は法秩序の維持ということである。刑罰は目的を達成するため威厳のあるものであればよい。 死刑、それも残虐な死刑は、それが絶大な「見せしめ効果」を発揮するという場合にのみ、合理的である。そうでなければ残虐な死刑を行うことに意味はない。 殺人事件の被害者の遺族や市民代表などの立会人も慣習もいない刑務所の一角で火あぶりその他の残虐な死刑を執行することにはほとんど意味がないのである。
 個人の利益を尊重し、個人の言い分をできるだけ認めることが文明の進歩だとするなら、文明はたしかに進歩してきたことになる。文明の構成要素の1つである国家は、この個人が求めるサービスを拡大し、個人がいやがることはやめるという形で、「個人本位」の傾向を推進してきた。 死刑廃止も残虐刑の廃止も、この個人本位が拡大する傾向の産物であると言える。 (『法と正義の経済学』から)
死刑反対論の根拠 死刑反対論の根拠になりそうなものは次の5つであろう。
 @人道主義の絶対反対論
 人道主義者にとっては、人の生命を奪うことは最大級の人権侵害であり、最大級の悪であるから、死刑に反対するのは当然、ということになる。 この信念は根拠も証明もいらない「迷信」であて、あらゆる反論を受けつけない性質のものであるが、ここでは次の反問をしておこう。 死刑が最大級の人権侵害であるとすれば、「死刑を宣告されるような殺人者は、すでに殺人という最大級の人権破壊を行っている。その人権破壊をどう考えるか」と訊きたい。
 人権主義者の答えはこうであろう。済んだことは仕方がない。しかし「殺人には死刑を」という応報主義をとってさらに人の生命を奪うことはゆるされない。 殺人者がその行為を反省し、刑務所の中で「教育」を受けて、人権を尊重する人間に更生することこそ真の責任の取り方である、と。
 この立派な理屈からは、被害者の受けた不正はどうなるか、その正義の回復はどのように行われるかという観点が完全に欠落している。 そこまで指摘されれば、人道主義者は、被害者には国家が十分な補償をなすべきである、というかもしれないが、これは言葉だけの辻褄合わせにすぎず、人権派が実際には加害者の人権擁護にばかり熱心であることは誰もが知っている。
 A「国家による殺人」論
 これは@の立場と重複することが多い。絶対的生命尊重主義(ただし尊重するのはもっぱら加害者の生命であるが)の人権派は、国家が人の命を奪うことにも当然反対する。 したがって死刑反対と戦争反対は彼らの一致した合言葉となる。死刑と戦争とは、国家だけがなしうる行為であり、国家が国家であることの証しでもある。それを絶対に認めないということは、国家の存在を認めないということに等しいが、それでは彼らは無政府主義者、無国家主義者であるかといえば、そうではなく、国家には弱い人間を手厚く保護する義務があるという。 人権の保護は国家がなすべきもっとも重要な仕事であるという。つまり、国家は人間に対して無限に優しい神様仏様、あるいは母親の如き存在でなければならない、ということになる。 死刑を執行し、戦争を繰り返す現実の国家は、神仏ではなく悪魔であり、死刑や戦争は国家の行う犯罪だということになる。このような理屈は実は妄想にすぎないが、この種の妄想を固く信じてい繰ることも、その人の自由である。 他人がこの妄想を訂正する方法はないし、そのような干渉をすれば、それこそ人権侵害だと叫ばれるであろう。
 B誤審の可能性を理由とした反対論
 人間が行う裁判には、いかに万全を期しても誤審がつきものである。誤審をゼロとすることは不可能である以上、無実の人間が誤って死刑を宣告され、執行される可能性もゼロとは言えない。 これは国家の手によって行われる最大級の不正であり、取り返しのつかない過ちである。これを避けるためには、いったん執行されれば絶対に訂正不可能な死刑という刑罰だけはやめなければならない、ということになる。
 (T注)初めに取り上げた「銀行強盗の例」では誤判の可能性はゼロと言える。「誤判は避けられない」は、一般論としては正しいように思われるが、すべての事件に誤判の可能性があるわけではない。
 C功利主義ないしは利己主義の立場からの反対論
 人は誰しも死刑にはなりたくない。たとえ自分が人を殺したとしても、死刑だけは免れたい。これはいかにも自分勝手な願望であるが、人はみな利己主義者であり、自分だけは死刑になりたくないと考える。 実はこれが死刑廃止論の底にある本当の気持ちであろう。しかしこれでは余りのも勝手すぎるので、人はホンネを表に出さず、人権主義その他のタテマエを考案して死刑反対を唱えているのかも知れない。
 D「死刑廃止は世界の大勢」論
 文明の進歩とともに死刑という野蛮な刑罰は廃止されるのが当たり前であり、世界の大勢はすでにその方向に進んでいる。 日本はこの世界の大勢に乗り遅れている。したがって1日も早く死刑を廃止すべきである。多くの人が、その根拠を明確に意識しないまま支持している死刑反対論、死刑廃止論は、実はこのような「世界の大勢」論であり、他人と同じように行動した方がいいという「横並び行動主義」でもある。
 死刑を非文明または野蛮の証明のように見る人は多い。しかしそれは間違っている。都市と市場がワンセットになって文明が登場した時から、国家は死刑と戦争を行う独占権をもっていた。 これをもたない国家はありえない。したがって死刑も戦争も文明の産物であって、それを非文明、あるいは野蛮の証明であるかのように考えるのは間違っている。 国家の法律による死刑やルールのある戦争とは違った次元の殺人、たとえば宗教の命じるところにしたがって人を殺し、「異端」の罪を糾弾して火あぶりにし、ルール無用の無差別テロの形で戦争を仕掛ける、といった行為が非文明、野蛮と呼ばれるべきものである。 (『法と正義の経済学』から)
誤審の問題 結局、死刑廃止論の唯一の正当な根拠となりうるのは、誤審の可能性がゼロではない、ということである。(中略)
 ただし誤審があり得るということを問題にするのであれば、あるとあらゆるタイプの誤審が無視できないほど頻繁に発生することを立証しなければならない。ただし、誤審と判明した誤審以外にも誤審がないとは言えず、しかもその数は絶対にわからない。 そこで死刑反対論も、結局のところ、「誤審が発生する可能性はゼロとはいえない」ことをその反対の根拠とするほかない。つまり、将来ただ1人でも無実の人間を死刑にしてはならないから死刑は廃止すべきだ、ということになる。 この立場は、国家は裁判と刑の執行に関して絶対に無謬でなければならない、ということを意味する。これもまた、「犯罪は根絶されなければならない」という信念と同じレベルにある厄介な思い込みである。 人間の社会をこうして「無謬の神」の目で見てその不完全さを断罪する態度は、ある種の幼児的な態度の名残りであるかも知れない。 人間がゲームの1つとして行っている裁判に無謬性を求めるのは間違っている。この点では、神にだけ無謬性を認める一神教徒の方が正しい。彼らは人間のすることには誤りがあるのは当然、と達観している。 その信仰によれば、誤審を含む人間の誤りは、最終的には「神」が訂正してくれりはずだから人間が気にする必要はない、ということになるのである。
さまざまな代案 死刑が廃止された場合、死刑に代わって「もっとも恐ろしい刑罰」として死刑に次ぐ抑止効果を発揮しそうなものは何か、常識では終身懲役または終身禁固である。 アメリカ式に、刑を加算する方式をとれば、強盗・強姦・殺人(4人)・死体損壊・放火などを全部やってのけた凶悪犯は、たちまち懲役200年を超えて、事実上「終身懲役」となる。 死ぬまで刑務所から出ることはできない。
 これを世にも恐ろしい刑罰だと考えるか、「一定の作業さえすれば、失業も生活費の心配もなく、死ぬまで安心して生きていける生活保障制度」と考えるか、それは人さまざまである。 普通の人は自由のない「塀の中の生活」は耐えがたいと考える。しかし考えようによっては、「塀の中」も「住めば都」で、そのうちに終身懲役を福祉制度のように実感するようになるかも知れない。 塀の外では、事業の失敗、失業、借金その他のトラブルに追いつめられて自殺に至ることも少なくないが、塀の中ではそのようなトラブルは一切ない。 能力と意欲さえあれば、十分すぎるほど長いほど長い年月を利用して、獄中作家や獄中芸術家になり、後世に残る作品を生み出すことも不可能ではない。 ある宗教に帰依して信仰三昧の生活を送り、大往生を遂げることも可能である。
 そう考えると、獄中で20年を過ごし、中高年の「前科者」として塀の外へ投げ出されることの方がはるかに苛酷な制裁であるといえる。
 フィリップ・カーの近未来推理小説『殺人探求』には、絞首刑や電気椅子にかわる「昏睡刑」が登場する。これは囚人を植物状態にしてある装置の中に入れ、人工的に無期限に生存させるという刑である。 万一、誤審であることが判明した時には、「生」の状態に戻すことが出来るので「取り返しのつかない」死刑よりはよいだろうということになる。 フィリップ・カーはイギリス人らしく、刑罰にかかるコストが無視できない問題であることを承知している。刑務所に入れて終身懲役あるいは終身禁固の刑を科すのと、昏睡状態にして自動栄養供給装置の中に入れておくのとでは、後者の方が十分の一の費用で済む、といった理由がある限り、昏睡刑に軍配を上げざるを得ない。 しかし本当は、塀の中から出さないという形で行動の自由を制限する終身懲役と、行動も意識もありえない状態で生存させるだけの昏睡刑とでは、自由の制限の質がまったく異なる。 昏睡状態で脳の中でどのような意識が残っているかわからないが、本人にとっては、昏睡させられた時以後、死んでいるのと同じ状態に陥るといってよい。 この刑は事実上死刑に等しい。その意味で、死刑存続論者はこの昏睡刑を死刑にかえある次善のものとして支持することができる。
 要するに、こうした死刑にかわる刑は、「可逆的猶予期間つき死刑」といってよい。終身刑(あるいは懲役200年など)がよいか、あるいは昏睡刑などがよいか、ということになると、死刑廃止論者は前者を支持して後者には反対するであろう。 しかし、終身刑務所に入れ、そこでの教育が功を奏して「囚人聖者」をつくりだしたとしても、それにどんな意味があるのだろうか。 本人にとってはすばらしい人生になるかも知れないし、教育刑論者の満足も大きいかも知れない。しかし社会は莫大な費用を負担して、一部の犯罪者にここまでサービスを提供しなければならないものだろうか。 死刑はどうしても認められないというのであれば、終身刑よりは死刑に近く、コストもかからない昏睡刑の方が望ましいということになる。
 今のところ、もっともコストはかかる終身刑が、死刑以外でもっとも重い刑である以上、それを適用することが文句なしに有効かつ必要となるのは、サイコパスの連続殺人犯や脳に障害がある殺人犯に対してである。 社会としては、この種の危険な人間を隔離・監禁して安全を確保することは、コストをかけるに値する措置である。死刑廃止論者や人権派にもここまでは同意してもらう必要がある。 さもなければ、「危ない人」の監視と保護については、刑務所でも精神病院でもなく、人権派の人々に責任をもってもらうしかなくなる。 (『法と正義の経済学』から)
しかし死刑にかわるものはない 死刑を廃止すればたしかに死刑という「いやなもの」はなくなるが、それによって肝心の犯罪抑止の問題は解決するわけではない。 死刑にかわる有効な刑罰がいずれも採用できないまま、刑はますます軽くなり、加害者の人権だけが重視される方向に進むようであれば、犯罪の増加と不正の累積を抱えて、社会はそれに対するコストに苦しむことになる。 それはどう考えても賢明なことではない。
 「死刑は何のためにあるのか」を説明したところであげた、Aの見せしめ効果による犯罪抑止、およびCの有害人間抹殺論は、死刑がもっとも有効になしうるものであると同時に、社会にとってもっともコストのかからない方法といえば、やはり死刑以外にはない。 時代の趨勢、世界の大勢ということで死刑を廃止してしまえば、その国家は犯罪に対処するためのもっとも有効でコストのかからない手段を失い、自らの手を縛り、より多くのコストを負担しなければならなくなる。 それが人権主義の路線に沿った進歩であるという自己満足のために死刑の廃止を急ぐことは、賢明な態度とは言えないであろう。 (『法と正義の経済学』から)
 民主制度も、市場経済も、死刑制度も、これに代わるより良い制度がない以上、この制度採用するのが最良だ、と言うことになる。 完璧主義者、原理主義者は不満だろうし、ケチをつければイッパイつけられるし、けれども、「より良い制度が提案されるまでは、死刑制度を存続させるべきだ」というのがTANAKAの主張です。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』       竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
( 2007年7月9日 TANAKA1942b )
▲top

(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった
旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産
<死刑制度に劣らず残酷な刑はあるか?> 「死刑は残酷だから廃止すべきだ」、というのが死刑廃止論者の主要なポイントだ。では、死刑に代わってどのような刑を極刑とすべきか? 死刑廃止論者のなかには「代替案を提示する必要はない」と主張する人もいる、 ということは「どんな代替案が出ても反対はしない」ということになるが、ここでは「代替案」について少し考えてみよう。
 そこで、代替案────
 @仮釈放なしの終身刑 これについては、前にも書いた。刑務所で真面目につとめても、悪いことしても、刑期に関係ないのだから「真面目につとめて、早く仮釈放になろう」とのインセンティブが働かない。 刑務所内の雰囲気が荒れる。採用できない。
 Aむち打ち刑 例えば「むち打ち刑15年」、となったら、1日10回のむち打ちを15年続けることになる。 むち打ちは残酷だけれども、15年で釈放されるとなれば、死刑に比べて残酷な刑ではないし、「仮釈放なしの終身刑よりも残酷ではない」と言える。
 B仇討ち受け入れ人間として、仮釈放 国家は、判決が出たら「仇討ち受け入れ人間」として仮釈放する。被害者およびその関係者が申請したら、仇討ちを許可する。 被告は自己責任において仇討ちから逃れるために逃走する。国家は行き先を把握しているが、仇討ち者には教えない。国家がこの判決に対してのコストは非常に少ないものとなる。 財政再建政策として効果的なので、税収の少ない国家で採用が検討される。
 C収容所送り ソ連時代のラーゲリをロシアで復活させ、世界各国から収容所送りの囚人を受け入れる。死刑が廃止され各国でそれに代わる刑が検討されるが名案はない。 そこでラーゲリの復活となるのだが、運営のノウハウはロシアにしかない。そこで各国はロシアに依頼して囚人を管理して貰うことになる。ロシアとしてもせっかくのノウハウを生かさない手はない。そこで当時の関係者がラーゲリを復活させる。ロシアの外貨稼ぎの主要な産業になる。 各国は、金さえ払えば体裁の悪い制度はロシアに任せられるので、積極的に利用する。このイメージはこういうことだ。「わが国は平和を愛し、戦争をしないために軍隊を持たない。従って、世界のどこかで紛争があっても、わが国は軍隊=自国を守る自衛隊は送らない。その代わり資金を提供する。 汗を流さず、金ですべてを解決するのがわが国の姿勢だ」との考えをイメージすると分かりやすい。
 死刑廃止論者のなかには「死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している」 とか「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」との意見もある。それならば「収容所送り」にも反対はしないだろう。
 さて、その「収容所送り」どのような刑だったのか?これについてはジャック・ロッシの『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』を読んで頂くとして、ここではソルジェニーツインの作品を読んで、その感じを掴んで頂きましょう。
*                      *                      *
<イヴァーン・デニーソヴィッチの一日> 午前5時、いつものように、起床の鐘が鳴った──本部の建物のそばにつるしてあるレールを、ハンマーでたたくのだ。その断続的なひびきは、指2本の厚さに水の張ったガラス越しに、弱々しく伝わったが、じきに静かになった。寒かったし、看守にしても、いやでも手を振り回していたくはなかったのだ。
 そのひびきはやんだが、窓の向こうは、シューホフ(イヴァーン・デニーソヴィッチ・シューホフ)が用便桶の方へたっていった真夜中と同じく、いぜん闇また闇だった。だが、3つの黄色い常夜燈が、窓に光りを投げていた。2つは立入禁止地帯、1つはラーゲル構内だ。
 どうしたのか、バラックの鍵をあけにもやって来なかったし、当番たちが用便桶を棒でかついで、運び出す音も聞こえなかった。
 シューホフはこれまで寝すごしたことはなく、いつも起床の鐘とともに起きた──作業に出る前の点呼までに、公のものでない自分の時間が、1時間半ばかりあったからだ、ラーゲルの生活を知っている者なら、いつも内職かせぎができるのだ。 古い裏地で指なし手袋の覆いをだれかに縫ってやるとか、金持ちの班員が靴の山のまわりで選り分けるために足ぶみなどしないように、直接そのベッドへ乾いたフェルト長靴を持っていってやるとか、あるいは、とかく用事のある差入保管所へひと走りして、そこで掃除をするとか、何かを持ち運んでやるとか、あるいは、食堂へ出かけて、テーブルから皿を集め、それを山とかかえて食器洗い場へ持ってゆくのも── 食い物にありつけるのだが、これは志願者が多くて、どうにもならない。ただかんじんなことは──皿に残っているものがあると、こらえきれずに、皿をなめるようになるということだ。ところが、シューホフは自分の最初の班長クジューミンの言葉を、強く心にとどめていた。 古参の海千山千のラーゲル男で、1943年ごろすでに12年間もぶちこまれていたのだが、戦線から送りこまれてきた自分の斑の補充の者たちに、いつだったか、草木1つはえてない森の中の空き地で、焚火にあたりながら、こう話してくれたものだ。
 「なあ、みんな、ここじゃ弱肉強食なんだ。だが、人間はここでも生きているんだ。ラーゲルでくたばるやつはといえば、皿をなめるやつとか、医務室を当てにするやつとか、保安部員のところに仲間を密告しにいくやつなんだ」
 保安部員のことについては、もちろん、班長は口ぎたなくののしった。一方、その密告する連中といえば、自分を大切にするんだが、それはもっぱら、他人に皿を流させて──身の安全をはかっているのだ。
 いつもシューホフは、起床の鐘とともに起きたのだが、きょうは起きなかった。きのうからずっと気分が悪かった。寒気ともつかず、からだの痛みともつかなかった。夜中も暖まらなかった。夢うつつの中で、すっかり病気になったかとも、いくらかよくなったかとも思われたりした。どうにも、朝になるのがいやだった。
 だが、朝はちゃんとやってきた。 (『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』初めの部分から)
<イワン・デニーソヴィチの一日>  シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)ハタバコのけむりを吐きながら、アリョーシュカの興奮ぶりを、落ち着いて眺めていた。
「なあ、アリョーシャ」と彼は、パプテスト信者の顔にけむりを吹きかけて、その手を払いのけた。「おれだって神さまには反対じゃねえんだ。よろのんで神さまを信じてえくらいだ。だけど、天国とか地獄だけは信じねえな。 でも、なんだっておれたちを馬鹿扱いするんだ、天国だ、地獄だとご託をならべて?そこんとこだけは気にくわないな」
 シューホフはまた仰向けになった。そして、中佐の荷物を焦がさないように気を使いながら、頭のうしろの、ベッドと窓の間に灰をおとした。 もう自分の物思いに耽りだした彼の耳には、アリョーシュカがなにを呟いているのか聞こえなかった。
「結局のところ」と、彼は独りぎめした。「いくら祈ってみたとこえおで、この刑期は短くなりゃせねえんだ。とにかく、『はじめから終わりまで』入っていなくちゃならねえんだ」
「いえ、そんなことを祈っちゃいけません!」と、アリョーシュカは声を震わせた。
「自由がなんです?自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯されてしまいますよ!いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ! ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか!使徒パウロはこう申されました、『汝ら、なんぞ嘆きてわが心をくじくや?われ、主イエスの名のためには、ただ縛らるるのみならず、死ぬるもまた甘んずるところなり!』とね」
 シューホフは黙って天井を見つめていた。もう自分でも、自由の身を望んでいるのかどうか、分からなかった。はじめのころは激しく望んでいた。 毎晩のように、刑期は何日すぐて、何日残っているかと、数えたものだ。が、やがてそれも飽きてしまった。そのうちに、刑期が終わっても家へは帰されず、流刑になることが分かってきた。 それに、流刑地とここでは、どちらのほうが暮らしやすいのか、それすら分からなかった。
 自由の身になりたかったのは、ただ家へ帰りたい一心からだった。
 ところが、その家へ帰してはくれないのだ……。
 アリョーシュカは嘘をついているわけではない。その声をきいても、目をみても、彼が牢獄生活を喜んでいることははっきりわかる。
「なあ、アリョーシュカ」とシューホフは彼に弁解した。「お前さんの場合は、どうやら、うまい具合にいってるらしいな。だってキリストのは、お前さんに入ってるようにお命じたわけだし、お前さんはお前さんでキリストのかわりに入っているんだからな。 じゃ、このおれはなんおために入ってるんだい?41年にいくさの用意ができていなかったためかね、え、そのためかね?そんなことおれになんの関係がある?」
「どうやら、2回目の点呼はねえらしいな……」と、キルガスは自分のベッドから呟いた。
「そうだなあ!」と、シューホフは相槌をうった。「こりゃ煙突の中に炭で書いとかなくちゃ。2回目の点呼なし、ってな」そういって、あくびをした。「きっと、寝ちまったんだろう」
 ところが、そのとき、静まりかえったバラックのなかに、外扉のかんぬきをガタガタさせる音が聞こえた。廊下から、長靴を運びにいった2人がとびこんできて、大声で怒鳴った。
「2回目の点呼だぞ!」
 すると看守もそれにつづいて叫んだ。
「むこう側へ出ろ!」
 いや、もう眠っている者もいた!ぶつぶついいながら、体をおこし、フェルト長靴へ足を突っ込んでいる。(綿入れズボンを脱いでいる者はひとりもいない。毛布だけだと足がかじかんで、寝つかれないのだ。)
「ちえっ、忌々しい!」と、シューホフは当たりちらした。しかし、それほど腹をたてているわけではない。とにかく、まだ寝ついていなかったのだから。
 ツェーザリが上段へ手をのばして、ビスケットを2枚、砂糖を2かけら、ソーセージを1切れ、差し入れてくれた。
「ありがとう、ツェーザリ・マルコヴィッチ」とシューホフは、下の通路のほうへ身をかがめて、いった。「さあ、あんたの袋をこの上へかして下さい。このマットレスのしたへいれときゃ、大丈夫だから」 (上段なら通りがかりにちょいとかっぱらうわけにはいかない。それに、シューホフのところなんかのぞくばかもいない。)
 ツェーザリは、口をしめた白い袋を上段のシューホフに手渡した。シューホフはそれをマットレスの下に隠すと、激しく追い追いたてられるまで、なおしばらくじっとその場にいた。 廊下の床の上にはだしで多っている時間をすこしでも短くしようとしたのだ。しかし、看守は歯をむいて、怒鳴った。
「おい、そこにいる奴!その隅だ!」
 やっとシューホフもはだしのまま、さっと、身軽に床の上へとびおりた。(かれの長靴と脚絆がそれはうまい具合にペーチカの上にのっていたので、取りはずすのが惜しかったのだ)
 彼はこれまでずいぶんスリッパを縫ってきたが、いつも他人のためばかりで、自分のは以ていなかった。いや、彼はもうなれっこになっている。 それに、ちょっとの間のことだ。
 昼間みつかれば、このスリッパも没収されるのだ。
 長靴を乾燥台へ運んでしまった斑の連中も、今のように部屋のなかなら、平気なものだ。スリッパをはいている者、脚絆だけ巻いている者、はだしの者と、まちまちだ。
「さあ、早くしろ!」と、看守はわめいている。
「やい、このろくでなし!」と、バラック長もやはり怒鳴っている。
 全員がむこう側の部屋へいれられ、おくれた者は廊下へ追い出された。シューホフも壁ぎわの、糞桶に近いところに突っ立っていた。 足もとの床はじめじめしており、戸口の下からは氷のような風が吹きこんでいた。
 全員を追いだしてしまうと、看守とバラック長の2人は、だれか隠れている者はないか、暗がりで寝込んでいる者はいないか、と、もう一度見廻りに出かけた。 なぜなら、員数がひとりでもあわなかったら、大変だからだ。またぞろ点呼ではかなわない。ぐるぐると見廻ってから、戸口へ戻ってきた。
「1番、2番、3番、4番……」と、もう今度は1人ずつ入れていった。シューホフも18番目にもぐりこんだ。そしてたちまち、駆け足で自分のベッドへ戻ると、足場に片足かけ、パッと上段へ躍りこんだ。
 やれやれ、両の足をまた防寒服の裾へ突っ込み、上に毛布をかけ、そのまた上にジャケットをかけ、あとは寝るだけだ!今度はバラックのむこう側の連中がこちらへ追いたてられる番だ。 だが、もうそんなことはこちらの連中にはなんの関係もないことだ。
 ツェーザリが戻ってきた。シューホフは彼に袋を下ろしてやった。
 アリョーシュカも戻ってきた。お人好しというのか、みんなをよろこばせているだけで、自分では内職稼ぎひとつできない。
「さあ、食べなよ、アリョーシュカ!」と、彼はビスケットを1枚やった。
 アリョーシュカはにっこりする。
「ありがとう!でも、自分の分はあるんですか?」
「食べろったら!」
 おれたちはなくなったら、またいつものように、稼げばいいのさ。
 そして自分では、一切れのソーセージを口の中にほうりこむ!歯でかみしめる!歯で!ああ、肉のかおり!ほんものの、肉の汁!それが今、腹の中へ、入っていく。
 それで、ソーセージはおわり。
 あとはあすの朝にとっておこう。そうシューホフはきめた。
 そして、薄っぺらは、汚らしい、毛布をすっぽり頭の上からかぶった。と、間もなくベッドの間には、点呼を待つもこう側の囚人たちがいっぱいひしめきあってきた。が、彼はもうそのもの音に耳をかそうともしなかった。

 シューホフは、すっかり満ちたりた気持ちで眠りに落ちた。きょう1日、彼はすごく幸運だった。営倉へぶちこめまなかった。 自分の斑が<<社生団>>へもまわされなかった。昼食のときはうまく粥(カーシャ)ごまかせた。班長はパーセント計算をうまくやってくれた。 楽しくブロック積みができた。鋸のかけらも身体検査で見つからなかった。晩にはツェーザリに稼がせてもらった。タバコも買えた。病気にもならずにすんだ。
 1日がすこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる1日が過ぎ去ったのだ。
  
 こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、3,653日あった。
 閏年のために、3日のおまけがついたのだ……
   (『イワン・デニーソヴィチの一日』終わりの部分から)
<収容所群島> 私は胸に何か重苦しいものを感じながら、数年の間、すでに完成したこの書物の出版を思い留まってきた。 それはまだ生きている人たちに対する義務のほうが、死んでしまった人たちに対する義務よりも重かったからである。しかし、いずれにしても国家保安委員会がこの書物を押収してしまった今となっては、ただちにこの本の出版にふみきるほか残された道はないのである。
   1973年9月 A・ソルジェニーツイン
 この書物には虚構の人物も虚構の出来事も描かれていない。人物も場所もすべて実名で語られている。イニシアルを使った場合は、個人的な配慮によるものである。 まったく名前が示されていない場合は、人間の記憶がそれらの名前を憶えておくことができなかったからにすぎない。 だが、すべてはここに描かれているとおりであった。
 1949年ごろ、私は友人たちと科学アカデミーの雑誌『自然』(プリローダ=природа)の誌上に注目すべき記事を見付けた。そこには小さな活字で次のようなことが書かれていた。 コルイマ河の岸で発掘作業中、偶然、地下の氷層が発見された。それは凍結された大昔の流れであったが、その中からこれもやはり凍りついた数万年前の動物(ファウナ=фауна)が発見された。 その動物が魚だったかサンショウウオだったかはともかく、それがとても新鮮なまま氷づけになっていたため、記事を書いた学者の目撃したところによると、その場に居合わせた人びとは氷を叩き割り、さっそくその場でこれらの動物をよろこんで食べてしまったという。
 あまり数多いとは言えないこの雑誌の読者たちは、おそらく、氷の中では魚肉がなんと長持ちするものかと少なからず驚いたにちがいない。 だが、不用意にも掲載されてしまったこの記事のもつきわめて意味深長な側面に気づくことのできた人は少ない。
 私たちはすぐわかった。その場面が微細な点に至るまでありありと念頭に浮かんできた──その場に居合わせたひとびとがどんなに慌てふためいて氷を割り、崇高な魚類額的興味などには目もくれず、互いに肘で仲間を押しのけながら、何万年前の氷づけをちぎり取って、焚き火のところへ引きずっていき、氷を融かし、がつがつと腹に詰め込んだか、が。 
 なぜわかったかと言えば、私たち自身もその場に居合わせた人びとと同類の、強大な囚人族の1員だったからである。 この地上でサンショウウオを喜んで食べることができる唯一の種族は囚人だけである。
 コルイマは<<収容所>>という驚くべき国の最も大きく最も名高い島であり、苛酷の極致ともいうべき場所であった。 この国は地形的に見れば群島の形で散らばっていたが、心理的には1つに合わさって大陸をなしていた。ほとんど目に見えず、ほとんど触れることのできない、大勢の囚人たちの住む国であった。
 この<<群島>>は国中のあちらこちらに入り組んで点在し、都市の中に入り込んだり、通りの上におおいかぶさったりしていた。 それにもかかわらず、まったくそれに気づかぬ人びともいた。いや、漠然と何か耳にしていた人びとはかなり多くいたのだが、その実情はそこにいたことのある人びとのしかわからなかったのである。
 しかもそういう人びとまでが、まるで<<群島>>の島々で言語能力を失ってしまったかのように、ずっと沈黙をまもってきた。
 わが国の歴史が思いがけぬ方向転換をしたために、この<<群島>>の事情が何やかやもんの僅かながら明るみに出た。 ところが、われわれの手錠のめじを締め上げたその同じ手が、今度は取りなすような制止の手つきをしているのだ。「いけませんよ!過去ををほじくり返したりするなんて!……<<昔のことを憶えている者は、片目が飛び出す!>>って言うじゃありませんか」 ところが、この諺はその先をこう結んでいるのである──<<忘れる者は、両目とも!>>
 歳月が流れていき、過去の切り傷やただれを永久に舐め浄めていく。その間にある島々はぐらりと揺れて、地すべりが起き、今は忘却の北氷洋のかなたに没してしまったものもある。 やがて来世紀のいつか、氷層に閉ざされたこの<<群島>>、そこの空気、住民たちの骨があらわれて、例のサンショウウオのように後世の人びとからうさんくさく扱われるであろう。
 私はこの<<群島>>の歴史を書こうとするほど厚かましくはない。というのも、<<群島>>の記録を読む機会に恵まれなかったからである。 しかし、そんな機会に恵まれる人がこれから先あるだろうか?……思い起こすことを望まない人びとにはすべての記録をきれいさっぱり抹殺する時間がこれまでにも十分あったし、これからもあるだろう。
 私はそこで過ごした11年間を恥だとも呪わしい悪夢だとも思わず、かえって自分の血とし肉とした。いや、それどころか、私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった。 そして今や、幸せなめぐり合わせによって<<群島>>の新しい話や手紙がたくさん私のもとに寄せられている。 だから私はそうした骨や肉をいくらか提供できるかもしれない。もっとも、それは例の発掘の時と違って、まだ生きている肉、今日もまだ生きているサンショウウオであるが。
 この書物を創るのはひとりの人間の手にあまることであった。私が自分の目と耳を働かせ、自分の皮膚と記憶に焼き付けて<<群島>>から持ち出せるだけ持ち出したもののほかに、
 総計227人
 に及ぶ人びとが、その物語や回想や手紙の形で、この資料となるものを、提供してくれたのである。
 私はそれらの人びとに対して、ここで私個人の謝意を表することはしない。それはこの書物が迫害され責め殺されたすべての人びとのためにわれわれが一致協力してうち建てた鎮魂の碑であるからである。
 私はこれらの協力者たちのなかでも、特に、現在図書館にある蔵書や、とうの昔に絶版や解版され、その1冊でも捜し出すのに大きな忍耐を要した書物の中から、この著述に文献的裏付けとなるものを与えるべく私のために苦労を惜しまれなかった人びと、さらにまた、追求のきびしい時期にあってこの書物の原稿を秘かに保存し、その後それをコピーしてくれた人びとの名を改めて特記したい気持ちでいっぱいである。
 しかしながら、私がそれらの人びとの名をあえて公表する時期はまだ訪れていない。
 ソロフキ島の主ともいうべきドミートリイ・ペトローヴィッチ・ヴィトコフスキーはこの書物の編者になるはずであった。 だが、彼はあそこで過ごした半生の見返りに、(彼の収容所生活の回想録はずばり『半生』と題されている)年の割には早すぎる中風にかかった。 もう口のきけなくなった彼が通読できたのは、すでに完成していた数章にすぎなかったが、彼はあらゆることが語られるにちがいないという確信をいだいてくれた。
 これからも長いことわが国に自由の光が射し込まず、この書物の受け渡しがきわめて危険だということになるなら、私は未来の読者に対しても、亡くなった人びとに代わって、感謝をこめた挨拶を送らなければならない。
 1958年に私がこの書物の執筆に取りかかった時、私は収容所に関する回想録とか文学作品とかのあることをまったく知らなかった。1967年までの長年にわたる執筆活動の間、ヴァルラム・シャラーモフの『コルイマ物語』とか、D・ヴィトコフスキー、E・ギンズブルグ、O・アダーモフ=スリオズベルグなどの回想録を私は次々と知るようになったが、 それらは私が叙述を進めていく過程で、万人周知の文学的事実として(結局のところ、そうなることは間違いない!)引用させていただくことにした。
 この意図とは裏腹に、いや、その意志に反して、この書物のために貴重な資料を与えてくれ、たくさんの重要な事実や数字、はては<<群島>>で暮らした日とびとの呼吸していた空気に至るまで保存しておいてくれたのはM・I・スドラプス=ラツイス、多年にわたり検事総長をつとめたN・V・クルイレンコ、そのあとを継いだA・Y・ヴィシンスキーとその共犯者の法律家連中であるが、 そのなかでも特にI・L・アヴェルバッハの名を逸するわけにはいかない。
 この書物の資料はまた、ロシア文学においてはじめて奴隷労働を賛美した<<白海運河(ペルモルカナル)>>に関するあの恥じずべき本の著者たるマクシム・ゴーリキーを筆頭とする36人のソヴィエト作家たちからも提供してもらった。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』        アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫  1966.12.20
『イワン・デニーソヴィッチの一日』              ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮文庫  2005.11.25
『収容所群島』                        ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮社   1974.12.20
『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』 ジャック・ロッシ 染谷茂・内村剛介・梶浦智吉・麻田恭一訳 恵雅堂出版 1996.10. 1
( 2007年7月16日 TANAKA1942b )
▲top

(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑
理想の共和国では銀行強盗は起きない
 死刑について昔の人はどのように言っているのだろうか?現代と違った見方をしているかも知れない。 TANAKAの考えは、「銀行強盗事件@AB」で取り上げたような、法秩序が乱れる制度は良くない。それを防ぐには、死刑制度が必要だ、ということだ。 そうした面から死刑を扱った論者はいないようだが、それでも識者がどのように主張しているのか?参考にはなるだろうと思って取り上げることにした。 今週は、トマス・モア『ユートピア』を団藤重光の著書から引用することにしよう。
*                      *                      *
<死刑廃止論の思想的系譜──トマス・モア『ユートピア』>  死刑廃止論の系列を考えるとなると、やはりヨーロッパから始めなければなりません。 そうして、そのいわば前奏曲のような形で登場するのがイギリスのトーマス・モア(Thomas More,1478-1535)です。かれは有名な『ユートピア』(1516)──言うまでもなくユートピアというのは彼が設定した理想の共和国の名です── の中で、ラファエル・ヒスロディという架空の人物をもってきて、これに自分の考えを代弁させています。『ユートピア』には、平井正穂氏の名訳がありますから、訳者のお許しを得て、以下、これを引用させていただくことにしたいと思います。(以下、括弧内は同書の頁数)。
 まず、相手がこう聞きます。
 ところでラファエルさん、あなたに1つお訊きしたい点があります。あなたは、窃盗罪は死刑に値しないとお考えのようだが、なぜそうなのか、またもしかりに値しないとすると、公安を維持してゆく上に、もっと有効な、どういう刑罰があるとお考えなのか、そういう点をおききしたいと思います。 まさか、あなたが、窃盗行為は罰する必要はない、と考えておられるとは思われないからです。死刑という極刑をもってしても泥棒をやめさせることができない、というのが現状です。 もし絶対に生命だけは大丈夫だ、ということが分かれば、いくら圧力を加え、威嚇を試みたところで、強盗どもの泥棒を禁ずることはできないのではないでしょうか。 何しろ、この連中ときたら、刑の軽減をかえって犯罪奨励策とでも取りかねまじき連中なのですからね。(32P)
 そこでラファエルは、こう答えました。これは、今申しましたように、実はモア自身の意見です。
 恐れいるますが、私は、金を盗ったために命を奪られるということは、決して正しいことでも道理にかなったことでもない、と思っております。 世界中のあらゆる物をもってしても、人間の生命には代えられない、というのが私の意見なのです。しかし、中にはわれわれがこの極刑を課するのは、金を盗んだというそのことに対してではなく、正義を踏みにじり、法律を犯したことに対してである、と説く人もあろうかと思われます。 しかし、もしそうなら、この極端な法行為はむしろ極端なる不法行為と称しても良いのではないでしょうか。なぜなら、どんな小さなものであろうと、罪を犯したら最後、直ちに刃の露と消えなければならないなどという、そういう残酷な政治、そういう峻厳な国法、無情は法律などは許すべからざるものであるからです。 (中略)神は汝殺すなかれ、と誡め給いました。われわれは少しくらいの金を盗んだからといって、むざむざと平気で人を殺してよいものでしょうか。(32P以下)
 当時は、窃盗罪にも死刑があって、それで処刑される人は大変な数に上っていたのです。ですから、今と違って、まずそういうものから死刑をやめさせなければ」ならないということで、その当時としては、これが一番現実の問題だったわけです。ラファエルすなわちモアは続けて言います。
 もしわれわれが、汝殺すなかれという神の諌めは人間の法律が殺人をどの程度まで合法的と認めるかということによって規定されると解釈するならば、同じく淫行も姦淫も偽証も場合によっては合法的となり、結局人間の法律が決定的なものとなるのではないでしょうか。 人間には自殺する力も他人を殺す力もありません。それは神が許し給わないからです。しかるにもしわれわれが、勝手にお互いに相談して人を殺す法律をつくり、それを強力なものとし、神の諌めに背いて、この法律の命ずるところに従って人を殺しても構わない、つまり、神の諌めの力というものが、結局人間の法律の規定し、許可する範囲以外一歩も出ることはできない、ということにならざるを得ません。 同様に、あらゆる問題においても、神の諌めを守る範囲を決定するものは人間の法律に他ならない、ということになりましょう。(33-34P)
 このように、モアはキリスト教の信仰──特にかれの場合はカトリックで、ローマ教会の教え──を基にして死刑廃止を強く言っているわけです。 ここに出てくる考え方、例えば自殺をすることが許されない以上は、人を殺すこともできないだろう、まして人を殺す法律を作るなどということは、神の誡めに背くものだ、という考え方は、後の思想家たち、いな現代の死刑廃止論者にいたるまで尾を引いています。
 西欧では自殺は宗教上だけでなく法律上も罪でした。イギリスでは、自殺罪が廃止されたのは1961年のことでした。今でも自殺幇助は依然として罪になります。そういう思想を頭に置きますと、人を殺す法を作るなどというのは、神の掟に背くものだ。神の誡めを人間の法によって動かしてもいいのか、 という、自然法の思想とも結び付くかれの議論がよくわかります。
 それだけではなく、モアは他方では刑事政策的なことまで言ったいるのです。
 一たび窃盗罪を宣告された人間は、殺人罪に判決を下された人間と同じように、生命はまさに風前の灯火であり、 また同じ極刑に処せられるということが、泥棒に前もって分かっているとすれば、ただこのことを考えただけでも、本来ならただ物を盗っただけですませた筈の、その当の相手を殺そうという気がむらむらと涌いてくる、 いや、むしろある意味では、殺すことを余儀なくさせるといってもいいのです。(34P)
 窃盗罪を死刑に処するということになれば、どうせのことに、人を殺しても同じですから、むしろ重い犯罪を犯させるようなことにもなる、というわけです。 また、モアは、この国では、窃盗犯人は監禁や束縛さえもしないで、公共の労役に服させ、稼ぎを国庫に納めさせるようにしている、というようなことも言っているのです。(36-38P)。彼は、こんな風にも書いています。
 それが相当凶悪な犯罪の時には懲悪的な意味から公開の懲罰が加えられる。しかし大体において凶悪な犯罪に対しては仮借なく奴隷刑にするのが普通である。 この方が手っ取り早く死刑にしまって厄介払いをするよりも、犯人自身の苦しみは変わらないにしても国家にとっては一層有利であると想像されているからである。死刑にしてしまえば元も子もなくなるが、奴隷にして働かせるなら、そこから多くの利益も浮いて来ようというものである。(136P)
 これは、現代の刑事政策で言われるようなことを、16世紀の初めに言っているのですから、大変な見識だと言うべきです。彼の言葉を続けて引用します。
 しかもその上、奴隷として人の見せしめにしておけば、同じような罪を犯す者への戒めもそれだけ永く保つであろう。それでもなお反逆罪を企てる者があれば、それこそ死に物狂いで荒れまわる野獣でも屠るように、忽ち死刑にしてしまう。 もはや牢獄も鐵鎖も意味をなさないからである。けれどもじっと我慢強く奴隷の境遇に耐え忍ぶ者は前途に全然希望がないわけではない。 長年の悲惨な生活でしっかり骨の髄まで打挫がれて悔恨の情を示す者があれば、しかもそれが単に刑罰がいやでたまらないからと言うのではなく、本当に自分が悪かったという心からの悔恨である限り、時には市長の大権により、時には一般市民の与論と斡旋によって、奴隷刑が大いに軽減されたり、或いは全然青天白日の身となることもあり得るのである。(136P)
 以上に見てきましたように、モアは、一方では神の掟ということから説き起こして、「人を殺すなかれ」ということからして、「人を殺す法」を作ることがいかに神の教えに背くものであるかを論じているのです。 しかも、神の教えの範囲を、人間が勝手に動かすことは許されないというのが、彼の強い主張でした。(中略)
 モアは、他面では、理想の共和国(たといモンテスキュウーの指摘するように「ギリシャの年の簡明さ」をもってするようなものであろうとも)を想定して、しかも刑事政策のような近代的とも言うべきもどの合理的思想を鼓吹くしているのです。 当時はヨーロッパ大陸において宗教改革の狼煙があがり新時代へ向けての胎動がすでに始まっていたのですが、政治的にはまだ専制君主の時代でした。 彼は死刑廃止論を全面的に展開したわけではありませんが、窃盗罪に焦点をしぼって死刑廃止を強く主張したのは、それが当時の現実的な問題であったからで、彼の政治家としての見識であったとも言えましょう。 このようにして、モアは啓蒙思想の──そうして死刑廃止論の──先駆者の名誉を担うことになったわけです。約200年を隔てた啓蒙思想家の間でさえ、モンテスキューやルソーなど、多くは死刑肯定論者であったのですから、モアの死刑廃止論はまさしく時代に抜きんでた巨塔であったのです。 (『死刑廃止論』から)
*                      *                      *
<何処にもない場所=ユートピア>  トマス・モアの『ユートピア』、この「ユートピア」という言葉は、ギリシャ語の「何処にもない場所」という造語で、トマス・モアが考えた「理想郷」で、現代でもここに書かれた社会を理想郷と考えている人もいる。
 多くの人が考える「ユートピア」では、登場人物がみな善人で、凶悪犯など出てこない社会になっている。現実社会は「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」だ。善人が出来心で悪事を働くこともある。かと言って、全ての人が悪人であったり、すぐに悪人に変身するというわけではない。 刑法を取り扱う場合、「性善説」「性悪説」に凝り固まっていると視野狭窄になる。
 死刑問題を考える場合、性善説、性悪説、感情論での発言が多い。とくに廃止論者の場合にそれを強く感じる。大切なことは、法律として、法体系に矛盾が生じないかどうか?ということだ。 死刑を廃止すれば、銀行強盗@ABのように、<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生>という矛盾が生じる。こうした点での議論が見当たらない。
 法律の専門家が『ユートピア』という現実にはあり得ない社会を引用して、死刑廃止を主張することに違和感を感じる。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止論』第4版                    団藤重光 有斐閣   1995. 1.30 
( 2007年7月23日 TANAKA1942b )
▲top

(19)カント、ベッカリーア、団藤重光
誰も銀行強盗事件@ABは予想していない
 今週は哲学者カントを扱う。カントは死刑存置論者の代表格と見なされているようなので、このシリーズで無視することはできない。 そのカントとベッカリーアや団藤重光も改めて扱うことにしよう。扱う姿勢は、タイトル通り「誰も銀行強盗事件@ABは予想していない」ということだ。 まず初めは、平田俊博著『柔らかなカント哲学』から引用しよう。
*                      *                      *
<柔らかなカント哲学>  「人を謀殺したものは、死ななければならない。この場合には正義を満足させる代償物は何もない。 ……たとえ公民的社会が構成員全員の一致で解散されるとしても……。刑務所にいる最後の謀殺者はその前に死刑に処せられなければならないであろう」
 このように語ったことで、哲学者カントは、いまや古今東西を通じてナンバーワンの死刑論者と目されることとなった。 死刑制度廃止論が世界の趨勢となりつつある現在、死刑存置論者が最後の拠り所とするのが、ほかならぬカントなのである。(中略)
 死刑廃止論を口にしやすいのは、それが理想主義的な輝きを放つからである。例えば死刑廃止条約は、生命に対する権利(right to life)ないし生命に対する固有の権利をすべての人間に認めることから出発している。 死刑の廃止が人間の尊厳の向上と人権の漸進的発展に寄与する、と信じているのである。同じ趣旨でアムネスティ・インターナショナルは、死刑を「もっとも基本的な人権を侵害する、法に基づく殺人」「国家による計画殺人」であるとして、糾弾する。 人間の生命の価値を否定する点では、法の外で行われる殺人と同じだと考えるわけである。
 このように人権を正面に据えてかかるのが、現在の死刑廃止論の1つの特徴である。しかし、それは古くからあった主張であって、必ずしも現在に特有なわけではない。 しかも、死刑を殺人罪に限定するなら、被害者の側に立つか加害者の側に立つかで、人権の取り扱いが対立することにもなりうる。人権だけでは水掛け論に終わるかもしれないのである。 例えばカントは、殺人犯への死刑の執行を正義の実現と見なしている。
 そこで、改めて注目されたのが、誤判、つまり誤った判決の問題である。これも古くから死刑廃止論の「有力な論拠のひとつ」に挙げられてはいた。 しかし、今日、決定的な理由へと格上げされる。例えば、国内の死刑廃止運動の「精神的支柱」となっている団藤は、誤判の問題を、死刑廃止論についての「最後の決め手」だと見なしている。 死刑の存廃に関する議論が結局は水掛け論だとしても、「少なくとも誤判の問題だけは水掛け論ではない」と考えるのである。誤判に基づいて執行された死刑は取り返しがつかないからである。
 それを支持する哲学上の見解がある。カール・ポパーの可謬論である。彼は、「人間の可謬性(human fallibility)こそが死刑廃止論の決定的な理由」だと考えている。 哲学者ポパーの見解を紹介しながら、団藤は刑法学者の立場から次のように述べる。
 「裁判が神ならぬ人間の営みである以上は、誤判を絶無にするということは性質上不可能である。死刑制度が存在する以上は、必然的に処刑の可能性が内在しているのである」しかしながら、「万が一にも誤判によって無実の人が処刑されるようなことがあれば、それは言語に絶する不正義であって、それはあらゆる死刑=正義論を根底からくつがえす」
 裁判が構造上誤判の可能性を免れることができず、しかも誤判の事実が内外を問わず多数明らかである以上、「死刑はその積極的存在意義を失っている」というのが、現在の日本における死刑廃止論の独自な特徴である。それは世論にも反映されている。
死刑廃止論と哲学の議論 死刑に関する議論にあっては、廃止論であれ存置論であれ、いずれにしても哲学の議論が必要なことは見てきたとおりである。 としわけカントの死刑論を避けるわけにはいかない。理由は2つある。
 1つには、現在の日本の死刑議論において、対立する両陣営を代表する学者がどちらも、哲学者としてはカントを最も重視しているかれらである。 つまり、団藤は、ドイツの法哲学者ラートブルフを介して、カントの人格論を批判的発展的に継承していると、また植松は、カントの正義論を基本的に踏襲していると考えられるからである。
 2つ目の理由は、近代的な意味での死刑論議は、カントのベッカーリア批判に始まると見ることが出来るからである。人権と社会契約論に立脚して、ベッカーリアは罪刑法定主義を核とする画期的な刑法理論を確立したのであるが、同時に、初めて本格的な死刑廃止論を展開した。 そのベッカーリアは、ほぼ同じ立場を標榜しながら、カントは真っ向から反論したのである。
 さてそこで、次節で、カントの刑罰論と死刑論を、さらにベッカーリア批判でもある反・死刑廃止論を見てみよう。
カントの刑罰論及び死刑論 カントによれば、「刑法は定言的命法」であって、犯罪者はまずもって無条件に罰すべきものと判定されなければならない。 裁判所が下す刑罰は、犯罪を犯したという理由だけで犯罪者に課されてはならないのであり、決してただ単に何か他の善を促進する手段として、犯罪者自身のために、あるいは公民的社会のために、課されなければならない。 つまり、犯罪者の社会復帰とか医学上の人体実験とか犯罪予防上の見せしめとかのために刑罰を用いてはならない。刑罰は整備のためなのである。 それでカントは次のように言う。「もし正義がなくなるとしたら、人間たちが地球上に生きていることには、もはや何の価値もない」
 では、刑罰の種類や程度についてはどうか。それらを規定する公共的正義の原理としてカントが採用するのが、同害報復の法、すなわちタリオの法である。 こうした相等性の原理だけが「刑罰の質と量を確定」できる。つまり、「君が国民の中の他の誰かに不当にどのような害悪を加えようとも、それを君は君自身になすのだ。…… 君が彼から盗むならば、君は君自身から盗むのだ。……君が彼を殺すならば、君は君自身を殺すのだ」
 だが、相等性の原理として提示されるカントの同害報復の法は、「目には目を歯には歯を」という素朴で古典的なタリオの法とは別物である。 この点を団藤は誤解している。カントの同害報復の法は私的な復讐とは無関係な公共的正義の原理なのであり、したがって配分的正義の問題であって、犯罪者個人が国家全体に関わることとなる。 けっして、団藤が語るように民事法的な平均的正義が問題なのではない。加害者と被害者が個人対個人の関係で向き合うこともない。それゆえ、団藤の場合と同様に、被害者への補償とか配慮とかは本質的に問題とはならない。
 こうした点に関して、カントは次のように説明している。「君が彼から盗むならば、君は君自身から盗むのだ、とはどういうことか。盗みをなす者は、他の人たちすべての所有権を不確実にする。 それゆえ、その者は(同害報復の法に従って)可能的な所有権すべての確実性を奪い取られる」要するに、公民的社会にあって物を盗んだ者は、単に物を盗んだだけでなく、所有権そのものを辛亥したことになる。 被害者は、公民的社会であり、公民的社会としての国家そのものなのである。それで、カントは更に続ける。
 「彼は何も持たずまた何も取得できず、しれでいて生きようとする。結局、他人が彼を扶養するしかないわけだ。しかし、こうしたことを国家が無償でするはずはないから、彼は国家に自分の労働力を引き渡して、国家が望む労働(手押し車苦役か懲役労働)をしなければならず、 かくて一定期間、あるいは事情によっては永久に、奴隷身分に陥る」窃盗罪に対してカントは、広い意味での懲役刑を相等だと考えているのである。
 それでは、殺人罪の場合はどうか。本章の冒頭で示したとおり、「人を誅殺したものは、死ななければならない。この場合には正義を満足させる代償物は何もない」というのが、カントの答えである。 どれほど悲惨な生であっても、生と死は全く別物だ。殺人罪に相等する報復は、裁判を経て執行された死しかない。虐待は何であれ、犯人の人格のうちなる人間性を歪めるから、許されない。 もしも殺人犯が処刑されないとしたら、国民全裸委が「正義の公然たる侵害の共犯者」ということになり、国民が殺人の罪を問われる。このようにカントは考えている。
 この際、カントの死刑論を、彼の刑罰論全体の文脈の中で押さえてみるとどうなるであろうか。試みに、先の」盗みに関する」カント自身の説明を読み替えてみよう。すると、以下のようになる。
 <君が彼を殺すならば、君は君自身を殺すのだ、とは、どういうことか。殺人をなす者は、他の人たちすべての生命権を不確実にする。それゆえ、その者は(同害報復の法に従って)可能的な生命権すべての確実性を奪い取られる>
 要するに、「他人を違法に殺害することは死をもって処罰されなければならない」。これは「刑罰正義の定言的命法」なのである。 そして、裁判官が厳格な同害報復の法に則って下す死刑判決だけが、殺人罪における刑罰の相等生を可能とする。
*                        *                        *
カント対ベッカリーア 刑罰論 カントの場合、「社会契約の中には、自分を者罰させたり、さらには自分自身や自分の生命を処分したりする約定は全く含まれていない」。 「処罰されることを良くするということは不可能」だとされるからである。それで、刑法(刑罰権、Strafrecht)とは、「従属者にその犯罪のゆえに苦痛を課するという、命令権者の権利」だと定義される。 人間は本体人として社規契約に参加することで国家を創設し、「公民的人格性」を、つまり命令権を獲得するが、犯罪を犯せば、それを喪失して「人格的従属者(persönlicher Unterthan)となる。 つまり、現象人となる。だが、それでいて全くの現象になりきるのでもない。行動すべてを物体の運動のように自然の因果法則で説明し尽くすことに対して、人間の「生得的人格性」が抵抗するからである。 一切の帰責能力の主体として、犯罪者は「あらかじめ可罰的(strafbar)だと判定されていなければならない」。犯罪者は無条件に同害報復の法に基づいて、犯した犯罪に相等する刑罰(苦痛)を受けなければならないのである。 同害報復の法が、公共的正義の原理として質と量を確定する。すでに見たとおり、刑法は定言的命令となる。
 ただし、犯罪の重さを測る基準が、犯罪者の内的な悪意に、つまり犯罪者の意志の違法性にある点に注意しなければならない。なぜなら、「行為の帰責能力(Zurechnungsfähigkeit,imputabilitas)の程度」は、客観的に定まるのではなく、主観的(subjeciv)であって、 行為に際して克服されねばならなかった生涯の大きさに従って評価されるべきだからである。一時の激情に駆られたのか、それとも沈着冷静に理性的に行ったのかという、行為主体の心の状態(Gemüthszestand)が── 犯罪行為においては、内的な悪意の度合いが──、責任の程度を決定することにならざるを得ない。
 これに対し、ベッカリーアでは、刑法の主たる目的は犯罪の「予防」にある。刑罰は必要悪であって、予防のための手段にすぎない。 罰することが不幸(苦痛)の絶対量を増大させるのに対して、、予防は不幸の増大を防ぐからである。そもそも法律は自由人どうしの契約のはずであり、「最大多数の最大幸福(la massina fericità divisanel maggior numero)」を目指すものである。 したがって、人生の幸不幸(快苦)を計算して、「最大限の幸福と竿証言の不幸へ人間を導く技術」が、法律なのである。その意味で法律は「公共的功利(utilità comune)」に他ならず、公共的功利が「人間的正義の基礎」となる。
 それゆえ、犯罪の真の基準となるのは、「国家に与えられた損害(dannno fatto alla nazione)」である。犯罪者の意図(intenzione)を問うのは間違いとされる。
カント対ベッカリーア 死刑論 カントでは、死刑は刑罰正義の定言的命令であり、人を謀殺すたものは同害報復の法に従って死刑に処せられねばならない。
 これに対して、ベッカリーアでは、「各人の自由のできるだけ小さな分担分を統合したものげ、刑罰権の基礎」なのだから、「死刑は権利ではあり得ない」。つまり、自分の生命は誰にも支配されてはならず、死刑は「国家による謀殺(pubblico assassinio)」に他ならない。 と言うのも、生命は誰にとっても「最大の財産」であって、分担分として公共へ差し出されることは絶対にあり得ないからである。
 また、ベッカリーアは、自殺の禁止という宗教的な理由からも、死刑の廃止を訴えている。人間は自分を殺す権利を持たないのだから、その以ていない権利を譲渡しようがないと言うのである。
 さらに、ベッカリーアは、死刑とは、一人の国民に対して国家がなす「戦争」だとも説明する。しかし、通常の場合には、すなわち、国家が対内的にも対外的にも十分の安定していて、犯人を生かしておいても公共の安全に危険がない場合には、死刑は不必要だと主張する。 死刑よりも「終身隷役刑」のほうが、犯罪予防の上で効果が確実だとするのである。
*                        *                        *
ラートブルフの死刑廃止論 20世紀前半に活躍したドイツの法哲学者ラートブルフは、カントの人格主義的人間観を批判的に継承しており、日本の法学者にも大きな影響を与えた。 彼によれば、死刑の権利は、「個人主義に立脚して考えることができない」ものであり、ただ「国家契約に基づいて初めて創設される権利としてのみ考えられる」にすぎない。 要するに、「超個人主義的権利観(überindiviualistische Rechtseauffssung)だけが死刑を正当化できる」と言うのである。例えば、カントは次のように述べている。
 たとえ公民的社会が構成員全員の一致で解散されるとしても……刑務所にいる最後の誅殺者はその前に死刑に処せられなければならないであろう。そうすることで、各人は各自の行為に値することをその身に受けるのであり、また、 処刑を行おうとしなかったせいで殺人罪の責めを国民が翁といったこともなくなるのである。と言うのも、処刑を行おうとしまかった国民は、殺人罪という、正義の公然たる侵害の共犯者と見なされうるからである。
 本章の冒頭でも一部紹介したカントのこの有名な文章において、国民という概念が、「個々人の総計としてではなくて、個々人の個人的な利益よりも生命の長い、超個人主義的な固有価値の担い手」として出現しているのを、ラートブルフは私的する。 死刑を応報説(同害報復の法)によって正当化するために、国民という超個人主義的な観点が社会契約説の個人主義的な文脈の上に、言わば、接ぎ木されていると言うのである。
 ラートブルフによれば、もし社会契約説の倫理を貫徹させるなら、「同意説(Einwillingungs-Theorie)しかない。たとえば、ベッカーリアは、人間には自分を殺す権利がなく生命は放棄することのできな法益だから、社会契約において死刑に自殺的に同意することはありえない、と言う。 この、あり得ないという点を、ラートブルフは一段と強調する。犯罪者が死刑に「同意することは許されない」のではなくて、「理性的に判断して(vernünftigerweise)同意することはあり得ない」と言うのである。 なぜなら、「粗景はそれこそ利益の主体を滅ぼすことだから、死刑が犯罪者自身の利益にも奉仕することだとはどうしても証明できない」からである。 したがって、個人を「理性の固まり」だと、見ても、個人が死刑に同意するとは考えられない、とラートブルフは主張する。そう主張することで、カントを批判するのである。 カントによれば、同一人物中の本体人が理性的人格として片割れの現象人たる犯罪的人格に死刑を課す。つまり、犯罪者の理性がそれ自体必然的に、自分の「生命を失わざるを得ないと判断するはずである。 しかし、そういうことはあり得ない、とラートブルフは断言する。
 ラートブルフ自信は、社会的刑法理論としての「保安および改善説(Sichierungs und Besserunguslehre)に立って、カントの応報説を批判している。基本的には個人主義的で非社会法的である応報説では、行為が行為者から、ないしは行為者が人間から分離していて、犯罪者は「行為の没個性的な行為者」であるにすぎない。 その場合、刑法関係は部分的な関係でしかなく、特定の行為の行為者としてのみ人間を見る。それに対して、社規的刑法は、ひとりの人間をまるごと視野に納める。カントにおけるように「抽象的で孤立した個人」ではなくて、具体的で社会化された個性」が問題となるのである。 その結果、刑罰は、個々の犯罪行為にではなくて、個々の個性的な犯罪者に関わるものとなる。
 かりにこの理論を死刑論に適応するとすれば、誅殺行為は死刑に値し、濃い者は誅殺行為に関するかぎりは死刑に値するが、まるごとの人間(ganzer Mensch)としては部分的にしか値しねいこととなろう。 だが部分的な死刑なぞあり得ない。価値相対主義者であったラートブルフは、禁欲的に、そうした論理の一歩手前で立ち止まっている。
*                        *                        *
団藤重光の死刑廃止論 ラートブルフの保安および改善説は、ベッカリーアの社会予防説的な教育刑思想を批判的に発展させたものと言えるが、それを更に洗練させたのが、団藤の「人格責任論・動的刑罰論」に他ならない。 彼の人格責任論によれば「犯罪行為はつねに行為者人格と結びつけて理解されなければならない」。「ちょうど作品が作者の人格の現れであるように、我々の行為はすべて我々の人格の発露」だとされるのである。 しかも、人格は、静的・固定的ではなくて、動的・発展的なものと理解されている。先天的と後天的の素質を基礎にして、行為環境と人格環境の制約を受けながら、各自の主体的な人格態度によって、人格は障害にわたって形成され続けるのである。
 また、動的刑罰論によれば、犯罪と刑罰の間に一種の緊張関係が存在する。「犯罪論は静的・固定的」だが、「刑罰論は動的・発展的」なのである。 と言うのは、刑罰が課せられるのは、個々の犯罪行為にではなくて、あくまでも犯罪者という人間にだからである。過去における犯罪行為のゆえに、現在ないし未来の人格に刑罰が課せられるのである。ところが、人格そのものが動的・発展的なのだから、当然それに対応して、刑罰も動的・発展的たらざるを得ないこととなる。 動的刑罰論は、何よりも、犯罪後における犯罪者の人格形成を、そしてまた、犯罪に対する社会や被害者たちの反応の変化をも重視するのである。 したがって、死刑は、更なる人格形成の可能性を全く摘み取ってしまうのであるから、動的刑罰論と「真正面から矛盾する」ものとなる。
 ただし、犯罪論としては、死刑に値する行為も認めざるを得ないのだから、死刑制度の廃止までを要求することはない。「死刑の宣告まではよいとして、最小限度において、死刑の執行だけは認めるべきでないという結論にならざるを得ない」と、団藤は、ひとまず「純理論的」に論断する。 その上で、裁判官という実務上の経験が、氏をさらに「決定的に廃止論者」たらしめることとなる。 (『柔らかなカント哲学』から)
*                        *                        *
<死刑を廃止したらどうなるのか?>  偉大な哲学者カントも、死刑を廃止したらどうなるか?については何も言っていないようだ。一つの制度を論じるとき、「それが完璧かどうか?」「欠点はないか?」という議論も必要かも知れないが、では「それに代わる制度はあるのか?」という議論も必要だ。 TANAKAの主張は「死刑制度を廃止したら、法体系に矛盾が生じる」ということだ。その主張を議論するには、「死刑制度を廃止したらどうなるか?」を議論しなければならない。 どのような制度を議論するにしても、その制度が実際に施行されたら、どのようなことが起こるのか?を議論しなければならない。哲学の分野での議論はこの点が欠けているようだ。 そして、そうした点からのカント批判もないようだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『柔らかなカント哲学』増補改訂版              平田俊博 晃陽洋書房     2001. 6.20
『ベッカリーアとイタリア啓蒙』               堀田誠三 名古屋大学出版会  1996.11.20
『公共経済の諸要素』      チェーザレ・ベッカリーア 三上禮次訳 九州大学出版会   1997. 2.28
( 2007年7月30日 TANAKA1942b )
▲top

(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論
原初状態と格差原理と誤判と死刑
 今週はジョン・ロールズの『正義論』を扱う。刑法とか死刑廃止論などの本を読んでも『正義論』と死刑廃止の関連を説明したものはない。 また、『正義論』の方から死刑廃止に関する記述も見当たらない。この2つを強引に結び付けようというのが今週の試みだ。どの程度説得力を持つか?チャレンジのし甲斐はある。 そうした強引なチャレンジこそ、アマチュア・エコノミストの特権だと思い、勝手に自分を納得させて、さて、スタートです。
<格差原理のたとえ話>  ジョン・ロールズの『正義論』を真正面から批評しようとしたら、それだけで1冊の本が書ける。そして内容は「素人さんお断り」の難解なものになるだろう。 『正義論』については、<民主制度の限界 (22)『正義論』とはどんな本?> で書いたので、詳しくはそちらを参照して頂くとして、 ここでは「死刑廃止論」との関係だけに絞って扱うことにする。『正義論』のなかで「格差原理」は主要はテーマなのだが、一読しただけでは分かりにくい。 そこで、思いっきり「格差原理」を「素人さん、大歓迎」の文章にするとどうなるか?次のような素人の読者をも意識したやさしい文章が多くなると、政治哲学の分野もアマチュアや他分野からの新規参入が容易になり、F1ハイブリッドが生まれやすくなる、と思って引用してみた。
 むかしむかし、まだ社会というものがなかったころ、人々が集まって社会を作る相談をしたそうじゃ。そこでまず決めなければならなかったのは、社会が何をすべきかの原則、つまり社会にとって正義とは何かということだったんじゃ。みんなは、なんとか自分に一番有利なように正義の原則を決めようと考えた。ところが、人々は始めて会ったので面識もなく相手がどういう人物かはもちろん、これから作られる社会のなかで自分がどういう位置を占めるかも知らなかったそうじゃ。つまり、自分は社会のなかで優れた人間なのか劣っているのか、成功しそうなのかダメそうなのか、自分とは何者なのか分からなかったのじゃ。そこでみんな考えたんじゃ。自分にとって一番最悪な場合、つまり、社会のなかで自分が一番恵まれない人間である場合を考え、そういう自分を救ってくれる正義を考えれば安全じゃ、と。 こうして社会は始まったそうじゃ。
 ロールズはこのフィクションを原初状態と呼び、慎重な個人が最悪な状態に落ち込む危険を心配して共通に示す判断だから、格差原理が正義であることは論証されているとしたのである。彼は、自分が何者であるかを知らないという空想を「無知のヴェール」と表現したが、私は、ロックの時代の「神の前には皆平等」という思想を現代風に洗練したのがこれであると思っている。 (『経済学の知恵』から)
 この『経済学の知恵』の著者は、『経済学の知恵』についてこんな風に書いている。
 ジョン・ロールズを初めて読んだとき私は清々しさと、現代においてこんなことを正面から論じるのはどのような人なのだろうという感慨を抱いた。 そして、そのことは、彼の生い立ちと当時のアメリカの状況を考えるとき、至極当然のここと思うようになったのである。(『経済学の知恵』から)
<自分が一番不利な立場になったら=誤審で死刑判決を受けたとしたら>
 『正義論』を何となくでも分かったら、次は死刑廃止についての話。 死刑廃止論の根拠の1つは、「人が裁く以上誤審は避けられない。死刑が執行されたら、誤審と分かっても元に戻すことはできな」だ。 「もしも貴方が身に覚えのない罪で、死刑の判決を受けたらどうしますか?死刑制度が廃止されていたら、刑務所で有りとあらゆる手段を使って無実を証明しようとするでしょう。 でも、死刑が執行されてしまっては、貴方が無実を証明することはできません。誰かがあなたの無実を証明したとしても、死刑が執行された後だったらどうしようもありませんね」 というのが、死刑廃止の論拠の1つだ。
<ロバート・ノージックの「最小国家」>  話題はドンドン飛びます。次は『正義論』とは対極にある『アナーキー・国家・ユートピア』。ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』の中で、「最小国家」という言葉を使って彼の理論を説明しようとしている。 その「最小国家」とはどのようなものか?ジョナサン・ウルフ著『自由論』から引用してみよう。
 しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する。
 「ユートピアのための枠」の背景にあるのは、人々が彼ら自身のユートピアを構想し、生きることができるような背景の記述を提示するという考えである。最小国家においては、あらゆる資源が共有される共産主義者の村をつくる集団もあってよければ、また、高度な文化の追求のためにあらゆる安楽が犠牲にされる完全主義者の社会を作ってもよい。第3の集団はモデル的な自由市場社会を作り出そうとするかもしれない、等々。つまり、最小国家では、個々人は随意的に様々な種類のサブ国家をつくることができる。そこでは社会は資本主義に基づいて組織されるべきか、それとも社会主義の線で組織されるべきかという議論は不要になる。資本主義を好むものは資本主義国家に、社会主義を好む者は社会主義国家に住むことができる。 (『ノージック』から)
<ジョン・ロールズが主宰する「最小国家」で刑法を定めるとき>
 ここでは、ロバート・ノージックの「最小国家」をジョン・ロールズが主宰しようとした、と仮定して、そのとき刑法をどのように定めるか?を想定してみることにする。
 ジョン・ロールズが「正義論国家」の構成員に呼びかける。「皆さん、正義論国家の刑法を定めたいと思います。先ず私からの提案です。 裁判では誤審はつきものです。神ならぬ人間が裁く以上、完全は期待できません。そこで、もし貴方が、身に覚えのない殺人事件の犯人として起訴され、裁判で死刑を宣告されたらどうでしょう? 終身刑なら刑務所の中から有りとあらゆる手段を使って無実を訴え続けることができます。でも死刑を執行されたら、それは出来ません。 私が言いたいのは「もしも自分が思いもかけぬ一番不利な。不幸な立場になったとしたら、どうしたらいいか?」ということです。 この「正義論国家」では、未だ誰がこの最小国家の代表者になるか?一番の下層階級になるか分かりません。自分が一番不利な立場になっても、ある程度諦められる制度にすべきだと思うのですがいかがでしょうか?」
 この最小国家に集まった人々は全く初めて会った人たちで、前歴はだれも知らない。けれども主催者のジョン・ロールズが『正義論』の著者であることは知っていた。 そこでジョン・ロールズの提案はすぐに理解され、全会一致で可決された。ここに「正義論国家」では「死刑は憲法違反である」と規定することが確認された。
<『正義論』信仰と「死刑廃止」信仰>  『正義論』を信仰すれば、「死刑は廃止せと」になるのは自然だ。同じ様な価値観を持っていると見て良い。 『正義論』側からも、「死刑廃止論」側からも、このような見方は聞かれない。ちょっと離れた所から見ると同じ様な匂いがするのだが、岡目八目かも知れない。 「経済学はセンスだ」がTANAKAの持論だ。理論的であるべき「経済学」なのだが、「センス」の違いが立場・見方の違いに大きく影響するようだ。 考え方の違う者同士が冷静に議論しても「結局、貴方とはセンスの違いですね」ともの分かれになることが多いに違いない。 『正義論』信仰者と「死刑廃止」信仰者とは多くは話さなくても、すぐに理解・納得し合えるの違いない。
*                      *                      *
<現実は「格差原理」の社会ではない。何故か?>  「ジョン・ロールズを初めて読んだとき私は清々しさと、現代においてこんなことを正面から論じるのはどのような人なのだろうという感慨を抱いた」 と感激した人がいた。ということは、現実の社会は「格差原理」に従った社会ではない、ということだ。現実の社会と違っていたから、、新しさを感じたのだと思う。 では現実の社会はどうなっているのだろうか?そして何故「格差原理」が採用されないのだろうか?一番弱い・不幸な立場の人にとって住みやすい社会制度にならないのは何故なのだろう? 死刑廃止論からこのような疑問に立ち向かってみることにしよう。 この疑問に関しても、扱っている文献には出合っていない。隙間産業を狙うアマチュアエコノミストとしては格好の狙い目のようだ。
ATM機器は機械嫌いの年寄りには迷惑だ  銀行へ行って振込をしようと番号札をとって窓口へ行くと「当行に口座はお持ちですか?キャッシュカードをお持ちならATMの方が手数料も安く、お得ですよ」とATMへ追いやられる。 ATMに馴れている人ならいいが、機械嫌いの年寄りには、ATMでの振込はけっこう面倒なものだろう。ATMを改良して、最新式のロボットを導入し、対話形式で振込ができるようになれば、お年寄りも、もっとATMを利用するに違いない。
 『正義論』を信仰していれば、この様な発想になるに違いない。ATMは確かに便利で、安く、早く取引ができ、銀行のコストも軽減され、ひいては顧客サービスに結び付く。 その一方で、弱者である機械嫌いのお年寄りには迷惑なシステムだ。その社会での一番の弱者のためにシステムを考えるならば、ATMに対話形式のロボットを導入すべきだ、ということになる。
所得税の基礎控除は超低所得者にメリットはない  所得税の計算は次のようになっている。
 (給与所得−給与所得控除額−基礎控除額)×税率
 この計算式で、給与所得控除額は収入金額×40%(65万円に満たない場合は65万円)となっている。例えば、65万円の人も、50万円の人も、10万円の人も同じ、ということだ。 低所得者層に気を配っているとしても、その中での差はない。低所得者層と超低所得者層とは同じ扱いになっている。『正義論』の考え方からすれば、65万円の人よりも10万円の人の方が優遇されなければならない。
年末調整のサラリーマン減税は弱者にとって利益はあるのか? 経済が成長しているときは毎年のように、年末にサラリーマン減税があった。源泉徴収で天引きされていた税金が戻った。 しかし、これも毎月の給与から税金を天引きされているサラリーマンにのことで、フリーター、ニート、一部の派遣社員には関係がない。もちろん、ホームレスにもだ。
少数の弱者への大きな利益VS多数の中間層への少ない利益 ATMに対話式のロボットが導入されたら、少数の機械嫌いにとっては大きな喜びになる。けれども多数のATMに馴れている人にとってはメリットはない。
 基礎控除で差をつけたとして、少数の弱者には大きな利益はあるだろうが、多くの中間層には関係ない。
 サラリーマン減税は少数の弱者にはメリットはなくて、多数の中間層にはメリットがある。
 ここで、人数かけるメリットの大きさを計算してみよう。
 ATMに対話式のロボットが導入されれば、少数の人に大きなメリットがある。ロボットなしのATMが導入されれば多数の人に少しずつメリットがある。 それぞれを計算すれば、たとえ、ロボットなしでもATMを導入するメリットの方が大きいとなるに違いない。
 基礎控除の場合はどうだろう?やはり、少数の弱者と多数の中間層、そのメリットの合計は現在の計算式で十分中間層にはメリットがあり、基礎控除で差をつけるメリットは小さい、となるに違いない。
 サラリーマン減税も多数の中間層にはメリットがあり、人数かけるメリットの大きさは十分大きいと評価されるに違いない。
接待汚職の被害者は何処にいる? 1998年春、大蔵省金融検査部幹部職員の接待汚職に非難が集まっていた。 ところでこの汚職によって誰が得をして、誰が損をしたのだろう。発覚しなければ銀行と担当者(MOF担)および大蔵省の役人が得をして、一般納税者が損をしたことになる。 他の例と同じように、少数者のルール違反の利益と、多数者の少ない損失。この場合は「ルール違反をすると結局は損するよ」ということをハッキリさせることが大切だ。
少数の土木建設業者の利益VS多数の納税者の利益==談合を考える 談合をすることによって誰が得をして、誰が損をするか?得をするのはすぐ分かる。土木建設業者だ。では損をするのは? それは、土木建設業者も含めた一般納税者だ。けれども損をする一般納税者は自分がいくら損をしたのか知らない。そこで、得をする土木建設業者は「談合は必要悪だ」などと言う。
 ここで例にあげたのと同じようだ。少数の者が大きな利益を得て、多数のものが少しずつ損をする。こうした場合一般的なルールとしては、多数者の利益を重視して「談合は悪だ」と規定する。 市場経済では、競争で負けた者はその市場から撤退し、業界の生産性は向上する。この競争社会を『正義論』信奉者は「弱肉強食の社会」と言って非難する。心のどこかに、「談合を容認すべし」との気持ちを持っている。
誤審により無実で処刑される場合VS殺人未遂で実質的な死刑になる場合 誤審により死刑を宣告された例がある。初めに書いた「銀行強盗事件A」のように殺人未遂で実質的な死刑になる場合もある。 どちらを重く見るか?現在では、殺人未遂で実質的な死刑になるケースを重視していると考えられる。そちらの方が多く起こりそうだからだ。 ただし、「銀行強盗事件@」の場合、犯人が3人を殺したことについて誤審は有り得ない。
基本的な制度は多数者を重視 現在日本の制度は「弱者=一番不利な立場にいる人を守る制度になっている」とは言えない。それよりも上の層=中間層の利益を重視して制度が定められている。 『正義論』の主張する「弱者のための社会制度」にはなっていない。このため「政府は格差を拡げる政策を進めている」「弱者切り捨ての政府与党」と非難する人・グループがいる。 そうした人はかつてはマルクス主義を武器に論陣を張っていたが、マルクス主義に人気がなくなって、ごく一部の人は『正義論』を根拠に論陣を張っている。 そうでない人も結局は、自分では意識していなくても『正義論』を頼りに主張を繰り返している。
 『正義論』は、「弱者=一番不利な立場にいる人を守れ」と主張し、現実社会では「それより上の層=多数派=中間層の利益を重視している」 人数かける利益の大きさ、は現実の社会制度の方が大きい。そこで一般的な制度は、多数派重視の制度になる。ただし現在ではそれだけではない。 一般的なルールの他に、弱者対策別途特別制度を設けていることがある。
 ATMではフロア・スタッフが機械操作の苦手な人の手伝いをする。低所得者には「生活保護制度」がある。
 所得税に関しては、ミルトン・フリードマンの提唱する「負の所得税」がある。これに関しては<新しい所得税法>を参照のこと。 『正義論』とは対極にいる人が、『正義論』よりも具体的な「弱者対策」を提案している。
最大多数の最大幸福 『正義論』が批判する現実の社会は「最大多数の最大幸福」を追求する社会と言えそうだ。 一番の弱者を守る制度、ではなくて、多くの人の利益を多くする制度になっている。別の言い方をすると「個人の快楽の総計が社会全体の幸福である」と言うことができる。 ここまで話を進めて来ると多くの人は気づくに違いない。『正義論』が批判する現実の社会制度は「最大多数の最大幸福」を追求する、功利主義の社会であることに気づくに違いない。
 「最大多数の最大幸福」に対する挑戦には「プロレタリア独裁」を主張するマルクス主義があった。「最大多数の最大幸福」という場合の「最大多数」とはブルジョアのことである、との認識がマルクス主義の中心にあった。 このため、数・人数が問題なのではなく階級が問題であった。けれども、マルクス主義を採用した国々は破綻した。このため、「民主制度」や「最大多数の最大幸福」を批判したい人は、そのための教典を捜していた。 そうした時代に『正義論』が登場すれば、新鮮な驚きをもって、迎え入れた人も多かったに違いない。しかし、時が経って『正義論』の限界が見えてくると、かつての新鮮さを感じる人は少なくなっている。 けれども、そうした人のグループに入るには『正義論』を読んでいなければならない。たとえ完全に理解していなくても、使われている言葉位は知っておかないと恥をかくことになるだろう。
 「最大多数の、最大幸福」=資本主義
 「プロレタリアート階級の、最大幸福」=マルクス主義
 「最も弱者である階層の、最大幸福」=ジョン・ロールズの『正義論』
*                      *                      *
<正義の2原理> ジョン・ロールズは『公正としての正義再説』で「正義の2原理」を次のように説明している。
 『正義論』第11−14節で論じた正義の2原理を手直ししたい。それらを今回、次のように修正する。
(a) 各人は、平等な基本的諸自由からなる十分適切な枠組への同一の侵すことのできない請求権をもっており、しかも、その枠組は、諸自由からなる全員にとって同一の体系と両立するものである。
(b) 社会的・経済的不平等は、次の条件を充たさなければならない。第1に、社会的・経済的不平等が、機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた職務と地位に伴うものであるということ。 第2に、社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益になるということ(格差原理)。 (『公正としての正義再説』から)
*                      *                      *
<§13 民主的平等と格差原理> 『正義論』と言えば「格差原理」を取り上げなければ話にならない。それほど中心的なキーワードだと思う。「民主制度の限界」でも引用したが、『正義論』の中心的なキーワードなのでここでも引用することにした。
 表にあらわれているように、民主的解釈は、機会の公正な均等という原理を格差原理と結びつけることによってえられる。この原理は、その地位から基本的構造の社会的、経済的不平等が判定される特定の地位を選び出すことによって、効率性原理の不確定性を排除する。平等な自由と機会の公正な均等によって求められる制度の枠組みを仮定すれば、より良い状況にある人々のより高い期待は、次のような場合に限り、正義に適っている。 つまり、そのことが、社会の最も不利な立場にある構成員の期待を改善する図式の一部として作用する場合である。そうすることが不運な人々の有利にならないのであれば、その社会秩序は、より暮らし向きのよい人々の見通しをより魅力的なものにしたり、それを保証したりすることはないというのが、直観的な観念である。
 格差原理を説明するため社会階級間の所得の分配を考えてみよう。様々な所得グループは、その人々の期待との関連で分配を判断することができる代表的個人と相関すると想定しよう。さて、私的所有民主主義において企業家階級の構成員として出発する人々は、いってみれば、未熟練労働者階級にはじまる人々よりも、より良い見通しをもつ、これは、現存する社会的不正義が除去される時でさえ真実であるように思える。その時、人生の見通しにおけるこの種の初期的不平等を、一体、何が正当化できるのであろうか。 格差原理に従えば、期待の差が暮らし向きの悪い代表的人間の、この場合には、代表的未熟練労働者の有利になるならば、その時に限って、それを正当化することができる。期待の不平等は、それをそれを縮小すれば勤労階級の暮らし向きを一層悪化させてしまうならば、その時にのみ、許容される。恐らく、開かれた地位に関する第二原理の中にその条項が与えられる。また自由の原理が一般的に与えられれば、企業家により大きな期待が許されると、企業家達は労働者階級の見通しを引き上げるような事を行なおうするようになるであろう。 彼らのより良い見通しは、誘因として働き、その結果、経済過程はより効率的になり、技術革新はより速い速度で進む、等々のことが生じる。私はこうした種類のことがどこまで真実であるかを考察するつもりはない。これらの不平等が格差原理によって正当化されるならば、この種のことが議論されなければならないというのが要点である。
 さて、この原理について、二、三のことを述べておこう。まず第一に、その適用に際しては、二つの場合を区別すべきである。第一の場合は、最も不利な立場にある人々の期待が実際に最大化されている場合である(もちろん、上で述べた拘束に従う)。暮らし向きのより良い人々の期待をどう変えても、最も暮らし向きの悪い人々の状況を改善することができない。私が完全に正義に適った図式と呼ぶ、最善の取り決めが得られる。第二の場合は、暮らし向きのより良い人々全ての期待が、少なくとも、より不運な人の福祉に寄与する場合である。 すなわち、もし、彼らの期待が引き下げられるならば、最も不利な立場にある人々の見通しも、同様に低下するであろう。だが、未だ最大には達していない。より有利な立場にある人の期待がより高い場合でさえ、最低の地位にある人々の期待を引き上げるであろう。そのような図式は、全体にわたって正義に適うが、私はそういうが、最善の正義に適う取り決めではない。彼らのうちの一人またはそれ以上の人のより高い期待が過大である場合にはその図式は正義にもとる。 これらの期待を引き下げるならば、最も恵まれない人々の状況は改善されるであろう。ある取り決めがどのくらい正義にもとるかは、より高い期待がどのくらい過大であるかに依存し、かかる期待が他の正義の諸原理を、たとえば機会の公正な均等をどの程度まで侵しているかに依存する。 しかし私は、不正義の程度を測定してみようとは思わない。ここで注意すべて点は、格差原理は、厳密に言えば、最大化原理であり、一方、最善の取り決めに達しない諸ケースの間には重大な差がある、ということである。社会は、暮らし向きの良い人々の限界的寄与が負である状況を避けるよう努めるべきである。というのは、他の事情にして等しければ、このことは、こうした寄与が正である時に最善の図式に達しないこと以上に、大きな欠点であるように思える。階級間の差があまりに大きいと、民主的平等だけでなく相互の有利化という原理まで侵されてしまう。 (「正義論」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『ロールズ』     チャンドラン・クカサス/フィリップ・ペティット 山田八千子・嶋津格訳 勁草書房    1996.10.14
『公正としての正義再説』 ジョン・ロールズ エリン・ケリー編 田中成明・亀本洋・平井亮輔訳 岩波書店    2004. 8.26
『ロールズ正義論再説』その問題と変遷の各論的考察                渡辺 幹雄 春秋社     2001.12.25 
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
( 2007年8月6日 TANAKA1942b )
▲top

(21)ノージックの最小国家という自由論 
自由を保証する国家権力を忘れている
<『正義論』と「死刑廃止」と「階級・階層社会意識」> ウィンストン・チャ−チルはこんなことを言っている。「デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」と。 この「デモクラシー(民主制度)」を「資本主義」または「市場経済」と言い替えることもできる。民主制度も資本主義も「最大多数の最大幸福」を目指している。この「最大多数」に異論を唱えたのがマルクスだった。 マルクスの主張は「プロレタリア階級の最大幸福」であった。ブルジョア階級でも中間階級でもなく、そして、多数か少数かは関係なかった。 社会主義が政治的にも経済的にも破綻した現在、それでも、階級・階層意識を持つ人は残っていて、今さら宗旨替えはできない。そうした人が新たな教典を求めていた。 そして見つけたのが『正義論』だった。ここでは「プロレタリア階級」ではなく、「最も弱者である人たちの階層」の「最大幸福」を主張する。 「最も弱者である人たちの階層」とはどういう階層か?その人たちの最大幸福とはどういうことか?という具合に議論が進むと、大きな問題点を見失うことになる。 階級とか階層で人を区別する社会観が問題なのだ。階級とか階層は流動的であり、民主制度や市場経済では本人の努力と運次第で上に行ったり、落ち込んだり、流動的であり、決して固定されているわけではない。 そして、社会全体の厚生という点から考え、計算すると、最大幸福を味わうのが多数なのか、少数なのかが問題になる。
  冤罪によって無実でありながら死刑を執行される、という危険は、死刑制度がある以上皆無にはできない。そうでありながら、「死刑制度は存続させるべきだ」と主張するのは、 死刑廃止のメリット、デメリットを天秤にかけて、どちらが社会全体としてメリットがあるか、を判断してのことだ。ここには、確率とか影響を受ける人の数など、数字の感覚が必要になる。
  こうした点で、死刑廃止論とマルクス主義、『正義論』とが、同じ様な発想で、「民主制度」や「資本主義」とは違っていると感じる。死刑廃止論者・マルクス主義者・『正義論』信奉者が一方にいて、 対岸には「民主制度・資本主義・死刑存続を支持する人がいる。このように捉えると分かりやすいと思う。前回の「ジョン・ロールズの正義論と死刑廃止論」のポイントはそのようなことを言いたかったのだった。 そしてもう1つ、「未熟練労働者」とか「社会階級間」との言葉からは、マルクス時代の社会を見ているようだ。ガルブレイスの『ゆたかな社会』とは必ずしも同じではないが、現代はゆたかな社会なのだ。 『正義論』はマルクスの生きていた時代、ゆたかになる以前の社会を取り扱っていると感じた。
*                      *                      *
<『正義論』を切り、返す刀で『アナーキー・国家・ユートピア』を切る> 前回の『正義論』、やや煮え切らないところもあったけれど、それでも「死刑廃止論」との関係や「○○階級の最大幸福」といった観点からの切り込みは、経済学教育業界の教科書でも政治哲学業界の文献でも刑法の解説書でも見当たらない、 アマチュアエコノミストならでの隙間産業的発想だと思う。そのような発想で、今週はロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を扱う。
  ノージックが死刑制度について「死刑は廃止せよ」とか「死刑は存続させるべきだ」などと主張している訳ではないが、「自由を謳歌するには、自由を保証する権力が必要だ」ということを、ノージックも死刑廃止論者も、どちらも忘れているように思える。 このような、権力の必要性に気づかない立場は、経済の問題で言えば、「独占禁止法は企業の自由な活動を規制する、一種の社会主義的規制法律である」との主張になる。確かに独禁法は企業活動を規制する。しかし、もし規制されなければ「カルテル」「トラスト」「コンツェルン」「談合」など、企業間の自由な競争を阻害する危険性がある。自由な競争を保証するためには独禁法は必要になる。
  市場経済をゲームに例えると分かりやすい。スポーツのゲームで言えば、「競技場」と「ルール」が必要になる。市場経済では、「市場」という「競技場」と取引に伴うルールが必ずある。「市場原理主義」という言葉を使って、市場経済ではルールがないかのように言う人もいるが、市場経済ではルールがあって、このルールに違反すると厳しく罰せられる。 これは、人を殺すという重大な犯罪を犯すと、死刑という厳しい罰が科せられる、という刑法に似ている。
  死刑制度について考えると、「人を殺すのは悪いことである」との主張に反対はできない。けれども「人を殺すのは悪いことである」とルールを守らすには、それなりの権力が必要になる。「人を殺すのは悪いことである」と叫んでいれば、人殺しが起きない、との考えは「言霊」信者の言うことであって、国家のルールには採用できない。 そうは言っても、言霊は生きている。「憲法9条があるから、日本は戦争に巻き込まれなかった」と言霊信者は主張する。この言霊信者は日本だけではなかった。 「人を殺すのは悪いことである」とのルールを厳しく守らそうとすると、「国家が人を殺すのは良くない」と反対する。これは「人を殺すのは悪いことである」と叫んでいれば殺人事件が起きない、と考えているように思われる。 そうした発想と、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の発想が似ていると思い、ここに取り上げることにした。 どこが似ているかと言えば、『アナーキー・国家・ユートピア』では、最小国家同士のルールを守らすシステムが想定されていない。実際は最小国家を厳しく監視し、ルール違反を見張る機関が必要なのに、それが考えられていない。 「皆でルールを守りましょう」と言っていればルールが守られるかのように思えてしまう。こうしたことで、今週はロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を扱うことにした。
<ノージックの最小国家論> ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は以前に<民主制度の限界>で書いた。 
  ここでは『アナーキー・国家・ユートピア』の「序」から一部引用しよう。
 諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行い得ないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること──が仮にあるとすれば、それ──は何か、という問題を提起する。個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当性(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。
 国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。 最小国家は、正当であると同時に魅力的である。ここには、注目されてしかるべき2つの主張が含意されている。即ち、国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置をしようすることができない。
  除外されるのはこれらの[弱者救済と後見的介入という]目標に向かう強制的ルートだけであって、自発的なルートは残されている。 それでも多くに人々は、他者の必要と苦難に対してこれほど冷淡な立場を信奉したくないと考えて、本書の諸結論を即座に否定するだろう。 私はこの反応をよく知っている。ここで述べたような見解を検討し始めた時の私自身の反応が、まさにそれであったのだから。様々な論議と考察によって、私は嫌々ながら、自由尊重主義的(libertarian)──と今呼ばれていることが多い── 見解を支持するようになっていったのである。本書には、以前私のもっていた抵抗感はほとんど名残を留めていない。逆に本書では、(私が立場を変える原因となった)議論と考察の大城が論じられている。 私はそれらを、力の及ぶ限り強力に呈示したのである。これによって私は、二重に誤る危険を犯している。つまり、この(自由尊重主義の)立場を展開していること(自体)と、この立場を支持すべき理由を私が提供していることとである。 (『アナーキー・国家・ユートピア』から)
  ここで問題にするのは、最小国家が誰でも自由に設立できることだ。<民主制度の限界>では、<怖いお兄さんたちの最小国家>として書いた。それは次のような文章だった。
<怖いお兄さんたちの最小国家> ノージックは「〇〇にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」と言う。それならば、〇〇が次の人たちだったらどうだ?指定暴力団山〇組、アル・カポネ、ヒトラー、麻原彰晃、ジョン・ロールズ、市民運動家たち。つまりこの人たち及びそのシンパが最小国家を作ったらどうなるか?だ。   怖いお兄さんたちの作る最小国家では、例えばカジノを組の独占事業とする。大麻・マリファナなどの薬物の販売許可を組に独占的に与える。他の最小国家とは犯人引き渡し条約を結ばない。 他の最小国家から観光名義の客が来訪し、組は莫大な利益をあげる。経常収支は常に黒字。経常収支はカジノと薬物で稼ぐので、自国通貨が高くなっても輸入品が安くなるだけ、経済的には何も困ることはない。国民(=組員)は近隣の最小国家へ出向き荒仕事をして、警察に目を付けられてヤバくなると、自国へ逃げ込む。犯人引き渡し条約を結んでいないので、自国から出なければ逮捕される心配はない。
  こうした場合周辺国家は圧力をかけないのだろうか?自由貿易に徹していれば効果はあるが、保護貿易、自給自足を目指していると効果はない。かと言って軍事的圧力はかけられない。どの最小国家も他国に圧力をかけられるほどの軍事力を持たないし、組員は即ち軍人になり、ここは最強の軍事大国になるからだ。 経済的圧力に関して言えば、江戸時代、田沼の時代、浅間山の噴火による飢饉が思い起こされる。1783(天明3)年7月8日、浅間山は大噴火を起こした。噴煙が空を覆い、東北地方は冷害になり、コメ不足を起こした。各地で餓死者が出た。しかし松平定信藩主の白河藩だけは例外で死者は出なかった。藩主松平定信が諸藩から前もってコメを買い占めていたからだ。幕府の実力者田沼意次は各藩にコメの買い占めをしないように伝えたが、強制力はなかった。 小判があってもコメがなく飢え死にする者さえ出た、と言われている。こうした場合、周辺諸藩は白河藩に圧力をかけることは出来なかったのだろうか?軍事的には不可能。幕府が許さないし、農民も反対する。現代でも、アフガニスタン、イラクへのアメリカの軍事行動には大きな反対運動が起きる。ミャンマーへの経済的圧力には批判は出ない。周辺諸藩が白河藩に圧力をかけられるとしたら、出津・入津(輸出入)が多くなければならない。 コメ以外に綿、魚、野菜などの交易が盛んで、各藩が経済的に頼り合っていれば経済制裁も効果がある。しかし当時はそれほど各藩の経済は頼り合ってはいなかった。この飢饉を「人災」と言う人もいる。それは「当時から市場経済だったからだ」との主張がある。それは経済を知らない人の考えで、事実は逆。松平定信が買い占めをやっても、自由な市場が整っていれば(ヤミ市場でもいい)、必要な所=高く買ってくれる所へコメは行く。そして周辺諸藩の経済的圧力も効果が期待できた。
  組員の中に経済学に興味を持つ人間が出てくると、こうした仕組みが分かってきて、周辺最小国家から経済的圧力をかけられないような貿易体制を取る。つまり生活必需品の自給率を高くすることだ。こうすればモンロー主義も押し通せる。周辺最小国家がどうなろうと、組員には影響がない。 食糧自給率が高いことで、この国へに信頼は高い。日本では「食糧自給率を上げよう」と叫べば誰も反対はしない。こうして組員中心の最小国家は繁栄していく。最も成功した最小国家として世間の注目を浴びることになる。
<怖いお兄さんたちが『正義論』国家へ荒仕事しに行く>   TANAKAが『アナーキー・国家・ユートピア』ご批判するのは、ここでは、人類すべてが「善人」であるかのように仮定されている、という点についてだ。 これは『正義論』についても言えることだが、このことによって「両書ともに非現実的な空想論である」とTANAKAは決め付けることになる。 ジョナサン・ウルフが『ノージック』で書いている。
  「しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。 自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」
  ということは、ここに悪人は存在しないことを前提としている。トマス・モアの『ユートピア』以上に非現実的な社会を描いている。
 政治的・経済的個人の自由を保証するということは、国家という場、競技場とそこでのルールが必要であり、そのルールを守らせる権力が必要になる。『アナーキー・国家・ユートピア』ではその権力の必要性の説明が欠けている。 「経済的自由を保証するためには、独禁法という規制は排除すべきだ」との主張に似ている。
  こうしたことを政治哲学という空想政治学とは違った分野で扱っているのがゲームの理論だ。平和的なハトばかりの社会に、戦闘的なタカが侵入したらどうなるか?をテーマに扱っている。
  怖いお兄さんたちが最小国家を作って、そこがイヤなら他の最小国家に移ればいい。と言うのは個人レベルでの話。しかし、怖いお兄さんたちの最小国家があると、他の最小国家が危険にさらされる。 怖いお兄さんたちの最小国家や、正義論国家など、多くの最小国家間の紛争を調整する機関・権力が必要になる。そうした権力や規制を排除するのが自由だ、と主張するのは、すべての最小国家がハトばかりだと思い込んでいるからだ。
  死刑廃止論者の考えも、「たまたまタカになってしまった犯罪者も、人間本来は平和的なハトなのであって、ハトとしての人権を尊重すべきだ」ということになる。
  ここに『アナーキー・国家・ユートピア』と死刑廃止論者との共通点、現実を見ない甘さを感じる。
*                      *                      *
<最小国家論と保護協会>   『アナーキー・国家・ユートピア』では「保護協会」といいう表現で、警察力に相当する機関を説明している。自主的に設立される民間の組織であり、いくつも似た組織ができることになる。 幾つかの弱点を持ちながらも、それでもノージックが説明しているのだから、ここで取り上げることにした。
  自然状態においては、一個人は自分で、諸権利を実行し、自己を防衛し、賠償を取り立てて、処罰を行う(少なくとも、そうするために最善の努力を払う)こともある。彼の要請に応えて他の人々が彼の防衛に加わることもある。 これらの人々が彼とともに攻撃者を撃退したり侵略者を追いかけたりするのは、彼らが公共精神を持つゆえであったり、彼の友人であるためであったり、過去に彼がこの人たちに助力したためであったり、彼らが将来彼から助力を受けたいと望んでいるためであったり、何か物をもらっている場合であったりするであろう。 複数の個人によって構成される様々なグループが、いくつもの相互保護協会を形成することになろう。そこでは、誰であれ防衛や権利実行の要請があれば、全員がこれに応じるのである。同盟には力がある。しかしこのような単純な相互保護協会には、2つの不都合が伴っている。
  (1)すべての者が要請があり次第保護機能を果たすべく常に待機していること(また、全員の奉仕を必要としないような保護機能が要請されている場合、これに応じる者をどのようにして決定するか)。
  (2)自分の権利が侵害されつつあるとか侵害されたと言えば、メンバーの誰でも協会員たちを呼び求めることができる。保護協会は、自己防衛を装って他人の権利を侵害することに協会を利用するようなメンバーについては言うまでもなく、喧嘩好きのメンバーや偏執狂のメンバーに顎で使われ要求に振り回されたいとは考えないであろう。 同一の協会内の2人の異なったメンバーが訴訟を始め、各々が仲間のメンバーたちに対し自分の援助に来るよう招請する場合にもまた困難が生じる。
  協会内のメンバー間での争いに対しては、不干渉政策で対処しようとする相互保護協会があるかもしれない。しかしこの政策は、協会内部の不和を醸成し、場合によっては、互いに闘争し合う内部グループの掲載へと導き、そうして協会の内部分裂の原因となろう。 この政策はまた潜在的侵害者たちに対して、{侵害に対する協会の}報復や防衛行為から免れるために、できるだけ多くの相互保護協会に参加するよう奨励することになるから、協会の最初の参加者審査手続の適切性如何が重大となり、負担となろう。 こうして様々な保護協会は(人々がそれに参加し、存続するようなものはほとんどすべて)不干渉政策に従わないであろう。つまりこれらの協会は、他のメンバーに権利を侵されたと主張するメンバーがいる場合にどう行動すべきかを決定する、何らかの手続をもつぃことになろう。 多くの恣意的な手続を想像しうる(たとえば、最初に不平を訴える方のメンバーの側に立って行動せよ)。しかし、人々のほとんどは、何らかの手続に従っていずれの主張が正しいのかを発見するような協会に参加したいと考えるであろう。 これは、各委員の争いにそれの正・不正にかかわりなく、常にコストのかかる介入を行うということを回避するためだけにも必要である。各人がその時に行っている活動、性向、相対的適性の如何を問わず全員が招請に備えることの不都合は、普通のやり方では、分業と交換によって解決しうる。 保護業務をお子pなうために雇われる者が現れ、そして保護サービスを売る仕事を始める企業家たちが出てくるだろう。より広範囲の念入りな保護を希望する人々のために、別の種類の保護方針が、それぞれ別の価格で提供されるであろう。
  ある人は、犯罪人の捜索・逮捕・司法的決定や賠償の取り立てなどすべての役割を私的保護機関に移転してしまうには至らない、より個別的な約定または委任を行うかもしれない。自分の事件で裁定者になる場合の種々の危険を考慮して、彼は、自分が本当に不正を受けたのか、またどの程度の不正なのかに関して判断することを、他の中立のまたは比較的利害関係をもたない者に委ねるかもしれない。 正義が行われているように見えるという社会的効果が生じるためには、この{裁定}者は、一般的な尊敬を受け、中立で高潔であると考えられていなければならない。 それゆえ紛争の両当事者は、自分が手前勝手に見えることに対する防衛策を講じようとするだろう。そして双方が同じ人を裁定者として、彼の判断に従うことに同意する場合すらありうるだろう。(その判断に満足できない当事者が上訴するための特別の手続があってもよい)いずれにせよ、いくつかの明白な理由から、上述の諸機能が同一の人または機関に収斂する強い傾向が存在するであろう。 (『アナーキー・国家・ユートピア』から)
*                      *                      *
<ハイエクの「自生的秩序」>  徹底的に自由を尊ぶ立場として『アナーキー・国家・ユートピア』を取り上げたのだが、こうした立場ならハイエクを忘れたならない。 ここでは、ハイエクの「自生的秩序」を引用し、「自由」ということ、その概念について考えて見ようと思う。まずは嶋津格著の『自生的秩序』から。
  ハイエクの広範な分野にわたる思索を貫いて、そのすべてを1つのまとまった哲学にしている基本的概念を1つだけ挙げるとすれば、それは「自生的秩序」(spontaneous order) の概念であろう。 各要素が整合的に関連づけられて1つの理論を構成している場合に、どれか1つの構成要素をその帰結をも含めてよく理解しようとすれば、理論全体の枠組みの把握が必要となる。 それ故、ハイエクの理論の中の1要素を取り出す場合、理論の基本的な部分を構成する要素でさえあれば、どれを取り出そうがいずれは理論全体に行き着くという点で、取り出し方の選択はある程度任意であるとともに、ここで取り出した「自生的秩序」の概念も、その意味、適用範囲及び適用した場合の理論上の帰結が十分に理解されるのは、結局ハイエクの理論全体が示された後であるという点で、ここでの論及はごく暫定的なものに留まる。
  「自生的秩序」はまず、「人間の行動の結果であるが、人間の企画の結果ではない」ものとしての、社会的諸制度及び「社会」そのものについて問題とされる。「人間の行動の意図されざる諸帰結」というフレーズから現在のわれわれが想像するものは、一般に何か悪いもの、回避すべきもの、少なくとも意図されたものによってできればとって代わられるべきものである場合が多い。 しかし、D・ヒュームからA・スミスに至る18世紀のイギリス道徳哲学がみごとに示したとおり、人間が自覚的、目的的に作り出したものではないのに、結果的に高度に(生物の各器官そうであるというのと同じ意味で)「合目的的」であり今や人間の社会生活に不可欠ともいえる制度(たとえば「至上経済」)が現に存在する。これは、人間から独立しているという意味での「自然」に属する現象ではないにも拘わらず、人間の意図または企画によるという意味での「人為」でもない。 それ故、このような諸制度は、「自然」と「人為」の中間に、どちらにも属さない第3のカテゴリーに属するものとして独立に把握される必要がある。 そして、これらがどのようにして成立し機能するかを説明することが、まさに理論的社会科学の中心的課題となるのである。
  誰かの計画によらなくともある意味で目的にかなった制度が自生的に成立することを示す、18世紀の社会と経済の理論の枠組みは、19世紀にC・ダーウィンによって、生物の種の生成の説明に利用されて大成功を収める。 つまり「自生的秩序」の概念は、現在の生物学にとって、進化による新しい種の成立の説明として、もっとも馴染み深い概念である。 そしてこの進化の連鎖は、人類の発生及び「理性」の成立にまで当然つながるのである。
  自生的秩序の最もよい例の1つは言語である。それ故、言語の成立と発展を論じた言語学者たちのある者は、「ダーウィン以前のダーウィン主義者」と呼ばれる。 ハイエクの「法」の概念の重要な側面は「言語の文法」よのアナロジーで考えると理解し易いように思われる。ハイエクも多くの著作で、自生的秩序の例に言語を持ち出している。 つまり、言語は1つのルールの体系であるが、このルールは、誰かに命令されて話し手が服従しているようなものではない。それどころか、自国語を話す場合、このルールはほとんど意識されないし、自由に正確な言葉を使っていながら、自分の従っているルールを述べることができな人がほとんどである。 文法学者はこのルールを述べる専門家であるが、彼は決してこのルールを定立するわけではなく、それを発見し定型化するのみである。 のそ場合でも彼は」すべてのルールを定型化できるわけではなく、人が実際に使っているルールがいかに複雑化は、例えば自動翻訳機械がまだかなり素朴なものに留まっていることからも明らかである。 それにも拘わらず、文法学者の述べる比較的単純な文法であっても、文章の文法上の誤りを発見するためにはある限度でほとんど常に有効である。 言語を使う人々の目的は、場合に応じ千差万別であるが、それにも拘わらず、個々人が同じルールに事実上従っているからこそ言葉が通じ、個々人の多種多様な目的が達成されるのである。 文章形成のルールに従うことは、具体的に発話する文章の内容を自由に操作することと矛盾しないばかりか、文法的ルールに従うことを覚えることは、自由な言語使用の不可欠に条件である。
  このように述べたことは言語に関する限り、ごく常識的な見方だと思われるが、逐一法についての言明にしてみると、例えば法実証主義的見解をとる論者などから多くの異論が出そうに思われる。 いずれにせよ、法(及び自由)について前述のように考えるのがハイエクの基本的立場である。 (『自生的秩序』から)
<竹内靖雄著『経済思想の巨人たち』から「自生的秩序とは何か」>   「自生的秩序」を真っ正面から説明するとなると結構難しい。ここでもう1人に登場してもらうことにする。 竹内靖雄著『経済思想の巨人たち』からハイエクについて書いてある部分だ。   ハイエクの思想のキーワードである「自生的秩序」(spontaneous order)であるが、その具体的な内容はどのようなのもだろうか。
  ヨーロッパの伝統的な考え方の中には「自然法」とか「自然的秩序」といった概念がある。それはアリストテレスの段階では、人間を含む動物すべてに共通の法則を指していたが、ローマ法を経てそれが万人共通、国際共通のルールと解釈され、さらに中世のキリスト教の下では、神が人間に与えた理性に対応する法と考えられるようになった。 いずれにしても、人為的に定められた法(実定法)ではなく、人間の理性の産物(あるいは神からの贈り物)として存在するルールが「自然法」であり、それは同時に人間の「自然権」の根拠にもなる。 この「自然法」にもとすいて実現する秩序が「自然的秩序」であるが、実はフランソワ・ケネーやアダム・スミスにもこの「自然法」、「自然の秩序」といった考え方が残っている。 しかし神や理性ということを抜きにして考えてみると、ここで「自然」といわれているのは、「自然界」や「自然環境」の自然とは関係のないものである。 そしてそれは人間の行動の結果として、人間の意図とは無関係に、という意味で「自然に」できあがってきたルールや秩序を指すものであることがわかる(日本語では「おのずから」、「ひとりでに」という表現が使われる)。
  このような自然に形成された秩序をハイエクは「自生的秩序」と呼ぶ。市場という秩序がその典型的なものである。そして市場での行動を律するルールも、もともと「自生的に」成立したもぼにほかならない。 そのルールの根底にあるのは「交換の正義」であり、それが市場で行われるゲームの基本原則である。それはまさに自生的の確立したもので、誰かが定めたものではないが、商法をはじめとする多くの実定法はこの「交換の正義」の上に築かれている。
 アダム・スミスもハイエクも、この市場という自生的秩序が(神や理性との関係はともかく)人間にとって不都合のないものであり、各人が市場で自分の判断にもとづいて自由に公ふぉうする状態に任せておけば悪い結果は出てこない、という立場をとっている。
  人間の自由な行動から「自然に」形成される秩序を肯定するスミスやハイエクの立場は、よく考えてみると、「神」というフィクションも「神が人間に与えた理性」というフィクションも不要の立場であって、そこでは神も最終的に「消却」されていることを意味する。 「人間が生まれながらにもっている理性」という近世以降の考え方も、実は中世以来のフィクションの焼き直しにすぎず、それは「人間は神に等しい」というフィクションなのである。
  ハイエクが強力に拒否するのはこうした「理性」のフィクションであると見ることができる。つまり、プラトン的賢人支配から、政府の計画、政府の「見える手」による介入、ケインズのようなエリートないしは「賢人」による経済のマクロ的コントロールにいたるまで、合理的な知識によって経済や社会を紺とr−るすることができるという仮定、これらは国家を理性そのもののように思いこむフィクションにほかならない。
  ハイエクがもっとも力を入れて反対してきたのはこのような「迷信」であり、ケインズも社会主義者も、ハイエクによれば、この「迷信」の代表的な信徒だったということになる。
 ところで、自生的に確立した原則や慣習的なルールだけで今日の市場のゲームがうまく行われるだろうか。理性の力で最適なルールを制定することができるかのように考えるのはハイエクの立場ではない。 その点ではハイエクは正しいが、しかし、必要なら何らかのルールを制定し、試行錯誤を通じて改正していくほかないであろう。できの悪い民主主義という方法によってでもそうしないわけにはいかない。 長い目で見ればそのような試行錯誤の過程もまた、何らかの秩序が「自然に」形成されていく過程ではないか。
  たとえば、関係者が談合して利益を分配したり、価格を吊り上げたりする監修は、それこそ「自然に」できあがってきた秩序で、それなりの合理性をもっているかも知れないが、これを「良くない」慣習と見て別のルールで置き換えることは、「自然に」任せておいたのではできない。 談合も接待も天下りも自然に確立した日本的慣習であり、伝統であり、文化であるから守らなければならない、という立場をとる人は保守主義者である。 ハイエクは保守主義者ではなく、このようなケースでは、ラディカルな伝統破壊者となる。
  なぜか。談合のような日本的秩序になぜ反対しなければならないのか。これを理解することはかなりの難度の経済倫理学の「演習問題」となる。 答えはこうである。談合は、関係者同士の利益のやり取りや分配をうまく行う工夫であるが、外部の一般の人々に不利益を与え(たとえば公共事業の高い入札価格は納税者に損失を与える)、自由な競争という市場のゲームの基本原則を破壊することになる。 それは日本の文化であるかも知れないが、文化には手をつけず、つねに与件として尊重しなければならない、というのが保守主義だとすれば、それはただの思考停止症候群にすぎない。
  一見合理的で、関係者に利益をもたらすこうした「自生的秩序」や伝統を排除するためには、それを禁止し、罰則を用意した人為的なルールが必要となる。 ハイエクもおそらくこのことは賛成するであろう。 (『経済思想の巨人たち』から)
*                      *                      *
<「自生的秩序」「治癒力」「盲目の時計職人」それに対する「設計主義」>   自然界の動植物の生態系は「自生的秩序」によってその体系が保たれている。しかし、その一部が大きく変化すると、全体のバランスが崩れて思いもよらぬ所でその影響が拡大されて人の眼に触れることがある。 たとえばある地域で、ある動物の生息数が大きく減少すると、その動物をエサにしていた動物が減少したり、逆にその動物のエサにされていた小動物が異常繁殖したりする。 これを、経済の分野で見るならば、ある経済現象の変化が思いもよらないところに現れる、ということだ。最近のことで言うと、バイオエタノールの原料としてアメリカのトウモロコシやブラジルのサトウキビの価格が上昇している。この影響で農作物全般に価格上昇の傾向が見られる。 この影響が日本では食品会社キューピーのマヨネーズの小売価格10%アップという形で現れた。
  そしてこの農作物の価格上昇は今後もいろんな分野に影響を与えると思われる。こうした農作物の価格上昇について「農作物の価格上昇は発展途上国の人々から食物を奪うことになる。エタノールの普及を急ぐべきではない」「二酸化炭素排出権取引は食糧難に苦しんでいるひとには迷惑は制度だ」と批判する人が出てくる。 これは、一見弱者の立場に立った発言であるかのようにも思えるが、経済が「自生的秩序」で動いていると考えると、視野狭窄な発言と思えてくる。
  バイオエタノールはアメリカではトウモロコシから、ブラジルではサトウキビから、そしてタイではキャッサバから作られる。このキャッサバ、タピオカの原料として知られている。主な産出国はタイ、ブラジルだが、アフリカ諸国で多く生産されている。 農産物と言っても日本のコメ作りとは違って、キャッサバの茎を土にさし込んで置けば、その後面倒をみることもなく収穫することができる、きわめて簡単に栽培できるので、農業専門家の少ない地域でも栽培できる。 さて、農産物の価格上昇は、購入者にとってなイヤなことだが、生産者にとっては見逃せないチャンスだ。アフリカ諸国でキャッサバを栽培している人たちにとって、キャッサバの生産者価格の上昇はイヤなことではない。 価格の上昇・下落は生産者と消費者にとっては逆の意味になる。経済の1面だけを見て「価格上昇は良くない」と言うのは視野狭窄と言うべきだ。そして、それは経済が自生的秩序によって保たれていることに気づかないからだ。 そういう人は、「政府は対策をとるべきだ」と中央のコントロールセンターに大きな期待をかける。自生的秩序や治癒力には期待しない、設計主義者であることが多い。
  話があらぬ方向にさまよい歩きだしてしまった。話をもとに戻すと、『アナーキー・国家・ユートピア』の主張する自由は、放って置いて保証されるものではなく、それを保証するルールや、そのルールを守らす権力も必要になる、ということ。 言葉で主張すればそれで自由が保証されるとの考えは言霊信仰者の言うことだ、ということ。
  自生的秩序とは生物学・進化論を知ると、そのイメージがクッキリと見えてくる。視野狭窄では理解できない。 自家不和合性に陥ると見えなくなる。頭の中での「交雑育種法」を活用し、一代雑種や突然変異を起こす必要がある、ということだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『自生的秩序』                                   嶋津格 木鐸社     1985.11.30
『経済思想の巨人たち』                              竹内靖雄 新潮社     1997. 2.25
( 2007年8月13日TANAKA1942b )
▲top

(22)本当に人1人の命は地球より重いのか? 
遺伝子は、自身の繁栄を優先する
 TANAKAはホームページのいろんな場合に「気配り半径の狭さ」とか「視野狭窄」という言葉を使ってきた。1つの問題を解き明かそうとする場合、右から左から、前から後ろから、いろんな方面から、いろんな分野の知識を動員して考えてみよう、との姿勢を貫いてきた。 「考え方のグローバリゼーション」とも言うべき姿勢だ。農業界や経済学教育業界などについて、「視野狭窄」と批判してきた。死刑問題に関しても、廃止論者の主張を読むと「視野狭窄」を感じる。 他分野の知識が直接問題の解決に結びつかなくても、考えるヒントになる場合は多い。ここで扱う「利己的な遺伝子」は必ずしも直接答えを提供するわけではないが、考えるヒントは与えてくれると思う。 ここでの考え方は、進化論的な考え方をすれば「遺伝子DNAには、個体の命よりも遺伝子自身の繁栄が優先するように情報が組み込まれている」ということになる。「人1人の命は地球より重い」とは違った見方だ。 「だから死刑制度は………」とまで話を進めるつもりはないが、考えるヒントにはなると思う。
*                      *                      *
<利己的な遺伝子=THE SELFISH GENE という概念> 今週扱う問題では、「利己的な遺伝子」という言葉がキーワードになる。この言葉はチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』から広く使われるようになったもので、 「遺伝子は、個が生き延びることよりも、遺伝子自身が繁栄することを目指している」というのがポイントになる。
 これを人間社会に当てはめてみると「ヒトの遺伝子には、個(個人)を犠牲にしてでも、遺伝子自身(種・人類)の繁栄を優先するようにメッセージが組み込まれている」となる。
 死刑問題を扱うとき必ず扱う言葉に「ヒト人の命は地球より重い」がある。ところが、「利己的な遺伝子」の考え方では、違ってくる。また、今週扱うものでは、 「自然界に利他主義はあり得ない」とか「自然界に<福祉主義>はない」といったようなこともポイントの1つになる。
  そこで初めはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』から引用し、法曹界とは違った世界の話を始めることにしよう。
*                      *                      *
 まずは、本のタイトルについての多少の再考から始めることにしよう。1975年に、友人であるデズモンド・モリスの仲介で、ロンドンの出版界の長老であるトム・マシュラーに未完製本を見せ、ジョナサン・ケープ社の彼の部屋で議論をした。 彼は、その本を気に入ったが、タイトルは気に入らなかった。「利己的」というのは「鬱陶しい言葉(ダウン)」だと彼は言った。なぜ『不滅(インモータル)の遺伝子』としないのだ。 不滅は「明るい(アップ)言葉」で、遺伝子情報の不滅性はこの本の中心的主題だったし、「不滅の遺伝子」は「利己的な遺伝子」とほとんど同じほど、好奇心を掻きたてる響きがあった(われわれのどちらも、オスカーワイルドの『わがままな大男(The Selfish Giant)』との共鳴には気づいていなかったと思う)。 今となっては、マシュラーが正しかったかもしれないと思う。多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、本をタイトルだけで読みたがるということを私は知ったからだ。 このことは、『ベンジャミン・バニーのおはなし』(ピーター・ラビット・シリーズの1冊)や『ローマ帝国衰亡史』のもまったく同じようにあてはまるのは疑いが、本そのものという厖大な脚注がなければ『利己的な遺伝子』というタイトルは、その内容について不適切な印象を与えかねないことを、私は容易に理解できた。 現在の、米国の出版社なら、少なくとも副題をつけることを強く主張していたことだろう。
 このタイトルを説明する最善の方法は、力点の置き方を変えることである。「利己的」に力点を置けば、本書は利己性についての本だと思われるだろう。 ところが、本書はどちらかといえば、利他行動により大きな関心を振り向けているのである。このタイトルで強調すべき正しいことばは「遺伝子」なのであり、その理由を説明することにしよう。 ダーウィニズム内の中心的な論争は、実際に淘汰される単位に関するこのである。すなわち、自然淘汰の結果として生き残ったり、あるいは生き残らなかったりするのは、どういう種類の実体なのかという論争である。 その単位は、その定義からして、多少とも「利己的」になるのである。利他主義はそれとは別のレベルでも十分に進化しうるだろう。自然淘汰の選択は種のあいだでなされるのだろうか。 もしそうなら、生物のそれぞれの個体が「種の利益のために」利他的にふるまうと予想しなければならないだろう。各個体は、個体数の過剰を避けるために、自らの出産率を制限したり、あるいは、その種にとっての将来の獲物の貯えを保護するために、自らの狩猟行動を制限したりするのではないか。 この本を書くようにもともと私を掻きたてたのは、そういった広く流布しているダーウィニズムについての誤解であった。 (『利己的な遺伝子』から)
 (T注)リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』について<サイエンス・フィクションのような『利己的な遺伝子』>という表現もしている。
 今日進化論は、地球が太陽のまわりをまわっているという説と同じくらい疑いないものであるが、ダーウィン革命の意味するものすべてが、さらに広く理解されねばならない。 動物学は大学ではいまだ少数派の研究分野であるし、動物学を選ぶ人でさえ、その深い哲学的意味を評価した上でそう決心するのではない場合が多い。 哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育が行われている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 どのみち、この本の意図は、ダーウィニズムの一般的な擁護にあるのではない。そうではなくて、ある論点について進化論の重要性を追求することにある。 私の目的は、利己主義(Sekfishness)と利他主義(altruism)の生物学を研究することである。 (『利己的な遺伝子』から)
 そこでまず私は、この本が何でないかを主張しておきたい。私は進化にもとづいた道徳を主張しようというのではない。 私は単に、ものごとがどう進化してきたかを述べるだけだ。私は、われわれ人間が道徳的にはいかに振る舞うべきかを述べようというのではない。 私がこれを強調するのは、どうあるべきかという主張と、どうであるという言明とを区別できない人々、しかも非常に多くの人々の誤解を受ける恐れがあるからである。 私自身の感じでは、単に、つねに非情な利己主義という遺伝子の法にもとづいた人間社会というものは、生きていくうえでたいへん嫌な社会であるに違いない。 しかし残念ながら、われわれがあることをどれほど嘆こうと、それが真実であることに変わりはない。この本は主として、おもしろく読めることをねらったが、この本から道徳を引き出そうとする人々は、これを警告として読んでほしい。 もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうようは社会を築きたいと考えるのであれば、生物物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう。 われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みようではないか。われわれは自身の利己的な遺伝子が何をしようとしているかを理解しようではないか。そうすれば、少なくともわれわれは、遺伝子の意図を覆すチャンスを、すなわち他の種が決して望んだことのないものを掴めるかもしれないのだから。 (『利己的な遺伝子』から)
 恐らく群淘汰説が非常にうけたのは、1つにはそれが、われわれの大部分がもっている倫理的理想や政治的理想と調和しているからであろう。 われわれは個人としてはしばしば利己的に振る舞うが、理想上は他人の幸福を第一にする人々を称賛する。しかし、われわれが「個人」ということばをどこまで広く会社しようとするかについては、多少混乱がある。 集団内の利他主義は、集団間の利己主義を伴うことが多い。これが労働組合主義の基本原理である。別のレベルでは、国家は利他的自己犠牲の主要な受益者であり、若者たちは自国全体の栄光をさらに高めるために個人の命を捧げるよう期待される。 そのうえ彼らは、他国の人間だということ以外に、まったく知らない他人を殺すことを奨励される(不思議なことに、個人個人に対して、自分たちの生活水準を向上させる速度を少し犠牲にせよという平和時の呼びかけは、個人に自分の生命を捨てよという戦時の呼びかけほど効果的ではないようである)。
 最近、民族主義や愛国心に反対して、仲間意識の対象を人間の種全体に置き替えようとする傾向が出てきた。利他主義の対象のこの人道主義的な拡大は興味深い帰結を生む。 つまり、それはやはり進化における「種の利益」論を支持しているように見えるのである。政治的に自由主義的な人々は、普通は種の倫理をもっとも強く信じている人であり、したがって今や彼らは、利他主義の枠をさらに広げて他種をも含めようとする人々に対して、もっとも強い軽蔑の念を抱いていることが多い。 もし私が、人々の住宅事情を改善することにより、大型クジラ類の殺戮を防ぐことの方に関心があるといったとしたら、一部の友人はショックを受けるであろう。
 自種のメンバーが他種のメンバーに比べて、倫理上特別な配慮を受けて然るべきだとする感覚は、古く根強い。戦争以外で人を殺すことは、通常の犯罪の中ではもっとも厳しく考えられている。 われわれの文化でこれより強く禁じられている唯一のことは、人を食べることである(たとえその人が死んでいても)。しかしわれわれは他種のメンバーを喜んで食べる。 われわれの多くは極悪犯人に対してですら死刑の執行を尻込みするが、一方、たいした害獣でもない動物を裁判にもかけずに喜々として撃ち殺す。 それどころか、われわれは多くの濡外な動物をレクリエーションや遊びのために殺している。アメーバほどにも人間的感情をもたない人間の胎児は、おとなのチンパンジーの場合を遙かにこえた敬意と法的保護を受けている。 だが、最近の実験的証拠によれば、チンパンジーは豊かな感情をもち、ものを考え、ある種の人間の言葉を覚えることすらできる。胎児はわれわれの種に属するゆえに、即もろもろの権利・特権を与えられるのである。 リチャード・ライダーのいう「種主義」の倫理が、「人種主義」の倫理よりいくらかでも確実な倫理的立場に立てるのかどうか、私にはわからない。 私にわかるのは、それには進化生物学的に厳密な根拠がないということである。
 どのレベルでの利他主義が望ましいのか──家族か、国家か、人種か、種か、それとも全生物か──という問題についての人間の倫理における混乱は、どのレベルでの利他主義が進化論的にみて妥当なのかという問題についての生物学における同様な混乱を反映している。 群淘汰主義者ですら、敵対集団のメンバーどうしが互いに忌み嫌いあっているのをみても、驚きはしないに違いない。つまり彼らは、労働組合主義者や兵士と同じく、限られた資源をめぐる争いでは自分の集団に味方しているということだ。 (『利己的な遺伝子』から)
*                      *                      *
<利他主義は存在するか> 利他主義は人間以外の動物に存在するであろうか。ハリー・パワーはヤマルリコマドリを使って簡単な実験でこの問題を解明している。 これは多くの種の鳥について当てはまることであるが、つがいの一方が(捕食されたりして)いなくいなると、まわりの独身の鳥の中から新しい相手が選ばれてただちに空きを埋めるのが普通である。 もしもヒナがいる時にこの交替が行われたとすれば、新しいパートナーは自分の子でないヒナの面倒を見るだろうか。(ここでは、「つがいの一方」(mate)よりもパートナー(consort)ろいう言葉を使わなければならない。 というのは、鳥には幼い子がいる間は性的なつがいをつくらないような心理的プログラムが内蔵されているからである)パワーはつがいのオスかメスを取り去ってこのようなパートナーのペアを10組つくった。
 普通、オスの親鳥はヒナに餌を与え、巣を掃除し、巣に危険が迫ったと思われると警報を発して鳴く。ところが観察したオスの新しいパートナー8羽のうち、1羽として自分の子でないヒナに対してこの種の行動をとったものはいなかった。 2羽のメスのパートナーについては、1羽がヒナの世話をしたが、ただしそれは5日間も放っておいた後でのことであった。パワーの議論によれば、この唯一の例外は、正真正銘の利他主義のケースというよりも、生殖上の過誤と考える方がもっともらしい、ということになる。
 動物の継父母についての知識はいずれも同じパターンを示しているという事実がなければ、この実例は数も少ないし、忘れられてしまうところであろう。 メスを奪うオスのライオンは、自分が打ち負かした「前夫」の子を殺してしまう。ハヌマンラングーンのオスも同じ行動をとる。ハツカネズミではブルース効果というものがあって、同じ結果がもっと非暴力的な形で現れる。 つまり新しいオスの匂いを嗅いだだけで妊娠中のメスに流産が起こり、メスは新しいオスによる受胎が可能な状態になるのである。
 これらはすべて、厳密なダーウィニズムにもとづいて簡単に説明することができる。ダーウィンの理論に対するもっとも重大な誤解は、自然淘汰は種にとってよい結果をもたらすよう作用する、と思いこむことである。 そうではないのである。自然淘汰は個体の生殖系列(germ kine)に利益をもたらすものであって、この過程は種にとって利益となるとは限らないのである。 (この重要な問題には第6章でもう1度触れることにする)種の観点からすれば、ブルース効果は生殖過程に不効率を持ち込むことに他ならない。 だが割り込んで来るオスのマウスのための生殖系列という点からすれば、ブルース効果は効果的である。それは種全体の子孫の数を減らすことによってそのオスの子孫の数を増やすことになる。 メスの立場から見たブルース効果の利益は、どうせ割り込んで来たオスに殺されるに決まっている(多分そうなるであろうが)子を産むために、月満ちるまで妊娠を続ける時間と努力の無駄が省かれる、という点にある。
 大人が子供一般──自分の子供に限らず──の生存を助ける行動は、利他的なものと見なすことができるであろう。だが、これは滅多にないことである。 自分の子供だけを助ける行動は、そもそもこれを利他主義と呼ぶなら「血縁利他主義」という特別の名前で呼ばなければならない。 この血縁利他主義の淘汰上の価値は容易に理解できる。 (『サバイバル・ストラテジー』から)
*                      *                      *
<自然界に「福祉主義」はない>上記ガレット・ハーディンと似た立場からもう一つ引用しよう。「自由主義」「平等主義」とは全く違った考え方だ。いろんな違った立場の考えが、交雑育種法によって新種の理論が生まれるといいのだが、政治哲学の分4ではその可能性は少ない。それよりも「自家不和合性」が心配だ。
 いわゆる進化とは、自然の失敗の結果である。つまり、病気や能力喪失、あるいは突然変異がもたらした欠陥を過剰に補償するという、自然の失敗の結果なのである。正常な発達をとげた有機体はその環境にうまく適応し、その子孫の全世代にわたって安定している。だからここには次のような2つの相異なる傾向が見られるのである──ひとつは、その環境との最適な関係を見出し、安定的な形態に到達する生物、いま一つは過剰補償の連続によって生き延びているにすぎない不安定な生物である。徐々に新しい種への転換をやってのけるのはこの後者の方である。 そこで思い切ってこういうこともできよう。進化は最適者生存のせいではない。むしろ自己および子孫における一連の過剰補償を通じて新しい形態をつくりあげるのは不安定な生物であり、一方適者は、すでに達成した形態を維持するように、自己を一層適者ならしめる緩慢な修正を行う。
 自然の中では病気の動物が生き残れるチャンスはほとんどない。病気の動物が、ただ自分が生き続けるだけでなく、その子孫にも伝えられるような新しい方法を見出すのはごく稀な場合にすぎない。治療法の進歩のおかげで病人は死ぬことから免れるが、またこれによって不釣り合いに多くの欠陥遺伝子が次代に伝えられる。こういうわけで、人間は他のいかなる動物よりも急速な進化上の変化を示したのである。この加速的な進化には、家畜やペットの場合も含まれる。というのは獣医学のおかげで、それがなければ不安定だったような形態が生命を維持するからである。(中略) (『マンチャイルド』から)
*                      *                      *
 博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買ってでる傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の非保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということには、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金を貰っているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。 労働者は、自分がその労働に対して得ている以上に社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だ、という感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという自体に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから一本脚で滑りつづけるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立て者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえる、という子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よ、とか過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示していると言えよう。 (『マンチャイルド』から)
*                      *                      *
<「遺伝子の川」という概念> 死刑問題とはかけ離れた「生物学」「進化論」「遺伝子」のことを扱うので、「利己的な遺伝子」についてゆっくりと話を進めることにしよう。 ここではリチャード・ドーキンスの『遺伝子の川』から引用し、こうした分野について頭を慣らして頂きましょう。
*                      *                      *
 どんな民族にも自らの祖先にまつわる叙事詩的な伝説があり、しばしばそういった伝説は宗教的礼賛という形をとるようになる。 人びとは祖先を敬い、崇拝さえする。生命を理解する鍵となるのは自分たちの実在の祖先であって、超自然的な神々でない以上、それも言わば当然なことであろう。 生まれるすべての生物のほとんどは、十分な発育をみないうちに死んでしまう。生き残って繁殖する少数のうち、なお子孫を1000世代の後まで生かせるものは、さらに少数である。 この少数のなかのごく少数者、祖先のエリートのみが将来の世代から祖先と呼ばれる視覚をもつ。祖先は希少な存在であり、子孫はありふれた存在なのである。
 生きとし生けるものすべて──あらゆる動物や植物、すべての細菌とすべての菌類、地上を這いまわるあらゆる生きもの、そして本書を読むすべての読者──は、祖先たちを振り返って、誇らしげにこう主張できるのである。 われわれの祖先に幼くして死んだものはなったくない。彼らはみな成熟し、そのどれもが少なくとも1回は異性の相手をみつけ、交尾に成功したのだ。 われわれの祖先は残らず、少なくとも1人の子供を世に送り出す前に、敵やウィルスに倒されたり、断崖で足を踏み外したりすることがなかった。 同時代に生きていたほかの多数の個体がこうした点で失敗したのに、われわれの祖先はただの1人もそのどれにもつまずくことがなかった、と。 このように申し立ては、まぎれもなく名作だが、そこからはもっといろんなことが引き出される。奇妙で思いがけないようなこと、解明に役立つこと、そして驚くべきことがどっさりと。
 すべての生物がすべての遺伝子を、祖先と同世代で失敗した者からではなく、子孫を残した祖先から受け継いでいる以上、あらゆる生物は成功する遺伝子をもつ傾向がある。 彼らは祖先になるのに必要なもの、つまり生き残って繁殖するのに必要なものをもっていることになる。だからこそ、生物が受け継ぐ遺伝子はおおむね、うまく設計された機械──まるで祖先になるために奮励努力していらかのごとく活発に働く身体──をつくりあげる性質をもっている。 だからこそ、鳥はあれほど上手に飛び、魚はいかにもすいすいと泳ぎ、猿は木登りがとても得意で、ウィルスは広がるのがうまいのだ。 われわれが人生を愛し、セックスを好み、子供を可愛がるのも、それゆえである。それはわれわれすべてがただ1人の例外もなく、成功した祖先からと途切れることなしに受け継がれてきたすべての遺伝子をもっているからに他ならない。 世界は祖先になるのに必要な資質をもった生物でいっぱいになる。一言でいうと、それがダーウィン主義なのである。もちろんダーウィンはもっとはるかに多くのことを言っているし、今日ではさらに多くのことがいえる。 本書がここで終わりにならないのもそのためである。 (『遺伝子の川』から)
*                      *                      *
<遺伝子とミーム> ここでは『利己的な遺伝子』に寄せられたジョン・メイナード・スミスの書評を取り上げることにしよう。
*                      *                      *
 利己的な遺伝子』は、一般向けに書かれたものであるにもかかわらず、生物学に独自の貢献を果たしたという意味で異例の本である。 さらに、その貢献自体も異例なものである。デイビッド・ラックの古典『ロビンの生活』(これもまた一般向けに書かれた本でありながら独自の貢献を果たした)と違って、『利己的な遺伝子』は新しい事実を何1つ報告していない。 何らかの新しい数学的モデルを含んでいるわけでもない──そもそも数字がまったく含まれていない。それが提供しているのは、1つの新しい 世界観なのである。
 この本は広く読まれ、好評を得てきているが、強い敵意もかきたててきた。その敵意のほとんどは誤解、あるいはむしろ複数の誤解に基づいていると、私は思っている。 そのなかで、もっとも根本的なものは、この本が何についてのものであるかが理解できていないことである。それは進化的な過程についての本であり、道徳、あるいは政治、あるいは人文科学についての本ではないのである。 もしあなたが、進化がどのようにして生じたかに関心がないなら、人間に関する事柄以外の何かに対して、ほかの人間がどれほど本気で考えることができるかということに思いが及ばないのであれば、この本を読まなければいい。 詠めば、不用意に腹を立てるだけのことにしかならないだろう。
 けれども、あなたが進化に関心をもっているとすれば、1960年代から70年代にかけて、進化生物学者のあいだで行われてきた論争がどういう性質のものであったかを把握するためには、ドーキンスがやろうとしていることを理解するのが、いい方法である。 この論争が、「群(集団淘汰)」と「血縁淘汰」という2つの互いに関連のある話題にかかわるものであった、「群淘汰」論争は、ウィン=エドワーズによって口火を切られた。 彼は、行動的な適応は「群淘汰」によって進化した、つまり、ある集団が生き残り、別の集団が絶滅することを通じて進化するのではないかと提案したのである。
 ほとんど同じ時期に、W・D・ハミルトンが、自然淘汰の働き方についてもう1つ別の疑問を提起した。彼は、もしある遺伝子がその持ち主に、数個体の近縁者の命を救うために自らの命を犠牲にするように仕向けるとすれば、のちにその遺伝子のコピーは、犠牲にしなかった場合に比べてより多く存在するのではないかと指摘した。 ……この過程を数量的なモデルにするために、ハミルトンは「包括適応度」という概念を導入した、……包括適応度には、その個体自身の子供だけでなく、その個体の助けによって育てられた近縁者の子供もすべて、その近縁度に応じた適切な比率を掛けて、含められる……。
 ドーキンスはハミルトンに負うところが大きいことに謝辞を述べていながら、適応度の概念を身につけるための最後の努力で、誤りを犯したのではないかと述べ、進化についての正真正銘の「遺伝子俯瞰図的見方(遺伝子の目から見るという視点)」を採用する方が賢明であったかもしれないと述べている。 彼は、「自己複製子」(繁殖の過程でその厳密な構造が複製される実体)と、「ヴィークル」(死を免れず、複製されないが、その性質は自己複製子によって影響を受ける実体)のあいだの根本的な違いを認識するように、われわれに強く訴える。 われわれがよく知っている主要な自己複製子は、遺伝子および染色体の構成要素である核酸分子(ふつうはDNA分子)である。典型的なヴィークルは、イヌ、ショウジョウバエ、そして人間の 体である。 そこで、かりに眼のような構造を観察すると仮定してみよう。眼は明らかに見ることに適応している。眼が進化したのはだれの利益のためだったのかという問いを発するのは理に適っているだろう。 唯一の合理的な答えは、眼は、その発達の原因となった事故複製子の利益のために進化したというものではないかと、ドーキンスは言う。 どちらにせよ私と同様に、説明のためためため、彼は集団の利益よりも個体の利益で考えるほうを強く好み、自己複製子の利益だけで考えることが好きなのであろう。 (『利己的な遺伝子』からジョン・メイナード・スミスの文。『ロンドン・レヴユー・オブ・ブックス』1982年2月号、(『延長された表現型』の書評から抜粋))
*                      *                      *
<『利己的遺伝子とは何か』やさしく説明すると………> 今週のキーワードは「利己的遺伝子」、この言葉を易しく解説した本=『利己的遺伝子とは何か』があるので、そこから引用することにしよう。
 肉親同士がお互いに強いきずなで結ばれていることは人類共通の事実である。親と子はその最たるもので、親たるもの、わが子のためならば自分の命を捨てることさえある。
 新聞記事にニワトリ小屋の火事が報道されていた。小屋が火事になって、その中にいたニワトリが焼け死んだ。しかし、そのニワトリの下から、ヒヨコが何羽か元気で、ピヨプヨと出てきた。 親鳥は自分を犠牲にして、子供を守ったのだろう。それを見た近所の人たちは、思わず涙ぐんだという。
 ニワトリ小屋の火事など、地方の新聞ならともかく、全国紙の記事になるわけはない。しかし、この親鳥の子どもに対する愛情は種をこえて、人間の胸を強くうち、特別に報道に値する感動を呼び起こしたのである。
 ゾウリムシやアメーバなどではよくわからないが、一般に、高等な動物では、親子は愛情という絆で強く結ばれている。
 しかし、親子という骨肉の情を超えて、人間は他人を助けることがある。
 これもやはり、新聞記事であるが、マンションから落ちてきた子どもを通りすがりの人が受けとめたという話があった。まかりまちがえば、受けとめた人だって大怪我をする。
 このケースでは、骨肉の愛情は関係ないだろう。落ちた子どもと、それを助けた人とは、お互いに見ず知らずの他人である。助けた人にとってみれば、まさにとっさの本能的な行動であろう。 われわれ人間には、自分を犠牲にしても他人を助けるという利他的本能があるのだろうか?
 とこれで、親や兄弟は、お互いに血がつながった血縁者である。兄弟よりは遠いが、いとこ、またいとこ、おじ、おばも血縁者に入る。
 だから、身内を助けるということは、血縁者同士は助け合う、と言い替えることができる。
 このような行動は「血縁利他行動」とよばれ、血縁者の危機を目前にすると、動物は自分を犠牲にしても、助けようとする傾向があることを述べている。
 このような利他傾向を、単に愛情というものだけでは説明できないことは、すぐ前にも触れた通りである。
 血縁淘汰説
 イギリスの生物学者、W・D・ハミルトンは、この問題を遺伝子の観点からとらえた。
 彼は1964年に「社会行動の遺伝子的進化」という論文を発表して、その数学的定式化を試みた。この論文は、「血縁度」の計算が延々と書かれていて、とてつもなく難解である。
 しかし、ハミルトンの説を要約すれば、「血縁者を助ける行動を引き起こすような遺伝子は、淘汰上、有利であり、個体群内で広がる傾向が強い」ということになる。
 つまり、血縁利他主義が動物界で普遍的にみられるのは、すべての動物がそのような行動を起こす遺伝子をもっているからである。 このような遺伝子は、最初は少なくても、長い淘汰の間に、そうでない遺伝子を押しのけ、個体群の中で、広がり、遂に、全面的勝利を収めるというわけである。
 ここで注意したのは、ダーウィン進化論と違い、淘汰上有利なのは個体ではなく、遺伝子だとハミルトンが述べている点である。
 自分を犠牲にして、血縁を助ける利他的行動は、少なくともそれを行う固体にとって損失以外の何物でもないが、その固体の遺伝子からみると、利他的行動は得になるというのである。
 したがって、個体が行っている利他的行動というのは、実は遺伝子にとっては利己的行動ということになるのである。
 遺伝子の利己的行動といっても、遺伝子自体は生き物でもないし、行動もない。
 しかし、ハミルトンは、個体に血縁を助けるような行動を起こさせる遺伝子を包含する遺伝子は、個体群の中でだんだん増えていき、淘汰上も有利になるだろう、と主張しているのだ。
 ある個体が持っている遺伝子は、母親からのものと父親からのものがペア(対)になっている。
 これを個体中の遺伝子の側からみると、両親の1/2ずつが子どもにあるということになる。だから、親が子どものために自分を犠牲にした行動をとるということは、遺伝子としては、自分の1/2を救ったことになるのである(もっとも、その1/2は自分より長生きするはずだが)。
 親という個体は、その愛情にもとづいて子どもを救ったつもりであっても、実は、そのような犠牲的行動を起こさせる遺伝子を持っていたがためにすぎない。しかも、こうした血縁利他的行動を起こさせる遺伝子はははそうでない遺伝子よりも自然淘汰で生き残るチャンスが大きくなる。 つまり、淘汰というプロセスで生き残ってゆき、群の中に定着するというのである。
 そして、話は親子にかぎらず、兄弟とか親戚同士というふうぬ、その中に血縁利他主義遺伝子を含む遺伝子同士は、お互いに集団安全保障条約を結んでいるようなものということになる。
 遺伝子は、他の個体よりも自分とよく似た遺伝子を持った個体、すなわち血縁である個体が危険になったら、自分を犠牲にしても助けることによって、自分に近い遺伝子を集団的に防衛するというのである。
 この安全保障条約を結んでいる血縁利他主義遺伝子と、そうでない遺伝子の優劣は明らかである。お互いに助け合わない遺伝子の生き残りの能力は、助け合う遺伝子のそれに比べて低いのは当然である。 そのために、長い間には、血縁利他主義遺伝子は淘汰によって増えるわけである。
 これが、血縁進化説または血縁淘汰と呼ばれる考え方である。
 ドーキンスの利己的遺伝子
 ハミルトンは、血縁を助ける遺伝子というものを考えた。 その遺伝子は、自分と同じ遺伝子を持っている可能性の高い血縁者を助けることによって、その遺伝子を沢山残そうとしているのである。 そのためには、遺伝子は、時として自分の乗っている個体を犠牲にすることさえする。遺伝子にとっては、自分が入っている個体を犠牲にしても、自分自身の遺伝子の繁栄からみれば、その方が得策だからである。
 こう考えると、ある重大なことに気がつく。それは、遺伝子は自分のために血縁者を助け、自分自身を犠牲にすることがあるが、助けるのは、果たして血縁者だけだろうかということだ。
 遺伝子にとって、血縁者とは、要するに自分と同じ遺伝子を多く持っている者である。より性格にいえば、自分と同じ遺伝子を持っている確率が高い個体である。
 そこで、何も直接の血縁者だけでなく、血縁者を助ける者を助けるような間接的なルートの自己犠牲的な行動もあってもよいことになる。
 自己犠牲的というろ聞こえはよいが、見方によれば、遺伝子自身が増殖しようとする利己的な振る舞いにすぎない。
 個体という遺伝子の乗り物からみると、自己犠牲以外の何者でもないのだが、しかし遺伝子からみると、むしろ全体的には利己的な振る舞いなのだ。
 ハミルトンと同じ英国の生物学者、リチャード・ドーキンスはこうして、利己的遺伝子という概念に到達した。
 ドーキンスとスミスとゲーム理論
 ドーキンスによれば、遺伝子は徹底的に利己的であり、自己を繁殖させることが至上の目的のようである。
 もしそうならば、おでん死は、自然界で演じられる「生き残り・増殖ゲーム」のプロフェッショナルだということになる。
 一般に、ゲームでは攻撃的な手、防衛的な手、相手を惑わす手など、さまざまなテクニックと戦術が凝らされる。だが攻撃的な手が、いつもベストとは限らない。場合によっては、守りに立つ手が必要なこともしばしばである。
 攻撃と守りのどちらをとるかの判断、もしくはその割合の決定は、戦略に属する高度な判断によらなければならない。
 だから、遺伝子による行動を遺伝子のゲームとみなすと、生き残りのための最適な戦略が駆使されている、と想像することができる。
 ゲームにおける最適の戦略については、「ゲームの理論」という分野があり、多くの研究がなされている。
 イギリスの生物学者メイナード・スミスは、このような観点から、遺伝子による行動にゲームの理論を適用してみた。
 ゲームと進化
 スミスはゲームの理論を、生物の行動や進化の問題に適用した。 スミスは、ケンブリッジ大学では工学を学んだので、生物の進化という問題に、このような数学的アプローチを取り入れるにもあまり抵抗がなかったかも知れない。
 メイナード・スミスが提唱したもっとも重要な概念は「進化的に安定な戦略」(Evolutionally Stable Strategy)で頭文字をとってESSとも言われている。
 ESSの最も簡単な例は、有名な「タカ・ハトゲーム」である。
 子殺しという遺伝子の生き残り戦略
 20年ほどまでは、動物が同じ種内で殺し合いをするのは、きわめて例外的なことであるというのが生物学の常識であった。
 ダーウィン流の進化論によると、同じ種に属している個体同士が殺し合いをしていたのでは、その種の生存と増殖にとって非常に不利になると考えられる。 そのため「種内殺し」などしている動物は、進化のプロセスで淘汰されてしまうと思われてきた。
 ところが、京都大学の杉山幸丸が1962年に、インドのハヌマンラングールというサルの個体群の中で、「種内子殺し」という行動が自覚的ふつうに起きていることを発見した。 それまで、異常な行動とされていた種内における子殺しが、ハヌマンラングールの社会では決して異常な行動ではなかったのである。
 最初は半信半疑だった世界中の学者たちも、1970年代には、ハヌマンラングールの子殺しという杉山の発見について真剣に検討するようになる。
 ハヌマンラングーンは、1頭のオスと数頭のメスが群れをつくって暮らしている。このハヌマンラングーンの群れには縄張りがあるが、なかには群れをつくれなかったオスがいる。 こうした群れから離れた孤独なオスたちは、つねに、群れの頭であるオスを狙っている。
 群れを支配しているオスを襲って、うまく乗っ取りに成功したハヌマンラングーンのオスは、自分のものにしたメスたちと次々に交尾をして、自分の子どもを増やそうとする。
 しかし、群れのメスたちの多くは、それまでの支配者だった先代のオスの子どもを抱えている。とくに1歳未満の赤ん坊がいるメスは、赤ん坊に授乳している最中であるから、ホルモンの作用によって発情しない状態におかれている。
 せっかく群れを奪い取っても、肝心のメスが発情しないのでは、オスは自分の子どもをつくることができない。そこで、群を奪い取ったハヌマンラングーンのオスは、子どもを抱いて逃げる母親を追いつめて、赤ん坊を取り上げて噛み殺すのである。 こうした行動は、1歳未満の赤ん坊をすべて殺すまで行われる。
 赤ん坊を殺されたハヌマンラングーンの母親たちは、乳の分泌がストップして、1週間から1か月後にはまた発情する。こうして、新しい群の支配者であるオスは、群れのメスと交尾することができるようになる。 その結果、半年もすると、群の中のほとんどのメスがニューリーダーの子どもを産み、新しい群れが形成されるのである。
 ハヌマンラングーンの群れの周囲には、必ず群を狙うオスがいて、こうしたオスによる群れの乗っ取りは日常的な出来事なのだという。
 こうしたハヌマンラングーンの子殺しという意外な行動も、利己的な遺伝子の生き残り戦略としてなら納得できる。新たに群を占領したニューリーダーのオスにしてみれば、種の保存などは2の次として、まずは自己の遺伝子を残そうとするのは当然のことである。
 先代のリーダーの子どもを育てることは、自分以外の遺伝子を増やすことに等しい。そのうえ、自分の子以外の赤ん坊を育てるためにメスが発情しないのでは困る。 これでは、先代の子どもたちを殺してしまうのも当たり前なのかも知れない。 (『利己的遺伝子とは何か』から)
*                      *                      *
<自然淘汰は盲目の時計職人である>  進化論では「進化は必ずしも進歩とは言えない場合がある」ということを理解することが大切だ。進化の方向が退化の場合もある。つまり、進化の方向は決まっていないで、ときには進歩であり、ときには退化である場合がある。 もちろん、初めから進化の向かう方向が決まっているのではない。「創造論」(創造科学)は、地球の生物世界は神が創造した、との宗教で、初めから生物体系は計画されていた、ということになる。 ところが進化論では、誰かが計画したのではないし、進化の方向も決まっているわけではない。そんなようなことを、ドーキンスは『盲目の時計職人』というタイトルで本を書いている。 ここではそれを取り上げることにする。
*                      *                      *
とても起こりそうもないことを説明する この本の表題の「時計職人」は、18世紀の神学者ウィリアム・ペイリーの有名な著作から借りてきたものである。 1802年に出版された彼の『自然神学──あるいは自然界の外貌より蒐集せられし、神の存在と特性についての証拠』は、「デザイン論」のもっともよく知られた解説であり、神の存在に関する議論の中でつねにもっとも大きな影響力をもつものだった。 それはまた私が激賞する本でもある。というのは、その著者が当時としてはみごとに、これから私がなんとかやりとげようとしていることを、うまくやってのけているからである。 彼は通すべきある主張をもち、熱意をもってそれを信じ、それを人々にはっきり示すための努力を惜しまなかった。彼は生物の世界の複雑さに対して然るべき尊敬の念を抱いていたし、その複雑さはきわめて特別な種類の説明を要すると理解していた。 唯一彼が間違っていたことは──そしてこれが重大なのだが──まさしく説明のやり方そのものであった。彼はそれ以前の誰よりもいっそう明晰にかつ説得力をもってその謎に伝統的なキリスト教的解答を与えた。 正しい説明はそれとはまったく異なったものであり、それが見いだされるためには歴史上もっとも革命的な思想家の1人、チャールズ・ダーウィンを待たなければならなかった。
 ペイリーは『自然神学』を次の有名な一節で始めている。
 ヒースの荒野を歩いているとき、石に足をぶつけて、その石はどうしてそこにあることになったのかと訊ねられたとしよう。私はおそらくこう答えるだろう。 それはずっと以前からそこに転がっていたとしか考えようがない、と。この答えが誤っていることを立証するのは、そうたやすくはあるまい。 ところが、時計が1個落ちているのを見つけて、その時計がどうしてそんなところにあるのか尋ねたられたとすると、こんどは石について答えたように、よく知らないがおそらくその時計はずっとそこにあったのだろう、などという答えはまず思いつかないだろう。
 ここでペイリーは、石のような自然の物体と、時計のようなデザインされた人工の物体との違いを認識している。 彼は時計の歯車やバネが精密につくられていることを説明していく。もしわれわれがヒースの荒野で時計のような物体を見つけたとすると、たとえそれがどのようにして存在するにいたったかを知らなくても、それ自体のデザインの精密さや複雑さから、次のように結論せざるを得ないだろう。
 その時計には製作者がいたはずである。つまり、いつかどこかに、(それが実際にかなえられていることがわれわれにもわかる)ある目的をもって時計を作った、つまり時計の作り方を知り、使い方を予定した考案者(たち)が存在したにちがいない。
 ペイリーは、誰もこの結論に対して筋道の通った反論を唱えることはできないはずで、たとえ?無神論者といえども、自然の作品について真剣に考察したならば、こうした結論に達するだろうと主張した。というのは、
 時計にみられるあらゆる工夫、あらゆるデザイン表現が自然の作品にほ見いだされる。ただ、自然の作品は、測り知れないほど偉大で豊富である点が時計と異なっている。
 ペイリーは、生命のからくりのメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。 彼は、ヒトの眼の話から解き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。 ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるために作られたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。 望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
 ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。 望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方であるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。 本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。 ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。 自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の固形職人なのだ。 (『盲目の時計職人』から)
すばらしいデザイン  自然淘汰は盲目の時計職人である。盲目であるというのは、それが見通しをもたず、結果についての目論みをもたず、目指す目的がないからだ。 しかしそれでも、現在みることのできる自然淘汰の結果は、まるで腕のいい時計職人によってデザインされたかのような外観、デザインとプランをもつかのような錯覚で、圧倒的な印象をわれわれに与えている。 本書の目的は読者が納得するまでこの逆説を解くことなのだが、とりあえずこの章ではデザインという錯覚の力を借りて読者にいっそう深い感銘を与えたい。 まずきわめつけの例について考察し、デザインの複雑さと美しさにかけては、ペイリーといえどもその事実のほんのさわりさえ語り始めていなかったのだ、と結論するつもりである。
 飛ぶ、泳ぐ、見る、食べる、繁殖する、あるいはもっと一般的に生物体の遺伝子の生存や自己複製を促進するといった何か意味のありそうな目的を遂げるために聡明で博識な技術者なら組み込んだと思われるような属性を、生物の体や器官がもっている場合には、 われわれはそれをうまくデザインされていると言ってもかまわないだろう。体とか器官のデザインは、ある技術者が考えつける最良のものであると仮定する必要は何もない。 ある技術者が考えつくことのできる最良のデザインは、いずれにせよ、別の技術者とりわけテクノロジーの歴史にあって後世に現れた別の技術者の考えついた最良のデザインに抜き去られることがよくある。 しかし技術者なら誰でも、たとえ出来ばえがよくなくても、ある物体の構造をちょっと調べればその目的が何らかの目的のためにデザインされていれば、それと認識できるし、その物体の構造をちょっと調べればその目的が何なのかを見抜くことができるのが普通である。 T章では、哲学的な問題にもっぱら取り組んできた。この章では、技術者なら誰でも深い印象を受けずにはいられないだろうと私の信じているとっておきの事実、すなわちコウモリのソナー(「レーダー」)について展開する。 私はどの論点を説明するときも、まず生ける機械の直面している問題を提出し、その上で、気の利いた技術者なら考えるであろうその問題の解決策について考察するつもりだ。 そして結局のところ自然が実際に採用した解決策に到達することになるだろう。コウモリはもちろんほんの1例である。ある技術者がコウモリに深い印象を受けるなら、きっとそれ以外にも数えきれないくらいたくさんある生けるデザインの例にも深い印象を受けずにはいられないだろう。
 コウモリの抱えている問題は、暗闇の中でどうやって自在に動き回るかということである。コウモリは夜間に狩りをするので、光の助けを借りて獲物を見つけたり障害物を避けることはできない。 これが問題だというなら、それは自業自得であり、何のことはない、習性を変えて昼間に狩りをすればすむではないか、と言えるかもしれない。 しかし、昼の経済(エコノミー)はすでに鳥類のような他の生物によって徹底的に利用しつくされている。夜に行われるべき仕事があって、それにかわる昼の仕事がすっかりふさがっているとなると、自然淘汰は夜の狩りの仕事をものにしたコウモリに有利にはたらいただろう。 ところで、夜の仕事というのはわれわれ哺乳類すべての祖先にまで遡るものらしい。恐竜たちが昼の経済を支配していた時代には、われわれ哺乳類の祖先たちはおそらく、夜にどうにか暮らしを立てる方法を見つけたおかげでなんとか生き延びていただけであったろう。 約6500万年前に、恐竜類のあの謎にみちた大量絶滅が起こった後にはじめて、われわれの祖先は昼間にもこぞって姿を現すことができたのである。 (『盲目の時計職人』から)
*                      *                      *
<事実確認の「……である」と「べきである」との主張> 生物学・進化論などの科学は、事実を確認し「真実は……である」と話を結ぶ。経済学では「市場の動向は……である」とか「他の条件が変わらないとして、次の与件が変わると、経済はこのようになる」などの事実関係を問題にする。 それと「経済はそのような法則によって変わるので、政府、日銀の経済政策はこうあるべきだ」と結論付けることがある。そして、法律は「べきである」で結論付けられる。
 今週は、生物学・進化論の話を取り上げた。これらは、事実を述べたもので、「こうあるべきだ」とのべき論ではない。「遺伝子は個の生存よりも、遺伝子自身(種)の繁栄を優先させる」と言っても、「だから、人間社会もそうあるべきだ」とは進まない。 この「べき論」と「である論」をハッキリ区別して考えることができないと、今週の話は理解できないだろう。こうした区別ができるとして多くの意見を取り上げた。従って、この文章から「だから死刑制度は必要である」とか「そうであるけれど死刑は廃止すべきだ」と結論すべきではない。 それをハッキリさせた上で、こうした法律とは違った世界の論理を知ることは、視野狭窄にならないためにも有効だし、死刑制度についても何らかのヒントになるだろうと思う。こうした点を理解したうえで、生物学・進化論などの知識・知恵を吸収して欲しいと思い取り上げてみた。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』      リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店 2006. 5. 5
『サバイバル・ストラテジー』                ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社    1983. 4.20
『マン・チャイルド』            ダビッド・ジョナス+ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書店新社 1984. 7.10
『遺伝子の川』                      リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 草思社    1997. 8. 1
『利己的遺伝子とは何か』DNAはエゴイスト                 中原英臣・佐川峻 講談社    1991.10.20
『盲目の時計職人』自然淘汰は偶然か?          リチャード・ドーキンス 日高敏隆監修 早川書房   2004. 3.31
( 2007年8月20日 TANAKA1942b )
▲top
(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論 
危機管理意識のない死刑廃止論
  先週、平和的なハトと戦闘的なタカ、という喩えを書いた。今週は、こうしたハトとタカについて扱うことにする。 これについては以前に、<進化的に安定な戦略>と題して、 『利己的な遺伝子』と『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』から引用した。今回はさらに別の文献からも引用し、「危機管理」に関する関心を高めようと思う。 初めは『利己的な遺伝子』から、
*                      *                      *
<進化的に安定な戦略> > メイナード・スミスが提唱している重要な概念は、進化的に安定な戦略(ESS;evolutionarily stable strategy) と呼ばれるもので、もとをたどればW・D・ハミルトンとR・H・マッカーサーの着想である。 「戦略」というのは、あらかじめプログラムされている行動方針である。戦略の1例をあげよう。「相手を攻撃しろ、彼が逃げたら追いかけろ、応酬してきたら逃げるのだ!」理解してもらいたいのは、この戦略を個体が意識的に用いていると考えているのではないということである。 われわれは動物を、筋肉の制御についてあらかじめプログラムされたコンピュータをもつロボット生存機械だ、と考えてきたことを思い出してほしい。 この戦略を1組の単純な命令として言葉であえあわすことは、これについて考えていくうえでは便利な方法である。あるはっきりとわからぬメカニズムによって、動物はあたかもこれらの命令に従っているかのように振る舞うのだ。
 進化的に安定な戦略すなわちESSは、個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、別の代替戦略によってとって代わられることのない戦略だと定義できる。 それは微妙でかつ重要な概念である。別の言い方をすれば、個体にとって最善の戦略は、個体群の大部分が行っているうことによって決まるということになる。 個体群の残りの部分は、それぞれ自分の成功を最大にしようとしている個体で成り立っているので、残っていくのは、一旦進化したらどんな異常個体によっても改善できないような戦略だけである。 環境になにか大きな変化が起こると、短いながら、進化的に不安定な期間が生じ、おそらく個体群内に変動がみられることさえある。しかし一旦ESSに到達すれば、それがそのまま残る。淘汰はこの戦略から外れたものを罰するであろう。
 この概念を攻撃にあてはめるために、メイナード・スミスの1番単純な仮定的例の1つを考察してみよう。ある種のある個体群には、タカ派型とハト派型と呼ばれる2種類の戦略しかないものとしよう。 (おの名は世間の慣例的用法に従っただけで、この名を提供している鳥の習性とはなんの関係もない。じつは、ハトはかなり攻撃的な鳥なのである)。 われわれの仮定的個体群の個体はすべてタカ派かハト派のどちらかに属するものとする。タカ派の個体は常にできる限り激しく際限なく戦い、ひどく傷ついたときしか引き下がらない。 ハト派の個体はただ、もったいぶった、規定どおりのやり方で脅しをかけるだけで、誰も傷つけない。タカ派の個体とハト派の個体が戦うと、ハト派は一目散に逃げるので、怪我をすることはない。 タカ派の個体どうしが戦うと、彼らは、片方が大けがをするか死ぬかするまで戦い続ける。ハト派とハト派が出合った場合は、どちらも怪我をすることはない。彼らは長い間互いにポーズをとり続け、ついにはどちらかが飽きるか、これ以上気にするのはよそうと決心するかして、やめることになる。 当面のところ、ある個体は特定のライバルがタカ派であるかハト派であるかを前もってしる手だてはないものと仮定しておこう。彼はライバルと戦ってみて初めてそれを知るだけで、手掛かりとなるような、特定の個体との過去の戦いは覚えていないものとする。
 さて、まったく任意の約束事として、戦う両者に「得点」をつけることにする。たとえば、勝者には50点、敗者には0点、重傷者にはマイナス100点、長い戦いによる時間の浪費にマイナス10点という具合である。 これらの得点は、遺伝子の生存という通貨に直接換算できるものと考えてよい。高い得点を得ている個体、つまり高い平均「得点(pay-off)」を受けている個体は、遺伝子プール内に多数の遺伝子を残す個体である。 この実際の数値はかなり広い範囲内でどのようにとっても分析に差し支えない性質のものであるが、われわれがこの問題を考えるうえでは役に立つ。
 重要なのは、タカ派がハト派と戦ったときハト派に勝かどうかが問題なのではないという点である。その答えはすでに分かっている。いつでもタカ派が勝に決まっている。 われわれが知りたいのは、タカ派型とハト派型のどちらが進化的に安定な戦略(ESS)なのかどうかということである。もし片方がESSで他方がそうでないのであれば、ESSである方が進化すると考えねばならない。2つのESSがあることも理論的にはあり得る。 もし、個体群の大勢を占める戦略がたまたまタカ派型であろうとハト派型であろうと、ある個体にとって最善の戦略は先例にならうということであったなら、このことが言える。この場合、個体群は2つの安定状態のどちらでもよいから、たまたま先に到達した方に固執することになろう。 しかし、次に述べるように、実は、タカ派とハト派という2つの戦略はどちらもそれ自体では、進化的に安定ではない。従って、どちらが進化すると期待するわけにはいかない。 このことを示すには、平均得点を計算しなければならない。
 全員ハト派からなる個体群があるとしよう。彼らは戦っても、だれも傷つかない。争いはおそらく長い儀式的な試合、あるいはにらみ合いであって、どちらかが引き下がったときに決着がつく。 このとき勝者は、戦って資源を手に入れたので50点を得るが、にらみ合いに長い時間をかけたのでマイナス10点の罰金を払うため、結局40点になる。 敗者もやはり時間を浪費したので10点引かれる。平均するとハト派の個体はいずれも争いの半数に勝ち、半数に負けるものと考えられる。 従って、一戦あたりの彼の得点はプラス40とマイナス10に平均、プラス15点である。というわけで、ハト派の個体群中ハト派個体はすべてたいへんうまくやっているように思われる。
 ところが今、この個体群にタカ派型の突然変異個体があらわれたとしよう。彼はここで唯一のタカはなので、戦う相手すべてハト派である。タカ派の遺伝子は必ずハト派に勝ので、彼はすべての戦いでプラス50点を獲得し、これが彼の平均点となる。 彼は、正味15点しかないハト派に比べて厖大な利益を享受する。その結果、タカ派の遺伝子は、その個体群内に急速に広まるであろう。 しかし、そうなると、タカ派の各個体、もはや出会ったライバルがすべてハト派であると期待するわけにはいかなくなる。極端な例をあげるなら、タカ派の遺伝子が首尾良く広まって、個体群全体がタカ派になった場合、今度はすべての戦いがタカ派どうしの戦いになるはずである。 今や、事情は一変する。タカ派の個体同士が出会うと、片方が怪我をするのでマイナス100点となり、勝者はプラス50点をとる。タカ派個体群の各個体は戦いの半数に勝ち、半数に負けると考えられる。 したがって、1戦あたりの平均得点は、プラス50とマイナス100の平均、すなわちマイナス25点である。ここで、タカ派の個体群内にハト派は1個体いるとしてみよう。 たしかに、彼はすべての戦いに負けるが、その一方で決して怪我をすることはない。タカ派個体群内のタカ派の平均得点がマイナス25点であるのに対して、彼の平均得点は、タカ派個体群内ではゼロである。したがって、ハト派の遺伝子はその個体群内に広まる傾向がある。
 この話の語り口からすると、あたかも個体群内にたえず震動があるように思われるかもしれない。タカ派の遺伝子は圧勝して優性を占める。すると大半がタカ派になる結果、ハト派の遺伝子が有利になり数を増やしていく。 やがてハトはが多くなると、再びタカ派の遺伝子が栄え始める、という具合に。しかし、このような震動の起こる必要はない。どこかに、タカ派とハト派の安定した比率が存在するのである。 われわれが用いている任意の得点システムから計算してみると、安定した比率は、ハト派が12分の5、タカ派が12分の7であることがわかる。 この安定した比率に達すると、タカ派の平均得点とハト派の平均得点がちょうど等しくなる。このため、淘汰が一方より他方に有利にはたらくことはなくなる。 もし個体群内のタカ派の数が次第に上がり始め、その比率が12分の7以上になると、ハト派が余分の利益を受け始め、その比率がもとにもどって、安定状態になる。 安定した比は50対50であるのと同様に、この仮定的例では、タカ派対ハト派の比が7対5なのだ。どちらの場合も、安定点付近で震動があったとしても、それは非常に大きなものになることはない。 (『利己的な遺伝子』から)
*                      *                      *
<エゴイストでも状況次第で協調する>  はたして、エゴイストとは常に他人を押しのけて生きてゆくものだろうか。エゴイストが、自発的に他人と協調することはあり得ないのだろうか。彼らは、中央の権力の強制されなければ、協調などしないのだろうか。 この問題は、長い間人々の興味をそそってきた。そもそも、人間は天使ではないのである。人間は、ついつい自分と自分の一番身近なものに心を奪われてしまう。 エゴイストが協調するかどうかという問題は、他人事ではないのである。一方、たしかに私たちには協調しあう場合もある。私たちの文明そのものも、協調関係のうえに成り立っている。 それでは、一人ひとりがエゴイストの誘惑にかられている中で、協調関係はどのように発達し得るのだろうか。
 この問いにどう答えるか、それは私たち1人ひとりの社会的、政治的、経済的な人間関係に大きな影響を及ぼす。また、他人がどういう解答を出してくるかによって、どの程度彼らが私たちに協調しようとしているかが、大きく左右される。
 なかでも、今から300年以上前にトマス・ホッブズが出した答えが、最も有名である。彼の答えは悲観的であった。彼の考えでは、統治機関が生まれる前は、エゴイストの問題が巷に溢れていたという。 人間の生活は「孤独で貧しく、陰険かつ残酷で、しかも短い」という過酷な条件のもとに営まれ、そのことで人々は闘争状態にあったのである(Hobbes 1651/1962,p,100)。 彼の考えによると、協調関係は中央の権力なしには発展し得ないものであり、だからこそ強い政治組織が必要だということになった。ホッブス以来、政治組織の本来あるべき姿について議論するときには、権力による統治を抜きにしても協調関係が生まれることを期待できるかどうかが、しばしば焦点となった。
 今日、国と国がつき合うときには、間に立つべき中央の権力など存在しない。だから、協調関係が出現するために何が必要かという問題は、国際政治の中心課題と深く関わっている。 その中でも得に大切な問題は、安全保証のジレンマである。すなわち、国家はよく自国の安全を守るために他国のそれを侵害することがある。 これは、地域紛争の激化や軍拡競争という形でよく問題となる。同盟国間の内輪もめ、関税交渉、キプロスで起きたような自治をめぐる紛争もこれに関連があり、やはり国際関係において生じた問題である。
 1979年に勃発したソ連のアフガニスタン侵攻は、典型的な選択のジレンマの中にアメリカを追い込んだ。アメリカはソ連と今まで通りの取引を続けると、ソ連は図に乗って、さらに非協力的な行動をとってくるかもしれない、かといって、アメリカが協調的態度を翻し、報復的態度に転ずると、ますます冷たい関係に陥り、互いの敵対行動が容易には収拾がつかなくなる恐れがある。 外交政策に関する国内の論争の多くは、まさにこうしたジレンマに深く関わっている。そのため、かなり難しい選択を迫られてくるわけである。
 身近な問題でも似たようなことがある。私たちは、何度もこちらが夕食に招待しているのに、1度もお返しに招いてくれない知人に対して、何回くらいで招待するのをやめようかと考えることもあるかもしれない。 組織の幹部が他の幹部の肩を持つのは、後でお返しに自分の味方をしてもらいたいためである。ジャーナリストが特ダネの情報源をあえて秘匿するのは、そうすれば今後も特ダネを入手できると期待しているからである。 ある業界の企業が高い価格を設定するのは、同じ業界の他の企業もこちらに合わせて値を吊り上げ、維持してくれると期待しているからである。 消費者に大きな出費をさせた方がどちらも儲かるのである。 (『つきあい方の科学』から)
 本書で展開する協調関係の理論は、あくまで1人ひとりが自分が自分自身の利益を追求すべく行動するという前提に立ち、その研究をもとに書かれたもので、何らかの中央の権力が人々を互いに協調し合うよう強制しているといったような前提に立ったものではない。 自分の利益を追求すると仮定した理由は、協調とはいっても、他人のため、グループ全体の幸せのためとは言い切れないようなややこしい場合をも含めて考えられるからである。 しかし、この仮定は、さまざまな協調関係の解析にどんどん適用しても差し支えないということは強調しておこう。もし姉が弟の幸福を望むならば、弟の幸福への思いは(数ある姉の関心事とともに)姉自身の利益の一部であるとみなせる。 しかし、だからといって姉弟が争う可能性がなくなると考える必要はない。同様に、国家も友好国の利益をある程度勘定に入れて行動するかも知れないが、このように考慮するとしても、友好国がいつも互いの利益を求めて強調するということにはならない。 以上のように、自分の利益を追求するという仮定は単なる仮定にすぎないものであり、他人への関心という視点から考えようとすると、いつ強調し、いつ強調しないかという問いかけに答えきれない場合が出てきてしまうのである。
 強調関係の基本問題として、2国間の貿易で関税障壁のある場合を考えてみよう。自由貿易は互いに利点があるので、障壁がない方が双方とも都合がよい。 だが、一方の国だけしか障壁を撤廃しなかった場合には、撤廃した方だけが一方的に経済的打撃を被るはめになる。実際、相手が撤廃しようとするまいと、自国の障壁はあった方が得なのである。 したがって、どちらの国も障壁を撤廃しようとしなくなる。これは、両国が協調して撤廃した場合に比べ、ともに不利な事態に甘んじることになる。
 こうした問題は、それぞれが別々に自分の利益を追求すると、かえって両方とも損をしてしまう場合に生じる。この種の事情を抱えた状況はゴマンとあるが、それらをすっきりと理解するために、細かい部分に捉われずに、共通点を反映した場面設定が欲しいところである。 幸い、有名な「囚人のジレンマ」ゲームがうまく利用できる。 (『つきあい方の科学』から)
*                      *                      *
<タカとハト>  ライオン同士が戦うときは、獲物を襲うときのように相手の息の根を止めるほど残忍になることはほとんどない。 魚は攻撃的になると頑丈な顎で噛みつきあいもするが、激しい争いになっても、たとえばただわき腹に噛みつく程度のことでは相手を傷つけるまでにはならないだろう。 ビッグホーンは傍らから見ると死んでもおかしくないと思うほど思いきり頭をぶつけ合うが、体の構造上、このような激しい頭突きに問題なく耐えられる。 ガラガラヘビの場合は自分の毒に免疫がないので、噛まれたら死んでしまう。だが、戦うときは大抵背中を押しつけあうので、偶然にも医術の象徴のカドゥケウス[ギリシャ神話の医術の神アスクレピオスが持っていた杖で、2匹のヘビが巻きついている]を思わせる奇妙な体勢になるが、 これはまた相手を死なせずに争いを解決する手段にもなる。負けた側が噛みつかれることはめったになく、たいていはするすると逃げて行くだけだ。
 これらの事例をはじめとする動物の抑制行動はほぼ20世紀を通じて過大視され、その傾向は、殺傷力のある攻撃手段をもつ動物は殺し合わないとした動物学者コンラート・ローレンツの主張で頂点に達した。 現在では、この見解は正しくないことが判っている。狼、ライオン、さらにはチンパンジーまでが殺しをする。これでもこの説は、古くからの格言に似て、見るべき点が数多くある。 相手を徹底的に痛めつける力のある動物は、同種の仲間にそうするのを控えることが多いのである。
 数十年のあいだ、この抑制行動に気づいた生物学者は、これを注目すべき現象とみなして深い関心を寄せたが、予想外のことだとは思わなかった。 進化は「種の保存のため」に起こると長い間考えられていたためだ。この見方は動物の情け深さ、すなわち攻撃制御の事例によっていっそう固められた。
「動物がしばしば殺し合いを控えるのは言うまでもないことで、これは種のためなのである」とされたのである。いまはそうではない。 現在、進化は種の保存のためではなく、個体間と──それ以上に──競い合う遺伝子間に成功の度合いの差があるために起こることが広く知られている(遺伝子は種の保存のためにいつも自己を犠牲にしていたとしよう。 そこへ、種ではなく自己のことだけを気遣う遺伝子が現れた。利己的な遺伝子は優位に立ち、利己的でない周囲の遺伝子を犠牲にしながら機敏に立ち回って、その後の世代に受け継がれたのである)。
 いまでは、種とは単に個体とその遺伝子の集合と見なされ、個体間および遺伝子間の競争が自然選択のはたらく舞台だと理解されている。
 ここで厄介な問題にぶつかる。もし進化が種という大きな集合としてではなく、個体および遺伝子としての成功に褒美を与えるのだとしたら、致命的な攻撃をしないというすばらしい事例をどう説明すればよいのだろう。 種のためでないなら、なぜ行動を制御する個体がいるのだろうか。凶暴なほうが適応度が高い(繁殖の利得がより大きい)としたら、なぜすべての個体が激しやすいわけではないのか。 逆に、もし暴力的でない方が利得が大きいとしたら、なぜ動物は非暴力運動の手本とならないのか。
 解釈は多数あり、そのほとんどが関連しあっている。なかでもゲーム理論の立場から興味深い説明は、イギリスの進化論者ジョン・メイナード=スミスとアメリカの数学者ジョージ・プライスが「動物における闘争の論理」と題する論文で初めて示した説だった。 動物が闘争したり、驚くほどしばしば抑制行動をとったり、凶暴な個体とそうでない個体が(相手を消滅させることなく)同じ個体群の中に共存したりするのは、動物がゲームをしている結果だと2人は考えたのである。この論文はゲーム理論と動物行動の研究を関連づける土台となった。
 メイナード・スミスとプライスが確信敵研究の主眼として初めて打ち出した古典的モデルは、「タカハトゲーム」として知られている。
 2種類の個体があると想像してほしい。タカ派とハト派である。両者はあらゆる点で同じだが、競争に対する反応だけが違う(また、両者は鳥とは限らない)。タカは相手を威嚇し、必要とあらば戦う。ハトは暴力的な闘争を避ける平和主義者だ。まず、すべてがハトの個体群を想像しよう。 さらに、彼らは腹を空かせているが、さいわい生息地のあちらこちらに餌があると考えてほしい。ハトはハトと遭遇し、近くに餌があったとすると、両者は餌を半分ずつ分け合う。 揉めごとも喧嘩も起こらない。このモデルにもう少し現実味を加えるため、それぞれ少々のコスト(損失)もあるとしよう。友好的であることを身振りで相手に分からせるには、いくらか時間がかかるからだ。
 このハトの楽園にタカが現われる。タカは喧嘩っ早く、誰とも餌を分けようとしない。そこでタカとハトが遭遇すると、タカは威嚇して戦う姿勢を示し、ハトはすぐさま引き下がる。 結果はどうだろう。餌はすべてタカが奪い、ハトには何もない。しかし、タカ同士が出合うとどちらも引き下がらず、喧嘩になる。最終的にはどちらかが勝ち、餌を独り占めする。タカ同士の戦いでは、それぞれの勝率は5割なので手に入れる餌も半分になり、ハト同士が出合ったときと同じである。 この2つの戦略の大きな違いは、タカの場合は喧嘩なしでは済まないことだ。タカとタカの戦いは、体力を消耗する、怪我をする、命を落とす恐れがあるなど、両者に大きなコストがある。
 次に示すのは「タカハトゲーム」の非常に単純な利得表である。このゲームは対称ゲームなので、表上のプレーヤーの利得だけが示されている。
それぞれの利得\出合う相手 ハ  ト タ  カ
ハ  ト (1/2の餌)−(友好を示すためのコスト)
タ  カ すべての餌 (1/2の餌)−(戦いのコスト)

 面白い動きが生じる。ハトばかりの個体群の中にやってきたタカの運命を考えてみよう。タカは優勢になり、数を増やすだろう。 ハトと遭遇すると餌を独占できるので、ハトよりも常に栄養状態がいいはずだからだ。だが、時とともにタカがどんどん増えてハトが減っていくと、タカ同士がかち合うようになる。 するとどうなるか。まず威嚇して「猛々しく」振る舞うが、どちらも引き下がらない。はとが大半を占めていた世界ではうまくやっていたタカも、タカの割合が増えてタカ対タカの衝突が避けられなくなるにつれて、苦しい状況に追い込まれていく。 ハトはタカと出合うとまったく餌にありつけないのでいいところなしだが、それでもマイナスの利得(戦いのコスト)になるリスクは冒さない。 そのうえ、出合ったのが運良くはとなら餌を半分受け取れるし──これはタカ対タカのときも同じ──ひどい目に遭わされることもないのだ! ハトがハトであることを相手のハトに示すのに時間がかかるとしても、タカがタカと出くわして戦うときのコストほど大きくないと考えていいだろう。
 以上を考え合わせると、こういうことになる。つまりハトが多いときには、おとなしい平和主義者ばかりのなかで容易に餌を手に入れられるタカが優勢になる。 ところが、タカは数を増すにつれてハトよりも苦しい状況になっていく。成功の中に滅亡の萌芽が隠れているのだ。こうなるとハトが優勢になって数を増やすが、それによって再びタカの侵略を受ける道を開くことになる。 要するに、どちらも数を減らすと成功し、数を増やすと失敗するのだ。均衡状態になると、タカは平均してハトと同じ利得を得るだろう。換言すれば、タカもハトも進化上の利得はまったく同じになり、したがって同じ割合で繁殖する。 この均衡状態において、タカ戦略もハト戦略も等しくすぐれた戦略だ。タカハト状態は進化的に安定し得ると生物学者が言うのは、そういう意味なのである。
 だからと言って、タカとハトが同数になると言うことではない。猟師ドリと海賊ドリ、貯め込み屋とたかり屋のキツツキが同数である必要がないのと同じ理屈だ。 均衡状態では、平均してタカとハトが同じように成功するということである。均衡点に達すると、タカとハト──この戦略をとるどんな動物も──の比率は保たれ、動かなくなる。 では正確に何羽なのかというとそれは利得次第であり、さらにその利得は、争いのもとになっている資源の利得と戦いのコスト(タカの場合)および友好を示すためのコスト(ハトの場合)次第なのである。
 メイナード=スミスとプライスのモデルでは、資源の値は10、タカ同士の争いによるコストは20、ハトがたがいに友好を示すために費やす時間のコストは3と任意に決められた。 この値で計算すると、タカが個体群全体の8/13、ハトが5/13を占めるときに均衡状態になる。あるいは1個体が戦略を使い分けてもいい。各個体が8/13の比率でタカ戦略、5/13の比率でハト戦略をとれば安定するだろう。 どちらも数学的には同じ結果だが、生物学的にはまったく違う。前者は個々の戦略が決まっていて変えられないのだから、無脊椎動物などの単純な構造の生物と考えられるし、後者は行動に柔軟性のある個体ということで、鳥類や哺乳類のような比較的に脳の大きい脊椎度yぶつにとくにあてはまるだろう。
 タカ対ハトの比率の均衡点がこうなるのは、少しも不思議ではない。すべて利得の値によって決まるのである。比率が利得の値によって決まることは直観的にわかるだろう。 たとえばこう考えてみよう。もし戦いのコストが大きくなれば、均衡点でのタカの比率が低くなるのは当然だ。タカ同士が争って死んだりひどい怪我を負ったりする可能性が高まると、タカの平均利得が小さくなるはずだから、タカが少なくなってハトが多くなると予想が立つ。 同じように、もしほかの条件が同じで遡源の利得の値が大きくなったら、タカの比率は増え、ハトは徐々に減少するだろう。これも分かりやすい。 貴重なものを手に入れるには危険を冒さなくてはならないのだ。そして、ハト同士が相手に自分がハトであることを分からせるために時間と労力が多少でも増えれば、タカの増加につながるはずである。
 ここでの重要な要素は、資源(この場合は餌)の値とそれをめぐる争いで生じるコストの関係である。もし、資源の値がそれを得るためのコストよりも大きければ、タカハトゲームは囚人のジレンマとなり、争い(裏切り)が支配戦略となってタカが優勢になるだろう…… ハト対タカの協調関係を結べば、両者にとってもっと望ましい結果になるのだが。しかし、もし資源の値がコストよりも小さいとしたら、タカハトゲームはチキンゲームとなり、タカもハトも資源とコストの値によって正確に決まった比率を維持することになる。 (『ゲーム理論の愉しみ方』から)
<徳行の経済学> これまで本書では、人間の間の繋がりは、ほとんどの動物の間に見られる繋がりと同様に非自発的なものだと仮定してきた。すなわち、英雄的な男らしい男はもともとあなたの周りにいるのであって、つき合おうとしてわざわざあなたが選んだのではあに。その限りでは、押しの強い性格を持つことは、そうした性格の人が多すぎない限り利点がある。
 だが、共同事業者、雇用主・従業員関係といった自発的な繋がりについてな、このようなことは当てはまらない。誰かを協力者に選ぼうとする場合には、押しの強い人はリストかの一番下に下げられる。だから職を得られ見込みが減ったり、結婚できるチャンスが少なくなる。
 自発的なつき合いが行われる社会では、それと異なる戦術をとる方が得をする。思いやりがあり、礼儀正しい人として知られた者、決して他人を利己的に利用しない人、誰も見てなくても決して盗みをしないような人──これらの人は雇用主、従業員、共同経営者、あるいは配偶者として望ましい人物である。他の人たちが正しくその人の性格を読みとっている限り、良い男だろうと自分を鍛えることは、その人にとって自分中心に考えても利益になる。正直な人を雇うことは、窃盗を働かれる費用だけでなく、窃盗を防ぐ費用も節約でき、その節約額は正直な人を雇うことは、正直な人と不正直な人が受ける報酬の差となって表れる。
 この場合にも、理由こそ異なれ、タカ・ハト均衡に似たようなことが考えられる。もしほとんどすべての人たちが正直者であったら、特定の人物がどれほど正直かということに多大な関心を払う必要はなく、したがって、正直者のふりをしながら悪事をうまくやれると思うときには人をだます、猫っかぶり戦術がうまく行くのだ。猫っかぶり屋の数が増えるに連れて、他の人たちが彼らを見分けるために注意を払うようになる。両方の戦術から得られる利益が等しくなったとき、正直者に対する猫っかぶり屋の均衡比率が達成される。
 なぜ人々が良い子になっているのか、あるいはそうでないのかを理解するためのこうしたやり方には、興味深い示唆が見られる。悪人、すなわち押しの強い人間であることは、人々の間の繋がりが非自発的である場合には得である。善人であることは、繋がりが自発的である場合には得である。人々の繋がりが自発的な社会のほうが、非自発的な社会よりも相対的に正直で高圧的でない善良な人が多いと考えられる。 (『日常生活を経済学する』から)
*                      *                      *
<悪人同士の会話=日本で死刑が廃止されると……> 日本で死刑が廃止されるとどうなるか?こんな寓話を考えてみた。
 日本で死刑が廃止された頃、世界のある貧しい国で生活に困った若者が将来について話し合っていた。
A 「どうする。オレたち、この国にいても将来性はない。政治も経済も治安もまるでなっていない。外国に行って稼ごうと思うのだけど、どう思う?」
B 「そうだな。この国にいても将来どうにもならない。それは分かっているけど、どうすればいいのだ?」
C 「オレもそう思う。だけどどうすればいいのか分からない」
A 「そこでだ、どこか先進国に行って荒仕事をしようと思う」
B 「オレもそれは考えたけど、何処へ行って何をするかだ?」
C 「先進国に行って肉体仕事をすれば、それはこの国にいるよりは良い生活は出来るかも知れない」
B 「けれど、その国では最低の生活だ。この国はみんなが貧乏だから感じないけど、先進国へ行って、その国の底辺で暮らすのは辛いぞ」
A 「ハッキリ言おう。日本へ行って、金持ちからちょっと恵んでもらうのだ」
C 「金持ちから恵んでもらうなんて、ちょっと甘い考えじゃあないのかな?」
B 「どうやって恵んでもらうのだ?」
A 「それさ。日本では、近くの国から荒仕事しに来ている連中がいる。「蛇頭」とか何とかいうグループがあるらしい」
C 「それって、窃盗グループじゃあないのか?」
B 「何でも、日本では、そのグループや他の国から窃盗・強盗を目的に来ている連中がいるらしい」
C 「地球の反対側から来ている連中もいるらしい」
B 「そう言えば、どこかの国は、日本と犯人引渡条約を結んでいないので、日本で悪いことしても、本国に帰れば捕まらないらしい」
C 「でもオレたちの国はだめだ。捕まって日本に送られる」
A 「残念ながらその通り。しかし、ポイントは「日本では死刑が廃止された」ということさ」
B 「それが、どういう意味がある?」
A 「日本では、人を殺しても死刑にはならない」
B 「だからどうなんだ?」
A 「死刑が廃止されたということは、人権主義者が力を持ったということであり、犯人の人権も尊重されるようになった、ということだ」
C 「法律を犯しても、重い刑にはならない、ということか?」
A 「犯した罪と、その人間がどのような環境で育ってきたかが問題になる」
B 「つまり、オレたちが、国で苦しい生活をしてきた、ということが刑を軽減させる要因になる、ということだな?」
C 「そう言えば、オレたちの国では考えられないけれど、日本では「死刑囚に同情的な市民運動が盛んだ」と聞いている」
A 「日本の人権主義とは、 「すべての人間の人権を尊重し、たとえ殺人犯といえどもその人権は尊重されるべきだ」 との思想なのだ」
B 「人を殺しても、死刑にはならないし、オレたちの苦しい子供時代を考慮して、刑が軽くなる、ということだ」
A 「判決を言い渡したあとで、裁判長がこんなことを言う。「法廷で、大変なことをしてしまった、という反省の気持ちが伝わって来なかったのは事実です。それがいらだちを感じます。姉歯被告はどこまで責任を感じているのでしょうか」と」
C 「公判で、とにかく「悪うございました」と反省の態度を示せば刑が軽くなる、ということだな」
B 「日本もいいけれど、アメリカはどうなんだ?」
A 「アメリカでは警察官が現場で簡易死刑執行(summary execution)と言われる実質的な死刑に処することがある」
C 「一般人も銃の扱いに馴れているから、侮(あなどれ)れない」
B 「たしかに、日本では言霊が信じられているし、空想平和主義は多くの人に支持されている」
A 「歴史で習ったことがある。第1世界大戦後のフランスでは「とにかく戦争はイヤだ」、の厭世気分でナチやフランコの台頭を許してしまった」
C 「日本では、「とにかく残虐な死刑は良くない」との考えから、犯人にも甘い風潮になっている」
B 「金持ちが多いこと、死刑がないこと。これが日本を推薦するポイントだな?」
A 「その通り。日本は先進国に中では治安が良く、それだけに危機管理意識がない。荒仕事しに行くには日本が最適だ」
C 「仕事の前に、市民活動家と仲良くなっておくと、仕事がし易いな」
B 「新聞社の中には、「弱者の味方になることこそリベラルだ」との正義論を持っている記者もいるらしいぞ」
A 「ゲームの理論の、「ハト社会にタカが侵入したらどうなるか?」を考えると、なぜ日本で荒仕事すべきかが良く分かるはずだ」
C 「分かった、流石は、オレたち貧民階層を代表する「アマチュアエコノミスト」だ。筋が通っている」
B 「悪党のF1ハイブリッドだな。自家不和合性には陥っていない」
 このようにして、ABC の3人は仲間を募って日本へと荒仕事をするために行くことになった。こうして、 ハト社会日本にタカが侵入してくることになった。タカが多くなったことで、タカ同士の争いも激しくなった。荒仕事目的のガイジン同士の喧嘩や、殺し合いまで起こるようになった。 けれども、死刑廃止と直接結びつけて「死刑廃止によって凶悪犯罪が増えた」との理論をたてて「死刑復活」を主張する法曹界の人はいなかった。法曹界全体の宗旨に反することを言う勇気を持った「臍曲がり」はいなかった。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』       リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋書店   2006. 5. 5
『利己的な遺伝子』       リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋書店   1991. 2.28
『ゲーム理論の愉しみ方』  デイヴィッド・P・バラシュ 桃井緑美子訳 河出書房新社   2005.12.30
『つきあい方の科学』         R・アクセルロッド 松田祐之訳 ミネルヴァ書房  1998. 5.20 
『アナーキー・国家・ユートピア』   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上  ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下  ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      1989. 4.15
『日常生活を経済学する』         D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社  1999.11.17
( 2007年8月27日 TANAKA1942b )
▲top
(24)他業種からの考え方を移入すると
雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待
 このホームページは「死刑制度は存続さすべきだ」と主張しながら、経済学の視点から法曹界を批判しようと考えて書き始めた。 「死刑制度を存続さすべきだ」との主張は、「死刑が廃止されると、現実と法体系との間に矛盾が生じる」がポイントになる。これについては今まで多く書いてきた。 そして、後半部分では法曹界について、「他部門の知識・知恵が生かされていない。視野狭窄になっている」と批判している。そして、生物学・進化論やゲームの理論を取り上げてきた。 今週はその続きとして、育種学・品種改良の部門からの知識・知恵を取り上げることにした。
 品種改良のポイントは、同一種の間で性質の大きく違ったものを掛け合わせることによって、新しい品種が誕生する。メンデルの法則から説明できるように、一代雑種(F1ハイブリッド)では、両親の良いところが現れる。 逆に、同じ品種のものを掛け合わせていくと、両親の劣勢部分が現れる。これを「自家不和合性」と言う。
 そうした品種改良の技法を理解すると、同じ様な人たち、同一業界内だけで議論していると、議論の品種改良が進まない、というのがTANAKAの考え方だ。そこで、今週は育種学・品種改良の分野での知識・知恵といったものを取り上げることにした。 今まで同様、直接的に「死刑は存続さすべきだ」との主張に結びつかないが、問題を広く、高い見地から考えるヒントになると思う。 法律や経済学とは違った分野なので、少し頭の回転を変えなければならないだろうが、そうすることによって、今までとは違った視点に立つことができ、新鮮な発想が生まれる可能性が出ると思う。
 ここに取り上げた文章は「日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論」や「地産地消という保護貿易政策」 からの引用なので、そちらを参照してもらえば、さらに良く理解できると思います。
*                      *                      *
<近親結婚はしないよ> 「直系血族又は親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」という定めがある。これは、民法第743条の「近親婚の制限」である。私たちは法律で、近親間の結婚を禁じられているのだ。その理由は、「同じ性質を持つ近縁なもの同士の有性生殖は、性質の組み換えが起こりにくく、生物には利益がない。利益が無いばかりでなく、隠されていた悪い性質が発現する可能性があり、生物種にとっては、むしろ害である場合が多い」からである。
 多くの植物の花の中には、オシベとメシベがある。オシベとメシベはそれぞれ、オスとメスの生殖器官である。だから、自分の花粉を自分のメシベにつけて、一人で生殖することができる。しかし、植物が自分の花粉を自分のメシベにつけ、一人で生殖することは、近親結婚の典型である。 この場合、個体数は増えるが、親のもつ性質の分身が生じるに過ぎない。「暑さに弱い」「寒さに弱い」「病気になりやすい」などの遺伝的な性質がまったく変化することなく、親から子へ伝わるだけである。生物にとって、これは好ましくない。 生物が子孫をつくる意義は、個体数を増やすことだけではない。オスとメスという2つの個体の性質を混ぜ合わせ、多様な性質の子孫をつくり出すことである。同じ性質のものばかりでは、それらに都合の悪い環境変化が起きた場合、その生物種は全滅してしまう。
 いろいろな性質の個体がいれば、いろいろな環境に耐えて、その中のどれかが生き残る可能性がある。つまり、多様な性質の個体が存在すれば、その生物種の環境への適応能力が幅広くなる。その種族が生き残るのに役立ち、地球上に存続していくことができる。 子孫が多様な性質を獲得する方法が、性の分化に基づく生殖(有性生殖)である。有性生殖では、オスの精子とメスの卵が合体する。その結果、オスとメスの遺伝的な性質が混ぜ合わされる。親の性質が混ぜ合わされ、組み合わせが変えられ、生まれる個体は、それぞれの親とは異なった性質を身につける。 植物にもオスとメスに分かれているものがある。メシベのない雄花だけを咲かせる雄株、オシベのない雌花だけを咲かせる雌株が別々の植物がいる。イチョウ、サンショウ、キーウイ、アスパラガスやホウレンソウなどである。これらは、動物と同じように、オスとメスの区別があることになる。この場合、自分の花粉が自分のメシベにつくことはない。 しかし、多くの植物は、一つの花の中にオシベ、メシベをもっている。このような植物たちも、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子を残すことを望んではあない。だから、植物たちは、工夫を凝らし巧妙はしくみを身につけて、自分の花粉が自分のメシベについて子孫(種子)ができることを避けている。
 花を見れば、オシベとメシベは離れている。「もっと仲良く、くっついていればいいのに」と思うが、1つの花の中で、オシベはメシベを避けるように、そっぽを向いている。そっぽを向くだけでなく、高さ、長さを変えているものも多い。オシベがメシベより長かったり、逆に、メシベがオシベより長かったりする。花を1つの家族とすれば、夫婦が接触することを避けあっている「家庭内別居」の状態といえる。 もっと、巧妙なしくみを身につけた植物もいり。1つの花の中にあるオシベとメシベの熟す時期をずらすのだ。たとえば、モクレンやオオバコのメシベは、オシベより先に熟し、オシベが花粉を出すころには萎えてしまう。逆に、キキョウ、ユキノシタやホウセンカのオシベはメシベより先に熟して花粉を放出する。メシベが熟すときには、まわりのオシベに花粉はない。だから、同じ花の中で、種子はできない。その性質は、「雌雄異熟(しゆういじゅく)」というむつかしい語で呼ぶが、私たち人間でいえば、「すれ違い夫婦」の様な状態である。  (『ふしぎの植物学』から)
<遺伝学の基礎=メンデルの法則>  赤い花と白い花を交配するとその子(F1)は赤い花となり、そのF1の自殖で得た子(F2)を100株育てると、赤い花が全体の3/4、白い花が1/4となる。赤白の違いが1遺伝子によって決まっていて、赤が優性のときに、F1が赤い花となり、F2で赤と白が3:1に分離する。 赤の遺伝子をA、白の遺伝子をaとすると、赤花の親の遺伝子型はAA、白花の親の遺伝子型はaaであり、F1の遺伝子型はAa、F2の遺伝子型はAAが1/4、Aaが2/4、aaが1/4となり、Aがaに対し優性でAaの株は優性の性質である赤花となると考えることにより説明できる。 AAやaaのように同じ遺伝子をペアでもつものをホモ接合体、Aaをヘテロ接合体といい、F1で優性の性質が現れることを「優性の法則」、F2で両親の特性が3:1に分離することを「分離の法則」という。
 遺伝の法則がこれだけでは、違うものを交配しても何も新しい特性のものが生まれてくる訳ではなく、面白くもない。メンデルが明らかにしたもう1つの法則が、品種改良を行う上で重要な法則、2つの独立した遺伝子の関係だ。赤花で正常な形の花を持つホモ接合体の親、白花で切れ弁の花をもつホモ接合体の親があり、赤花が白花に対して優性で、正常花が優性で切れ弁が劣性とする。 F1では全てが赤花で正常花。F2では赤花の正常花が9/16、赤花の切れ弁が3/16、白花の正常花が3/16、白花の切れ弁が1/16に分離するというものだ。ここで重要なことは、「親とは異なる新しいタイプである、赤花の切れ弁や白花の正常花が得られること」なのだ。このように親とは違う特質をもつ種類が得られることになる。これを
「独立の法則」という。
 このメンデルの法則が正しいことは証明されているが、実際はこれほど単純ではない。たとえば、直径10cmの大輪花と直径3cmの小輪花を交配しても、単純にF2で10cmの大輪花と3cmの小輪花が3:1で分離するわけではなく、大輪花から小輪花まで連続して分離する。10cm以上、3cm以下の花が分離することもある。6cmの中輪花のものを選んで自殖し続けると、だんだん花径の変異の幅が狭くなり、数世代続けると花径がほぼ均一となり新しい中輪の系統を得ることになる。これを「品種が固定化された」という。
*                         *                         *
<農産物の育種法> 農産物は品種改良によって消費者に気に入られるように変化・改良されていく。その方法を簡単にまとめてみた。
選抜育種法 は気に入らない品種を捨てていく育種法。自然界では強いものだけが子孫を残せる。ダーウィンの仮説によれば「生物は自然選択によって環境に適応するように進化する」との表現になる。育種では自然のままでは生きていけないような弱い品種でも、人間に気に入られれば子孫を残すことになる。コシヒカリは人間が栽培しなければ、自然のままでは、自分だけでは子孫を繁栄させることができず、やがて絶滅する。ただし、この育種法では突然変異でもなければ急激な改良はできない。
 メンデル以前の品種改良方法。江戸時代には武士、町人が花の品種改良を道楽としていた。ポイントはいいものをさらに育て、いらないものを捨てていく。この捨てることができず、もったいないと思っていると品種は改良されない。分離育種法、集団選抜法、循環選抜法などの言葉がこれに関係している。
交雑育種法 は2つの品種の良いところを生かした子孫を作る。両親の良い点が現れている。何代かに渡って品種を固定するので、固定種又は在来種となっていく。コシヒカリを始め、日本のイネはこの方法に依るものが多い。自家採種ができる。植物の混血児を作るようなこと。 突然変異利用、純系選抜法、系統育種法、集団育種法、派生系統育種法、合成品種育種法などの言葉がこれに関係している。
導入育種法  は「ただよそから持って来ただけだ」として育種法として取り上げてない文献もある。南北アメリカからヨーロッパに導入され、それが日本にまで伝えられた作物は多い。白菜のようにまるで日本に古くからあるように馴染んでしまった野菜も多い。アブラナ科の野菜には、露地栽培しているとミツバチなどによって他のアブラナ科の植物と自然交配され、代が進むごとに野生種に近くなり、野菜としての商品価値がなくなるものが多い。
一代雑種育種法 は2つの品種の隠れていた良いところを生かした子孫をつくる。潜在的には持っていたが現実には現れていなかった両親のよい性格が受け継がれている。よい性格は一代目だけ、代が進むと平凡な品種になる。「鳶が鷹を生んだ」とはこのこと。
 F1ハイブリッドという言葉によって全く新しい、アメリカから導入されたハイテクのように思う人もいるかも知れない。しかしメンデルの法則の第1実用化者は日本人、外山亀太郎博士が1915(大正4)年に蚕のハイブリッド品種を実用化し、 そのとき育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く市域された。 野菜の一代雑種は埼玉県農試の柿崎洋一が大正13年に、埼交茄と玉交茄の2品種を育成し、その種子を農家に配布した。これが日本で最初で世界で最初の野菜の一代雑種だった。
細胞育種法 はポマト(ポテトXトマト)の誕生で一時大きな期待が持たれたが、全く新しい植物の誕生は期待出来ないとなった。現在ではウィルスフリーなど、性質の一部を変える技術として利用されている。特定の品種にある性質を加えたり、あるいは取り除いたり、その利用方法は遺伝子組み換えに受け継がれていく。 葯を培養する方法と細胞を培養する方法がある。花よりも野菜に多く利用されている。組織培養技術利用、半数体育種法、胚培養、花粉培養、細胞融合、バイオテクノロジーなどの言葉が関係している。
遺伝子組み換え育種法 はある品種に他の品種又は、他の植物の持っている良い性質を加えた子孫を作る。ポマトのような新品種は期待できない。親の欠点をカバーした子、または良い性質が加えられた子が生まれる。 他の品種からとった遺伝子のDNAを染色体に導入し、その遺伝子を働かせ、品種改良を行う方法。@アグロバクテリウム感染法、Aパーティクルガン法(遺伝子銃法)、Bエレクトロボーレーション法(電気穿孔法)、などの手法がある。
<雑種強勢 hybrid vigor> ヘテローシス heterosis ともいう。生物の種間または品種間の交雑を行うと、その一代雑種はしばしば両親のいずれよりも体質が強健で発育がよいという現象がみられる。これを雑種強勢といい、農作物、家畜の品種改良にしばしば利用される。最初トウモロコシで発見され、ついで動物でもモルモットで認められた。
 一方、異なった個体間の受精のよって繁殖することを常態とする他殖性作物(トウモロコシなど)を、強制的に自殖(同一個体内で受精させる)させたり、近親間の交配を繰り返したりすると、子孫(後代)の生育がしだいに劣ってくる例が多い。これを自殖劣勢といい、雑種強勢と逆の関係になる。また、特定の遺伝子的な効果によって雑種第1代の生育がまれに弱勢化することがある。こらは雑種弱勢 hybrid weakness といわれる。 (平凡社『大百科事典』から)
雑種が純系よりも生育が旺盛なこと。両親の組合せによって雑種強勢が強く現れる場合と、そうでない場合があり、種内では一般に、特性が大きく異なる両親間で雑種強勢が顕著である。(『花の品種改良入門』から)
多くの作物の種子は自家受粉によってつくられ、純系と呼ばれる。これに対して父親と母親が別の個体から由来したものは雑種(ハイブリッド)と呼ばれる。かつては農産物を均一にするという観点から純系をつくることが中心に行われてきた。一方、雑種のなかには両親よりはるかに優れた性能を示すものがしばしば見られる。このような現象は昔から雑種強勢と呼ばれている。特にこの現象はトウモロコシで顕著に見られ、純系に比べ背が高く収量がはるかに多くなる。 現在世界で取引されているトウモロコシの種子の大半が雑種である。ダイコン、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、トマトなどその他の多くの作物でも雑種強勢を利用した種子が利用されており、この雑種強勢の性質は両親の関係が遠いほど出やすいという傾向がある。
 イネでは従来この雑種強勢の性質は利用されていなかった。その最も大きな理由は、現在利用されているイネは確実に種をとるために、野生種のもっている他家受粉受粉する性質を捨て自家受粉する性質を強くもっているため、雑種を作りにくいことにある。そして、それゆえ雑種強勢の性質があることは一部で知られていたが、あまり注目されなかった。
(『夢の植物を育てる』から)
<自家不和合性 self-incompatibility> 雌雄同花で正常な機能をもつ雌雄両配偶子が同時に形成されるにもかかわらず、受粉が行われても花粉の不発芽、花粉管の花柱への進入不能、花粉管の伸長速度低下または停止などにより、自家受粉が妨げられる現象。この現象は高等植物に広く見いだされ、明らかに他殖性 allogamy を維持、促進する繁殖様式の一つと考えられている。(以下略) (平凡社『大百科事典』から)
アブラナ科の植物には、自家不和合性と呼ばれる性質をもつものがあります。これは、受粉したときに雌しべと花粉のあいだで自己と非自己の認識反応がおきて、自分でない(=非自己の)花粉で受精して種子をつくります。いろいろな植物がこの自家不和合性の性質をもっており、アブラナ科植物や野生のタバコ、野生のペチュニアなどを使って最近に研究が展開されています。(『菜の花からのたより』から)
他家受粉では種子が出来るが、自家受粉では種子が出来ない特性。自家不和合性を示す植物は多く、近交弱勢による子孫の生存力低下を防いでいる。(『花の品種改良入門』から)
自家不和合性をもつ植物では、それを利用してF1採種ができる。自家不和合性とは自己と非自己の花粉を識別し、非自己の花粉で受精する性質である。自家不和合性といってもその性質が強いものや弱いもの、条件によって変動する系統もあるので、その性質を充分に吟味しながら使わなければならない。アブラナ科の野菜では、自家不和合性を利用したF1採種がわが国で実用化された。 雌雄異株のものではF1採種が簡単なように考えられるが必ずしもそうではない。植物では、両性花が同一個体に混じることがよくあるから、完全な雌系統を育種必要がある。ホウレンソウでは、雌性系統に雄花をつける条件を見出して自家受精させ、完全雌性系統を育成し、それを母胎として用いることによって成功した。(『植物の育種学』から)
19世紀、アメリカで、セイヨウナシのある品種が2万3000本も植えられた大果樹園がつくられた。ところが、花は咲いたが、不思議なことに、ほとんど実がならなかった。調べてみると、果樹園の一部分にだけ、実がなっているところがあった。そこには、別の品種のセイヨウナシが1本だけ誤って植えられていた。そこで、「同じ品種の花粉では実がならず、別の品種の花粉がつくと実がなるのではないか」と考えられた。 さっそく、別の品種の花粉をメシベにつける試みがなされた。すると、果実が実った。
 この現象は、「自分の花粉が自分のメシベについても、受精が成立せず、種子ができない」という性質を示している。この性質を「自家不和合性」と呼ぶ。自分の花粉を自分のメシベにつけて種子をつくることを避ける工夫である。セイヨウナシだけでなく、多くの果樹や、アブラナ科、キク科、ナス科やマメ科などの植物も、この性質を持っている。 この性質を持つ植物では、メシベに自分の花粉が付着しても、受精が成立しない。しかし、同じ仲間の他の植物体の花粉がついた場合には、受精が成立し、種子ができる。植物たちは、自分の花粉と他の花粉を識別する能力があるのだ。(『ふしぎの植物学』から)
*                      *                      *
 「学際」という言葉がある。違った専門分野の学問で隣り合ったものが、領域を乗り越えて互いに影響し合って、新しい分野を開拓する、といったことを意味する。 こうしたことがなく、1つの専門分野だけで問題を解決しようとしていると、いくらもがいてもユニークな発想が生まれずに、議論が空回りしていくことがある。 TANAKAはこうした状況を、「視野狭窄」とか「気配り半径の狭さ」とか、育種学の用語を使って「自家不和合性」と表現する。
 いままで取り上げてきた分野で言えば、経済学の分野とゲームの理論が結びついて、さらにそれが、生物学・進化論へと発展し応用されていったことがわかる。 そのようなことに関係する文章を引用してみよう。
<利己性と淘汰=進化論的発想から>> 遺伝子淘汰は、より高いレベルでの淘汰と本質的に両立しないのもではない。遺伝子淘汰の擁護者たちも、群が媒介者(ヴィークル)であることには同意できるからだ。 さらに、グールドが支持しているタイプの高いレベルでの淘汰は、裏切りの問題の大部分を回避できる。グールドは、淘汰の単位の一部は、複数の生物個体から構成されていると考えている。 だが、ここで彼が念頭に置いているのは、群淘汰ではなく、種淘汰なのだ。グールドは、種によって、絶滅しやすさを決める性質や進化的な生産性を決める性質がそれぞれ異なっているという考え方を、しかるべき保留は付けつつも受け入れている。
 たとえば、多様性が豊かな遺伝子プールを持つ種は、他の要素はすべて同じでも多様性が乏しい種にくらべ、環境の変化にさらされた場合の回復力が大きい。 広い地理的分布域を持つ種のも同じことが言える。広く分布している種は、限られた地域にしか生息できな種にくらべ、変化の影響を受けにくく、したがって絶滅しにくい。 (『ドーキンスvs.グールド』から)
<『ゲームの理論と経済行動』第1版への序文> 本書は、ゲームの数学的理論の詳しい説明とその種々な適用を示したものである。ゲームの理論は、著者の1人が1928年以来展開してきたものであるが、完全な形で出版されるのは今度がはじめてである。 その適用は2つの種類に分けられる。1つは、本来の意味でのゲームへの適用であり、もう1つは、経済学的問題や社会学的問題のなかで、ゲームの理論の視角から接近するのが採用であるような問題への適用である。
 本来のゲームへの適用は、ゲーム自体を研究するのに役立つと同時に、少なくともそれと同じくらいに、ゲームの理論を補強するのに役立つ。 この相互補完関係は、研究が進むにつれて明らかになるであろう。われわれの主たる関心は、もちろん、経済学と社会学の諸問題にある。本書では、この面でのごく単純な問題しか扱うことができなかったが、しかしこれらの問題は基本的な性格を持つものである。 それに加えて、われわれが第1に狙ったのは、利害が平衡しているのかそれとも対立しているのか、完全情報なのかそれとも不完全情報なのか、自由な理性的意志決定のもとのあるのかそれとも偶然の影響を受けているのか、といった問題を含めて、上記主題を扱う厳密な方法の存在を立証することである。
  ジョン・フォン・ノイマン  オスカー・モルゲンシュタイン    プリンストン、ニュージャージー      1973年1月
(『ゲームの理論と経済行動』から)
<経済学における数学的方法==序論> 本書は、経済理論の根本問題のうち、これまでの文献にみられたものとは違った取り扱いを必要とするいくつかの問題について、1つの分析視角を提出しようとするものである。 ここでの分析は、経済行動の研究から生ずる若干の基礎的な問題に関わっているが、これらの問題は、長い間、経済学者の注目の的だったものであり、最大効用を獲得しようとする個人の努力、あるいは最大利潤を追求しようとする企業家の努力を性格に記述しようとするさまざまな試みから生じてきたものである。 この仕事が、いかに厳しく、また事実克服しがたい困難を吹くんでいるかは、人のよく知るところである。たとえば、2人ないしはそれ以上の人々の間で、直接あるいは間接に財貨の交換が行われる場合双方独占、寡占、寡占ならびに自由競争といったような、いくつかの典型的な状況を前提としているときでさえ、そうなのである。 経済学の研究に携わる者にとって、これらの問題の構造は周知のものとはまったく異なった構造をもっているということを、本種において明らかにするつもりである。 さらに、それらの問題の正確な提示とそれに続く問題の解決とは、旧来のあるいは当代の数理経済学者が用いている手法とはかなり違った数学的方法の助けをかりて初めて得られるものであることも明らかにしたい。
 本書の考察では、1927年と1940−41年にいくつかの段階にわたって、著者の1人が展開した<<戦略ゲーム>>の数学的理論を大幅に援用しなればならない。 そこで、この理論を提示した後に、上に述べた意味での経済問題への応用を試みることにしよう。そうすれば、こうした応用が、いまなお未解決の多くの経済学的問題に、1つの新しい視点を与えることになることが明らかになるであろう。
 われわれはまず最初に、このゲームの理論は経済理論とどのような仕方で関係づけられるか、また両者に共通の要素が何であるかを示す義務があろう。 そのためには、これらの共通の要素がはっきりわかるような形で、ある種の基本的な経済問題の性格を簡潔に描写するのが一番よいであろう。
 そうすれば、上の両者の関係を設定するのがなんら無理なことではないばかりか、反対に、この戦略ゲームの理論が、経済行動の理論を展開するのに適した用具であることが明らかになるであろう。
 しかし、著者たちの議論の意図を誤解しないように注意して置きたいのだが、ここでの議論は、これら2つの領域の間にある類似性を単に指摘するだけにとどまるものではない。 われわれとしては、2、3の納得のゆく定型化を展開したのちに、経済行動の典型的な諸問題が、適当な戦略ゲームの数学的概念と厳密に一致することを満足できる形で立証したいのである。 (『ゲームの理論と経済行動』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『植物の育種学』                      日向康吉 朝倉書店     1997. 3. 1
『夢の植物を育てる』                 鎌田博・堀秀隆 日本経済評論社  1995. 7. 1
『ふしぎの植物学』                      田中修 中公新書     2003. 7.25
『平凡社 大百科事典』                        平凡社      1984.11. 2
『花の品種改良入門』                西尾剛・岡崎桂一 誠文堂新光社   2001. 6.15
『ドーキンスvs.グールド』      キム・ステルレルニー 狩野秀之訳 ちくま学芸文庫  2004.10.10
『ゲームの理論と経済行動』J.V.ノイマン/O.モルゲンシュタイン 銀林浩・橋本和美・宮本敏雄訳 東京図書 1972.10.25
( 2007年9月3日 TANAKA1942b )
▲top

(25)功利主義的な死刑制度 
とりあえず、これに代わりうる制度は考えられない
<死刑に代わる極刑を提案せよ>  死刑廃止論者が死刑に代わる極刑として提唱しているのが、「仮釈放なしの終身刑」だ。ただし基本的には「代替案を提唱する必要はない」と言う。 そしてこの他には、懲役刑を加算する方式、懲役50年とか100年とか200年になるという制度を提唱する人もいるがほんの少し。 つまり「本当は代替案は必要ないが、何か言っておいた方が良さそうだから、仮釈放なしの終身刑とでも言っておこう」という態度のようだ。 TANAKAはどうせなら、遊び心十分な代替案があってもいいだろうと思い、ここに代替案を幾つか考えてみた。 それは、法曹界の人が持ち合わせていない「遊び心」を大切にした考え方だ。代替案は提案しないで、「とにかく反対」だけを叫ぶのは、かつての学生運動、過激派などのだだっ子と同じだと思える。 「憲法9条を守れ」と叫び、「戦力はこれを保持しない」という条文に反する自衛隊をどうするのか提案しないのと同じ無責任な態度と言うべきだ。 ということで、好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミストTANAKAが死刑廃止論者に代わって、死刑に代わる極刑を提案しよう。
仮釈放なしの終身刑  これは、刑務所で人を殺しても刑が加算されるわけでもないし、逆に真面目に務めていても刑が軽くなるわけでもない。 したがって、刑務所で真面目に務めようとのインセンティブが働かない。「刑務所で真面目に務めても、悪いことしても何も変わらない」「もう、どうでもいいから好き勝手にしてやろう」 との気持ちになる。極端に言えば、刑務所で人を殺しても、何も変わらない。刑務所の雰囲気が荒れる。この制度を採用してはいけない。
懲役年数を加算する制度  犯罪の残虐性などを考慮して、懲役年数を加算していく制度。例えば、人1人を殺すと懲役20年とすると、5人殺すと懲役100年、10人殺すと懲役200年となる。 これが2年や3年加算するなら意味もあるが、20年50年100年となると意味がなくなる。懲役100年と200年とどれほどの違いがあるのだろうか。人間はそれほど長くは生きられない。 懲役1万年などとなったら、法律問題としてはピント外れのナンセンスな問題となる。 「死んでも極楽には行けず、必ず地獄へ行くことになる」と言っても、刑法の感覚とはまるで違った、宗教の分野の話しになってしまう。 もっとも死刑反対論者のなかには宗教家が多く、法曹界の人間もその臭いがする。
収容所送り  ソ連時代のラーゲリをロシアで復活させ、世界各国から収容所送りの囚人を受け入れる。死刑が廃止され各国でそれに代わる刑が検討されるが名案はない。 そこでラーゲリの復活となるのだが、運営のノウハウはロシアにしかない。そこで各国はロシアに依頼して囚人を管理して貰うことになる。ロシアとしてもせっかくのノウハウを生かさない手はない。そこで当時の関係者がラーゲリを復活させる。ロシアの外貨稼ぎの主要な産業になる。 各国は、金さえ払えば体裁の悪い制度はロシアに任せられるので、積極的に利用する。このイメージはこういうことだ。「わが国は平和を愛し、戦争をしないために軍隊を持たない。従って、世界のどこかで紛争があっても、わが国は軍隊=自国を守る自衛隊は送らない。その代わり資金を提供する。 汗を流さず、金ですべてを解決するのがわが国の姿勢だ」との考えをイメージすると分かりやすい。
 死刑廃止論者のなかには「死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している」 とか「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」との意見もある。それならば「収容所送り」にも反対はしないだろう。
 この代替案は実現の可能性が高い。ロシアで成功したとなると、他の国でも採用しようとする。収容所の立地条件は脱走できない所だ。シベリアのような寒い地方で、近くに人の住むところのないところ、となると他にも考えられる。 砂漠の中も候補地になる。あるいは中南米のジャングル地帯も候補地に上がる。1973年製作、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の映画「プレデター」の舞台となった土地だ。
 あるいはアフリカも候補地に上がる。これは1995年製作、ダスティン・ホフマン主演の映画「アウトブレイク」で登場したアフリカのジャングルの奥地。 密林というだけでなく、未だよく知られていない病原体による病気に感染する恐れのある地域だ。脱走しても、治療不可能な病気になる恐れがある。
 もっとも1973年、アメリカとフランスで製作された、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマン出演の映画「パピヨン」はフランスで終身刑の判決を受け、 祖国フランスを追放される上に南米ギアナで過酷な強制労働が科せられた主人公が脱走することに成功する。この映画は実際にあったこと、アンリ・シャリエールの伝記小説を映画化したものであった。 ということで、立地条件だけでは決められないのではあるが、生産工場を整備するよりはリスクは少ないだろう。
島流し=流罪  「現代の先進民主主義国において流罪は絶対的不定期刑に該当するとして、罪刑法定主義と言う近代刑法原則の派生原理から禁止されている」と言う事です。その理由とは、「刑務所内で囚人たちに自給自足の生活をさせ、餓死者が出ても放置する」に等しいことですから、現代の人権感覚では容認できることではありません。  しかし、何らかの方法により餓死者が出ないようにすれば、これも死刑制度の代案と考えることもできるでしょう。
仇討ち受け入れ人間として、仮釈放  国家は、判決が出たら「仇討ち受け入れ人間」として仮釈放する。被害者およびその関係者が申請したら、仇討ちを許可する。 被告は自己責任において仇討ちから逃れるために逃走する。国家は行き先を把握しているが、仇討ち者には教えない。国家がこの判決に対してのコストは非常に少ないものとなる。 財政再建政策として効果的なので、税収の少ない国家で採用が検討される。
 この場合被告がこの判決を不服としたら、その場合は「仮釈放なしの終身刑」を選ぶことができる。
 この制度を施行してくと「仇討ちしたいが、私はもう年を取っているのでできない。他の人が代わって仇討ちしてくれるといいのだが」と年老いた被害者の母親が希望してくる。 その希望を叶えるとなると、仇討ち代行業もできてくることになる。こうしたケースが多くなると業界への参加企業も増えてくる。業界団体が結成されれば圧力団体としてレントシーキング活動を活発に行うようになる。 「新しいベンチャー企業が育ってきた」と評価する経済評論家も登場するだろう。
国家秘密工作員に任命  警察官を殺害し、本来ならば死刑になる不良少女、ニキータが政府に雇われ暗殺者として生き延びる、映画「ニキータ」。 これは1990年のフランス映画で、1993年にはブリジット・フォンダ主演・『ア・サ・シ・ン』 (Point of No Return) というタイトルでリメイクされている。
 こうした国家秘密工作員組織は冷戦時代ほど仕事量は多くいない。旧ソ連のチェーカー、ゲーペーウー (GPU) 、ソ連国家保安委員会 (KGB)、アルバニアのシグリミや、 旧東ドイツのシュタージ(国家保安省)、ルーマニアのセクリタテア、韓国の韓国中央情報部(KCIA)、こうした組織に活気があった頃に比べれば就職難と言えるかも知れない。 それでもテロ組織による人質事件が多く起きている現状では、それなりの需要があるに違いない。
 もしも国家秘密工作員を辞めたいと申し出たらどうするか?それは、かつて日本でも放映された連続テレビドラマ「プリズナーbU」を参考にすれば良い。 1969年3月から連続17話で放映された「プリズナーbU」(主演「秘密諜報員ジョン・ドレイク」のパトリック・マクグーハン。NHKテレビ、日曜日21:30から)、あらすじは、国家秘密工作員を辞めたいと申し出た主人公が誘拐され、「村」に閉じこめられる。コンピュータで制御された監視システムによりそこから逃げられない。 最後は、主人公がコンピュータに勝って脱出に成功する、という物語だ。
 情報工学の専門家であった先生が言った「あのテレビはおもしろかった。主人公がコンピュータに勝つ、その方法が、コンピュータの弱点をよく描いていた」と。 あの頃の知識でさえコンピュータで制御すれば暴力を使わずに刑務所を運営できることを示唆している。その考え方は、今後民間運営の刑務所にも応用されることであろう。 ただし、施設の名前は「社会復帰促進センター」ではなく「○○刑務所」となるに違いない。
国連外人部隊に採用  国家秘密工作員になるにはそれなりの才能とセンスが必要になる。フランスの外人部隊のようなものならばもう少し採用基準は甘くなる。 そこで、国連が採用し、国際紛争地帯に派遣する。パレスチナとかイラクとか、引く手数多となるだろう。
 この国連外人部隊である程度の成績を上げると民間警備会社からのお声がかかる。「ハート・セキュリティー」という警備会社の名前は日本でも知られている。 かつて斎藤昭彦さんがイラクの武装勢力「アンサル・アルスンナ軍」を名乗る組織に拘束されたことで知られる。 斎藤さんが所属していた「ハート・セキュリティー」社の場合、日当は日本円にして6万〜6万7,000円。高収入とはいえ、そのリスクは余りにも高い、と言うのは一般人の感覚、死刑囚にしてみれば見方は変わる。
むち打ち刑  例えば「むち打ち刑15年」、となったら、1日10回のむち打ちを15年続けることになる。 むち打ちは残酷だけれども、15年で釈放されるとなれば、死刑に比べて残酷な刑ではないし、「仮釈放なしの終身刑よりも残酷ではない」と言える。
 世界経済が成長し社会の倫理観も変わってきた。かつて死刑と言えば、石を投げて死刑囚を殺すことも行われていたが、現代ではそうした刑罰は行われない。 けれども、現代にあって、進みすぎた近代化を批判する人は多い。「古き良き制度を大切にしよう」との呼びかけは一定の支持者を集めることができる。 西洋近代社会に対する反発と相まって、「むち打ち刑」を現代に復活させようとの運動が起こることは十分考えられる。「自給自足」だとか「 地産地消」が受け入れられるのだから「むち打ち刑復活運動」が市民運動として、金と暇を持て余した有閑市民階級に支持されるとしても不思議はない。
*                      *                      *
<死刑制度は必ずしも理想的な制度とは言えない>  チャーチルはこんなようなことを言っている「デモクラシー(民主制度)とはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」と。これより良い制度は考えられないのだから、とりあえずこれで行こう、という功利主義。 これは、原理主義者や宗教家にはなかなか理解されない。何か1つを大切に、それにしがみつき、他を粗末に扱う、これが原理主義だ。
  もう1つ、ハイエクはこう言っている「デモクラシー(民主制度)とは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく,政治的・経済的な個人の自由を保証するための功利的な制度なのである」と。
  デモクラシーを「民主主義」と訳さず、「民主制度」と訳すのは、こうした考えからだ。そしてデモクラシー(民主制度)も資本主義・市場経済も、とりあえずこれで行くしかない。 そうして、こうしたことを理解し、納得すると「死刑制度も取り敢えず、これに勝る制度が考えられない以上、これ(死刑制度)を存続させるしかない」となる。
  善良な個人であっても、極悪人であっても、警察権力であっても、そして対象がヒットラーであっても、とにかく人を殺すのは良くない、そして、状況も関係ない、銀行強盗事件であっても、大和Vs赤井の会話であっても、 とにかく「人を殺すのは良くない」とだけ主張するのは新興宗教か原理主義と言うべきだろう。国の制度を議論する姿勢にはない。
*                      *                      *
<現実に簡易死刑執行(summary execution)が行われている以上、死刑制度は維持すべきだ> このシリーズの最初に書いたように、銀行強盗事件@ABのように、「人を殺さなくても実質的な死刑」「国家は人を殺さねばならぬ場合もある」となると、死刑制度は維持しなければ法体系に矛盾が生じる、というのがTANAKAの考えだ。 「気配り半径」とか「視野狭窄」という言葉を使って、刑法以外の経済学とか生物学・進化論、ゲームの理論などを引用したのは、直接的には「死刑制度維持論」にはならないが、幅広い視野で考える必要から取り上げてみた。
 けれども死刑廃止論者の論法は、哲学的であったり、感情的であったり、法律家の発言とは思えないものが多い。法体系としての矛盾に気付かずに主張していると言わざるを得ない。
 そして、こうした非論理的な主張を、死刑存続論者は批判しない。身内をかばい、非難をしない業界に思える。
*                      *                      *
<もう一度「銀行強盗事件」を考えてください 「人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生」>  TANAKAの主張は「死刑制度が廃止されると、法体系に矛盾が生じる」ということだ。ここで、もう一度、銀行強盗事件を掲載します。 いろんな見方がありますが、銀行強盗事件のような法体系に矛盾が生じるようでは、死刑制度は廃止できない、という趣旨を理解してください。
 そして死刑廃止論者は代替案を示すべきだと考えます。例えば、島流し、収容所送り、懲役200年、仇討ち許可書、毎日鞭打ち200回、特には代替案はなし、など。そうでなければ、「死刑廃止を主張する。後は専門家に任せる」ということなのか?

<銀行強盗事件@>
 某年某月某日15時00分、窓口業務が終了する直前、M銀行S支店に拳銃を持った強盗が入った。強盗は行員と客を人質に取り、3億円を要求した。 S支店ではなるべく時間稼ぎをしようと、ゆっくり準備する。強盗は苛立ち「グズグズせずに早く出せ!」と怒鳴る。それでもゆっくり準備をしていると「早くしろ、分からないのか!」と怒鳴り、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 行員たちは慌てて準備する。3億円の現金はすべて本物の札束で用意された。かつて、似たような銀行強盗があった時、札束の外側は本物で中身は偽物を用意していた銀行もあったがM銀行ではそのようなことはしない。 犯人が偽物だと知ったとき、凶暴になる怖れがある、金で解決できるなら、3億円は高くない。人1人の命に比べれば3億円は安いと判断する。
 さて、15時なって銀行の窓口営業は終了し、ATMコーナーと窓口との間を仕切るシャッターは下りている。行員が机の下の非常ボタンを押したため、事件は警察に通報され、さらに非常ベルが鳴り、事件を知った群集が支店の回りに群がり、警察官が群集を支店から遠ざけ、犯人の説得にあたる。 犯人は3億円を受け取ると今度は逃亡用のワゴン車を要求した。行員男女1人ずつを人質にワゴン車で逃亡する言う。ワゴン車で移動するとなると、どこへ向かうか分からない。警察としてはこの支店で事件を解決したい。 そのため返事をせずに時間稼ぎをする。犯人はイライラし、拳銃を乱射する。弾は沢山もっているようだ。犯人の拳銃がパトカーに命中した。警察官は冷静さを失った。パトカーを管理する警察官は自分に責任がなくても、パトカーが傷つけられれば、それだけで将来の昇進が絶望的になる。
 支店の周りには狙撃手が到着し機会をうかがうがチャンスがない。支店内では犯人がますます凶暴になり、このままではさらに人質に犠牲者が出ると思われた。特にこの日は「もの日」でもあり、15時過ぎてもロビーには客が溢れていた。「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 その行員を射殺した。このままでは何人も殺されるかもしれない。スキをみて若い行員が犯人に飛びかかった。他の行員や客も数人が犯人の上に重なり合った。 こうして犯人は銀行員=民間人に逮捕された。しかし、この格闘の間に、初めに飛びかかった若い行員が射殺された。このように行員3名が犠牲になっていた。
 さて、この銀行強盗の犯人は行員3名を射殺したのだが、死刑制度が廃止されたために無期懲役の判決が出た。世間では次のように噂した。「刑務所で15年も過ごせば、仮釈放になり、最後は畳の上での大往生になるだろう」と。
<銀行強盗事件A>  前記銀行強盗事件があってから1年後のこと、同じ様な銀行強盗事件があった。犯人の要求する逃亡用のワゴン車を用意せず、時間稼ぎをしていた警察。 イライラし凶暴になった犯人。「3億円、早く用意しろ!」と天井めがけて威嚇射撃をする。そして支店には狙撃手が到着したが、チャンスがない。犯人はますます凶暴になる。 「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 天井の蛍光灯を威嚇射撃する。「きゃー!きゃー!」という若い女性の叫び声が支店の外まで聞こえてくる。 警察官の間では1年前の事件のことが頭に浮かぶ。行員が射殺されたのに、死刑制度が廃止されたので、裁判での判決は無期懲役であった。 狙撃手が躊躇せずに撃っていたら犠牲者は出なかったかもしれない、と警察関係者は後悔の念にさいなまれていた。
 「このままでは昨年のように、犠牲者が出る怖れがある。スキをみて犯人を射殺するように」との指令が出た。皆、息を呑んで狙撃手の動きを見守る。凶暴になり、冷静さを失った犯人が窓際に来て外の様子を窺った。その時射撃手が日頃の訓練の成果を披露した。1発で犯人は倒れた。
 人質は無事解放され、犯人は救急車で運ばれた病院で死亡が確認された。犯人は実質的な死刑になった。
<銀行強盗事件B>  銀行強盗事件@が起きてから15年後のこと、同じ様な銀行強盗事件が起きた。今度は犯人が3人であった。主犯格Aが拳銃で脅し、3億円を要求し、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 また、「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、その行員を射殺した。
 共犯者Bは日本刀を振り回し、カウンターの中を歩き回っている。若いテラーたちが「きゃー、きゃー」叫ぶと嬉しそうな顔をする。共犯者Cは拳銃を持ち、天井の蛍光灯を撃ったり、外のパトカーを狙ったりして、西部劇の主人公を気取っているようだ。
 逃走用の車の用意が出来ていないか、主犯Aはさかんに気にしている。「警察はワゴン車を用意していないか?ちょっと外を見てみろ」。そう言われて共犯者Cが窓から外を見た。 その瞬間狙撃手の人差し指が動いた。共犯者Cは一発で倒れた。それを合図のように、行員が犯人AとBに向かっていった。主犯格Aには若い行員をはじめ数人が重なり合った。 主犯格Aはこうして逮捕されたが、その際に若い行員が射殺された。共犯者Bはというと、ベテラン行員がシャッターの後ろに隠してあった木刀を取り出し、共犯者Bに向かっていった。 しばらく日本刀と木刀の試合になったが、別の行員が近くにあった消化器を取って、共犯者Bに投げつけた。消化器は共犯者Bの後頭部に当たり、そこに倒れた。 このようにして犯人ABCは警察に引き渡されることになった。
 拳銃をもてあそんでいた共犯者Cは狙撃手に1発で射殺され、実質的な死刑になった。
 日本刀の共犯者Bは消化器が後頭部に当たり倒れたが、その後、後遺症が残り、半身不随で言葉が正常には話せなくなった。このため公判維持は不可能と認められ、不起訴になったが、結局住み慣れた土地を離れ、近所つき合いもなく、一生半身不随で車椅子の生活をおくることになった、と言われている。
 主犯格Aは行員3人を殺したが死刑にはならず無期懲役になった。この主犯格Aは実は、銀行強盗事件@の犯人であった。あの事件後、15年の刑務所生活をおくり、仮釈放になった。 前回は1人で失敗したので、今回は仲間を募って3人で実行したのだった。結局今回も前回と同じ様に3人を殺したが逮捕され、失敗に終わった。そして裁判では無期懲役となり、前回より長い刑務所生活を送ってから仮釈放になり、最後は畳の上での大往生であったと言われる (この時代では、個人情報保護が徹底され、犯人のその後の生活は取材も報道もされなくなっていた)。
 主犯格Aに関しては別の噂も流れていた。それは、「6人も殺しておいて最後が畳の上で大往生とは許せない」と、刑務所の中で、囚人たちが集団リンチを起こし、亡くなった。囚人たちはたとえ事件が知られても死刑になることはないと安心してリンチに加わり、看守たちはそれを知っていながら、臭い物には蓋と、単なる事故として処理をして外部には漏れていない、とまるで見てきたような噂も流れていた。 法務省は「個人情報に関しては発表しません。問題になるようなことはありません」としか発表しなかった。 死刑制度が廃止されてから、重大な事件でも判決は死刑ではなく、無期懲役に決まっているので、マスコミは大きく報道しなくなった。このため、殺人事件が起きても大きな社会問題にはならなくなっていた。 そうして、殺人事件が起きても大きな社会問題にはならなくなり、このため「最近、凶悪事件が減ったようだ」と言う人が増えた。
*                      *                      *
<場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」> 上記<銀行強盗事件@AB>と同じことを少し状況の設定を変えて説明した文章があるのでここで引用することにしよう。
大和 国家成立のための形式的条件は、通常、領土があること・人民がいること・主権があることと言われているが、さらに実質的条件を加えれば、「力の独占」と「領土内人間の保護」の2つが国家の基本としてあげられる。 「力の独占」とは国家権力による力の独占であり、国民当事者同士での「私刑(リンチ)」を許さず、国家がそれに代わるというものだ。早い話が、昔のような仇討ち、すなわち個人的懲罰は許さず、被害者の代わりに国家が公的懲罰を加害者に行うというものだ。また、「領土内人間の保護」とは犯罪等から国民を守ることであり、いわゆる警察機構を考えればよい。 この2つがもし欠けておれば、たとえ領土や国民や主権が存していたとしても、国家とは言い難い。
赤井 うむ、自立した法治国家であるためには、その2点確かに必要だ。
大和 よし、ではこの2点について話をすすめよう。話を分かりやすくするために次のような状況を想定してみよう。2階建てのビルの屋上で1人の男が妊婦を人質にしてたてこもっている。妊婦は椅子に縛られ、隣には日本刀を手にしたその男が立っている。ビルの周りは警官によって取り囲まれているが、屋上であるため強行突入ができない。 と、突然、犯人は持っていた刃で妊婦の足を刺し始めた。血を流し絶叫する妊婦。そして刃が次に妊婦の大きな腹に向かおうとしたその時・・・。この時、国家すなわち警察は何をしなければならないのか?言うまでもない、犯人を狙撃しなければならない。
赤井 ・・・。
大和 反論があれば、言ってもらってもかまわぬぞ。
赤井 いや、残念ながら、それ以外妊婦の助かる道はなさそうだな。
大和 そうだ、このような場合国家は国民を犯罪から守るため、人殺しも敢えてせねばならぬのだ。つまり、「国家は人を殺してもよいのか」ではなく、場合によっては「国家は人を殺さなければならぬ」のであり、これは国家に課せられた義務なのだ。
赤井 なるほど、その点は認めるとしよう。だが、このように妊婦を救うためなら緊急避難という点から仕方がないにしても、死刑は、すでに身柄を拘束され抵抗することのできない者に対する一方的な殺人ではないのか。
大和 うむ。この反論に答えるため、再び同様の例を用いてみよう。
 先の犯人Aが警察によって射殺され、妊婦が無事救出された次の日、また妊婦を人質にするという同様の事件が起きた。ところが、この犯人Bは先日の事件をニュースで知っていたため、狙撃防止用のバリケードを築き、さらに防弾チョッキを身にまとっていた。こうして自分の身の安全をはかった上で、先日同様妊婦の足を刺し始めた。妊婦は血を流しながら絶叫する。 警察は犯人狙撃が不可能なため強硬突入を試みるが、屋上であったためにどうしても時間がかかり、屋上に着いた時には妊婦は腹を断ち割られ胎児とともに刺し殺されていた。犯人Bは下手に抵抗すれば射殺される可能性もあると素早く計算し、刀を捨て素直に逮捕された。そして、裁判にかけられたが「死刑制度が廃止されていたため」死刑にならずにすんだ、と仮定しよう。
 犯人Aの罪状は「殺人未遂」であり、国家が与えた罰は「死」である。妊婦は無事生きている。他方、より狡猾で残忍な犯行を現に行った犯人Bの罪状は、無論「殺人」である。当然、妊婦・胎児ともに死亡した。にもかかわらず、死刑制度が廃止されておれば、犯人Bは国家から「死」を与えられることはない。罪状の重い犯人Bが、犯人Aより軽い罰ですむというこのような不均衡が、法の下で平等を唱える法治国家で許されて良いのか、 と問われれば、廃止論者であるお前は何と答えるつもりだ。
赤井 ・・・。
(『平等主義は正義にあらず』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版                             古田佑紀 国立印刷局   2005. 4. 1
『平等主義は正義にあらず』                            山口意友 葦書房     1998. 3.10 
『死刑廃止論』第4版                               団藤重光 有斐閣     1995. 1.30 
『死刑廃止論』第5版                               団藤重光 有斐閣     1997. 6.30 
『死刑廃止に向けて』代替刑の提唱                         菊田幸一 明石書店    2005. 3.30
『女たちの死刑廃止「論」』                       死刑をなくす女の会 三一書房    1984.11.15
『死刑廃止とキリスト教』                    死刑廃止キリスト者連絡会編 新教出版社   1994. 1.25
『知ってますか?死刑と人権』一問一答       アムネスティ・インターナショナル日本支部 解放出版社   1999.12.10
『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』       年報・死刑廃止編集委員会編 インパクト出版会1996. 5.10
『死刑執行停止を求める』                        日本弁護士連合会編 日本評論社   2005.12.25
『死刑廃止を求める』                  佐伯千仭+団藤重光+平場安治・編著 日本評論社   1994.12.20
『第二次世界大戦はこうして始まった』      ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社  1995. 6.23
『20世紀のヨーロッパ経済』         D・H・オリドクロフト 玉木俊明・塩谷昌史訳 晃洋書房    2002.11.30
『ヒットラーでも死刑にしないの?』                        中山千夏 築地書館    1996.11.27
『「おろかもの」の正義』                             小林和之 ちくま新書   2000.12.10
『柔らかなカント哲学』増補改訂版                         平田俊博 晃陽洋書房   2001. 6.20
『刑法という法律』改訂版                             古田佑紀 国立印刷局   2005. 4. 1
『刑法がわかった』                                船山泰範 法学書院    2000. 9.30
『刑法の基本思考』                                 中村勉 北樹出版    2000. 3.25
『刑事法を考える』                        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社   2002. 7.20
『いちばんやさしい刑事法入門』                 佐久間修・高橋則夫・宇藤崇 有斐閣アルマ  2003. 4.30
『刑事法を考える』                        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社   2002. 7.20
『経済倫理学のすすめ』「感情」から「勘定」へ                   竹内靖雄 中公新書    1989.12.20
『迷信の見えざる手』                               竹内靖雄 講談社     1993. 9.30
『法と正義の経済学』                               竹内靖雄 新潮選書    2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』                          小谷清 日本評論社   2004. 5.20
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』        アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫    1966.12.20
『イワン・デニーソヴィッチの一日』              ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮文庫    2005.11.25
『収容所群島』                        ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮社     1974.12.20
『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』 ジャック・ロッシ 染谷茂・内村剛介・梶浦智吉・麻田恭一訳 恵雅堂出版   1996.10. 1
『柔らかなカント哲学』増補改訂版                         平田俊博 晃陽洋書房   2001. 6.20
『ベッカリーアとイタリア啓蒙』                          堀田誠三 名古屋大学出版会1996.11.20
『公共経済の諸要素』                 チェーザレ・ベッカリーア 三上禮次訳 九州大学出版会 1997. 2.28
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『ロールズ』     チャンドラン・クカサス/フィリップ・ペティット 山田八千子・嶋津格訳 勁草書房    1996.10.14
『公正としての正義再説』 ジョン・ロールズ エリン・ケリー編 田中成明・亀本洋・平井亮輔訳 岩波書店    2004. 8.26
『ロールズ正義論再説』その問題と変遷の各論的考察                渡辺 幹雄 春秋社     2001.12.25 
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『自生的秩序』                                   嶋津格 木鐸社     1985.11.30
『経済思想の巨人たち』                              竹内靖雄 新潮社     1997. 2.25
『利己的な遺伝子』     リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店  2006. 5. 5
『サバイバル・ストラテジー』               ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社     1983. 4.20
『マン・チャイルド』           ダビッド・ジョナス+ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書店新社  1984. 7.10
『遺伝子の川』                     リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 草思社     1997. 8. 1
『利己的遺伝子とは何か』DNAはエゴイスト                中原英臣・佐川峻 講談社     1991.10.20
『盲目の時計職人』自然淘汰は偶然か?         リチャード・ドーキンス 日高敏隆監修 早川書房    2004. 3.31
『ゲーム理論の愉しみ方』             デイヴィッド・P・バラシュ 桃井緑美子訳 河出書房新社  2005.12.30
『つきあい方の科学』                    R・アクセルロッド 松田祐之訳 ミネルヴァ書房 1998. 5.20 
『日常生活を経済学する』                    D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社 1999.11.17
『ゲームの理論と経済行動』 J.V.ノイマン/O.モルゲンシュタイン 銀林浩.橋本和美.宮本敏雄訳 東京図書    1972.10.25
『ユートピア』                          トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫    1978.11.10
『ベッカリーアとイタリア啓蒙』                          堀田誠三 名古屋大学出版会1996.11.20
『そして殺人者は野に放たれる』                           日垣隆 新潮社     2003.12.20
『ジェフリー・アーチャー日本を糺す』           ジェフリー・アーチャー 永井惇訳 講談社     1993. 1.25
『死刑廃止宣言』                        死刑廃止をすすめるつどい編 三一書房    1980.11.30
『サルの正義』                                   呉智英 双葉社     1996. 7.15
『ドーキンスvs.グールド』                 キム・ステルレルニー 狩野秀之訳 ちくま学芸文庫 2004.10.10
『知ってますか?死刑と人権』     一問一答  アムネスティ・インターナショナル日本支部 解放出版社   1999.12.10
『ダーウィン・ウォーズ』            アンドリュー・ブラウン 長野敬+赤松真紀訳 青土社     2001. 5.15
『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』       年報・死刑廃止編集委員会編 インパクト出版会1996. 5.10
『年報・死刑廃止 犯罪被害者と死刑制度』            年報・死刑廃止編集委員会編 インパクト出版会1998. 8.25
『生き物の進化ゲーム』                     酒井聡樹・高田壮則・近雅博 共立出版    1999. 9.25
『時空を旅する遺伝子』最新分子生物学の不思議ワールド                西田徹 日経BP社   2005. 7. 4
『犯罪心理学入門』                                 福島章 中公新書    1982.10.25
『囚人のジレンマ』                ウィリアム・バウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社     1995. 3.20
『DNA』            ジェームス・D・ワトソン アンドリュー・ベリー 青木薫訳 講談社     2005. 3.20
『心を生み出す遺伝子』                   ゲアリー・マーカス 大隅典子訳 岩波書店    2005. 3.24
『生命と風土』生物進化の秩序をさぐる                        中村運 化学同人    1999. 9.30
『ゲーム理論を読みとく』戦略的理性の批判                     竹田茂夫 ちくま新書   2004.11.10
『生物学の変遷』 新しい進化生物学入門         松本忠夫・西田治文・二河成男 放送大学教育振興会  2006. 3.20
『遺伝子組換え作物の研究』                          日本農学会編 養賢堂     2006. 4. 3
『江戸のお白州』                                 山本博文 文芸春秋    2000. 9.20 
『日本の刑務所』                                 菊田幸一 岩波新書    2002. 7.19
『刑法入門講義』 新しい刑法の世界                        前田雅英 成文堂     2000.12. 1
『ドキュメント裁判官』 人が人をどう裁くのか                読売新聞社会部 中公新書    2002.12.20
『現代に死刑は必要か』                              三原憲三 第三文明社   1980.12.25
『刑法の基本思考』                                 中村勉 北樹出版    2000. 3.25
『修復的司法とは何か』           ハワード・ゼア 西村春夫・細井洋子・高橋則夫訳 新泉社     2003. 6.30
『死刑執行停止を求める』                        日本弁護士連合会編 日本評論社   2005.12.25
『死刑廃止の研究』                                三原憲三 成文堂     2006. 9. 1
『史料 日本の死刑廃止論』                            辻本義男 成文堂     1983. 4.20
『刑務所の正体』                                 坂本敏夫 日本文芸社   2003.11.25
『死刑論の研究』                                  後義輝 三一書房    1993. 9.15 
『死刑の日本史』                                 佐藤友之 三一書房    1994. 8.15
『死刑論』               辻本義男 中央学院大学アクティブセンター出版編集部 丸善      1994. 3.27
『日本獄制史の研究』                               重松一義 芳川弘文館   2005.11. 1
『徳の起源』 他人をおもいやる遺伝子            マット・リドレー 古川奈々子訳 翔泳社     2000. 6.14
『明治黎明期の犯罪と刑罰』                           小泉輝三郎 批評社     2000.10.10
『死刑の「昭和」史』                               池田浩士 インパクト出版会1992. 3.25 
『死刑囚からあなたへ』 U                     日本死刑囚会議・麦の会 インパクト出版会1990.12. 1
『そして、死刑は廃止された』             ロベール・パダンテール 藤田真利子訳 作品社     2002. 4.30
( 2007年9月10日 TANAKA1942b )
このページ▲top   死刑廃止でどうなる?▲top 

 最後まで読んで頂きありがとうございました。これからもよろしくお付き合いのほどお願い致します。
TANAKA1942b
趣味の経済学
死刑廃止でどうなる?
刑法を経済学的に考えてみよう




 tanaka1942b@hotmail.com