趣味の経済学  死刑廃止でどうなる?  廃止論者は代替え案の提示を

(9)1人の生命が重いからこそ死刑制度を
軽いのなら関係者同士で仇討ちを
 死刑廃止論の理由の1つに「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」から死刑は廃止すべきだ、というのがある。 「これを文字通りに解釈すれば、生命は無類の絶対的価値を有するから死刑制度も廃止すべきことになるはずである」と死刑廃止論者は主張する。しかしそれは間違っている。 「生命が重いからこそ、その生命を奪う者には毅然とした態度をとるべきだ」という論法が正しい。しかしこれだけの説明ではなかなか納得しないかもしれない。そこで、反対のことを考えてみよう。つまり「人の生命なんて、社会に大きな影響を与えるほどでない人のために国家が多くの費用を払う必要はない」となったらどうなるか、ということだ。 たとえば日本国家に特別必要な人間はともかく、それほどでない人間が殺されたとする。型どおりの捜査はするが、犯人が特定できなければ捜査本部はすぐに解散する。そして警察は声明を発表する。「これで捜査は打ち切る。後は関係者で捜査するように。犯人が特定できたら、国家は、<仇討ち許可証>を発行する」と。
 このシリーズの最初に取り上げた「銀行強盗事件」、射撃手が犯人を射殺する正当性は何か?1人の生命が重いから、「1年前のようなことになってはいけない。何としても犠牲者を出さないようにしなくては、そのためには、惨いようだけれども犯人を射殺すべきだ」となったはずだ。 もし、そうではなく、「銀行員や利用客の1人や、2人の生命は奪われてもしようがない」ならば、時間をかけてでも犯人の説得にあたり、狙撃手の日頃の訓練の成果を見せる必要はなかった。
 もし、1年前の事件があっても、警察がなかなか犯人を撃たなければ、「警察は1年前の事件を忘れたのか!犠牲者が出てもいいのか!人1人の生命はそれほど神経質になるほどは重くないのか!」との批判が出るだろう。
 特に、赤井vs大和の対話の例では、ハッキリするはずだ。それでも、「犯人の生命も尊重すべきだ」との趣旨の発言をするとしたら、それは人権主義ではなくて、単なる臆病、でしかない。優柔不断で事なかれ主義で。厳しい現実から常に目を逸らそうとしているに過ぎない。
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<臆病主義がヒットラーの暴走を許したのだった!>  「とにかく戦争はイヤだ」ONT color=#004000>と臆病主義に徹して歴史に大きな汚点を残したのが、1938年9月29日、30日のミュンヘン会議だった。 これについては<日本の安全保障 軍事介入の政治経済学>で書いた。その一部をここに転載しよう。
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<チェンバレンの誤算> 1938年9月30日の朝、深刻な意見の対立が生じていたイギリスへ帰る直前に、ネヴィル・チェンバレンはヒトラーの説得に成功し、英独不戦条約の調印にこぎつけた。これこそ、ドイツからロンドン郊外クロイドン空港に戻ってきた飛行機のタラップを降りるとき、チェンバレンが高々と振ってみせた有名な1枚の紙切れである。待ちかまえていた記者団のマイクロフォンとニュース映画のカメラの前で、チェンバレンはその文面を読み上げた。彼が下院で再び条文を読み上げたとき、一部の人びとを除く全員がさしあたり戦争の心配はなくなったとして胸をなでおろした。この条約の内容は、次のようなものだった。
「ドイツ国総統兼首相とイギリス首相は、本日新たな会談にのぞみ、英独関係こそ両国およびヨーロッパにとって第一義の重要性をもつという点で見解の一致を見た。
「われわれは、昨夜調印した協定ならびに英独海軍協定を、二度と英独が戦うことがあってはならないという、両国国民の希望を象徴するものと見なす。
「われわれは、両国にかかわる他の問題が生じた場合にも、協議という方法でその解決にあたることを決意し、また将来に禍根を残しかねない要因を除去すべく、両国がひきつずき努力することによって、ヨーロッパの平和の確立に貢献できるものと考える」
 だが、1年とたたないうちに、ドイツとイギリスは交戦していた。
 ミュンヘン協定は、ヒトラーの最大の勝利として世界に宣伝された。イギリス議会ではチャーチルとアンソニー・イーデンとダフ・クーパー(これほど恥ずべき行為には賛同しかねるとして、海軍大臣を辞任した)が、これを痛烈に非難した。中央ヨーロッパにおけるフランスの立場は、あっという間に弱くなってしまった。「ボヘミアを制する者がヨーロッパを制す」という言葉がある。そのボヘミア----チェコスロバキア----は、国境の防御を剥ぎ取られ、同盟国もなく、まさに無防備な状態で、いまやヒトラーの手中にあった。プラハの市街を行き交う人びとは、衝撃と失望の色を隠せなかった。 フランスのM・ダラディエ首相は、ミュンヘン協定の締結をみじめな敗北と思うあまり、ミュンヘンから戻ったとき、ル・ブールジェ飛行場に出迎えた群衆を、抗議に集まった暴徒の群れと勘ちがいしたという。
(「第二次世界大戦はこうして始まった」ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995.6.23 から)
 当時、ヒトラー、ムッソリーニに対する当事者=チェンバレン、ダラディエが宥和策をとり、政権から遠い人が強攻策を主張した。フセイン政権に対するブッシュ大統領の強硬策とは逆。こちらはアメリカ、イギリスが強硬派、フランス、ドイツ、ロシアが宥和策派、そうして政策決定とは遠いところにあり、結果の責任を問われない市民、マスコミが宥和政策を強く主張した。
 ところで当時のアメリカはというと、1937年から40年までジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・P・ケネディ(Joseph Patric Kennedy 1888-1969)が駐英大使を勤めていた。そしてミュンヘン宥和策を支持したとして批判されている。
<「ぶれてはだめよ、ジョージ」>
毎日新聞のコラムに興味深い文があったので一部引用しよう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。 ナチス・ドイツとの戦争を回避するために、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させた。揚げ句の果ては第二次大戦だ。「すべてお前のせいだ」と指弾され、失意のまま政界から消えた。 英政界では「第二のチェンバレン」というレッテルは、死の宣告に等しい。90年湾岸危機の際、サッチャー英首相がブッシュ父米大統領に「ぶれてはだめよ、ジョージ」と強い態度を曲げないように助言したのもそのせいか。 ( 毎日新聞「余禄」2003年3月2日から)
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<臆病主義が日・独・伊の3国同盟を許した>  第1次世界大戦後から第2次世界大戦に至る過程で、象徴的な出来事が<ミュンヘン会議>であった。そして「臆病主義」は徹底していて、 日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまった。これに関しては<フランス政治の混乱>を参照のこと。
 日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまったことに関しては、<いたずらっ子が不良になる>と題して次のように書いた。
 いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。
 フセイン政権が続いていたらどうなったであろう?国連の査察団に適当に対応しながら、「わが国は十分制裁を受けた。これからは主権国家として自国の平和と安全に責任を負うことを宣言する」と、大量破壊兵器を開発した時点で表明したに違いない。
 拡散した核を元に戻すのは不可能、まるでエントロピーのようだ(熱力学の第2法則)。かつて一部のマスコミが「地上の楽園」と呼んだ彼の国、核保有国となったらアジア軍事情勢はどう変わるだろうか?1962年10月16日からのキューバ危機 (Cuban Missile Crisis)が思い起こされる。「とにかく戦争はいやだ」との市民感情では対応できない危機になることは間違いない。
<第1次世界大戦の人的被害の大きさは……>
 第1次世界大戦による人的損失を正確に計算することは困難である。その理由は、この時代のデータにあまり信頼性がないばかりではなく、戦争そのものによる死者は、記録された死者の総数のわずかな部分しか占めていないからである。 戦場よりも、飢餓と疾病あるいは内戦のために死んだ人の方が多かった。しかも、戦争のために出産が低下し、人口が減少したことについて基づいて作成されなければならなかった推計もある。ロシアの統計は、悪名高いまでに解釈が困難である。
 戦争そのものによる死者は、相対的に極めて少なかった。戦争中に、約8,500万人(ロシアの推計も含めて)が従軍中に死んだ。すなわち、徴兵により動員された人々のおよそ15%にあたる。 これは、ヨーロッパの総人口の2%未満であり、男性の総労働力のおよそ8%に相当した。さらに、約700万人の人々が生涯身体障害者になった。それに加えて、1,500万人が相当程度負傷した。
 戦闘員が最大の被害を被ったことは疑えないが、死者の数には相当違いがあった。最も死者が多かったのはドイツとロシアで、それぞれ200万人と170万人であった。 フランスは140万人、オーストリア─ハンガリーが120万人。英国とイタリアは、ほぼ75万人。小国では、ルーマニアは25万人、セルビアとモンテネグロは32万5000人が死亡し、重大な被害を受けた。 しかしながら、大抵の場合、人口の比率に与えた影響は極めて小さかった。大国の中で、フランスが最大の減少を被り、戦闘行為により人口の3.3%を失った。 ドイツはそれとあまり変わらず、3%であった。たの大抵の国は、2%以下であった。実際、相対的には、小国の方が、最悪の事態になるのが一般的であった。たとえばセルビアとモンテネグロは人口の10%を失った。
 もちろん、死者の絶対数そのものよりも、それが与えた衝撃の方が大きかった。なぜなら、死者の大半は人生の盛りに命を奪われたのであり、それゆえ労働力の中で最も生産的な部分を構成していたからである。 ここでドイツを引き合いに出そう。死者の40%が20〜24歳の年齢層であり、20〜30歳の年齢層は63%であった。フランスもドイツも、男性労働力の約10%を失った。イタリアは6%、英国は5%であった。 他方、無情なことのように思われるだろうが、両大戦間期に雇用機会が制限されたことを考えると、このような死者数は、不幸に見えるが、実際にはある種の天恵であったかも知れない。 (『20世紀のヨーロッパ経済』から)
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<東条英機を死刑にしたのは間違っていた?>  『ヒットラーでも死刑にしないの?』と題された本があり、著者は次のように書いている。
 「今まで、そんな場合について考えたことがありませんでした。言われてみると本当に、ヒットラーも死刑にしないのは、なんだか割り切れない気がします。 けれども、さっきお話したとおり、どんな人であれ、任意に殺す権利は誰にもない、と思います。ヒットラーは憎むべき存在ですけれど、それでもやっぱり、死刑にしないほうがいい、と私は思います」
 この考えに従えば、フセインの死刑には反対だし、チャウシェスク元ルーマニア大統領を殺したのも間違っていたし、東京裁判で東条英機以下7名が死刑になったことにも反対という「東京裁判批判派」なのだろう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。しかし、日本では、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させたチェンバレン首相と同じ考えが現代でも生きている。 それは「歴史に学ぶ」姿勢がないからだろう。もしかしたら、日独伊3国同盟を支持し、「大東亜戦争」を肯定し、東条英機を擁護する立場なのかも知れない。そうした考えの人は政治家にはならない方がいい。
 けれどもフランスでは2007年2月に、「死刑を永久に廃止する」ということが憲法に書き加えられることが可決された。フランスでは、「とにかく戦争はいやだ」「たとえヒットラーとでも戦争はしない」「ヒットラーでも死刑にしない」という宥和政策が現在でも支持されている。
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<狙撃手が銀行強盗を射殺するのにも反対なのか?> 死刑反対の論理を進めていくと、「銀行強盗の生命も重い。射撃手が撃つのは良くない」となってしまう。その現場にいて、そのように主張できる人間はいない。 けれども一般論としては、「たとえ人を殺した人間でも、その人なりの事情があったり、あるいは十分悔い改めているのなら、殺すのは良くない」と主張するに違いない。
 そのような、臆病主義が日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまったのだし、最初の銀行強盗事件で行員が殺される事態を招いてしまったのだった。
 「世界が平和であって欲しい」「武力紛争が起きないで欲しい」「そうした庶民の気持ちを打ち砕く事件が起きたらどうするか?」。ここで2つの主張が分かれる。 「人の生命は地球よりも重い。だから反社会的な人間でも、むやみに殺していいわけではない。死刑制度は廃止しべきだ」VS「地球よりも重い人の生命を奪う行為には毅然とした態度で向かうべきだ。 それは平和な社会を維持する基本である」。
 このように2つの考え方を並べて書いてみた。「それでも、人を殺すのは良くない。死刑制度は廃止すべきだ」と主張する人は出てくるだろう。 日本では、そうした考えですら主張する自由がある。デモクラシー=民主制度を採用する限り、国民全員がまったく同じ価値観で結ばれるということはない。多くの異質の意見が混在することが、民主制度がうまく機能していることの証明になる。 それでこそ、雑種強勢とか、一代雑種が期待できる。 そうでないと、自家不和合性に陥る恐れがある。 <民主制度の限界>で書いたように、全会一致は怖ろしい。 よく言われる「国民、みんなが心を一つにして」とか「価値観・歴史観を共有しよう」との主張は、結局のところ異質な考えを排除し、独裁政治への道を開くことになる。
 こうした点を考慮しても、「1人の生命は、全地球よりも重い。だから死刑制度を廃止せよ」は筋の通らない感情論だ思う。
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<仇討ちが合法化されたらどうなるか?> 「1人の生命は、全地球よりも重い」からこそ、その人命を奪う犯罪には厳しい姿勢で臨むシステムになっている。 もし、「1人の命は、それほど重くはない」となったら、国家は殺人犯に対して現在ほど厳しい姿勢で臨まず、「関係者で解決するように」となるだろう。 つまり「敵(かたき)討ち法成立」となる。近未来、「敵(かたき)討ち法成立」となり、仇討ちが合法化されたという設定の映画、「フリージア」がこの「死刑廃止問題」を考える場合に参考になるかどうかはわからないが、いろんな面から考えると今までとは違った面が見えてくる。 「気配り半径」が狭くなったり、「視野狭窄」になったり、法曹界の人たちは「自家不和合性」に陥りやすい。
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<主な参考文献・引用文献>
『第二次世界大戦はこうして始まった』ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995. 6.23
『20世紀のヨーロッパ経済』   D・H・オリドクロフト 玉木俊明・塩谷昌史訳 晃洋書房   2002.11.30
『ヒットラーでも死刑にしないの?』                  中山千夏 築地書館   1996.11.27
( 2007年5月21日 TANAKA1942b )
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(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの? 
目には目を、反省・償い、抑止力
 … は じ め に …で取り上げた、古田の文章にはこのように書いてある。
 世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 そこで、今週は「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」と題して書くことにした。あまりにも当たり前のように思っているが、この問いに対する答えの違いが「死刑反対」になったり、「死刑は存続すべし」になったりする。
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@<「目には目を」との考え> 江戸時代武士社会では仇討ちが認められていた。やったらやり返す。ごく自然のルールのように思われる。 ただしこれを個人間でやると、やったらやり返す、それに対してさらにやり返す、それに対してやり返す、と際限なく続いていく可能性がある。 仇討ちとか、やったらやり返す、を個人間では禁止し、国家がこれを行う、という考えだ。このように説明すると何となく理解したような気分になってしまう。
 個人が犯罪を犯し、個人が被害を受けた。それなのに、国家が個人に代わって処刑する。なぜ国家がそこまで個人間の争い事に関与するのだろう? それは「殺人は絶対に許されない」という毅然とした態度を国家が示すためだと考えると分かる。もし「殺人は良くないが、かと言って国家が関与するほど重大なことではない」となれば、死刑制度は必要ない。 このように考えていくと、死刑制度があるということは、国家が「人を殺すという殺人事件は絶対に許さない、という硬い決意を示すためだ」ということが分かるはずだ。 従って「人一人の命は地球よりも重い。だから死刑は廃止せよ」は間違っているのであって、「人一人の命は地球よりも重い。だからそれを犯す犯罪には毅然とした決意を示すべきだ」となるはずだ。
 ただし、「目には目を」というのは比喩的な表現であって、他人を傷つけ、「目が見えなくなったので、犯人も目が見えないような刑罰を与えるべきだ」という理論にはならない。 それでも、殺人事件で犯人に死刑ではなく無期懲役の判決が出たときに、被害者の家族が「納得出来ません。犯人には厳しい判決が出ると思っていました」と報道されるということは、 世間一般が「目には目を」ということをある程度容認しているからだ、と考えられる。同じように被害者の遺族が「極刑が出たことに満足しています」というのも、「目には目を」との考えの表れと考えられる。 つまり、「目には目を」との考えが正しいかどうかは人によって考えが違うだろうが、一般的に「目には目を」との考えは否定されていない。あるいは「そう言う考えの人がいても当然だ」と認められていると考えられる。 「人一人が命を失ったことに対し、あまりにも刑が軽すぎる」との感想もこの考えなのだろう。
A<反省し、社会貢献のための懲役>> 「悪いことをしたのだから、時間をかけて反省し、社会に復帰したら過去を取り戻すべく真面目に生活して欲しい」そのための懲役だ。 ということを言ってはいないけれど、そうした意味で「懲役刑」を考えることもできる。悪いことをした、その程度によって反省すべき時間が違ってくる。 うんと悪いことならば、反省のために長い時間が必要になり、懲役刑も長くなる。普通の人は刑務所で反省するのだが、普通の人ではない人、つまり未成年者は刑務所ではなくて少年院で反省することになる。 大人は刑務所に入れば自然と反省するようになるが、未成年者は反省のための指導者とか施設が必要になる。
 この考えに従うと、犯罪を犯した人は刑務所で反省し、社会に復帰して過去を償うことになる。だから、死刑になったら、反省する時間もないし、どんなに反省しても社会に復帰して過去を償うことができない。 せっかく反省しても、過去を償う事を拒否する「死刑制度」は良くない、という論理になる。このことだけから考えれば、「死刑制度は良くない」は実に筋の通った主張と言える。 ただし、「死刑制度を廃止して、仮釈放なしの終身刑を」は矛盾した主張になる。死刑になれば過去を償う事はできない、そして、同じように、仮釈放なしの終身刑でも、社会復帰して過去を償う、ということができない。 「反省し、社会貢献のための準備期間としての懲役」との考えに従えば、死刑制度はよくないし、それに代わる「仮釈放なしの終身刑」も良くないことになる。この考えに立つ人は「死刑制度を廃止して、仮釈放なしの終身刑を」と主張する人を批判することになるだろう。
 判決を言い渡したあとで、裁判長が言う「法廷で、大変なことをしてしまった、という反省の気持ちが伝わって来なかったのは事実です。それがいらだちを感じます。姉歯被告はどこまで責任を感じているのでしょうか」。なぜ裁判長はこのような事を言うのだろうか? 反省の気持ちが伝わって来たら、判決内容が違っていたのだろうか?「被告は十分に反省している」として刑が減軽される、ということは「刑罰とは、被告が反省し、社会に復帰したとき社会貢献するであろう事を期待して刑の重さを決める」ということになるのだろう。 しかし「裁判長がそのように言うのは余計なお節介だ」との感想もあるようだ。
 「彼のやったことは、5年ではとても償い切れるもではないと思います」との感想は、反省し、償う期間が量刑の長さと考えていると考えられる。
B<抑止力としての処刑> 「ヤバイことすると結局は損する社会」というのがTANAKAの基本的な捉え方だ。 企業不祥事があったときに「利益追求のあまり法律を犯してしまった」などの言い訳をすることがある。けれどの「利益追求のあまり」ではなくて、利益追求がどのようなことか余り考えずに行動した結果、と言った方が良い。 現代社会は「ヤバイことすると結局は損する社会」になっている。その良い例が、食肉偽装事件の食品会社だ。2002年、日本ハムは食肉偽装で1,000万円程度の不正利益を得ようとして、結局200億円の損失を出した。 <企業・市場・法・そして消費者>を参照のこと。 発覚する確率が20%程度と考えても、「やった方が得か、やらない方が得か?」損得勘定で計算すれば、やらない方が得だと気づくはずだ。 このホームページの初期の頃にも<接待汚職の経済学>と題して同じ様な趣旨で書いた。
 この場合の量刑は、犯罪の重大性ということとは別に、それが発覚する確率も考慮に入れる必要がある。同じ程度の犯罪でも、見つかりやすい犯罪の量刑はあまり重くなく、 見つかりにくい犯罪の量刑は重くする。抑止力としての刑罰という点から考えるとこのような発想になる。
 死刑問題を議論するとき「死刑制度は抑止力として働くか?」と言うことは、「量刑は抑止力を考えて決めるべきだ」ということを前提としている、ということだ。
<量刑を決める3つの要素> 「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」そして「量刑はどのようにして決まるのか?」について3つの要素を取り上げてみた。 どれも「これ1つで完璧」というものはない。それぞれが絡み合って量刑が決められている。しかも、それぞれがどの程度量刑に影響を与えているかもハッキリしない。 だから、どれか1つの要素を強調して、「量刑はこうあるべきだ」というのは説得力がない。「刑罰を与えてもそれで、元の状態に戻るとは限らない。まして、死刑になったら、社会貢献もできない。だから死刑は廃止すべきだ」は通用しない。
 それでも、この3つを頭に置きながら「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」とか「量刑はどのようにして決まるのか?」を考えると、おおよそのイメージはつかめてくる。 人々は3つの要因を意識しているわけではない、その時、その時に使い分けている。ということは、結局3つの要因を基に判決を評価している、ということだ。
 ここで大切なことは、「どれも「これ1つで完璧」というものはない」ということだ。死刑は廃止すべきか、存続させるべきか?これを考える場合、「これ1つで完璧」という理由はない、ということだ。 こうしたもの考え方は、「結局曖昧なことばかり言って、ハッキリしない」と原理主義者からは批判されるだろう。バランス感覚ということは、将来ものの価値基準が変わったら、賛否も変わってくるだろう。死刑制度に対する評価も変わってくるかも知れない。
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<「どうして人を殺してはいけないのですか?」> 死刑に関する本を読んでいて、法律書以外にも参考になる本はないかと捜していた。『「おろかもの」の正義』とのタイトルに惹かれて読んでみた。 その中に「なぜ人を殺してはいけないのか」ということがテーマとして書かれていた。そこの文章を少し引用することにしよう。
 20世紀の末に「なぜ人を殺してはいけないのか」ということが話題になったことがある。これは、そういう子どもの問いかけに、その場にいたインテリたちが明確に答えられなかったことがきっかけだった。この問題について、雑誌で特集が組まれ、本も出版された。
 これは、まず驚くべきこと、悲しむべきことだろう。日本には「なぜ人を殺してはいけないのか」という素朴な問いかけに対して、答えをもっていない大人が非常に多いのだ。 宗教の権威が弱体化してから久しく、成長と進歩の前に伝統は輝きを失い、政治家は並以下の人間としか思われず、正義を語る習慣もなく、「無限の正義」が胡散臭さを漂わせる現代。たぶん、わたしたちはもうとっくに気づいてしまっているのだ、人を殺してはいけない絶対的な理由などないことを。
 だが、この事件は希望でもある。それは「絶対的な権威」を信じられなくなっていても、それでもなお「正義・正しさ」への求めがあることを示しているからだ。
「人を殺してはいけない理由はない。人殺しはムカツクから捕まえて殺すか閉じこめる。殺す方にも捕まえる方にも正義はない。力の強いほうが勝だけだ」こう言い切ることには、一種の爽快感があるかもしれない。 しかし、われわれの多くはそう考えはしなかったのだ──はっきりとは言えないけれど、やっぱり人を殺してはいけないんじゃないか。そう思う人が多かったからこそ、答えを求めて雑誌や本を手に取ったのだろう。 人にはなお、正義・正しさへの求めがある。 (『「おろかもの」の正義』から)
 神や天のような、人間より上位の絶対的権威に訴えることなく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えるにはどうすればいいのだろうか。
 この本で著者は問題提起はしたが自分では答えを出していない。評論家とはそうした態度をとるものなのかも知れない。ハッキリ自分の主張を言えば、それだけ批判されることも多くなる。 それならば、解説・評論・予想・などを書いている方が楽だろうから。そこで、同じ問題を違った本から引用してみることにした。
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<大江健三郎も答えられなかった「人を殺してはいけない理由」>  評論家の筑紫哲也が視界するテレビ番組に「ニュース23」(TBS)というのがある。 報道番組ではあるが、ときどき時事問題について特集を組み、学生、市民らが参加するなか関係者や識者がパネリストとして本音で討論するというので、評判を呼んでいる。 それで1997年の夏に、その年の冬から春にかけて神戸で起こった14歳の少年による小学生連続札沼事件がテーマとなった。「人の命はそんなに大事ですか。アリやゴキブリと一緒やないですか」、 「猫を殺すのと人を殺すのとどう違うんですか」などという、漏れ伝わる少年の言動をめぐって、活発に議論が展開されていた。その最中に、ふと一人の男子高校生が「どうして人を殺してはいけないのですか」と訊ねた。 その瞬間、並み居る論客たちがぎょっとして押し黙ってしまった。言葉を探しあぐねている雄弁家たちの不安げな死線を、テレビカメラが一つ一つ映しだした。視聴していた私には、学生の問いかけよりも、その沈黙が実に重苦しく異様に感じられた。
 しばくしてそのことを作家の大江健三郎が新聞のコラムで取り上げ、次のように述べた。「私はむしろ、この質問に問題があると思う。 まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」「人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観に逆らう無意味な行為で、誇りある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」。
 大江の見解は列席していたパネリストたちが見せた反応に呼応するもので、当時で恐らく50歳以上の世代が共有する素朴な感想を、飾らず正直に語ったものと言えよう。 ところが、それが直接、間接に驚くばかり大きな反響を巻き起こした。「どうして人を殺してはいけないのか」が論断の一大テーマとなり、雑誌の特集号や単行本が出たりしたのである。 そしてその問いは、その後も現在に至るまで、脳死や安楽死、妊娠中絶など生命倫理の諸問題や死刑論、戦争論などにも関連づけられて、広く取り上げられている。現代という時代を象徴するテーマとなったのだ。
 しかしながら、問題は広まったものの、問題の重さのわりに議論が深まったようには見えない。そこで私は、この小論で、再生観と倫理観についての比較思想的関心を根底に置きつつ、そのテーマを発端から哲学的に整理し分析してみたい。 (『柔らかなカント哲学』から)
 この本ではこのように問題提起し、多くの人の意見を紹介している。そこに登場するのは、児童文学者の灰谷健次郎、不登校などの問題を抱える親と子のグループ「バクの会」代表である主婦、滝谷美佐子、社会経済学者の佐伯啓思、 精神科医の町澤静夫、社会学者の大澤真幸、社会学者の宮台真司、精神科医の香山リカ、哲学教師の永井均、ホッブス、ベッカリーア、親鸞、旧約聖書、神戸連続児童殺傷事件弁護団長の野口善國、評論家の芹沢俊介、カント、亡命ユダヤ人のカール・マンハイム、
 このように多くのひとの意見を紹介しながら著者は「なぜ人間は人間を殺してはいけないのか──法と道徳と宗教──」と題して結論を書いている。
結論
 ここで簡略に結論を述べれば、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いは、生命権、すなわち「殺されない権利」を認めるか認めないかで、答えは差し当たり2つに分かれる。
 生命権を認めなければ、人を殺していけないことはない。この場合、剥き出しの生存本能を制御するルールは存在せず、ホッブスの言う自然状態となる。 人と人との関係は生き残りを賭けた戦時状態にあり、死者はもとより生者にも一切の権利が認められない。神戸の殺人少年もポスト全共闘世代の論客も生命を補償されず、アリやゴキブリのように殺されても仕方がない。 こうなると「どうして人を殺してはいけないのか」という問いを発する余裕もなく、問うこと自体が愚問どころか、無意味となる。
 したがって、有意味な答えを求めるならば、生命権を認めざるを得ない。人は相互に生命権を承認することによって公共社会を樹立し、人と人との間の存在、すなわち人間、となる。すると問いは、「なぜ人間は人間を殺してはいけないのか」へと変換(相転移)する。
 しかし、生命権の承認が相対的あるいは手段的なものであれば、生命権は実質的に尊重されず、生存競争がサバイバルゲームとして復活する。 人間関係は駆け引きに満ちた緊張状態となり、立て前では生命権をより尊重し本心ではより尊重しないものが、有利となる。法も道徳も宗教も、生き残ったものがさらに生き残るための手段とされ、殺された死者は文字どおり切り捨てられる。 これは外形的な法論理が貫徹する功利主義の社会であり、加害者など生者の論理が、殺された被害者の論理を圧倒する。この場合、問いの答えは、殺さないほうが生き残るに有利だから、となる。
 これに対し、生命権の承認が絶対的なものであれば、正当な理由もなく生命権を侵害した者は社会の正当な一員としての資格を剥奪され、また、生命権を侵害された者については、公共社会が当人に代わって可能な限り侵害された権利を回復しなければならない。 それが正義の実現となる。殺された死者の権利そ殺した生者の権利と対等に扱い、前者が後者を制限する論理を、私は道徳的論理と呼びたい。 道徳的権利が尊重される社会では、生命権という根元的権利の回復に関わるがゆえに、殺された被害者の論理に優位性が与えられる。この場合、問いの答えは、生命権は絶対に守らなければならないから、となる。
 だが、死者が現実に生き返るわけではないから、理念的に来世を想定して死者の冥福を祈ることが論理的に要請される。それで、こうした贖罪のための奉仕活動が、義務として殺した加害者に課せられなければならない。 道徳的論理が尊重される社会では、生者のための論理である法と、生者と死者が対等な論理である道徳と、死者のための論理である宗教とが、互いに調和しながら、それぞれに固有の機能を発揮することができる。
 結局、「どうして人を殺してはいけないのか」と問われたら、誰にだって絶対に「殺されない権利」があるから、と私は答えたい。 (『柔らかなカント哲学』から)
*                      *                      *
<「自分がして欲しくないことは、他人にするな」これが社会の基本原則> 「なぜ人を殺してはいけないのか?」この問いに対する答えは、「自分がして欲しくないことは、他人にするな。これが社会の基本原則だ」と言うのがTANAKAの答えだ。 子供が疑問を投げかけた。それなら子供にも分かる答えを出すべきだ。誰にも分かる答えを出してこそ、多くの人に理解・支持され、社会の常識になる。カント哲学を研究した人にしか理解できない答えは、結局誰も支持しない。 子供の質問にこそ「素人さんお断り」ではない答えを出すべきだ。
 子供が犯罪を犯し、その結果被害者が死んだとすると「命の大切さを教える」などと教育関係者は言う。「命の大切さ」などという抽象的なことを、人に教えることができると思っているのだろうか。 それよりも「自分がして欲しくないことは、他人にするな。これが社会の基本原則」と教えた方が分かりやすい。「打たれたらいやだろう」「イジメられるのはいやだろう」「だったらそういうことを友だちにするのは良くないことだ、と分かるだろう」と説明すべきだと思う。
 哲学の分野も、教育の分野も、同じ業界内の人間にだけ通じる言葉で話している。以前に政治哲学に関して同じ様に感じた。 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても選挙では同じ1票。これがデモクラシー=民主制度だ。 多くの人に理解されるような分かりやすい・やさしい言葉で語りかけてこそ、その考えが正しいのか、間違っているのか判断される。「素人さんお断り」の文章は評価の対象から外される。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『「おろかもの」の正義』                    小林和之 ちくま新書    2000.12.10
『柔らかなカント哲学』増補改訂版                平田俊博 晃陽洋書房    2001. 6.20
( 2007年5月28日 TANAKA1942b )
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(11)『刑法という法律』をやさしく解説 
古田佑紀、今は最高裁判事の著書から
 今週は、このシリーズの最初に取り上げた、古田佑紀の著書『刑法という法律』から引用する。 刑法とはどういう法律なのか、専門家の著書を読んでそのセンスに馴れることにしよう。
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刑法は常識のかたまり? 刑法は、だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
 その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。 人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
 けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、しれに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。 それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。 そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 この2つの印象は、おそらく、どちらも正しい。確かに、刑法は社会が素朴に悪いことだろ思うことを処罰することが基本になっている。しかし、刑法の性格からこれが濫用されたときにはたいへん不幸なことが起こるので、人類の長い間の知恵で、そんなことが起こらないようにいろいろな歯止めが掛けられている。 その歯止めは、刑法のなか自体に直接決められていたり、あるいはその解釈によって掛けられているものもあるし、人を刑法によって実際に処罰するための手続きを慎重に行うことを要求することによっているものもある。 また、それに携わる人について、裁判官とか検察官とか弁護士とかある一定の資格を要求するなど、制度の面からも歯止めが掛けられている。
 そこで、悪いことは処罰されるという基本は変わらないが、このような歯止めが働いた場合に、一見すると、なにか素朴な常識に反するように感じられる場合がでてこることになる。 このような場合は、刑法はもしかすると非常識のかたまりということとなるかもしれない。そこで、この本では、刑法に関して、なんとかく素朴な常識に反すると感じられるであろうと思われる問題、いわば「刑法の常識は世の中に非常識」といった問題を取り上げ、刑事の世界ではなぜそうなっていくかということを考えてみることとしたい。
なぜ処罰される?
さて今、刑法は濫用されると危険は法律だといったが、そのことが「非常識な常識」の理由に共通する流れであるので、個々のテーマに入る前にこの点についてもう少し詳しく考えてみて、刑法の性質というようなものを探ることとする。
 最初に、刑法は、悪いことをした者を処罰するものだと素朴に考えられるという話をした。しかし、悪いことをしたら、なぜ処罰されるのだろうか。 そんなことは自明のことだと言われるかもしれない。しかし、どうして人が人を処罰するのか、その理由を考えてみると、なかなか簡単にはいかない。
 試しに何人かに理由を尋ねてみると、まず、最初に返ってくる答えは、おそらく、悪いことをしたのだから、苦痛を与えて懲らしめなければならない、という答えだろう。 しかし、そばに物事を傍らから斜めに見る七目氏がいて、それでは結論をいっているだけで、なぜ懲らしめられなければならないか理由をいっていない、と反論するに違いない。 これに対しては、悪いことをして他人に迷惑をかけ苦しみを与えたのだから、自分も苦痛が与えられるべきだ、という答えもあろうし、悪いことをすることを止めさせるためには、痛い目に遭わせなければならないからだ、という答えも出てくるだろう。 なかには、悪いことをする奴は危険だから、刑務所に入れて閉じこめておくために罰を加えるのだ、という人もいるかもしれない。 以下、会話の紹介という形で、話を進めてみる。
 さて、こんな議論に対し、七目氏が、殺人や脅迫などは人に苦しみを与えるだろうが、犯罪のなかには、たとえば賄賂罪のように、だれかに苦しみを与える犯罪とはいえないものもあるし、悪いことをすることを止めさせるためだと言うならば、父親の酒乱にたまりかねてとうとう父親を殺してしまったわかい娘のような場合は二度とそのような事件を起こすことは考えられないから、 処罰する必要も、閉じこめておく必要もないことにならないか、と疑問を出してくる。
 そのうちに、一杯きげんの哲学者が話しに加わり、世の中にはまず正義があり、犯罪は正義が保たれている状態を覆すものであるので、犯罪者に罰を加えて、正義が回復された状態にする必要がある、それがカント、ヘーゲル以来の弁証法的帰結であると主張する。 すると、七目氏は、それはまことに立派なお話であるが、そうだからといって、犯罪がなくならない現実をどうするか、とからめ手から茶々を入れてくる。
 そのうちに、犯罪の原因はなにかということを研究している人が数人酒をたっぷり飲んで登場して、口をそろえて、犯罪を防止できない刑法は無力であり、単に罰を加えることで物事が解決しないことは明らかで、まず、犯罪の原因をはっきりさせて、それからどうしたらよいかを考えることが大事だと言い出すが、仲間の間で、原因は、犯罪者の性格など本人に問題があるから、教育として罰を考えるべきだと主張する者と、社会に彼らを犯罪に追い込む原因があるので、犯罪者を保護にながら、我らが犯罪に追い込まれる環境を取り除くことを目的とするべきだと主張する者が出てきて大激論が交わされる。 それをそばで聞いていた哲学者が、もし、悪い性格を問題にするならば、犯罪によって起こった害悪の程度は問題とならず、軽い犯罪の場合であっても、性格の悪い者は長く刑務所に入れることとなり、犯罪の重さとバランスを欠く結果となって、人権を侵害することが甚だしいし、社会の原因があるとするのは、理性を持って自分で自分の行動を決めるという人間のあり方を無視するものであると批判を加える。
 ここまでくると、話は日常の素朴な会話を離れて、哲学論争となる。そこへ再び登場するのが七目氏で、七目氏は、興奮して何かしゃべっている異国の人を連れてきて、
「皆さん口角泡を飛ばして議論しているけれども、この人は『この国に来て酔っ払いが堂々と外を歩いているのでびっくりしました。私の国では、酔っ払ってそとをうろうろしていると捕まえられて処罰されます。悪いことかどうかは、だれがどんな基準で決めるのでしょうね。 よく分からなくなりました。もともと、犯罪というものがあるわけではなく、だれかが犯罪と決めたから、犯罪というのでしょうか』と言っていますよ」
 と紹介し、すべての議論を混ぜ返してしまった。 (『刑法という法律』から)
刑法とは
以上の話は、刑法に絡まるすべての問題を含むものではない。しかし、刑法を考える上で、これまで激しい議論が行われた多くの重要な問題を含んでいる。
 最初の話は、刑法を復讐ないし応報として考える一番基本的な考え方を示していることはいうまでもない。これが典型的に現れるのが有名な「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典の言葉ある。 いずれにせよ、この報復の思想が刑法の始まりであったろうことは確かであろう。正義の回復という哲学者の主張も、基本的には、このような流れに立つものであるといえる。 このような考えは、処罰自体をいわば自己目的的にとらえるものとはいえ、強いてほかに目的を考えると、応報感情、正義感情の満足をその目的とするということができる。 ただ、ハムラビ法典の同害報復の思想で注意しなければならない点は、応報感情の満足を図ることを積極的に認めたものと考えるべきではなく、これをやくを得ないものと受けとめ、その限度を同害の範囲に制限したものと見るべきことである。
 次に、処刑をある具体的な目的を持ったものと考えて、犯罪者に苦痛を与えて、悪いことをさせないという考えも、おそらく古くからあった考えであろうし、社会の棄権を防止するという考えも、わかりやすい考え方である。 ただ、この2つの考え方は、その結果においてかなり違ったものとなる。前者のような考え方は、ある犯罪をさせないようにするために苦痛を与えるのであるから、その基本は、犯罪の結果に比例した範囲でだけ与えられるべきであるということとなり、犯罪の結果を超えるような処罰は、許されないという考えに結びつく。 これに対し、社会の危険を防止するという考えは、処罰の範囲も、その危険そ程度によって決まられるということとなり、実際の結果とは必ずしも結びつかない。
 処罰を具体的な目的を持ったものと考える立場を徹底させ、かつ、犯罪の防止を強調する考えに立つと、犯罪の原因を研究している者の話に見られるように、刑罰が処罰の範囲を超えて、本来、犯罪の原因を除くための教育的ないし保護・治癒的なものととらえられることとなる。 このような考え方は、応報の思想あついは苦痛を与えるという考え方が陥りやすい、犯罪者に対する処遇を人道的なものとする上では、重要な役割を持つ。
 これらの考え方は、いずれも、犯罪あるいは刑法のある側面を見てみると、それぞれ、もっともな部分がある。しかし、いわゆる近代刑法の1番基本的な枠組みは、処罰を具体的な目的を持つものとする考えに対する哲学者の主張及び批判であるといえる。 すなわち、したことに対する応報ではなく、犯人の危険性に着目する考え方は、過去、多くの政治的な濫用を生んできた。外国においてはソクラテスやキリスト、我が国においては有馬皇子など、政治的な理由により刑死し又は実質的に刑死したと思われる人は少なくない。 さらに、過去、君主の意思などにより恣意的に刑を科せられた者がたくさんいたであろうことは、想像にかたくない。現在においても、世界の一部では、似たようなことがしばしば起こっているということが伝えられる。 哲学者の主張と批判は、刑罰制度の持つこのような危険性に着目したものであり、その意義は、このような問題を生じる可能性をできる限り防止しようとするところにあると言える。
 しかし、この哲学者の主張のみでは、なお、問題がある。それは、異国の人間の観察である。哲学者は、客観的な正義がまずあり、これが侵害されたとき、そのバランスを回復させる限度で処罰を主張しているのであるが、実は、正義も、必ずしも、常に普遍的、客観的に共通なものであるとは限らず、それがある特定の社会の感情や考え方に支えられた主観的なものである場合も少なくない。 ガリレイに「それでも地球は回っていえう」とつぶやかせた過去の宗教裁判はこのようなものであることが少なくないし、現代になってからも、何年か前に、イラン王女が姦通の罪で、石を投げつけられるという方法により死刑になったという報道があった。 しかし、現在、姦通罪の規定を持っている国は、いわゆる先進国ではないようであるし、我が国においても、現在、これが、道徳的非難はともかく、刑罰を科してまで個人の自由を制約すべき性質の行為とは一般には考えられていないであろう。 そうすると、種々の価値は相対的であり、ある社会のある時期における感情や考え方に反する行為であるということだけでは、これを刑法によって処罰することには大きな問題があるということになる。
 結局、刑法は、その出発点で常識的なものであるが、同時にその出発点が人の感情の問題であるだけに、その根源において非常に不安定なものを持っており、ある場面、ある時期あるいはある者の感情によって動かされるようなことがあったときには、制裁が最も厳しいものであるため、たいへん危険な存在となるし、また、政治的な濫用が起こりやすいことは過去の歴史が示している。 そこで、ある特定の場面から見れば、「悪い者」を見逃すこととなるような非常識と思われる結果になることがあっても、長い目で、かつ、広い範囲で見れば、大きな弊害が起こらないこととすることが必要であると考えるのが、歴史の教訓に基づく人間の理性的な判断として、常識となっているのである。 (『刑法という法律』から)
刑法とは大変わかりにくい法律だと思った
率直にいって、刑法という法律は、大学で勉強しているとき、たいへんわかりにくいものの1つであった。 その理由は様々だけれども、1つには刑法の講義で使われる言葉が具体的にどんなことを意味しているのか、イメージが実につかみにくかったことがある。 法律としての刑法の用語が難しい感じが入った文語体でわかりにくいと言われるが、それよりも刑法で使われる言葉のほうが、私にとってははるかに難しかった。
 たとえば、どのくらいまでの範囲で共犯者が処罰されるかという議論で、共犯独立性説と共犯従属性説という学説があり、共犯従属性説のなかには、さらに、制限従属性説、極端従属性説等々があると言われて、目を白黒させた覚えがある。 簡単に言えば、人に犯罪をそそのかしたときに、そそのかされた人が、実際に犯罪行為にでなくても処罰されるというのが共犯独立性説、犯罪行為にでた場合に限って処罰されるというのが共犯従属性説で、制限従属性説というのは、たとえば、泥棒をそそのかされた人が、小さな子どもで処罰の対象にならないとしても、 やったことが間違いなく泥棒で客観的に悪いといえるものであれば、そそのかした者を処罰するのには十分だという考えであり、極端従属性説というのは、それでは足りずに、そそのかされた人が子どもでないとか、個人の特別は事情からしても処罰されるべきものだということまで至らなければ、そそのかしたほうも処罰されないという考えである。 しかし、このようなことは言葉を聞いただけではすぐにはわからないし、まして、刑法の条文を見ても、見当がつかない。それと、刑法がわかりにくかったもう1つの理由は、先ほどの例のように、素朴に考えればそう問題になりそうもないことでも、あれこれ難しい議論がついて回り、その意味合いがどうも現実感を以てピンとこないということだった。
 その後、主に刑法の世界で仕事をするようになってから20年以上の年月がたち、その間、よくわからなかったことについて、もしかするとこのようなことかも知れない、と自分なりに思うところが多少出てきたところ、時の法令の編集者から、刑法のことでなんとなく分からないという気がする問題をいくつか分かりやすく書いてもらいたい、という話があり、 身の程をわきまえず、時の法令に2年にわたって連載することになった。
 本書は、その連載に多少の追加、補筆をして1冊にまとめたものである。ここに書いた刑法についての考えは、もちろん、私なりに1つの理解にすぎないが、普段なんとなく寄りつきがたい感がある刑法の議論に、少しでも読者の方に親しみを持っていただくきっかけになれば幸いである。
 平成5年8月  法務省大臣官房審議官  古田佑紀    (『刑法という法律』はしがき から)
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<刑法とはチャレンジし甲斐のある分野なのだろう>  悪いことをすると刑法に従って罰する。刑法とはとても分かりやすい、しかし、とても分かりにくい面もある。あの頭の良い古田が、それを承知でチャレンジしたのだから、刑法とは法律のなかでも奥の深い、チャレンジし甲斐のある分野なのだろう。
 このように書くと専門家に任せておくべき分野のように思われるかも知れない。けれども日本はデモクラシー=民主制度の国だ。専門家に任せて素人は黙っていれば良い、という社会ではない。 愚衆政治と非難される恐れがあっても、国民みんなが同じ1票をもって問題に向かい、答えを選択する仕組みになっている。だから、専門家に任せておけば良い、というわけにはいかない。 素人もそれなりに参加すべきだし、参加できるような分かりやすい議論をすべきだと思う。『刑法という法律』という本は素人にも分かりやすく書いてある。そこで、このシリーズで取り上げることにした。 「死刑は廃止すべきか?存続させるべきか?」アマチュアなりに分かりやすい論理を展開していこうと思う。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版    古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
( 2007年6月4日 TANAKA1942b )
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(12)法律のセンスに馴れておこう
法律解説書から刑法のポイントを説明する

 今週は刑法を扱った本から、分かりやすい部分を引用して、刑法とはどのようなものなのか、その感覚に慣れ親しんでみようと思う。 いろんな本からややアトランダムに選んだのでまとまりはないかも知れないが、それなりに法律の世界、刑法の感覚を知ることができると思う。
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<刑法はどのような役割をもっていますか=『刑法がわかった』(船山泰範)>  刑法の3つの役割
 刑法は、犯罪がなされたときに刑罰を科すものですが、その役割としては、次の3つが主なものです。
@ 予め犯罪窃盗事件とそれに対する刑罰を規定しておくことによって、犯罪の発生をできるだけ未然に防ごうとすることです。
 たとえば、窃盗事件を犯すと一番重いときは10年の懲役に処すると規定されています(235条)。これは、一般の国民に対する関係で、ある程度、威嚇効果が期待されるでしょう。
A 実際に犯罪を犯した人に対して刑罰を科すことによって、2度と同じような過ちを犯さないよう、更生を願うことです。
 今日の刑罰の中核を担っている懲役刑は、受刑者の自由を剥奪することによって、行った犯罪に戒めを与えるだけではありません。 それとともに、警務作業や規律ある生活、篤志面接委員による助言指導などを通して、受刑者が刑務所を出た後、社会生活をやり直すことを期待しているのです。
 なお、篤志面接は、民間の篤志家が刑務所に出向いて、受刑者が抱えている精神的な悩みや、家庭・職業・将来の生活設計等の問題について相談にのるものです。
B 刑法も犯罪の被害者やその家族に対する配慮を怠ってはならないということです。
ただし、ここで忠治しなければならないのは、今日の刑法では、犯罪を社会共同生活に対する悪事ととらえて、理非曲直(⇒正しいことと、そうでないこと)を明らかにするために、国家として刑罰を科すのですから、刑罰について、単に私的制裁の肩代わりと考えてはならないということです。
 したがって、刑法が被害者・その家族に配慮するということは、被害者らの処罰感情が強ければ重くすればよいという短絡的なことではありません。 刑法を適応する実現過程で、被害者の立場を考えた施策がなされるべきだということです。その一例として、犯罪の被害者と加害者とが和解するための場を設けることが検討されています。
 以上3つの役割をまとめると、結局、刑法は明るい社会の実現を目指しているのだと言えます。 (『刑法がわかった』 から)
<無期懲役は終身刑ではないのですか=『刑法がわかった』(船山泰範)>
 終身刑と無期懲役の違い
 終身刑とは、一生、刑務所から出ることのできない刑罰のことです。自由刑(⇒自由という法益を奪う刑罰)の1つの究極の形と言えるでしょう。 諸外国の中には、そのような刑罰を採用している国もあります。
 これに対して、わが国の無期懲役は必ずしも一生出ることができない、というものではありません。というのは、無期懲役・無期禁固についても仮出獄を受けることが可能だからです。
 ここで、懲役と禁錮について説明しておきますと、両者とも監獄(刑務所)に身柄が拘束される点では変わりがありませんが、懲役の場合には、所定の作業(刑務作業)を行うことが義務とされています。
 無期刑については、入獄後、10年を経過した場合に仮出獄の最低条件が整います。ただし、実際に認められるためには、受刑者に改悛の情(⇒自分の犯した罪を悪かったと反省して、あらためる様子)が認められることと、地方更生保護委員会という行政官庁は許可することが必要です。 無期懲役囚についての仮出獄までの入獄期間の平均は約19年10か月です。なお、1999年末現在、無期懲役で服役している受刑者は全国で1,200人に上ります。
 ところで、有期刑については、残った期間をいわば真面目に過ごせば刑期を完うしたことになるのですが、無期刑の場合は、再入獄することがないとしても、一生、仮出獄の身分ということになります。 (『刑法がわかった』 から)
<私人による現行犯逮捕は認められますか=『刑法がわかった』(船山泰範)>
 国民が逮捕される場合
 国民が逮捕されるのは、憲法により、@現行犯逮捕と、A令状による逮捕(逮捕状による通常逮捕)に限られています(憲法33条)。
 これは、」犯罪の疑いがる場合でも、逮捕という行為が国民の身体や自由に対する侵害という面を有しているため、基本的人権の保障にの一環として、特に限定しているのです。
 なお、刑事訴訟法には、別に、重大犯罪について緊急を要する場合に、逮捕をしておいてから後で逮捕状をもらうという、B緊急逮捕(刑訴210条)を規定していますが、憲法違反ではないとするのが判例です。 逮捕状を発布するのは、捜査当局とは別の立場からチェックすることを期待されている裁判官です。
 逮捕をするのは誰か
 逮捕する側として考えられているのは、警察官や検察官という犯罪捜査に携わる人です。
 ところで、現行犯人に接するのは、警察官よりはむしろ一般国民(私人)の方が多いはずです。また、私人が現行犯人を逮捕する機械を奪うのは、犯罪防止の面からも得策ではありません。 むろん、その私人の中に被害者自身も含まれます。
 そこで、刑事訴訟法は、現行犯人については、何人(なにびと⇒だれでも、ここでは、とくに警察官などでない一般の国民でも、という意味)でも逮捕状なくして逮捕することができる旨の規定を置いたのです(刑訴213条)。
 このように、私人による現行犯逮捕が刑事訴訟法によって認められていることから、刑法35条の1つである法令行為に含まれることになります。 また、私人による現行犯逮捕が許される以上、それを実現するための実力行為も許されることになります。
 法令行為については、一般に、違法性阻却事由としてとらえられます。刑罰の執行や警察官の具気使用も法令行為の例です。 (『刑法がわかった』から)
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<犯罪の予防とその鎮圧=『刑法の基本思考』(中村勉)> 人間が社会生活を営み、秩序ある生活を始めてから、種々な犯罪防止と、その鎮圧のための対策が考えられてきました。 しかし、その中でも一番有効で、しかも速効性のある手段として実施されてきましたのが「刑罰」というものでしょう。私たちの社会生活には、ルールを維持するために様々な制裁手段があります。 過程生活においても、親が子供の教育のために不正な行いをした場合に加える懲戒という「制裁」、社会生活において、一定の団体や組織に一員として守るべき責任を怠ったりする場合の訓戒、減俸、 免職といった「制裁」があるでありましょう。また、契約関係において、不当に損害を与えた場合の損害補償といった「制裁」があるわけです。 この点で、私たち社会生活の秩序というものは、種々の内容と種類の「制裁」よって維持されてきていると言っても言い過ぎではないこらいです。 多分、「なになにをしてはいけません」と言い続けられ、それに反する行為をしたとき、精神的意味でも肉体的意味でも、制裁を受けたのではないでしょうか。そのため、人間の社会とは「してはいけない」ことばかりに囲まれて、不自由で息苦しい世界であると感じたことがあるのではないでしょうか。 しかし、なぜ「○△してはいけない」ことがあるのかは、犯罪の考えのところで学んでいるはずですから、想い出して戴きましょう。
 犯罪を行った──特に重罪を犯した──者には、よほどの例外がないかぎり刑罰が加えられるでしょう。刑罰との不利益が加えられるのです。 刑罰も犯罪も条件に加えられる「制裁」なのです。この刑罰という犯罪予防と鎮圧の手段は、人間が国家という社会組織を営むことになって以来、社会生活秩序を平和的に維持するために用いてきた「制裁」なのです。 (『刑法の基本思考』から)
<刑罰改善運動=『刑法の基本思考』(中村勉)>
人間が人間として生きる基本的権利は、犯罪者といえども当然に約束されなければならないという「人間の尊厳性」と「人道主義(人間愛)」の基本精神に基づき、耐え難い残忍な刑罰、不当に重い刑罰、犯罪と均衡のかけた刑罰を改良、改善しなければならないとの改革運動が展開されてくることになるわけです。
 すでに、この改革の点に、私たちは触れています。今から約200年前にイギリスでベッドフォードの執行官であったジョン・ハワードを挙げることができるわけです。 彼は私財を投げうって当時のイギリスをはじめ、ヨーロッパ各国の刑務所の実情を克明に調べ、直接受刑者の様子を実見し、その調査内容を本にして一般に出版にしたのであります。 それが『監獄事情 (The State of the Prisons)』であります。それが刑務所の運営改善と囚人の待遇改善運動の強力な引き金となったのです。 この当時の囚人の取り扱いの実情や、刑務所及びその内部の運営状況を克明に実態調査・記録し、つつみ隠さず報告され、一般国民の理解と啓蒙に大いに寄与することになったのです。 刑務所内の秩序は乱れ、腕力と顔のきく者が暴力的に支配する世界であり、看守はピンはねを公然と行い、食糧事情も貧困で、ほとんど慢性的栄養失調状態であり、構内は悪臭をはなち、不衛生も極に達し、疫病が蔓延し、この伝染病のために、死亡する者は、死刑による死者の数よりはるかに多いという惨状の地獄的状態であったという。 この悲惨な窮状を忠実に国民に知らせ、当局(国家)に改善を訴え、人道主義の観点から、囚人の扱いを抜本的に改めるべきことを世に問うものであったわけです。 このような身を挺した改善の努力と批判の結果、囚人の処遇は大幅に改善が進められ、囚人といえども、人間としての基本的権利を保障すべきことが地道に続けられてきているのです。 この努力は、今日でも怠られてはならないのです。常に、人間として幸福に生きる基本的自由が、犯罪者にいかに行刑の内で可能か、このための最良の方策は、常に模索され続けられなければならないのです。 もちろん、囚人(犯罪を犯したがゆえに一定の事由剥奪という刑罰執行の対象者)であることから、一般人のように、完全な形で、基本的な事由が、約束されるべきものでないことは当然であり、やむを得ないことであります。 刑罰の執行のゆえに、一定の自由拘束や制限は受けざるを得ません。しかし、だからといって、犬や猫のような扱いを受けたり、牛や馬のように酷使されて良いわけではありません。 やはり、最低限、人間としての尊厳性は尊重されなければならないことを忘れてはいけないでしょう。
 このように、犯罪と刑罰、特に刑罰の合理性を社会契約説の立場から根拠づけ、不当な刑罰を批判したのが、イタリアの思想家チェーザレ・ベッカリーアその人であります。 かれは、人間の基本的自由を擁護して死刑の廃止をはっきり訴えた人であります。国家といえども、最も基本的な自由の根拠となる「生命」を奪うことはできないし、それは人間性を無視した、野蛮な行為であると非難したわけです。 彼の著書『犯罪と刑罰 (Dei delitie delie pena,1776)』は、当時のヨーロッパの超ストセラーとなったものです。いかに犯罪と刑罰の理解と、その人道主義的啓蒙に寄与したかがはかり知れないと言えるのです。
 もちろん、この刑罰の改良の点で、わが国においても、世界に誇りうるものが、江戸時代の後期に芽生えていたことは特記すべきことです。 それは、テレビの時代劇にもなっている「鬼平犯科帳」のモデルとなった実在の人物、火附盗賊改方の長谷川平蔵その人なのです。彼の建議によって「人足寄場」という授産目的(今日の職業訓練)と同時に石田梅岩の始めたいわゆる石門心学による教誨教導による道徳的教育を施すことによって、いわゆる無宿者や軽い犯罪を行った者を教育改善しようとする事業が展開され、実際に、社会復帰に成功したことが、伝えられていることは注目に値するというべきでしょう。 この犯罪者や無宿者の社会復帰のための改善・更生の施設と、改善のための基本理念は、わが国独自の発想によるものであることに誇りをもって良いでしょう。 もちろん、今日のように、人権思想の下に、展開されたものでないことは言うまでもないことです。しかし、この江戸幕府による犯罪者の改善及び更生の事業は、幕末に至って見る影もないほど衰退し、困窮し、維新政府に引き継がれず、近代的発展が期待できなくなったのは、誠に、残念なことであったと言わなければならないでしょう。 (『刑法の基本思考』から)
<犯罪者の人権尊重=『刑法の基本思考』(中村勉)>
犯罪者といえども人間として、その者の基本的人権が尊重されなければなりません。では、ジャン在社の人権を尊重し、刑罰を科するとはどのような意味なのでしょう。
 すでに、犯罪を私たちの社会から放逐する有力な手段の1つとして、「刑罰」が必要であることを学んでいるにしても、人権を無視したり、踏みにじるような苛酷な「刑罰」は許されないでしょう。 刑罰は犯罪者にとっても、また、一般国民にとっても「正義」に適っていると感じ、納得できるものでなければなりません。そこで、正義に適ったといえる刑罰とは、どのようなものなのか。 この点が明らかにされなければならないでありましょう。
 適正な──正しいと言える──刑罰とはなにか。このことを問題にするわけです。これは、実は、刑罰の本質とはなにかという最も重大な、そして基本的な問題なのです。
 かつて、ドイツの有名な哲学者であるカントは、人間とはそれ自体目的であって、決して他の人間の手段とはなり得ないと、人間の自由の尊重を高く唱えていました。 この人間観の下では、刑罰は一般予防の手段とか、他の犯罪の予防・鎮圧の手段のために、加えられるべきものではないと考えたのです。 すなわち、人間は、他の者の手段として存在するのではなく、あくまでも、自己喚声のためのみ存在するものであり、それ以外のために、決して存在するものであってはならず、それゆえ、処罰されるものも自己喚声のための自己自身(完結)の存在の確認にあると主張したのであります。 それが人格的存在者として扱うことになると考えたわけです。
 犯罪者を処罰することによって、つまり刑罰が苦痛であることを周知徹底させることによって、国民に管財に近づかないよう威嚇するのは、犯罪者を手段──犯罪予防の道具──として利用したことになるから、決して許されないと批判したわけです。 一般予防のための刑罰は、犯罪者(人間)を他の人の犯罪予防のための手段として用いたというわけです。
 同様に、このカントの考え方は、かの有名なドイツの哲学者ヘーゲルによっても唱えられていたのです。彼は、犯罪者を処罰して、他の国民を犯罪に近づけないように利用するのは、犯罪者を犬や猫のように利用することに等しいことになる、と厳しく反対したのであります。 刑罰を犯罪予防や犯罪者の更生の手段として用いるのは、人間の尊厳性を無視することであると考えたわけです。
 それゆえ、彼ら両哲学者は、刑罰を科する根拠は、犯罪を行ったという理由のゆえに、犯罪に対する報復(応報)としてのみ可能なのであると考えたのです。 このような犯罪に対する報復(応報)として刑罰を捉える考え方を「応報刑主義」と呼んでいるのです。特に、刑罰を加える根拠をもっぱら犯罪の存在のみに求めるわけですから、すなわち、刑罰の根拠は」犯罪のみに絶対的に存在するわけなので、これを「絶対的応報主義」と呼んでいるわけです。 「犯罪」という被害を加えたわけですから、犯罪者は、刑罰によって加えた被害と、同様の被害を身に受けなければならないと見ることになるのです。 これを「同害同報の刑(タリオ)」と呼ぶのです。有名な言葉、「目には目を、歯には歯を」の侵害と同様の被害によって償いをすることが正義に適うと考えたのです。 物理的に全く同じ害をもって報復するわけです。それがカントの刑罰論です。これに対して同じ応報でありながら、すこし、意味を異にするのがヘーゲルです。 彼は、カントのように、物理的な「同害同報」といった応報ではなく、法的価値の視点から応報を捉えようとしたのです。法的価値の視点から、犯罪によって侵害された法的価値を回復するに、相応しい反動としての害を刑罰として加えればよいと考えたわけです。 法的公平の視点から、等価的報復(応報)として刑罰を捉えようとしたと言って良いでしょう。 (『刑法の基本思考』から)
<刑罰の軽重はどうやって決めるのだろう=『刑事法を考える』(石塚伸一・大山弘・渡辺修)>
法定刑を比較するルール
 法定刑の軽重は、@刑法9条に規定する順序によるが、懲役と禁錮の間には、若干の修正のためのルールがある。A無期と有期では、無期の方を重い刑とする。B有期の禁錮の長期が、有期の懲役の2倍を超えるときには、禁錮を重い刑とする。同じ刑の中では、 C自由刑ならば長期の長いもの、財産刑ならば多額の多いものを重い刑とする。D長期または多額が同じときには、短期の長いもの、寡額の多いものを重い刑とする。 そして、刑がまったく同じときには、E犯情の軽重によって、刑の軽重を決める。
 刑法典中の229の既遂犯罪型を上記のルールに従って、法定刑の重い順に並べ、その上限を死刑、無期懲役、無期禁固、15年の懲役、10年の懲役、7年の懲役、5年の懲役、10年の禁錮、7年の禁錮、3年の懲役、2年の懲役、1年の懲役、6月の懲役、罰金および拘留に分類し、 その実数、累積数、構成比および累積比を整理に、それをヒストグラムで表したものが図表1.4.2である。
 生命刑と財産刑は、いずれも5.2%にすぎず、ほぼ90%が自由刑であることがわかる。最も重い犯罪は外患誘致罪であり、最も軽い犯罪は屈辱刑であることがわかる。 業務上堕胎、保護責任者遺棄、逮捕監禁、未成年者略取・誘拐など、3月以上5年以下の懲役の犯罪が中央値付近の犯罪である。
刑法典の刑罰の種類
 主刑
   死 刑
   無期懲役
   無期禁固
   有期懲役(1月以上15年以下)
   有期禁錮(1月以上15年以下)
   罰 金 (1万円以上)
   拘 留 (1日以上30日未満)
   科 料 (千円以上1万円未満)
 付加刑
   没 収 (追 徴)
      (★:生命刑 ◎:自由刑 〇:財産刑)
刑法典中の229の既遂犯罪類型の法定刑の上限
刑の上限 累  計    
死  刑  12件─  5.2% 殺人・強盗致傷・強盗強姦
無期懲役 22件─  9.6%   
無期禁固 23件─ 10.0% 強盗・強姦・傷害致死
懲役15年 48件─ 21.0% 窃盗・傷害
懲役10年 92件─ 40.2% 強制わいせつ
懲役7年 107件─ 46.7% 業務上過失致死傷
懲役5年 138件─ 60.3%   
禁錮10年 140件─ 61.1%   
禁錮7年 141件─ 61.6% 常習賭博・贈賄・器物破損等
懲役3年 169件─ 73.8%   
禁錮5年 170件─ 74.2% 暴行
懲役2年 192件─ 83.8%   
禁錮3年 197件─ 86.0% 遺棄・遺失物横領
懲役1年 211件─ 92.1% 公然わいせつ
懲役6月 216件─ 94.3% 過失致死・賭博・過失傷害
罰  金 228件─ 99.6% 侮辱
拘  留 229件─100.0%   
総  数 229件─100.0%   

 被害者の死亡
 人の生命や身体に危害を及ぼす犯罪について、その軽重を考えてみよう。
 @他人を殺すつもりで行為をすれば殺人罪である(刑199条[死刑又は無期もしくは3年以上{15年以下}の懲役])。 未遂の場合は、減軽することができる。
 A他人を傷つけるつもりだったが、穂会社が死亡してしまったのであれば、傷害致死罪である。(刑205条[2年以上{15年以下}の懲役])。
 B他人を傷つけるつもりで、傷つければ傷害罪である(刑204条[10年以下{1月以上}の懲役または30万円以下の罰金若しくは科料])。
 C業務上必要な注意を怠って他人を死傷させると業務上過失致傷害罪である(刑211条[1月以上]の懲役又は禁錮又は50万円以下の罰金)。
 D他人を傷つけるつもりで、傷害までいたらなければ暴行罪である(刑208条[2年以下{1月以上}の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料])。
 E過失によって他人を死亡させると過失致死罪である(刑210条[50万円以下の罰金])。
 F過失により穂とを傷害すれば過失傷害罪である(刑209条[30万円以下の罰金又は科料])。(中略)
 自由の値段
 それでは、刑罰は、どのように適用されているのだろうか。確定した判決を見てみると、財産刑が約95%を占め、自由刑は5%程度にすぎない。 死刑は年間数件、無罪は100件前後といったところである。このように、法定刑レベルでは自由刑が90%を占めているにもかかわらず、宣告刑レベルでは95%が財産刑であることをどう考えたら良いのだろうか。
 思うに、近代の資本主義経済社会においては、すべての構成員が自らの財産を商品として売ることによって生活の糧を得て生活をしている。 ところが、プロレタリアート(無産者)と呼ばれる人たちは、財産を持ち合わせていないように見える。しかし、よく考えてみると、どの人も、自らの労働力という商品を持っている。 これを時間という単位で市場に売り出せば、財貨を得ることができる。労働を商品として売り出すという偉大で苛酷な発明が、近代市民社会における商品交換のスピードを速め、生産力を飛躍的に発展させた。
 大学に入り、アルバイトを始めた学生諸君には、労働力を時間で売るということが実感として理解できるであろう。懲役1年を自給800円で計算してみれば、いくらぐらいになるであろうか。 その意味で、罰金は軽い刑である。
 私たちにとって、自由はとても貴重な財産だ。他人の自由を大切にしない人は、自分の自由も大切にできない。刑罰として自由を奪われるということの意味をよく考えてもらいたい。 そして、大学生活の中で自由の意味をじっくり考えてほしい。 (『刑事法を考える』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版             古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
『刑法がわかった』                船山泰範 法学書院     2000. 9.30
『刑法の基本思考』                 中村勉 北樹出版     2000. 3.25
『刑事法を考える』        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社    2002. 7.20
『いちばんやさしい刑事法入門』 佐久間修・高橋則夫・宇藤崇 有斐閣アルマ   2003. 4.30
『刑事法を考える』        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社    2002. 7.20
( 2007年6月11日 TANAKA1942b )
死刑廃止でどうなる
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei.html
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei-2.html
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 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei-4.html
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 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei-6.html
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei-7.html
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tanaka1942b/sikei-8.html