趣味の経済学  死刑廃止でどうなる?  廃止論者は代替え案の提示を

(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ 
「感情」から「勘定」への判断へ
 今週は趣を変えて、法曹界以外=経済学者から見た法曹界を取り上げる。死刑制度にな拘らず、 「法曹界の匂いのしない意見」を取り扱うことにする。ポイントは、<「感情」のよる判断から「勘定」による判断へ>ということだ。 ここでは竹内靖雄著『経済倫理学のすすめ』を中心に話を進めて行くことにする。
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<「希少性」の制約と倫理問題> 本書は「経済学の発想による倫理学入門」である。
 ここで、「倫理学入門」とは言っても、古代以来数多くの哲学者、思想家が書き残してきた数多くの倫理学的入門書とは、必要とするもの趣を異にする。 本書で取り扱われるのは、「希少性」という制約の下で人々が行動する場合に生じる問題、例えば「人々が欲しがっているものが全員に行き渡るほどには存在しない時に、どのようにしてそれを人々に分配すればよいか」といった 性質の問題である。これを「どのように分配するのが正しいか」、「分配の正義とは何か」という形で議論すれば、普通の倫理学の教科書と似たスタイルになる。 アリストテレスやトマス・アクィナスによってすでに十分論じられたこの「分配の正義」という言葉は、本書でももちろん取り上げるが、ただ、この言葉の意味、用法の学説史的な穿鑿はしない。 例えばこの「分配の正義」ということは。早く言えば「どのように分配すればよいか」という問題であるから、この問題は、誰もがもっている経験と想像力と推理力、要するに「常識」を動員して、単刀直入に考えてみればよい、というのが本書の立場なのである。 しばしば必要以上に難解な、もってまわった表現で語られることの多い哲学者たちの説を紹介するよりも、現実に起こりうる状況を想定して直接問題を解いてみる方が、「頭の訓練」にもなってはるかに有益ではないだろうか。
 ありとあらゆるものが無限に存在して「ただで」手に入り、いくら使ってもなくなるということがない「おとぎの話のワンダーランド」では、他人からものを奪って損害を与える「窃盗」もなければ、分配の仕方が不公平だという問題もない。 おまけに「生命も無限」にあって、人々が不老不死ならば、「殺人」という犯罪もない。このような「夢のユートピア」では、倫理問題も経済問題もなく、したがって倫理学も経済学も消滅しているはずである。 そして、そこに残るただ1つの問題は、「何が美しいか」、「高貴な行動とは何か」、「優雅な態度とは何か」等々の美学的問題になる。実はこれまで倫理学の名で論じられてきた「人間の徳」の中には、この種の美醜の問題に属するものが案外多いのではないか。 「衣食足りて礼節を知る」と言われるのはまさにその例で、「希少性」の制約がゆるんだ豊かな社会では、何よりも「カッコよさ」が求められるのである。「礼節」というのは倫理的に正しい行為というよりも、「サマになってカッコいいマナー」のことを指している。
 しかし、これは倫理学の終わったあとの話になる。残念ながら、本書ではこのような「人間の徳」、つまりわれわれが称賛し、身につけたいと願うような「優れた人間としての質」の問題にはほとんど立ち入ることができない。 ここではあくまでも倫理問題がテーマであって、言いかえると、「どのような行為が称賛されるか」ではなくて「どのような行為が非難されるか」、「何が正義で、何が不正か」、「何が妥当な解決か」といった、ある意味では厄介で不愉快な性質の問題を取り上げる。 希少性の制約の下で「何事もままならぬ」状況から生じるのが倫理問題であるから、もともとそれは考えて愉快になるような問題ではない。 そこで人々は考えることを停止し、思考を節約して、いきなり感情的非難に走ったり怒りを爆発させたりすることになる。これは度を過ぎれば愚行につながり、しばしば困った結果を生む。
 もともと倫理問題は感情問題でもある。「ある人のある行為は正しいか」という問題は、「それが是認できるか、それとも許せないと思うか」という問題であり、数学の問題のように論理だけで正解を見つければよいという性質のものではない。 倫理問題は論理のレベルだけで扱える問題ではない。あるいは哲学者好みの言葉で言えば、「理性」に属する問題ではない。これはデオヴィッド・ヒュームのとった立場であるが、われわれもここではこの立場をとることにする。
 例えば「人々が何を、なぜ不正と考えるか」という問題に対しては、「それは聖書に書かれた神の言葉によって明らかだ」とか、「神が人間が与えた理性に照らして自明のことだ」といった形で答えることはできない。 それどころか、この問題は、人々の「反感」や「嫉妬」のような感情を抜きにしては考えられない性質のものである。また、人が「不公平だ」と言うのは、その人が直接不利益を蒙る場合は無論のこと、そうでなくても他人が「濡れ手に粟」で利益を得たのを知ったりした時であり、このあとの場合、「不公平」という認識を支えているのは明らかに嫉妬という感情である。 「他人の幸福は自分の不幸」であり、だからその逆もまた真で、「他人の不幸は自分の幸福」なのである。しかし、このような嫉妬はどう考えても「高級な感情」ではない。 人前にさらけだすのが憚られるような「劣情」であることは否定できない。そこで人は「濡れ手に粟」の利益を得た行為が、実は「不正な行為」ではないかと疑う。 そして法律に照らして違法であるかどうか、贈収賄にあたるかどうかといった「ケジメ」(区別)はそっちのけで、「何が何でも悪を摘発せよ」という声が高まる。マスメディアも人々の嫉妬を煽り、この声を増幅して、「世論によるリンチ」に熱中する。 倫理問題はしばしばこのような感情問題として人々を興奮させる性質のものである。
 贈収賄が違法であり、不正であることは間違いない。ただ、贈収賄という犯罪は、殺人、強盗、詐欺などの犯罪とは違って、明確な「被害者」がいない。 贈賄をもらった方も渡した方もそれぞれ得をしているけれども、関係のない第三者の「庶民」にどのような実害を与えたかははっきりしない。 それがなぜ犯罪になるか、なぜ贈賄を禁止するルールが必要か、という問題については、感情問題とは別に、もう少し複雑な理由づけを要する。 それにしても贈収賄事件は「庶民の感情を逆撫でする」ものであって、人々がむきになって起こることは殺人や窃盗の比ではない。 その怒りの正体も嫉妬であろうが、このような感情を人間から一掃するわけにはいかないものの、度を過ぎて感情に支配される社会は健全であるとは言えないのである。
 このように、倫理問題のあるものは、ほとんど感情だけで構成されている「感情問題」そのものであって、このことを無視して倫理学を「理性」の領域に閉じこめようとする立場は間違っている。 嫉妬を抜きにした正義論などはセックスの問題に触れない恋愛論に似ている、とはいうものの、何が不正であるかという問題を、人々が嫉妬の情を発動して決めるのに任せておけばよい、ということにはならない。 多数の感情が支持することが正義になる、と言って済ませておくわけにはいかないであろう。 それでは単なる集団的愚行に終わるだけではないか、という疑問が残るのである。人々が「革命的情熱」に駆られて王や王妃の首を切り、あるいは「反革命分子」の粛清と称して大量虐殺に走ったという愚行の歴史を、われわれは後世の第三者として肯定するわけにはいかない。
 そこでわれわれは倫理問題を、その成立の根は感情問題にあることを認めながら、できるだけそれを感情のレベルでは処理せず、可能な限り「勘定」の問題として取り扱う、という立場をとりたい。 というのも、問題の性質が「希少性」という枠の中で妥当な解決を見いだすべきものである以上、できるだけ人々の利益や満足を大きくするような、あるいは損失や不満を少なくするような、無難な答えを得なければならないのであって、それには損得勘定が不可欠なのである。
 しかしそれならば、倫理問題・経済問題はすべて国家が中に入って「公平な分配」を決める、というような形で解決されるかと言えば、そうではない。 どんなに強力な全体主義国家や社会主義国家を考えてみたところで、国家がすべてを計画し、命令し、生産し、配給するという形で「正義」を実現することは不可能である。 それが可能であり理想である、という思いこみがどのようにして裏切られたかは、過去の歴史を眺め、近くはロシア革命以後のソ連の経験、戦後の中国の経験などを眺めてみるだけで十分理解できるであろう。
 むしろ、倫理問題・経済問題は、人々が自由にしたいことをしながら解放されていくのが理想である。そして、「希少性」という制約がある以上、各人が自由に利益を追求するならば「競争」は不可避となる。 そこで適当なルールの下で競争が行われるようにすれば、それは力づくの「闘争」ではなくて「ゲーム」になるから、人々がどのような状態に落ち着くかはゲームの結果に任せればよい、ということになる。
 この競争的な「ゲームのシステム」──経済の場合なら「市場システム」──がうまく働くようにしておけば、ほとんどの経済問題とともに、同じような構造をもつ倫理問題も解決されて、いわば問題としては「消去」されえうことになる。 本書の狙いは、こうして厄介な倫理問題とされているものを極力「消去」していくことにある。つまり、新しい解決と称して複雑な答えを書き加えることではなく、問題の性質、構造を明らかにした上でそれを消していく消しゴムの役目を引き受けようというものである。
 この「消却」と「損得勘定」という手続きは、伝統的な倫理学が固定してきた感情をしばしば「逆撫でする」ことがあるかも知れない。例題として設定した問題にはその種のものが混じっている。 また、それに対して示した「考え方の例」にも習慣化した道徳感情の動きとは食い違うものがあるかもしれない。しかし本書はこれらの問題に決定的な解答を用意したものではなく、問題の解き方のヒントを示したものにすぎない。 倫理問題は、数学の演習問題と同じで、原理を明確につかんだ上で実際に解いてみることに意味がある、ということなのである。 (『経済倫理学のすすめ』から)
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<「感情の問題」を「勘定の問題」に> 経済問題と倫理問題は同型の構造をもっている。この点に着目すれば、倫理問題すなわち「感情の問題」を可能な限り「勘定の問題」に還元し、競争の場である市場にゆだねて解決することができる。 同じように、感情に支配される世界の常識(実は非常識)を、市場の論理を使ってくつがえしていくと、嫉妬に発する私欲否定の正義がしばしば愚行に終わることも明らかになる。
 この本も、感情を勘定に還元して倫理問題を消却しようとする立場に立ちながら、成熟した市場社会である日本の社会と日本人の行動の表層を批評する試みになっている。 そして日本人がその行動を倫理的に正当化するために利用し、あるいは私益追求の行動の指針として採用しているさまざまな思いこみや知識、イデオロギーなどを「迷信」と名づけ、その正体を分析することを目指している。 つまり、この本はその意味で、迷信の「見えざる手」の働きを明らかにしようとした「経済倫理学応用編」であるということができる。(中略)
 今日の市場社会ではさまざまな迷信が流通している。
 この迷信とは何の根拠もない荒唐無稽な説ではない。迷信にはそれぞれもっともらしい根拠があり、信じるに足りる理由が用意されている。 だから人はその説をもっともらしいと思って信じるのである。信じるに足りる理由がかならずしも「盲信」や「妄信」ではない。 血液型で性格が決まるという説にも「**を食べれば健康になる」という説にもそれなりの理論があり、経験上の裏づけらしいものがあるし、「**を信じることによってあなたも救われる」という宗教的な教えは、しばしば複雑精妙な教義の体系で支えられている。 そして簡単には反論を許さない。ここが実は迷信の迷信たるゆえんで、その誤りが簡単に証明されたり、簡単に論破されたりするような「謬説」、「珍説」のたぐいでは大した迷信とは言えない。 第1級の迷信は、それが間違っていると証明することが不可能であるためにまさに正しいと信じられてしまうような説なのである。 「宇宙人の乗ったUFOは存在する(それを見た人がある)」という説に対して、「それは存在しない(見たというのは間違いである)」ということを証明することは不可能であろう。同様に、「神は存在しない」ことを証明するのも至難のわざである。
 日本も他の国に劣らず迷信の栄える国である。その繁栄ぶりからいえば世界有数の迷信大国かもしれない。その最大の理由は、日本には一神教タイプの宗教という、他を寄せつけないような「大迷信」や多くの人を支配する「大思想」(たとえばかつてのマルクス主義)の独占的状態が存在しないことにある。 つまり日本は宗教、思想、迷信などの情報市場が競争的で、人々が消費して楽しめるような迷信情報が氾濫しているのである。宗教をとってみても、日本人は冠婚葬祭から入学、病気快癒等々まで、その時々の必要に応じていくつもの宗教のお世話になり、お賽銭、戒名料、お布施などを支払っている。 こうして、宗教も今ではサービス産業の1つとして繁盛しており、日本人はある宗教を信じて命を捨てたり他人を殺戮したりするといった行動とはおよそ無縁である。 このようは社会の居心地のよさに日本人は気がついているのかいないのか、日本には本物の宗教がないとか、日本人は信仰心がないとか、不思議な迷信を真に受けて肩身の狭い思いをしている。
 何が真実であるか、何が正しい説であるか、何が正義であるかについてむきになって議論するという習慣は日本がまだ貧しい時代のものであった。 その頃の貧しい欲求不満人間の代表であった学生たちの中には、そういう議論に明け暮れて、ついにはマルクス主義を奉じ、「革命」のために闘うといって警察官を相手に市街戦ごっこに熱中するものもあった。 しかし高度成長の達成とともに、学生たちもこのような思想にとりつかれて行動するという「まじめさ」を卒業したようである。かれらも豊かな消費者の仲間入りをしたので、今は消費生活とそのためのアルバイトにだけ関心があり、ポスト・モダン系その他、多種多様な思想のファッションも遊びの情報も、すべて消費して愉しむだけである。 こういう状況は、成熟した市場社会にふさわしい情報市場の姿であり、「知的消費生活」の姿であって、今後この傾向が逆転することはないであろう。
 そこで人はそれぞれ自分の立場と現状を正当化してくてる迷信を信じて「かのように」行動し、快い迷信を選んで消費しながら生きている。 この「かのように」の生き方、「かのように」でつくられた世界というものが、実は普通の生き方であり、普通の世界なのである。 それをとりあえず本物とみなして生きることが普通の人の知恵であり、またそれが大動乱でも起こらない限り一番無難な生き方でもある。
 人はさまざまな迷信にもとづいて行動した結果、愚行に走ることもある。しかしそれが愚行であるかどうかは簡単には分からないことが多いので、愚行のために自分が損をしたり、世間に迷惑をかけて非難されたりした時にはじめて、それが愚行であったことに思いいたるのである。 そして賢い人ならそれを引き起こした考え方の間違いに気づき、それがまさしく迷信にほかならなかったことを知るのであろうが、ほとんどの人はこの経験もしないまま生きていく。 だから多くの迷信は安泰である。そして人々が飽きて捨てるまで迷信は栄える。
 こうして迷信の繁栄とともに、いたるところで「小愚行」のバブルが発生するけれども、全体として社会は安定して存続し、社会そのものが破滅的な「大愚行」に陥ることはない。 この不思議さ、あるいは「いい加減さ」をアダム・スミス流に説明するならば、すべては迷信の「見えざる手」に導かれるかのように進行し、かつ大過ない結果に到達する、ということになる。 人は国家から「唯一の正しい説」を配給してもらうわけでもなく、政府に正しい行動を指示されるわけでもなく、また大賢人の説に導かれて行動するわけでもなく、それぞれ迷信を奉じて「愚考」し、「愚行」する。 しかしそれで社会が大過なく動いていくのは、根本のところで人々の目的がそれぞれの自己利益にあるからで、迷信は人々を試行錯誤へと導く「見えざる手」となっているからである。 つまり、これがアダム・スミスの「見えざる手」が働く世界の表層の姿にほかならない。
 ただし、ここで個人も社会も大きな愚行に陥らないためには、迷信の迷信たることを知った上で、それを真なりと認める「かのように」行動することが重要である。そこで迷信の薄い皮を剥がしてその正体をよく吟味してみることが必要になる。
 本書ではこのような立場から迷信の繁栄する市場社会の姿を分析している。それは、さまざまの迷信が嘘であり間違っているということを「証明」しようとするものではなく、それらの迷信の正体と役割を明らかにすることをめざしている。 (『迷信の見えざる手』から)
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<「利己的な遺伝子」> 問題 人間には自分が犠牲になってわが子を助けるといった利他的行動が数多く見られる。 動物の場合も、母鳥が自分を危険にさらして襲撃者を引きつけることでヒナを守ったり、カマキリのオスが交尾の際メスに食われてメスのための栄養源になったりするような、一見利他的に見える行動が知られている。 動物、人間を問わず、「種の維持」に貢献する自己犠牲はある種の合理性をもつ行動として一般に行われているのではないか。
 確かに、この種の行動は広く見られるもので、人間や動物の「母性愛」あるいは「母性本能」という言葉で説明され、美化されている。 それと同時に、こうした一見利他的な行動は、その種族の集団全体の生き残りという目的に照らして合理的なものである、という説明もよく聞かされてきたところである。
 たとえば、40歳の母親が生き残るよりは10歳の子供が生き残る方が、将来子孫を残す可能性が大きい。「母性愛」に導かれた母親の自己犠牲は、結果としては人類全体の生き残りに貢献することになる。 このような「有益な利他主義」は、人間にも動物にも、いわば行動プログラムとして内蔵されているのではないか、「個体の生き残り」を至上とする利己主義の原則には反していても、この限りにおいて合理性があるのではないか…… といった説明は一応もっともらしい。それは利己主義の原則に加えて、種の保存という目的にとって有効な利他主義的行動を、例外的な補完物として認めよう、という立場である。
 もちろん、これは証明することはできない1つの「解釈」であるにすぎない。それならば、同じ解釈としては、単一の原理による例外なしの統一的な解釈の方が優れているのではないか。 そこで注目されるのがR・ドーキンスなどが提唱する「利己的遺伝子」(selfish genes) という考え方である。この考え方によれば、個体の種の保存あるいは集団全体の利益にかなうよう行動する、という曖昧な解釈を採らず、動物の行動は、結果において遺伝子自身の永続と拡散に役立つようプログラムされているかのように見える、ということになる。 もちろん、動物の個体がそのことを意識して行動するわけではない。また個体が「利己的な遺伝子」から直接指令を受けてそのように行動するわけでもない。 結果がそのように、つまり遺伝子が自己保存を目的として行動しているかのように解釈できる、ということなのである。
 例えばライオンのオスが、ライバルのオスを追放してメスを手に入れた時、前のオスとの間にできた子は殺してしまう。ゴリラのオスは子連れのメスかた子供を奪って殺す。 すると子供を奪われたメスは発情し、そのオスについていく。
 これらの行動は、「子供の生き残りを図ることが種の保存に一層貢献する」ということでは説明できない。母親はなぜ自分の生んだ子供を新しい夫から守らないのか。 人間の場合はさらに極端で、愛人や新しい夫に嫌われないように、邪魔になる自分の連れ子を母親自身が捨てたり殺したりする例があとを断たない。
 オスの立場からすれば、他のオスの遺伝子をもっている子を殺し、それによって授乳中は発情しないメスを発情可能な状態に導き、自分の遺伝子をもった子を残す方が合理的である。 メスの立場からすれば、前のオスよりも強くて優秀な(ということはオス同士の戦いによって結果が出ている)オスの子をつくる方が、これまた自分の遺伝子の永続にとっては有利である。 したがってライオンその他の「種内の幼児殺し」は異常な行動ではなくて、きわめて合理的な行動だということになる。動物の世界には、原則として、合理性から逸脱しているという意味で異常なものはない。すべては余りにも合理的である。 (『経済倫理学のすすめ』から)
<犯罪を経済学的な観点から見る> 犯罪はある人間が他人に危害や不利益を与える行動であるから、犯罪があればかならず不正が生じる。 被害者は正義回復のための措置を取らなければならない。一方、国家は犯罪者を逮捕し、処罰するが、これは被害者の正義回復を代行してくれるものだろうか。 たとえば、人を殺した者を裁判にかけて死刑にすることは、国家は犯罪を抑止するという国家自身の目的のために犯罪者に刑罰を科すのであって、被害者の正義の回復は、これと別に、加害者に対する損害賠償請求によって行うほかない。
 犯罪を抑止するためにはさまざまなコストがかかる。社会はいくらでもコストをかけて犯罪の絶滅を目指すというわけにはいかない。 また、警察が個人に関するあらゆる情報を持っているような「超警察国家」をつくることもできない。犯罪を抑止するためには、まず犯罪を行うことが「引き合わない」ような厳しいペナルティを用意することが必要である。 2200年以上前にこの経済学的な発想をはっきり述べたのは韓非であった。何をしても「怖いものがない」社会では、多発する犯罪に対応するためにますます多くのコストをかけなければならないし、しかもその効果が期待できない。 犯罪者を罰しないで保護・管理することが人権拡大だと思うには錯覚である。
 市場では、ルールの下で、自分の責任において、自分の利益を自由に追求するのが原則である。今日の市場社会は、個人が最大限の「自己決定」の自由を主張する方向に進んでいるが、この最大限の自己決定権と抱き合わせになるべきものが最大限の自己責任である。 自由に行動する以上、失敗した時に国家の救済や保護を当てにすることはできない。
 本書では、人権派と同じく、最大限の自己決定の自由を支持する立場をとる。ただし、人権派とは違って、同時に最大限の自己責任を要求する立場をとる。 刑事裁判においても、被告の責任能力を最大限に認めることを原則とすべきであり。犯罪者についても、「心神喪失」といった自己決定能力欠陥を軽々しく認めるべきではない。 それは犯罪者の人権を無視することになる。未成年者についても同様である。
 日本でも、「お上」すなわち「官」が、さまざまなトラブルを規制・指導・保護といった行政的な手法で処理する形から、裁判によって司法的に解決する形へと移行する傾向が見られる。 このことは、日本もアメリカ型の訴訟社会に近づかざるを得ないことを意味する。「お上の裁き」に近い性格を残している日本の裁判も、「両当事者が判定者を前にして争うゲーム」の性格の鮮明なアメリカ型の裁判に近づくことになるであろう。 しかしそれは、日本もアメリカ型の陪審裁判を採用すれなよいということではない。陪審制にしても参審制にしても、市民参加型の裁判には重大な難点がある。 司法改革がこの方向を目指すことには賛成できない。また、アメリカのように、企業から巨額の懲罰的損害賠償を獲得する一攫千金的ビジネスとしての弁護士産業が膨張していくのも歓迎すべきことではない。 とはいうものの、日本のようの弁護士・裁判官・検察官が人口に比べて異常に少ない状態をこのまま続けることはできない。超難関の司法試験によって法曹人口の「供給制限」をすることで。司法サービス産業を競争の少ない「聖域」に隔離しておくのは間違っている。 (『法と正義の経済学』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『経済倫理学のすすめ』「感情」から「勘定」へ  竹内靖雄 中公新書   1989.12.20
『迷信の見えざる手』              竹内靖雄 講談社    1993. 9.30
『法と正義の経済学』              竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』        小谷清  日本評論社  2004. 5.20
( 2007年6月18日 TANAKA1942b )
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(14)レントシーキングと規制緩和
法曹界に市場経済の空気を入れてみよう

 今週も先週に引き続き法曹界以外=経済学者から見た法曹界を取り上げる。死刑制度に拘らず、 「法曹界の匂いのしない意見」を取り扱うことにする。キーワードは「レントシーキング」だ。どういうことか?徹底した自由経済の立場からの意見を聞いてみよう。
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<陪審員制度・公的領域への参加は国民の義務か> 「公」の領域への一般市民の参加は市民の権利であり義務である、というタテマエに隠れて人は気づかないかも知れないが、陪審制や参審制は、素人を低報酬で使う、民間活力の悪しき利用の例である。 市民の参加といえば、民主主義の精神からしてそれは当然のこと、「多々益々弁ず」と信じて疑わない人が多い。しかし現実の陪審制や参審制は、こうした美名の下に一般市民に奉仕活動を強いるものであり、低報酬での奉仕活動を欲しない人たち、つまり多忙で高収入の人たちに忌避される仕事であることは間違いない。
 現にアメリカでは、安い日当でもないよりましという人、仕事のない人(失業者を除けば、専業主婦と老人)が陪審員をつとめる傾向がある。 日本にも暇を持て余している人が多いので、こういう人たちは低報酬など問題にせず、進んで参加しようとするかもしれない。 しかしカルチャーセンターや宗教団体の奉仕などへの参加と裁判への参加とでは、事の性質がまったく違うのである。
 政治に参加すると称して数千万票の中の1票を行使するのと、政治家、すなわち国会議員として立法の仕事に従事したり、大臣になって他国の首脳と会ったりするのとでは、参加の性質に根本的な違いがある。 後者のような政治参加は、選挙で選ばれ、正式に任命された人にしかできない性質のものである。官僚は選挙で選ばれた人間ではないが、それでも国家試験に合格して採用された人たちである。 行政参加と称して一般市民が官僚の仕事を分担することはできない。できるのは「1日警察署長」、「1日税務署長」までである。
 江戸時代には公務員としての警察官(与力・同心)はきわめて少なかったので、実際の捜査活動や情報収集は、正規の警察官でも何でもない目明かし・岡っ引きなどと呼ばれる町人が、わずかな小遣いをもらい、あるいは「目こぼし料」その他の好ましからざる収入を自ら稼ぎながら手伝っていた。 よくいえば「警察への市民参加」であり、実際はいい加減な民間下請け制であり、要するに「民間活力」の利用による公的支出の節約である。 陪審制・参審制にも民間人の利用という点で、これと同じ意味が含まれていると言わなければならない。 (『法と正義の経済学』から)
陪審裁判への根本的な疑問
陪審制や参審制がなぜ好ましくないか。
 個人が政治、行政、裁判に対して自由に批判し、不適正な政治、行政、裁判が行われるのを何らかの方法でやめさせる行動がとれる、ということは重要である。 その方法とは、選挙で落選させることで、そして、訴訟を起こすことである。アメリカでは政治家だけでなく、判事・検事も選挙で選ぶことができる。 ということは、好ましくない判事や検事を当選させないこともできる、ということを意味する。日本では最高裁判所判事が国民の審査を受けることになっているだけである。
 しかし参加する意志のない個人を、義務だと称して政治、行政、裁判に強制的に参加させるのは好ましいことではない。 これは消費者を製品の製造現場に参加させるようなものである。個人は自分の責任で自分の仕事をするのが原則で、自分が好きで選んだものではない国家の仕事(公務)を割り当てられ、強制的にやらせるべきではない。
 政治家(国会議員)、官僚、裁判官などの公務員は、いずれも自ら進んでその仕事を選び、報酬を得てその仕事をしている。 そしてその仕事に責任を負っている。裁判の仕事も裁判官に任せるべきであり、「1日○○」」を体験してもらうだけならともかく、責任ある仕事を責任のとれない素人に分担させるべきではない。
 個人が自分の仕事を離れて公務に参加すればよい、という「参加主義」は特殊な思想である。かりに個人が全員平等に国家の仕事(司法・立法・行政)を分担すべきだということなら、抽選で議員になって議会で仕事をすべきだし、「1日警察署長」ではなく、交代で警察署長や警官の仕事も実際にやるべきであろう。 もちろん、兵役の義務も全員に課すべきであり、少なくとも抽選で兵役に服することにしなければならない。
 古代ギリシャのポリスでは成人男子の市民には兵役の義務があった。ポリスのような小規模な都市国家では、成人男性の市民全員が兵士として戦うことを原則としなければ、対外戦争もポリスの防衛も成り立たなかったのである。 この「国民皆兵」の原則は、近代になってナポレオンが復活させたが、数千万から数億規模の近代国家ではこの原則は無理であると同時に不必要でもある。 現在、多くの国では徴兵制度をやめており、平時には、職業として軍人になることを選んだ者だけが軍隊を構成している。同じことが政治、行政、司法についても言えるはずである。 公的サービスの供給は、それを専門の職業とする公務員によって行われており、それを職業としない「素人」にまで供給側の仕事を強制するのは変則的なやり方である。
 一般市民の裁判への参加を義務づけることが望ましいというのであれば、次の条件が必要になる。
@陪審員または参審員の選任は無作為抽出を原則とする。
A例外的な理由(病気、心身の能力に問題がある者、選挙で選ばれた公職にある者など)による場合を除いて、選任を拒否することはできない。
B陪審員または参審員に選任されたことでこうむる金銭的不利益やチャンスの喪失その他の不利益については、十分な補償を行う。
 @、Aのような厳しい条件で国家への奉仕の義務を課されることになると、これはかの徴兵制度と何らかわりがないではないか。 国民全員が平等に司法参加の義務を果たすべきだという立場は、同様にして全員が平等に兵役の義務を果たすべきだという立場に対応している。 後者には反対だが前者は歓迎するというのは筋が通らない。
 陪審制にしても参審制にしても、職業裁判官以外の市民を参加させることの1つの利点は、その方が明らかに安上がりだということである。 彼らは「薄謝」(きわめて安い日当)でその義務を果たすことになる。重要な仕事を抱え、それによって高い報酬を得ている人に対してその仕事上のロスや「失われた報酬」を十分に補償するといったことは、一般には不可能であろう。 アメリカでもそれは行われていない。とすれば、別の分野で専門的な仕事をもち、高収入を得ているような「信頼できる人」ほど裁判への参加を忌避する強力な動機をもつことになる。 さらに、陪審員や参審員を引き抜かれた企業、学校その他の組織では、そのために生じた仕事の穴を埋めるためのコストを負担させられることになるが、国家にはそれに対する補償までする気はないであろう。 (『法と正義の経済学』から)
裁判はボランティアには任せられない では陪審員はやりたい人がやる、というボランティア活動方式はどうだろうか。実はこれこそもっとも好ましからざりやり方である。陪審員や参審員を意欲があって応募してくる人にやってもらうということにすれば、特殊な考え方の人だけが熱心に応募してくる恐れがある。 高額の報酬を支払う場合には、それを目当てに応募してくる人も増えるであろう。いずれにしても、この制度が偏った考え方のグループに「活用」され、自分たちの利益実現のために利用されることになるのはもっとも好ましくない。
 もちろん、ボランティアを募って陪審員または参審員を任せるという方式こそ市民参加の司法のあり方にふさわしいと考える人も少なくないであろう。 しかしこれが最悪の方式である理由は別にある。それは、裁判のような公的な意志決定に、「資格を審査されず、投票による支持も得られていない市民」を直接参加させるべきではない、ということにほかならない。 積極的に裁判に参加したい市民には参加する権利がある、という考え方は間違っている。
 自分から手を挙げる人々を参審員として認める場合は、「参審員試験」によって資格ないしは適正を認定するか、立候補制にして選挙で選ぶか、いずれかの手続きを経なければならない。 裁判所が適当に審査して「公平で良識ある」参審員候補を選び、その中で引き受けてくれる人を選任する、といった手続きではダメである。
 さらに重要な問題点は、こうして裁判に参加した素人市民に対して、誤審や「問題判決」の責任をどのように追求するのか、ということである。 一体、彼らは参加することにのみ意義があると称して参加した市民代表であって、その仕事ぶりや責任は一切問われなくてよいということだろうか。
 市民参加型裁判が物事を画期的に改善するだろうという期待には根拠がない。それは、消費者を工場の生産現場に参加させればよい製品ができる、あるいは欠陥製品の生産が防止できる、といった考え方に似ている。 こんなことは実際にできない相談である。 (『法と正義の経済学』から)
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<ロースクール構想の経済学・どのような制度なのか> ロースクール構想と呼ばれた企画に基づいて法科大学院が2004年4月に開設される予定である。 この構想は、適切な法曹人の選抜方法として機能していないと現行司法試験制度を強く批判した上で、ロースクールを中核とした法曹人養成を求めている。 より具体的には、この構想は司法試験制度を廃止し、新たに設立するロースクールの卒業を法曹人となる唯一の資格要件とすることを提言している。 構想では、新たな形で司法試験が存続する場合にはロースクール卒業を受験資格とし、ロースクール卒業生のほとんど、8割程度が新司法試験に合格するものとされた。(中略)
 社会の基本的条件から生じ、政府の作為なしで生じる秩序(自生的秩序)と一致するのでなくて、政府の作る公的秩序は花壇が原野に戻るように自生的秩序に取って代わられてしまう。
 ロースクール構想の目的は、内容は何であれ政府認定のロースクール卒業を法曹人となる唯一の要件に、(事実上)することによって、官製秩序である公的法曹教育とその関係者を自生的秩序から守ることと思う。 つまり、ロースクール構想は法曹人口の拡大を目的としてあげるなど一見規制緩和の一環として進められているように見えるが、自生的秩序の形成に対抗するための法曹に対する規制強化であり、経済学でいうレントシーキングである。
 自生的に生じる秩序は混乱・不潔といったものにしか多くの人々には見えない。それは、いかがわしく、不正規なものと、ときには道徳的糾弾を伴って嘆かれたりさえする。 このような自生的秩序に対する一般的反応を背景とすると、公的秩序に利益を有する人々が自生的秩序に抗い、レントシーキングを行うとき、彼らが正義の側に立っているかのように映る。 ロースクール構想はこのような例である。
 ロースクール構想はレントシーキングであるのにもかかわらず、市場主義の旗を掲げる人々がこの問題に沈黙を保ってきたのは興味を引かれる現象である。 その理由の1つは、法学部同僚の利益にはあえて反対しないのは仁義(暗黙の結託)であるという常識的な考慮であろう。しかし、もっと奥深い理由も存在するように思われる。 それは、日本的市場主義者が市場さえも官製であると考えるほどの設計主義者・制度主義者であることである。彼らは本当の自生的秩序には共感がなく、不潔感をむしろ抱く一方で、官製の公的秩序(本章では法曹教育の場として政府の決めた教育機関)を当然のものと見がちである。 このため、教科書的条件反射を引き起こさないロースクール構想のような非教科書的文脈でのレントシーキングに対しては、日本的市場主義者は官製秩序を守る側に自然に立つ。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
レントシーキング ロースクール構想と呼ばれるものは論拠薄弱な現状批判に基づいたものである。そのようなものがなぜ強く推進されるのかを憶測すれば、ロースクール構想は経済学でいうレントシーキングを本当の目的としているからだと思われる。 レントシーキングとは、特定の集団が、法的行政的な各種規制の導入や保護策などの供給制限的措置によって、さもなければ得られないような権益・特権を自分たちに付与するように政府に働きかけることである。 政府の認定を受けたロースクールの卒業生を事実上唯一の法曹人になる必要要件とするのは、政府の認可した整備工場で検査を受けなければ車検を得られないとか、自動車運転免許の更新の際の提出書類は自動車免許試験場の周囲に群がる事務所に作ってもらわないと事実上受け付けてもらえないとか、 国際競争力に劣る日本の農業やアメリカの鉄鋼業界が国内需要を自分たちに向けさせようと輸入規制を政府に働きかけるとの同じことである。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
公的法曹教育の衰退
法曹界にあって中心的な存在であったとはいえない大学法学部は、代替的な法律教育機関である司法試験受験予備校の最近の伸長によって法律教育機関としての地位をも大きく脅かされるようになった。 日本の農業と同じように成り立ちえなくなった法学部業界は(事実上の)ロースクール義務化によって自らへの需要をつけてくれるよう政府に要求しているのである。これがロースクール構想の主眼である。
 旧帝国大学の大学院重点化によって制度的に拡充された旧帝大の法学系大学院では閑古鳥が鳴いている。これが一般に知られて法学系大学院の社会的低評価とその拡充の無用さが、だれの目にも明らかになれば、直接間接の不利益を旧帝大法学系大学院は被る。 ロースクール義務化によって定員を埋めて(振り替えて)、これを未然に防ぐこともロースクール構想の目的とされているのであろう。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
花壇を蔽う雑草
指定工場での車検や運転免許更新書類作成の問題は規制緩和によって消滅した。農業保護策も旗色が悪い。しかし、規制緩和の一環と一般には理解されているものの中に、新たな規制強化がすべり込まされようとしている。食料に不自由しない国での農産物輸入規制はそれほど重要でもない分野での規制であり、レントシーキングである。また、それによって利益を得る人々も日本社会では必ずしも恵まれているとは言えない人々である。 ところが、司法という社会の根幹とされる分野で大学法学教授のように恵まれていないとは言えない人々が、規制緩和の美名の下で政府からの保護と権益を求めている。
 ロースクール提唱者は、現行法曹選抜制度の不適さの象徴として司法試験予備校についていかがわしい印象が抱かれるように努めている。 しかし、有力大学法学部学生が有力大学法学部の授業をなおざりにし、有力大学法学部教授を無視して、いかがわしい予備校に通学して司法試験に合格し、しかも有力法学部も卒業する。 これほど有力法学部の社会的威信を揺るがすものは少ないであろう。司法試験予備校の繁栄は有力法学部が裸の王様であるにすぎないことを示し、長く批判されてきた受験体制や学歴主義の土台を掘り崩す最も有効な働きとして歓迎すべきものではないだろうか。 ロースクール義務化は、ロースクール設置対象校とされる無用な権威を永続化するのに役立つだけではないだろうか。
 政府が意図したからといって望んだ秩序が生まれるわけではない。経済社会の基本的条件に合致しなければ、それは存続し得ない。 花壇が雑草に蔽われる如く、官製秩序は自生的秩序に取って代わられてしまう。国公立、私立を問わず、法学部は法曹養成を目的とした官製秩序である。 この花壇は、自生的に生じた雑草のような司法試験予備校に取って代わられてしまった。ロースクール構想は、予備校という雑草から花壇を守るための除草剤といえよう。
 長く社会的権威を保ち続けたものが、その権威を支えていた社会的意義を失ったとき、その穴を埋めるものがひっそりと自生的に生まれる。 それは、成長するにつれていかがわしく、胡散臭くスキャンダラスな存在として軽蔑され、社会の庶子のように白眼視される。 しかし、それは既存の無内容な権威の基礎を白アリのように着実にむしばみ世の中を変えていく。既成の権威はその非正規性をさげすむように対抗し、その社会的認知を遅らせようとする。 現代日本社会で盛んに試みられている、政治家・官僚・ジャーナリズムとそれに連なる人々が行政的にまたは法令によって社会を変えようとする行為は、本当の改革ではない。 市場経済化とか既成緩和といった美名の下で行われていても、社会主義的・計画経済的発想の権威的行為である。本当の社会改革・市場主義的改革とは、社会的に胡散臭く見られている非正規の存在が既存の権威を朽ちさせていく、一見猥雑で不潔な印象を与える過程である。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
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<治癒力・自生的秩序・盲目の時計職人> ほんの少し前まで「平成不況から脱出するため、日銀は買いオペを進め、インフレターゲット政策を行うべきだ」との主張が聞かれた。そこには、「日銀の政策次第で不況から脱出できる」との期待があった。 つまり「不況は日銀の政策次第で脱出できる」「経済はコントロールできる」との考えがある。それに対して「自生的秩序」があると考える人は、そうした考えを「設計主義」と批判する。「設計主義」と同じようなイメージに、TANAKAがよく使う「治癒力」やR・ドーキンスの「盲目の時計職人」などがある。
 生物の進化は、ある一定の方向を持っているわけではない。現在、生態系のバランスがとれているからと言って、神がこの秩序をつくったわけではないし、初めからこの秩序に向けて進化が進んできたわけでもない。それをR・ドーキンスは「盲目の時計職人」と表現した。 ハイエクは「設計主義」「自生的秩序」という言葉を使った。こうしたセンス・感覚は、違う感覚の人には理解も納得もできないかも知れない。それでも、「自生的秩序」「治癒力」「盲目の時計職人」といったイメージを持つ人がいることだけは知っておいて欲しい、と願う。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』       竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』  小谷清 日本評論社  2004. 5.20 
( 2007年6月25日 TANAKA1942b )

(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか? 
東京裁判・仇討ち・必殺仕事人
 裁判員制度実施のために各地で事前練習が行われている。新人営業マンがロールプレイングをやるようなものだ。そこで、ここでは法曹界の人が考えつかないような事前練習を考えてみよう。 竹内靖雄著『法と正義の経済学』からの引用で、「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、江戸の町人から陪審員を選定し、陪審裁判にかけたとしたら、どのような評決が出るだろうか」という設定だ。
 この死刑制度を扱って、刑法だとか、死刑廃止だとか、法曹界の人たちの本を読んで感じたのは「気配り半径の狭さ」「視野狭窄」ということ、つまり、発想が皆同じで、2次元的発想から3次元的発想に飛躍するようなものに出合わない淋しさを感じている。 たしかに、裁判員制度導入のために事前練習であれば、起こりそうな事例を設定して練習することになるのだろうが、発想の貧しさを感じてしまう。
 ということで、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件をどのように裁くか?以下の文章を読んで頂きましょう。
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赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、江戸の町人から陪審員を選定し、陪審裁判にかけたとしたら、どのような評決が出るだろうか。
 弁護士は次のような主張を展開する。
 赤穂浪士の討ち入りは主君浅野長矩の仇討ちである。それは武士の範たるべき義挙であり、その行為は儒教道徳の精髄ともいうべきものである。 彼らは犯罪者ではなく、義士として遇するべきである。なお、この事件の発端となった江戸城松の廊下での刃傷事件は、吉良義央の方に刃傷を誘発する原因があり、少なくとも「喧嘩両成敗」の原則をもって処断すべきところを、原因究明の審理もなく、 浅野を即日切腹、浅野家は改易(領土没収)とし、吉良にはお咎めなしとした措置は不当である。吉良邸討ち入りはこの不正を正し、武家社会の正義を回復する行為でもあった。 赤穂浪士の行為には犯罪性はなく、むしろ顕彰されるべきものである。しかし形式上、法を犯したことも事実であり、何らかの処罰を受けることはやむを得ない。ただし死罪にはあたらない。
 検察側は次のように主張する。
 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、徒党を組み、武装して他人の住居に侵入し、多数を殺傷した最大級の犯罪である。 この行為を仇討ちであり、義挙であると強弁することはできない。主君を殺された家臣がその手下人を討つのが仇討ちであって、本件の場合、そもそも仇討ちにもなっていない。 討てる敵を勝手に決めて恨みを晴らしたにすぎない。武家社会の慣行や儒教倫理など持ち出してこの犯罪行為を正当化することはできない。赤穂浪士全員を極刑に処するのが至当である。
 当時の世論や町人の反応からすれば、陪審の評決はほぼ全面的に弁護士の主張を支持したものとなり、赤穂浪士は無罪放免となったであろう。 法を無視し、感情的正義回復論を支持する形で、陪審員が自分たちで法をつくってしまったことになる。いわゆる「ジュリー・ナリフィケーション」(jury nulification 陪審による法の無視)の好例であろう。 そして赤穂浪士は一定期間謹慎したのち、希望に応じて諸藩に召し抱えられるといった扱いになる。その際、義士というヒーローを召し抱えたいと希望する大名は数多くいるので、ドラフト会議のようなものが開かれ、大名間で調整が行われるであろう。 大石良雄は大藩の家老にスカウトされるのにちがいない。
 しかしこの事件の実際の決着は、赤穂浪士全員の切腹ということであった。被告側は討ち入り(不法侵入・殺傷)の事実を認めているので、陪審裁判に至ることなく、司法取引が成立したとすれば、そのような決着になる可能性もある。 あるいは、弁護人は有罪を認めた上で、情状酌量による助命を主張するが、検察側は死罪を譲らない、という展開もありうる。結局、幕府は、赤穂浪士を罪人として処刑するのではなく、武士としての名誉を尊重し、自ら責任をとらせる形をとることで決着をはかった。 こうして赤穂浪士には切腹が言い渡されたのである。これは実質的には斬首による死刑であるが、名目上は名誉ある自決であり、義士の最期にふさわしいと見られた。 赤穂浪士が自死を受け入れて潔く「散った」ことで、彼らの犯罪性も封印され、こののち、義挙、快挙、美談としての「忠臣蔵」だけが人々の記憶に残ることになる。
 二・二六事件の場合も、陪審裁判の下では似たような評決が出るであろう。被告たち(反乱を指導した将校たち)の行為は「憂国の至情」によるものであり、その目的が正しいものである以上、その手段の違法性を問うわけにはいかない。 あれは反乱ではなく、「昭和維新」のための行動の一環であった……というわけで、ここでも超法規的感情論がまかり通って、法の存在は堂々と無視されることになるであろう。 これも「ジュリー・ナリフィケーション」である。 (『法と正義の経済学』から)
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<東京裁判、ストーカー殺人事件、フセイン裁判をどう裁くか?>  俗に「東京裁判」と呼ばれる極東国際軍事裁判に陪審員が参加したらどうなるだろうか?ウィキペディア(Wikipedia)で「東京裁判」を引いてみて下さい。 この裁判をどのように評価するか?となると国論を統一することはできないだろう。民主制度の評決の基本は多数決だ。しかし、東京裁判のようなことを多数決で決めることはできるのだろうか?
 1999年10月26日午後12時53分頃、S県O市のJRのO駅前の路上で自宅から乗ってきた自転車に鍵をかけようとしていた女子大生(21才)が、突然男に背中と胸部の2ヵ所を鋭利な刃物で刺された。通行人らが女子大生を介抱したが即死状態だった。目撃者の証言によると犯人は女子大生を刺した後、ニタっと薄笑いしながら逃走したという。
 ストーカー殺人事件と呼ばれるこの事件、犯人は死刑ではなく無期懲役であった。死刑廃止論者はこの判決を批判するはずはないが、一般人はどうだろうか? 「死刑にすべきだ」との声は多いに違いない。
 「世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある」 ということは、一般社会人の常識と、刑法での常識と違うことがあるということだ。
 フセイン裁判となるともうこれは陪審員の判断基準を超えていて、まともな判決は期待できない。
 これらの裁判に陪審員として参加したらどのような判決を下すことになるだろうか?皆さんも、想像逞しく考えてみて下さい。
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 … は じ め に …で取り上げた、古田の文章にこのように書いてある。
 世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 この文章から分かることは、刑法のルールと世間一般の常識とは必ずしも一致しないときがある、ということだ。陪審員制度は素人が裁判の判決に参加することになる、ということは、刑法のルールを知らない人間が判決に参加するということだ。 上の文章の絡みで言えば、「世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり」という刑法のルールを知らない素人が「それでは世間一般の常識に反する」と異論を唱えることになる。 こうなると、刑法のルールから外れた判決を要求することになる。
 「陪審員制度によって法曹界の人間が、世間一般人の常識を知ることは良いことだ」と書いたが、判決が、刑法のルールから外れたものになるとしたら、これは良くない。 かと言って、「皆さん、陪審員はそのように言いますが、刑法のルールで言えば、それは間違っています」と言って陪審員の判決を無視するとしたら、陪審員制度を採用する意味がなくなる。
 農業問題を扱っていくと、「消費者教育が必要だ」という意見によく出合う。「農林水産省では、食に関する知識と食を選ぶ力を身に付けるための「食育」を推進しています」とは農水省からのメッセージだ。 農業問題を議論していくと、「食品の安全性について消費者教育が必要だ」「消費者は遺伝子組み換えの危険性について考えていない」「そんなに言うなら農村に行ってコメを作ってごらんなさい」 との意見が「土の匂いのしない人」に向かって発せられることがある。「食品の安全性に関しては、消費者の誰よりも私の方が知識がある」との自信と思い上がりに満ちた発言に出合うことがある。
 裁判の判決についていろいろ批判があるようだが、それなら一般人に「裁判で判決を出すということがいかに難しいことなのか、一般人にも分かってもらいましょう。そのためには裁判に参加して貰うのが良いでしょう」 という発想なのだと考えられる。
 乱暴な言い方をすれば「そんなに文句を言うなら、オレたちのやることをお前さんもやってみなさい」ということだ。「そんなに食料自由化を言うならば、農村に行ってコメを作ってご覧なさい」と同じ発言と感じた。
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 上記文章は頭の体操になったのではないかと思う。ここでもう1つ。頭の体操をして頂きましょう。 それは、死刑に代わる「仇討ち制度」についてだ。上記「陪審員は忠臣蔵をどのように裁くだろうか?」と同じ著者が違う本で書いている。それを引用することにした。
<仇討ちの復活は可能か=死刑廃止をめぐる迷信> 死刑の執行されない国 日本ではこの数年間死刑の執行がなかった。歴代の法務大臣がその職務をサボタージュして、在任中、執行命令書にハンコを捺さなかったからである。 刑法に死刑があり、裁判の結果死刑が確定しているのもかかわらず、その執行だけが理由もなく停止されるという変則的な状態が続いていたのである。 これらの法務大臣は、自分がハンコを捺して人の命を奪うのは後味が悪いとか、死刑制度廃止の声も高まっているおりでもあるし、自分ももともと死刑制度には反対だから、というような理由で、自分の任期中は死刑を執行せず、執行命令書を貯め込んで先送りにしていたらしい。 法はあっても、それをいい加減に運用して「ないに等しいことにする」という、まことに日本的なやり方である。こうして世論の風向きと自分の「良心」(?)の双方に対して「いい顔をする」ことが、格別非難されることもなくまかり通っていたのである。 ようやく職務に忠実な人物が法務大臣に就任して、何人かの死刑の執行を命じると、それを死刑廃止論者たちは非難している。
 このような幼児レベルの知的混乱は別として、死刑そのものを存続すべきかという問題については真面目に検討されてもよい。 日本人の間には、よほどのはっきりした利点がない限り、現状を変更しようとはしない「保守主義の知恵」が働いているので、今のところ死刑廃止は当然、という世論ができあがっているわけではない。 廃止こそ世界の大勢であるといわれても、それではたしてよいのだろうかという懐疑がまだ十分残っているのである。何が何でも死刑は廃止しなければならないという確信にみちた意見は少数であると思われる。
 死刑は蛮行か 死刑に反対する人々の根拠はどういうものだろうか。死刑は国家が法の名において人間の生命を奪う「蛮行」である、というような意見に対しては、人間の歴史の大部分、そしてほとんどの国や社会で死刑は行われてきたのであり、 それにはたんなる「蛮行」というよりもそれ相当の理由があったからではないか、と反問したくなる。死刑廃止論者は、これに十分に答えることができない。 とにかくそれは蛮行であった、許すべからざることであった、と繰り返すのみである。
 人間の生命を奪うことはいかなる理由があっても許されない、という生命至上主義に対しては、ではその生命を奪った殺人犯は許されてよいか、と反問することができる。 これに対する唯一の論理的な答えは「殺人は許すべからざる過ちであった。しかし国家がこの上さらに同じ過ちを重ねるべきではない」というものであろう。 ただしこの答え方は、「死刑を科すべきでないから殺人に対しても死刑を科すべきでない」と言っているだけの循環論法であって、死刑に反対すべき理由の説明にはなっていない。
 一方には、死刑制度がある限り裁判の誤りによって無実の人を死刑にしてしまう恐れがある、という理由をあげる人もある。 しかし裁判に誤りはつきもの、と簡単に言ってもらっては困るのであって、文明国の裁判では、有罪ではないかも知れないという「合理的な疑い」が残る限り有罪にはできない。 その場合は、犯人かも知れないという濃厚な疑いがあっても、有罪とは断定できないのだから無罪(正しくは not guity で「有罪ではない」)となるはずである。 もしも有罪とされたものが、やり直してみるとたちまち「合理的な疑い」が見つかって無罪へとひっくり返るような裁判なら、それは死刑の有無とは別に改善する必要がある。 「裁判は信用できないし、誤審を絶無とすることは不可能だから、死刑は廃止すべきである」という議論の仕方はおかしいのである。 ついでに言えば、裁判とは、神のような「明智」の裁判官が隠れた真実を発見する手続きなのではない。真実は犯人だけが知っている。検察官も裁判官もそれを推定することができるだけである。 けれども、有限回のしかるべき手続きを経て有罪という結論が出れば、それを妥当なものと認めるのが裁判という制度である。
 死刑反対論には、結局のところ、死刑は蛮行である、許せない、情において耐え難い、という感情を持ち出す以外に説得力となるものがない。 しかし実はこの感情論こそ決定的である。死刑には耐えられない、廃止すべきだと人々が感じるようになれば、死刑の存続は事実上不可能となるのである。 ただし、この感情論に対しては、もう1つの協力な感情論が立ち向かうであろう。つまり、自分の子供や妻等々が無惨に殺されて、その犯人が死刑にならないのは耐え難い、納得できない、という被害者側の感情論がそれである。 死刑廃止論者の感情論は、この被害者側の感情論に答えることができない。こちらのほうは公式には無視されされさいる。無視されているのは被害者の遺族の感情だけではない。 殺された人の感情はもっと徹底的に無視されている。なぜなら死んだ人は無であり、もはや感情もあり得ない、というフィクションが受け入れられているからである。 霊魂の不滅を説くような宗教の信者も、こういう時は殺された人の霊魂も感情も無に帰したものと考えるらしい。だから人々は、犯人が処刑されなければ殺された人が「化けて出る」とか祟りをなすといった考え方も今はない。
 要するに、被害者とその遺族たちの感情は無視され、第三者の「死刑はいや」という感情には大いに関心が寄せられる。これは数の問題である。 被害者側の人間はごく少数であるが、第三者は圧倒的多数を占める。多勢に無勢なのである。
 復讐の正義 古い社会の考え方は、何よりも被害者側の感情を尊重するものであった。今Aという人が殺されたとすれば、Aの一族は、殺した張本人のBか、Bの一族のうちAに相当する誰かを殺して復讐しなければ、怒りや悲しみは収まらない、あるいは気がすまない。 「復讐がなされなければ正義は回復されない」というのはこの感情論のことなのである。いわゆる「目には目を」の報復の原則はきわめて古いもので、正義の原型も実はそこにある。 集団対集団」、個人対個人の関係を律する正義の原則とは、この「やられたらやり返す」であり、「贈り物をもらえばお返しをする」である。 互いによいものを「ギブ・アンド・テイク」でやりとりする「交換」の関係も、さらに貨幣を使って交換を行う市場というシステムも、すべてこの古い正義の原則から発展したものである。 死刑廃止論者や教育刑論者のように、報復の原則など古くさいものでもう流行らない、などと言って済ませてしまうのは浅はかと言うべきであろう。
 報復の正義は人間の感情に基礎をおいているが、「やられたらやり返す」原則そのものは、無差別一般的で、関係者の特殊な事情や都合によって左右されるものではない。 極端に言えば、相手に殺意があったか、それとも過失であったかを問わず、人を殺した者は殺されなければならないのであって、この原則はきわめて厳しいものである。 古い社会では、個人の事情や都合は無視されて、一般的なルールが支配するのであり、個人はその支配から逃れることはできない。 そこには個人本位という意味での個人主義はないのである。
 重要なのは、ルール通りに正しく報復が行われることであるとすれば、それを被害者の身内が行うかどうかは関係がなくなる。個人で「仇討ち」をすることがあまりにも大きな負担になるとすれば、報復を国家の手に委ねて代行してもらってもよい、ということになる。 こうして人を殺した者を国家が処刑する制度ができあがったのである。しかしそうなると国家は、復讐の代行ばかりではなく、国家自信が死刑にすべきだと判断する人間も死刑にするようになった。 たとえば、国家に対する反逆者はその理由で国家によって殺される。
 こうして報復の正義から出てきた死刑制度は、その後修正を重ねられて今日にいたっている。修正とは、個人の事情と都合をできるだけ認め、それを重視しようという方向のものである。 殺人についても、なぜ殺したのか、殺さざるを得なかったのかという加害者個人の事情と殺意の有無ということが考慮されるようになる。 そこで自分がその立場に立ってみた時、自分でも殺したであろうと思われるような事情があれば、この人を死刑にするのは妥当ではない、という考え方が出てくるであろう。 また、「邪悪な目的のために人を殺した」のであれば、その感情には同情の余地がなく、このような場合は極刑に処してしかるべきではないか、という感情論も出てくる。 こうして、加害者個人の事情をめぐる感情論が重視されるようになる。今日の裁判の判決理由の文章を読むと、かならずこの感情論が展開されている。 被告は「同情の余地がある」と言われたり、「同情の余地がない」と言われたりするのである。そして死刑が適用されるのは、この「同情の余地がない」場合に限られるようになる。
 このようにして、立場を交換した場合の同情や同感に基づいて正義を決めようというのはアダム・スミス流の考え方である。 これによって死刑の必要を説明するならば、人々がこの殺人については同情の余地はなく、古い豊北の正義によって死を与えるしかないと感じる場合が必ずある、という事実のために死刑は必要なのである。 死刑反対論者も、そのような場合が絶無であると証明することはできないであろう。そこで、「それのもかかわらず死刑には反対する」という立場は、「死刑によって人が殺されることにはやはり耐えられない」という、もう1つの感情論にほかならないのである。 この感情論を持ち出された場合、もはや論理を用いて反論することも正当化を試みることもできない。問題は感情論と感情論の対立という形になってしまうのである。(中略)
 「必殺仕事人」の登場 死刑が廃止され、人を殺しても死刑にはならないということになれば、何が起こるだろうか。 死刑がなくなりさえすればよいという無邪気な死刑廃止論者のために多少の想像力を働かせてみると、おそらく次のようなことがおこりそうである。
 今、強盗殺人や強姦殺人、あるいはM君のような幼女殺害や誘拐殺人で家族を殺された遺族の感情を考えてみよう。犯人はもはや死刑になることはない。たとえば懲役250年といった刑に服することをになるであろう。 終身刑務所から出られないことは確実であるが、これでは気持ちがおさまらない、できれば犯人を「殺してやりたい」と思うことはよく理解できる。 ところで、かりに復讐のため犯人を殺したとしても、死刑にはならず、また情状が酌量されるので懲役100年ということにもなたず、たぶん懲役10年程度ですむであろう。 わが子を殺されて人生に望みを失った親なら「仇討ち」を試みることは大いに考えられる。自分で実行することが困難なら誰かに代行を以来したい。 そこでこの需要に応じて復讐を代行するプロの業者が登場するに違いない。かのテレビドラマでよく知られている「必殺仕事人」がこれである。
 この種の「闇の仕事」は、国家が十分なサービスを提供し得ないである分野には必ず登場してくる。需要を満たす適切な供給がないということは、市場に「隙間」があるということで、この隙間は必ず埋められる。 国家の手で死刑になるべき人が死刑にならないという状況があれば、民間でその死刑を執行しようということになるのである。
 この「必殺仕事人」の殺人代行料金は当然のことながら極めて高額なものになるだろうが、競争の結果、余裕のない顧客のために低料金で仕事を請け負う「いい加減な」業者も出てくるかも知れない。 これは業者も顧客も公になってはならない性質のビジネスであるから、「必殺仕事人」は闇の世界にひそみ、顧客が接触するのは極めて困難である。 そこで、中巻の取次業者も登場する。斡旋料を詐取されて、仕事人に接触できないまま終わるケースも多発するであろう。
 テレビの「必殺仕事人」の場合には、依頼された仕事が、法による処罰を免れている悪業を罰することになるかどうか、殺す対象が私的処刑に値する人物であるかどうかを確認したうえで仕事をする、というこの業界独自の倫理が確立されていた。 「中村主水」以下の仕事人たちは、カネさえもらえばどんな殺しでも引き受けるという殺し屋ではなく、違法であるが、あくまである種の正義にもとづいて行動しているのである。 もしも依頼人のほうに非があれば、依頼人のほうを「処刑する」ことになる。
 闇の世界に果たしてこの種の倫理綱領ができあがるものだろうか。カネでどんな殺人でも引き受ける業者が横行するようになれば、他人の恨みを買えばいつ消されるか分からないという恐ろしい世の中になる。 政治家はライバルを暗殺し、会社でも出世の邪魔になるライバルを消そうとする人が出てくる。国家はこんな状態を放置することはできない。 そこで仇討ちは厳禁され、代行業者も依頼人も、厳罰に処されることになるであろう。しかし少々の厳罰では仇討ちとその代行業を根絶することはできない。 ではどうすればよいか。「報酬を得て仇討ち代行と称して殺人を犯した者は死刑に処す」とでもしなければならなくなる。なんとも逆説的であるが、死刑が廃止された社会では、結局死刑がぜひとも必要となるのである。 (『迷信の見えざる手』から)
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<刑法の論理か?庶民感情の論理か?> 「裁判員制度」と「犯罪被害者が参加できる法廷」とを考えると同じ様な傾向にあることが感じられる。 それは「刑法の論理か?庶民感情の論理か?」という疑問だ。裁判員制度下での「忠臣蔵裁判」で問題になるのは、刑法の論理よりも庶民感情の論理が重視される、いうことだ。 そして、「犯罪被害者が参加できる法廷」でもそれは問題になる。被害者が裁判に出席して、まったく判決に影響を与えない、とは考えられない。まして、素人の裁判員は影響を受けるはずだ。 まったく影響を受けないのならば、素人が裁判に参加する意味が薄くなる。裁判官という専門家だけの判断だけではなくて、一般庶民の判断も判決に影響させようという意味があるはずだからだ。
 この2つのことは、裁判官が自家不和合性に陥る危険性が薄れる、という意味では評価できるが、判決が、刑法の論理とは違った庶民感覚の論理に大きく影響を受ける、という意味では、不安が残る。
 忠臣蔵事件は過去の出来事だけど、最近の出来事としては、向井亜紀・高田延彦夫妻の代理出産の問題がある。最高裁の古田佑紀は2007年3月25日、双子の男児(3)との親子関係を認めず、日本国籍を認めなかった品川区の判断を支持した。 これに関して、民間の裁判員はどのように判断するだろうか?一般市民感情としては「認めてあげたい」というのが自然のような気がする。法律が整備されていないのだから認める訳にはいかない、とは裁判所の判断と正しいと言えるだろうが、庶民感覚としては少し違うかも知れない。 この問題に関して、一般人としては法律という面からよりも夫婦に対する好悪の感情に支配され易いと思う。
 NOVA裁判はどうだろう?こちらも法律から見ればNOVAの敗訴は正しい。けれども「まとめて買えば安くなる」が否定されることには、簡単に認めたくはない。民間の裁判員はNOVAに対する好悪の感情に支配されやすいだろう。 「感情」か「勘定」か?判断基準が揺れ動くことになりそうだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』                         竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15 
『迷信の見えざる手』                         竹内靖雄 講談社    1993. 9.30 
( 2007年7月2日 TANAKA1942b )
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(16)法と正義の経済学の立場から見る 
死刑に代わるべき制度が見つからない
 死刑制度は存続さすべきかどうか、経済学の視点からの意見をここで1つ取り上げてみよう。
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死刑は何のためにあるのか 死刑は何のためにあるのか。実はこれについて単純明快な答えはない。
@「仇討ち代行論」 国家が被害者にかわって仇討ちの代行をしてくれる、というわけである。しかしこの説はすでに指摘したように間違っている。
A「刑罰応報論」 国家は刑罰において、「殺人には死刑を」の形でタリオン(同害復讐)を実現するというのであるが、国家と個人との関係にタリオンの原則を持ち出すのはおかしい。 それはあくまでも殺人者と被害者との関係に適応されるべき原則である。
B「犯罪抑止論」あるいは「見せしめ効果論」 刑罰は法を犯したことにたいするペナルティであり、殺人のようなもっとも重大な違法行為に対してはもっとも重い刑罰である死刑が適用されるのは、抑止効果を考慮してのものである。
C「社会の免疫機能論」あるいは「有害人間抹殺論」 死刑は古代に行われていた「追放刑」の形を変えたものである。国家・社会は有害で危険な人間をメンバーとしておくことはできない。 免疫機能が「非自己」と認識したものを排除あるいは無力化して自己を防衛するように、社会もこのような人間を外へ、あるいは「あの世」へ、追放しなければならない。 死刑が廃止された場合は刑務所に「完全隔離」しなければならない。
D「道徳的懲罰論」 これは罪を犯した人間を国家(裁判所)が神にかわって罰しなければならない、という考え方である。 しかし国家を神の代理人にして道徳の管理者であるかのように見るのは、一神教の世界でも(少なくともユダヤ教、キリスト教の世界では)今や通用しにくい考え方であろう。 普通の国家では、神と宗教法に照らして悪を裁き、罰するのではなく、世俗の法に照らして犯罪(違法行為)にペナルティを与えるのである。 世俗の権力である国家に、そしてその官吏の1人にすぎない裁判官に人間を裁く資格はない、といった議論が、国家や裁判官は「神の代理人」でありえないということを主張しているのであれば、それはその通りである。 ただし、それだからといって人間を死刑にする資格はない、ということにはならない。人間を裁くのは人間であるしかなく、その人間が法によって他の人間の生命を奪うのも人間にとって必要な行為である。
 以上のような死刑についての説明のうち、意味があるのはBとCだけであろう。したがって、BとCが期待しているような効果が現実にはない、ということになれば、それが死刑を廃止する合理的な理由になる。 (『法と正義の経済学』から)
脱死刑の傾向 欧米諸国をはじめ、多くの国が死刑を廃止している。また歴史的に見ると、死刑離れの傾向が進んでいる。昔は、日本の平安時代のような例外はあるが、どの社会でも死刑がさかんに行われていた。
 ただし、古い時代には、人間(死刑執行人)が直接人体を切断したりするような、血を流す処刑方法を避ける傾向もあった。 昔の人間は血を恐れたたし、死者は恐ろしい存在であった。古代のもっとも重い刑は、死刑というよりも追放刑だったが、昔の社会は重罪人や危険な人間を死刑または追放刑としないで抱え込んでおくだけの余裕がなく、そのコストに耐えられなかったのかもしれない。 江戸時代までの日本にもカネのかかる刑務所のような施設はなく、懲役にあたるのは島流しであった。社会が豊かになるとともに、死刑になっても当然の犯罪者を死刑にはせず、刑務所に入れて管理していくだけの余裕ができてくる。 そうなると「何も死刑にしなくてもよいではないか」という人権擁護派が登場し、彼らの主張はさらに進んで、「人を死刑にしてはならない」という信念が成立する。
 かつて残虐な死刑がさかんに行われたのは、その時代のその社会の嗜好なのか、支配者の性向の反映なのか、いずれにしてもそれは人権思想の抵抗を排して無理やり行われたわけではない。 人々もそれを支持していたのである。公開の死刑は「見せしめ効果」を期待して行われたとされているが、それを見る人々の反応はそれほど単純ではない。 K・B・レーダーの『図解 死刑物語』(西村克彦・保倉和彦訳 原書房)にも詳しく紹介されているように、公開処刑は民衆にとってまたとない「見せ物」であり、娯楽でもあって、人々は「怖いもの見たさ」で押しかけてきたのである。 もちろん、そのことと「怖いもの」が犯罪に対して抑止効果をもつこととは矛盾しない。人々が興奮して見たがるのは、それが他人の処刑だからで、自分がそのように処刑されることを望むものは誰もいない。
 死刑が忌避され、次第に廃止に向かっている理由は、実に簡単なことである。
 それは死刑のような残酷な刑は人道上許されないということだろうか。あるいは、死刑が最大級の人権侵害だからだろうか。人道主義や人権主義という感情は、もっぱら死刑を執行される者を被害者と見て、その被害者に向けられているが、それはタテマエにすぎず、人々のホンネは、自分だけは何としても死刑になりたくない、それも火あぶり、釜茹で、車裂きといった恐ろしい死刑にはなりたくない、ということに決まっている。 現実には自分が重罪を犯して死刑になるようなことはあるまいと思っている人も、自分がいつか死刑を、宣告される可能性はゼロではない、ということは想像できる。それなら死刑に反対しておいた方がよい、と人は考える。 この利己主義から出てくる結論は完全に合理的なもので、誰もそれに異を唱えることはできない。つまり、死刑反対のホンネは「自分だけは死刑になりたくない」ということであり、それをタテマエとして高く掲げる時の看板が人権尊重や人道主義なのである。
 (T注)死刑反対のホンネは「自分だけは死刑になりたくない」ということに関しては、ジョン・ロールズの『正義論』との関係で後ほど扱います。
 また、人は他人を自分の手で殺すことを望まない。死刑執行人が1つの職務であり、職業であり、報酬や特権を伴うものだとしても、その仕事を望む人だけが死刑執行人になるわけではない。 人は国家の命令で死刑を執行することがその職務である以上、やむを得ないから執行にかかわっているのであり、自分の手で人を殺すころを望んでいるわけではない。 残虐な死刑が廃れ、ついには死刑そのものが廃止される傾向が一貫して進んできたのはこのこととも関係がある。
 国家が行う死刑は違法行為に対する刑罰であり、その目的は法秩序の維持ということである。刑罰は目的を達成するため威厳のあるものであればよい。 死刑、それも残虐な死刑は、それが絶大な「見せしめ効果」を発揮するという場合にのみ、合理的である。そうでなければ残虐な死刑を行うことに意味はない。 殺人事件の被害者の遺族や市民代表などの立会人も慣習もいない刑務所の一角で火あぶりその他の残虐な死刑を執行することにはほとんど意味がないのである。
 個人の利益を尊重し、個人の言い分をできるだけ認めることが文明の進歩だとするなら、文明はたしかに進歩してきたことになる。文明の構成要素の1つである国家は、この個人が求めるサービスを拡大し、個人がいやがることはやめるという形で、「個人本位」の傾向を推進してきた。 死刑廃止も残虐刑の廃止も、この個人本位が拡大する傾向の産物であると言える。 (『法と正義の経済学』から)
死刑反対論の根拠 死刑反対論の根拠になりそうなものは次の5つであろう。
 @人道主義の絶対反対論
 人道主義者にとっては、人の生命を奪うことは最大級の人権侵害であり、最大級の悪であるから、死刑に反対するのは当然、ということになる。 この信念は根拠も証明もいらない「迷信」であて、あらゆる反論を受けつけない性質のものであるが、ここでは次の反問をしておこう。 死刑が最大級の人権侵害であるとすれば、「死刑を宣告されるような殺人者は、すでに殺人という最大級の人権破壊を行っている。その人権破壊をどう考えるか」と訊きたい。
 人権主義者の答えはこうであろう。済んだことは仕方がない。しかし「殺人には死刑を」という応報主義をとってさらに人の生命を奪うことはゆるされない。 殺人者がその行為を反省し、刑務所の中で「教育」を受けて、人権を尊重する人間に更生することこそ真の責任の取り方である、と。
 この立派な理屈からは、被害者の受けた不正はどうなるか、その正義の回復はどのように行われるかという観点が完全に欠落している。 そこまで指摘されれば、人道主義者は、被害者には国家が十分な補償をなすべきである、というかもしれないが、これは言葉だけの辻褄合わせにすぎず、人権派が実際には加害者の人権擁護にばかり熱心であることは誰もが知っている。
 A「国家による殺人」論
 これは@の立場と重複することが多い。絶対的生命尊重主義(ただし尊重するのはもっぱら加害者の生命であるが)の人権派は、国家が人の命を奪うことにも当然反対する。 したがって死刑反対と戦争反対は彼らの一致した合言葉となる。死刑と戦争とは、国家だけがなしうる行為であり、国家が国家であることの証しでもある。それを絶対に認めないということは、国家の存在を認めないということに等しいが、それでは彼らは無政府主義者、無国家主義者であるかといえば、そうではなく、国家には弱い人間を手厚く保護する義務があるという。 人権の保護は国家がなすべきもっとも重要な仕事であるという。つまり、国家は人間に対して無限に優しい神様仏様、あるいは母親の如き存在でなければならない、ということになる。 死刑を執行し、戦争を繰り返す現実の国家は、神仏ではなく悪魔であり、死刑や戦争は国家の行う犯罪だということになる。このような理屈は実は妄想にすぎないが、この種の妄想を固く信じてい繰ることも、その人の自由である。 他人がこの妄想を訂正する方法はないし、そのような干渉をすれば、それこそ人権侵害だと叫ばれるであろう。
 B誤審の可能性を理由とした反対論
 人間が行う裁判には、いかに万全を期しても誤審がつきものである。誤審をゼロとすることは不可能である以上、無実の人間が誤って死刑を宣告され、執行される可能性もゼロとは言えない。 これは国家の手によって行われる最大級の不正であり、取り返しのつかない過ちである。これを避けるためには、いったん執行されれば絶対に訂正不可能な死刑という刑罰だけはやめなければならない、ということになる。
 (T注)初めに取り上げた「銀行強盗の例」では誤判の可能性はゼロと言える。「誤判は避けられない」は、一般論としては正しいように思われるが、すべての事件に誤判の可能性があるわけではない。
 C功利主義ないしは利己主義の立場からの反対論
 人は誰しも死刑にはなりたくない。たとえ自分が人を殺したとしても、死刑だけは免れたい。これはいかにも自分勝手な願望であるが、人はみな利己主義者であり、自分だけは死刑になりたくないと考える。 実はこれが死刑廃止論の底にある本当の気持ちであろう。しかしこれでは余りのも勝手すぎるので、人はホンネを表に出さず、人権主義その他のタテマエを考案して死刑反対を唱えているのかも知れない。
 D「死刑廃止は世界の大勢」論
 文明の進歩とともに死刑という野蛮な刑罰は廃止されるのが当たり前であり、世界の大勢はすでにその方向に進んでいる。 日本はこの世界の大勢に乗り遅れている。したがって1日も早く死刑を廃止すべきである。多くの人が、その根拠を明確に意識しないまま支持している死刑反対論、死刑廃止論は、実はこのような「世界の大勢」論であり、他人と同じように行動した方がいいという「横並び行動主義」でもある。
 死刑を非文明または野蛮の証明のように見る人は多い。しかしそれは間違っている。都市と市場がワンセットになって文明が登場した時から、国家は死刑と戦争を行う独占権をもっていた。 これをもたない国家はありえない。したがって死刑も戦争も文明の産物であって、それを非文明、あるいは野蛮の証明であるかのように考えるのは間違っている。 国家の法律による死刑やルールのある戦争とは違った次元の殺人、たとえば宗教の命じるところにしたがって人を殺し、「異端」の罪を糾弾して火あぶりにし、ルール無用の無差別テロの形で戦争を仕掛ける、といった行為が非文明、野蛮と呼ばれるべきものである。 (『法と正義の経済学』から)
誤審の問題 結局、死刑廃止論の唯一の正当な根拠となりうるのは、誤審の可能性がゼロではない、ということである。(中略)
 ただし誤審があり得るということを問題にするのであれば、あるとあらゆるタイプの誤審が無視できないほど頻繁に発生することを立証しなければならない。ただし、誤審と判明した誤審以外にも誤審がないとは言えず、しかもその数は絶対にわからない。 そこで死刑反対論も、結局のところ、「誤審が発生する可能性はゼロとはいえない」ことをその反対の根拠とするほかない。つまり、将来ただ1人でも無実の人間を死刑にしてはならないから死刑は廃止すべきだ、ということになる。 この立場は、国家は裁判と刑の執行に関して絶対に無謬でなければならない、ということを意味する。これもまた、「犯罪は根絶されなければならない」という信念と同じレベルにある厄介な思い込みである。 人間の社会をこうして「無謬の神」の目で見てその不完全さを断罪する態度は、ある種の幼児的な態度の名残りであるかも知れない。 人間がゲームの1つとして行っている裁判に無謬性を求めるのは間違っている。この点では、神にだけ無謬性を認める一神教徒の方が正しい。彼らは人間のすることには誤りがあるのは当然、と達観している。 その信仰によれば、誤審を含む人間の誤りは、最終的には「神」が訂正してくれりはずだから人間が気にする必要はない、ということになるのである。
さまざまな代案 死刑が廃止された場合、死刑に代わって「もっとも恐ろしい刑罰」として死刑に次ぐ抑止効果を発揮しそうなものは何か、常識では終身懲役または終身禁固である。 アメリカ式に、刑を加算する方式をとれば、強盗・強姦・殺人(4人)・死体損壊・放火などを全部やってのけた凶悪犯は、たちまち懲役200年を超えて、事実上「終身懲役」となる。 死ぬまで刑務所から出ることはできない。
 これを世にも恐ろしい刑罰だと考えるか、「一定の作業さえすれば、失業も生活費の心配もなく、死ぬまで安心して生きていける生活保障制度」と考えるか、それは人さまざまである。 普通の人は自由のない「塀の中の生活」は耐えがたいと考える。しかし考えようによっては、「塀の中」も「住めば都」で、そのうちに終身懲役を福祉制度のように実感するようになるかも知れない。 塀の外では、事業の失敗、失業、借金その他のトラブルに追いつめられて自殺に至ることも少なくないが、塀の中ではそのようなトラブルは一切ない。 能力と意欲さえあれば、十分すぎるほど長いほど長い年月を利用して、獄中作家や獄中芸術家になり、後世に残る作品を生み出すことも不可能ではない。 ある宗教に帰依して信仰三昧の生活を送り、大往生を遂げることも可能である。
 そう考えると、獄中で20年を過ごし、中高年の「前科者」として塀の外へ投げ出されることの方がはるかに苛酷な制裁であるといえる。
 フィリップ・カーの近未来推理小説『殺人探求』には、絞首刑や電気椅子にかわる「昏睡刑」が登場する。これは囚人を植物状態にしてある装置の中に入れ、人工的に無期限に生存させるという刑である。 万一、誤審であることが判明した時には、「生」の状態に戻すことが出来るので「取り返しのつかない」死刑よりはよいだろうということになる。 フィリップ・カーはイギリス人らしく、刑罰にかかるコストが無視できない問題であることを承知している。刑務所に入れて終身懲役あるいは終身禁固の刑を科すのと、昏睡状態にして自動栄養供給装置の中に入れておくのとでは、後者の方が十分の一の費用で済む、といった理由がある限り、昏睡刑に軍配を上げざるを得ない。 しかし本当は、塀の中から出さないという形で行動の自由を制限する終身懲役と、行動も意識もありえない状態で生存させるだけの昏睡刑とでは、自由の制限の質がまったく異なる。 昏睡状態で脳の中でどのような意識が残っているかわからないが、本人にとっては、昏睡させられた時以後、死んでいるのと同じ状態に陥るといってよい。 この刑は事実上死刑に等しい。その意味で、死刑存続論者はこの昏睡刑を死刑にかえある次善のものとして支持することができる。
 要するに、こうした死刑にかわる刑は、「可逆的猶予期間つき死刑」といってよい。終身刑(あるいは懲役200年など)がよいか、あるいは昏睡刑などがよいか、ということになると、死刑廃止論者は前者を支持して後者には反対するであろう。 しかし、終身刑務所に入れ、そこでの教育が功を奏して「囚人聖者」をつくりだしたとしても、それにどんな意味があるのだろうか。 本人にとってはすばらしい人生になるかも知れないし、教育刑論者の満足も大きいかも知れない。しかし社会は莫大な費用を負担して、一部の犯罪者にここまでサービスを提供しなければならないものだろうか。 死刑はどうしても認められないというのであれば、終身刑よりは死刑に近く、コストもかからない昏睡刑の方が望ましいということになる。
 今のところ、もっともコストはかかる終身刑が、死刑以外でもっとも重い刑である以上、それを適用することが文句なしに有効かつ必要となるのは、サイコパスの連続殺人犯や脳に障害がある殺人犯に対してである。 社会としては、この種の危険な人間を隔離・監禁して安全を確保することは、コストをかけるに値する措置である。死刑廃止論者や人権派にもここまでは同意してもらう必要がある。 さもなければ、「危ない人」の監視と保護については、刑務所でも精神病院でもなく、人権派の人々に責任をもってもらうしかなくなる。 (『法と正義の経済学』から)
しかし死刑にかわるものはない 死刑を廃止すればたしかに死刑という「いやなもの」はなくなるが、それによって肝心の犯罪抑止の問題は解決するわけではない。 死刑にかわる有効な刑罰がいずれも採用できないまま、刑はますます軽くなり、加害者の人権だけが重視される方向に進むようであれば、犯罪の増加と不正の累積を抱えて、社会はそれに対するコストに苦しむことになる。 それはどう考えても賢明なことではない。
 「死刑は何のためにあるのか」を説明したところであげた、Aの見せしめ効果による犯罪抑止、およびCの有害人間抹殺論は、死刑がもっとも有効になしうるものであると同時に、社会にとってもっともコストのかからない方法といえば、やはり死刑以外にはない。 時代の趨勢、世界の大勢ということで死刑を廃止してしまえば、その国家は犯罪に対処するためのもっとも有効でコストのかからない手段を失い、自らの手を縛り、より多くのコストを負担しなければならなくなる。 それが人権主義の路線に沿った進歩であるという自己満足のために死刑の廃止を急ぐことは、賢明な態度とは言えないであろう。 (『法と正義の経済学』から)
 民主制度も、市場経済も、死刑制度も、これに代わるより良い制度がない以上、この制度採用するのが最良だ、と言うことになる。 完璧主義者、原理主義者は不満だろうし、ケチをつければイッパイつけられるし、けれども、「より良い制度が提案されるまでは、死刑制度を存続させるべきだ」というのがTANAKAの主張です。
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<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』       竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
( 2007年7月9日 TANAKA1942b )
死刑廃止でどうなる
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