死刑廃止でどうなる?▲top  

(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった
旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産
<死刑制度に劣らず残酷な刑はあるか?> 「死刑は残酷だから廃止すべきだ」、というのが死刑廃止論者の主要なポイントだ。では、死刑に代わってどのような刑を極刑とすべきか? 死刑廃止論者のなかには「代替案を提示する必要はない」と主張する人もいる、 ということは「どんな代替案が出ても反対はしない」ということになるが、ここでは「代替案」について少し考えてみよう。
 そこで、代替案────
 @仮釈放なしの終身刑 これについては、前にも書いた。刑務所で真面目につとめても、悪いことしても、刑期に関係ないのだから「真面目につとめて、早く仮釈放になろう」とのインセンティブが働かない。 刑務所内の雰囲気が荒れる。採用できない。
 Aむち打ち刑 例えば「むち打ち刑15年」、となったら、1日10回のむち打ちを15年続けることになる。 むち打ちは残酷だけれども、15年で釈放されるとなれば、死刑に比べて残酷な刑ではないし、「仮釈放なしの終身刑よりも残酷ではない」と言える。
 B仇討ち受け入れ人間として、仮釈放 国家は、判決が出たら「仇討ち受け入れ人間」として仮釈放する。被害者およびその関係者が申請したら、仇討ちを許可する。 被告は自己責任において仇討ちから逃れるために逃走する。国家は行き先を把握しているが、仇討ち者には教えない。国家がこの判決に対してのコストは非常に少ないものとなる。 財政再建政策として効果的なので、税収の少ない国家で採用が検討される。
 C収容所送り ソ連時代のラーゲリをロシアで復活させ、世界各国から収容所送りの囚人を受け入れる。死刑が廃止され各国でそれに代わる刑が検討されるが名案はない。 そこでラーゲリの復活となるのだが、運営のノウハウはロシアにしかない。そこで各国はロシアに依頼して囚人を管理して貰うことになる。ロシアとしてもせっかくのノウハウを生かさない手はない。そこで当時の関係者がラーゲリを復活させる。ロシアの外貨稼ぎの主要な産業になる。 各国は、金さえ払えば体裁の悪い制度はロシアに任せられるので、積極的に利用する。このイメージはこういうことだ。「わが国は平和を愛し、戦争をしないために軍隊を持たない。従って、世界のどこかで紛争があっても、わが国は軍隊=自国を守る自衛隊は送らない。その代わり資金を提供する。 汗を流さず、金ですべてを解決するのがわが国の姿勢だ」との考えをイメージすると分かりやすい。
 死刑廃止論者のなかには「死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している」 とか「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」との意見もある。それならば「収容所送り」にも反対はしないだろう。
 さて、その「収容所送り」どのような刑だったのか?これについてはジャック・ロッシの『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』を読んで頂くとして、ここではソルジェニーツインの作品を読んで、その感じを掴んで頂きましょう。
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<イヴァーン・デニーソヴィッチの一日> 午前5時、いつものように、起床の鐘が鳴った──本部の建物のそばにつるしてあるレールを、ハンマーでたたくのだ。その断続的なひびきは、指2本の厚さに水の張ったガラス越しに、弱々しく伝わったが、じきに静かになった。寒かったし、看守にしても、いやでも手を振り回していたくはなかったのだ。
 そのひびきはやんだが、窓の向こうは、シューホフ(イヴァーン・デニーソヴィッチ・シューホフ)が用便桶の方へたっていった真夜中と同じく、いぜん闇また闇だった。だが、3つの黄色い常夜燈が、窓に光りを投げていた。2つは立入禁止地帯、1つはラーゲル構内だ。
 どうしたのか、バラックの鍵をあけにもやって来なかったし、当番たちが用便桶を棒でかついで、運び出す音も聞こえなかった。
 シューホフはこれまで寝すごしたことはなく、いつも起床の鐘とともに起きた──作業に出る前の点呼までに、公のものでない自分の時間が、1時間半ばかりあったからだ、ラーゲルの生活を知っている者なら、いつも内職かせぎができるのだ。 古い裏地で指なし手袋の覆いをだれかに縫ってやるとか、金持ちの班員が靴の山のまわりで選り分けるために足ぶみなどしないように、直接そのベッドへ乾いたフェルト長靴を持っていってやるとか、あるいは、とかく用事のある差入保管所へひと走りして、そこで掃除をするとか、何かを持ち運んでやるとか、あるいは、食堂へ出かけて、テーブルから皿を集め、それを山とかかえて食器洗い場へ持ってゆくのも── 食い物にありつけるのだが、これは志願者が多くて、どうにもならない。ただかんじんなことは──皿に残っているものがあると、こらえきれずに、皿をなめるようになるということだ。ところが、シューホフは自分の最初の班長クジューミンの言葉を、強く心にとどめていた。 古参の海千山千のラーゲル男で、1943年ごろすでに12年間もぶちこまれていたのだが、戦線から送りこまれてきた自分の斑の補充の者たちに、いつだったか、草木1つはえてない森の中の空き地で、焚火にあたりながら、こう話してくれたものだ。
 「なあ、みんな、ここじゃ弱肉強食なんだ。だが、人間はここでも生きているんだ。ラーゲルでくたばるやつはといえば、皿をなめるやつとか、医務室を当てにするやつとか、保安部員のところに仲間を密告しにいくやつなんだ」
 保安部員のことについては、もちろん、班長は口ぎたなくののしった。一方、その密告する連中といえば、自分を大切にするんだが、それはもっぱら、他人に皿を流させて──身の安全をはかっているのだ。
 いつもシューホフは、起床の鐘とともに起きたのだが、きょうは起きなかった。きのうからずっと気分が悪かった。寒気ともつかず、からだの痛みともつかなかった。夜中も暖まらなかった。夢うつつの中で、すっかり病気になったかとも、いくらかよくなったかとも思われたりした。どうにも、朝になるのがいやだった。
 だが、朝はちゃんとやってきた。 (『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』初めの部分から)
<イワン・デニーソヴィチの一日>  シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)ハタバコのけむりを吐きながら、アリョーシュカの興奮ぶりを、落ち着いて眺めていた。
「なあ、アリョーシャ」と彼は、パプテスト信者の顔にけむりを吹きかけて、その手を払いのけた。「おれだって神さまには反対じゃねえんだ。よろのんで神さまを信じてえくらいだ。だけど、天国とか地獄だけは信じねえな。 でも、なんだっておれたちを馬鹿扱いするんだ、天国だ、地獄だとご託をならべて?そこんとこだけは気にくわないな」
 シューホフはまた仰向けになった。そして、中佐の荷物を焦がさないように気を使いながら、頭のうしろの、ベッドと窓の間に灰をおとした。 もう自分の物思いに耽りだした彼の耳には、アリョーシュカがなにを呟いているのか聞こえなかった。
「結局のところ」と、彼は独りぎめした。「いくら祈ってみたとこえおで、この刑期は短くなりゃせねえんだ。とにかく、『はじめから終わりまで』入っていなくちゃならねえんだ」
「いえ、そんなことを祈っちゃいけません!」と、アリョーシュカは声を震わせた。
「自由がなんです?自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯されてしまいますよ!いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ! ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか!使徒パウロはこう申されました、『汝ら、なんぞ嘆きてわが心をくじくや?われ、主イエスの名のためには、ただ縛らるるのみならず、死ぬるもまた甘んずるところなり!』とね」
 シューホフは黙って天井を見つめていた。もう自分でも、自由の身を望んでいるのかどうか、分からなかった。はじめのころは激しく望んでいた。 毎晩のように、刑期は何日すぐて、何日残っているかと、数えたものだ。が、やがてそれも飽きてしまった。そのうちに、刑期が終わっても家へは帰されず、流刑になることが分かってきた。 それに、流刑地とここでは、どちらのほうが暮らしやすいのか、それすら分からなかった。
 自由の身になりたかったのは、ただ家へ帰りたい一心からだった。
 ところが、その家へ帰してはくれないのだ……。
 アリョーシュカは嘘をついているわけではない。その声をきいても、目をみても、彼が牢獄生活を喜んでいることははっきりわかる。
「なあ、アリョーシュカ」とシューホフは彼に弁解した。「お前さんの場合は、どうやら、うまい具合にいってるらしいな。だってキリストのは、お前さんに入ってるようにお命じたわけだし、お前さんはお前さんでキリストのかわりに入っているんだからな。 じゃ、このおれはなんおために入ってるんだい?41年にいくさの用意ができていなかったためかね、え、そのためかね?そんなことおれになんの関係がある?」
「どうやら、2回目の点呼はねえらしいな……」と、キルガスは自分のベッドから呟いた。
「そうだなあ!」と、シューホフは相槌をうった。「こりゃ煙突の中に炭で書いとかなくちゃ。2回目の点呼なし、ってな」そういって、あくびをした。「きっと、寝ちまったんだろう」
 ところが、そのとき、静まりかえったバラックのなかに、外扉のかんぬきをガタガタさせる音が聞こえた。廊下から、長靴を運びにいった2人がとびこんできて、大声で怒鳴った。
「2回目の点呼だぞ!」
 すると看守もそれにつづいて叫んだ。
「むこう側へ出ろ!」
 いや、もう眠っている者もいた!ぶつぶついいながら、体をおこし、フェルト長靴へ足を突っ込んでいる。(綿入れズボンを脱いでいる者はひとりもいない。毛布だけだと足がかじかんで、寝つかれないのだ。)
「ちえっ、忌々しい!」と、シューホフは当たりちらした。しかし、それほど腹をたてているわけではない。とにかく、まだ寝ついていなかったのだから。
 ツェーザリが上段へ手をのばして、ビスケットを2枚、砂糖を2かけら、ソーセージを1切れ、差し入れてくれた。
「ありがとう、ツェーザリ・マルコヴィッチ」とシューホフは、下の通路のほうへ身をかがめて、いった。「さあ、あんたの袋をこの上へかして下さい。このマットレスのしたへいれときゃ、大丈夫だから」 (上段なら通りがかりにちょいとかっぱらうわけにはいかない。それに、シューホフのところなんかのぞくばかもいない。)
 ツェーザリは、口をしめた白い袋を上段のシューホフに手渡した。シューホフはそれをマットレスの下に隠すと、激しく追い追いたてられるまで、なおしばらくじっとその場にいた。 廊下の床の上にはだしで多っている時間をすこしでも短くしようとしたのだ。しかし、看守は歯をむいて、怒鳴った。
「おい、そこにいる奴!その隅だ!」
 やっとシューホフもはだしのまま、さっと、身軽に床の上へとびおりた。(かれの長靴と脚絆がそれはうまい具合にペーチカの上にのっていたので、取りはずすのが惜しかったのだ)
 彼はこれまでずいぶんスリッパを縫ってきたが、いつも他人のためばかりで、自分のは以ていなかった。いや、彼はもうなれっこになっている。 それに、ちょっとの間のことだ。
 昼間みつかれば、このスリッパも没収されるのだ。
 長靴を乾燥台へ運んでしまった斑の連中も、今のように部屋のなかなら、平気なものだ。スリッパをはいている者、脚絆だけ巻いている者、はだしの者と、まちまちだ。
「さあ、早くしろ!」と、看守はわめいている。
「やい、このろくでなし!」と、バラック長もやはり怒鳴っている。
 全員がむこう側の部屋へいれられ、おくれた者は廊下へ追い出された。シューホフも壁ぎわの、糞桶に近いところに突っ立っていた。 足もとの床はじめじめしており、戸口の下からは氷のような風が吹きこんでいた。
 全員を追いだしてしまうと、看守とバラック長の2人は、だれか隠れている者はないか、暗がりで寝込んでいる者はいないか、と、もう一度見廻りに出かけた。 なぜなら、員数がひとりでもあわなかったら、大変だからだ。またぞろ点呼ではかなわない。ぐるぐると見廻ってから、戸口へ戻ってきた。
「1番、2番、3番、4番……」と、もう今度は1人ずつ入れていった。シューホフも18番目にもぐりこんだ。そしてたちまち、駆け足で自分のベッドへ戻ると、足場に片足かけ、パッと上段へ躍りこんだ。
 やれやれ、両の足をまた防寒服の裾へ突っ込み、上に毛布をかけ、そのまた上にジャケットをかけ、あとは寝るだけだ!今度はバラックのむこう側の連中がこちらへ追いたてられる番だ。 だが、もうそんなことはこちらの連中にはなんの関係もないことだ。
 ツェーザリが戻ってきた。シューホフは彼に袋を下ろしてやった。
 アリョーシュカも戻ってきた。お人好しというのか、みんなをよろこばせているだけで、自分では内職稼ぎひとつできない。
「さあ、食べなよ、アリョーシュカ!」と、彼はビスケットを1枚やった。
 アリョーシュカはにっこりする。
「ありがとう!でも、自分の分はあるんですか?」
「食べろったら!」
 おれたちはなくなったら、またいつものように、稼げばいいのさ。
 そして自分では、一切れのソーセージを口の中にほうりこむ!歯でかみしめる!歯で!ああ、肉のかおり!ほんものの、肉の汁!それが今、腹の中へ、入っていく。
 それで、ソーセージはおわり。
 あとはあすの朝にとっておこう。そうシューホフはきめた。
 そして、薄っぺらは、汚らしい、毛布をすっぽり頭の上からかぶった。と、間もなくベッドの間には、点呼を待つもこう側の囚人たちがいっぱいひしめきあってきた。が、彼はもうそのもの音に耳をかそうともしなかった。

 シューホフは、すっかり満ちたりた気持ちで眠りに落ちた。きょう1日、彼はすごく幸運だった。営倉へぶちこめまなかった。 自分の斑が<<社生団>>へもまわされなかった。昼食のときはうまく粥(カーシャ)ごまかせた。班長はパーセント計算をうまくやってくれた。 楽しくブロック積みができた。鋸のかけらも身体検査で見つからなかった。晩にはツェーザリに稼がせてもらった。タバコも買えた。病気にもならずにすんだ。
 1日がすこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる1日が過ぎ去ったのだ。
  
 こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、3,653日あった。
 閏年のために、3日のおまけがついたのだ……
   (『イワン・デニーソヴィチの一日』終わりの部分から)
<収容所群島> 私は胸に何か重苦しいものを感じながら、数年の間、すでに完成したこの書物の出版を思い留まってきた。 それはまだ生きている人たちに対する義務のほうが、死んでしまった人たちに対する義務よりも重かったからである。しかし、いずれにしても国家保安委員会がこの書物を押収してしまった今となっては、ただちにこの本の出版にふみきるほか残された道はないのである。
   1973年9月 A・ソルジェニーツイン
 この書物には虚構の人物も虚構の出来事も描かれていない。人物も場所もすべて実名で語られている。イニシアルを使った場合は、個人的な配慮によるものである。 まったく名前が示されていない場合は、人間の記憶がそれらの名前を憶えておくことができなかったからにすぎない。 だが、すべてはここに描かれているとおりであった。
 1949年ごろ、私は友人たちと科学アカデミーの雑誌『自然』(プリローダ=природа)の誌上に注目すべき記事を見付けた。そこには小さな活字で次のようなことが書かれていた。 コルイマ河の岸で発掘作業中、偶然、地下の氷層が発見された。それは凍結された大昔の流れであったが、その中からこれもやはり凍りついた数万年前の動物(ファウナ=фауна)が発見された。 その動物が魚だったかサンショウウオだったかはともかく、それがとても新鮮なまま氷づけになっていたため、記事を書いた学者の目撃したところによると、その場に居合わせた人びとは氷を叩き割り、さっそくその場でこれらの動物をよろこんで食べてしまったという。
 あまり数多いとは言えないこの雑誌の読者たちは、おそらく、氷の中では魚肉がなんと長持ちするものかと少なからず驚いたにちがいない。 だが、不用意にも掲載されてしまったこの記事のもつきわめて意味深長な側面に気づくことのできた人は少ない。
 私たちはすぐわかった。その場面が微細な点に至るまでありありと念頭に浮かんできた──その場に居合わせたひとびとがどんなに慌てふためいて氷を割り、崇高な魚類額的興味などには目もくれず、互いに肘で仲間を押しのけながら、何万年前の氷づけをちぎり取って、焚き火のところへ引きずっていき、氷を融かし、がつがつと腹に詰め込んだか、が。 
 なぜわかったかと言えば、私たち自身もその場に居合わせた人びとと同類の、強大な囚人族の1員だったからである。 この地上でサンショウウオを喜んで食べることができる唯一の種族は囚人だけである。
 コルイマは<<収容所>>という驚くべき国の最も大きく最も名高い島であり、苛酷の極致ともいうべき場所であった。 この国は地形的に見れば群島の形で散らばっていたが、心理的には1つに合わさって大陸をなしていた。ほとんど目に見えず、ほとんど触れることのできない、大勢の囚人たちの住む国であった。
 この<<群島>>は国中のあちらこちらに入り組んで点在し、都市の中に入り込んだり、通りの上におおいかぶさったりしていた。 それにもかかわらず、まったくそれに気づかぬ人びともいた。いや、漠然と何か耳にしていた人びとはかなり多くいたのだが、その実情はそこにいたことのある人びとのしかわからなかったのである。
 しかもそういう人びとまでが、まるで<<群島>>の島々で言語能力を失ってしまったかのように、ずっと沈黙をまもってきた。
 わが国の歴史が思いがけぬ方向転換をしたために、この<<群島>>の事情が何やかやもんの僅かながら明るみに出た。 ところが、われわれの手錠のめじを締め上げたその同じ手が、今度は取りなすような制止の手つきをしているのだ。「いけませんよ!過去ををほじくり返したりするなんて!……<<昔のことを憶えている者は、片目が飛び出す!>>って言うじゃありませんか」 ところが、この諺はその先をこう結んでいるのである──<<忘れる者は、両目とも!>>
 歳月が流れていき、過去の切り傷やただれを永久に舐め浄めていく。その間にある島々はぐらりと揺れて、地すべりが起き、今は忘却の北氷洋のかなたに没してしまったものもある。 やがて来世紀のいつか、氷層に閉ざされたこの<<群島>>、そこの空気、住民たちの骨があらわれて、例のサンショウウオのように後世の人びとからうさんくさく扱われるであろう。
 私はこの<<群島>>の歴史を書こうとするほど厚かましくはない。というのも、<<群島>>の記録を読む機会に恵まれなかったからである。 しかし、そんな機会に恵まれる人がこれから先あるだろうか?……思い起こすことを望まない人びとにはすべての記録をきれいさっぱり抹殺する時間がこれまでにも十分あったし、これからもあるだろう。
 私はそこで過ごした11年間を恥だとも呪わしい悪夢だとも思わず、かえって自分の血とし肉とした。いや、それどころか、私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった。 そして今や、幸せなめぐり合わせによって<<群島>>の新しい話や手紙がたくさん私のもとに寄せられている。 だから私はそうした骨や肉をいくらか提供できるかもしれない。もっとも、それは例の発掘の時と違って、まだ生きている肉、今日もまだ生きているサンショウウオであるが。
 この書物を創るのはひとりの人間の手にあまることであった。私が自分の目と耳を働かせ、自分の皮膚と記憶に焼き付けて<<群島>>から持ち出せるだけ持ち出したもののほかに、
 総計227人
 に及ぶ人びとが、その物語や回想や手紙の形で、この資料となるものを、提供してくれたのである。
 私はそれらの人びとに対して、ここで私個人の謝意を表することはしない。それはこの書物が迫害され責め殺されたすべての人びとのためにわれわれが一致協力してうち建てた鎮魂の碑であるからである。
 私はこれらの協力者たちのなかでも、特に、現在図書館にある蔵書や、とうの昔に絶版や解版され、その1冊でも捜し出すのに大きな忍耐を要した書物の中から、この著述に文献的裏付けとなるものを与えるべく私のために苦労を惜しまれなかった人びと、さらにまた、追求のきびしい時期にあってこの書物の原稿を秘かに保存し、その後それをコピーしてくれた人びとの名を改めて特記したい気持ちでいっぱいである。
 しかしながら、私がそれらの人びとの名をあえて公表する時期はまだ訪れていない。
 ソロフキ島の主ともいうべきドミートリイ・ペトローヴィッチ・ヴィトコフスキーはこの書物の編者になるはずであった。 だが、彼はあそこで過ごした半生の見返りに、(彼の収容所生活の回想録はずばり『半生』と題されている)年の割には早すぎる中風にかかった。 もう口のきけなくなった彼が通読できたのは、すでに完成していた数章にすぎなかったが、彼はあらゆることが語られるにちがいないという確信をいだいてくれた。
 これからも長いことわが国に自由の光が射し込まず、この書物の受け渡しがきわめて危険だということになるなら、私は未来の読者に対しても、亡くなった人びとに代わって、感謝をこめた挨拶を送らなければならない。
 1958年に私がこの書物の執筆に取りかかった時、私は収容所に関する回想録とか文学作品とかのあることをまったく知らなかった。1967年までの長年にわたる執筆活動の間、ヴァルラム・シャラーモフの『コルイマ物語』とか、D・ヴィトコフスキー、E・ギンズブルグ、O・アダーモフ=スリオズベルグなどの回想録を私は次々と知るようになったが、 それらは私が叙述を進めていく過程で、万人周知の文学的事実として(結局のところ、そうなることは間違いない!)引用させていただくことにした。
 この意図とは裏腹に、いや、その意志に反して、この書物のために貴重な資料を与えてくれ、たくさんの重要な事実や数字、はては<<群島>>で暮らした日とびとの呼吸していた空気に至るまで保存しておいてくれたのはM・I・スドラプス=ラツイス、多年にわたり検事総長をつとめたN・V・クルイレンコ、そのあとを継いだA・Y・ヴィシンスキーとその共犯者の法律家連中であるが、 そのなかでも特にI・L・アヴェルバッハの名を逸するわけにはいかない。
 この書物の資料はまた、ロシア文学においてはじめて奴隷労働を賛美した<<白海運河(ペルモルカナル)>>に関するあの恥じずべき本の著者たるマクシム・ゴーリキーを筆頭とする36人のソヴィエト作家たちからも提供してもらった。
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<主な参考文献・引用文献>
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』        アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫  1966.12.20
『イワン・デニーソヴィッチの一日』              ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮文庫  2005.11.25
『収容所群島』                        ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮社   1974.12.20
『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』 ジャック・ロッシ 染谷茂・内村剛介・梶浦智吉・麻田恭一訳 恵雅堂出版 1996.10. 1
( 2007年7月16日 TANAKA1942b )
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(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑
理想の共和国では銀行強盗は起きない
 死刑について昔の人はどのように言っているのだろうか?現代と違った見方をしているかも知れない。 TANAKAの考えは、「銀行強盗事件@AB」で取り上げたような、法秩序が乱れる制度は良くない。それを防ぐには、死刑制度が必要だ、ということだ。 そうした面から死刑を扱った論者はいないようだが、それでも識者がどのように主張しているのか?参考にはなるだろうと思って取り上げることにした。 今週は、トマス・モア『ユートピア』を団藤重光の著書から引用することにしよう。
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<死刑廃止論の思想的系譜──トマス・モア『ユートピア』>  死刑廃止論の系列を考えるとなると、やはりヨーロッパから始めなければなりません。 そうして、そのいわば前奏曲のような形で登場するのがイギリスのトーマス・モア(Thomas More,1478-1535)です。かれは有名な『ユートピア』(1516)──言うまでもなくユートピアというのは彼が設定した理想の共和国の名です── の中で、ラファエル・ヒスロディという架空の人物をもってきて、これに自分の考えを代弁させています。『ユートピア』には、平井正穂氏の名訳がありますから、訳者のお許しを得て、以下、これを引用させていただくことにしたいと思います。(以下、括弧内は同書の頁数)。
 まず、相手がこう聞きます。
 ところでラファエルさん、あなたに1つお訊きしたい点があります。あなたは、窃盗罪は死刑に値しないとお考えのようだが、なぜそうなのか、またもしかりに値しないとすると、公安を維持してゆく上に、もっと有効な、どういう刑罰があるとお考えなのか、そういう点をおききしたいと思います。 まさか、あなたが、窃盗行為は罰する必要はない、と考えておられるとは思われないからです。死刑という極刑をもってしても泥棒をやめさせることができない、というのが現状です。 もし絶対に生命だけは大丈夫だ、ということが分かれば、いくら圧力を加え、威嚇を試みたところで、強盗どもの泥棒を禁ずることはできないのではないでしょうか。 何しろ、この連中ときたら、刑の軽減をかえって犯罪奨励策とでも取りかねまじき連中なのですからね。(32P)
 そこでラファエルは、こう答えました。これは、今申しましたように、実はモア自身の意見です。
 恐れいるますが、私は、金を盗ったために命を奪られるということは、決して正しいことでも道理にかなったことでもない、と思っております。 世界中のあらゆる物をもってしても、人間の生命には代えられない、というのが私の意見なのです。しかし、中にはわれわれがこの極刑を課するのは、金を盗んだというそのことに対してではなく、正義を踏みにじり、法律を犯したことに対してである、と説く人もあろうかと思われます。 しかし、もしそうなら、この極端な法行為はむしろ極端なる不法行為と称しても良いのではないでしょうか。なぜなら、どんな小さなものであろうと、罪を犯したら最後、直ちに刃の露と消えなければならないなどという、そういう残酷な政治、そういう峻厳な国法、無情は法律などは許すべからざるものであるからです。 (中略)神は汝殺すなかれ、と誡め給いました。われわれは少しくらいの金を盗んだからといって、むざむざと平気で人を殺してよいものでしょうか。(32P以下)
 当時は、窃盗罪にも死刑があって、それで処刑される人は大変な数に上っていたのです。ですから、今と違って、まずそういうものから死刑をやめさせなければ」ならないということで、その当時としては、これが一番現実の問題だったわけです。ラファエルすなわちモアは続けて言います。
 もしわれわれが、汝殺すなかれという神の諌めは人間の法律が殺人をどの程度まで合法的と認めるかということによって規定されると解釈するならば、同じく淫行も姦淫も偽証も場合によっては合法的となり、結局人間の法律が決定的なものとなるのではないでしょうか。 人間には自殺する力も他人を殺す力もありません。それは神が許し給わないからです。しかるにもしわれわれが、勝手にお互いに相談して人を殺す法律をつくり、それを強力なものとし、神の諌めに背いて、この法律の命ずるところに従って人を殺しても構わない、つまり、神の諌めの力というものが、結局人間の法律の規定し、許可する範囲以外一歩も出ることはできない、ということにならざるを得ません。 同様に、あらゆる問題においても、神の諌めを守る範囲を決定するものは人間の法律に他ならない、ということになりましょう。(33-34P)
 このように、モアはキリスト教の信仰──特にかれの場合はカトリックで、ローマ教会の教え──を基にして死刑廃止を強く言っているわけです。 ここに出てくる考え方、例えば自殺をすることが許されない以上は、人を殺すこともできないだろう、まして人を殺す法律を作るなどということは、神の誡めに背くものだ、という考え方は、後の思想家たち、いな現代の死刑廃止論者にいたるまで尾を引いています。
 西欧では自殺は宗教上だけでなく法律上も罪でした。イギリスでは、自殺罪が廃止されたのは1961年のことでした。今でも自殺幇助は依然として罪になります。そういう思想を頭に置きますと、人を殺す法を作るなどというのは、神の掟に背くものだ。神の誡めを人間の法によって動かしてもいいのか、 という、自然法の思想とも結び付くかれの議論がよくわかります。
 それだけではなく、モアは他方では刑事政策的なことまで言ったいるのです。
 一たび窃盗罪を宣告された人間は、殺人罪に判決を下された人間と同じように、生命はまさに風前の灯火であり、 また同じ極刑に処せられるということが、泥棒に前もって分かっているとすれば、ただこのことを考えただけでも、本来ならただ物を盗っただけですませた筈の、その当の相手を殺そうという気がむらむらと涌いてくる、 いや、むしろある意味では、殺すことを余儀なくさせるといってもいいのです。(34P)
 窃盗罪を死刑に処するということになれば、どうせのことに、人を殺しても同じですから、むしろ重い犯罪を犯させるようなことにもなる、というわけです。 また、モアは、この国では、窃盗犯人は監禁や束縛さえもしないで、公共の労役に服させ、稼ぎを国庫に納めさせるようにしている、というようなことも言っているのです。(36-38P)。彼は、こんな風にも書いています。
 それが相当凶悪な犯罪の時には懲悪的な意味から公開の懲罰が加えられる。しかし大体において凶悪な犯罪に対しては仮借なく奴隷刑にするのが普通である。 この方が手っ取り早く死刑にしまって厄介払いをするよりも、犯人自身の苦しみは変わらないにしても国家にとっては一層有利であると想像されているからである。死刑にしてしまえば元も子もなくなるが、奴隷にして働かせるなら、そこから多くの利益も浮いて来ようというものである。(136P)
 これは、現代の刑事政策で言われるようなことを、16世紀の初めに言っているのですから、大変な見識だと言うべきです。彼の言葉を続けて引用します。
 しかもその上、奴隷として人の見せしめにしておけば、同じような罪を犯す者への戒めもそれだけ永く保つであろう。それでもなお反逆罪を企てる者があれば、それこそ死に物狂いで荒れまわる野獣でも屠るように、忽ち死刑にしてしまう。 もはや牢獄も鐵鎖も意味をなさないからである。けれどもじっと我慢強く奴隷の境遇に耐え忍ぶ者は前途に全然希望がないわけではない。 長年の悲惨な生活でしっかり骨の髄まで打挫がれて悔恨の情を示す者があれば、しかもそれが単に刑罰がいやでたまらないからと言うのではなく、本当に自分が悪かったという心からの悔恨である限り、時には市長の大権により、時には一般市民の与論と斡旋によって、奴隷刑が大いに軽減されたり、或いは全然青天白日の身となることもあり得るのである。(136P)
 以上に見てきましたように、モアは、一方では神の掟ということから説き起こして、「人を殺すなかれ」ということからして、「人を殺す法」を作ることがいかに神の教えに背くものであるかを論じているのです。 しかも、神の教えの範囲を、人間が勝手に動かすことは許されないというのが、彼の強い主張でした。(中略)
 モアは、他面では、理想の共和国(たといモンテスキュウーの指摘するように「ギリシャの年の簡明さ」をもってするようなものであろうとも)を想定して、しかも刑事政策のような近代的とも言うべきもどの合理的思想を鼓吹くしているのです。 当時はヨーロッパ大陸において宗教改革の狼煙があがり新時代へ向けての胎動がすでに始まっていたのですが、政治的にはまだ専制君主の時代でした。 彼は死刑廃止論を全面的に展開したわけではありませんが、窃盗罪に焦点をしぼって死刑廃止を強く主張したのは、それが当時の現実的な問題であったからで、彼の政治家としての見識であったとも言えましょう。 このようにして、モアは啓蒙思想の──そうして死刑廃止論の──先駆者の名誉を担うことになったわけです。約200年を隔てた啓蒙思想家の間でさえ、モンテスキューやルソーなど、多くは死刑肯定論者であったのですから、モアの死刑廃止論はまさしく時代に抜きんでた巨塔であったのです。 (『死刑廃止論』から)
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<何処にもない場所=ユートピア>  トマス・モアの『ユートピア』、この「ユートピア」という言葉は、ギリシャ語の「何処にもない場所」という造語で、トマス・モアが考えた「理想郷」で、現代でもここに書かれた社会を理想郷と考えている人もいる。
 多くの人が考える「ユートピア」では、登場人物がみな善人で、凶悪犯など出てこない社会になっている。現実社会は「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」だ。善人が出来心で悪事を働くこともある。かと言って、全ての人が悪人であったり、すぐに悪人に変身するというわけではない。 刑法を取り扱う場合、「性善説」「性悪説」に凝り固まっていると視野狭窄になる。
 死刑問題を考える場合、性善説、性悪説、感情論での発言が多い。とくに廃止論者の場合にそれを強く感じる。大切なことは、法律として、法体系に矛盾が生じないかどうか?ということだ。 死刑を廃止すれば、銀行強盗@ABのように、<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生>という矛盾が生じる。こうした点での議論が見当たらない。
 法律の専門家が『ユートピア』という現実にはあり得ない社会を引用して、死刑廃止を主張することに違和感を感じる。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止論』第4版                    団藤重光 有斐閣   1995. 1.30 
( 2007年7月23日 TANAKA1942b )
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死刑廃止でどうなる
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