趣味の経済学  死刑廃止でどうなる?  廃止論者は代替え案の提示を

(21)ノージックの最小国家という自由論 
自由を保証する国家権力を忘れている
<『正義論』と「死刑廃止」と「階級・階層社会意識」> ウィンストン・チャ−チルはこんなことを言っている。「デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」と。 この「デモクラシー(民主制度)」を「資本主義」または「市場経済」と言い替えることもできる。民主制度も資本主義も「最大多数の最大幸福」を目指している。この「最大多数」に異論を唱えたのがマルクスだった。 マルクスの主張は「プロレタリア階級の最大幸福」であった。ブルジョア階級でも中間階級でもなく、そして、多数か少数かは関係なかった。 社会主義が政治的にも経済的にも破綻した現在、それでも、階級・階層意識を持つ人は残っていて、今さら宗旨替えはできない。そうした人が新たな教典を求めていた。 そして見つけたのが『正義論』だった。ここでは「プロレタリア階級」ではなく、「最も弱者である人たちの階層」の「最大幸福」を主張する。 「最も弱者である人たちの階層」とはどういう階層か?その人たちの最大幸福とはどういうことか?という具合に議論が進むと、大きな問題点を見失うことになる。 階級とか階層で人を区別する社会観が問題なのだ。階級とか階層は流動的であり、民主制度や市場経済では本人の努力と運次第で上に行ったり、落ち込んだり、流動的であり、決して固定されているわけではない。 そして、社会全体の厚生という点から考え、計算すると、最大幸福を味わうのが多数なのか、少数なのかが問題になる。
  冤罪によって無実でありながら死刑を執行される、という危険は、死刑制度がある以上皆無にはできない。そうでありながら、「死刑制度は存続させるべきだ」と主張するのは、 死刑廃止のメリット、デメリットを天秤にかけて、どちらが社会全体としてメリットがあるか、を判断してのことだ。ここには、確率とか影響を受ける人の数など、数字の感覚が必要になる。
  こうした点で、死刑廃止論とマルクス主義、『正義論』とが、同じ様な発想で、「民主制度」や「資本主義」とは違っていると感じる。死刑廃止論者・マルクス主義者・『正義論』信奉者が一方にいて、 対岸には「民主制度・資本主義・死刑存続を支持する人がいる。このように捉えると分かりやすいと思う。前回の「ジョン・ロールズの正義論と死刑廃止論」のポイントはそのようなことを言いたかったのだった。 そしてもう1つ、「未熟練労働者」とか「社会階級間」との言葉からは、マルクス時代の社会を見ているようだ。ガルブレイスの『ゆたかな社会』とは必ずしも同じではないが、現代はゆたかな社会なのだ。 『正義論』はマルクスの生きていた時代、ゆたかになる以前の社会を取り扱っていると感じた。
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<『正義論』を切り、返す刀で『アナーキー・国家・ユートピア』を切る> 前回の『正義論』、やや煮え切らないところもあったけれど、それでも「死刑廃止論」との関係や「○○階級の最大幸福」といった観点からの切り込みは、経済学教育業界の教科書でも政治哲学業界の文献でも刑法の解説書でも見当たらない、 アマチュアエコノミストならでの隙間産業的発想だと思う。そのような発想で、今週はロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を扱う。
  ノージックが死刑制度について「死刑は廃止せよ」とか「死刑は存続させるべきだ」などと主張している訳ではないが、「自由を謳歌するには、自由を保証する権力が必要だ」ということを、ノージックも死刑廃止論者も、どちらも忘れているように思える。 このような、権力の必要性に気づかない立場は、経済の問題で言えば、「独占禁止法は企業の自由な活動を規制する、一種の社会主義的規制法律である」との主張になる。確かに独禁法は企業活動を規制する。しかし、もし規制されなければ「カルテル」「トラスト」「コンツェルン」「談合」など、企業間の自由な競争を阻害する危険性がある。自由な競争を保証するためには独禁法は必要になる。
  市場経済をゲームに例えると分かりやすい。スポーツのゲームで言えば、「競技場」と「ルール」が必要になる。市場経済では、「市場」という「競技場」と取引に伴うルールが必ずある。「市場原理主義」という言葉を使って、市場経済ではルールがないかのように言う人もいるが、市場経済ではルールがあって、このルールに違反すると厳しく罰せられる。 これは、人を殺すという重大な犯罪を犯すと、死刑という厳しい罰が科せられる、という刑法に似ている。
  死刑制度について考えると、「人を殺すのは悪いことである」との主張に反対はできない。けれども「人を殺すのは悪いことである」とルールを守らすには、それなりの権力が必要になる。「人を殺すのは悪いことである」と叫んでいれば、人殺しが起きない、との考えは「言霊」信者の言うことであって、国家のルールには採用できない。 そうは言っても、言霊は生きている。「憲法9条があるから、日本は戦争に巻き込まれなかった」と言霊信者は主張する。この言霊信者は日本だけではなかった。 「人を殺すのは悪いことである」とのルールを厳しく守らそうとすると、「国家が人を殺すのは良くない」と反対する。これは「人を殺すのは悪いことである」と叫んでいれば殺人事件が起きない、と考えているように思われる。 そうした発想と、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の発想が似ていると思い、ここに取り上げることにした。 どこが似ているかと言えば、『アナーキー・国家・ユートピア』では、最小国家同士のルールを守らすシステムが想定されていない。実際は最小国家を厳しく監視し、ルール違反を見張る機関が必要なのに、それが考えられていない。 「皆でルールを守りましょう」と言っていればルールが守られるかのように思えてしまう。こうしたことで、今週はロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を扱うことにした。
<ノージックの最小国家論> ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は以前に<民主制度の限界>で書いた。 
  ここでは『アナーキー・国家・ユートピア』の「序」から一部引用しよう。
 諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行い得ないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること──が仮にあるとすれば、それ──は何か、という問題を提起する。個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当性(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。
 国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。 最小国家は、正当であると同時に魅力的である。ここには、注目されてしかるべき2つの主張が含意されている。即ち、国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置をしようすることができない。
  除外されるのはこれらの[弱者救済と後見的介入という]目標に向かう強制的ルートだけであって、自発的なルートは残されている。 それでも多くに人々は、他者の必要と苦難に対してこれほど冷淡な立場を信奉したくないと考えて、本書の諸結論を即座に否定するだろう。 私はこの反応をよく知っている。ここで述べたような見解を検討し始めた時の私自身の反応が、まさにそれであったのだから。様々な論議と考察によって、私は嫌々ながら、自由尊重主義的(libertarian)──と今呼ばれていることが多い── 見解を支持するようになっていったのである。本書には、以前私のもっていた抵抗感はほとんど名残を留めていない。逆に本書では、(私が立場を変える原因となった)議論と考察の大城が論じられている。 私はそれらを、力の及ぶ限り強力に呈示したのである。これによって私は、二重に誤る危険を犯している。つまり、この(自由尊重主義の)立場を展開していること(自体)と、この立場を支持すべき理由を私が提供していることとである。 (『アナーキー・国家・ユートピア』から)
  ここで問題にするのは、最小国家が誰でも自由に設立できることだ。<民主制度の限界>では、<怖いお兄さんたちの最小国家>として書いた。それは次のような文章だった。
<怖いお兄さんたちの最小国家> ノージックは「〇〇にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」と言う。それならば、〇〇が次の人たちだったらどうだ?指定暴力団山〇組、アル・カポネ、ヒトラー、麻原彰晃、ジョン・ロールズ、市民運動家たち。つまりこの人たち及びそのシンパが最小国家を作ったらどうなるか?だ。   怖いお兄さんたちの作る最小国家では、例えばカジノを組の独占事業とする。大麻・マリファナなどの薬物の販売許可を組に独占的に与える。他の最小国家とは犯人引き渡し条約を結ばない。 他の最小国家から観光名義の客が来訪し、組は莫大な利益をあげる。経常収支は常に黒字。経常収支はカジノと薬物で稼ぐので、自国通貨が高くなっても輸入品が安くなるだけ、経済的には何も困ることはない。国民(=組員)は近隣の最小国家へ出向き荒仕事をして、警察に目を付けられてヤバくなると、自国へ逃げ込む。犯人引き渡し条約を結んでいないので、自国から出なければ逮捕される心配はない。
  こうした場合周辺国家は圧力をかけないのだろうか?自由貿易に徹していれば効果はあるが、保護貿易、自給自足を目指していると効果はない。かと言って軍事的圧力はかけられない。どの最小国家も他国に圧力をかけられるほどの軍事力を持たないし、組員は即ち軍人になり、ここは最強の軍事大国になるからだ。 経済的圧力に関して言えば、江戸時代、田沼の時代、浅間山の噴火による飢饉が思い起こされる。1783(天明3)年7月8日、浅間山は大噴火を起こした。噴煙が空を覆い、東北地方は冷害になり、コメ不足を起こした。各地で餓死者が出た。しかし松平定信藩主の白河藩だけは例外で死者は出なかった。藩主松平定信が諸藩から前もってコメを買い占めていたからだ。幕府の実力者田沼意次は各藩にコメの買い占めをしないように伝えたが、強制力はなかった。 小判があってもコメがなく飢え死にする者さえ出た、と言われている。こうした場合、周辺諸藩は白河藩に圧力をかけることは出来なかったのだろうか?軍事的には不可能。幕府が許さないし、農民も反対する。現代でも、アフガニスタン、イラクへのアメリカの軍事行動には大きな反対運動が起きる。ミャンマーへの経済的圧力には批判は出ない。周辺諸藩が白河藩に圧力をかけられるとしたら、出津・入津(輸出入)が多くなければならない。 コメ以外に綿、魚、野菜などの交易が盛んで、各藩が経済的に頼り合っていれば経済制裁も効果がある。しかし当時はそれほど各藩の経済は頼り合ってはいなかった。この飢饉を「人災」と言う人もいる。それは「当時から市場経済だったからだ」との主張がある。それは経済を知らない人の考えで、事実は逆。松平定信が買い占めをやっても、自由な市場が整っていれば(ヤミ市場でもいい)、必要な所=高く買ってくれる所へコメは行く。そして周辺諸藩の経済的圧力も効果が期待できた。
  組員の中に経済学に興味を持つ人間が出てくると、こうした仕組みが分かってきて、周辺最小国家から経済的圧力をかけられないような貿易体制を取る。つまり生活必需品の自給率を高くすることだ。こうすればモンロー主義も押し通せる。周辺最小国家がどうなろうと、組員には影響がない。 食糧自給率が高いことで、この国へに信頼は高い。日本では「食糧自給率を上げよう」と叫べば誰も反対はしない。こうして組員中心の最小国家は繁栄していく。最も成功した最小国家として世間の注目を浴びることになる。
<怖いお兄さんたちが『正義論』国家へ荒仕事しに行く>   TANAKAが『アナーキー・国家・ユートピア』ご批判するのは、ここでは、人類すべてが「善人」であるかのように仮定されている、という点についてだ。 これは『正義論』についても言えることだが、このことによって「両書ともに非現実的な空想論である」とTANAKAは決め付けることになる。 ジョナサン・ウルフが『ノージック』で書いている。
  「しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。 自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」
  ということは、ここに悪人は存在しないことを前提としている。トマス・モアの『ユートピア』以上に非現実的な社会を描いている。
 政治的・経済的個人の自由を保証するということは、国家という場、競技場とそこでのルールが必要であり、そのルールを守らせる権力が必要になる。『アナーキー・国家・ユートピア』ではその権力の必要性の説明が欠けている。 「経済的自由を保証するためには、独禁法という規制は排除すべきだ」との主張に似ている。
  こうしたことを政治哲学という空想政治学とは違った分野で扱っているのがゲームの理論だ。平和的なハトばかりの社会に、戦闘的なタカが侵入したらどうなるか?をテーマに扱っている。
  怖いお兄さんたちが最小国家を作って、そこがイヤなら他の最小国家に移ればいい。と言うのは個人レベルでの話。しかし、怖いお兄さんたちの最小国家があると、他の最小国家が危険にさらされる。 怖いお兄さんたちの最小国家や、正義論国家など、多くの最小国家間の紛争を調整する機関・権力が必要になる。そうした権力や規制を排除するのが自由だ、と主張するのは、すべての最小国家がハトばかりだと思い込んでいるからだ。
  死刑廃止論者の考えも、「たまたまタカになってしまった犯罪者も、人間本来は平和的なハトなのであって、ハトとしての人権を尊重すべきだ」ということになる。
  ここに『アナーキー・国家・ユートピア』と死刑廃止論者との共通点、現実を見ない甘さを感じる。
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<最小国家論と保護協会>   『アナーキー・国家・ユートピア』では「保護協会」といいう表現で、警察力に相当する機関を説明している。自主的に設立される民間の組織であり、いくつも似た組織ができることになる。 幾つかの弱点を持ちながらも、それでもノージックが説明しているのだから、ここで取り上げることにした。
  自然状態においては、一個人は自分で、諸権利を実行し、自己を防衛し、賠償を取り立てて、処罰を行う(少なくとも、そうするために最善の努力を払う)こともある。彼の要請に応えて他の人々が彼の防衛に加わることもある。 これらの人々が彼とともに攻撃者を撃退したり侵略者を追いかけたりするのは、彼らが公共精神を持つゆえであったり、彼の友人であるためであったり、過去に彼がこの人たちに助力したためであったり、彼らが将来彼から助力を受けたいと望んでいるためであったり、何か物をもらっている場合であったりするであろう。 複数の個人によって構成される様々なグループが、いくつもの相互保護協会を形成することになろう。そこでは、誰であれ防衛や権利実行の要請があれば、全員がこれに応じるのである。同盟には力がある。しかしこのような単純な相互保護協会には、2つの不都合が伴っている。
  (1)すべての者が要請があり次第保護機能を果たすべく常に待機していること(また、全員の奉仕を必要としないような保護機能が要請されている場合、これに応じる者をどのようにして決定するか)。
  (2)自分の権利が侵害されつつあるとか侵害されたと言えば、メンバーの誰でも協会員たちを呼び求めることができる。保護協会は、自己防衛を装って他人の権利を侵害することに協会を利用するようなメンバーについては言うまでもなく、喧嘩好きのメンバーや偏執狂のメンバーに顎で使われ要求に振り回されたいとは考えないであろう。 同一の協会内の2人の異なったメンバーが訴訟を始め、各々が仲間のメンバーたちに対し自分の援助に来るよう招請する場合にもまた困難が生じる。
  協会内のメンバー間での争いに対しては、不干渉政策で対処しようとする相互保護協会があるかもしれない。しかしこの政策は、協会内部の不和を醸成し、場合によっては、互いに闘争し合う内部グループの掲載へと導き、そうして協会の内部分裂の原因となろう。 この政策はまた潜在的侵害者たちに対して、{侵害に対する協会の}報復や防衛行為から免れるために、できるだけ多くの相互保護協会に参加するよう奨励することになるから、協会の最初の参加者審査手続の適切性如何が重大となり、負担となろう。 こうして様々な保護協会は(人々がそれに参加し、存続するようなものはほとんどすべて)不干渉政策に従わないであろう。つまりこれらの協会は、他のメンバーに権利を侵されたと主張するメンバーがいる場合にどう行動すべきかを決定する、何らかの手続をもつぃことになろう。 多くの恣意的な手続を想像しうる(たとえば、最初に不平を訴える方のメンバーの側に立って行動せよ)。しかし、人々のほとんどは、何らかの手続に従っていずれの主張が正しいのかを発見するような協会に参加したいと考えるであろう。 これは、各委員の争いにそれの正・不正にかかわりなく、常にコストのかかる介入を行うということを回避するためだけにも必要である。各人がその時に行っている活動、性向、相対的適性の如何を問わず全員が招請に備えることの不都合は、普通のやり方では、分業と交換によって解決しうる。 保護業務をお子pなうために雇われる者が現れ、そして保護サービスを売る仕事を始める企業家たちが出てくるだろう。より広範囲の念入りな保護を希望する人々のために、別の種類の保護方針が、それぞれ別の価格で提供されるであろう。
  ある人は、犯罪人の捜索・逮捕・司法的決定や賠償の取り立てなどすべての役割を私的保護機関に移転してしまうには至らない、より個別的な約定または委任を行うかもしれない。自分の事件で裁定者になる場合の種々の危険を考慮して、彼は、自分が本当に不正を受けたのか、またどの程度の不正なのかに関して判断することを、他の中立のまたは比較的利害関係をもたない者に委ねるかもしれない。 正義が行われているように見えるという社会的効果が生じるためには、この{裁定}者は、一般的な尊敬を受け、中立で高潔であると考えられていなければならない。 それゆえ紛争の両当事者は、自分が手前勝手に見えることに対する防衛策を講じようとするだろう。そして双方が同じ人を裁定者として、彼の判断に従うことに同意する場合すらありうるだろう。(その判断に満足できない当事者が上訴するための特別の手続があってもよい)いずれにせよ、いくつかの明白な理由から、上述の諸機能が同一の人または機関に収斂する強い傾向が存在するであろう。 (『アナーキー・国家・ユートピア』から)
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<ハイエクの「自生的秩序」>  徹底的に自由を尊ぶ立場として『アナーキー・国家・ユートピア』を取り上げたのだが、こうした立場ならハイエクを忘れたならない。 ここでは、ハイエクの「自生的秩序」を引用し、「自由」ということ、その概念について考えて見ようと思う。まずは嶋津格著の『自生的秩序』から。
  ハイエクの広範な分野にわたる思索を貫いて、そのすべてを1つのまとまった哲学にしている基本的概念を1つだけ挙げるとすれば、それは「自生的秩序」(spontaneous order) の概念であろう。 各要素が整合的に関連づけられて1つの理論を構成している場合に、どれか1つの構成要素をその帰結をも含めてよく理解しようとすれば、理論全体の枠組みの把握が必要となる。 それ故、ハイエクの理論の中の1要素を取り出す場合、理論の基本的な部分を構成する要素でさえあれば、どれを取り出そうがいずれは理論全体に行き着くという点で、取り出し方の選択はある程度任意であるとともに、ここで取り出した「自生的秩序」の概念も、その意味、適用範囲及び適用した場合の理論上の帰結が十分に理解されるのは、結局ハイエクの理論全体が示された後であるという点で、ここでの論及はごく暫定的なものに留まる。
  「自生的秩序」はまず、「人間の行動の結果であるが、人間の企画の結果ではない」ものとしての、社会的諸制度及び「社会」そのものについて問題とされる。「人間の行動の意図されざる諸帰結」というフレーズから現在のわれわれが想像するものは、一般に何か悪いもの、回避すべきもの、少なくとも意図されたものによってできればとって代わられるべきものである場合が多い。 しかし、D・ヒュームからA・スミスに至る18世紀のイギリス道徳哲学がみごとに示したとおり、人間が自覚的、目的的に作り出したものではないのに、結果的に高度に(生物の各器官そうであるというのと同じ意味で)「合目的的」であり今や人間の社会生活に不可欠ともいえる制度(たとえば「至上経済」)が現に存在する。これは、人間から独立しているという意味での「自然」に属する現象ではないにも拘わらず、人間の意図または企画によるという意味での「人為」でもない。 それ故、このような諸制度は、「自然」と「人為」の中間に、どちらにも属さない第3のカテゴリーに属するものとして独立に把握される必要がある。 そして、これらがどのようにして成立し機能するかを説明することが、まさに理論的社会科学の中心的課題となるのである。
  誰かの計画によらなくともある意味で目的にかなった制度が自生的に成立することを示す、18世紀の社会と経済の理論の枠組みは、19世紀にC・ダーウィンによって、生物の種の生成の説明に利用されて大成功を収める。 つまり「自生的秩序」の概念は、現在の生物学にとって、進化による新しい種の成立の説明として、もっとも馴染み深い概念である。 そしてこの進化の連鎖は、人類の発生及び「理性」の成立にまで当然つながるのである。
  自生的秩序の最もよい例の1つは言語である。それ故、言語の成立と発展を論じた言語学者たちのある者は、「ダーウィン以前のダーウィン主義者」と呼ばれる。 ハイエクの「法」の概念の重要な側面は「言語の文法」よのアナロジーで考えると理解し易いように思われる。ハイエクも多くの著作で、自生的秩序の例に言語を持ち出している。 つまり、言語は1つのルールの体系であるが、このルールは、誰かに命令されて話し手が服従しているようなものではない。それどころか、自国語を話す場合、このルールはほとんど意識されないし、自由に正確な言葉を使っていながら、自分の従っているルールを述べることができな人がほとんどである。 文法学者はこのルールを述べる専門家であるが、彼は決してこのルールを定立するわけではなく、それを発見し定型化するのみである。 のそ場合でも彼は」すべてのルールを定型化できるわけではなく、人が実際に使っているルールがいかに複雑化は、例えば自動翻訳機械がまだかなり素朴なものに留まっていることからも明らかである。 それにも拘わらず、文法学者の述べる比較的単純な文法であっても、文章の文法上の誤りを発見するためにはある限度でほとんど常に有効である。 言語を使う人々の目的は、場合に応じ千差万別であるが、それにも拘わらず、個々人が同じルールに事実上従っているからこそ言葉が通じ、個々人の多種多様な目的が達成されるのである。 文章形成のルールに従うことは、具体的に発話する文章の内容を自由に操作することと矛盾しないばかりか、文法的ルールに従うことを覚えることは、自由な言語使用の不可欠に条件である。
  このように述べたことは言語に関する限り、ごく常識的な見方だと思われるが、逐一法についての言明にしてみると、例えば法実証主義的見解をとる論者などから多くの異論が出そうに思われる。 いずれにせよ、法(及び自由)について前述のように考えるのがハイエクの基本的立場である。 (『自生的秩序』から)
<竹内靖雄著『経済思想の巨人たち』から「自生的秩序とは何か」>   「自生的秩序」を真っ正面から説明するとなると結構難しい。ここでもう1人に登場してもらうことにする。 竹内靖雄著『経済思想の巨人たち』からハイエクについて書いてある部分だ。   ハイエクの思想のキーワードである「自生的秩序」(spontaneous order)であるが、その具体的な内容はどのようなのもだろうか。
  ヨーロッパの伝統的な考え方の中には「自然法」とか「自然的秩序」といった概念がある。それはアリストテレスの段階では、人間を含む動物すべてに共通の法則を指していたが、ローマ法を経てそれが万人共通、国際共通のルールと解釈され、さらに中世のキリスト教の下では、神が人間に与えた理性に対応する法と考えられるようになった。 いずれにしても、人為的に定められた法(実定法)ではなく、人間の理性の産物(あるいは神からの贈り物)として存在するルールが「自然法」であり、それは同時に人間の「自然権」の根拠にもなる。 この「自然法」にもとすいて実現する秩序が「自然的秩序」であるが、実はフランソワ・ケネーやアダム・スミスにもこの「自然法」、「自然の秩序」といった考え方が残っている。 しかし神や理性ということを抜きにして考えてみると、ここで「自然」といわれているのは、「自然界」や「自然環境」の自然とは関係のないものである。 そしてそれは人間の行動の結果として、人間の意図とは無関係に、という意味で「自然に」できあがってきたルールや秩序を指すものであることがわかる(日本語では「おのずから」、「ひとりでに」という表現が使われる)。
  このような自然に形成された秩序をハイエクは「自生的秩序」と呼ぶ。市場という秩序がその典型的なものである。そして市場での行動を律するルールも、もともと「自生的に」成立したもぼにほかならない。 そのルールの根底にあるのは「交換の正義」であり、それが市場で行われるゲームの基本原則である。それはまさに自生的の確立したもので、誰かが定めたものではないが、商法をはじめとする多くの実定法はこの「交換の正義」の上に築かれている。
 アダム・スミスもハイエクも、この市場という自生的秩序が(神や理性との関係はともかく)人間にとって不都合のないものであり、各人が市場で自分の判断にもとづいて自由に公ふぉうする状態に任せておけば悪い結果は出てこない、という立場をとっている。
  人間の自由な行動から「自然に」形成される秩序を肯定するスミスやハイエクの立場は、よく考えてみると、「神」というフィクションも「神が人間に与えた理性」というフィクションも不要の立場であって、そこでは神も最終的に「消却」されていることを意味する。 「人間が生まれながらにもっている理性」という近世以降の考え方も、実は中世以来のフィクションの焼き直しにすぎず、それは「人間は神に等しい」というフィクションなのである。
  ハイエクが強力に拒否するのはこうした「理性」のフィクションであると見ることができる。つまり、プラトン的賢人支配から、政府の計画、政府の「見える手」による介入、ケインズのようなエリートないしは「賢人」による経済のマクロ的コントロールにいたるまで、合理的な知識によって経済や社会を紺とr−るすることができるという仮定、これらは国家を理性そのもののように思いこむフィクションにほかならない。
  ハイエクがもっとも力を入れて反対してきたのはこのような「迷信」であり、ケインズも社会主義者も、ハイエクによれば、この「迷信」の代表的な信徒だったということになる。
 ところで、自生的に確立した原則や慣習的なルールだけで今日の市場のゲームがうまく行われるだろうか。理性の力で最適なルールを制定することができるかのように考えるのはハイエクの立場ではない。 その点ではハイエクは正しいが、しかし、必要なら何らかのルールを制定し、試行錯誤を通じて改正していくほかないであろう。できの悪い民主主義という方法によってでもそうしないわけにはいかない。 長い目で見ればそのような試行錯誤の過程もまた、何らかの秩序が「自然に」形成されていく過程ではないか。
  たとえば、関係者が談合して利益を分配したり、価格を吊り上げたりする監修は、それこそ「自然に」できあがってきた秩序で、それなりの合理性をもっているかも知れないが、これを「良くない」慣習と見て別のルールで置き換えることは、「自然に」任せておいたのではできない。 談合も接待も天下りも自然に確立した日本的慣習であり、伝統であり、文化であるから守らなければならない、という立場をとる人は保守主義者である。 ハイエクは保守主義者ではなく、このようなケースでは、ラディカルな伝統破壊者となる。
  なぜか。談合のような日本的秩序になぜ反対しなければならないのか。これを理解することはかなりの難度の経済倫理学の「演習問題」となる。 答えはこうである。談合は、関係者同士の利益のやり取りや分配をうまく行う工夫であるが、外部の一般の人々に不利益を与え(たとえば公共事業の高い入札価格は納税者に損失を与える)、自由な競争という市場のゲームの基本原則を破壊することになる。 それは日本の文化であるかも知れないが、文化には手をつけず、つねに与件として尊重しなければならない、というのが保守主義だとすれば、それはただの思考停止症候群にすぎない。
  一見合理的で、関係者に利益をもたらすこうした「自生的秩序」や伝統を排除するためには、それを禁止し、罰則を用意した人為的なルールが必要となる。 ハイエクもおそらくこのことは賛成するであろう。 (『経済思想の巨人たち』から)
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<「自生的秩序」「治癒力」「盲目の時計職人」それに対する「設計主義」>   自然界の動植物の生態系は「自生的秩序」によってその体系が保たれている。しかし、その一部が大きく変化すると、全体のバランスが崩れて思いもよらぬ所でその影響が拡大されて人の眼に触れることがある。 たとえばある地域で、ある動物の生息数が大きく減少すると、その動物をエサにしていた動物が減少したり、逆にその動物のエサにされていた小動物が異常繁殖したりする。 これを、経済の分野で見るならば、ある経済現象の変化が思いもよらないところに現れる、ということだ。最近のことで言うと、バイオエタノールの原料としてアメリカのトウモロコシやブラジルのサトウキビの価格が上昇している。この影響で農作物全般に価格上昇の傾向が見られる。 この影響が日本では食品会社キューピーのマヨネーズの小売価格10%アップという形で現れた。
  そしてこの農作物の価格上昇は今後もいろんな分野に影響を与えると思われる。こうした農作物の価格上昇について「農作物の価格上昇は発展途上国の人々から食物を奪うことになる。エタノールの普及を急ぐべきではない」「二酸化炭素排出権取引は食糧難に苦しんでいるひとには迷惑は制度だ」と批判する人が出てくる。 これは、一見弱者の立場に立った発言であるかのようにも思えるが、経済が「自生的秩序」で動いていると考えると、視野狭窄な発言と思えてくる。
  バイオエタノールはアメリカではトウモロコシから、ブラジルではサトウキビから、そしてタイではキャッサバから作られる。このキャッサバ、タピオカの原料として知られている。主な産出国はタイ、ブラジルだが、アフリカ諸国で多く生産されている。 農産物と言っても日本のコメ作りとは違って、キャッサバの茎を土にさし込んで置けば、その後面倒をみることもなく収穫することができる、きわめて簡単に栽培できるので、農業専門家の少ない地域でも栽培できる。 さて、農産物の価格上昇は、購入者にとってなイヤなことだが、生産者にとっては見逃せないチャンスだ。アフリカ諸国でキャッサバを栽培している人たちにとって、キャッサバの生産者価格の上昇はイヤなことではない。 価格の上昇・下落は生産者と消費者にとっては逆の意味になる。経済の1面だけを見て「価格上昇は良くない」と言うのは視野狭窄と言うべきだ。そして、それは経済が自生的秩序によって保たれていることに気づかないからだ。 そういう人は、「政府は対策をとるべきだ」と中央のコントロールセンターに大きな期待をかける。自生的秩序や治癒力には期待しない、設計主義者であることが多い。
  話があらぬ方向にさまよい歩きだしてしまった。話をもとに戻すと、『アナーキー・国家・ユートピア』の主張する自由は、放って置いて保証されるものではなく、それを保証するルールや、そのルールを守らす権力も必要になる、ということ。 言葉で主張すればそれで自由が保証されるとの考えは言霊信仰者の言うことだ、ということ。
  自生的秩序とは生物学・進化論を知ると、そのイメージがクッキリと見えてくる。視野狭窄では理解できない。 自家不和合性に陥ると見えなくなる。頭の中での「交雑育種法」を活用し、一代雑種や突然変異を起こす必要がある、ということだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『自生的秩序』                                   嶋津格 木鐸社     1985.11.30
『経済思想の巨人たち』                              竹内靖雄 新潮社     1997. 2.25
( 2007年8月13日TANAKA1942b )

(22)本当に人1人の命は地球より重いのか? 
遺伝子は、自身の繁栄を優先する
 TANAKAはホームページのいろんな場合に「気配り半径の狭さ」とか「視野狭窄」という言葉を使ってきた。1つの問題を解き明かそうとする場合、右から左から、前から後ろから、いろんな方面から、いろんな分野の知識を動員して考えてみよう、との姿勢を貫いてきた。 「考え方のグローバリゼーション」とも言うべき姿勢だ。農業界や経済学教育業界などについて、「視野狭窄」と批判してきた。死刑問題に関しても、廃止論者の主張を読むと「視野狭窄」を感じる。 他分野の知識が直接問題の解決に結びつかなくても、考えるヒントになる場合は多い。ここで扱う「利己的な遺伝子」は必ずしも直接答えを提供するわけではないが、考えるヒントは与えてくれると思う。 ここでの考え方は、進化論的な考え方をすれば「遺伝子DNAには、個体の命よりも遺伝子自身の繁栄が優先するように情報が組み込まれている」ということになる。「人1人の命は地球より重い」とは違った見方だ。 「だから死刑制度は………」とまで話を進めるつもりはないが、考えるヒントにはなると思う。
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<利己的な遺伝子=THE SELFISH GENE という概念> 今週扱う問題では、「利己的な遺伝子」という言葉がキーワードになる。この言葉はチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』から広く使われるようになったもので、 「遺伝子は、個が生き延びることよりも、遺伝子自身が繁栄することを目指している」というのがポイントになる。
 これを人間社会に当てはめてみると「ヒトの遺伝子には、個(個人)を犠牲にしてでも、遺伝子自身(種・人類)の繁栄を優先するようにメッセージが組み込まれている」となる。
 死刑問題を扱うとき必ず扱う言葉に「ヒト人の命は地球より重い」がある。ところが、「利己的な遺伝子」の考え方では、違ってくる。また、今週扱うものでは、 「自然界に利他主義はあり得ない」とか「自然界に<福祉主義>はない」といったようなこともポイントの1つになる。
  そこで初めはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』から引用し、法曹界とは違った世界の話を始めることにしよう。
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 まずは、本のタイトルについての多少の再考から始めることにしよう。1975年に、友人であるデズモンド・モリスの仲介で、ロンドンの出版界の長老であるトム・マシュラーに未完製本を見せ、ジョナサン・ケープ社の彼の部屋で議論をした。 彼は、その本を気に入ったが、タイトルは気に入らなかった。「利己的」というのは「鬱陶しい言葉(ダウン)」だと彼は言った。なぜ『不滅(インモータル)の遺伝子』としないのだ。 不滅は「明るい(アップ)言葉」で、遺伝子情報の不滅性はこの本の中心的主題だったし、「不滅の遺伝子」は「利己的な遺伝子」とほとんど同じほど、好奇心を掻きたてる響きがあった(われわれのどちらも、オスカーワイルドの『わがままな大男(The Selfish Giant)』との共鳴には気づいていなかったと思う)。 今となっては、マシュラーが正しかったかもしれないと思う。多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、本をタイトルだけで読みたがるということを私は知ったからだ。 このことは、『ベンジャミン・バニーのおはなし』(ピーター・ラビット・シリーズの1冊)や『ローマ帝国衰亡史』のもまったく同じようにあてはまるのは疑いが、本そのものという厖大な脚注がなければ『利己的な遺伝子』というタイトルは、その内容について不適切な印象を与えかねないことを、私は容易に理解できた。 現在の、米国の出版社なら、少なくとも副題をつけることを強く主張していたことだろう。
 このタイトルを説明する最善の方法は、力点の置き方を変えることである。「利己的」に力点を置けば、本書は利己性についての本だと思われるだろう。 ところが、本書はどちらかといえば、利他行動により大きな関心を振り向けているのである。このタイトルで強調すべき正しいことばは「遺伝子」なのであり、その理由を説明することにしよう。 ダーウィニズム内の中心的な論争は、実際に淘汰される単位に関するこのである。すなわち、自然淘汰の結果として生き残ったり、あるいは生き残らなかったりするのは、どういう種類の実体なのかという論争である。 その単位は、その定義からして、多少とも「利己的」になるのである。利他主義はそれとは別のレベルでも十分に進化しうるだろう。自然淘汰の選択は種のあいだでなされるのだろうか。 もしそうなら、生物のそれぞれの個体が「種の利益のために」利他的にふるまうと予想しなければならないだろう。各個体は、個体数の過剰を避けるために、自らの出産率を制限したり、あるいは、その種にとっての将来の獲物の貯えを保護するために、自らの狩猟行動を制限したりするのではないか。 この本を書くようにもともと私を掻きたてたのは、そういった広く流布しているダーウィニズムについての誤解であった。 (『利己的な遺伝子』から)
 (T注)リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』について<サイエンス・フィクションのような『利己的な遺伝子』>という表現もしている。
 今日進化論は、地球が太陽のまわりをまわっているという説と同じくらい疑いないものであるが、ダーウィン革命の意味するものすべてが、さらに広く理解されねばならない。 動物学は大学ではいまだ少数派の研究分野であるし、動物学を選ぶ人でさえ、その深い哲学的意味を評価した上でそう決心するのではない場合が多い。 哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育が行われている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 どのみち、この本の意図は、ダーウィニズムの一般的な擁護にあるのではない。そうではなくて、ある論点について進化論の重要性を追求することにある。 私の目的は、利己主義(Sekfishness)と利他主義(altruism)の生物学を研究することである。 (『利己的な遺伝子』から)
 そこでまず私は、この本が何でないかを主張しておきたい。私は進化にもとづいた道徳を主張しようというのではない。 私は単に、ものごとがどう進化してきたかを述べるだけだ。私は、われわれ人間が道徳的にはいかに振る舞うべきかを述べようというのではない。 私がこれを強調するのは、どうあるべきかという主張と、どうであるという言明とを区別できない人々、しかも非常に多くの人々の誤解を受ける恐れがあるからである。 私自身の感じでは、単に、つねに非情な利己主義という遺伝子の法にもとづいた人間社会というものは、生きていくうえでたいへん嫌な社会であるに違いない。 しかし残念ながら、われわれがあることをどれほど嘆こうと、それが真実であることに変わりはない。この本は主として、おもしろく読めることをねらったが、この本から道徳を引き出そうとする人々は、これを警告として読んでほしい。 もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうようは社会を築きたいと考えるのであれば、生物物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう。 われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みようではないか。われわれは自身の利己的な遺伝子が何をしようとしているかを理解しようではないか。そうすれば、少なくともわれわれは、遺伝子の意図を覆すチャンスを、すなわち他の種が決して望んだことのないものを掴めるかもしれないのだから。 (『利己的な遺伝子』から)
 恐らく群淘汰説が非常にうけたのは、1つにはそれが、われわれの大部分がもっている倫理的理想や政治的理想と調和しているからであろう。 われわれは個人としてはしばしば利己的に振る舞うが、理想上は他人の幸福を第一にする人々を称賛する。しかし、われわれが「個人」ということばをどこまで広く会社しようとするかについては、多少混乱がある。 集団内の利他主義は、集団間の利己主義を伴うことが多い。これが労働組合主義の基本原理である。別のレベルでは、国家は利他的自己犠牲の主要な受益者であり、若者たちは自国全体の栄光をさらに高めるために個人の命を捧げるよう期待される。 そのうえ彼らは、他国の人間だということ以外に、まったく知らない他人を殺すことを奨励される(不思議なことに、個人個人に対して、自分たちの生活水準を向上させる速度を少し犠牲にせよという平和時の呼びかけは、個人に自分の生命を捨てよという戦時の呼びかけほど効果的ではないようである)。
 最近、民族主義や愛国心に反対して、仲間意識の対象を人間の種全体に置き替えようとする傾向が出てきた。利他主義の対象のこの人道主義的な拡大は興味深い帰結を生む。 つまり、それはやはり進化における「種の利益」論を支持しているように見えるのである。政治的に自由主義的な人々は、普通は種の倫理をもっとも強く信じている人であり、したがって今や彼らは、利他主義の枠をさらに広げて他種をも含めようとする人々に対して、もっとも強い軽蔑の念を抱いていることが多い。 もし私が、人々の住宅事情を改善することにより、大型クジラ類の殺戮を防ぐことの方に関心があるといったとしたら、一部の友人はショックを受けるであろう。
 自種のメンバーが他種のメンバーに比べて、倫理上特別な配慮を受けて然るべきだとする感覚は、古く根強い。戦争以外で人を殺すことは、通常の犯罪の中ではもっとも厳しく考えられている。 われわれの文化でこれより強く禁じられている唯一のことは、人を食べることである(たとえその人が死んでいても)。しかしわれわれは他種のメンバーを喜んで食べる。 われわれの多くは極悪犯人に対してですら死刑の執行を尻込みするが、一方、たいした害獣でもない動物を裁判にもかけずに喜々として撃ち殺す。 それどころか、われわれは多くの濡外な動物をレクリエーションや遊びのために殺している。アメーバほどにも人間的感情をもたない人間の胎児は、おとなのチンパンジーの場合を遙かにこえた敬意と法的保護を受けている。 だが、最近の実験的証拠によれば、チンパンジーは豊かな感情をもち、ものを考え、ある種の人間の言葉を覚えることすらできる。胎児はわれわれの種に属するゆえに、即もろもろの権利・特権を与えられるのである。 リチャード・ライダーのいう「種主義」の倫理が、「人種主義」の倫理よりいくらかでも確実な倫理的立場に立てるのかどうか、私にはわからない。 私にわかるのは、それには進化生物学的に厳密な根拠がないということである。
 どのレベルでの利他主義が望ましいのか──家族か、国家か、人種か、種か、それとも全生物か──という問題についての人間の倫理における混乱は、どのレベルでの利他主義が進化論的にみて妥当なのかという問題についての生物学における同様な混乱を反映している。 群淘汰主義者ですら、敵対集団のメンバーどうしが互いに忌み嫌いあっているのをみても、驚きはしないに違いない。つまり彼らは、労働組合主義者や兵士と同じく、限られた資源をめぐる争いでは自分の集団に味方しているということだ。 (『利己的な遺伝子』から)
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<利他主義は存在するか> 利他主義は人間以外の動物に存在するであろうか。ハリー・パワーはヤマルリコマドリを使って簡単な実験でこの問題を解明している。 これは多くの種の鳥について当てはまることであるが、つがいの一方が(捕食されたりして)いなくいなると、まわりの独身の鳥の中から新しい相手が選ばれてただちに空きを埋めるのが普通である。 もしもヒナがいる時にこの交替が行われたとすれば、新しいパートナーは自分の子でないヒナの面倒を見るだろうか。(ここでは、「つがいの一方」(mate)よりもパートナー(consort)ろいう言葉を使わなければならない。 というのは、鳥には幼い子がいる間は性的なつがいをつくらないような心理的プログラムが内蔵されているからである)パワーはつがいのオスかメスを取り去ってこのようなパートナーのペアを10組つくった。
 普通、オスの親鳥はヒナに餌を与え、巣を掃除し、巣に危険が迫ったと思われると警報を発して鳴く。ところが観察したオスの新しいパートナー8羽のうち、1羽として自分の子でないヒナに対してこの種の行動をとったものはいなかった。 2羽のメスのパートナーについては、1羽がヒナの世話をしたが、ただしそれは5日間も放っておいた後でのことであった。パワーの議論によれば、この唯一の例外は、正真正銘の利他主義のケースというよりも、生殖上の過誤と考える方がもっともらしい、ということになる。
 動物の継父母についての知識はいずれも同じパターンを示しているという事実がなければ、この実例は数も少ないし、忘れられてしまうところであろう。 メスを奪うオスのライオンは、自分が打ち負かした「前夫」の子を殺してしまう。ハヌマンラングーンのオスも同じ行動をとる。ハツカネズミではブルース効果というものがあって、同じ結果がもっと非暴力的な形で現れる。 つまり新しいオスの匂いを嗅いだだけで妊娠中のメスに流産が起こり、メスは新しいオスによる受胎が可能な状態になるのである。
 これらはすべて、厳密なダーウィニズムにもとづいて簡単に説明することができる。ダーウィンの理論に対するもっとも重大な誤解は、自然淘汰は種にとってよい結果をもたらすよう作用する、と思いこむことである。 そうではないのである。自然淘汰は個体の生殖系列(germ kine)に利益をもたらすものであって、この過程は種にとって利益となるとは限らないのである。 (この重要な問題には第6章でもう1度触れることにする)種の観点からすれば、ブルース効果は生殖過程に不効率を持ち込むことに他ならない。 だが割り込んで来るオスのマウスのための生殖系列という点からすれば、ブルース効果は効果的である。それは種全体の子孫の数を減らすことによってそのオスの子孫の数を増やすことになる。 メスの立場から見たブルース効果の利益は、どうせ割り込んで来たオスに殺されるに決まっている(多分そうなるであろうが)子を産むために、月満ちるまで妊娠を続ける時間と努力の無駄が省かれる、という点にある。
 大人が子供一般──自分の子供に限らず──の生存を助ける行動は、利他的なものと見なすことができるであろう。だが、これは滅多にないことである。 自分の子供だけを助ける行動は、そもそもこれを利他主義と呼ぶなら「血縁利他主義」という特別の名前で呼ばなければならない。 この血縁利他主義の淘汰上の価値は容易に理解できる。 (『サバイバル・ストラテジー』から)
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<自然界に「福祉主義」はない>上記ガレット・ハーディンと似た立場からもう一つ引用しよう。「自由主義」「平等主義」とは全く違った考え方だ。いろんな違った立場の考えが、交雑育種法によって新種の理論が生まれるといいのだが、政治哲学の分4ではその可能性は少ない。それよりも「自家不和合性」が心配だ。
 いわゆる進化とは、自然の失敗の結果である。つまり、病気や能力喪失、あるいは突然変異がもたらした欠陥を過剰に補償するという、自然の失敗の結果なのである。正常な発達をとげた有機体はその環境にうまく適応し、その子孫の全世代にわたって安定している。だからここには次のような2つの相異なる傾向が見られるのである──ひとつは、その環境との最適な関係を見出し、安定的な形態に到達する生物、いま一つは過剰補償の連続によって生き延びているにすぎない不安定な生物である。徐々に新しい種への転換をやってのけるのはこの後者の方である。 そこで思い切ってこういうこともできよう。進化は最適者生存のせいではない。むしろ自己および子孫における一連の過剰補償を通じて新しい形態をつくりあげるのは不安定な生物であり、一方適者は、すでに達成した形態を維持するように、自己を一層適者ならしめる緩慢な修正を行う。
 自然の中では病気の動物が生き残れるチャンスはほとんどない。病気の動物が、ただ自分が生き続けるだけでなく、その子孫にも伝えられるような新しい方法を見出すのはごく稀な場合にすぎない。治療法の進歩のおかげで病人は死ぬことから免れるが、またこれによって不釣り合いに多くの欠陥遺伝子が次代に伝えられる。こういうわけで、人間は他のいかなる動物よりも急速な進化上の変化を示したのである。この加速的な進化には、家畜やペットの場合も含まれる。というのは獣医学のおかげで、それがなければ不安定だったような形態が生命を維持するからである。(中略) (『マンチャイルド』から)
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 博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買ってでる傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の非保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということには、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金を貰っているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。 労働者は、自分がその労働に対して得ている以上に社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だ、という感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという自体に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから一本脚で滑りつづけるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立て者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえる、という子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よ、とか過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示していると言えよう。 (『マンチャイルド』から)
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<「遺伝子の川」という概念> 死刑問題とはかけ離れた「生物学」「進化論」「遺伝子」のことを扱うので、「利己的な遺伝子」についてゆっくりと話を進めることにしよう。 ここではリチャード・ドーキンスの『遺伝子の川』から引用し、こうした分野について頭を慣らして頂きましょう。
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 どんな民族にも自らの祖先にまつわる叙事詩的な伝説があり、しばしばそういった伝説は宗教的礼賛という形をとるようになる。 人びとは祖先を敬い、崇拝さえする。生命を理解する鍵となるのは自分たちの実在の祖先であって、超自然的な神々でない以上、それも言わば当然なことであろう。 生まれるすべての生物のほとんどは、十分な発育をみないうちに死んでしまう。生き残って繁殖する少数のうち、なお子孫を1000世代の後まで生かせるものは、さらに少数である。 この少数のなかのごく少数者、祖先のエリートのみが将来の世代から祖先と呼ばれる視覚をもつ。祖先は希少な存在であり、子孫はありふれた存在なのである。
 生きとし生けるものすべて──あらゆる動物や植物、すべての細菌とすべての菌類、地上を這いまわるあらゆる生きもの、そして本書を読むすべての読者──は、祖先たちを振り返って、誇らしげにこう主張できるのである。 われわれの祖先に幼くして死んだものはなったくない。彼らはみな成熟し、そのどれもが少なくとも1回は異性の相手をみつけ、交尾に成功したのだ。 われわれの祖先は残らず、少なくとも1人の子供を世に送り出す前に、敵やウィルスに倒されたり、断崖で足を踏み外したりすることがなかった。 同時代に生きていたほかの多数の個体がこうした点で失敗したのに、われわれの祖先はただの1人もそのどれにもつまずくことがなかった、と。 このように申し立ては、まぎれもなく名作だが、そこからはもっといろんなことが引き出される。奇妙で思いがけないようなこと、解明に役立つこと、そして驚くべきことがどっさりと。
 すべての生物がすべての遺伝子を、祖先と同世代で失敗した者からではなく、子孫を残した祖先から受け継いでいる以上、あらゆる生物は成功する遺伝子をもつ傾向がある。 彼らは祖先になるのに必要なもの、つまり生き残って繁殖するのに必要なものをもっていることになる。だからこそ、生物が受け継ぐ遺伝子はおおむね、うまく設計された機械──まるで祖先になるために奮励努力していらかのごとく活発に働く身体──をつくりあげる性質をもっている。 だからこそ、鳥はあれほど上手に飛び、魚はいかにもすいすいと泳ぎ、猿は木登りがとても得意で、ウィルスは広がるのがうまいのだ。 われわれが人生を愛し、セックスを好み、子供を可愛がるのも、それゆえである。それはわれわれすべてがただ1人の例外もなく、成功した祖先からと途切れることなしに受け継がれてきたすべての遺伝子をもっているからに他ならない。 世界は祖先になるのに必要な資質をもった生物でいっぱいになる。一言でいうと、それがダーウィン主義なのである。もちろんダーウィンはもっとはるかに多くのことを言っているし、今日ではさらに多くのことがいえる。 本書がここで終わりにならないのもそのためである。 (『遺伝子の川』から)
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<遺伝子とミーム> ここでは『利己的な遺伝子』に寄せられたジョン・メイナード・スミスの書評を取り上げることにしよう。
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 利己的な遺伝子』は、一般向けに書かれたものであるにもかかわらず、生物学に独自の貢献を果たしたという意味で異例の本である。 さらに、その貢献自体も異例なものである。デイビッド・ラックの古典『ロビンの生活』(これもまた一般向けに書かれた本でありながら独自の貢献を果たした)と違って、『利己的な遺伝子』は新しい事実を何1つ報告していない。 何らかの新しい数学的モデルを含んでいるわけでもない──そもそも数字がまったく含まれていない。それが提供しているのは、1つの新しい 世界観なのである。
 この本は広く読まれ、好評を得てきているが、強い敵意もかきたててきた。その敵意のほとんどは誤解、あるいはむしろ複数の誤解に基づいていると、私は思っている。 そのなかで、もっとも根本的なものは、この本が何についてのものであるかが理解できていないことである。それは進化的な過程についての本であり、道徳、あるいは政治、あるいは人文科学についての本ではないのである。 もしあなたが、進化がどのようにして生じたかに関心がないなら、人間に関する事柄以外の何かに対して、ほかの人間がどれほど本気で考えることができるかということに思いが及ばないのであれば、この本を読まなければいい。 詠めば、不用意に腹を立てるだけのことにしかならないだろう。
 けれども、あなたが進化に関心をもっているとすれば、1960年代から70年代にかけて、進化生物学者のあいだで行われてきた論争がどういう性質のものであったかを把握するためには、ドーキンスがやろうとしていることを理解するのが、いい方法である。 この論争が、「群(集団淘汰)」と「血縁淘汰」という2つの互いに関連のある話題にかかわるものであった、「群淘汰」論争は、ウィン=エドワーズによって口火を切られた。 彼は、行動的な適応は「群淘汰」によって進化した、つまり、ある集団が生き残り、別の集団が絶滅することを通じて進化するのではないかと提案したのである。
 ほとんど同じ時期に、W・D・ハミルトンが、自然淘汰の働き方についてもう1つ別の疑問を提起した。彼は、もしある遺伝子がその持ち主に、数個体の近縁者の命を救うために自らの命を犠牲にするように仕向けるとすれば、のちにその遺伝子のコピーは、犠牲にしなかった場合に比べてより多く存在するのではないかと指摘した。 ……この過程を数量的なモデルにするために、ハミルトンは「包括適応度」という概念を導入した、……包括適応度には、その個体自身の子供だけでなく、その個体の助けによって育てられた近縁者の子供もすべて、その近縁度に応じた適切な比率を掛けて、含められる……。
 ドーキンスはハミルトンに負うところが大きいことに謝辞を述べていながら、適応度の概念を身につけるための最後の努力で、誤りを犯したのではないかと述べ、進化についての正真正銘の「遺伝子俯瞰図的見方(遺伝子の目から見るという視点)」を採用する方が賢明であったかもしれないと述べている。 彼は、「自己複製子」(繁殖の過程でその厳密な構造が複製される実体)と、「ヴィークル」(死を免れず、複製されないが、その性質は自己複製子によって影響を受ける実体)のあいだの根本的な違いを認識するように、われわれに強く訴える。 われわれがよく知っている主要な自己複製子は、遺伝子および染色体の構成要素である核酸分子(ふつうはDNA分子)である。典型的なヴィークルは、イヌ、ショウジョウバエ、そして人間の 体である。 そこで、かりに眼のような構造を観察すると仮定してみよう。眼は明らかに見ることに適応している。眼が進化したのはだれの利益のためだったのかという問いを発するのは理に適っているだろう。 唯一の合理的な答えは、眼は、その発達の原因となった事故複製子の利益のために進化したというものではないかと、ドーキンスは言う。 どちらにせよ私と同様に、説明のためためため、彼は集団の利益よりも個体の利益で考えるほうを強く好み、自己複製子の利益だけで考えることが好きなのであろう。 (『利己的な遺伝子』からジョン・メイナード・スミスの文。『ロンドン・レヴユー・オブ・ブックス』1982年2月号、(『延長された表現型』の書評から抜粋))
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<『利己的遺伝子とは何か』やさしく説明すると………> 今週のキーワードは「利己的遺伝子」、この言葉を易しく解説した本=『利己的遺伝子とは何か』があるので、そこから引用することにしよう。
 肉親同士がお互いに強いきずなで結ばれていることは人類共通の事実である。親と子はその最たるもので、親たるもの、わが子のためならば自分の命を捨てることさえある。
 新聞記事にニワトリ小屋の火事が報道されていた。小屋が火事になって、その中にいたニワトリが焼け死んだ。しかし、そのニワトリの下から、ヒヨコが何羽か元気で、ピヨプヨと出てきた。 親鳥は自分を犠牲にして、子供を守ったのだろう。それを見た近所の人たちは、思わず涙ぐんだという。
 ニワトリ小屋の火事など、地方の新聞ならともかく、全国紙の記事になるわけはない。しかし、この親鳥の子どもに対する愛情は種をこえて、人間の胸を強くうち、特別に報道に値する感動を呼び起こしたのである。
 ゾウリムシやアメーバなどではよくわからないが、一般に、高等な動物では、親子は愛情という絆で強く結ばれている。
 しかし、親子という骨肉の情を超えて、人間は他人を助けることがある。
 これもやはり、新聞記事であるが、マンションから落ちてきた子どもを通りすがりの人が受けとめたという話があった。まかりまちがえば、受けとめた人だって大怪我をする。
 このケースでは、骨肉の愛情は関係ないだろう。落ちた子どもと、それを助けた人とは、お互いに見ず知らずの他人である。助けた人にとってみれば、まさにとっさの本能的な行動であろう。 われわれ人間には、自分を犠牲にしても他人を助けるという利他的本能があるのだろうか?
 とこれで、親や兄弟は、お互いに血がつながった血縁者である。兄弟よりは遠いが、いとこ、またいとこ、おじ、おばも血縁者に入る。
 だから、身内を助けるということは、血縁者同士は助け合う、と言い替えることができる。
 このような行動は「血縁利他行動」とよばれ、血縁者の危機を目前にすると、動物は自分を犠牲にしても、助けようとする傾向があることを述べている。
 このような利他傾向を、単に愛情というものだけでは説明できないことは、すぐ前にも触れた通りである。
 血縁淘汰説
 イギリスの生物学者、W・D・ハミルトンは、この問題を遺伝子の観点からとらえた。
 彼は1964年に「社会行動の遺伝子的進化」という論文を発表して、その数学的定式化を試みた。この論文は、「血縁度」の計算が延々と書かれていて、とてつもなく難解である。
 しかし、ハミルトンの説を要約すれば、「血縁者を助ける行動を引き起こすような遺伝子は、淘汰上、有利であり、個体群内で広がる傾向が強い」ということになる。
 つまり、血縁利他主義が動物界で普遍的にみられるのは、すべての動物がそのような行動を起こす遺伝子をもっているからである。 このような遺伝子は、最初は少なくても、長い淘汰の間に、そうでない遺伝子を押しのけ、個体群の中で、広がり、遂に、全面的勝利を収めるというわけである。
 ここで注意したのは、ダーウィン進化論と違い、淘汰上有利なのは個体ではなく、遺伝子だとハミルトンが述べている点である。
 自分を犠牲にして、血縁を助ける利他的行動は、少なくともそれを行う固体にとって損失以外の何物でもないが、その固体の遺伝子からみると、利他的行動は得になるというのである。
 したがって、個体が行っている利他的行動というのは、実は遺伝子にとっては利己的行動ということになるのである。
 遺伝子の利己的行動といっても、遺伝子自体は生き物でもないし、行動もない。
 しかし、ハミルトンは、個体に血縁を助けるような行動を起こさせる遺伝子を包含する遺伝子は、個体群の中でだんだん増えていき、淘汰上も有利になるだろう、と主張しているのだ。
 ある個体が持っている遺伝子は、母親からのものと父親からのものがペア(対)になっている。
 これを個体中の遺伝子の側からみると、両親の1/2ずつが子どもにあるということになる。だから、親が子どものために自分を犠牲にした行動をとるということは、遺伝子としては、自分の1/2を救ったことになるのである(もっとも、その1/2は自分より長生きするはずだが)。
 親という個体は、その愛情にもとづいて子どもを救ったつもりであっても、実は、そのような犠牲的行動を起こさせる遺伝子を持っていたがためにすぎない。しかも、こうした血縁利他的行動を起こさせる遺伝子はははそうでない遺伝子よりも自然淘汰で生き残るチャンスが大きくなる。 つまり、淘汰というプロセスで生き残ってゆき、群の中に定着するというのである。
 そして、話は親子にかぎらず、兄弟とか親戚同士というふうぬ、その中に血縁利他主義遺伝子を含む遺伝子同士は、お互いに集団安全保障条約を結んでいるようなものということになる。
 遺伝子は、他の個体よりも自分とよく似た遺伝子を持った個体、すなわち血縁である個体が危険になったら、自分を犠牲にしても助けることによって、自分に近い遺伝子を集団的に防衛するというのである。
 この安全保障条約を結んでいる血縁利他主義遺伝子と、そうでない遺伝子の優劣は明らかである。お互いに助け合わない遺伝子の生き残りの能力は、助け合う遺伝子のそれに比べて低いのは当然である。 そのために、長い間には、血縁利他主義遺伝子は淘汰によって増えるわけである。
 これが、血縁進化説または血縁淘汰と呼ばれる考え方である。
 ドーキンスの利己的遺伝子
 ハミルトンは、血縁を助ける遺伝子というものを考えた。 その遺伝子は、自分と同じ遺伝子を持っている可能性の高い血縁者を助けることによって、その遺伝子を沢山残そうとしているのである。 そのためには、遺伝子は、時として自分の乗っている個体を犠牲にすることさえする。遺伝子にとっては、自分が入っている個体を犠牲にしても、自分自身の遺伝子の繁栄からみれば、その方が得策だからである。
 こう考えると、ある重大なことに気がつく。それは、遺伝子は自分のために血縁者を助け、自分自身を犠牲にすることがあるが、助けるのは、果たして血縁者だけだろうかということだ。
 遺伝子にとって、血縁者とは、要するに自分と同じ遺伝子を多く持っている者である。より性格にいえば、自分と同じ遺伝子を持っている確率が高い個体である。
 そこで、何も直接の血縁者だけでなく、血縁者を助ける者を助けるような間接的なルートの自己犠牲的な行動もあってもよいことになる。
 自己犠牲的というろ聞こえはよいが、見方によれば、遺伝子自身が増殖しようとする利己的な振る舞いにすぎない。
 個体という遺伝子の乗り物からみると、自己犠牲以外の何者でもないのだが、しかし遺伝子からみると、むしろ全体的には利己的な振る舞いなのだ。
 ハミルトンと同じ英国の生物学者、リチャード・ドーキンスはこうして、利己的遺伝子という概念に到達した。
 ドーキンスとスミスとゲーム理論
 ドーキンスによれば、遺伝子は徹底的に利己的であり、自己を繁殖させることが至上の目的のようである。
 もしそうならば、遺伝子は、自然界で演じられる「生き残り・増殖ゲーム」のプロフェッショナルだということになる。
 一般に、ゲームでは攻撃的な手、防衛的な手、相手を惑わす手など、さまざまなテクニックと戦術が凝らされる。だが攻撃的な手が、いつもベストとは限らない。場合によっては、守りに立つ手が必要なこともしばしばである。
 攻撃と守りのどちらをとるかの判断、もしくはその割合の決定は、戦略に属する高度な判断によらなければならない。
 だから、遺伝子による行動を遺伝子のゲームとみなすと、生き残りのための最適な戦略が駆使されている、と想像することができる。
 ゲームにおける最適の戦略については、「ゲームの理論」という分野があり、多くの研究がなされている。
 イギリスの生物学者メイナード・スミスは、このような観点から、遺伝子による行動にゲームの理論を適用してみた。
 ゲームと進化
 スミスはゲームの理論を、生物の行動や進化の問題に適用した。 スミスは、ケンブリッジ大学では工学を学んだので、生物の進化という問題に、このような数学的アプローチを取り入れるにもあまり抵抗がなかったかも知れない。
 メイナード・スミスが提唱したもっとも重要な概念は「進化的に安定な戦略」(Evolutionally Stable Strategy)で頭文字をとってESSとも言われている。
 ESSの最も簡単な例は、有名な「タカ・ハトゲーム」である。
 子殺しという遺伝子の生き残り戦略
 20年ほどまでは、動物が同じ種内で殺し合いをするのは、きわめて例外的なことであるというのが生物学の常識であった。
 ダーウィン流の進化論によると、同じ種に属している個体同士が殺し合いをしていたのでは、その種の生存と増殖にとって非常に不利になると考えられる。 そのため「種内殺し」などしている動物は、進化のプロセスで淘汰されてしまうと思われてきた。
 ところが、京都大学の杉山幸丸が1962年に、インドのハヌマンラングールというサルの個体群の中で、「種内子殺し」という行動が自覚的ふつうに起きていることを発見した。 それまで、異常な行動とされていた種内における子殺しが、ハヌマンラングールの社会では決して異常な行動ではなかったのである。
 最初は半信半疑だった世界中の学者たちも、1970年代には、ハヌマンラングールの子殺しという杉山の発見について真剣に検討するようになる。
 ハヌマンラングーンは、1頭のオスと数頭のメスが群れをつくって暮らしている。このハヌマンラングーンの群れには縄張りがあるが、なかには群れをつくれなかったオスがいる。 こうした群れから離れた孤独なオスたちは、つねに、群れの頭であるオスを狙っている。
 群れを支配しているオスを襲って、うまく乗っ取りに成功したハヌマンラングーンのオスは、自分のものにしたメスたちと次々に交尾をして、自分の子どもを増やそうとする。
 しかし、群れのメスたちの多くは、それまでの支配者だった先代のオスの子どもを抱えている。とくに1歳未満の赤ん坊がいるメスは、赤ん坊に授乳している最中であるから、ホルモンの作用によって発情しない状態におかれている。
 せっかく群れを奪い取っても、肝心のメスが発情しないのでは、オスは自分の子どもをつくることができない。そこで、群を奪い取ったハヌマンラングーンのオスは、子どもを抱いて逃げる母親を追いつめて、赤ん坊を取り上げて噛み殺すのである。 こうした行動は、1歳未満の赤ん坊をすべて殺すまで行われる。
 赤ん坊を殺されたハヌマンラングーンの母親たちは、乳の分泌がストップして、1週間から1か月後にはまた発情する。こうして、新しい群の支配者であるオスは、群れのメスと交尾することができるようになる。 その結果、半年もすると、群の中のほとんどのメスがニューリーダーの子どもを産み、新しい群れが形成されるのである。
 ハヌマンラングーンの群れの周囲には、必ず群を狙うオスがいて、こうしたオスによる群れの乗っ取りは日常的な出来事なのだという。
 こうしたハヌマンラングーンの子殺しという意外な行動も、利己的な遺伝子の生き残り戦略としてなら納得できる。新たに群を占領したニューリーダーのオスにしてみれば、種の保存などは2の次として、まずは自己の遺伝子を残そうとするのは当然のことである。
 先代のリーダーの子どもを育てることは、自分以外の遺伝子を増やすことに等しい。そのうえ、自分の子以外の赤ん坊を育てるためにメスが発情しないのでは困る。 これでは、先代の子どもたちを殺してしまうのも当たり前なのかも知れない。 (『利己的遺伝子とは何か』から)
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<自然淘汰は盲目の時計職人である>  進化論では「進化は必ずしも進歩とは言えない場合がある」ということを理解することが大切だ。進化の方向が退化の場合もある。つまり、進化の方向は決まっていないで、ときには進歩であり、ときには退化である場合がある。 もちろん、初めから進化の向かう方向が決まっているのではない。「創造論」(創造科学)は、地球の生物世界は神が創造した、との宗教で、初めから生物体系は計画されていた、ということになる。 ところが進化論では、誰かが計画したのではないし、進化の方向も決まっているわけではない。そんなようなことを、ドーキンスは『盲目の時計職人』というタイトルで本を書いている。 ここではそれを取り上げることにする。
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とても起こりそうもないことを説明する この本の表題の「時計職人」は、18世紀の神学者ウィリアム・ペイリーの有名な著作から借りてきたものである。 1802年に出版された彼の『自然神学──あるいは自然界の外貌より蒐集せられし、神の存在と特性についての証拠』は、「デザイン論」のもっともよく知られた解説であり、神の存在に関する議論の中でつねにもっとも大きな影響力をもつものだった。 それはまた私が激賞する本でもある。というのは、その著者が当時としてはみごとに、これから私がなんとかやりとげようとしていることを、うまくやってのけているからである。 彼は通すべきある主張をもち、熱意をもってそれを信じ、それを人々にはっきり示すための努力を惜しまなかった。彼は生物の世界の複雑さに対して然るべき尊敬の念を抱いていたし、その複雑さはきわめて特別な種類の説明を要すると理解していた。 唯一彼が間違っていたことは──そしてこれが重大なのだが──まさしく説明のやり方そのものであった。彼はそれ以前の誰よりもいっそう明晰にかつ説得力をもってその謎に伝統的なキリスト教的解答を与えた。 正しい説明はそれとはまったく異なったものであり、それが見いだされるためには歴史上もっとも革命的な思想家の1人、チャールズ・ダーウィンを待たなければならなかった。
 ペイリーは『自然神学』を次の有名な一節で始めている。
 ヒースの荒野を歩いているとき、石に足をぶつけて、その石はどうしてそこにあることになったのかと訊ねられたとしよう。私はおそらくこう答えるだろう。 それはずっと以前からそこに転がっていたとしか考えようがない、と。この答えが誤っていることを立証するのは、そうたやすくはあるまい。 ところが、時計が1個落ちているのを見つけて、その時計がどうしてそんなところにあるのか尋ねたられたとすると、こんどは石について答えたように、よく知らないがおそらくその時計はずっとそこにあったのだろう、などという答えはまず思いつかないだろう。
 ここでペイリーは、石のような自然の物体と、時計のようなデザインされた人工の物体との違いを認識している。 彼は時計の歯車やバネが精密につくられていることを説明していく。もしわれわれがヒースの荒野で時計のような物体を見つけたとすると、たとえそれがどのようにして存在するにいたったかを知らなくても、それ自体のデザインの精密さや複雑さから、次のように結論せざるを得ないだろう。
 その時計には製作者がいたはずである。つまり、いつかどこかに、(それが実際にかなえられていることがわれわれにもわかる)ある目的をもって時計を作った、つまり時計の作り方を知り、使い方を予定した考案者(たち)が存在したにちがいない。
 ペイリーは、誰もこの結論に対して筋道の通った反論を唱えることはできないはずで、たとえ?無神論者といえども、自然の作品について真剣に考察したならば、こうした結論に達するだろうと主張した。というのは、
 時計にみられるあらゆる工夫、あらゆるデザイン表現が自然の作品にほ見いだされる。ただ、自然の作品は、測り知れないほど偉大で豊富である点が時計と異なっている。
 ペイリーは、生命のからくりのメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。 彼は、ヒトの眼の話から解き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。 ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるために作られたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。 望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
 ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。 望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方であるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。 本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。 ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。 自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の固形職人なのだ。 (『盲目の時計職人』から)
すばらしいデザイン  自然淘汰は盲目の時計職人である。盲目であるというのは、それが見通しをもたず、結果についての目論みをもたず、目指す目的がないからだ。 しかしそれでも、現在みることのできる自然淘汰の結果は、まるで腕のいい時計職人によってデザインされたかのような外観、デザインとプランをもつかのような錯覚で、圧倒的な印象をわれわれに与えている。 本書の目的は読者が納得するまでこの逆説を解くことなのだが、とりあえずこの章ではデザインという錯覚の力を借りて読者にいっそう深い感銘を与えたい。 まずきわめつけの例について考察し、デザインの複雑さと美しさにかけては、ペイリーといえどもその事実のほんのさわりさえ語り始めていなかったのだ、と結論するつもりである。
 飛ぶ、泳ぐ、見る、食べる、繁殖する、あるいはもっと一般的に生物体の遺伝子の生存や自己複製を促進するといった何か意味のありそうな目的を遂げるために聡明で博識な技術者なら組み込んだと思われるような属性を、生物の体や器官がもっている場合には、 われわれはそれをうまくデザインされていると言ってもかまわないだろう。体とか器官のデザインは、ある技術者が考えつける最良のものであると仮定する必要は何もない。 ある技術者が考えつくことのできる最良のデザインは、いずれにせよ、別の技術者とりわけテクノロジーの歴史にあって後世に現れた別の技術者の考えついた最良のデザインに抜き去られることがよくある。 しかし技術者なら誰でも、たとえ出来ばえがよくなくても、ある物体の構造をちょっと調べればその目的が何らかの目的のためにデザインされていれば、それと認識できるし、その物体の構造をちょっと調べればその目的が何なのかを見抜くことができるのが普通である。 T章では、哲学的な問題にもっぱら取り組んできた。この章では、技術者なら誰でも深い印象を受けずにはいられないだろうと私の信じているとっておきの事実、すなわちコウモリのソナー(「レーダー」)について展開する。 私はどの論点を説明するときも、まず生ける機械の直面している問題を提出し、その上で、気の利いた技術者なら考えるであろうその問題の解決策について考察するつもりだ。 そして結局のところ自然が実際に採用した解決策に到達することになるだろう。コウモリはもちろんほんの1例である。ある技術者がコウモリに深い印象を受けるなら、きっとそれ以外にも数えきれないくらいたくさんある生けるデザインの例にも深い印象を受けずにはいられないだろう。
 コウモリの抱えている問題は、暗闇の中でどうやって自在に動き回るかということである。コウモリは夜間に狩りをするので、光の助けを借りて獲物を見つけたり障害物を避けることはできない。 これが問題だというなら、それは自業自得であり、何のことはない、習性を変えて昼間に狩りをすればすむではないか、と言えるかもしれない。 しかし、昼の経済(エコノミー)はすでに鳥類のような他の生物によって徹底的に利用しつくされている。夜に行われるべき仕事があって、それにかわる昼の仕事がすっかりふさがっているとなると、自然淘汰は夜の狩りの仕事をものにしたコウモリに有利にはたらいただろう。 ところで、夜の仕事というのはわれわれ哺乳類すべての祖先にまで遡るものらしい。恐竜たちが昼の経済を支配していた時代には、われわれ哺乳類の祖先たちはおそらく、夜にどうにか暮らしを立てる方法を見つけたおかげでなんとか生き延びていただけであったろう。 約6500万年前に、恐竜類のあの謎にみちた大量絶滅が起こった後にはじめて、われわれの祖先は昼間にもこぞって姿を現すことができたのである。 (『盲目の時計職人』から)
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<事実確認の「……である」と「べきである」との主張> 生物学・進化論などの科学は、事実を確認し「真実は……である」と話を結ぶ。経済学では「市場の動向は……である」とか「他の条件が変わらないとして、次の与件が変わると、経済はこのようになる」などの事実関係を問題にする。 それと「経済はそのような法則によって変わるので、政府、日銀の経済政策はこうあるべきだ」と結論付けることがある。そして、法律は「べきである」で結論付けられる。
 今週は、生物学・進化論の話を取り上げた。これらは、事実を述べたもので、「こうあるべきだ」とのべき論ではない。「遺伝子は個の生存よりも、遺伝子自身(種)の繁栄を優先させる」と言っても、「だから、人間社会もそうあるべきだ」とは進まない。 この「べき論」と「である論」をハッキリ区別して考えることができないと、今週の話は理解できないだろう。こうした区別ができるとして多くの意見を取り上げた。従って、この文章から「だから死刑制度は必要である」とか「そうであるけれど死刑は廃止すべきだ」と結論すべきではない。 それをハッキリさせた上で、こうした法律とは違った世界の論理を知ることは、視野狭窄にならないためにも有効だし、死刑制度についても何らかのヒントになるだろうと思う。こうした点を理解したうえで、生物学・進化論などの知識・知恵を吸収して欲しいと思い取り上げてみた。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』      リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店 2006. 5. 5
『サバイバル・ストラテジー』                ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社    1983. 4.20
『マン・チャイルド』            ダビッド・ジョナス+ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書店新社 1984. 7.10
『遺伝子の川』                      リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 草思社    1997. 8. 1
『利己的遺伝子とは何か』DNAはエゴイスト                 中原英臣・佐川峻 講談社    1991.10.20
『盲目の時計職人』自然淘汰は偶然か?          リチャード・ドーキンス 日高敏隆監修 早川書房   2004. 3.31
( 2007年8月20日 TANAKA1942b )
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(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論 
危機管理意識のない死刑廃止論
  先週、平和的なハトと戦闘的なタカ、という喩えを書いた。今週は、こうしたハトとタカについて扱うことにする。 これについては以前に、<進化的に安定な戦略>と題して、 『利己的な遺伝子』と『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』から引用した。今回はさらに別の文献からも引用し、「危機管理」に関する関心を高めようと思う。 初めは『利己的な遺伝子』から、
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<進化的に安定な戦略> > メイナード・スミスが提唱している重要な概念は、進化的に安定な戦略(ESS;evolutionarily stable strategy) と呼ばれるもので、もとをたどればW・D・ハミルトンとR・H・マッカーサーの着想である。 「戦略」というのは、あらかじめプログラムされている行動方針である。戦略の1例をあげよう。「相手を攻撃しろ、彼が逃げたら追いかけろ、応酬してきたら逃げるのだ!」理解してもらいたいのは、この戦略を個体が意識的に用いていると考えているのではないということである。 われわれは動物を、筋肉の制御についてあらかじめプログラムされたコンピュータをもつロボット生存機械だ、と考えてきたことを思い出してほしい。 この戦略を1組の単純な命令として言葉であえあわすことは、これについて考えていくうえでは便利な方法である。あるはっきりとわからぬメカニズムによって、動物はあたかもこれらの命令に従っているかのように振る舞うのだ。
 進化的に安定な戦略すなわちESSは、個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、別の代替戦略によってとって代わられることのない戦略だと定義できる。 それは微妙でかつ重要な概念である。別の言い方をすれば、個体にとって最善の戦略は、個体群の大部分が行っているうことによって決まるということになる。 個体群の残りの部分は、それぞれ自分の成功を最大にしようとしている個体で成り立っているので、残っていくのは、一旦進化したらどんな異常個体によっても改善できないような戦略だけである。 環境になにか大きな変化が起こると、短いながら、進化的に不安定な期間が生じ、おそらく個体群内に変動がみられることさえある。しかし一旦ESSに到達すれば、それがそのまま残る。淘汰はこの戦略から外れたものを罰するであろう。
 この概念を攻撃にあてはめるために、メイナード・スミスの1番単純な仮定的例の1つを考察してみよう。ある種のある個体群には、タカ派型とハト派型と呼ばれる2種類の戦略しかないものとしよう。 (おの名は世間の慣例的用法に従っただけで、この名を提供している鳥の習性とはなんの関係もない。じつは、ハトはかなり攻撃的な鳥なのである)。 われわれの仮定的個体群の個体はすべてタカ派かハト派のどちらかに属するものとする。タカ派の個体は常にできる限り激しく際限なく戦い、ひどく傷ついたときしか引き下がらない。 ハト派の個体はただ、もったいぶった、規定どおりのやり方で脅しをかけるだけで、誰も傷つけない。タカ派の個体とハト派の個体が戦うと、ハト派は一目散に逃げるので、怪我をすることはない。 タカ派の個体どうしが戦うと、彼らは、片方が大けがをするか死ぬかするまで戦い続ける。ハト派とハト派が出合った場合は、どちらも怪我をすることはない。彼らは長い間互いにポーズをとり続け、ついにはどちらかが飽きるか、これ以上気にするのはよそうと決心するかして、やめることになる。 当面のところ、ある個体は特定のライバルがタカ派であるかハト派であるかを前もってしる手だてはないものと仮定しておこう。彼はライバルと戦ってみて初めてそれを知るだけで、手掛かりとなるような、特定の個体との過去の戦いは覚えていないものとする。
 さて、まったく任意の約束事として、戦う両者に「得点」をつけることにする。たとえば、勝者には50点、敗者には0点、重傷者にはマイナス100点、長い戦いによる時間の浪費にマイナス10点という具合である。 これらの得点は、遺伝子の生存という通貨に直接換算できるものと考えてよい。高い得点を得ている個体、つまり高い平均「得点(pay-off)」を受けている個体は、遺伝子プール内に多数の遺伝子を残す個体である。 この実際の数値はかなり広い範囲内でどのようにとっても分析に差し支えない性質のものであるが、われわれがこの問題を考えるうえでは役に立つ。
 重要なのは、タカ派がハト派と戦ったときハト派に勝かどうかが問題なのではないという点である。その答えはすでに分かっている。いつでもタカ派が勝に決まっている。 われわれが知りたいのは、タカ派型とハト派型のどちらが進化的に安定な戦略(ESS)なのかどうかということである。もし片方がESSで他方がそうでないのであれば、ESSである方が進化すると考えねばならない。2つのESSがあることも理論的にはあり得る。 もし、個体群の大勢を占める戦略がたまたまタカ派型であろうとハト派型であろうと、ある個体にとって最善の戦略は先例にならうということであったなら、このことが言える。この場合、個体群は2つの安定状態のどちらでもよいから、たまたま先に到達した方に固執することになろう。 しかし、次に述べるように、実は、タカ派とハト派という2つの戦略はどちらもそれ自体では、進化的に安定ではない。従って、どちらが進化すると期待するわけにはいかない。 このことを示すには、平均得点を計算しなければならない。
 全員ハト派からなる個体群があるとしよう。彼らは戦っても、だれも傷つかない。争いはおそらく長い儀式的な試合、あるいはにらみ合いであって、どちらかが引き下がったときに決着がつく。 このとき勝者は、戦って資源を手に入れたので50点を得るが、にらみ合いに長い時間をかけたのでマイナス10点の罰金を払うため、結局40点になる。 敗者もやはり時間を浪費したので10点引かれる。平均するとハト派の個体はいずれも争いの半数に勝ち、半数に負けるものと考えられる。 従って、一戦あたりの彼の得点はプラス40とマイナス10に平均、プラス15点である。というわけで、ハト派の個体群中ハト派個体はすべてたいへんうまくやっているように思われる。
 ところが今、この個体群にタカ派型の突然変異個体があらわれたとしよう。彼はここで唯一のタカはなので、戦う相手すべてハト派である。タカ派の遺伝子は必ずハト派に勝ので、彼はすべての戦いでプラス50点を獲得し、これが彼の平均点となる。 彼は、正味15点しかないハト派に比べて厖大な利益を享受する。その結果、タカ派の遺伝子は、その個体群内に急速に広まるであろう。 しかし、そうなると、タカ派の各個体、もはや出会ったライバルがすべてハト派であると期待するわけにはいかなくなる。極端な例をあげるなら、タカ派の遺伝子が首尾良く広まって、個体群全体がタカ派になった場合、今度はすべての戦いがタカ派どうしの戦いになるはずである。 今や、事情は一変する。タカ派の個体同士が出会うと、片方が怪我をするのでマイナス100点となり、勝者はプラス50点をとる。タカ派個体群の各個体は戦いの半数に勝ち、半数に負けると考えられる。 したがって、1戦あたりの平均得点は、プラス50とマイナス100の平均、すなわちマイナス25点である。ここで、タカ派の個体群内にハト派は1個体いるとしてみよう。 たしかに、彼はすべての戦いに負けるが、その一方で決して怪我をすることはない。タカ派個体群内のタカ派の平均得点がマイナス25点であるのに対して、彼の平均得点は、タカ派個体群内ではゼロである。したがって、ハト派の遺伝子はその個体群内に広まる傾向がある。
 この話の語り口からすると、あたかも個体群内にたえず震動があるように思われるかもしれない。タカ派の遺伝子は圧勝して優性を占める。すると大半がタカ派になる結果、ハト派の遺伝子が有利になり数を増やしていく。 やがてハトはが多くなると、再びタカ派の遺伝子が栄え始める、という具合に。しかし、このような震動の起こる必要はない。どこかに、タカ派とハト派の安定した比率が存在するのである。 われわれが用いている任意の得点システムから計算してみると、安定した比率は、ハト派が12分の5、タカ派が12分の7であることがわかる。 この安定した比率に達すると、タカ派の平均得点とハト派の平均得点がちょうど等しくなる。このため、淘汰が一方より他方に有利にはたらくことはなくなる。 もし個体群内のタカ派の数が次第に上がり始め、その比率が12分の7以上になると、ハト派が余分の利益を受け始め、その比率がもとにもどって、安定状態になる。 安定した比は50対50であるのと同様に、この仮定的例では、タカ派対ハト派の比が7対5なのだ。どちらの場合も、安定点付近で震動があったとしても、それは非常に大きなものになることはない。 (『利己的な遺伝子』から)
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<エゴイストでも状況次第で協調する>  はたして、エゴイストとは常に他人を押しのけて生きてゆくものだろうか。エゴイストが、自発的に他人と協調することはあり得ないのだろうか。彼らは、中央の権力の強制されなければ、協調などしないのだろうか。 この問題は、長い間人々の興味をそそってきた。そもそも、人間は天使ではないのである。人間は、ついつい自分と自分の一番身近なものに心を奪われてしまう。 エゴイストが協調するかどうかという問題は、他人事ではないのである。一方、たしかに私たちには協調しあう場合もある。私たちの文明そのものも、協調関係のうえに成り立っている。 それでは、一人ひとりがエゴイストの誘惑にかられている中で、協調関係はどのように発達し得るのだろうか。
 この問いにどう答えるか、それは私たち1人ひとりの社会的、政治的、経済的な人間関係に大きな影響を及ぼす。また、他人がどういう解答を出してくるかによって、どの程度彼らが私たちに協調しようとしているかが、大きく左右される。
 なかでも、今から300年以上前にトマス・ホッブズが出した答えが、最も有名である。彼の答えは悲観的であった。彼の考えでは、統治機関が生まれる前は、エゴイストの問題が巷に溢れていたという。 人間の生活は「孤独で貧しく、陰険かつ残酷で、しかも短い」という過酷な条件のもとに営まれ、そのことで人々は闘争状態にあったのである(Hobbes 1651/1962,p,100)。 彼の考えによると、協調関係は中央の権力なしには発展し得ないものであり、だからこそ強い政治組織が必要だということになった。ホッブス以来、政治組織の本来あるべき姿について議論するときには、権力による統治を抜きにしても協調関係が生まれることを期待できるかどうかが、しばしば焦点となった。
 今日、国と国がつき合うときには、間に立つべき中央の権力など存在しない。だから、協調関係が出現するために何が必要かという問題は、国際政治の中心課題と深く関わっている。 その中でも得に大切な問題は、安全保証のジレンマである。すなわち、国家はよく自国の安全を守るために他国のそれを侵害することがある。 これは、地域紛争の激化や軍拡競争という形でよく問題となる。同盟国間の内輪もめ、関税交渉、キプロスで起きたような自治をめぐる紛争もこれに関連があり、やはり国際関係において生じた問題である。
 1979年に勃発したソ連のアフガニスタン侵攻は、典型的な選択のジレンマの中にアメリカを追い込んだ。アメリカはソ連と今まで通りの取引を続けると、ソ連は図に乗って、さらに非協力的な行動をとってくるかもしれない、かといって、アメリカが協調的態度を翻し、報復的態度に転ずると、ますます冷たい関係に陥り、互いの敵対行動が容易には収拾がつかなくなる恐れがある。 外交政策に関する国内の論争の多くは、まさにこうしたジレンマに深く関わっている。そのため、かなり難しい選択を迫られてくるわけである。
 身近な問題でも似たようなことがある。私たちは、何度もこちらが夕食に招待しているのに、1度もお返しに招いてくれない知人に対して、何回くらいで招待するのをやめようかと考えることもあるかもしれない。 組織の幹部が他の幹部の肩を持つのは、後でお返しに自分の味方をしてもらいたいためである。ジャーナリストが特ダネの情報源をあえて秘匿するのは、そうすれば今後も特ダネを入手できると期待しているからである。 ある業界の企業が高い価格を設定するのは、同じ業界の他の企業もこちらに合わせて値を吊り上げ、維持してくれると期待しているからである。 消費者に大きな出費をさせた方がどちらも儲かるのである。 (『つきあい方の科学』から)
 本書で展開する協調関係の理論は、あくまで1人ひとりが自分が自分自身の利益を追求すべく行動するという前提に立ち、その研究をもとに書かれたもので、何らかの中央の権力が人々を互いに協調し合うよう強制しているといったような前提に立ったものではない。 自分の利益を追求すると仮定した理由は、協調とはいっても、他人のため、グループ全体の幸せのためとは言い切れないようなややこしい場合をも含めて考えられるからである。 しかし、この仮定は、さまざまな協調関係の解析にどんどん適用しても差し支えないということは強調しておこう。もし姉が弟の幸福を望むならば、弟の幸福への思いは(数ある姉の関心事とともに)姉自身の利益の一部であるとみなせる。 しかし、だからといって姉弟が争う可能性がなくなると考える必要はない。同様に、国家も友好国の利益をある程度勘定に入れて行動するかも知れないが、このように考慮するとしても、友好国がいつも互いの利益を求めて強調するということにはならない。 以上のように、自分の利益を追求するという仮定は単なる仮定にすぎないものであり、他人への関心という視点から考えようとすると、いつ強調し、いつ強調しないかという問いかけに答えきれない場合が出てきてしまうのである。
 強調関係の基本問題として、2国間の貿易で関税障壁のある場合を考えてみよう。自由貿易は互いに利点があるので、障壁がない方が双方とも都合がよい。 だが、一方の国だけしか障壁を撤廃しなかった場合には、撤廃した方だけが一方的に経済的打撃を被るはめになる。実際、相手が撤廃しようとするまいと、自国の障壁はあった方が得なのである。 したがって、どちらの国も障壁を撤廃しようとしなくなる。これは、両国が協調して撤廃した場合に比べ、ともに不利な事態に甘んじることになる。
 こうした問題は、それぞれが別々に自分の利益を追求すると、かえって両方とも損をしてしまう場合に生じる。この種の事情を抱えた状況はゴマンとあるが、それらをすっきりと理解するために、細かい部分に捉われずに、共通点を反映した場面設定が欲しいところである。 幸い、有名な「囚人のジレンマ」ゲームがうまく利用できる。 (『つきあい方の科学』から)
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<タカとハト>  ライオン同士が戦うときは、獲物を襲うときのように相手の息の根を止めるほど残忍になることはほとんどない。 魚は攻撃的になると頑丈な顎で噛みつきあいもするが、激しい争いになっても、たとえばただわき腹に噛みつく程度のことでは相手を傷つけるまでにはならないだろう。 ビッグホーンは傍らから見ると死んでもおかしくないと思うほど思いきり頭をぶつけ合うが、体の構造上、このような激しい頭突きに問題なく耐えられる。 ガラガラヘビの場合は自分の毒に免疫がないので、噛まれたら死んでしまう。だが、戦うときは大抵背中を押しつけあうので、偶然にも医術の象徴のカドゥケウス[ギリシャ神話の医術の神アスクレピオスが持っていた杖で、2匹のヘビが巻きついている]を思わせる奇妙な体勢になるが、 これはまた相手を死なせずに争いを解決する手段にもなる。負けた側が噛みつかれることはめったになく、たいていはするすると逃げて行くだけだ。
 これらの事例をはじめとする動物の抑制行動はほぼ20世紀を通じて過大視され、その傾向は、殺傷力のある攻撃手段をもつ動物は殺し合わないとした動物学者コンラート・ローレンツの主張で頂点に達した。 現在では、この見解は正しくないことが判っている。狼、ライオン、さらにはチンパンジーまでが殺しをする。これでもこの説は、古くからの格言に似て、見るべき点が数多くある。 相手を徹底的に痛めつける力のある動物は、同種の仲間にそうするのを控えることが多いのである。
 数十年のあいだ、この抑制行動に気づいた生物学者は、これを注目すべき現象とみなして深い関心を寄せたが、予想外のことだとは思わなかった。 進化は「種の保存のため」に起こると長い間考えられていたためだ。この見方は動物の情け深さ、すなわち攻撃制御の事例によっていっそう固められた。
「動物がしばしば殺し合いを控えるのは言うまでもないことで、これは種のためなのである」とされたのである。いまはそうではない。 現在、進化は種の保存のためではなく、個体間と──それ以上に──競い合う遺伝子間に成功の度合いの差があるために起こることが広く知られている(遺伝子は種の保存のためにいつも自己を犠牲にしていたとしよう。 そこへ、種ではなく自己のことだけを気遣う遺伝子が現れた。利己的な遺伝子は優位に立ち、利己的でない周囲の遺伝子を犠牲にしながら機敏に立ち回って、その後の世代に受け継がれたのである)。
 いまでは、種とは単に個体とその遺伝子の集合と見なされ、個体間および遺伝子間の競争が自然選択のはたらく舞台だと理解されている。
 ここで厄介な問題にぶつかる。もし進化が種という大きな集合としてではなく、個体および遺伝子としての成功に褒美を与えるのだとしたら、致命的な攻撃をしないというすばらしい事例をどう説明すればよいのだろう。 種のためでないなら、なぜ行動を制御する個体がいるのだろうか。凶暴なほうが適応度が高い(繁殖の利得がより大きい)としたら、なぜすべての個体が激しやすいわけではないのか。 逆に、もし暴力的でない方が利得が大きいとしたら、なぜ動物は非暴力運動の手本とならないのか。
 解釈は多数あり、そのほとんどが関連しあっている。なかでもゲーム理論の立場から興味深い説明は、イギリスの進化論者ジョン・メイナード=スミスとアメリカの数学者ジョージ・プライスが「動物における闘争の論理」と題する論文で初めて示した説だった。 動物が闘争したり、驚くほどしばしば抑制行動をとったり、凶暴な個体とそうでない個体が(相手を消滅させることなく)同じ個体群の中に共存したりするのは、動物がゲームをしている結果だと2人は考えたのである。この論文はゲーム理論と動物行動の研究を関連づける土台となった。
 メイナード・スミスとプライスが確信敵研究の主眼として初めて打ち出した古典的モデルは、「タカハトゲーム」として知られている。
 2種類の個体があると想像してほしい。タカ派とハト派である。両者はあらゆる点で同じだが、競争に対する反応だけが違う(また、両者は鳥とは限らない)。タカは相手を威嚇し、必要とあらば戦う。ハトは暴力的な闘争を避ける平和主義者だ。まず、すべてがハトの個体群を想像しよう。 さらに、彼らは腹を空かせているが、さいわい生息地のあちらこちらに餌があると考えてほしい。ハトはハトと遭遇し、近くに餌があったとすると、両者は餌を半分ずつ分け合う。 揉めごとも喧嘩も起こらない。このモデルにもう少し現実味を加えるため、それぞれ少々のコスト(損失)もあるとしよう。友好的であることを身振りで相手に分からせるには、いくらか時間がかかるからだ。
 このハトの楽園にタカが現われる。タカは喧嘩っ早く、誰とも餌を分けようとしない。そこでタカとハトが遭遇すると、タカは威嚇して戦う姿勢を示し、ハトはすぐさま引き下がる。 結果はどうだろう。餌はすべてタカが奪い、ハトには何もない。しかし、タカ同士が出合うとどちらも引き下がらず、喧嘩になる。最終的にはどちらかが勝ち、餌を独り占めする。タカ同士の戦いでは、それぞれの勝率は5割なので手に入れる餌も半分になり、ハト同士が出合ったときと同じである。 この2つの戦略の大きな違いは、タカの場合は喧嘩なしでは済まないことだ。タカとタカの戦いは、体力を消耗する、怪我をする、命を落とす恐れがあるなど、両者に大きなコストがある。
 次に示すのは「タカハトゲーム」の非常に単純な利得表である。このゲームは対称ゲームなので、表上のプレーヤーの利得だけが示されている。
それぞれの利得\出合う相手 ハ  ト タ  カ
ハ  ト (1/2の餌)−(友好を示すためのコスト)
タ  カ すべての餌 (1/2の餌)−(戦いのコスト)

 面白い動きが生じる。ハトばかりの個体群の中にやってきたタカの運命を考えてみよう。タカは優勢になり、数を増やすだろう。 ハトと遭遇すると餌を独占できるので、ハトよりも常に栄養状態がいいはずだからだ。だが、時とともにタカがどんどん増えてハトが減っていくと、タカ同士がかち合うようになる。 するとどうなるか。まず威嚇して「猛々しく」振る舞うが、どちらも引き下がらない。はとが大半を占めていた世界ではうまくやっていたタカも、タカの割合が増えてタカ対タカの衝突が避けられなくなるにつれて、苦しい状況に追い込まれていく。 ハトはタカと出合うとまったく餌にありつけないのでいいところなしだが、それでもマイナスの利得(戦いのコスト)になるリスクは冒さない。 そのうえ、出合ったのが運良くはとなら餌を半分受け取れるし──これはタカ対タカのときも同じ──ひどい目に遭わされることもないのだ! ハトがハトであることを相手のハトに示すのに時間がかかるとしても、タカがタカと出くわして戦うときのコストほど大きくないと考えていいだろう。
 以上を考え合わせると、こういうことになる。つまりハトが多いときには、おとなしい平和主義者ばかりのなかで容易に餌を手に入れられるタカが優勢になる。 ところが、タカは数を増すにつれてハトよりも苦しい状況になっていく。成功の中に滅亡の萌芽が隠れているのだ。こうなるとハトが優勢になって数を増やすが、それによって再びタカの侵略を受ける道を開くことになる。 要するに、どちらも数を減らすと成功し、数を増やすと失敗するのだ。均衡状態になると、タカは平均してハトと同じ利得を得るだろう。換言すれば、タカもハトも進化上の利得はまったく同じになり、したがって同じ割合で繁殖する。 この均衡状態において、タカ戦略もハト戦略も等しくすぐれた戦略だ。タカハト状態は進化的に安定し得ると生物学者が言うのは、そういう意味なのである。
 だからと言って、タカとハトが同数になると言うことではない。猟師ドリと海賊ドリ、貯め込み屋とたかり屋のキツツキが同数である必要がないのと同じ理屈だ。 均衡状態では、平均してタカとハトが同じように成功するということである。均衡点に達すると、タカとハト──この戦略をとるどんな動物も──の比率は保たれ、動かなくなる。 では正確に何羽なのかというとそれは利得次第であり、さらにその利得は、争いのもとになっている資源の利得と戦いのコスト(タカの場合)および友好を示すためのコスト(ハトの場合)次第なのである。
 メイナード=スミスとプライスのモデルでは、資源の値は10、タカ同士の争いによるコストは20、ハトがたがいに友好を示すために費やす時間のコストは3と任意に決められた。 この値で計算すると、タカが個体群全体の8/13、ハトが5/13を占めるときに均衡状態になる。あるいは1個体が戦略を使い分けてもいい。各個体が8/13の比率でタカ戦略、5/13の比率でハト戦略をとれば安定するだろう。 どちらも数学的には同じ結果だが、生物学的にはまったく違う。前者は個々の戦略が決まっていて変えられないのだから、無脊椎動物などの単純な構造の生物と考えられるし、後者は行動に柔軟性のある個体ということで、鳥類や哺乳類のような比較的に脳の大きい脊椎度yぶつにとくにあてはまるだろう。
 タカ対ハトの比率の均衡点がこうなるのは、少しも不思議ではない。すべて利得の値によって決まるのである。比率が利得の値によって決まることは直観的にわかるだろう。 たとえばこう考えてみよう。もし戦いのコストが大きくなれば、均衡点でのタカの比率が低くなるのは当然だ。タカ同士が争って死んだりひどい怪我を負ったりする可能性が高まると、タカの平均利得が小さくなるはずだから、タカが少なくなってハトが多くなると予想が立つ。 同じように、もしほかの条件が同じで遡源の利得の値が大きくなったら、タカの比率は増え、ハトは徐々に減少するだろう。これも分かりやすい。 貴重なものを手に入れるには危険を冒さなくてはならないのだ。そして、ハト同士が相手に自分がハトであることを分からせるために時間と労力が多少でも増えれば、タカの増加につながるはずである。
 ここでの重要な要素は、資源(この場合は餌)の値とそれをめぐる争いで生じるコストの関係である。もし、資源の値がそれを得るためのコストよりも大きければ、タカハトゲームは囚人のジレンマとなり、争い(裏切り)が支配戦略となってタカが優勢になるだろう…… ハト対タカの協調関係を結べば、両者にとってもっと望ましい結果になるのだが。しかし、もし資源の値がコストよりも小さいとしたら、タカハトゲームはチキンゲームとなり、タカもハトも資源とコストの値によって正確に決まった比率を維持することになる。 (『ゲーム理論の愉しみ方』から)
<徳行の経済学> これまで本書では、人間の間の繋がりは、ほとんどの動物の間に見られる繋がりと同様に非自発的なものだと仮定してきた。すなわち、英雄的な男らしい男はもともとあなたの周りにいるのであって、つき合おうとしてわざわざあなたが選んだのではあに。その限りでは、押しの強い性格を持つことは、そうした性格の人が多すぎない限り利点がある。
 だが、共同事業者、雇用主・従業員関係といった自発的な繋がりについてな、このようなことは当てはまらない。誰かを協力者に選ぼうとする場合には、押しの強い人はリストかの一番下に下げられる。だから職を得られ見込みが減ったり、結婚できるチャンスが少なくなる。
 自発的なつき合いが行われる社会では、それと異なる戦術をとる方が得をする。思いやりがあり、礼儀正しい人として知られた者、決して他人を利己的に利用しない人、誰も見てなくても決して盗みをしないような人──これらの人は雇用主、従業員、共同経営者、あるいは配偶者として望ましい人物である。他の人たちが正しくその人の性格を読みとっている限り、良い男だろうと自分を鍛えることは、その人にとって自分中心に考えても利益になる。正直な人を雇うことは、窃盗を働かれる費用だけでなく、窃盗を防ぐ費用も節約でき、その節約額は正直な人を雇うことは、正直な人と不正直な人が受ける報酬の差となって表れる。
 この場合にも、理由こそ異なれ、タカ・ハト均衡に似たようなことが考えられる。もしほとんどすべての人たちが正直者であったら、特定の人物がどれほど正直かということに多大な関心を払う必要はなく、したがって、正直者のふりをしながら悪事をうまくやれると思うときには人をだます、猫っかぶり戦術がうまく行くのだ。猫っかぶり屋の数が増えるに連れて、他の人たちが彼らを見分けるために注意を払うようになる。両方の戦術から得られる利益が等しくなったとき、正直者に対する猫っかぶり屋の均衡比率が達成される。
 なぜ人々が良い子になっているのか、あるいはそうでないのかを理解するためのこうしたやり方には、興味深い示唆が見られる。悪人、すなわち押しの強い人間であることは、人々の間の繋がりが非自発的である場合には得である。善人であることは、繋がりが自発的である場合には得である。人々の繋がりが自発的な社会のほうが、非自発的な社会よりも相対的に正直で高圧的でない善良な人が多いと考えられる。 (『日常生活を経済学する』から)
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<悪人同士の会話=日本で死刑が廃止されると……> 日本で死刑が廃止されるとどうなるか?こんな寓話を考えてみた。
 日本で死刑が廃止された頃、世界のある貧しい国で生活に困った若者が将来について話し合っていた。
A 「どうする。オレたち、この国にいても将来性はない。政治も経済も治安もまるでなっていない。外国に行って稼ごうと思うのだけど、どう思う?」
B 「そうだな。この国にいても将来どうにもならない。それは分かっているけど、どうすればいいのだ?」
C 「オレもそう思う。だけどどうすればいいのか分からない」
A 「そこでだ、どこか先進国に行って荒仕事をしようと思う」
B 「オレもそれは考えたけど、何処へ行って何をするかだ?」
C 「先進国に行って肉体仕事をすれば、それはこの国にいるよりは良い生活は出来るかも知れない」
B 「けれど、その国では最低の生活だ。この国はみんなが貧乏だから感じないけど、先進国へ行って、その国の底辺で暮らすのは辛いぞ」
A 「ハッキリ言おう。日本へ行って、金持ちからちょっと恵んでもらうのだ」
C 「金持ちから恵んでもらうなんて、ちょっと甘い考えじゃあないのかな?」
B 「どうやって恵んでもらうのだ?」
A 「それさ。日本では、近くの国から荒仕事しに来ている連中がいる。「蛇頭」とか何とかいうグループがあるらしい」
C 「それって、窃盗グループじゃあないのか?」
B 「何でも、日本では、そのグループや他の国から窃盗・強盗を目的に来ている連中がいるらしい」
C 「地球の反対側から来ている連中もいるらしい」
B 「そう言えば、どこかの国は、日本と犯人引渡条約を結んでいないので、日本で悪いことしても、本国に帰れば捕まらないらしい」
C 「でもオレたちの国はだめだ。捕まって日本に送られる」
A 「残念ながらその通り。しかし、ポイントは「日本では死刑が廃止された」ということさ」
B 「それが、どういう意味がある?」
A 「日本では、人を殺しても死刑にはならない」
B 「だからどうなんだ?」
A 「死刑が廃止されたということは、人権主義者が力を持ったということであり、犯人の人権も尊重されるようになった、ということだ」
C 「法律を犯しても、重い刑にはならない、ということか?」
A 「犯した罪と、その人間がどのような環境で育ってきたかが問題になる」
B 「つまり、オレたちが、国で苦しい生活をしてきた、ということが刑を軽減させる要因になる、ということだな?」
C 「そう言えば、オレたちの国では考えられないけれど、日本では「死刑囚に同情的な市民運動が盛んだ」と聞いている」
A 「日本の人権主義とは、 「すべての人間の人権を尊重し、たとえ殺人犯といえどもその人権は尊重されるべきだ」 との思想なのだ」
B 「人を殺しても、死刑にはならないし、オレたちの苦しい子供時代を考慮して、刑が軽くなる、ということだ」
A 「判決を言い渡したあとで、裁判長がこんなことを言う。「法廷で、大変なことをしてしまった、という反省の気持ちが伝わって来なかったのは事実です。それがいらだちを感じます。姉歯被告はどこまで責任を感じているのでしょうか」と」
C 「公判で、とにかく「悪うございました」と反省の態度を示せば刑が軽くなる、ということだな」
B 「日本もいいけれど、アメリカはどうなんだ?」
A 「アメリカでは警察官が現場で簡易死刑執行(summary execution)と言われる実質的な死刑に処することがある」
C 「一般人も銃の扱いに馴れているから、侮(あなどれ)れない」
B 「たしかに、日本では言霊が信じられているし、空想平和主義は多くの人に支持されている」
A 「歴史で習ったことがある。第1世界大戦後のフランスでは「とにかく戦争はイヤだ」、の厭世気分でナチやフランコの台頭を許してしまった」
C 「日本では、「とにかく残虐な死刑は良くない」との考えから、犯人にも甘い風潮になっている」
B 「金持ちが多いこと、死刑がないこと。これが日本を推薦するポイントだな?」
A 「その通り。日本は先進国に中では治安が良く、それだけに危機管理意識がない。荒仕事しに行くには日本が最適だ」
C 「仕事の前に、市民活動家と仲良くなっておくと、仕事がし易いな」
B 「新聞社の中には、「弱者の味方になることこそリベラルだ」との正義論を持っている記者もいるらしいぞ」
A 「ゲームの理論の、「ハト社会にタカが侵入したらどうなるか?」を考えると、なぜ日本で荒仕事すべきかが良く分かるはずだ」
C 「分かった、流石は、オレたち貧民階層を代表する「アマチュアエコノミスト」だ。筋が通っている」
B 「悪党のF1ハイブリッドだな。自家不和合性には陥っていない」
 このようにして、ABC の3人は仲間を募って日本へと荒仕事をするために行くことになった。こうして、 ハト社会日本にタカが侵入してくることになった。タカが多くなったことで、タカ同士の争いも激しくなった。荒仕事目的のガイジン同士の喧嘩や、殺し合いまで起こるようになった。 けれども、死刑廃止と直接結びつけて「死刑廃止によって凶悪犯罪が増えた」との理論をたてて「死刑復活」を主張する法曹界の人はいなかった。法曹界全体の宗旨に反することを言う勇気を持った「臍曲がり」はいなかった。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』       リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋書店   2006. 5. 5
『利己的な遺伝子』       リチャード・ドーキンス 日高敏隆他訳 紀伊国屋書店   1991. 2.28
『ゲーム理論の愉しみ方』  デイヴィッド・P・バラシュ 桃井緑美子訳 河出書房新社   2005.12.30
『つきあい方の科学』         R・アクセルロッド 松田祐之訳 ミネルヴァ書房  1998. 5.20 
『アナーキー・国家・ユートピア』   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上  ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下  ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社      1989. 4.15
『日常生活を経済学する』         D.フリードマン 上原一男訳 日本経済新聞社  1999.11.17
( 2007年8月27日 TANAKA1942b )
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(24)他業種からの考え方を移入すると
雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待
 このホームページは「死刑制度は存続さすべきだ」と主張しながら、経済学の視点から法曹界を批判しようと考えて書き始めた。 「死刑制度を存続さすべきだ」との主張は、「死刑が廃止されると、現実と法体系との間に矛盾が生じる」がポイントになる。これについては今まで多く書いてきた。 そして、後半部分では法曹界について、「他部門の知識・知恵が生かされていない。視野狭窄になっている」と批判している。そして、生物学・進化論やゲームの理論を取り上げてきた。 今週はその続きとして、育種学・品種改良の部門からの知識・知恵を取り上げることにした。
 品種改良のポイントは、同一種の間で性質の大きく違ったものを掛け合わせることによって、新しい品種が誕生する。メンデルの法則から説明できるように、一代雑種(F1ハイブリッド)では、両親の良いところが現れる。 逆に、同じ品種のものを掛け合わせていくと、両親の劣勢部分が現れる。これを「自家不和合性」と言う。
 そうした品種改良の技法を理解すると、同じ様な人たち、同一業界内だけで議論していると、議論の品種改良が進まない、というのがTANAKAの考え方だ。そこで、今週は育種学・品種改良の分野での知識・知恵といったものを取り上げることにした。 今まで同様、直接的に「死刑は存続さすべきだ」との主張に結びつかないが、問題を広く、高い見地から考えるヒントになると思う。 法律や経済学とは違った分野なので、少し頭の回転を変えなければならないだろうが、そうすることによって、今までとは違った視点に立つことができ、新鮮な発想が生まれる可能性が出ると思う。
 ここに取り上げた文章は「日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論」や「地産地消という保護貿易政策」 からの引用なので、そちらを参照してもらえば、さらに良く理解できると思います。
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<近親結婚はしないよ> 「直系血族又は親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」という定めがある。これは、民法第743条の「近親婚の制限」である。私たちは法律で、近親間の結婚を禁じられているのだ。その理由は、「同じ性質を持つ近縁なもの同士の有性生殖は、性質の組み換えが起こりにくく、生物には利益がない。利益が無いばかりでなく、隠されていた悪い性質が発現する可能性があり、生物種にとっては、むしろ害である場合が多い」からである。
 多くの植物の花の中には、オシベとメシベがある。オシベとメシベはそれぞれ、オスとメスの生殖器官である。だから、自分の花粉を自分のメシベにつけて、一人で生殖することができる。しかし、植物が自分の花粉を自分のメシベにつけ、一人で生殖することは、近親結婚の典型である。 この場合、個体数は増えるが、親のもつ性質の分身が生じるに過ぎない。「暑さに弱い」「寒さに弱い」「病気になりやすい」などの遺伝的な性質がまったく変化することなく、親から子へ伝わるだけである。生物にとって、これは好ましくない。 生物が子孫をつくる意義は、個体数を増やすことだけではない。オスとメスという2つの個体の性質を混ぜ合わせ、多様な性質の子孫をつくり出すことである。同じ性質のものばかりでは、それらに都合の悪い環境変化が起きた場合、その生物種は全滅してしまう。
 いろいろな性質の個体がいれば、いろいろな環境に耐えて、その中のどれかが生き残る可能性がある。つまり、多様な性質の個体が存在すれば、その生物種の環境への適応能力が幅広くなる。その種族が生き残るのに役立ち、地球上に存続していくことができる。 子孫が多様な性質を獲得する方法が、性の分化に基づく生殖(有性生殖)である。有性生殖では、オスの精子とメスの卵が合体する。その結果、オスとメスの遺伝的な性質が混ぜ合わされる。親の性質が混ぜ合わされ、組み合わせが変えられ、生まれる個体は、それぞれの親とは異なった性質を身につける。 植物にもオスとメスに分かれているものがある。メシベのない雄花だけを咲かせる雄株、オシベのない雌花だけを咲かせる雌株が別々の植物がいる。イチョウ、サンショウ、キーウイ、アスパラガスやホウレンソウなどである。これらは、動物と同じように、オスとメスの区別があることになる。この場合、自分の花粉が自分のメシベにつくことはない。 しかし、多くの植物は、一つの花の中にオシベ、メシベをもっている。このような植物たちも、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子を残すことを望んではあない。だから、植物たちは、工夫を凝らし巧妙はしくみを身につけて、自分の花粉が自分のメシベについて子孫(種子)ができることを避けている。
 花を見れば、オシベとメシベは離れている。「もっと仲良く、くっついていればいいのに」と思うが、1つの花の中で、オシベはメシベを避けるように、そっぽを向いている。そっぽを向くだけでなく、高さ、長さを変えているものも多い。オシベがメシベより長かったり、逆に、メシベがオシベより長かったりする。花を1つの家族とすれば、夫婦が接触することを避けあっている「家庭内別居」の状態といえる。 もっと、巧妙なしくみを身につけた植物もいり。1つの花の中にあるオシベとメシベの熟す時期をずらすのだ。たとえば、モクレンやオオバコのメシベは、オシベより先に熟し、オシベが花粉を出すころには萎えてしまう。逆に、キキョウ、ユキノシタやホウセンカのオシベはメシベより先に熟して花粉を放出する。メシベが熟すときには、まわりのオシベに花粉はない。だから、同じ花の中で、種子はできない。その性質は、「雌雄異熟(しゆういじゅく)」というむつかしい語で呼ぶが、私たち人間でいえば、「すれ違い夫婦」の様な状態である。  (『ふしぎの植物学』から)
<遺伝学の基礎=メンデルの法則>  赤い花と白い花を交配するとその子(F1)は赤い花となり、そのF1の自殖で得た子(F2)を100株育てると、赤い花が全体の3/4、白い花が1/4となる。赤白の違いが1遺伝子によって決まっていて、赤が優性のときに、F1が赤い花となり、F2で赤と白が3:1に分離する。 赤の遺伝子をA、白の遺伝子をaとすると、赤花の親の遺伝子型はAA、白花の親の遺伝子型はaaであり、F1の遺伝子型はAa、F2の遺伝子型はAAが1/4、Aaが2/4、aaが1/4となり、Aがaに対し優性でAaの株は優性の性質である赤花となると考えることにより説明できる。 AAやaaのように同じ遺伝子をペアでもつものをホモ接合体、Aaをヘテロ接合体といい、F1で優性の性質が現れることを「優性の法則」、F2で両親の特性が3:1に分離することを「分離の法則」という。
 遺伝の法則がこれだけでは、違うものを交配しても何も新しい特性のものが生まれてくる訳ではなく、面白くもない。メンデルが明らかにしたもう1つの法則が、品種改良を行う上で重要な法則、2つの独立した遺伝子の関係だ。赤花で正常な形の花を持つホモ接合体の親、白花で切れ弁の花をもつホモ接合体の親があり、赤花が白花に対して優性で、正常花が優性で切れ弁が劣性とする。 F1では全てが赤花で正常花。F2では赤花の正常花が9/16、赤花の切れ弁が3/16、白花の正常花が3/16、白花の切れ弁が1/16に分離するというものだ。ここで重要なことは、「親とは異なる新しいタイプである、赤花の切れ弁や白花の正常花が得られること」なのだ。このように親とは違う特質をもつ種類が得られることになる。これを「独立の法則」という。
 このメンデルの法則が正しいことは証明されているが、実際はこれほど単純ではない。たとえば、直径10cmの大輪花と直径3cmの小輪花を交配しても、単純にF2で10cmの大輪花と3cmの小輪花が3:1で分離するわけではなく、大輪花から小輪花まで連続して分離する。10cm以上、3cm以下の花が分離することもある。6cmの中輪花のものを選んで自殖し続けると、だんだん花径の変異の幅が狭くなり、数世代続けると花径がほぼ均一となり新しい中輪の系統を得ることになる。これを「品種が固定化された」という。
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<農産物の育種法> 農産物は品種改良によって消費者に気に入られるように変化・改良されていく。その方法を簡単にまとめてみた。
選抜育種法 は気に入らない品種を捨てていく育種法。自然界では強いものだけが子孫を残せる。ダーウィンの仮説によれば「生物は自然選択によって環境に適応するように進化する」との表現になる。育種では自然のままでは生きていけないような弱い品種でも、人間に気に入られれば子孫を残すことになる。コシヒカリは人間が栽培しなければ、自然のままでは、自分だけでは子孫を繁栄させることができず、やがて絶滅する。ただし、この育種法では突然変異でもなければ急激な改良はできない。
 メンデル以前の品種改良方法。江戸時代には武士、町人が花の品種改良を道楽としていた。ポイントはいいものをさらに育て、いらないものを捨てていく。この捨てることができず、もったいないと思っていると品種は改良されない。分離育種法、集団選抜法、循環選抜法などの言葉がこれに関係している。
交雑育種法 は2つの品種の良いところを生かした子孫を作る。両親の良い点が現れている。何代かに渡って品種を固定するので、固定種又は在来種となっていく。コシヒカリを始め、日本のイネはこの方法に依るものが多い。自家採種ができる。植物の混血児を作るようなこと。 突然変異利用、純系選抜法、系統育種法、集団育種法、派生系統育種法、合成品種育種法などの言葉がこれに関係している。
導入育種法  は「ただよそから持って来ただけだ」として育種法として取り上げてない文献もある。南北アメリカからヨーロッパに導入され、それが日本にまで伝えられた作物は多い。白菜のようにまるで日本に古くからあるように馴染んでしまった野菜も多い。アブラナ科の野菜には、露地栽培しているとミツバチなどによって他のアブラナ科の植物と自然交配され、代が進むごとに野生種に近くなり、野菜としての商品価値がなくなるものが多い。
一代雑種育種法 は2つの品種の隠れていた良いところを生かした子孫をつくる。潜在的には持っていたが現実には現れていなかった両親のよい性格が受け継がれている。よい性格は一代目だけ、代が進むと平凡な品種になる。「鳶が鷹を生んだ」とはこのこと。
 F1ハイブリッドという言葉によって全く新しい、アメリカから導入されたハイテクのように思う人もいるかも知れない。しかしメンデルの法則の第1実用化者は日本人、外山亀太郎博士が1915(大正4)年に蚕のハイブリッド品種を実用化し、 そのとき育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く市域された。 野菜の一代雑種は埼玉県農試の柿崎洋一が大正13年に、埼交茄と玉交茄の2品種を育成し、その種子を農家に配布した。これが日本で最初で世界で最初の野菜の一代雑種だった。
細胞育種法 はポマト(ポテトXトマト)の誕生で一時大きな期待が持たれたが、全く新しい植物の誕生は期待出来ないとなった。現在ではウィルスフリーなど、性質の一部を変える技術として利用されている。特定の品種にある性質を加えたり、あるいは取り除いたり、その利用方法は遺伝子組み換えに受け継がれていく。 葯を培養する方法と細胞を培養する方法がある。花よりも野菜に多く利用されている。組織培養技術利用、半数体育種法、胚培養、花粉培養、細胞融合、バイオテクノロジーなどの言葉が関係している。
遺伝子組み換え育種法 はある品種に他の品種又は、他の植物の持っている良い性質を加えた子孫を作る。ポマトのような新品種は期待できない。親の欠点をカバーした子、または良い性質が加えられた子が生まれる。 他の品種からとった遺伝子のDNAを染色体に導入し、その遺伝子を働かせ、品種改良を行う方法。@アグロバクテリウム感染法、Aパーティクルガン法(遺伝子銃法)、Bエレクトロボーレーション法(電気穿孔法)、などの手法がある。
<雑種強勢 hybrid vigor> ヘテローシス heterosis ともいう。生物の種間または品種間の交雑を行うと、その一代雑種はしばしば両親のいずれよりも体質が強健で発育がよいという現象がみられる。これを雑種強勢といい、農作物、家畜の品種改良にしばしば利用される。最初トウモロコシで発見され、ついで動物でもモルモットで認められた。
 一方、異なった個体間の受精のよって繁殖することを常態とする他殖性作物(トウモロコシなど)を、強制的に自殖(同一個体内で受精させる)させたり、近親間の交配を繰り返したりすると、子孫(後代)の生育がしだいに劣ってくる例が多い。これを自殖劣勢といい、雑種強勢と逆の関係になる。また、特定の遺伝子的な効果によって雑種第1代の生育がまれに弱勢化することがある。こらは雑種弱勢 hybrid weakness といわれる。 (平凡社『大百科事典』から)
雑種が純系よりも生育が旺盛なこと。両親の組合せによって雑種強勢が強く現れる場合と、そうでない場合があり、種内では一般に、特性が大きく異なる両親間で雑種強勢が顕著である。(『花の品種改良入門』から)
多くの作物の種子は自家受粉によってつくられ、純系と呼ばれる。これに対して父親と母親が別の個体から由来したものは雑種(ハイブリッド)と呼ばれる。かつては農産物を均一にするという観点から純系をつくることが中心に行われてきた。一方、雑種のなかには両親よりはるかに優れた性能を示すものがしばしば見られる。このような現象は昔から雑種強勢と呼ばれている。特にこの現象はトウモロコシで顕著に見られ、純系に比べ背が高く収量がはるかに多くなる。 現在世界で取引されているトウモロコシの種子の大半が雑種である。ダイコン、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、トマトなどその他の多くの作物でも雑種強勢を利用した種子が利用されており、この雑種強勢の性質は両親の関係が遠いほど出やすいという傾向がある。
 イネでは従来この雑種強勢の性質は利用されていなかった。その最も大きな理由は、現在利用されているイネは確実に種をとるために、野生種のもっている他家受粉受粉する性質を捨て自家受粉する性質を強くもっているため、雑種を作りにくいことにある。そして、それゆえ雑種強勢の性質があることは一部で知られていたが、あまり注目されなかった。
(『夢の植物を育てる』から)
<自家不和合性 self-incompatibility> 雌雄同花で正常な機能をもつ雌雄両配偶子が同時に形成されるにもかかわらず、受粉が行われても花粉の不発芽、花粉管の花柱への進入不能、花粉管の伸長速度低下または停止などにより、自家受粉が妨げられる現象。この現象は高等植物に広く見いだされ、明らかに他殖性 allogamy を維持、促進する繁殖様式の一つと考えられている。(以下略) (平凡社『大百科事典』から)
アブラナ科の植物には、自家不和合性と呼ばれる性質をもつものがあります。これは、受粉したときに雌しべと花粉のあいだで自己と非自己の認識反応がおきて、自分でない(=非自己の)花粉で受精して種子をつくります。いろいろな植物がこの自家不和合性の性質をもっており、アブラナ科植物や野生のタバコ、野生のペチュニアなどを使って最近に研究が展開されています。(『菜の花からのたより』から)
他家受粉では種子が出来るが、自家受粉では種子が出来ない特性。自家不和合性を示す植物は多く、近交弱勢による子孫の生存力低下を防いでいる。(『花の品種改良入門』から)
自家不和合性をもつ植物では、それを利用してF1採種ができる。自家不和合性とは自己と非自己の花粉を識別し、非自己の花粉で受精する性質である。自家不和合性といってもその性質が強いものや弱いもの、条件によって変動する系統もあるので、その性質を充分に吟味しながら使わなければならない。アブラナ科の野菜では、自家不和合性を利用したF1採種がわが国で実用化された。 雌雄異株のものではF1採種が簡単なように考えられるが必ずしもそうではない。植物では、両性花が同一個体に混じることがよくあるから、完全な雌系統を育種必要がある。ホウレンソウでは、雌性系統に雄花をつける条件を見出して自家受精させ、完全雌性系統を育成し、それを母胎として用いることによって成功した。(『植物の育種学』から)
19世紀、アメリカで、セイヨウナシのある品種が2万3000本も植えられた大果樹園がつくられた。ところが、花は咲いたが、不思議なことに、ほとんど実がならなかった。調べてみると、果樹園の一部分にだけ、実がなっているところがあった。そこには、別の品種のセイヨウナシが1本だけ誤って植えられていた。そこで、「同じ品種の花粉では実がならず、別の品種の花粉がつくと実がなるのではないか」と考えられた。 さっそく、別の品種の花粉をメシベにつける試みがなされた。すると、果実が実った。
 この現象は、「自分の花粉が自分のメシベについても、受精が成立せず、種子ができない」という性質を示している。この性質を「自家不和合性」と呼ぶ。自分の花粉を自分のメシベにつけて種子をつくることを避ける工夫である。セイヨウナシだけでなく、多くの果樹や、アブラナ科、キク科、ナス科やマメ科などの植物も、この性質を持っている。 この性質を持つ植物では、メシベに自分の花粉が付着しても、受精が成立しない。しかし、同じ仲間の他の植物体の花粉がついた場合には、受精が成立し、種子ができる。植物たちは、自分の花粉と他の花粉を識別する能力があるのだ。(『ふしぎの植物学』から)
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 「学際」という言葉がある。違った専門分野の学問で隣り合ったものが、領域を乗り越えて互いに影響し合って、新しい分野を開拓する、といったことを意味する。 こうしたことがなく、1つの専門分野だけで問題を解決しようとしていると、いくらもがいてもユニークな発想が生まれずに、議論が空回りしていくことがある。 TANAKAはこうした状況を、「視野狭窄」とか「気配り半径の狭さ」とか、育種学の用語を使って「自家不和合性」と表現する。
 いままで取り上げてきた分野で言えば、経済学の分野とゲームの理論が結びついて、さらにそれが、生物学・進化論へと発展し応用されていったことがわかる。 そのようなことに関係する文章を引用してみよう。
<利己性と淘汰=進化論的発想から>> 遺伝子淘汰は、より高いレベルでの淘汰と本質的に両立しないのもではない。遺伝子淘汰の擁護者たちも、群が媒介者(ヴィークル)であることには同意できるからだ。 さらに、グールドが支持しているタイプの高いレベルでの淘汰は、裏切りの問題の大部分を回避できる。グールドは、淘汰の単位の一部は、複数の生物個体から構成されていると考えている。 だが、ここで彼が念頭に置いているのは、群淘汰ではなく、種淘汰なのだ。グールドは、種によって、絶滅しやすさを決める性質や進化的な生産性を決める性質がそれぞれ異なっているという考え方を、しかるべき保留は付けつつも受け入れている。
 たとえば、多様性が豊かな遺伝子プールを持つ種は、他の要素はすべて同じでも多様性が乏しい種にくらべ、環境の変化にさらされた場合の回復力が大きい。 広い地理的分布域を持つ種のも同じことが言える。広く分布している種は、限られた地域にしか生息できな種にくらべ、変化の影響を受けにくく、したがって絶滅しにくい。 (『ドーキンスvs.グールド』から)
<『ゲームの理論と経済行動』第1版への序文> 本書は、ゲームの数学的理論の詳しい説明とその種々な適用を示したものである。ゲームの理論は、著者の1人が1928年以来展開してきたものであるが、完全な形で出版されるのは今度がはじめてである。 その適用は2つの種類に分けられる。1つは、本来の意味でのゲームへの適用であり、もう1つは、経済学的問題や社会学的問題のなかで、ゲームの理論の視角から接近するのが採用であるような問題への適用である。
 本来のゲームへの適用は、ゲーム自体を研究するのに役立つと同時に、少なくともそれと同じくらいに、ゲームの理論を補強するのに役立つ。 この相互補完関係は、研究が進むにつれて明らかになるであろう。われわれの主たる関心は、もちろん、経済学と社会学の諸問題にある。本書では、この面でのごく単純な問題しか扱うことができなかったが、しかしこれらの問題は基本的な性格を持つものである。 それに加えて、われわれが第1に狙ったのは、利害が平衡しているのかそれとも対立しているのか、完全情報なのかそれとも不完全情報なのか、自由な理性的意志決定のもとのあるのかそれとも偶然の影響を受けているのか、といった問題を含めて、上記主題を扱う厳密な方法の存在を立証することである。
  ジョン・フォン・ノイマン  オスカー・モルゲンシュタイン    プリンストン、ニュージャージー      1973年1月
(『ゲームの理論と経済行動』から)
<経済学における数学的方法==序論> 本書は、経済理論の根本問題のうち、これまでの文献にみられたものとは違った取り扱いを必要とするいくつかの問題について、1つの分析視角を提出しようとするものである。 ここでの分析は、経済行動の研究から生ずる若干の基礎的な問題に関わっているが、これらの問題は、長い間、経済学者の注目の的だったものであり、最大効用を獲得しようとする個人の努力、あるいは最大利潤を追求しようとする企業家の努力を性格に記述しようとするさまざまな試みから生じてきたものである。 この仕事が、いかに厳しく、また事実克服しがたい困難を吹くんでいるかは、人のよく知るところである。たとえば、2人ないしはそれ以上の人々の間で、直接あるいは間接に財貨の交換が行われる場合双方独占、寡占、寡占ならびに自由競争といったような、いくつかの典型的な状況を前提としているときでさえ、そうなのである。 経済学の研究に携わる者にとって、これらの問題の構造は周知のものとはまったく異なった構造をもっているということを、本種において明らかにするつもりである。 さらに、それらの問題の正確な提示とそれに続く問題の解決とは、旧来のあるいは当代の数理経済学者が用いている手法とはかなり違った数学的方法の助けをかりて初めて得られるものであることも明らかにしたい。
 本書の考察では、1927年と1940−41年にいくつかの段階にわたって、著者の1人が展開した<<戦略ゲーム>>の数学的理論を大幅に援用しなればならない。 そこで、この理論を提示した後に、上に述べた意味での経済問題への応用を試みることにしよう。そうすれば、こうした応用が、いまなお未解決の多くの経済学的問題に、1つの新しい視点を与えることになることが明らかになるであろう。
 われわれはまず最初に、このゲームの理論は経済理論とどのような仕方で関係づけられるか、また両者に共通の要素が何であるかを示す義務があろう。 そのためには、これらの共通の要素がはっきりわかるような形で、ある種の基本的な経済問題の性格を簡潔に描写するのが一番よいであろう。
 そうすれば、上の両者の関係を設定するのがなんら無理なことではないばかりか、反対に、この戦略ゲームの理論が、経済行動の理論を展開するのに適した用具であることが明らかになるであろう。
 しかし、著者たちの議論の意図を誤解しないように注意して置きたいのだが、ここでの議論は、これら2つの領域の間にある類似性を単に指摘するだけにとどまるものではない。 われわれとしては、2、3の納得のゆく定型化を展開したのちに、経済行動の典型的な諸問題が、適当な戦略ゲームの数学的概念と厳密に一致することを満足できる形で立証したいのである。 (『ゲームの理論と経済行動』から)
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<主な参考文献・引用文献>
『植物の育種学』                      日向康吉 朝倉書店     1997. 3. 1
『夢の植物を育てる』                 鎌田博・堀秀隆 日本経済評論社  1995. 7. 1
『ふしぎの植物学』                      田中修 中公新書     2003. 7.25
『平凡社 大百科事典』                        平凡社      1984.11. 2
『花の品種改良入門』                西尾剛・岡崎桂一 誠文堂新光社   2001. 6.15
『ドーキンスvs.グールド』      キム・ステルレルニー 狩野秀之訳 ちくま学芸文庫  2004.10.10
『ゲームの理論と経済行動』J.V.ノイマン/O.モルゲンシュタイン 銀林浩・橋本和美・宮本敏雄訳 東京図書 1972.10.25
( 2007年9月3日 TANAKA1942b )
死刑廃止でどうなる
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