野田、向井答弁書、申辨書、発言、弁論(「百人斬り』東京地裁判決その3」)


(「百人斬り」東京地裁判決その3:事実及び理由その2より)

サ 両少尉は,いずれも昭和22年ころ,戦犯として身柄を拘束され,巣鴨戦犯拘置所から南京軍事裁判所に押送され,同年11月ころ,南京軍事裁判の検察官から審問を受けた。


 両少尉は,検察官からの審問を補足する形で,概略以下のような趣旨の答辨書を提出した(甲23ないし26, 76, 103,弁論の全趣旨)。

(ア)野田少尉の民國36年(昭和22年)11月15日付け答辨書(甲23)


「昭和12年11月,無錫付近において,向井少尉とともに浅海記者に会い,たばこをもらい互いに笑談戯言した。これが浅海記者と会った第1回目である。浅海記者は,当時,特別記事がなくて困っており,『あなた方を英雄として新聞に記載すれば,日本女性の憧れの的になり多数の花嫁候補も殺到するでしょう。もし新聞に記載されれば郷士に部隊の消息をも知らせることになり,父母兄弟親戚知人を安心させることになるでしょう。記事の内容については記者に任せてください。』と言った。」

 「私は,まさかそのような戯言が新聞に載るとは思ってもおらず,かつ笑談戯言であるために意に止めずにほとんど忘れていた。その後,同年12月ころ,麒麟門東方で戦車に搭乗した浅海記者と行き違ったが,これは浅海記者と会った第2回目である。そのとき,浅海記者は,早口で,『百人斬競争の創作的記事は日本国内で評判になっていますし,最後の記事も既に送りました。いずれあなたも新聞記事を御覧になるでしょう。』と言い,戦車の轟音とともに分かれた。このとき向井少尉は不在であった。」

 「私は,翌年の昭和13年2月,北支でその記事を見たが,余りにも誇大妄想狂的であって,恥ずかしく思った。」

 「『百人斬り競争』の記事は,誇大妄想狂的で日本国民の志気を鼓舞しようとするための偽作であることは浅海記者を召喚して尋問すれば明瞭であり,これが事実無根の第一の理由である。」

 「浅海記者と会見したのは無錫付近と麟麟門東方との2回である。それにもかかわらず,新聞記載の回数は4回か5回であって,会見の回数より多いのは何を意味するか。記者が勝手に創作打電したことは余りにも明瞭であり,これが事実無根の第二の理由である。」

 「私と浅海記者が麟麟門で会合したとき,向井少尉は不在であったにもかかわらず,新聞記事には二人で会見談話したように記載しており,これが事実無根の第三の理由である。」

 「私の所属していた冨山大隊は,常州――丹陽――句容――湯水街道では全く戦闘をしていなかった。特に,冨山大隊(歩兵一個中隊と歩兵大隊砲小隊を除く。)は,丹陽付近から北方に遠く迂回し,本隊に遅れたため,草場部隊の予備隊となり,本隊に追及すべく急行軍を実施中であった。このように,戦闘を実施せず,また,常州,丹陽,句容に入らず,しかも百人斬りの記事資料を記者に与えたこともなかったにもかかわらず,百人斬りの累計が逐次常州,丹陽,句容の諸地点において向上増加するかのようなことは常識で考えてもばかげたことであることが明瞭であり,これが事実無根の第四の理由であって,冨山大隊長を召喚して尋問すればこのことは明瞭となる。」

 「向井少尉は,昭和21年7月1日,東京において,国際検事団検事の尋問を受けた際,事実無根であることを認められ,即刻不起訴処分に処せられて釈放された。私は,本件に関して向井少尉と同一問題であるから,同様に事実無根の認定を受けたものと信じて現在に至っている。」

 「冨山大隊は昭和12年12月12日ころ,麟麟門東方において,行動を中止し,警備のため,湯水東方砲兵学校跡に集結し,同月13日ころから昭和13年1月7, 8日ころまで駐留し,その後北支へ移動した。その駐留の間,将兵は外出禁止で私はもちろん外出したこともない。当時,私は,副官の職にあったので,陣中日誌及び戦闘詳報の作成,功績調査,日々の命令会報の伝達,北支移動の準備等のため,激務多忙であり,到底外出不能で南京に行<余裕は全<なかった。」

 「私は,昭和12年9月から昭和13年2月まで,冨山大隊の副官にして常に冨山大隊長の側近にあって,戦闘の間は作戦命令の作成,上下への連絡下達,上級指揮官への戦闘要報の報告等を,行軍露営の間は,行軍露営命令の作成下達,露営地の先行偵察,露営地の配宿,警戒警備線の実地踏査,弾薬,糧秣の補充及び指示,次期戦闘の準備等で忙しく,百人斬りのようなばかげたことをなし得るはずがない。」

(イ)向井少尉の答辨書(民國36年(昭和22年)11月6日の検察庭における審問後に提出されたもの。(甲25)


「昭和12年11月,無錫郊外において,私は,浅海記者と初めて遭遇して談笑した。私は,浅海記者に向かって,『私は未婚で軍隊に徴集され中国に来たため婚期を失ったのです。あなたは交際も広いから,花嫁の世話をして下さい。不在結婚をしますよ。』と談笑した。浅海記者は,笑って『誠に気の毒で同情します。何か良い記事でも作って天晴れ勇士にして花嫁志願をさせますかね。それから家庭通信はできますかね。』と聞いてきたので,『できない。』と答えた。浅海記者とは,『記事材料がなくて歩くばかりでは特派記者として面子なしですよ。』などと漫談をして別れてから再会していない。」

 「私は,無錫の戦闘最終日に到着して砲撃戦に参加した。しかしながら,砲撃戦の位置は,第一線よりも常にはるかに後方で,肉迫突撃等の白兵戦はしていない。常州においては戦闘はなかった。中国軍隊も住民も見なかった。丹陽の戦闘では,冨山大隊長の指揮から離れて,私は,別個に第十二中隊長の指揮に入り,丹陽の戦闘に参加して砲撃戦中に負傷した。すなわち丹陽郊外の戦闘中迫撃砲弾によって左膝頭部及び右手下膞部に盲貫弾片創を受け(昭和12年11月末ころ).その後,第十二中隊とも離別し,看護班に収容された。

 新聞記事には句容や常州においても戦闘を行い,かつ,百人斬りを続行したかのような記載があるが,事実においては,句容や常州においては全く戦闘がなく,丹陽以後,私は看護班において受傷部の治療中であった。昭和12年12月中旬頃,湯水東方砲兵学校において所属隊である冨山大隊に復帰した。冨山大隊は,引き続き砲兵学校に駐留していたが,昭和13年1月8日,北支警備のため移動した。その間,私は,臥床し,治療に専念していた。」

 「私の任務は歩兵大隊砲を指揮し,常に砲撃戦の任にあったものであって,第一線の歩兵部隊のように肉迫,突撃戦に参加していない。その任務のために,目標発見や距離の測量,企画,計算等戦闘中は極めて多忙であった。戦闘の間,私は,弾雨下を走り,樹木に登り,高地に登ることを常としていたために身軽であって,軍刀などは予備隊の弾薬車輪に残置して戦闘中には携行しないのが通常であった。そのため,私は,軍刀を持って戦争した経歴がない。」

 (「私の戦争参加に関しては,新聞記事に数回連続して報道されたが,私は,中支においては前後2回の砲撃戦に参加したのみで,かつ,無錫郊外にて浅海記者と初回遭遇したほかは再会しなかった。ところが,記事には数回会合したかのように記載してある。しかも,私は負傷して臥床していたにもかかわらず,壮健で各戦闘に参加し百人斬り競争を続行したかのように報道したものである。」

 「昭和21年7月1日,国際検事団検察官は,私と新聞関係者, 1日軍部関係者等に対して厳重なる科学的審査を反復した結果,百人斬り競争の新聞記事が事実無根であったこと,私が浅海記者と無錫郊外において一度会談した以外それ以後再会していないこと,私が戦闘に参加したのは,無錫における砲撃戦参加と丹陽における砲撃戦参加の2箇所であること,私が丹陽の戦闘で負傷し,野戦病院に収容され,爾後の戦闘に参加しなかったことなどが判明し,本件に関しては再び喚問することがないから,安心して家業に従事せよとの言い渡しを受けて,同月5日,不起訴釈放されたものである。」

(ウ)野田少尉の民国36年(昭和22年)11月21日付け答弁書(甲24)


 「『民國26年(昭和12年)12月10日南京に入らなかったのか。』との検察 官の質問に対し,同日絶対に南京に入ることができなかった理由として,私 は,民國26年12月10日前後は湯水東北方を行軍中で同月11.12日ころようやく麒麟門東方付近に進出した状況であり,同月10日に南京に入ること が不可能であることは明瞭であることがあげられる。私は,その後,麒麟門付近から反転して湯水東方砲兵学校に集結し,同月13日ころから翌年1月8日ころまで同所に駐留し,かつ外出したことはなかったので,絶対に南京に入ったことはない。なお,日本軍が南京に突入したのは民國26年12月13日と伝え聞いている。」

 「『紫金山山麓までにおいて野田少尉が105人,向井少尉が106人斬った と話し合ったことは事実か。』との検察官の質問に対し,それが事実無根の理由として,私が,騏麟門東方で戦車に搭乗した浅海記者と会ったとき,同記者は既に最後の新聞記事を日本に打電したと述べており,そのとき,浅海記者がいう「最後の記事」が紫金山山麓の記事であることは後日知ったこと,そもそも,そのとき,私は,その会合のときに,新聞記事のごとき資料を提出提供しなかったのはもちろんのこと,その余裕すらなかったこと,私と向井少尉が話し合っているところを新聞記者が実際に見たものではないことが挙げられる。しかも,その際は,私一人のみであり,記者は向井少尉について聞きもしなかったし,特に,私は,丹陽東方で向井少尉と別れて以来会っておらず,麒麟門付近で新聞記者と会ったときには,向井少尉は丹陽で負傷していて不在であった。」

 「検察庭において見た句容の記事(向井少尉が八十何人,野田少尉が七 十何人斬ったという記事)が全くでたらめで事実無根である理由として,私は,丹陽東方で向井少尉と別れた後は,遠く北方に迂回し,句容を通過したことは絶対にないのみならず,句容北方を遠く離れて湯水付近に進出した。このこと は冨山大隊長を召喚して尋問されれば明瞭となる。」

 「昭和21年7月1日国際検事団検事は,東京法庭において,向井少尉を調べるに当たり,『百人斬り記事』を書いた毎日新聞の記者を取り調べたが,その際,新聞記者は『百人斬り記事は事実ではなく宣伝の目的をもって作ったものである』と自白した。そのため,上記検事は,向井少尉については新聞記事のようなことがないものと判定し不起訴処分をしたものである。」

(エ)向井少尉の答辨書(民國36年(昭和22年)11月15日の検察庭における審問の後に提出されたもの。甲26)


 「私は,国際検事団の不起訴書を所持していない理由として,これを日本政府内務省戦犯課に提出したことを思い出したので,この事情と併せて国際法庭において私が召喚尋問を受けた状況について,以下のとおり答弁する。
 私は,昭和21年6月下旬,東京復員局法務長から,「国際検事団から東京法庭に出頭すべしとの命令があるから直ちに市ヶ谷法庭に出頭すべし」との電報を自宅で受領し,同月30日に復員局法務部に立ち寄った。その際,法務部員は,審査終了して不起訴釈放となったときは,書類を交付されるので,当該書類を内務省戦犯課に提出するよう告げた。自分は,翌日東京国際法庭に出頭した。」

 「審査終了時,国際検事団検事は微笑して,『あなたを召喚する以前において新聞記者を喚問して審査した結果,記者の証言により新聞記事の百人斬り競争の真相は全く事実無根の作為記事であることが判明した。あなたの答弁した当時の状況と符合し,無根の真相が一層明確になり,何ら犯罪事実は認められない。』と言明し,『遠路来庭させて驚愕苦慮させましたが,本件に関しては再度喚問することはないのでご安心下さい。新聞記事によって迷惑被害を受ける人は米国にも多数ありますよ。野田さんは終戦時に満州で死亡したとのことで気の毒です。』と謝し握手して別れた。

 釈放の際,上記検事は,英文の書類に署名し,私に交付し,私は,復員局法務部の注意に基づいて,その書類を内務省戦犯課に提出し,引替に喚問の日当及び帰郷旅費を支給されて帰宅した。私は,英語を読めないので,その書類の内容が分からなかったが,その書類は日本政府内務省に保管されているので,調査されれば明瞭である。」《「内務省戦犯課に提出した書類」なるものは調査されたのか?》

 「『句容の戦闘において累計が向井が八十数名,野田が七十数名斬ったとの新聞記事があるがいかがか』と質問されたが,それは事実無根である。私は,丹陽砲撃戦で昭和12年11月末ころ負傷した後は,一切の戦闘行動から離脱し,入院していた。野田少尉の属する冨山大隊の主力は,丹陽東方から遠く北方に迂回し,湯水付近に進出し,句容は通過していない。したがって,句容において不在人物である二人が百人斬り競争をできるはずがない。」

シ 国防部審判戦犯軍事法庭検察官は,昭和22年12月4日,両少尉を起訴した。


 その犯罪事実は,
「被告らは,軍に従って来華し,民國26年(昭和12年)12月5日,江蘇句容縣において入城した時,向井は中国人89人を殺し,野田は78人を殺害した 」

 というものと,

 「同年12月11日,南京攻略戦中,被告らは再び百五十人斬り競争をし,紫金山麓において,向井は106人を殺し,野田は105人を殺害した」

 というものであった。起訴書の証拠及び所犯法条の項には,

 「右記事実は既に敵従軍特派員浅海及び鈴木を経て,その目撃情形を前後して東京に伝達し,各新聞紙は,その勇壮をたたえ,争って連載をしてこれを万人に伝えたが,更に東京日日新聞を資料として考査するに,その新聞に登載された被告らの写真もまたそれに符合しており,証拠確実にして自らその空言校展に任せて刑責を免れることはできない」旨記載されている(甲27)。

 南京軍事裁判所は,昭和22年12月9日,予審庭で両少尉に対して尋問を行い,両少尉は,起訴書に対する論駁及び審問の補足として,概略以下のとおりの申辨書を提出した(甲28, 29)。

(ア)野田少尉の民国36年(昭和22年)12月15日付け申辨書(甲28)



 野田少尉は,起訴書記載の「犯罪事実」に対する論駁として,

 まず,自分が句容北方を遠く迂回していて句容顔に入城していないこと,丹陽東方において自分は北へと向井少尉は西へと別行動を取ったため,句容縣で両名が会合していなかったことなどから,句容における犯罪事実が事実無根であるとした。また,野田少尉は,紫金山山麓で向井と会合していないこと,当時,抗戦中の中国兵以外は一人の俘虜及び住民も見ていないことから,紫金山山麓における犯罪事実が事実無根であるとした。

 さらに,両犯罪事実に関する共通の論駁として,当時,中国民衆が熾烈な抗戦意識と戦闘に対する恐怖心から戦場に姿を見せたことがほとんどなかったこと,常識で考えても戦場の突撃戦,白兵戦で中国兵の百人斬りが不可能であることなどを挙げた。

 野田少尉は,起訴書の証拠に対する論駁として,記者らが冨山大隊と行動を共にしておらず,自分の「百人斬り」行動なるものも見ていないこと,自分が浅海記者に会ったのは,無錫付近と麒麟門東方の二回であり,しかも,麒麟門東方で会ったとき,向井少尉は不在であったのだから,句容,紫金山の記事はいずれも虚偽であるとした。

 野田少尉は,予審庭における「何故新聞記事の虚報を訂正しなかったのか」との質問に対して,自分が記事を見たのは昭和13年2月華北に移駐したころであるが,その後も各地を転々としたため,訂正の機会を逃し,かつ,軍務繁忙のため忘却してしまったこと,何人といえども新聞記事に悪事を虚報されれば憤慨して新聞社に抗議し訂正を要求するが,善事を虚報されれば,そのまま放置するのが人間の心理にして弱点であること,自分の武勇を宣伝され,また,賞賛の手紙等を日本国民から受けたため,自分自身悪い気持ちを抱くはずはなく,積極的に虚報を訂正しようとしなかったこと,また,反面で,虚偽の名誉を心苦しく思い,消極的には虚報を訂正したいと思ったが,訂正の機会を失い,うやむやになってしまったとした。

(イ)向井少尉の民國36年(昭和22年)12月15日付け申辨書(甲29)



 向井少尉は,起訴状の「犯罪事実」に対する申辨として,

 民國26年(昭和12年)12月5日句容縣に入城し,中国人89人を斬り,同年12月11日紫金山山麓において106人を斬ったとの事実が事実無根であるとして,
従軍記者の浅海と鈴木が,向井少尉の部隊には随伴せず,後方の上級部隊司令部と行動を共にしていたはずであること,
自分は無錫の戦闘で砲撃戦に参加したのが初陣であったこと,
自分は,無錫での戦闘が終了した翌朝,後方の上級司令部が無錫に到着した際,無錫郊外で浅海記者らと初めて会い,共に会合をし,各種の談話をして記念撮影をして別れたこと,
 両少尉は,丹陽の東方で別れ,自分は丹陽へ向かい,野田少尉は冨山大隊と共に鎮江方面に北進したこと,
自分は,昭和12年11月末,丹陽の砲撃戦において中国軍の追撃砲弾のために左膝頭部及び右手下請部に盲貫弾片創を受け,臨時野戦病院に収容され,以後一切の戦闘行為から離脱したこと,新聞に掲載された写真は,無錫における戦闘が終了した後に,浅海記者と初めて会ったときに記念写真として撮影したものであること,昭和21年7月1日に国際検事団検事から詳細な審理を受けた結果不起訴処分と判定され釈放されたことなどを挙げた。

ス 両少尉の公判期日は,昭和22年12月18日と定められた。


 両少尉は,この公判期日までに,新聞記事が事実無根であることを証明する浅海記者の証明書が到着しないおそれがあるとして,同月10日,公判延期申請を行ったが,認められず,同月18日に公判が開かれた。南京軍事裁判所は,両少尉申請の証人を採用せず,両少尉が以下のとおり最終弁論を行った上,結審した(甲30, 31, 78, 79)。

(ア)野田少尉の最終発言(甲30)



 野田少尉は,最終発言において,

 自分が中国人7人の生命を救助したことがあること,浅海記者と冨山大隊長の証人召喚を希望すること,百人斬りについて,大阪毎日新聞の記事は興味本位の宣伝的創作的記事であり虚報であるから,もっとよく調査してほしいこと,起訴された以上は物的証拠を示してほしいこと,新聞記事をもって法律上の証拠とした事例は世界にないことなどを指摘し,無罪を訴えた。

(イ)向井少尉の最終辨論(甲31)



 向井少尉は,最終辨論において,

 自らの中支における行動として,丹陽戦闘で受傷し,入院した状況について再度指摘するとともに,浅海記者が創作記事を書いた原因として,向井少尉が冗談で,「花嫁の世話を乞う」と言ったところ,浅海記者が「貴方等を天晴れ勇士に祭り上げて,花嫁候補を殺到させますかね。」と語ったのであり,そこから察すると,浅海記者の脳裏には,このとき,既にその記事の計画が立てられたものであろうと思われ,浅海記者は,直ちに無錫から第1回の創作記事を寄稿し,報道しており,無錫の記事を見れば,「花嫁募集」の意味を有する文章があって,冗談から発して創作されたものと認められること,浅海記者は,創作記事に両少尉の名前を使用した謝礼として「花嫁侯補云々」の文章を付記したと思われること,浅海記者は無錫から南京まで自動車での行程と思われるので,第一線に来ていないことは明白であることなどを主張し,無罪を訴えた。

セ 両少尉は,昭和22年12月18日,作戦期間共同連続して捕虜及び非戦闘員を屠殺したとして,田中軍吉大尉と共に,死刑判決を受けた。

両少尉に関する事実は,

 「向井敏明及び野田厳(「即野田穀」と表記されている。)は,紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し各々刺刀を以て老幼を問わず人を見れば之を斬殺し,その結果,野田厳は105名,向井敏明は106名を斬殺し勝を制せり」
 というものであり,その理由は,以下のとおり記載されている(甲32)。

 「按ずるに被告向井敏明及び野田厳は南京の役に参加し紫金山麓に於て俘虜及非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し其の結果野田厳は合計105名向井敏明は106名を斬殺して勝利を得たる事実は當時當時南京に在留しありたる外籍記者田伯烈(H. y. Timperley)が其の著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず(谷壽夫戦犯案件参照)即遠東國際軍事法庭中國検察官辨事處が捜獲せる當時の「東京日日新聞」が被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし如何に其の超越的記録を完成し各其の血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して「悦」につけりある状況を記載しあるを照合しても明らかなる事実なり。尚被告等が兇刃を振ってその武功を炫耀する為に一緒に撮影せる写真があり。その標題には「百人斬競争両将校」と註しあり。之亦其の証拠たるべきものなり。

 更に南京大屠殺案の既決犯谷壽夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても其れには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり其の一節には殺人競争があり之即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。其の時我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは19万人に上り彼方此方に於て惨殺され慈善団体に依りて其の屍骸を収容されたるもののみにてもその数は15万人以上に達しありたり。之等は均しく該確定判決が確実なる證據に依據して認めたる事実なり。更に亦本庭の其の発葬地点に於て屍骸及び頭顱数千具を堀り出したるものなり。

 以上を総合して観れば則被告等は自ら其の罪跡を諱飾するの不可能なるを知り「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし以て専ら被告の武功を頌揚し日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと説辨したり。

 然れども作戦期間内に於ける日本軍営局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり若し斯る殺人競争の事実なしとせば其の貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく況や該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は確実の證據を以て之を證実したるものにして普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。之は十分に判決の基礎となるべきものなり。

 所謂殺人競争の如き兇暴'惨忍なる獣行を以て女性の歓心を博し以て花嫁募集の広告となすと云うが如きは現代の人類史上未だ嘗て聞きたることなし。斯る抗辨は一つとして採取するに足らざるものなり。」

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ソ 両少尉は,昭和22年12月20日,同判決を不服として上訴申辨書を提出し,その際,冨山大隊長の証明書2通及び浅海記者の証明書1通を添付した(甲33)。


(ア)冨山大隊長の証明書には,



 毎日新聞紙上記載のような「百人斬り競争」の事実がなかったこと,冨山大隊が昭和12年12月12日麒麟門東方において行動を中止し,南京に入ることなく湯水東方砲兵学校に集結したこと,大隊将兵が湯水東方砲兵学校跡駐留間(昭和12年12月13日から昭和13年1月8日まで)は,全く外出を禁止し,特に南京方面に外出したことがないことが記載されており,冨山大隊長の受傷証明書には,向井少尉が昭和12年12月2日丹陽郊外において左膝頭部盲貫及び右腕下請部盲貫弾片創を受け,離隊し,救護班に収容され,同月15日湯水において部隊に帰隊し治療したことが記載されていた。

(イ)浅海記者の証明書には,


 浅海記者が昭和12年11月ころ大阪毎日新聞及び東京日日新聞に掲載した記事について,同記事に記載されている事実は,両少尉から聞き取って記事にしたもので,その現場を目撃したことがないこと,両少尉の行為が決して住民,捕虜等に対する残虐行為ではなく,当時でも,残虐行為の記事は日本軍検閲当局をパスすることができなかったこと,両少尉が当時若年ながら人格高潔で模範的日本軍将校であったこと,これらの事項について浅海記者は昭和21年7月東京裁判においてパーキンソン検事に供述し,当時不問に付されたことが記載されていた。

(ウ)なお,上訴申弁書の修正案(甲79)には,上記弁明に加え,



 本件日日記事の両少尉の写真が,無錫付近における記念撮影であり,紫金山における「百人斬り競争」とは何の関係もなく,証拠にはならないことなどが記載されていたほか,原稿の最後に,「新聞記事の真相」という項があり,その中で,両少尉と浅海記者との間の会話が再現されており,これによれば,浅海記者が両少尉に「無錫から南京まで何人斬れるか競争してみたら。」と持ち掛け,それに応じて向井少尉が冗談で「百人斬り」の話をしたところ,浅海記者が武勇伝に名前を貸してほしいと言い,それを両少尉において了承し,浅海記者が「記事は一切記者に任せてください。」という会話であったとされている。

タ 両少尉は,昭和22年12月28日,南京軍事裁判所にあてて,冨山大隊本部書記竹村政弘の証明書及び向井少尉の弟である向井猛の書簡を提出した(甲34)。


(ア)竹村政弘の証明書には,


 南京攻略戦当時,毎日新聞紙上記載のような「百人斬り競争」の事実がなかったこと,南京攻略戦終了後冨山大隊が昭和12年12月12日麒麟門東方において戦闘行動を中止し,南京城に入ることなく湯水鎮東方砲兵学校に集結したこと,湯水鎮東方砲兵学校に待機していた間(昭和12年12月13日から昭和13年1月8日まで)は次期作戦の準備のため公用のほか一切外出を厳禁されていたことが記載されていた。

(イ)向井猛からの書簡には,


 「浅海記者は若しも必要ならば,進んで出廷し直接証言したいと語っております。浅海記者も大隊長もこの様な事実はなかったと語っております。また隊長は『向井は当時負傷していたのであの様な機会がある筈はない』とも語っていました。当時の新聞記事が信用出来ないことは現在の日本人全ての明白な認識となっております。」と記載されていた。

チ 南京軍事裁判所は,両少尉の不服申立てを認めず,両少尉は,昭和23年1月28日,南京雨花台において,田中軍吉と共に銃殺刑に処せられた。


両少尉の遺書等には,以下の記載がある。

(ア)向井少尉(甲35)


「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。」(辞世)

「野田君が,新聞記者に言ったことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい,との事です。何れが悪いのでもありません。人が集って語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。

 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海,冨山両氏より証明が来ましたが公判に間に会いませんでした。然し間に合ったところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。冨山隊長の証明書は真実で嬉しかったです。厚く御礼を申上げて下さい。浅見氏のも本当の証明でしたが一ケ条だけ誤解をすればとれるし正し見れば何でもないのですがこの一ケ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものの人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。」(遺書)

(イ)野田少尉(甲35, 58)


 「向井君から父上へ『口は禍の元,冗談を云ったばかりに大事な独り息子さんを死の道連にして申訳ありません。』との事です。」(昭和22年12月25日の欄)

 「南京屠殺事件にくっつけられとんでもない濡衣を着せられました。『口は禍のもと』と申します。向井君の冗談から百人斬競争の記事が出てそれが俘虜住民を斬ったと云うのです。無実である事を信じて下さい。」(同日の欄)

 「一,日本国民に告ぐ(参照)


 私は曽つて新聞紙上に向井敏明と百人斬競争をやったと云われる野田毅であります。自らの恥を申上げて面目ありませんが冗談話をして虚報の武雄伝を以て世の中をお騒がし申上げた事につき衷心よりお詫び申上げます。」(昭和22年12月28日の欄)

 「只俘虜,非戦斗員の虐殺,南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。お断り致します。」(死刑に臨みて)