東京日日新聞及び大阪毎日新聞の「百人斬り競争」記事


1937年11月30日付東京日々新聞朝刊(第1報)



(見出し)百人斬り競争! 両少尉、早くも八十人
(本文)【常州にて廿九日浅海、光本、安田特派員発】 常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した、まさに神速、快進撃、その第一線に 立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた二名の青年将校がある、無錫出発後早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ、一人は富山部隊 向井敏明少尉(二六)=山口県玖珂郡神代村出身=一人は同じ部隊野田毅少尉(二五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=銃剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
無錫進発後向井少尉は鉄道路線廿六、七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は 鉄道線路に沿うて前進することになり一旦二人は別れ、出発の翌朝野田少尉は無錫無錫を距る八キロの無名部落で敵トーチカに突進し四名の敵を斬つて先陣の名 乗りをあげこれを聞いた向井少尉は奮然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた 。
その後野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り記者等が駅に行つた時この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかつた。
向井少尉 この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう、野田の敗けだ、俺の刀は五十六人斬つて歯こぼれがたつた一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ。

大阪毎日新聞の第1報(昭和12年12月1日付)


快絶・百人斬り競争
「関の孫六」五十六人を屠り
伝家の宝刀廿五名を仆す
    片桐部隊の二少尉
常州にて【廿九日】光本本社特派員発
常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたった三日で破ってしまった。神速とはいうが、仮令ようもないこの快進撃の第一線に立つ片桐部隊に「百人斬り競争」を企てた青年将校が二名ある。しかもこの競争が無錫出発の際初められたというのに一人はすでに五十六人を斬り、もう一人は廿五人斬りを果したといふ。一人は富山部隊向井敏明少尉(山口県玖珂郡神代村出身)もう一人は同部隊野田毅少尉(鹿児島県肝属郡田代村出身)である。この二人は無錫入場と同時に直ちに地激戦に移った際どちらともなく「南京に着くまで百人斬り競争をしようぢやないか」」 といふ相談がまとまり、柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀「関の孫六」を撫でれば野田少尉も無銘ながら先祖伝来の宝刀を誇るといった風で互に競争するところあり、無錫進発後向井少尉は部下を率ゐて鉄道線路北六、七キロの線を大移動しながら前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになりi一たん二人は分れ分れになったが、出発の翌朝野田少尉は無錫をさる八キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬り伏せて先陣の名乗りをあげたがこのことを聞いた向井少尉は奮然起ってその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十二名の敵を斬り捨てゝしまった、その後野田少尉は横林鎮で九名、威野関鎮で六名、最後に廿九日常州駅で六名と合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名を斬り記者ら(光本、浅海、安田各本社特派員)が駅に行った時この二人は駅頭で会見してゐる光景にぶつかった。両少尉は語る
向井少尉=この分だと南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだらう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って歯こぼれがたった一つしかないぞ。

野田少尉=僕らは二人とも逃げるのは斬らないことにしてゐます。僕は○官をやってゐるので成績があからないが丹陽までには大記録にして見せる。

記者等が「この記事が新聞に出るとお嫁さんの口がどっと来ますよ」と水を向けると何と八十幾人斬りの両勇士、ひげ面をほんのり赤めて照れること照れること

1937年(昭和12年)12月4日東京日日新聞朝刊



  (見出し)急ピッチに躍進/百人斬り競争の経過
[丹陽にて三日浅海、光本特派員発]
(本文)既報、南京までに『百人斬り競争』を開始した○○部隊の急先鋒片桐部隊、富山部隊の二青年将校、向井敏明、野田毅両少尉は常州出発以来の奮戦につぐ奮戦を重ね、二日午後六時丹陽入塲(ママ)までに、向井少尉は八十六人斬、野田少尉六十五人斬、互いに鎬を削る大接戦となつた。

常州から丹陽までの十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つた訳で壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである。今回は両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北方)の敵陣に飛び込んでは斬りに斬つた。

中でも向井少尉は丹陽中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつゝある。記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する富山部隊を追ひかけると、向井少尉は行進の隊列の中からニコニコしながら語る。

野田のやつが大部追ひついて来たのでぼんやりしとれん。野田の傷は軽く心配ない。陵口鎮で斬つた奴の骨で俺の孫六に一ヶ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人斬れるぞ。東日大毎の記者に審判官になつて貰ふよ。

1937年(昭和12年)12月4日大阪毎日新聞朝刊

 
(見出し)百人斬り競争 後日物語/八十六名と六十五名 鎬をけづる大接戦!/ 片桐部隊の向井、野田両少尉/痛快・阿修羅の大奮戦

 丹陽にて【三日】浅海、光本本社特派員発
 (本文)既報南京をめざして雄々しくも痛快極まる「百人斬り競争」を開始した片桐部隊の二青年将校、向井敏明少尉、野田毅少尉両勇士は常州出発以来も奮戦につぐ奮戦を重ねて二日午後六時丹陽に入城したが、かたや向井少尉はすでに敵兵を斬つた数八十六名に達すれば野田少尉も急ピツチに成績をあげ六十五と追いすがり互いに鎬をけづる大接戦となつた、

即ち両勇士は常州、丹陽たつた十里の間に前者は三十名、後者は四十名の敵を斬つたわけで壮烈言語に絶する阿修羅の如き奮戦振りである、 何しろ両勇士とも京滬鉄道に沿ふ同一戦線上で奔牛鎮、呂城鎮、陵口鎮(何れも丹陽の北)の激戦で敵陣に飛び込んでは斬り躍り込んでは斬り、中でも向井少尉は丹陽城中正門の一番乗りを決行、野田少尉も右の手首に軽傷を負ふなど、この百人斬競争は赫々たる成果を挙げつつある、 記者等が丹陽入城後息をもつかせず追撃に進発する部隊を追ひかけると向井少尉は行進の隊列の中からにこにこしながら

野田の奴が大分追ひついて来たのでぼんやりしとれん、この分だと句容までに競争が終りさうだ、そしたら南京までに第二回の百人斬競争をやるつもりだ、野田の傷は軽いから心配ない、陵口鎮で斬つた敵の骨で俺の孫六に一ケ所刃こぼれが出来たがまだ百人や二百人は斬れるぞ、大毎、東日の記者に審判官になつて貰ふワッハッハッハ

と語つて颯爽と進んで行つた

1937年(昭和12年)12月7日大阪毎日新聞朝刊

 
(見出し)百人斬り競争の二少尉/相変らず接戦の猛勇ぶり

(本文)丹陽にて【三日】句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発 南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、野田少尉は七十八名といふ接戦となつた
(両少尉の写真)
敗けず劣らずの野田少尉(右)と向井少尉(左) (常州にて-佐藤本社特派員撮影)

大阪毎日新聞第3報(昭和12年12月7日付)記事内容は東日と全く同じ。違うのは大阪毎日新聞には、常州で撮影した両少尉の写真あり

1937年(昭和12年)12月13日 東京日々新聞朝刊



(見出し) 百人斬り〝超記録〟向井 106-105 野田/両少尉さらに延長戦

(本文) [紫金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発] 南京入りまで〝百人斬り競争〟といふ珍競争を始めた例の片桐部隊の勇士向井敏明、野田巌(ママ)両少尉は十日の紫金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作つて、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」 向井「おれは百六だ!」……両少尉は〝アハハハ〟結局いつまでにいづれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十 人はどうぢや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた、十一日昼中山陵を眼下に見下ろす紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百 人斬ドロンゲーム」の顛末を語つてのち
知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にし たからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ十一日の午前三時友軍の珍戦術紫金山残敵あぶり出しには俺もあぶりだされて弾雨の中を 「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになってゐたが一つもあたらずさこれもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した。
(写真説明)〝百人斬り競争〟の両将校/(右)野田巌(ママ)少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影。

(昭和12年12月13日付)大阪毎日新聞


東日と同じだが、東日」には”百人斬り競争”の両少尉(右)野田厳少尉(左)向井敏明少尉=常州にて佐藤(振)特派員撮影=とある。一方。大日の写真は「汗を拭う脇坂部隊長 南京郊外にて(十日)本社特派員撮影」【○○福岡間本社機空輸】とある。(「百人斬り」東京地裁判決その3:事実及び理由その2)より