向井敏明」
鈴木明が『「南京大虐殺」のまぼろし」で紹介したもの。「向井少尉弁護人が南京軍事法廷に提出したと推定されるもので、カナ文字で書かれており、原文は読みにくく、且つ長いものなので、とりあえず、要作してお伝えする(一部カナの部分は原文のまま)」とある。

向井少尉上申書

*『「南京大虐殺」のまぼろし』「向井少尉はなぜ殺されたか」より
(一)被告向井ノ中支二於ケル行動
 向井は富山部隊の砲兵中隊に所属。丹陽に向って前進中、十二月二日迫撃砲弾によって脚及び右手に盲貫弾片創を受けたため、後続の看護班に収容され、十二月十五日まで加療した。向井が、富山部隊に担架に乗って帰隊したのは十五、六日だが、それからも治療を続けていたので、東京日日新聞にあるように、十日紫金山で野田少尉とも新聞記者とも会っているはずがない。

(二)特派員浅海が創作記事ヲナシタル端緒(原因)ヲ開明スル処、次ノ如ク解セラル
 記者は「行軍ばかりで、さっぱり面白い記事がない。特派員の面目がない」とこぼしていた。たまたま向井が「花嫁を世話してくれないか」と冗談をいったところ、記者は「貴方が天晴れ勇士として報道されれば、花嫁候補はいくらでも集る」といい、如何にも記者たちが第一線の弾雨下で活躍しているように新聞本社に対して面子を保つために、あの記事は作られたのである。向井は、自分がどんな記事を書かれて勇士に祭り上げられたのかは、全然知らなかったので、半年後にあの記事を見て、大変驚き、且つ恥ずかしかった。浅海記者がこの記事を創作したのは、当時の日本国内の軍国熱を高揚しようとしたためで、また、記事の内容が第一線の白兵戦闘中の行動であるから、誰からも文句が来ないと思い、書いたものと思われる。

(三)浅海、鈴木両記者ノ行動
 向井がきいたところでは、記者たちは無錫より南京まで自動車で行ったはずで、第一線で取材したはずはないと信じている。

(四)犯罪事実ノ無根ナル証拠、新聞記事ノ事実無根ナル証拠左ノ如シ
 1、向井は白許浦に上陸し、丹陽迄歩いて行き、丹陽から湯水まで担架で運ばれたので、  その他の場所に行ったことがない。
 2、向井は浅海記者と無錫以外で会ったことがない。
 3、向井は無錫と丹陽の砲撃戦に参加したのみで、他の戦闘には参加していない。
 4、向井は無錫と丹陽で双眼鏡で中国軍を見た以外、翌年一月八日まで、一人の中国人も見ていない。
 5、向井は砲撃の指揮官だったから、第一線の白兵戦に参加しているはずがない。
 6、向井は野田と丹陽で別れて以来十二月十六日まで会っていない。
 7、記者達は無錫より自動車で行動しているのだから、向井たちを見つけたはずがない。

(五)東京軍事法廷米国国際検事ハ
 被告ヲ「大阪毎日新聞記事」タル同一件ニ基キ、合理的且ツ科学的ニ審査シ「新聞記事」ヲ以テハ、犯罪事実トセス且ツ証拠ナク事実無根ナリト判明シ、民国借五年七月釈放セラレタルモノナルモ、再ヒ被告ハ同一件ニ依り中国軍事法廷ニ立ツ
 合法公正且ツ御寛大ナル御審判ヲ賜ハランコトヲ懇望スル次第テス

(六)尚ココニ 被告ノ家族ノ状況ヲ申述へ御同情ヲ賜ハランコトヲ伏シテ歎願申上ケマス
 老齢七十一歳ノ母 妻 長女 次女 参女 四女 長男、ノ七名ニ之ニ加ヘテ中華ニ於テ散華セル末弟ノ子 二児ヲ被告ノ一人ノ双肩ニ於テ扶養シアリシカ 被告今回ノ拘引ニ依り 今ヤ家族九名ハ老若婦女子ナルヲ以テ 到底生計ヲ営ミ得ス 飢餓ニ苦シミ路頭ニ迷ヒナントスル状態ナリ
 被告 ココニ神ニ誓ツテ申上ケマス
「被告ハ 全々中国ニ於テ 殺人又ハ他ノ犯罪ニ属スルコトヲナシタルコトナシ 如何ニ戦闘行動ト雖モ全クナシ」
 乞ヒ願クバ 目下被告ノ実弟ヲシテ 創作記事ヲ報導セル浅海一郎ノ証明証ヲ当方ニ送附スルト共ニ 記者ノ口述書ヲ東京米軍総司令部経由当方ニ送附スル由ナルニ付 到着スルマデ御祐余賜り度
中国法廷ノ公正ヲ信シ 被告ノ無罪ヲ信シ 期待シアリ 公明正大ナル御審判ヲ賜ランコトヲ

向井少尉、死の直前最後の遺書


「我は天地神明に誓ひ 捕虜住民を殺害せることは全然なし 南京虐殺等の罪は全然ありません
  死は天命なりと思ひ 日本男子として立派に中国の土になります 然れども 魂は大八洲に帰ります
我が死をもって中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り 日華親善東洋平和の因となれば捨石となり幸ひです
中国の奮闘を祈る 日本の敢闘を祈る 天皇陛下万歳 日本万歳 中国万歳 死して護国の鬼となります

向井敏明少尉「獄中手記」(抄)

*「『百人斬り競争の眞実』」東中野修道著より転載しました。

 昭和二十二年十二月十八日の判決以後(期日不詳)
 支那の裁判を初めて知りました。世界無比でしょう。かつての日本人が皆なこの手ですね。

 判決は初めから決定されて、且つプリントに刷ってあったのです。我々が受取った同一判決書を赤面もなく判決として読んだのです。其の頁の所の文句! 赤い印鑑! あの長々の文列の文章! 宣告前五分間の打合せ間中に出来る印刷でも細工でも無い、封筒より取り出す迄の事でしょう。我々の受領した判決書と同一のもの!

 これだけで裁判がわかりませう。人皮面! 平気でマイクを通して言ひましたよ。支那手品ナカ(繰り返し)上手アル。昔からの事です。公平なる裁判長が検事と一緒の立場に立って、検事の代弁、そして検事は起訴状を読んで後は飾り人形、何も言無し。

 裁判長と初めからの論争です。初め三人控室に在る。法庭(廷)は民衆で満員、三階迄一杯です。女性も散見。三人引出され、生年月日、型の如し。私と野田控室に、田中氏残りて論戦を開始、約二十分。

 私、次に交代す。記事を以て殺害の証拠とし、記事を英字小本に転載したもの二片をつきつける。故に小本(英文)は転載なり。

 日日(東京日日新聞)記事の真相を説明、例の地図を以て行動を説明す。申弁書を通訳をして「マイク」で流す。初めより終り迄、民衆は声無く聞くも、役者さん達キョロ(繰り返し)衆人の各席を見廻し、知人でも?見けたかニコ(繰り返し)、指先をチョコ(繰り返し)動かして合図だ(庭長)。他の役者之に従ふ。

 「裁判長―ッ聞キナサイ!聞て下さい!」とマイクに口を付けて半分ドナル。驚いたね、役者連中直ちに真顔!

 申弁書読終るや、庭長又初めから記事と写真と英字小本を証拠として小生に示して渡して呉れた。”庭長以下はこの記事の内容を知って居るや”、”知って居る”、”どう云ふ意味か”。庭長”お前等が二人して老若男女、捕虜を殺害したとある”。

”違フ、神聖なる戦闘記事、起訴状に示す如く勇壮なる肉弾戦の火花を書いたものだ。熟読を要求す。この記事が真実なれば我々の命は百七ツ必要だ。冗談より出た創作なり”

 論戦二時間、野田入庭す。活発にして明瞭に要点を答弁す。”起訴状の中国人とは戦場で何を指や!”と質し、庭長、聞いたことを答へればよいッ”ハイ――ッ”満場爆笑。立派な不動の態度、時として世の中には正しい事も美方(味方?)になる事もあろう。野田君の一語一句が明快にして態度が良く、節度があったので、初めに笑ったが段々立派だと判ったか、水を打った様だ! 一語一句で、民衆は胸に銘ずるものがあったか。

 記事と小本を野田君に渡したが、野田君は受取って、見ないで返して、自己の申弁を読み初めたり。新聞記者団、民衆は勿論、庭長以下、面喰ったらしい。動揺の色を見る。小生そばにて直立して居たが、痛快。

 田中氏入庭、三人並ぶ。これで最後だ、早くも田中氏の最後申弁に入るとは目茶苦茶だ!”南京事件より除き下さって田中家一同は勿論、被告厚く礼を申し上げます”(三人共ニ南京事件ニハ一言モ触レテナイ、言フテモナイ、判決書デ急ニツケラレタモノ)田中氏マイクの前で獅子奮闘・・・(中略)

 次に向井と云ふのでマイクに立つ。一、記事創作なり 一、南京に来た事なし 一、日本人は嘘を言はない 一、日本の戦闘は神聖なり、我等は清く戦へり 一、日華平和の為には一命笑って捧ぐるものなり、の五条を唱ふ。

 野田君、最終中弁書を一句(繰り返し)読上げ、通訳せしめて終り。”公明正大なる判決をなされるべし””政治宣伝的裁判に非ずして、正義の裁判をなさるべし”と叫ぶ。これで三名控室に行き、五分後判決となる。部厚い判決書を手品で作って、不公明、不正大な裁判を終る。
(中略)
 然し、通訳が死刑と云ったときは腹の中で「ガッカリ」しましたね。初めから判決をすれば何も云ふ必要なしでしたよ。手品で腹も立ち、又馬鹿くさくて、三人黙して控へに帰りましたよ。人の事の様に、三人共思って聞いた事は本音でしょう。(後略)

 十二月二十六日早朝
 聖戦は神聖なる戦なりき。ますらをの父、夫は、正しく戦へり。何を以てか戦犯なるぞ。新聞記事、勇壮なる戦闘行動なるべし。記事見せば明かなり。

 記事二葉で、罪、山積せられ、証拠とは。敗戦国民の知る悲劇なり。記事必しも正しからず、記事が証拠とならず。人も知る。未踏の地に我ありきとは何を以て証拠とせん、何を以て答へん。

 敗戦国の戦友では証拠とならざる由、敗戦国記者は証拠とならむ。我に不利なる文字のみが役立ちて、命とるにはわずか数字の証明文が死んだり生きたり。大切なもの、我が為にと思ひし証明が仇をなす二字と、てにはわ(てにをは)が気にかかる。

 証明なれば現実以ての証明なりとぞ思ふも「記者自ら書き」となぜ言へぬ。記事が原因と知りて何とせん。二つの命とこしへになし。我も人の子、人の親、二度と書けまい。国異れば誤解の記事で命をとられる。告白文、口はわざわいのもと。人柱記事はわざわいのもと。見方言方聞方は人の心と思はねど心せく・・・十二月二十六日早朝 文章乱れ来る

 十二月二十六日
 母上様、敏明は逝きますまで呼んで居ります。何と云っても一番母がよい、次が妻でしょう。母さんと呼ぶ毎にはっきり姿が浮んで来ます。子供等も家も飛んで出て来ます。ありし日の事、梅もなつかしく映って来ます。

 母上には苦労心痛かけましたね。赦して下さいね。楽しい日もありましたね、思出の数々。母も力を落さないで頑張って下さい、孫等の為にも母自身の為にも、お願致します。病苦に苦しまれるが早く最良の治療して下さい。私の事、世界も正しく見て来れる日も来ます。世間様にも正しさを知して下さい。

 早くこの悲劇も忘れて幸福に明るく過して下さいね。無理かも知れませんが、心を沈めたり泣いたり、ぐちを言はないで猛(弟)等孫等と共に面白く過して下さい。再起して下さい。御胸に帰ります。我子帰ると抱いてやって下さい。

昭和二十三年一月二十八日
様子が変である。最後の様である。
二十八日午前十二時
恵子子!(注/千重子夫人の誤記か)元気でさようなら 頑張って下さい 幸福になって下さい
 母上様! 生き抜いて下さい 不幸をゆるして下さい
 猛様 元気で幸福に 後を頼みます
              (処刑一時間前の走り書き)
*『正論』平成十二年三月号掲載文と原文とを照合のうえ、旧字
 は略字に置き換え、適宜句読点とルビ、改行をほどこした。