野田毅の遺書及び日記(昭和22年12月20日~昭和23年1月28日)
『南京「百人斬り競争」虚構の証明』野田毅著 溝口郁夫編より重要と思われる部分を抜粋しました。
凡 例
一、遺書の原文の漢字、送り仮名等は統一が取れていないが、そのままとした。
二、原文の仮名遣い、送り仮名は出来るだけ尊重した。但し「使ふ」などのは行は、「使う」等のわ行、あ行に、また、「ゐ↓い ゑ↓え らう↓ろう せう↓しょう」とした。ただし、和歌、俳句の仮名遣いは原文の旧仮名遣いのままとした。
三、原文はカタカナ部分と平仮名部分が混在しているが、煩雑さをさけるため、和歌、俳句のカタカナはすべて平仮名とした。
四、判読不明の箇所は□で表示した。句読点、段落を適宜つけた。
五、編者注記は[ ]中に記した。
六、読みやすくするために、昭和二十二年十二月中の文章の先頭には日付をつけた。
野田毅遺書(昭和22年12月20~昭和23年1月30日)
12月20 御父母上樣 十二月二十日 毅
一、南京市、太平路、文昌巷二十一号 崔培均律師(律師は弁護士の意)
内容 民国二十六年十二月十八日公判に於て私の為辨護し無罪を主張されました。公判庭[廷。以下、同じ]の通譯官の話に依りますと、実に肺俯を衝く様な名弁論だった由です。言葉は解りませんでしたが熱火の様な口調と誠意がこもっていたので感謝しています。此の様な弁護士が中国に居られる事は将来の日本と中国の親善にも心強い事と信じます。
二、南京市、珠江路、小営、国防部戦犯拘留所、陳思通譯官
内容 日本東京上智大学出身、拘留所で色々お世話になり親切にして頂きました。
三、I 中華民国、華中、無錫、前洲鎮 尚振氏(尚旭東)
2 上海 清涼寺 轉交(気付の意)
内容 片親が日本人で一緒に拘留所の中に居ましたが無罪で早く出所しました。向井君と二人で特に親しくしていた中国人台湾人の内の一人です。私達が釋放になったらお互に手をとって貿易をやろうと計畫して居ましたが水の泡になりました。中国を知り日本をよく知っている傑物です。外から二回程手紙を頂きました。日本文の手紙も日本人と全然変わりません。生前の厚意をを感謝しています。
四、南京拘留所内 磯貝[磯谷]簾介閣下、髙橋閣下、内田閣下、小笠原氏、三島氏、小西氏、廣田氏、中島氏、外園氏
内容 一緒に碁をうったりショウギを指したり一本の煙草も分けてのみ、一身同体一つの家族の様に睦まじく暮しました。真実に親身も及ばぬ様な親切心を衷心より感謝しています。涙の出る位です。
特に小笠原氏は私と同室でした。十一月六日頃から十二月十八日迄の短い期間ではありましたが兄弟の様に食事の副食等も一緒でよく煙草等も貰いました。不自由な生活なので煙草等は貴重品です。又日本文を華文に翻譯する時は小笠原氏に頼んで台湾の方に頼んでもらったものです。兄弟喧嘩もやりました。小笠原君は二十八才で私より弟ですが兄貴の様になって申弁書の書き方等を教えて貰ったものです。
高橋内田両閣下には親の様に指導して心配して下さいました。(裏面につゞく)右の方々の住所は小笠原氏や外園氏から連絡がある筈ですから其の時お聞き下さい。
五、(小笠原さんへ、林さん、金さんの住所を聞いて記入して下さい)
台湾嘉義市堀川町二七號 林快青
韓国釜山府寶永洞一街一二四番地 金英宰 [二行別字体、小笠原氏の加筆と見られる」
内容 林さんは台湾の方ですが日本をよく知っておられるのは勿論のことですが、答弁書、申弁書、上訴申弁書等殆んど連日ぶっづけに翻譯を引き受けて下さいました。其の上我々の気を落さない様によく力づけて下さいまして、何と云って感謝していいか、解らない位です。死んでしまってはお礼の致し様もないので父上からもよく御礼を申上げて下さい。
金さんは朝鮮の方ですが非常に親切にして頂き第一回の答弁書を翻譯して下さったかたです。
六、住所不明の際は芳名録にあります。
師 安田先生外、部隊長、親友、戦友、親戚、故郷田代村、其他(個人名は略)
内容 生前の御厚意と御指導を深謝致します。私は日華両国の恩讐を越えて両国の楔となって南京露(雨)花台の露と散っていきますが、魂魄は止まって皇城をお護り致します。刑場に於ては陛下の萬歳を唱え君が代を歌います。心の中でお聞きとりお願いします。人生五十年化轉の中に比ぶれば既に其の半ばを過しております。戦友や部下が待っていることでしょう。さらば、末永き幸福と日本再建のご努力を祈りつつ。
宛 鹿児島県肝属郡田代村麓五七三 野田伊勢熊樣
野田大楠(毅)
遺書 (省略)
遺品 (省略)
これから思い出すままに魂の叫びを記録致します。
一、御母上様御老齢になられましてからまでも色々御心配をおかけ致しまして親不幸の罪お許し下さい。
御両親様の子として(感(まま)心要の弟の子とよく父上はおっしゃったものですが、伊勢熊の子としてテルの子として)毅は天地神明に誓って潔白であった事を信じて下さい。
中国側の云う所謂南京事件なるものには絶対に関係なく、断じて南京大屠殺事件なるものをやってはいません。冤罪です。死刑を宣告されましたがこれも命なり運なりです。
人生五十年と申します。其の化轉にくらぶれば既に過半を御父母上様御慈愛の光りの下に過さして頂いたのを感謝致しています。
戦争では「一人息子を亡くしたとて泣いては済まぬ、二人亡くした方もある」どころか全ての息子を亡くされた方もあるのですから、毅も戦争で死んだものと諦めて下さい。どうせ人間一度は死なければなりません。此の世の生きとし生けるものは天の死刑があるのです。呵々先に行くか後に行くかだけの問題です。
泣いて暮らすも笑って暮らすも五十年です。
余生を笑ってお暮しになる事を草葉の蔭よりお祈り致して居ます。(十二月二十日 記)
12月21日
公判は12月18日南京市の公会堂のような處でありました。雪の降る寒い日でしたが聴衆がいっぱいでした。女、子供もいました。 日本男児として恥ずかしくない態度で終始しました。「今までの戦犯公判では一番立派な態度でした」と後から通訳官やその他の人から聞きました。最後の檜舞台の積もりで、大音声で答弁致しました。従来の公判では死刑を宣告された瞬間、拍手があったり、或いは民衆の喧々轟々たる声があったらしいですが、我々の時は終始静粛でありました。
一緒に公判を受けた向井君は長時間ねばって答弁しました。
田中[軍吉]さん(「皇兵」と言う本[山中峯太郎遍、昭和15年]という本に三百人斬の文句があったのでそれでひっぱられたらしいです。経歴人格は前田君[吉彦、田中軍吉大尉と同じ鹿児島歩兵第四十五連隊の本部付騎手]が承知の筈です)は、聴衆に向かって「私の死は問題ではありません。日本と中国の親善の楔となれば幸です。」という意味に熱弁を振い、将に鉄火が白熱して飛散する感がありました。
公判の最後に死刑の宣告がありましたが、別に感動も何もなく、まるで他人事のような気がして、自分で自分が不思議な位平然としていました。向井君はチョットふらふらしたと後で云っていました。
田中さんは私と同じく身動きもせず、毅然としていました。帰途の自動車(トラック)上では田中さんが「海ゆかば」を歌い、向井君も之に和していました。
拘留所に帰ってからは外の戦犯の人々とは切り離されて独房に入れられました。其の夜は徹夜して上訴申弁書を書きあげました。華文翻譯清書等は通譯官の手を経て小笠原君、小西君、三島君[光義、蘇州憲兵隊軍曹]、林さんに頼みました。
判決書が来てからまた上訴書を書く予定です。
判決書は明二十二日頃、手に渡ると思いますが、上訴書は判決書受領後十日以内に出す事になっています。二十九日頃出す予定です。上訴書の宛名は法庭長、白国防部長、蒋主席です。
人事を盡して天命を待つと云う意味に於て盡すだけの事は盡します。上訴書が却下になれば、今年一杯の命です。昨年十二月十八日判決があって三十一日死刑を執行された鶴丸と云う人があります。
二十一日朝食後、此處まで書いている處に陳通譯官から「内地から浅海一郎(男)記者、富山大隊長の証言書がつきました。航空便で」と云って来られました。
真実嬉しくて(繰り返し)泣けてきました。然し上訴書と此の証言書が果たして聞きとどけられるかどうかわかりません、それにしても嬉し涙は後から後へと流れてきました。
田中さんが死刑宣告のあった夜「神の奇跡があるのみ」と云われましたが、今度の此の嬉しいニュースを聞いた時、真先に声をあげて泣いて下さったのは田中さんでした。
真実に自分の事の様に。様にではありません、自分の事として喜んで下さいました。
絶対の死地にはいっていた我々でした、が前途にかすかではありますが希望の光が見えてきました。戦いはまだこれからです。何となれば法庭で反証は認めないと云う事を法庭長が云っておられます。後は法庭長が反証を認めるかどうか国防部長と将主席が如何なる裁決を下すかどうかです。
「御父上が成田町においでなられた」と猛氏の手紙にありました。私はこの一句を讀みました時思わず大の男の毅は「お父さん・・・」と叫んで泣きました。そして又「お父さん・・・」と。目前に悠々たる死を直視して明鏡止水の境地にありました私の心に一点の生への執着が滲み出てきました。
澄みきった私の心がかき乱されて、私個人としては精神修養上寧ろ此の証明書が来ない方がよかったのにと思う事でした。
今まで絶対の死の方に立っていましたが、今度は宮本武蔵の二刀流、生と死の岐路に立つ事になりました。未だ未だ安心はなりません。(二十一日夕刻)
12月24日
一、今日は二十四日です。此の四日間、[日記]を書いてないのは、上訴審辨書の原稿を書いていたのです。
二十二日判決文が参りました。私の残した一見書類の中にありますからご覧下さい。相手にとって不足のない位物凄い判決文です。
埋没された屍十九萬、田中さんの方は惨殺されたるもの三十萬、と云う南京大屠殺事件に関係があると云うのです。向井君と私は残虐なる百人斬りの獣行によって日本女性の歓心を買わんとしたのは現代人類史上聞いた事がないと云うのです。思わず笑い出してしまいました。
斯うなったら折角送って下さった証言書も役に立ちそうもありません。上訴文の末尾に添えて提出はしますが、もう諦めます。
上訴文は人事を盡して天命を待つと云う意味で、向井君の意見を聞いて今日やっと出来ましたが、長くなり過ぎて、高橋閣下や小笠原君の意見により重点的に簡単にして頂きました。修正文は高橋閣下が直接筆をとって下さいました。華文翻譯、清書等は全部同所内の小笠原さん、小西さん、三島さん、台湾の方々にお頼みし、お任せ致しました。もう裁判の方には思い残すことはありません。
田中さんと向井君の弁護士は仲ゝ親切な方で、二十二日判決文の渡った日に我々を訪ねてきて上訴書の参考を下さいました。流石弁護士で成る程と云う様な名申弁書でした。「中国にもこの人あり」。このような弁護士も居られるのかと思うと、日本と中国は眞心から手を握らなければならないと思いました。
向井君と私は共犯で同一上訴です。殆んど右の弁護士の文そのままを上訴書に致しました。
「南京市大石土覇街 薛誦斉律氏」宛 お礼状をお願いします。
一、人類愛に国境はありません。薛弁護士は真実に親切な方でした。看守の兵隊達も我々に対して親切です。死刑囚だから惻隠の心があるのでしょう。(後略)
12月24日夜
一、正子殿へ(本文略)
一、豊子殿へ(本文略)
(中略)
向井君から父上へ
「口は禍の元、冗談を云ったばかりに大事な独り息子さんを死の道連にして申し譯ありません」との事です。
向井君「奥さんどうするか」(のり子の意味)
私「結婚して貰うさ」
向井君「離別していて良かったよ。虫が知らしたんだね」
向井心中より御詫び申上げます。両名は正しいです。意の不通を残念に思います。[向井氏の花押、以上毛筆の書き込み]
12月24日 夜
一、宛 中山のり子樣 鹿児島市長田町106(本文省略)
12月25日
一、田中弘秋樣 川辺郡加世田町津貫
南京屠殺事件にくつつけられ、とんでもない濡衣を着せられました。「口は禍の元」と申します。向井君の冗談から百人斬競走(争)の記事が出て、それが俘虜、住民を斬ったと云うのです。無実であることを信じて下さい。私の上官、同僚、部下に聞いて頂いてもわかります。天なり命なり。只今上訴中ですが後は神の採決に任すだけです。(中略)
一、前田吉彦君へ(本文省略)
一、上原誠二叔父様(本文省略)
(中略)
一、真山青果著忠臣蔵の中に、上杉勢が来るのを待っている時の堀部安兵衛の言「死ぬに未練あっての思案ではない。未練を残すまいための思案なのだ。はやり立つのは勇気じゃない。静まりかえるのこそ此の場合の勇気なのだ。」の一句、誠に至言ぢや。私も今から未練を残すまいための思索をせいぜいやりましょう。貴重な残り少ない時間ですからね。どうも、今まで漫然としていた様です。此處まで書いたら又漫然と本でも凄みたくなりました。
向井君は「本等讀まずに、生きて目をあけている間は起きていた方がよい。今の中、出来るだけ話をして置こう。永遠に話も出来なくなるから。」安兵衛の流儀です。だが私はねむたくなったらねます。
一、死刑宣告のあった翌日の夜は寒かった。コンクリートの獄中の寝台の中で樋口一葉論を讃んだ。今夜は暖い。忠臣蔵面白い。矢頭右ェ門七十七才、主税十五才、少年だ。
そして芳名千古に薫る。俺の場合は南京屠殺の汚名。どうも感心しないが、日本の賠償の一つとして諦めるか。野田毅の一個の名前等たいしたものではない。星光一瞬、宇宙の直径二億光年。其の先に未だ宇宙がいくつあるのかすら解っていない。人類文化が筆録されだしたのが僅か四、五千年前からだ。今後一億年後の地球を夢想した者があるか。光芒一閃、野田大楠無か、有か。
一、子供をたくさん残していたかったと思う。不思議な心理だ。人間種族保存の本能と云う奴だろう。男の子がいたら、と思う。俺の意志を継ぐ男の子が。
田中さんは情熱的三十一文字によって男の子に傅え、向井君又愛情の濃墨によって伝う。佐久良東雄又其の男子に托して憂国の熱情を傅う。
欲しかった。愛をそそぎ、思想を傅うべき男の子が。田中さん、向井君が羨しい。(十二月二十五日)
12月26日
(前略)
一、今朝、揚さんからビスケットが我々三人に届きました。隣の獄窓から親心がもれてきました。
田中「旨いね。このビスケット。子供に喰わしたいね」
向井「そうですね。然しそれを云わないで下さい。つらいですよ」
親思う心にまさる親心 今日のおとずれ 何と聞くらん
一、政策の犠牲となりし君あわれ 君が代叫び雨花台に散る(小笠原氏作)
外国の野山を紅(あけ)にぞ染むるらん 血の色ささげ君は散るかも(小笠原氏作)
右の歌と共に上訴書が出来上がった旨、小笠原さんから手紙が来ました。友情多謝、感激、感涙あるのみ。(中略)
一、中間稔さま(姶良郡東国分)(本文省略)
一、髙橋八郎さま(丸亀市宗古町)
会ってビルマ時代の話をしたかった。小生、南京屠殺事件に引っかけられて、死刑宣告。無実の罪だが、日本が敗れたから仕方がない。私の潔白は知る人ぞ知る。川島さんにも会いたかった。ビルマ独立の秘史を小生と同郷の前田吉彦君が聞きにまいる様だったら話してあげて下さい。
「死して護国の鬼となる。さらば」ビルマ時代の諸兄によろしく(二二、一二、二六)
(中略)
2、明治維新の志士の歌や遺書を讃んでみると調子が低い。国を護るとか夷を打つとか、如何にして死ぬか、死は問題でないとか、色々云って云るが、それ以上に出ていない。死が恐いから云っていると思われても仕方がないではないか。只吉田松陰のみが「大みことを疑って申譯なし」と云っているのが僅かに流石と思われるが、志士と云ってもたいした事はないぜ。ソクラテスは我は思う故に我は在りなんて云つたかどうか。ソクラテスもたいした事ない。我は信ず故に我は在りだ。戈を捨て武器を放擲した日本は芸術、哲学、科学、祖教等の上に打ち建てられた文化で行くべく、神が示されたのである。(二六日)
一、今日はフンドシと肌着を洗濯した。ついでに身体を拭く。何日ひっぱり出されても綺麗にして行きたい。石田三成が薬を所望した気持ちが解る。薬と云えば、四、五日前から風邪気味でセキがでる。拘留所の中国軍医仲々親切で、いづれ近い中に死んで行く我々の処へ健康状態を聞いて薬を置いてゆく。医は仁術、医だけじゃない。
愛は萬古に通じて惇らざる一大哲理である。聖賢の教えは文字だけではわからぬ。体得である。俺も田中祖師ぢゃあないがあらゆるものの体得が完成したと確信する。偉そうな事云う様だが生死一如にして初めて全ての哲理がわかる。物理学の方に高次元の世界が見いだされた。斯うなると哲学である。厳然たる客観は千古に亘る。だが主観なくして客観はない。結局一如ゝゝ
フンドシから主客観論まで発展したから、ここらでチョットー休み。
一、田中さんから来たあまた数ある歌の中で面白いと感じた奴をぬきだしてみる。
○ひょっとしてひょっとやられる心配も ひょっとあるかと考へにけり (田中氏作)
○時によりどちらのひよつとくるかなとひよつとを思う心凝らして(〃)
○野田と話せば死を感じ君(向井少尉のこと)と語れば生思ふなぜかと問うか信念の相違(〃)
○「四字程抹消」□らぬことのなどかある天地つらぬくこの我が誠(〃)
「生を信じ最後まで朗かに行くのが幸福だろうか。それとも覚めて起きて死を考えるのがいいのか」とは向井君の述懐。死に際しあわてない様に最悪を説くのが俺。生を信ずるのが田中さん。向井君に対する返答が右の第三番目の歌である。
情況判断と云う奴は最悪を考慮しておけば間違いない。情況判断が狂った時はいい方ばかりだからだ。日本が大東亜戦を初めた時、最悪の敗戦を考えてやったろうか。だから現実に直面した時に驚くのだ。
田中さんは歌人である。詩人である。もっと生かして、鳴かし歌わしめたいものである。
(二六日夜)
一、看守の中に顔は不細工だが親切な班長さんが居る。
「お気の毒で何とも言葉がない」と漢字で書いて煙草をくれた。国境を越える、愛は。何故地球上の人類はお互に憎み、怨み、疑はねばならぬのか。だがやがては人類の一宇、絶対平和境が来る。地球上に人の姿が現われたのは五万年前からである。後一萬年、いや一千萬年経つたらどうなるのだ。太陽系の一族がお互に交通し得ないとは誰か保証する。量子と波動。それは一億光年の彼方での事実でもある。ケチケチ戦う時代は過ぎる。世界が武器を捨てる時機が必ず来る。そして国境の無くなる時代が。だが中心は必ずある。なければならぬ。
太陽系では太陽が中心である。その太陽系も宇宙の或一角を目指しつヽ動いているではないか。太陽系そのものもあるものを中心に動いているのだ。極少の量子もそうだ。「中心」は哲理でなくて事実だ。(未完。推察せよ。二六日)
12月27日
一、贈呈 父母上様
○すめらぎに つかえまつれと吾(ア)を生みし 吾がたらちねぞ 尊かりける(佐久良東雄作)
○故郷(フルサト)や しみじみと聞く 師走雨(獄中自作)他5首
一、迫田どんへ(本文省略)
一、馬渡康則樣(本文省略)
一、静夫さん(本文省略)
一、篠原亮さん(本文省略)
一、昼頃、陳通訳官殿が、航空便が来たと知らせて下さった。
十二月十九日付だ,同時に向井君の弟さんからも来た。十月二十三日付。
向井君の弟さんの手紙には「二十日、新聞で死刑宣告の記事を見た。証明書が間に合わなったのが残念。無実の罪で處刑されるのではあきらめきれない」旨が記してあった。そして成田不動さんの判断が書いてあった。
日く「望み事進みて利あり。躊躇逡巡は不利の運命なり。今勇気と決意を以て暗き囲みを打ち破るの一事なり。控訴の手績により一命を救わるべき縁とぞ。明一月は減刑の縁に會うべし。信心、毎朝東方へ向かい、ヲンソマシリソハカ、西北方へ向かい、南無阿彌陀佛、戌の日に西南か東北か詣り祈るべし。」
向井君、早速合掌、拝んでいた。」
向井君宛の手紙及竹村氏[元富山大隊の書紀]の証明書を、早速華譯して提出する様に小笠原さんへ依頼する。上訴期間は判決正文受領の日(二十二日)より十日間だから、三十一日迄は証明書も受け付ける筈だ。公判の日(十八日)から十日間だったら二十七日の今日までだ。充分間に合う。田中さんも喜んで下さった。「望みなきに非ず」という小説があるが、果たして此の結果如何。(二十七日)
一、父母上様(本文省略)
(中略)
一、吉川英治作「恋車」を読んでいたら、隣の向井君「よくそんなもん、讀んでおれるな」。
西郷さんも、城山の洞窟で碁を打っていたではないか。生を願わず、死を願わず。ボンヤリし過ぎているのかな。
○たらちねの便り嬉しや暮の晴 (獄中自作)
○静けさや獄中の遺書光さす ( 々 )
今日は嬉(まま)れて窓から暖い陽が獄中の具中辺りまで手をさし出している。飯が喰いたい。一休和尚は元日や冥土の旅の一里塚と喝破した。一飯一飯、俺等も近づくか?
向井君の手相を見る「絶対大丈夫だよ」と云ってやる。駄目だったら、手相はアテにならないと思って頂きます。生きたら信じてよし。世界の人間の指紋が同一のものがない。二十億の人間がそれだ。不思議ではないか。人相亦同じ。因が果を生じ、果が又因を生じる。無機化学には公式がある。割り切れる。だが有機は割り切れないところがある。生命に至っては全然割り切れない。ところが直観で割り切る事がある。此處に至っては益々不思議。其處に禅機がある。(二十七日)
一、田中さんが「窓口に出てくれ」と云われる。「正気の歌に註がある。曰く、日の光は日本を照らす。余った光が他の國を照らす、と。野田君どう思う」
私「それこそが偏狭です。」
田中さん「そうだ。此處に今までの日本の誤りがある、日の光は公平であるべきだ。平等に世界を照らして云いるのだ。」
○まな板にゆたりと鯉の昼寝かな(田中祖師作)(後略)
12月28日
前略
一、日本国民に告ぐ(参照)
12月29日
(前略)
一、○冥土行く書を讀む獄の月寒し(田中さん訂正、男の子われ読書にうつつ死刑前)
○死刑前 讀書に無心(うつつ)の 男児哉(自畫自賛)
○太平記 面白し 死刑三日前(田中さん訂正、面白しあと三日かな太平記)
(二十九日夜)
12月30日
一、今日は三十日、明三十一日一日を餘すのみとなった。向井君はタベ一睡もせず、田中さんは徹夜して遺書を誌した由。私は太平記を讃み疲れてよく寝てしまった。私は小さい時は負け嫌いで、そのくせよく泣く神経の鋭い男だったと思う。だが何時の間にか神経の鈍い男になってしまった。寸前の死の観念が心臓にも神経にも何等響きをもってこない。死に対する恐怖が無い。死が直前にぶらさがっていても、食事前の気分、讃書の気分と何等変りがない。と云って全然死を忘却しているわけでもない。面白い心理だ。
戦争では気が立ってた昂奮しているから死を考えもしなければ、たとえ死を考えても、盡忠報国の気分が之を抑圧していた。然し平静な時に死刑が宣告されて、平静心のままで居られることは、私も三十五才にして初めて到達し得た大丈夫の心境だと思う。古今東西の如何なる聖人、賢士、哲人、高僧、悟人、偉人、武将も結局私と大差無いどころか同じだと信ずるに至った。
「生命もいらぬ。名もいらぬ。金もいらぬ。こう云う男は始末に困る。然しこう云う男でなくては国家の大事は為されぬ」と西郷隆盛は喝破した。云うは易く行うは難い。南洲翁は右の言を実行したのだ。俺も実行出来る。国家の大事だけぢゃない。東洋の大事、世界の大事を断乎為し得ると確信する。否、信ずるのでなくて行住座臥が東洋平和世界平和につながっているのである。
つまらぬ戦争は止めよ。曾っての日本の大東亜戦争のやり方は間違っていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思ったところに誤謬がある。日本人皆がそうだったとは云わない。だが、日本人皆が思い上がっていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。愛と至誠の在るところ人類の幸福がある。(三十日)
一、死刑執行の前日である。爪をとる。故郷への形見である。(三十日)
12月31日
天皇陛下萬歳 ‼
中華民國萬歳 ‼
日本國 萬歳 ‼
東洋平和萬歳 ‼
世界平和萬歳 ‼
死して護國の鬼となる
絶 唱
君が代は 千代に八千代にさざれ石の 巌となりて 苔の蒸すまで
昭和二十二年十二月三十一日朝 死刑執行の日
野田 毅
我は 日本男児 なり
昭和二十二年十二月三十一日
三十五才 野田大楠 花押
(後略)
昭和23年1月1日
一、昭和二十三年一月一日
明くれば昭和二十三年の新春。遥か東天を拝し、聖壽萬歳を祈り、故郷の父母に新春のお慶びを心中に申上げる。生の有難さの喜びである。死線を突破した私にはもう恐ろしいものは何もない。野田毅は死んで、野田大楠が生まれたのである。「思い切って大きな仕事をやるぞ」と胸中に大喝一声。[次の行よりひらがな]
○獄窓に 年新たなり 君が代の歌 (野田作)他10首
1月2日
通訳官殿の点検を経て手紙が来た[次の行よりひらがな]
(小笠原氏からの手紙)
元旦や東に向かい只祈る 三人(みたり)の友を救い給えと
(後略)
1月3日
○起きて読み ねて読む 春の(獄の)日永かな (野田作)
1月4日[次行よりカタカナ使用]
生の喜びと希望が生じた。田中さんも向井君も話すことは将来の希望である。日本に帰ったら三人がっちり盟約して、何か仕事をやろう。帰国の際は、伊勢にお参りして、成田不動様に御礼参りしよう。そうだ、鹿児島の温泉にもつかって、別府廻りで東京に出よう。伊勢の山田で伊勢えびを喰わして貰おう。どんな仕事がいいだろうか。生産がいい。中国との貿易もいい。等々。話しは何処までも発展する。
然しである。我々の死刑は執行になるか、死一等を減ぜられるのか、又は、覆審になるのか、全然未だ決ったわけではない。今年は死刑を出さないと、米英中三国が申し合せしたとの噂をちらりとは聞いたが、確かなものではない。まさかA級裁判まで死刑を無くするものでもあるまい。一切は未だ模糊として不明である。蒋主席が上訴書に対して如何なる判決を下すか、一寸先は蛇が出るか鬼が出るか解らない。闇か、光明か。
今日は日曜日。中国の政府は今日までは休日だろう。後数日後には我々の運命もはっきりする。
(後略)
1月5日 月曜日
今日からぼつ(繰り返し)危険地帯にはいりかけた。昨日迄は中国政府も休日だったが、ぼつ(繰り返し)今日あたりから、仕事を初めるだろう。上訴書の運命や如何に。
二日の夜肺病の中島さんを上海に送って行った陳通訳官殿が、夕べ帰ってこられた。隣房の向井君が陳通訳官殿に話しかけている。「大丈夫だよ。(繰り返し)」と陳通訳官殿の声が聞える。「大丈夫」との一言だけでも、たとえ、それが気休めの嘘にしたところが、そして覚悟は既に決っているとは云うもののやはり嬉しい気がする。
「今日から危険地にはいる」と小笠原さんの方へ連絡したら「何処からの情報か」と心配そうに向こうから反問してきた。友情心哉、(繰り返し)。
終日読書。
○楽しさや 喰ふ吸ふ讀む寝る 死刑囚 他6首
○木枯しや ミョウメヨウ(繰り返し)と 山羊の鳴く
○楼咲く 頃帰らんと 語る夢
○夜半の冬 死刑囚房に 小便の音
獄房に 小便の音 冬の夜半 (田中さん訂正)
○我を呼ぶ 木魂凍てつく 友の声 [次行よりひらがな]
さびしいのだろう。コンクリートにはねかえって、カーン(繰り返し)と響く隣房向井君の声。それは絶えず私か田中さんを呼んでいる。応じて答えると安心する。我が友。無理もない。我々は死刑囚なのである。
○冬の陽の 落ちて無事今日も 終りたり
[冬の陽の]今日も無事にて 落ちにけり (田中さん訂正)
向う奥の監房から、流行歌が聞こえる。三島さん金さんのいい声。「田中さ~ん、歌わないですか」と三島さんの声。「田中さん、子守歌どぅですか」と私と向井君がすすめる。田中さん何か外国語の歌をやりだしたが、英語でもなし、中国語でもなし、わけがわからない中に、また、三島さんの浪花節が流れてきた。
「お~い、向井君。元旦から一〇〇日したら内地に帰れるとしたら、百分の五経ったわけだね」と、田中さんの声。成る程、至言。
一月六日 火 晴
最近暖い日がつづく。「希望を失うな」と小笠原さんから激励の言葉が送ってきた。
西遊記を讃む。荒唐無稽だが、面白い。
小西さんと小笠原さんから毎朝、五本の煙草が送ってくる。だが夕刻になると吸い轟して無くなる。又援兵を願うと、三本とか五本とかおくってくる。真実に友情には感謝の外ない。夕食の時、飯椀を小西さんが持ってきて「ひげがのびたね」と云ったので、向井君ぼろぼろと涙を流したそうだ。向井君自ら話してくれた。
「そこが貴方のいいところだよ。情が深いんだね」と向井君に向かって私は答える。向井君は多情多感、即ち熱血漢である。
田中さんは依然として死生を超越している。此處数日間の作業だと云って佛教の各宗派の開祖、開紀、所依教典、宗旨、特色、教勢、根本道場、本山名刹等の一覧表を見せて下さった。悠然たる態度である。
1月7日
朝早く向井君が呼ぶ。「何だ」と答えると、「今日は駄目だ」との返事
「どうして」
「いくらお経を唱えても今日は駄目。おい、今日は覚悟せよ」ときた。
「今日は大丈夫だよ。おい、心配するな」
「いや、駄目だ。夢を見た」
「どんな夢」
「揚子江で、三人で魚やえびを釣っていたら、日本行きの大きな汽船が二隻下って行った。あれに乗るんだと思ったら目が覚めた。その次は東京だと思ったが、羽子田飛行場で飛行機に乗ってアメリカに行こうとするところだった。その時は、野田君はいなかった。田中さんと私だけだった」
「何んだ。いい夢じゃないか」
その時、田中さんが口を入れた。「五臓六俯の疲れだよ。アメリカに行く時は俺が案内しよう」
向井君が心配するのも無理はない。あの公判日から数えて今日は二十一日目(三週間)である。
1月8日 木
橋本文夫訳「マイステル・エックハルト」を読む。十三世紀の独逸僧侶「マイステル・エックハルト」の思想は佛教の禅と同一である。何等耳新しいものでもない。だが、理づめの欧州にたった一人かかる人物が出現した事は珍しい。白色人種にも禅が理解出来ない事はないと云う証明になるのは、東洋人としてよろこばしい事だ。
直観から直ちに悟入し得る東洋人は幸福と云わねばならぬ。西洋の科学と東洋の精神とが渾然一体化した時に世界に偉大なる文化が起る、否、もう其の時機が到来しているのだ。地球文明の時機、それを為すは誰ぞ。
「我の以前に神無し」俺は喝破する。「我は神なり」次いで俺は喝破する。
○冬ごもり 無心の紫煙 ゆーらゆら
1月9日 金
(前略)
兵隊さんが紙きれを渡してくれた。くるくるまるめた紙。何だろうと拡げてみた「蒋[介石]的命令、現在不準殺日本人、諸你們三位放心好了」。
「ほほー」次いで「ははゝゝゝと私は笑った。兵隊さんは中国兵である。その中国兵が恩讐を越えての愛情が嬉しいのである。私はその文句が嘘であるか、眞実であるかは、全然考えもしない。只その美しい人情が嬉しいのである。だから中国兵の愛情の爪によってわたしの心の弦がピーンと鳴って、ははゝゝゝと笑ったのは音響の共鳴の原則である。
共鳴は物理的原則だけではない。人情と云う精神界のみならず、理智の世界にも共通の原則である、と同様に物理界の諸原理が哲学界を左右するのは當然である。そして科学が生命の神秘の扉を開ける時機もそう遠い将来ではない。[次行よりひらがな]
○爆音の 紫煙揺るがす 冬曇り 他6首
(後略)
1月10日
(前略)
久し振りに通訳官殿が降りてこられた。田中さんが針と糸で(ママ)注文していた。私も扉の小さい窓口に顔を出した。
「通訳官殿、永い間お顔を見ませんでしたがお元気でしたか」と話しかけた。
「心配していましたよ」と向井君が合の手を入れる。
「通訳官殿、遺書をかえして頂けませんか」
「そうだね。未だ向う(小笠原、小西君の意味)に渡してないが、それは向こうが心配すると思ったからだ。かえしてあげよう。心配する事ないよ。死刑はないよ」と明るい顔だ。
通訳官殿が針と糸を、向うの三島君の方へ取りに行っている間に、向井君早速田中さんに死刑がないと云う事をとり継いでいた。
(後略)
1月11日 日 曇
「死刑からひっくりかえったものは今迄無いよ。僅かに上海で一人だけだよ」と田中さんが云った為、向井君又しょげてしまった。「駄目だよ。そんなにぐらついちゃ」と田中さんと私とで攻撃する。攻撃によって救われるなら幸甚である。
夕食後、私の離婚談一席。「生きてかえったら又一緒になりますよ」で「うん、それがいいよ」と、田中さんも向井君も相槌を打つ。
私はね「何處にもとつぐな。子供の為にと、家内に遺言しましたよ」と向井君が云う。次いで「そうか、俺はね、自分が最も幸福と信ずる道を選んで行け。いい人がいたら結婚せよ、と遺言しておいた」と私が云う。
「向井君、君のは奥さんを信じていないよ、野田君の行き方がいいと思うな」と田中さんが判決を下す。「いや、それがわけがあるんですよ、わたしの義姉がね……」と向井君。話しはそれからどんどん発展して夜の更けてゆくのもわからない。
(後略)
1月12日 月
(前略)
○静けさや 獄にしみ入る 夜寒かな(小笠原氏作)他2首
1月13日 火 晴
今日も死刑執行はないらしい。久しぶりに晴れた。だが風が外を吹きまくっている。窓硝子がガタガタと鳴っている。時折山羊がメメメと鳴く。
1月14日 水 晴
吉田松陰の野山獄中在中は、午前四時頃起床して読書に専念している。「マルコポーロ」はゼノア獄に在る時、あの大旅行記を書いている。印度の志士「ネール」も又星と共に起きて世界史を書いている。
獄生活は早起きの習慣をつくるものらしい。
1月15日 木 晴 風強く冷寒なり
昨日は連絡班から味噌、漬物の差入れがあった。味噌は旨い。本日で全然煙草がなくなりました。そして今日田中さん向井君私の三人宛で小西、三島、小笠原の三君より手紙がきた。
「洋服を売りとばして二十萬円、及[び]帽子と交換して煙草を約一月間差入れしました。最初、約二、三ヶ月間差入れする予定でいましたが、一人一日十本以上平均になって、本日で煙草は全然なくなりました。それで遂に賣却するものがなくなった。日本人として同胞の不幸を黙視することが出来なかったのですが、今後どの程度御期待に副い得るや確信がありません。
と云って友情が薄情に成った意味ではなく、熱情は今昔と雖も変わりない事を御参酌下さい。終日一室に幽閉されて、其の日(繰り返し)の運命に流れ漂って居る三兄の現在を吾々とても人事とは思っていません。
赤裸々に云えばどうせ死ぬものなら、せめて生存中に出来る丈のお世話をして上げたい、御力になって上け(ママ)たい、幸いにも共に生還出来たら、尚吾等の微力も其の効ありたるもの念する心は何時も変りありません。此の点御了解下さい。」要旨は大体右のようなものであった。
(中略)
「あんまり永いようですが、どうですか」二階から降りてきた通訳官殿を掴まえて向井君が聞いている。
「大丈夫だよ。安心しなさい」と通訳官殿の顔は明るい。むしろにこ(繰り返し)顔だ。
「そうですか」と私の声は次いでハハハと笑いに変わった。
1月16日 金 晴 但し寒気強し
芥彌三吉著「大楠公詳伝」を讀む。
櫻井駅の別れより湊川戦死。次いで正行の自刃せんとして母堂の諫止の件(くだり)にいたるや鼻頭を金槌でがーんと叩かれ、脊髄に白金の灼熱したものをぐーんと差し込まれた様な気がして、紙面が涙の霞によって茫々として曇ってしまった。楠公誠忠傅を読みて泣かはざるは忠臣に非ずとは古人が云ったが、いやしくも日本人として公の至誠に感じない者はないであろう。人によって感じの程度に差があるだけの話である。
(後略)
1月17日 土 晴
公判より数えて丁度一月である。よくも此處まで生きて来たものである。嘘の様な気持ちである。赤穂義士が討入の日から五十数日も生きていた筈だ。細川藩以下旧藩に預けられている間の義士は笑ったり、話したり、戯れたりしている。
大石良雄は「断じて徒党を組んだのではない。各人の忠魂が独り(繰り返し)をして集る結果とならしめたに過ぎない」と云って弁明している。世評は義士を救助せよと云う声の方が遥かに高かった。その噂は當然義士の耳にもはいっている筈だ。だから義士連中はひょっとしたら助かるかもしれないと考えていた者が多かったろうと思う。然し本心は死か生か最後迄わからなかったのが本当だろう。
私達三人は当初からいきなり死刑ときたのだ。九分九厘九毛まで絶対の死地である。それが次第に生の希望が湧いてきた。それにしても最後迄生か死かの何れか一つであって、依然として不明な点は赤穂義士の場合と同じ心境である。此の点義士の心境は云うに及ばず安政の大獄に於ける志士の心境をも味わい得た事は、私の幸福とするところである。
死刑と無期と何れを囚人として選ぶかと質問したら、百人が百人無期を選ぶのは当然である。それが人間である。其處に生命の神秘があり面白さがある。死の覚悟は別として生死の巌頭に在る時の平静さは其の人其の人によって異るが、単に生を望むか、死を望むかの二点の何れを採るかと云えば、その答えは問題にならない。
(後略)
1月18日 日 晴
(前略)
情報がはいった。「中国全国の難民は三千三百万人に達し蘇州に救済所を設置したが民衆暴発のおそれがある。内戦に依る交通杜絶、生産の低下、戦禍等により物価は急激なる上昇の一途を辿るのみ。対日和平は何等進展しない」
一体此の様な情勢で東洋の平和は何時のことだろうか。東洋赤化の嵐が「アメリカ」の怒濤と激しく衝突する。再び世界は鉄火のるつぼと化し去るのではないだろうか。行くべきところまで行かねば、真の平和の女神は微笑まないのか。そして中国の社会政治情勢、世界の態勢は我々死刑囚に如何なる結果を及ぼそうとするのだろうか。総ては未だ(繰り返し)未知数の分野に我々の生命はさまようているようだ。
(後略)
1月19日
(前略)
「起死回生の際の盟約をつくったらどうだ」との田中さんの提案で「それは賛成。野田君一つ起案せよ」と向井君が早速應ずる。私は早速原案をつくって田中さんに送る。田中さんが修正して出来上がったものが左のものである。
血 盟 規 約
昭和二十二年十二月十八日我等三名は死刑の宣告を受け、生死の関頭に於て肝胆相照らし共生同死、義を踏んで怖るることなく、勇んで雨花台に散華し歓喜以て大御命に帰命し奉らんことを誓えり。今、図らずも再生の縁に遇う。天意を感ずること切なり。依て茲に更めて義兄弟の契りを結び、同甘共苦、心身一体、終世相扶けて其の志を成さんことを約す。我等の素願となす所左の如し。
一、我等は無窮に皇統を奉持し、永世に天皇に帰命し奉らん。
二、我等は皇國の真使命に徹し、皇基を宇宙文明の中心に確立せん。
三、我等は天皇を地の太陽なりと信じ、身を以てその恵沢光華の宣布に任ぜん。
四、我等は大愛、叡智、至誠を以て、偏狭独善を排し、億兆の為に地上の楽園を顕現せん。
五、我等は諸学の粋を抜き、萬教の精を蒐め、四海の美を求めて集大成し、以て世界人類の福祉に寄与せん。
右の為、田中軍吉は長兄として皇都東京に位置して企画司令し(計画主任)、次兄向井敏明は神域伊勢に占位して経営拡充し(事業主任)、次弟野田大楠は祖地鹿児島を確守して開拓推延し(行動主任)、先づ共同事業に依って資金を充足すると共に、所在の人材を引きて、遂に同志を天下に求め、以て其の大成を期す。
之が実行に当りては、昭和二十三年祖国帰還の際、爾後に於ては毎年初頭に於て、伊勢神前に會して誓いを新たにし、細部の打合せをなすものとす。右誓約す。
昭和二十三年 月 日
中華民国南京戦犯拘留所死刑囚独房内に於て
田中軍吉 四十四才
向井敏明 三十七才
野田大楠 三十六才
○色づいて 楊柳の枝に 春近し(小笠原氏作)
小笠原さんからのニュースによると、外園君は昨日検察があって、許可あり次第、帰国せしむると、云われた由。便所くみに出て行く外園君の姿を見た田中さんが「外園君、御目出度う」と、大声をあげた。守衛の中国班長が顔つきと身振りで「ううん」と云って、話を制止していた。戦犯拘留所内の友情の発露は自然の美しさと同じである。三府四十三縣を向うに問題として出したら、回答が来た。照らし合わしてみたら、不足縣名は群馬縣だった。許し給え、群馬瓢民諸兄。
1月20日 火 晴
寝てから頭がずきずき痛んだ、風邪でもないらしいが原因不明。頭痛と云う現象は私の生涯には記憶しない程稀なことである。
夜、副所長が「明日ひげを剃らしてやろう」と云ったとかで、向井君が又気をつかいだして、「何故だろう。意見を乞う」との紙きれをよこした。覚悟が出来ていたら何でもないのだが。「なんでもない、心配御無用」と云うわたしの返事を當然豫期しての逆戦法である。そして又さみしがり屋なのだ。気をつかうだけに情愛はとても、深くこまかい向井君である。
1月21日 水 曇
蕾の梅の小枝を洪さんが差入れてくれた。それは昨日のことである。優しい心の持主がいるものだ。小壷に入れて窓に置いたが今日は曇り、それに連絡班から漬物、梅干、お菜、煙草、塩、茶、歯磨粉等の差入れがあったので、容物がなく、遂に梅の小枝の安住地たる壷をあけてしまった。そしてながしの水の放出口に差し込んだ。可愛想な梅の蕾よ。
○希望(のぞみ)あり 友情の梅ヶ枝 陽の静か (昨二十日の作)
(後略)
1月22日 木 曇
「北氷上(カナダのラブラドル)の聖者グレンフェル」を読む。わたしの思いがけない時代に私の知らない世界に私の知らなかった人が人道の愛を実践しているのを見出したことは、忘れられた山中に白百合を見出した喜びである。グレンフェルは云う「死は生の反証ではない。生の肯定の実証である」。又日く「現世の彼方の生は現世のエネルギーの保存所である」と。エネルギー不滅の法則がゴムのようにあの世迄引き伸ばし得ることを信ずる者は幸いである。だからと云って私はエネルギーの引伸写真を肯定するものでもないし、又否定するものでもない。感心な人が居たものだなと感心して喜んだだけの話である。
1月23日 金 雪
○曙や 梅ふくらみぬ 水明かり 他6首
(中略)
○死と生と どちらが夢か 雪の春 田中さんがテンサク 生と死と・・・窓の雪
夕暮は何時訪れてきたのかわからない。それほどの雪明りだ。生きているのが夢か、死ぬのが夢か。暮れ雪明りは瞑想の深淵に引きづり込む。河童がけつの穴から肝を抜く時は、此んな気持ちがするのではないだろうか。死刑囚の心理学をコットー品に銘打ったら数寄者が喜ぶ。一つ心理学古物商でも初めるか。風流が詭弁学派の手品によって商賣に変化したようだ。此處で翻然として正気にかえった。でないと、脳味噌の妖気が発散して天涯に飛ぶおそれがある。もっとも冥想や思想が金斗雲に乗って飛んで行ったところで構いはしない。私か生きている限りは地球の空気層を破って帰って来る。但し流星となって光ったのも束の間、つまらない隕石の現実にぶつつかるだけの話である。
(中略)
○なんとなく 無性に家の恋しき日 なくな小山羊よ 親はあっちぞ
○吹雪く庭も 楽しかるらし 親を追ふ ざれてかけゆく 黒き子豚等
(田中てんさく)
○長曳いて 夜汽車の汽笛 雪に消ゆ (いねがての 雪の夜寒や 汽笛なる)(長く曳く 汽笛はうつゝ 惜しき夢)
○外は雪 映るヒゲ面 窓の夜 (夜の雪 ヒゲ面映す 獄の窓)
○窓吹雪 映るヒゲ面 生きてこそ (ふぶく窓 映るヒゲ面 生きてます)
○ミドリちゃん 父は生きてる 獄の雪 (父は生き 雪をなめてる ミドリちゃん)
ミドリは別れた妻に残した私のたった一人の子供。生きて帰ったら一緒に住んでやろう。可愛い私の女の子。
1月24日
(前略)
がちゃん、ちゃら(繰り返し)と音がして、つづいてちろ(繰り返し)と水の音がした。看守兵の部屋で魔法瓶がこわれたらしい。朝の出来事だ。中国兵がふざけている中、机の上の魔法瓶に手が触れた結果だ。二、三時間経ってから
「気持ちが悪いよ。イライラしてね、今迄寝ていたよ」と向井君が隣室から声をかけた。魔法瓶が木葉微塵になったのを気にしているらしい。昨年十二月十八日公判の日、朝食の時、向井君が魔法瓶をとり落して木葉微塵にした事に関連して前途に不吉を感じたのだろう。
あの時、露人(戦犯嫌疑者中たった一人の毛唐)が「こなごなに壊れるのは瑞兆だ」と。西洋流の迷信によって慰めてくれた。真実に西洋では木葉微塵に壊れるのはいいのか、わるいのかは知らないが、あの時、向井君が魔法瓶をとり落して間もなく、五分もたたない中に、同室の廣内さんだったか露シヤ人だったか、お椀を落して割ってしまった。そして其の公判の判決は死刑だったのだ。
だが、私は迷信として片づける。いささかもこんな事で心が乱されない私の信念を私は喜ぶ。
(後略)
1月25日 日
夜は晴、底冷えのする冬将軍の猛威とは今日のこと
理性の網は真理の魚を掬う。それも大洋の一掬に過ぎない。愚小なる私を漁夫の姿に見る。大洋の一滴それは余りにも己を寂しくさせる。水平線下の蒼深き人間の悲しみの一滴。其の思索の一滴が髣髴たる水天の一髪を破って星に飛ぶ。銀河の涯は思考を超越して比例級数も及ばない一億光年の彼方である。此處に水平線上の寂びしくも高き人間の喜びの星が燦然として輝く。悲しみと喜び、苦みと楽み、悩みと悟り、怒りと笑い、全ては茫々乎たる人生である。鋭き澄まされたる氷柱(つらら)も人の心緒である。春陽に落ちて砕けて溶ける水も人の情緒である。鋭く柔らかく人の心情、変り行くエネルギーの姿である。其の姿に私は萬石の愛情の涙をそそいでは喜びの泣きを泣くのである。そして又泣きの喜びを喜ぶ。
隣房から来る向井君の手紙の何と美しい生命の告白であろうか。
[次行から、ひらがな]
「毎日田中兄と事業の話をして楽しんで居る。燃える様な気持ちである。反面・・・生への愛着か?寂しくなって来る。楽しい話しになればなる程不安がする。
此の苦みから一思いにと思う事すら近日多し。逃げる事も出来ねば死ぬる事も出来ぬとすれば、如何するか。日々を待つのが亦増して苦しい‼知らぬ事乍ら手相を見るよ!
信念をと云われる田中兄の気分はよく解る。信念を持って来たが、結果がこれだ!
これからの信念が大切と思うが! 喜悲の表裏が反復して来るよ。
これが生、死と正面から角力をとっている様だ。念仏も乱れ勝ちで泣いている。貴殿の心境如何?どう思う」
思想の荒れを雪に托し、悟りを夜半の月光に求め、心の温味を湯呑に探す。詩は生命の美しき織物です。プリズムの七色光線の限外に言外の意が含まれ。波を打っています。
○泣く思い しん(繰り返し)と落つる 獄の雪 他15首
1月26日
朝だ。やがて、向井君の讀経が聞える。
○讀経の 友冷え(繰り返し) 夜の白み
朝日が光る 萬物が光る
○チュチュチュンと 子雀かけくら 雪の晴 (田中さんテンサク 雪晴れや チュチュチュンチュンと 小雀が)
[1月27日の日記は欠]
1月28日 [遺書に傍線あり]
南京戦犯所の皆様、日本の皆様。さよなら。
雨花台に散るとも、天を怨まず、人を怨まず。日本の再建を祈ります。
萬才(三度繰り返し)
野田毅君 昭和二十三年一月二十八日十二時(日本時間午后一時)雨花台に散る
故野田毅君の冥福を祈る
小笠原芳正
(向井利明も同日処刑)
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