「野田毅」第二上訴申弁書(仮称)日付不明

(『南京「百人斬り競争」虚構の証明 野田毅著 溝口郁夫編』より転載 *行は編集者注記)
 *文中、「第一証明書」「第三証明書」は富山大隊長の証明書、「第二証明書」は浅海記者の証明書、「要図」は「答弁人行動概要図」を示す。中文部分(判決内容)の訳は、『南京「百人斬り競争」の真実』を参照した。原文の中文は、法務省が訳したものである。

第二、判決正本に基き詳細に亘り申弁すること左の如し
一、判決事実に「向井敏明及び野田巌(毅)は紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し、各々刺刀を以て老幼を問わず人を見ればこれを斬殺し、其の結果野田巌は百五名、向井敏明は百六名を斬殺し勝を制せり」とあるも事実無根の理由左の如し。(要図参照)
1、向井は民国二十六年十二月二日、丹陽に於いて負傷しありて、新聞記載の紫金山麓の百人斬競走の日付十二月十日、十一日、十二日頃は丹陽野戦病院に於て、入院治療中なり。 次いで十二月十五日頃、丹陽より湯水砲兵学校に駐留中の原隊に復帰せり。従って湯水以西南京城迄の地区に立ち入りたることなし。(別紙第三受傷証明書参照)
 野田は富山大隊主力と共に十二月十日前後、第一線に追及すべく句容北方を迂回行軍中なり。十二日離麟門東方に於て行動を中止し、南京に入ることなく、湯水砲兵学校に駐留す。即ち、戴麟門以西南京城迄は地区に立ち入りたることなし。(別紙第一証明書参照) 右述の如く、向井、野田共に絶対に紫金山麓に存在したることなし。したがって、紫金山麓に於ける不在人物たる両被告が、殺人競餐[争]を為し得るが如きは、恰も河水が下より上に逆に流れるが如く、絶対に不可能事なり。

2、「南京の役に於て、我軍の強硬なる抵抗に遭遇し云々」の如く、中国軍が陣地を構築して強硬に抵抗せる紫金山の戦場に、老幼其の他の住民が存在し得るものなりや否や。又、南京市民が、日本軍が攻撃し来る紫金山方面に、果して逃避するものなりや。常識を以てするも自明の理なり。
 また、判決理由に「殺俘虜及非戦闘員」とあるも、当時抗戦意熾烈なる中国軍がおめおめと俘虜となるものに非ず。  被告が南京戦犯拘留所に於いて紫金山を望見したるところによれば、山腹は波状起伏ありて樹木あり。中国軍が後退せんとせば、極めて容易なる地形なれば、紫金山に於て俘虜を生ずるの理無し。
 汎□富山大隊は草場部隊の予備隊として、第一線に追及せんとしたるも、遅れたる為、騏麟門以西の紫金山の戦斗には、遂に参加する能わざりしものなり、即ち紫金山に存在せざりし富山大隊所属の被告等が、前述の如く存在し得ざる俘虜住民を殺し得るものなりや。三才の童児と雖も此の理を理解し得べし。

3、野田は副官にして、常に富山大隊長の側近に在りたり。向井は無錫より丹陽の間は富山大隊長の直接指揮下に在りたり。被告等の直属上官たる富山大隊長は「毎日新聞紙上記載の如き百人斬競走の事実なし」と証言しあるを以ても、「野田巌は百五名、向井敏明は百六名斬殺」は事実に非ざること明なり。(別紙第一証明書参照)

4、被告等は絶対に住民及捕虜等に対する残虐行為無し。浅海勇記者も証言しあり。(別紙第二証明書参照)

二、判決事実「日本投降後、野田巌等相前後して東京に於て盟軍(連合国軍)総司令部に逮捕され、我駐日代表団に依りて南京に解送され、本庭(本廷)検察官に依りて起訴されたるものなり」に対する申弁、左の如し。
1、被告等が民国三十六年[一九四七]八月二十日、盟軍総司令部に逮捕せられたるは、中国当局の要求によるものなり。総軍司令部自身が逮捕したる時は、必ず東京巣鴨拘置所に於いて取調べるを通常とす。しかるに被告等は巣鴨に於て一回も訊問も尋問を受けたることなし。此れは盟軍総司令部が中国当局の要求により、被告等の身柄を暫時保管したることを意味するものにして、被告等の犯罪事実を意味するものに非ず。

2、向井は民国三十五年七月一日、東京国際軍事法庭国際検事団美国検察官より、厳重詳細なる審査を受け、新聞記事の百人斬競争は事実に非ざること、及南京大屠殺に関係なきこと判明し、七月三日釈放せしめられたり。
 又、記事の責任者、浅海一男記者も該案件につき民国三十五年七月在東京盟軍A級軍事法庭美国パーキンソン検察官の審査を受け、不問に付されたるものなり。(別紙第二証明書参照)
 野田は向井と同一案件なりしため、美国検察官は野田を□□□□□□□□【判読不明】 右の如く東京国際軍事法庭に於いては、全々犯罪事実なきものと判定し不問に付したるものなり。

三、判決理由に「按ずるに、被告向井敏明及び野田巌は南京の役に参加し、紫金山麓に於て俘虜及び非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し、その結果野田巌は合計百五名、向井敏明は百六名を斬殺して勝利を得たる事実は、当時南京に在留しありたる外籍記者記者田伯烈(H・y・Timperley)がその著『日軍暴行紀実』に詳細に記載しある」とあるも、犯罪証拠として価値なき理由、左の如し。
1、被告等が紫金山麓に於て絶対に俘虜及非戦闘員を殺害せざりしことは、一、犯罪事実の項に於いて述べたるが如く、浅海記者も既に証言せり。(別紙第二証明書参照)

2、該書籍中、被告等が俘虜及非戦闘員を殺害せりとの記事ありや、被告に明示され度。又、悪意を以てせば如何様にも曲筆し得るものなり。

3、該記事は外籍記者が単に日本新聞より転載したるものにして、田伯烈記者が被告等の行動を目撃したるものに非ず。例えば文中に向井(MUKAI)89、野田(NODA)78とあるは、東京日々新聞の句容の記事を転載せるものなること明なり。

4、仮に田伯烈記者が被告等の行動を目撃して記述せるものとせば、一項に於いて述べたる如く、句容及び紫金山麓に於ける不在人物たる両被告の行動を目撃するは、恰も白昼両眼を開きて夢を見るが如し。

5、「日軍暴行紀実」の発行期日は、東京日々新聞記載の期日の後なることによっても、転載されたる事、明なり。

6、田伯烈記者が華軍(中国軍)陣地より見たるものとせば、何処の地点に立ちて何処の地点を望見せるものなりや。また、如何にして多数の日軍将兵中より、向井、野田なる事を識別し得たりや。
 また、日軍戦線内に於いて見たるものとせば、南京滞留中の該記者が如何にして戦場を突破して日軍戦線内に来りたるものなりや。被告等は未だ曽つて外人記者と会いたることなし。

四、判決理由に「遠東国際軍事法庭中国検察官弁事処が捜獲せる当時の『東京日日新聞』が、被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし、如何にその超越的記録を完成し、各その血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して『悦』につけある状況を記載しあるを照合しても明かなる事実なり。なお、被告等が炫耀する為に一緒に撮影せる写真があり、その標題には『百人斬両将校』と註しあり、これ亦その証拠たるべきものなり」とあるも、犯罪の証拠にならざること左の如し。
1、被告等が紫金山麓に存在せざりしこと、及び斬殺百人の競宴の事実無かりしことは、被告等の直属上官たる富山大隊長の既に証言せるところなり。(別紙第一、第三証明書参照)

2、「各その血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して『悦』につけある」の記事は、浅海記者が証言せる如く、目撃したるものに非ず。即ち興味的に創作せるものなること明なり。

3、被告等の写真は無錫付近に於ける記念写真にして、紫金山麓百人斬競走には何等の関係もなく、又何等犯罪証拠に非ず。

4、該記事は東京国際軍事法庭に於いて、浅海記者の供述により事実に非ざりしことが明白となり、被告等の潔白が立証されたるものなり。(別紙第二証明書参照)

五、判決理由に「更に南京大屠殺の既決犯谷寿夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても、それには『日軍が城内外に分鼠して大規模なる屠殺を展開し』とあり、その一節には殺人競争があり、これ即ち本件の被告向井敏明と野田巌の罪行なり」とあるも、被告等は何等関知せず。又関係なきこと左の如し。
1、谷元中将は第六師団長にして、被告等は第十六師団に所属し、少尉なり。谷元中将と被告等は、各々部隊、行動、職責、所在地を全然異にす。したがって谷元中将の案件とは何等関連性なきこと明なり。

2、南京城内外に大規模屠殺ありたりと云うも、被告等は未だ曽つて聞きたることもなし。敗戦後、中国新聞より転載されたる日本新聞により初めて知り、不可思議に思いたり。若し大屠殺事件ありたりとせば、被告等は湯水砲兵学校駐留間に聞く筈なるも、全然伝聞せず。

3、被告等は、大隊長証言の如く、南京城外に来たることなし。即ち、向井は丹陽に於いて負傷し、直路湯水砲兵学校駐留の原隊に復帰し、湯水以西に立ち入りたることなし。また、野田は騏麟門東方より湯水砲兵学校に後退し、騏麟門以西に立ち入りたることなし。(要図及別紙 第一、第三証明書参照)

 若し麒麟門東方をも南京城外と称するなら、湯水、句容、無錫、上海も南京城外と称し得べし。
 したがって被告の行動せる地域は、大屠殺を展開せりと云う南京城内、南京城外の何れにも抵触せず。即ち、大屠殺に関係なし。

4、「その一節には殺人競争があり」と云うも、前述の如く被告等は南京城外の大屠殺には関係なし。殺人比賽[競争]の事実無根なることは、大隊長証言の如し。従って、向井、野田の罪行に非ず。

5、谷元中将の罪名の認定を以て被告等の罪行を推定判断したるは迷惑至極なり。

六、判決理由に「その時我方の俘虜にされたる軍民・・・以上を綜合して観れば則ち被告等が南京大屠殺作戦の共犯として係ったことは、実質的に毫も疑義なし」とあるも、南京大屠殺に関係なきは勿論のこと、事実すら絶無なること左の如し。(別紙第一、第二、第三証明書参照)
1、富山大隊長の証言せる如く、向井は湯水以西、野田は騏麟門以西南京迄の地域に立ち入りたることなく、又被告等将兵は湯水砲兵学校駐留問全然外出を禁止せられ、南京方面に外出したることなし。したがって、地域的に見ても、絶対に南京大屠殺に関係なし。

2、富山大隊長の証言せる如く、新聞紙上記載の如き百人斬競走の事実、絶対になく、又浅海記者の証言せる如く、被告等は絶対に俘虜住民を屠殺するが如き残虐行為をなしあらず。したがって南京大屠殺の共犯に非ざること明白なり。(別紙証明書参照)

3、「被告等は当時若年ながら人格高潔にして模範的日本将校でありました」と浅海記者も証言せる如く、被告等は天地神明に誓って潔白を確信しあり。

七、判決理由に「更に本庭もその発葬地点に於て屍骨及び頭顱(頭蓋骨)数千具を掘り出したるものなり」とあるも、地点、被害者氏名、年代等不明にして、何を以て被告等の犯罪の確証とせらるるや、理解すること不可能なり。

八、判決理由に「然れども作戦期間内に於ける日本軍当局は軍事新聞の統制検査を厳にしあり。殊に『東京日日新聞』は日本の重要なる刊行物であり、若し斯る殺人競争の事実なしとせば、その貴重なる紙面を割き該被告等の宣伝に供する理は更になく」とあるも、駁論左の如し。

1、判決文にある如く、又浅海一男記者の証言する如く(別紙第二証明書参照)、日本軍当局の新聞検閲は極めて厳重なりし為、俘虜及び住民を屠殺するが如き記事は「パス」する能わず。即ち「パス」せる該記事は凶悪残忍なる俘虜住民屠殺、また、これが競走に非ざること、明なり。(別紙第二証明書参照)

2、新聞社は百人斬競走の事実無くとも、読者を多数獲得する為、宣伝的に報導することあり。

九、新聞記事の真相


「新聞記事の真相」(平成13年3月、野田少尉の遺品の中から発見)


(以下『南京「百人斬り競争」虚構の証明 野田毅著 溝口郁夫編』より転載)
百人斬り競争記事の真相(*行、編集者注)
 *野田少尉は、二十八日頃に「第二上訴申弁書(仮称)」を書き、末尾の第九項に最後の望みを託して「百人斬り競争」の創作経緯を追加しています。全文を紹介します。[原文は、漢字、カタカナ書きである。漢字は新字体に、カタカナは平仮名表記とし、適宜、句読点を付した]

 被告等は死刑判決により既に死を覚悟しあり。「人の死なんとするや其の言や善し」との古語にある如く、被告等の個人的面子は一切放擲して、新聞記事の真相を発表す。依って中国民及日本国民が嘲笑するとも、之を甘受し、虚報の武勇伝なりしことを世界に謝す。 十年以前のことなれば、記憶確実ならざるも、無錫に於ける朝食後の冗談笑話の一節、左の如きものもありたり。

記者「貴殿等の剣の名は何ですか」
向井「関の孫六です」
野田「無名「銘」です」
記者「斬れますかね」
向井「さあ未だ斬った経験はありませんが、日本には昔から百人斬とか千人斬とか云ふ武勇伝があります。真実に昔は百人も斬ったものかなあ。上海方面では鉄兜を斬ったとか云ふが」
記者「一体、無錫から南京までの間に白兵戦で何人位斬れるものでせうかね」
向井「常に第一線に立ち、戦死さへしなければねー」
記者「どうです、無錫から南京まで何人斬れるものか競走[争。以下、同じ]してみたら。記事の特種を探してゐるんですが」
向井「そうですね、無錫附近の戦斗で、向井二〇人、野田一〇人とするか。無錫から常州までの間の戦斗では、向井四〇人、野田三〇人。
  無錫から丹陽まで六〇対五〇、
  無錫から句容まで九〇対八〇、
  無錫から南京までの間の戦斗では、向井野田共に1〇〇人以上と云ふことにしたら。おい、野田どう考えるか。小説だが」
 野田「そんなことは実行不可能だ。武人として虚名を売ることは乗気になれないね」
 記者「百人斬競走の武勇伝が記事に出たら、花嫁さんが刹[殺]到しますぞ。ハハハ。写真をとりませう」
 向井「ちょっと恥づかしいが、記事の種が無ければ気の毒です。二人の名前を借[貸]してあげませうか」
 記者「記事は一切、記者に任せて下さい」
  其の後、被告等は職責上絶対にかゝる百人斬競走の如きは為ざりき。又、其の後、新聞記者とは騏麟門東方までの間、会合する機会無かりき。
  したがって常州、丹陽、句容の記事は、記者が無錫の対話を基礎として、虚構創作して発表せるものなり。尚、数字に端数をつけて(例、句容に於て向井八九、野田七八)事実らしく見せかけたるものなり。
 野田は騏麟門東方に於て、記者の戦車に搭乗して来るに再会せり。
 記者「やあ、よく会ひましたね」
 野田「記者さんも御健在でお目出度う」
 記者「今まで幾回も打電しましたが、百人斬競走は日本で大評判らしいですよ。二人とも百人以上突破したことに[行替え後、一行判読不可能]
 野田「そうですか」
 記者「まあ其の中、新聞記事を楽[し]みにして下さい。さよなら」
  瞬時にして記者は戦車に搭乗せるまま去れり。
  尚、[当]時該記者は向井が丹陽に於て入院中にして不在なるを知らざりし為、無錫の対話を基礎として、紫金山に於いて向井野田両人が談笑せる記事、及向井一人が壮語したる記事を創作して発表せるものなり。
  右述の如く、被告等の冗談笑話により事実無根の虚報の出でたるは、全く被告等の責任なるも、又記者が目撃せざるにもかかわらず、筆の走るがままに興味的に記事を創作せるは一半の責任あり。
  貴国法庭[廷]を煩はし、世人を騒がしたる罪を此処忙衷心よりお詫びす。

 *微かな望みを抱いて大急ぎで書いたのですが、どうも提出に至らなかったようです。「新聞記事の作られた経緯」を後世に伝えたかったものと思われます。この真相を書き終え、野田少尉は「遺書」を本格的に書き始めます。