[野田、向井]起訴書


国防部審判戦犯軍事法庭検察官起訴書
被告 向井敏明 男 年三十六歳 日本山口県人 砲兵小隊長
野田毅(即ち野田岩) 男 年三十五歳 日本鹿児島人 副官

右記被告に対する民国三十六年度偵字第十九号戦犯案件は、偵査終了の結果、起訴すべきものと認む。茲に犯罪事実及び証拠並に所犯条例を左の如く分述す。
一、犯罪事実
 向井敏明及び野田毅(即ち野田岩)は共に日本人にして、同じく敵十六師団富山隊に服務し、向井敏明は砲兵小隊長に充任。野田毅は副官に充任せしものなり。七・七事変後、被告等は軍に従って来華し、民国二十六年十二月五日、我が江蘇句容県に於て入城せし時、向井は我が国人八十九名を殺し、野田は七十八名を殺害せり。
 同年十二月十一日、南京攻城戦中、該被告等は再び百五十人斬りの競争をなし、紫金山麓に於て向井は百六名を殺し、野田は百五名を殺害せり。
 勝利後、駐東京盟軍総司令部を経て逮捕し、本庭に解送偵査す。
二、証拠及び所犯法条
  右記事実は、己に敵従軍特派員浅海及び鈴木を経て、その目撃情形を前後して東京に伝達し各新聞紙は、その勇壮をたたえ争って連載してこれを万人に伝えたが、更に遠来国際軍事法庭中国検察官弁事処を経て、検獲した東京日日新聞を資料とし考査するに、該新聞に登載せし被告等の写真も亦それに符合して居り、証拠確実にして、自らその空言狡展に任せて、刑責を免がれることは出来ない。
 斯る所為は、実に戦争罪犯審判条例、第二条第二款、第三条第一款の罪の重大嫌疑を構成するもので、且つ査するに被告等は共同して犯罪行為を実施したるもので、法に依り皆正犯と為し、また同一の意思を以て連続的に同一行為を為したるものなるを以て、重きに従って処断すべきものなり。
 依って戦争罪犯審判条例第一条第一項第二十六条、刑事訴訟法第二百三十条に依り起訴す。
 本庭審判官   軍法検察官 李璿
                           中華民国三十六年十二月四日
     右正本は原本と相異なきことを証明す。         書記官 方家摸

国防部審判戦犯軍事法庭 判決

公訴人 本庭検察官
三十六年度審字第十三号
被告 向井敏明  男   年三十六歳 日本山口県人  砲兵小隊長
   野田巌(即ち野田毅)年三十五歳 日本鹿児島県人 日軍第十六師団富山大隊副官
   田中軍吉 男    年四十三歳 日本東京人 日軍第六師団第四十五連隊中隊長
指定弁護人 薜誦斉律師  崔培均律師
右被告等の戦犯案件は、本庭検察官に起訴せられ本庭に於て判決すること左の如し。
 主文
 向井敏明、野田巌、田中軍吉は作戦期間、共同連続して、俘虜及び非戦闘員を屠殺したるに依り各死刑に処す。
 事実
 向井敏明、野田巌は作戦期間内、日軍第十六師団中島部隊に隷属し、前者は少尉小隊長、後者は副官に任しあり、田中軍吉は第六師団谷寿夫部隊に隷属し、大尉中隊長なり。
 民国二十六年十二月南京の役に於て、我軍の強硬なる抵抗に遭遇し、銜痕[恨]の余り計画的屠殺を以て欝噴を晴らさんとし、田中軍吉は京城西南郊外一帯に於て宝刀『助広』を使用して俘虜及び非戦闘員計三百余名を連続的に斬殺したり。
 向井敏明及び野田巌は、紫金山麓に於て殺人の多寡を以て娯楽として競争し、各々刺刀を以て老幼を問わず、人を見ればこれを斬殺しその結果、野田巌は百五名、向井敏明は百六名を斬殺し、勝を制せり。日本投降後、野田巌等相前後して東京に於て盟軍総司令部に逮捕され、我駐日代表団に依りて南京に解送され、本庭検察官に依りて起訴されたるものなり。

 理由
 按ずるに被告向井敏明及び野田巌は、南京の役に参加し紫金山麓に於て、俘虜及び非戦闘員の屠殺を以て娯楽として競争し、その結果、野田巌は合計百五、向井敏明は百六名を斬殺して勝利を得たる事実は、当時南京に在留しありたる[実際には在留せず]外籍記者田伯烈(H.y.Timperley)が、その著「日軍暴行紀実」に詳細に記載しあるのみならず
 即ち遠東国際軍事法庭中国検察官弁事処が捜獲せる当時の「東京日日新聞」が、被告等が如何に紫金山麓に於て百人斬競争をなし、如何にその超越的記録を完成し、各その血刀を挙げて微笑相向い勝負を談論して、「悦」につけ[い]りある状況を記載しあるを照合しても、明らかなる事実なり。
 なお、被告等が兇刃を振ってその武功を炫耀する為に、一緒に撮影せる写真があり、その標題には「百人斬両将校」と註しあり、これ亦その証拠たるべきものなり。更に南京大屠殺案の既決犯谷寿夫の確定せる判決に所載せるものに参照しても、それには「日軍が城内外に分竄して大規模なる屠殺を展開し」とあり、その一節には殺人競争があり、これ即ち本件の被告向井敏明と野田厳の罪行なり。
 その時、我方の俘虜にされたる軍民にて集団的殺戮及び焚屍滅跡されたるものは十九万人に上り、彼方此方に於て惨殺され、慈善団体に依りてその死骸を収容されたるもののみにても、その数は十五万人以上に達しありたり。これ等は均しく該確定判決が確実なる証拠に依拠して認めたる事実なり。更に亦、本庭のその発[叢]葬地点に於て、屍骨及び頭顱数、数千具を掘り出したるものなり。
 以上を総合して観れば、則ち被告向井敏明及び野田巌が南京大屠殺作戦の共犯として係ったことは、実質的に毫も疑義なし。被告等は自らその罪跡を諱飾するの不可能なるを知り、「東京日日新聞」に虚偽なる記載をなし、以て専ら被告の武功を昴揚し、日本女界の羨慕を博して佳偶を得んがためなりと詭弁したり。
 然れども作戦期間内に於ける日本軍当局は、軍事新聞の統制検査を厳にしあり、殊に「東京日日新聞」は日本の重要なる刊行物であり、若し斯る殺人競争の事実なしとせば、その貴重なる紙面を割き、該被告等の宣伝に供する理は更になく、況んや該項新聞の記載は既に本庭が右に挙げたる各項は、確実の証拠を以て、これを証実したるものにして、普通の「伝聞」と比すべきものに非ず。これは十分に判決の基礎となるべきものなり。
 所謂殺人競争の如き兇暴惨忍なる獣行を以て、女性の歓心を博し以て、花嫁募集の広告となすと云うが如きは、現代の人類史上未だ曽て聞きたることなし。斯る抗弁は一つとして採取す るに足らざるものなり。
 次で田中軍吉は既決犯谷寿夫の直属部隊であり、谷寿夫が南京に攻め入り屠殺を実施せる時に、軍刀「助広」を携えて参興せる事実は、被告が既に自ら自白せる所なり(本庭十二月十二日筆録参照)。
 敵首谷寿夫が当時部隊を引率して、我が首都に於て惨絶塵寰の大屠殺を十数日に亘りて行い、その惨殺に遭遇せるものは三十万人の多きに達しあり、これは本庭三十六年度、審字第一号の確定判決に依り、証し得るのみならず、世を挙げて共聞の事実なり。
 被告田中軍吉は谷寿夫の直属部下の地位にあり、刀を持して参与し、その混乱中に被告の「助広」刀下に斬殺されたる我方俘虜軍民の数は三百余人の多きに達しあり。右は日本の軍官山中峯太郎がその著「皇兵」なる一書に被告の軍刀の写真を掲載し、その標題に「三百人斬の隊長(指田中軍吉)愛刀助広等の傍註があることに依って立証し得るものなり[一三頁の写真参照]。依ってこれは南京大屠殺案中、殺人を実施せる共犯の一にして疑いなし。
 被告は、その写真はシャツを着用しあるを以て、これは夏季に撮影したるものであり、而して南京攻撃は冬季なるを以って該写真は、南京以外の某所に於て一人を斬殺せるものなりと抗弁したるも、然し刀を揮い、力を奮って猛斬なさんとするものがその動作の便利を期さんが為に、例え冬季とは言えども上衣を脱却することは、常事とする所にしてこの事に依り罪証を避くることは不可能なり。且つ南京大屠殺に参与せる事実は己に衆証確実なるものあり。詭弁は許されざるものなり。
 按ずるに被告等は、連続的に俘虜及び非戦闘人員を屠殺せるは、海牙(ヘーグ)陸戦規例及び戦時俘虜待遇公約に違反するものにして、その行為は戦争罪及び人道罪を構成するものなり。平民の屠殺を武功と認め、殺人競争を娯楽となすことはその兇悪絶頂に達し、その野蛮的行為は倫理にも反し、これは実に人類の蟊賊であり、文明の公敵であり、若し法を尽して厳懲せざれば如何にして紀綱を粛し、世道を維持するを得んや。爰に各極刑に処し、世を戒むべし。
 仍て掲て上逑の論結に依り、刑事訴訟法第二百九十一条前段、海牙陸戦規例第四条第二項、第二十三条第三款、第四十六条第一項 戦時俘虜待遇公約第二条、第三条 戦争罪犯審判条例第一条、第二条第二款、第三条第一款、第十一条 刑法第二十八条第五十六条前段第五十七条に依り、判決すること主文の如し。
 本案は本庭検察官李璿蒞庭をして職務を執行した。
 中華民国三十六年十二月十八日
国防部審判戦犯軍事法庭
審判長 石美瑜、審判官 李元慶、審判官 孫建中、審判官 龍鍾煙、審判官 張體坤
右正本は原本と相異なきことを証明す。       書記官 施 泳
中華民国三十六年十二月十八日