東京日日新聞の鈴木特派員及び佐藤カメラマンの「百人斬り競争」関連証言

(「百人斬り」東京地裁判決その3:事実及び理由その2)より

(ウ)佐藤記者に対する取材記事



 佐藤記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された記事「『南京百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中架け橋の花形」の中で,取材に答えて,

  「とにか<,十六師団が常州(注・南京へ約百五十キロ)へ入城した時,私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが,社旗を立てた。そこに私がいた時,浅海さんが,”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ,どんな写真だ”と聞くと,外にいた二人の将校を指して,”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む″という。”へえー”と思ったけど,おもしろい話なので,いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。」

 「私が写真を撮っている前後,浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だからあの記事はあくまで聞いた話なんですよ。」,「あの時,私がいだいた疑問は,百人斬りといったって,誰がその数を数えるのか,ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか,浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど,確かどちらかが,”あんた方,斬った,斬ったというが,誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら,野田少尉は大隊副官,向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして,当番兵が数えているんだ,という話だった。――それなら話はわかる,ということになったのですよ。」

 と述べた旨記載されている(乙4)。

 

また,佐藤記者は,平成5年12月8日発行の「南京戦史資料集Ⅱ」所収「従軍とは歩くこと」

の中で,以下のとおり記載している(乙7)。

 「社会部の浅海一男記者が,無錫から同行していた。その浅海記者が常州城門の側の旅館へ筆者を呼びに来た。『将校さん二人の写真を撮ってくれないか。彼らはタバコを切らしているので,タバコもあげてくれないか』というのである。」
 「タバコを進呈して,将校から何を聞き出すのか。私は浅海記者と将校の話に聞き耳を立てた。将校の一人は大隊副官の野田毅少尉,もう一人は歩兵砲小隊長の向井敏明少尉。なんとここから南京入城までに,どちらが先に中国兵百人を斬るかというすごい話題である。 二人の将校の話を聞いていて,納得のいかないところがあった。同業の誰かが優れた写真を撮った場合,私はフィルムの種類は?レンズの絞りは?シャッター速度は?と,根掘り葉掘りデータを聞きたくなる。それを聞いてはじめ これから南京へ着くまでに,中国兵百人を斬るというのだが,誰がその数を確認するのかが不明だ。そうなると正確に百人も斬ったという事実も,証明できない。この点を二人の将校に質すと,次のような返事が返って来た。

 野田少尉の場合,向井少尉の当番兵が,野田少尉が斬った人数を確認する。向井少尉の場合は野田少尉の当番兵が,向井少尉が斬った人数を確認するというのである。いちおう納得できたが,しかし,実際いつ白兵戦になって,中国兵を斬るのか,腑に落ちなかった。」

 「すなわち、通常の戦闘では、敵兵に接近することはほとんど無い。白兵戦はほとんど無いとさえ言えるのである。日本刀を振るって中国兵を斬ることのできるのは、稀に起きる白兵戦の場合に限られるのではなかろうか。その場合、当然戦場は乱戦になるわけである。その時、大隊副官・野田少尉は大隊長を助け、その命令を各中隊に伝えなければならない重要な任務がある。
 他方、歩兵砲の小隊長である向井少尉は、歩兵砲の射撃を指揮しなければならない。野田少尉にしても向井少尉にしても、以上のような状況の中でどうやって白刃を振るって、中国兵を斬ることができるのか、大きな疑問が残っていた。」(本パラグラフは『南京戦史資料集Ⅱ』「従軍とは歩くこと」より挿入)

 「こんないきさつがあったが,筆者が撮った二人の少尉の写真は,浅海記者の書いた『百人斬り競争』という見出しの付いた記事と共に,紙面に大きく掲載されたのであった。常州で両少尉に一度,会っただけなので,忘れかけていたところ,南京の手前で浅海記者に会った時,『あの二人はまだ競争をやっとるよ,タバコをもう一度用立ててくれないか』と,タバコを無心されたのであった。」

 さらに,佐藤記者は,その陳述書及び当裁判所における証人尋問においても,両少尉から常州において直接話を聞いたことを認めている(甲65,証人佐藤振壽)。

(ア)浅海記者に対する取材記事


 浅海記者は,「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された「南京百人斬りの”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」と題する記事において,取材に答えて,《以下「」は判決者による引用の符号》

 「あなた方はきのうの出来事のようにいわれるが,なにしろ三十五年も前のことだ。記憶も不確かになっている。『諸君!』にあのように書かれて,私が十分に答えなくても,私は一つも損などしない。私の周囲のインテリは,あのような指摘があっても,一つも私がかつて書いた新聞記事のような状況がなかったとは疑いませんからね。何が真実かは,大衆と歴史が審判してくれますよ。鈴木(明)さんもジャーナリスト,私もジャーナリスト。彼の,私の書いた記事によって二人の生命が消えたという見方は,むろん異論はあるが,私のプライバシーをそこなわない限り,ジャーナリストが一つの考えにもとづいてお書きになることは,それが当然だ,私は文句はいいません。いずれ真相は,しかるべき専門のメディアに私自身の筆で書きますよ。

 それに,『諸君!』によれば,向井さんは,”日中友好のために死んでいく”といっておられる。感銘を受けましたね。敬服している。今,田中内閣もようやく日中復交をいい出したが,あの二人の将校こそ,戦後の日中友好を唱えた第一号じゃないですか。こんな立派な亡くなり方をなさった人たちに対して,今はもう記憶の不確かな私が,とやかくいうことはよくないことだ。それに,遺族もいらっしゃる。私はいわないほうがいい。

 当時,二人から話を聞いたことは間違いありません。私の記事によって向井さんらが処刑されたなんてことはないです。ご本人のなさったことがもとです。私は”百人斬り”を目撃したわけではないが,話にはリアリティーがあった。だからこそ記事にしたんです。判決をしたのは蒋介石の法廷とはいえ,証人はいたはずだ。また,私の報道が証拠になったかどうか,それも明らかではありませんからね。しかし,私は立派な亡くなり方をなさった死者と,これ以上論争したくないな‥‥」
 と述べた旨記載されている(乙4)。

 また,浅海記者は,上記「ペンの陰謀」に「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」と題する文章を寄稿し,その中で,以下のとおり記載している(乙1)。

 「何しろ,もう三十数年も昔のことですから記憶が定かでありません。それに,当時の,筆者をふくむ東京日日新聞(大阪毎日新聞)従軍記者の一チームは,上海から南京まで急速に後退する『敵』を急追するという日本侵略軍の作戦に従軍取材していたので,その環境の悪さとともに,多種類の取材目標をかかえて活動していましたので,その個々の取材経験についての記憶はいっそう不確かになっているのです。連日の強行軍からくる疲労感と,いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気をくばらなけれ ばならない緊張感に包まれていたときに,あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で,M少尉, N少尉と名乗る二人の若い日本将校に出会ったのです。」
 「筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と,その夜そこで天幕野営をする準備をしていた,と記憶するのですが, M, N両将校は,われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て,向うから立ち寄って来たのでした。『お前たち毎日新聞か』とかといった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。

 両将校は,かれらの部隊が末端の小部隊であるために,その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり,かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり,いまは記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで,かれら両将校が計画している『百人斬り競争』といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは,この多くの戦争ばなしのなかから,このコンテストの計画を選択して,その日の多くの戦況記事の,たしか終りの方に,追加して打電したのが,あの『百人斬り競争』シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき,筆者らは,このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは,どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから,かれらの方からそれを目印にして話しにやって来るさ,といった意味の応答をして,元気に立ち去っていったのでした。」

 「このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM, N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は,その後三,四回われわれのところ(それはほとんど毎日前進していて位置が変っていましたが)に現われてかれらの『コンテスト』の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは,いま筆者の記憶からほとんど消えていますが,たしか,丹陽をはなれて少し前進したころに一度,骸麟門の附近で一度か二度,紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度,両少尉の訪問を受けたように記憶しています。

 両少尉はあるときは一人で,あるときは二人で元気にやって来ました。そして担当の戦局が忙がしいとみえて,必要な談話が終るとあまり雑談をすることもなく,あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると,その時の場所と月日が記載されていますが,それはあまり正確ではありません。なぜなら,当時の記事送稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって,その他のあまり緊急を要しない記事は二,三日程度『あっためておく』ことがあったからです。」
 「すべての損害事件に加害者と被害者があることはいうまでもありませんが,それなら,その事件の存在そのものに疑問を抱く人は,そのことを加害者と被害者の両方に質してみることは疑問を解く最も常識的かつ初歩的な手続きではないでしょうか。この点で三人組の方々は,加害者とみられる旧日本軍の関係者などの証言を提示して事件の不存在を主張していますが,それらの証言は明らかに加害者の利益関係人によるものであって,そのような証言の立証力はきわめて乏しいとされるのが今日の常識です。しかし,それはそうとしても,事件不存在の主張者が冷静,公平になすべきことはもうひとつあります。それはいうまでもなく被害者である中国またはいま台湾にある当時の中華民国の事件処理担当の責任者にそのことの存在か不存在かをたしかめて みることです。」

 「してみれば,こんにちの中国は,『南京大虐殺,百人斬り競争』のような事件がもし本当に不存在であったのなら,喜こんでそれを証明できる立場にあるのだし,反対にそれが存在していたとしても,その責任を下級将校や兵士――M少尉やN少尉の――責任とはしないという立場をとっていることは明白です。」

 「三人組の論述によれば,南京軍事法廷は当時の毎日新聞(東京日日新聞)の記事を重要な証拠として,興奮した大衆の怒号のなかであの判決を下したとあるのですが――あるいはそのようなことがあったことを是認しておられるのですが――,それならばあの裁判は事件そのものが不存在なのにその上にもうひとつの不当性をもっていたということになります。正常な裁判においては,「伝聞による新聞記事」は証拠としない,というのは国際的な法律常識です。そして,法廷に興奮した大衆を大量に入れ(あるいは入りこまれ),怒号を放置したまま(あるいは止むなくそうなったまま)審理,判決を行うというのは正常なまたは公正な裁判とはいえません。」

 「このことについて筆者の体験を参考までに記してみましよう。筆者は,敗戦直後の東京市ケ谷で行われた連合国国際戦犯裁判に同事件の証人としてパーキンソン検事の事情聴取を受け,そして検事側証人として法廷に立ったことがあります。このとき,筆者の検事への陳述内容はすでに長文の文書にされて,あらかじめすべての判事,弁護人に配布されていたのですが,筆者が検事の請求によって陳述台に立ち,宣誓を終えるや否や,判事の一人から発言がありました。その趣旨は『この証人の陳述は伝聞によるものであり,また,この証人の書いた新聞記事は伝聞によるものであるから,当裁判の証人,証拠とはなり得ない。よってこの証人を証人とすることを承認しない』というものでした。すると裁判長はこの発言をとりあげ,筆者は直ちに退廷を命じられたのでした。」

 「しかし,もし万一,それでもあの新聞記事が南京法廷の主要な証拠として”活用”されたということが真実であったとしたら,この点からみてもあの法廷の判決は不当なものであったと(三人組は)判断することができるのです。」

 なお,浅海記者は,阿羅健一からの取材要請に対して,記憶不鮮明を理由に断り,その際,「この世紀の大虐殺事実を否定し,軍国主義への合唱,伴奏となるようなことのないよう切望します」という返事をした(甲36, 91)。

(イ)鈴木(二郎)記者に対する取材記事



 鈴木記者は,上記「週刊新潮」昭和47年7月29日号誌上に掲載された記事の中で取材に答え、

 「南京へ向けて行軍中の各部隊の間を飛び回っているうちに,前から取材に当っている浅海記者に出あった。浅海記者からいろいろとレクチュアを受けたが,その中で,『今,向井,野田という二人の少尉が百人斬り競争をしているんだ。もし君が二人に会ったら,その後どうなったか,何人斬ったのか,聞いてくれ』といわれた。『そして記事にあるように,紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり,結局,その場には向井少尉,野田少尉,浅海さん,ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって,頂上へと追い詰められていったんですよ。最後に一種の毒ガスである”赤筒”でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ,二人の少尉に会ったのは・・・。そこで,あの記事の次第を話してくれたんです』」

 「『本人たちから”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き,信頼して後方に送ったわけですよ。(中略)従軍記者の役割は,戦況報告と,そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて,ぼくらは戦場で”見たまま””聞いたまま”を記事にして送ったんです』」

 と述べた旨記載されている(乙4)。
また,鈴木記者は,上記「丸」昭和46年11月号誌上において,「私はあの”南京の悲劇”を目撃した」との文章を寄稿し,

 「この二つの特電にあるように,浅海,光本両記者がまずこの”競争”を手がけ別の部隊に属していたわたしは,紫金山麓ではじめて浅海記者と合流,共同記事として打電された」

 「検事の喚問は,やはりこの”競争”を「虐殺」として,事実の有無,取材の経緯,そして両将校の”競争”の真意をするど<追求されたが,どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく,ただ二人がこの”競争”を計画し,その武勇伝を従軍記者に披露したのであって,その残虐性はしるよしもなく,ただ両将校が”二人とも逃げるのは斬らない”といった言葉をたよりに,べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられたわけではなかったが,期せずして,『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので,一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』と強調した。」旨記載している(丁2)。

 さらに,鈴木記者は,上記「ペンの陰謀」に「当時の従軍記者として」を寄稿し,その中で,「 一体,昼夜を分たず,兵,或いは将校たちと戦野に起居し,銃弾をくぐりながらの従軍記者が,冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で,彼我砲撃のさ中に″ゴール″迫った二人の将校から直接耳にした斬殺数の事は,今から三十九年前の事とはいえ忘れる事は出来ない。」

 「戦後,浅海一男君ともどもこの”百人斬り競争”の特電をもとに,市ケ谷台の東京裁判で,南京虐殺事件の検事側証人として喚問された際,特に二人が強調したのは『二人とも逃げるのは斬っていない,立ち向う敵だけを斬った,虐殺ではない』ということだった。そしてまた,その事を信じての特電だったからだ。」と記載している(乙1)。

なお,鈴木記者は,上記「『南京事件』日本人48人の証言」の中で,阿羅健一からの取材に答えて,

 「『私は三回の記事のうち,最後の記事だけにかかわっています。南京へ行<途中,あれを書いた浅海(一男)君に会ったら,こういう二人がいる,途中で会ったら何人斬ったか数を聞いてくれ,と言われていた。そこであの記事になった。全体のことはあまり知らなかった』」。

 (「・・・二人から話を聞いて,本当の話と思いましたか。」との問いに対し)「『逃げる兵は斬らないと言ってました。本当だと思いました。戦後,野田(厳)少尉が,塹壕にいる中国兵にニーライライと言って出てくるところをだまして斬った,と語ったと聞いて,裏切られた思いをしました』と述べた」旨記載されている(甲36)。*いわゆる志々目証言のことをさしている。

鈴木記者、月刊誌『丸』の一九七一年十一月号「私はあの。南京の悲劇‘を日撃した」

 (前略)わたしたちは昭和十二年十二月十二日に砲・弾に崩れた中山門をよじのぼって南京城内にはいるまで、上海から京泥線沿いに竜華、南市、崑山、太倉、常熟、蘇州、無錫と、つかずはなれず従軍したが、この間、二人の陸軍少尉の”百人斬り競争”という特電が生まれた。南京いりするまでに、どちらがさきに敵の百人を斬るか、というのである。
 この特電は、南京落城直前までの数回大きく報ぜられたのであるが、この記事が、(東京裁判で)告発する検事側の注目するところとなり、『虐殺』の訴因の一環として、証人指名、呼出状となったのである。南京いりして展開する『虐殺』に接する前に、『虐殺』とみられたこの”百人斬り競争”の始末をのべてみる。(中略)
 検事の喚問は、やはりこの”競争”を『虐殺』として、事実の有無、取材の経緯、そして両将校の”競争”の真意をするどく追及されたが、どの特派員もこの二将校がじっさいに斬り殺した現場をみたわけではなく、ただ二人がこの”競争”を計画し、その武勇伝を従軍記者に披露したのであってその残虐性はしるよしもなく、ただ両将校が、”二人とも逃げるのは斬らない”といった言葉をたよりに、べつに浅海君と打ち合わせていた(証言は別べつにとられた)わけではなかったが、期せずして、『決して逃げるものは斬らなかった。立ちむかってくる敵だけを斬った日本の武士道精神に則ったもので、一般民衆には手をだしていない。虐殺ではない』と強調した。
 検事側にとってはきわめてたよりない証言だったにちがいない。それかあらぬか、いよいよ出廷の日、まず浅海君が証人台に立ち、右手を高くあげて、大きな声で宣誓をした瞬間『書類不備』?とかで却下となり、浅海君は気ぬけした顔で控え室に帰ってきた。まもなく書記がやってきて、『もう二人ともこなくてよい』といわれた。つぎの出番と緊張していたわたしは証人台に立たずにすみ、ホッとしたものだった。
 しかし、両将佼は国府側にとらわれ、これを知らされたわれわれの嘆願署名のかいもなく処刑されたと聞かされた。(『日本教について』「雑音でいじめられる側の目」より)
(後略)