6 ──週刊新潮の常識的判断──
この上訴申辨書は、鈴木明が昭和47年4月10日、向井少尉の長女恵美子さんをキャンプ・ザマに訪れて話を聞き、それが終わって東京に帰ったとき、もう一人の「犯人」(?)である野田少尉のお母さんから届いていた手紙に同封されていたものです。ただし、これが公開されたのは『諸君』8月号(8月1日発売)ですから、それまで、鈴木明は、実弟の向井猛氏や向井少尉の戦友、そして「百人斬り競争」の新聞記事を書いた浅海一男氏、そして、この裁判を担当した裁判長(石美瑜氏)を台北市に訪ねるなど、取材を重ねていたわけです。(石美瑜氏を5人の裁判官の一人としていたのを訂正H19.7.5) この間、『週刊新潮』昭和47年7月29日号に、「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」という記事が掲載されました。この記事は、鈴木明の「南京大虐殺のまぼろし」(『諸君』s47.4)の内容を紹介した後、この”鈴木レポート”をさらに広げ、深める作業を行う、として「東京日日」の「百人斬り競争」の記事作成に関わった「同僚記者二人の証言」と「浅海記者の華々しき戦後」(毛主席一辺倒、文化大革命礼賛の「日中友好促進派」として「毎日」を代表する記者として活躍)を紹介したものです。 この中の「同僚二人の証言」では、まず、問題の『東京日日』の記事は、完全なデッチ上げであったのかどうか──を問うことから始めています。『東京日日』の記事は第一報から第四報までありますが、この第四報(「百人斬り”超記録”向井106─105野田 少尉さらに延長戦」浅海、鈴木特派員発)には、城門の前に立つ二人の少尉の写真が、「常州にて佐藤振寿特派員撮影」というキャプション付きで掲載されていました。そこで『新潮』は、記事は創作することもできるが、写真をデッチあげることは難しいとして、この写真を撮った佐藤カメラマン(58歳フリー)を取材し次のような証言を得ています。 「とにかく、十六師団が常州(注 南京へ約百五十キロ)へ入城した時、私らは城門の近くに宿舎をとった。宿舎といっても野営みたいなものだが、社旗を立てた。そこに私がいた時、浅海さんが、”撮ってほしい写真がある”と飛び込んで来たんですね。私が”なんだ、どんな写真だ”と聞くと、外にいた二人の将校を指して、”この二人が百人斬り競争をしているんだ。一枚頼む”という。”へえー”と思ったけど、おもしろい話なので、いわれるまま撮った写真が”常州にて”というこの写真ですよ。写真は城門のそばで撮りました。二人の将校がタバコを切らしている、と浅海さんがいうので、私は自分のリュックの中から『ルビークイーン』という十本入りのタバコ一箱ずつをプレゼントした記憶もあるな。私が写真を撮っている前後、浅海さんは二人の話をメモにとっていた。だから、あの記事はあくまで聞いた話なんですよ」 「あの時、私がいだいた疑問は、百人斬りといったって、誰がその数を数えるのか、ということだった。これは私が写真撮りながら聞いたのか、浅海さんが尋ねたのかよくわからないけど、確かどちらかが、”あんた方、斬った、斬ったというが、誰がそれを勘定するのか”と聞きましたよ。そしたら、野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲隊の小隊長なんですね。それぞれに当番兵がついている。その当番兵をとりかえっこして、当番兵が数えているんだ、という話だった。―それなら話はわかる、ということになったのですよ。私が戦地でかかわりあった話は、以上だ」 この証言によって、十二月十三日付(第四報)に載った佐藤カメラマン撮影の写真は、〔常州にて廿九日〕と日付のある”第一報”取材の時点で撮ったものであることが、判明しました。 さらに、”第四報”に名前の出て来る「鈴木」特派員(「鈴木二郎」65歳、当時毎日系別会社役員)にも取材し証言を得ています。 「鈴木氏は抗州湾敵前上陸を取材する目的で、(十二年)十一月初旬、単身で中国へ渡った。が、行ったらすでに上陸作戦は終っており、『そこでまあ、南京攻略戦の取材に回ったんです』 こうした証言を受けて『新潮』は次のように結論づけています。 鈴木記者も、二人の少尉に会ったのは、その時限りである。『本人たちから、”向って来るヤツだけ斬った。決して逃げる敵は斬らなかった”という話を直接聞き、信頼して後方に送ったわけですよ。浅海さんとぼくの、どちらが直接執筆したかは忘れました。そりゃまあ、今になってあの記事見ると、よくこういう記事送れたなあとは思いますよ。まるで、ラグビーの試合のニュースみたいですから。ずいぶん興味本位な記事には違いありませんね。やはり従軍記者の生活というか、戦場心理みたいなことを説明しないと、なかなかわかりませんでしょうねえ。従軍記者の役割は、戦況報告と、そして日本の将兵たちがいかに勇ましく戦ったかを知らせることにあったんですよ。武勇伝的なものも含めて、ぼくらは戦場で”見たまま” ”聞いたまま”を記事にして送ったんです』 記者たちの恣意による完全なデッチ上げ、という形はまずないと見るべきであろう。死者にはお気の毒だが、ニ将校の側もある程度、大言壮語をしたのだと思われる。そして記者の方が、「こりゃイケる話だ」とばかりに、上官に確認もせずに飛びついて送稿し、整理する本社もまた思慮が浅くてそのまま載せてしまった、という不幸な連係動作があった―と考えるのが妥当なのではあるまいか。」(この結論からすると、この記事のタイトル「『百人斬り』の”虚報”で死刑戦犯を見殺しにした・・・」は言い過ぎということになりますね──筆者) この『週刊新潮』の記事は発行直後山本七平も見ており、その時の感想を次のように述べています。 『週刊新潮』の結論は、戦場に横行する様々のホラを浅海特派員が事実として収録したのであろうと推定し、従って、ホラを吹いた二少尉も、気の毒だが、一半の責任があったのではないか、としているように思う。非常に常識的な考え方と思うが、果たしてそうであろうか。」(『私の中の日本軍』上「戦場のほら・デマを生み出すもの」p60) つまり、山本七平はここで、こうした『週刊新潮』の”非常に常識的な結論”に対して疑問を投げかけているのです。浅海特派員は、本当に二少尉のホラを事実として収録したのか。真実は、ホラをホラと知っており、それ故に、それがホラと見抜かれないよう、「ある点」を巧みに隠蔽したのではないかと。そして、その「ある点」とは、この二少尉が、向井は歩兵砲小隊長であり野田は大隊副官であって指揮系統も職務も全く異なるということであり、そのことを浅海記特派員知っていたにもかかわらず、「百人斬り競争」の記事では、この両者をあたかも「同一指揮系統下にある二歩兵小隊長」として描いたのではないかということです。 実は、この事実を、山本七平も『週刊新潮』の佐藤振寿氏の証言を読むまで知りませんでした。「従って、・・・何の疑いもなくこれを歩兵小隊長向井少尉と、同じく歩兵小隊長野田少尉と受けとり、当然のことだから(新聞記事では)『歩兵小隊長』を略した」と考えていたのです。「私自身もこの記事を読んだとき、当然のこととしてそう読んでいた。そう読んでしまえば、この記事は全くしっぽが出ないし、さらに何となく『同一指揮系統下』と思いこませれば少しの疑念も湧かないのである。ただ一つ私がひっかかったのは、『僕は○官をやっているので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ』という野田少尉の言葉だった」といっています。(同書p207) 「ところが鈴木明氏の調査で、驚くなかれ(これが)副官だとわかった。つづいて『週刊新潮』に佐藤振寿カメラマンの驚くべき証言がのった。氏はこの二少尉に会ったのがただ一回なのに、35年後の今日でも、驚くほど正確に証言している。「・・・野田少尉は大隊副官、向井少尉は歩兵砲の小隊長なんですね」そしてその傍らに浅海特派員もいっしょにいたと証言しているのである。従って浅海特派員は、はっきりと二人の正体を知り、一人が歩兵砲の小隊長、一人が大隊副官であって、全く指揮系統も職務も異なることを知りながら、同一指揮下にある第一線の歩兵小隊長として描いているのである。 関係者は『見たまま聞いたまま』を書いたと証言している。しかしそれは嘘である。といってもこれは『百人斬り競争の現場を見ていないのではないか」という意味ではない。現に目の前に見ている二人、すなわち副官と歩兵砲小隊長を、見たまま書かず歩兵小隊長に書き上げているという意味である。従って二人はすでに、筋書き通りに歩兵小隊長を演じさせられている役者であって、副官でも歩兵砲小隊長でもない。これが創作でなければ、何を創作といえばよいのであろう」(同書p212) この二人の職務が、最前線の白兵戦で「百人斬り競争」を行うようなものでないことは南京軍事法廷に提出した答辨書にそれぞれ明快に述べています。 |