尾張名所圖會・尾張名陽圖會

「尾張名所圖會」:岡田啓・野口道直共撰、小田切春江挿画 天保12年(1842)成稿、前編:天保15年刊、後編:明治13年刊
「尾張名陽圖會」:文政頃(推定)の著述とされる。高力種信(猿猴庵)著                                                                       .

巻之1
北野山真福寺宝生院
記事:「本尊(正観音は摂津国四天王寺を移したる木像なり)
五層塔(文政年中の造立にして、本尊に安置せる愛染明王は、弘法大師の作。むかし長岡庄大須にありし古像五智如来は、新作の木像なり)」
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尾張名陽圖會  巻之4
大須観音北野山宝生院真福寺
記事:「 ○五重大塔 本尊愛染明王。むかし大須に在りし時、塔の本尊なる由。五智如来は文政年中再建の節の新仏なり。
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 →尾張大須観音

巻之1
稲園山正覚院長福寺
記事:(七ツ寺と通称す)
観音堂(正保2年の建立・・)、聖天堂、十王堂(延宝元年の建立・・)、影堂(慶長年中の建立・・)、輪蔵(・・貞享2年の再興・・)
三層塔(元禄年中住僧良快の造立。国君よりも資財を助力し給ひ、京都の仏師運長に命じ、五智如来と八大菩薩の像を彫らしめ、塔中に安置す。因にいふ、享保年中この塔の九輪かたぶく事ありしに、折ふし長崎より、麒麟太夫といへる軽業師当地に来りしが、この事を聞き、我これを直さんとて、そのまま檐端に一本の竹をよせ、それをつたひて忽ち頂上に登り、好みのまま直したるよし)」
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尾張名陽圖會 巻之4
七寺稲園山正覚院長福寺
記事:「○三重宝塔 元禄十年建立。相伝ふ、この時の現住大僧都良快法印は幼年の時当寺の小僧なりしが、我成長してこの寺に塔を立てんとの志深かりし。ついに当寺の住職となりて大望をとげられたりとぞ。」
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記事:「 軽業師長崎麒麟太夫 七寺の塔の九輪の傾直図
享保の頃にや有りけん、七つ寺の塔の九輪かたぶく事あり。これを直さんとする。脚代を懸けるも大造なり。いかがせんと評議まちまちなりける。その折から長崎の麒麟太夫といへる軽業師を大須門前において観(みもの)とす。この塔のことを聞きて、我これを直さんといふ。すなわち寺中喜んで頼みしかば、欄干にたちて屋根うらに飛び付きと見えしが、忽ち頂上に登り立ちしさま鳥にも勝れりとぞ。その時九輪に両手をかけ真直になして、一足そろえて飛び下り庭上に立つて笑ひ居たりしとかや。八坂の塔の故事は権者の威力なれば同日の談にはあらず。」
 三重塔部分図

 →尾張七寺

巻之3
熱田皇太神宮
木津山神宮寺大薬師
記事:「多宝塔跡(今の不動堂その古跡なり。享禄の宮図に見えたり。この塔の鰐口、今亀井山円福寺にありて、銘は本堂の鰐口と同じく「慶長十一年再興神宮寺宝塔」の文字見え、裏に「正徳元年以代金求之」よし彫り付けたり。その外五重塔跡、常行堂跡、輪蔵跡等、古跡甚だ多くして尽くしがたし)」
 熱田社享禄年中之古圖  :かっては多宝塔・五重塔が存在したと思われる。

 →木津山神宮寺大薬師

巻之5
浄海山観音寺円龍院
記事:「(荒子村にあり。天台宗、野田村密蔵院末)天平元年越の大徳泰澄和尚の開基、同十三年開山、僧自性建立、永禄年中法印全運の中興・・元禄年中僧円空当寺に来寓せし時、数千の仏像を彫刻せり。・・・・
多宝塔(多宝・愛染・釈迦の三尊を安置す。中尊愛染明王はすなわち円空の作なり。貞享年中に僧円盛修造せり。寛政年中に僧全覚再び重修を加ふ)」荒子観音と俗称する。
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 →尾張荒子観音寺

巻之5
八事山興正律寺遍照院
記事:真言律宗。和泉大鳥山神鳳寺派。
五重塔に関する記事はなし。
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 →尾張興正寺

巻之5
玉松山祐福寺
記事:「浄土宗。京都禅林寺・光明寺両末。」
宝塔に関する記事はなし。
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この塔は明治34年に旧国宝指定を受けるが、翌35年焼失。現在は焼け残り材で建立された塔堂がある。

 →尾張祐福寺

巻之5
天林山笠覆寺
宝塔に関する記事はなし。
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 →尾張尾張笠覆寺(笠寺)

巻之6
岩屋寺:但し古塔がある訳ではなく、現在は奥の院に昭和48年建立のRCの三重塔がある。
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「尾張国知多郡誌」田中重策編輯・山口平之助校訂、明治26年 より
 大悲山岩屋寺:天台宗、野田蜜蔵院末。霊亀元年創建、元正天皇の御願、行基の開基、弘法大師この地に来り護摩を修す。永享9年回禄、後再建。慶長5年九鬼長門守堂宇を焼く。
往古12坊あり。中ノ坊、谷ノ坊、橋ノ坊、南ノ坊、杉ノ坊、北ノ坊、西ノ坊、奥ノ坊、栗ノ坊、一乗坊、梅ノ坊、千光坊と云う。今存するもの中ノ坊、谷ノ坊、橋ノ坊、杉ノ坊の4坊のみ。

巻之6
大御堂寺
記事:真言宗、長野万徳寺末。天文3年(1534)の勧進状に、白河院の建立、承暦年中(1077-)草創と見え・・・平康頼・・一堂を建つるといへり。享禄4年(1531)の兵火に焼失し、大御堂、楼門のみ存せり。
天文3年(1534)伽藍を再修せしも、慶長5年(1600)九鬼大隈守坊舎を焼き払ふ。近年重修し旧に復す。
本尊(三尊の阿弥陀如来)、源義朝の墓(大御堂の東にあり・・・)、織田三七信孝の墓(義朝の墓の南にあり・・)、平判官康頼の墓(山門の西にあり・・・)、池禅尼の墓(義朝の墓の東にあり・・・)
大坊(大御堂寺一山中、六院の巨擘<きょはく>たり・・・)、安養院(織田三七信孝の位牌あり・・)、円明院・蜜蔵院・龍松院・慈雲院(以上六坊なり)
 全     図:本堂から大坊に至る途中に稲荷の鳥居・小祠がある。この場所あるいはこの附近が五重塔跡と云う。

 →尾張大御堂寺

巻之7
鳳凰山甚目寺
記事:「三重塔(本尊愛染明王。弘法大師の作。擬宝珠銘に「尾州甚目寺三重塔。寛永四年丁卯九月吉辰。施主名護野両替町吉田半十郎政次」とあり)
仁王門(・・建久七年再建のままにて、今もなほ存す。棟札に「梶原景時奉行」とありといひつたえたり)
塔頭(法華院・東林坊・竜泉院・成就院・性徳院・光明坊・普門院・宝蔵坊・不動坊・福寿坊・一乗院<この一寺のみ天台宗なり>)」
 全    図   部  分 図

 →尾張甚目寺

巻之7
五大山安養寺明眼院
記事:天台宗、野田蜜蔵院末。延暦21年(802)聖円上人開基。上人は瑞夢を感得し、この地に堂塔を基立し、行基作薬師如来を安置す。
元弘・建武の兵乱で、悉く灰燼す。延文2年(1357)清眼僧都当寺を再建。
中興清眼僧都は薬師如来の夢告により眼病治療法を授かる。(馬島流眼科の始祖と云う。)
寛永9年()住僧円慶、後水尾天皇の皇女に秘法を修し、明眼院の美名を賜る。
宝塔:「源信僧都の刻める大日如来を安置す。今の塔は慶安2年(1649)の御再建なり。」
 全    図

 →尾張明眼院

後編巻之1
長沼山万徳寺
記事:「真言宗。醍醐報恩院の流派。
宝塔(稽文会の作の大日如来の像を安置す。これ常円上人の異人より授かりし霊仏なり)」
 全    図

 →尾張萬徳寺

後編巻之1
福寿院
記事:(真言宗、当村地蔵寺末、文永年中空円法師の開基にて、須賀崎山勝福寺と号し、本尊は十一面観音の像を安置す。むかしは十坊ありしが、永禄・天正の頃の兵賊・地震等に衰廃して、この一宇のみ残れり。・・・・『康冨記』に曰く、「嘉吉2年(1442)・・東岩藏之蜜花院坊主等月上人。并等日房等。今日尾張国一宮に下向せしめたまふ。来る24日勝福寺塔供養也。等月上人を導師となして請招せらる云々・・・」と見えたり)
 尾張福寿院:絵図中央下段が福寿院

 →尾張福寿院

後編巻之2
大塚山潅頂院性海寺
記事:「愛染塔(境内にあり。二重の高塔なり。弘法大師作の愛染明王の大像を安置す、もと本堂に安置したりを、後この塔中にうつす。明王憤怒の面容儀形、威霊にしておそろしく、感応勝れたれば、世人殊に崇敬し、縁日には参詣の男女群をなせり。また塔の東の続きに拝殿あり)」
「本堂(承久3年<1221>信濃善光寺の本尊を模刻したる阿弥陀・観音・勢至一光三体の像を龕塔に内に納めて安置す。また尊勝陀羅尼をもこめし故、尊勝塔と号す。塔背に二十五菩薩を画けり。巨勢金岡の筆なり。塔の脇立の四天王の像は運慶の作。・・・)」
 全     図

 →尾張性海寺

後編巻之2
国分寺廃跡
記事:「矢合村にありて、今も礎石残り、古瓦多く地中に埋れ、薄など生い茂りて、その古跡を存せり。・・・」
 全    図

 →尾張国分寺跡

後編巻之3
堀江観音
記事:「浄土宗。名古屋阿弥陀寺に属す。・・・本尊十一面観音は大和国長谷寺本尊と同木同作なり。・・・」
多宝塔の記事はありません。
 全     図

 →尾張長谷院(堀江観音)

後編巻之4
松洞山竜泉寺
記事:「天台宗。野田密蔵院末。
・・・伝教・弘法両大師の開基とす。・・中古より度々の兵火にかかり、天正12年長久手合戦の時、・・悉く失せ・・・慶長3年秀純和尚再興し、本堂・仁王門・多宝塔を造営したり・・・」
 全     図
この図の多宝塔は元和2年(1616)の再建塔と思われる。現存塔は明治28年の再建塔とされる。
なお明治39年放火により、堂舎の殆どを焼失と云う。但し、多宝塔・仁王門・鐘楼は残ると云う。・・・文章追加

 →尾張竜泉寺

後編巻之4
蜜蔵院
記事:「天台宗。山城国延暦寺末。
塔頭(むかしは36坊ありしが、・・今わずかに5院を存す。吉祥坊・常林坊・善明坊・常泉坊・福泉坊なり)」
 全     図

 →尾張蜜蔵院

 

尾張名陽圖會 巻之5
実敏法師の母、夢中に塔を建てしと見給ふ
記事:「 ・・・釈実敏・・その母霊夢を蒙りけり。その様は、我が家の奥の間に三重の塔を建てけると覚えしかば、やがて懐胎の心地なりけり。さてしも延暦七年に誕生・・・はなはだよのつねのうまれつきにはあらざりける。・・・」
全     図      塔婆部分図
三重塔の図がある。おそらく「夢中」のことで、実際に存在した塔婆ではないと思われる。

 


2006年以前作成:2008/10/18更新:ホームページ日本の塔婆