尾  張  明  眼  院  多  宝  塔

尾張明眼院多宝塔初重

尾張名所圖會

巻之7:五大山安養寺明眼院
記事:天台宗、野田蜜蔵院末。延暦21年(802)聖円上人開基。上人は瑞夢を感得し、この地に堂塔を基立し、行基作薬師如来を安置す。
元弘・建武の兵乱で、悉く灰燼す。延文2年(1357)清眼僧都当寺を再建す。
中興清眼僧都は薬師如来の夢告により眼病治療法を授かる。(馬島流眼科の始祖と云う。)
寛永9年(1632)住僧円慶、後水尾天皇の皇女に秘法を修し、明眼院の美名を賜る。
宝塔:「源信僧都の刻める大日如来を安置す。今の塔は慶安2年(1649)の御再建なり。」

尾張明眼院全図:下図拡大図:仁王門を入り、すぐ左手に多宝塔がある。

明目院八景:その一つとして多宝塔がある。
 多宝塔:祇園宝塔天工旧シ 中ニ神霊ヲ托スル有リ 怪マ不、半天人語響クヲ 法門元オ自神通有リ

 ○明眼院後園の林泉: 現況は未確認ながら、下掲載の「馬島明眼院小史」では明治維新後、「荒れ果て見る影もない」と云う。

びぞん通信 Vol.8」美術文化史研究会、1971(昭和46年)
  雑誌「びぞん通信 Vol.8」に明眼院の特集がある。(「明眼院の多宝塔」、「馬島明眼院小史」、「明眼院の青面金剛童子画像」)

◎「明眼院の多宝塔」倉田向丘(名古屋・倉田建築工営店)
 要旨:昭和42年(1967)仏像を見に明眼院を訪れる。
参道左に三間四面塔婆の軸部に方形の瓦屋根を載せ、傾きかけて控丸太で突っ張た建物があった。
屋根の露盤宝珠が一見多宝塔の相輪を縮めた形なので、この建物は多宝塔であったことが分かる。
現在は大日堂と呼ばれ、大日如来が祀られていたが、今は空堂となっている。
寺の庫裏で縁起を拝見すると、多宝塔があったことが知られるが、現在の大日堂が多宝塔であったことには気づいていないようであった。

この多宝塔は現在ひどく荒れていて倒壊寸前、長丸太を幾本も拘張としてある。
戸締りはなく、壁板は破れ、廻り縁は落ちかけ、床板は外され、子供の遊び場にも危うい状態である。
各面正面は扉で左右は連子窓であるが、北面の扉は完全であるが、他は壊されている。

 明眼院多宝塔81:左図拡大図
   同     82

構造の大略は以下の通り。
一辺4.74〜4.78m(実測すると一辺約4.8m)、柱は22cmの角材、柱の面2.2cm(1/10)、中央間(芯芯)1.9m〜2.1m、扉枠内寸1.08m、周囲廻縁床竪板張手摺無し、軸廻りは和様で内法長押・腰長押を廻し、中央桟唐戸は長押下に額入れ幣軸吊り、両脇間は額縁付連子窓、柱頭台輪の上に通り肘木を置き四隅に室町期風の唐様木鼻をつける。
軒はニ軒の繁垂木(現状は1軒)、組物は唐様の斗栱、出組に丸桁を受け軒天井なしの支輪仕舞、中備は中央間は蟇股(現状は北面・西面のみに残存)、両脇間は笈束、廻縁で支輪下端を受ける。
内部来迎柱は丸柱で、唐様の海老紅梁で外壁柱と繋ぐ。内陣は格天井、外陣は化粧屋根裏となり、正面に純唐様の須彌壇を置く。
内部海老紅梁受けの絵様肘木は天竺様肘木に斗を載せた形で、これは鎌倉末期・室町期に行われた様式である。
 明眼院多宝塔軒廻      同     蟇股      同   海老紅梁      同     木鼻

以上により、この建物は大体において室町期の建築と推定される。
中央間桟唐戸は精巧な造作で、建具金物の様子から後世に造替されたものと思われる。
屋根の宝珠は火焔を付け、露盤・伏鉢・請花と三葉の最上段のみを残す。明らかに多宝塔相輪の残欠と思われる。

※編集部として次の注釈がある。
昭和45年(1970)7月、多宝塔が修復され、大日如来が堂内に安置される。
 明眼院多宝塔修復後

◎「馬島明眼院小史」青木自由治(名古屋大学医学部第ニ病理学教室)
  −眼科療養所としての側面から−

文政5年(1822)の「尾張徇行記」:山門の慈恵大師源信僧都は大日如来の像を刻んで塔中に安置し、長く末世の徴とせり。
 (今の塔は慶安2年の再興)
但し縁起でいう延暦年中の創建を裏付ける資料はなく、寺の収蔵品にも平安期に溯るものは今のところはない。

近世に於いては、明眼院は寺院が療治院と化した典型となる。このことにより明眼院は盛況となる。
しかしこのことは、明治維新後、明眼院が急速に衰微する原因となる。
維新後、医療行為は国家試験を経た医師以外は許されなくなり、明眼院は普通の天台寺院となるが、凋落するほかはなかった。
寺宝は散逸し、書院(丸山応挙の襖絵で飾られる・寛保2年(1742)建立)は明治23年、東京品川の益田孝(鈍翁・男爵)に買い取られ、邸内に移築されるなど、本堂と多宝塔初重を残し、他の建物は次々と寺内から消えてい く。
 明眼院旧書院
  ※この旧書院はその後、昭和8年(1933)東京国立博物館に寄贈され、現存する(応挙館)。
 明眼院旧書院2     明眼院旧書院3:上野東京国立博物館に在
残る本堂も現在荒廃の極に達し倒壊の危険にさらされている。
 明眼院倒壊前本堂
  ※現在、本堂はRC造で再建される。現住の談によれば、本堂は棟の中央が落ち、倒壊したと云う。
尾張名所圖會に見る「後園の林泉」も荒れ果て見る影もない。

その他の絵図・資料

◎「大治町史 資料編第2集 馬島流眼科と明眼院」野田昌、大治町役場、昭和51年 より

馬島郷明眼院境内之図:左図拡大図
   木板刷という。大治町史稿より転載とある。

天保12年馬島村絵図:徳川林政研究所蔵
 同 上   (トレース):天保12年馬島村絵図のトレース図

※江戸後期には、尾張名所圖會も含め、各種資料に多宝塔の存在が記される。

「尾張徇行記」(文政5年(1822))では以下の18坊があったという。
西善坊、宗持坊、宝仙坊、東光坊、才蔵坊、法蔵坊、法華坊、善明坊、正善坊、自性坊、東泉坊、福寿坊、善学坊、勝智坊、行智坊、理教坊、西光坊、大智坊
慶長13年の「馬島村薬師領御縄打帳」では
蔵南坊、西善坊、宗持坊、大知坊、才蔵坊、連大坊、宝仙坊の7坊とされる。18坊は中世に焼亡し、坊号は旧地の田畝の名にのみ残る状態であったと推定される。その内7坊のみが近世初頭にはあったのであろう。
文政11年の「人数書上帳」では
院主、蔵南坊、浄心院、香林院、天楽院、阿性房、大智坊の6ないし7坊の名があげられる。

◎「尾張志」深田正韶等編他、博文社、明31年
開山聖円上人の造営せし18坊は西善坊、宗持坊、宝仙坊、東光坊、才蔵坊、法蔵坊、法華坊、善明坊、正善坊、自性坊、東泉坊、福寿坊、善学坊、勝智坊、行智坊、理教坊、西光坊、大智坊等なり。
慈恵大師源信僧都なども当地に来たり、大日仏を彫刻して塔中の安置す。
明眼院の院号勅宣までは蔵南院太山寺といへり。
(明治維新後)18坊の塔中17坊廃れ、空しく田畑の字にのみ残り、大智坊一坊のみ今に相続す。
本尊、多宝塔(大日如来恵心の作)、地蔵堂、鐘楼、楼門、鎮守白山社、馬島天神社、五社、弁才天社、稲荷社、惣門、塔頭(大智坊)
 ※明治31年の「尾張志」には以上のように多宝塔とある。

◎「愛知県独案内」愛知県農会、明33年
明治維新後衰微し、17坊全て廃れ、今1坊のみ残る。

2015/03/05追加:
◎「資料9 明眼院旧多宝塔」
 愛知県のサイトに「資料9 明眼院旧多宝塔」という資料がある。
   ※平成26年国の登録有形文化財に登録さる。本資料はこの時の資料であろう。
 以下にその資料を転載する。
(資料9)明眼院旧多宝塔:
 所在地:海部郡大治町大字馬島字北割 114
 所有者:宗教法人明眼院
1 登録理由
 明眼院敷地内の南西に建つ。大日如来坐像を内部に祀り、2度の災害に会いながらも仏堂として寺院の景観を保つ。
  (登録基準:国土の歴史的景観に寄与しているもの)
2 概要
 木造平屋建、瓦葺、建築面積 22 u、建設年代 慶安2年(1649)/明治中期・昭和45年 改修
明眼院のある海部郡大治町大字馬島の地は、江戸時代に東海道「七里の渡し」の迂回路として開設された佐屋街道(熱田宿(宮宿)と桑名宿を結ぶ)沿いにある。
明眼院は延暦21年(802)「安養寺」の寺号で創建され、現在は尾張天台宗の中心である密蔵院の末寺である。
室町時代初期の戦乱でほぼ焼失し、延文2年(1357)に再建されたと伝えられる。
再建されたころより目の治療を始めたとされ、「馬嶋流眼科」としてその名声は都まで広まっていたとされている。
寛永9年(1632)に後水尾天皇第三皇女の眼病治療により「明眼院」の寺号を、明和3年(1766)に桃園天皇第二皇子の眼病治療により「勅願寺」の名誉を授かった。
 この旧多宝塔は「尾張名所図会」に記される「尾張明眼院全図」の「多宝塔」と同じ位置に現存する。
慶安2年(1649)に修理したと思われる記録等があり、その後、明治24年(1891)の濃尾地震で上層が大破したため解体撤去し下層のみの姿に改修し、現在に至る。
 旧多宝塔は正面を東にした一辺が約4.7mの一層宝形造の三間堂で、建物の周囲に縁をめぐらす。正面中央の縁を一部切込み、2段の階段を付ける。
柱は21pの面取角柱、軒廻りは縁長押・腰長押・窓上長押・上長押・頭貫をめぐらして固め、頭貫端に木鼻を設けてある。
柱上の組物は拳鼻付出組で中備には各面正面に蟇股、両脇間には蓑束を置き、軒支輪を付ける。
蟇股は西面及び北面にのみ残存し(内部彫刻は西面のみ)わずかに緑色の彩色が残る。東面・北面・南面の中央柱間に幣軸付桟唐戸を吊り、桟唐戸の上部には各面違う格狭間が入る。
両脇間では腰長押・内法長押間に連子窓を入れ、腰長押の下を横板壁とし、西面は柱間3間とも横板壁としている。
内部は中央に径26.5cmの円柱の四天柱を立て、柱間に頭貫を通して固め、柱上に大斗を置いて天井桁を受ける。
各四天柱上部から側柱上に置いた出三斗の上に海老虹梁を桁行と梁行の2方向に架け渡し、四天柱側では挿肘木で虹梁を支えている。
背面側の2本の四天柱間に来迎壁を張り、その前面に逆蓮柱を立て前面を蕨手で終わる高欄付きの禅宗様須弥壇を置いて木造大日如来坐像を祀っている。
天井は四天柱の内側を格天井とし、その周囲は化粧屋根裏である。
床は拭板敷きである。屋根は軒を一軒繁垂木とし、火炎宝珠をその頂に載せ、かつて二層の多宝塔であった頃と比べ相輪が短くなり、請花・伏鉢・露盤が残った状態になっていると思われる。
露盤には「奉建立多宝塔」「太山安養寺/別当法印円慶」「慶安二(己/丑)年/三月吉祥日敬白」と文字が陽刻してある。
昭和34年の伊勢湾台風で被害を受け、昭和45年に修理されている。
 なお、本件は「あいちヘリテージマネージャー」の調査によるものである。
本資料には次の2枚の写真の掲載がある。
 明眼院多宝塔外観     明眼院多宝塔内部

明眼院多宝塔残欠

現住の談:
多宝塔の詳細は全く不明、上重を失った時期も資料もなくまた他から転住(現住の父親と思われる)のため、詳細は承知しない。
尾張名所圖會には多宝塔が描かれるので、その多宝塔が残ったものと思われる。

この塔婆は上重を失い、また近年まで倒壊の危機にあったような荒廃ぶりであったが、上記小論「明眼院の多宝塔」及び下記の写真に見られるように、残存する下重は桃山期もしくは近世初頭の雰囲気を残す優秀な塔である。
一辺約4,8mの規模は備後浄土寺・近江石山寺・紀伊金剛三昧院多宝塔などの大型塔には及ばないが、丹後智恩寺・和泉法道寺・尾張祐福寺塔婆に次ぐ規模の大型塔である。

 ○尾張明眼院現状:左は多宝塔残欠、中央左右は仁王門、正面奥は本堂、右は庫裏など

◇明眼院多宝塔残欠外観:
 2008/10/21撮影:

尾張明眼院多宝塔11
  同        12
  同        13:左図拡大図
  同        14
  同        15
  同        151
  同        152
  同        16
  同        17
  同        18
  同        19
  同        20
  同        201
  同        202
  同        203
  同        204

   同   東面桟唐戸
   同    西面軒廻:蟇股が唯一完存する。      同    北面軒廻:蟇股が残存するも、彫刻は欠落。
 東面及び南面の蟇股は失われる。
   同    相輪残欠

2018/04/21撮影:
多宝塔下重は10年前(2008年)とほぼ変わらず、健在である。
多宝塔残欠
 明眼院多宝塔残欠51     明眼院多宝塔残欠52     明眼院多宝塔残欠53     明眼院多宝塔残欠54
 多宝塔相輪残欠
多宝塔下重北面
 明眼院多宝塔北面1     明眼院多宝塔北面2
多宝塔下重東面
 明眼院多宝塔東面1     明眼院多宝塔東面2
多宝塔下重南面
 明眼院多宝塔南面1     明眼院多宝塔南面2     明眼院多宝塔南面3     明眼院多宝塔南面4    明眼院多宝塔南面5
 明眼院多宝塔南面6     明眼院多宝塔南面7     明眼院多宝塔南面8     明眼院多宝塔南面9
多宝塔下重西面
 明眼院多宝塔西面1     明眼院多宝塔西面2     明眼院多宝塔西面3     明眼院多宝塔西面4    明眼院多宝塔西面5
 明眼院多宝塔西面6     明眼院多宝塔西面7     明眼院多宝塔西面8     明眼院多宝塔西面9

◇明眼院多宝塔残欠内部
 2008/10/21撮影:

尾張明眼院多宝塔内部:四天柱、来迎壁板、本尊、内陣天井など
  同   多宝塔本尊1:左図拡大図
  同   多宝塔本尊2
  同   多宝塔本尊3
  同   多宝塔本尊4
  同   多宝塔本尊5
  同   多宝塔右脇檀:左の脇檀の仏像は空となっている。
  同  内部海老紅梁1
  同  内部海老紅梁2

※この塔が現在のように補修されたのは、上記小論「明眼院の多宝塔」より昭和45年と知れるが、軸部外側の柱などは腐食防止のためタール類が塗布されていると思われる。この薬品塗布は近年のことと思われる。

2018/06/14追加:
大日如来坐像は像高110cm、檜材寄木造で玉眼の漆箔像である。像は平安期の雰囲気も見られるが、鎌倉期の造立と推定される。

2008/10/21撮影:
 尾張明眼院仁王門   尾張明眼院仁王像
 明眼院宝篋印塔:明眼院西隣・大治町役場の西の古は境内地であろうと推測される地に数基の石塔類が見える。この内の一基は、形式上南北朝期のものと推定され町指定文化財であるとの説明がある。しかし理由は不明ながら、立入禁止であり、その為なのか人間の背丈ほどのブッシュに覆われ通常の装備では(立ち入り禁止でなくても)立ち入りができない。
 尾張明眼院庫裏

2018/04/21撮影:
 明眼院本堂1     明眼院本堂2
 明眼院表門:門は少なくとも数年から10数年は使われた形跡がなく、2008年と比しても荒廃が進む。
 明眼院表門内:鬱蒼と雑木が茂り、2008年以上に荒れた印象である。
仁王像:檜材寄木造、向かって右側阿形造は像高332cm、左の吽形造は像高338cm、造立年代は平安から鎌倉期と推定される。
 明眼院仁王門     明眼院仁王像その1     明眼院仁王像その2
 明眼院診療所跡碑
 明眼院手水:寶永己丑年<宝永6年/1709>年紀
 明眼院石灯篭:惣眼病人中とあり、眼病を病む人々の寄進である。年紀は刻されるも、判読不能。


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