石 清 水 八 幡 宮 再 興 放 生 大 会

石清水八幡宮再興放生大会

石清水八幡宮

石清水八幡宮放生大会の再興

貞観2年(860)、八幡大菩薩が大安寺行教に託宣し、男山に移座、もしくは行教が石清水寺(護国寺)に八幡大菩薩を勧請する。
そのしばらく後の貞観5年に放生会は始まると伝える。
 現存する絵巻では、鳳輦に供奉する僧俗神人ら千数百人に及ぶ行列が描かれ、山上山下をはじめ、放生川周辺に展開する天下の盛儀であったとされる。応仁の乱などによる中断はあったが、慶応2年(1867)までは盛大に営まれたと云う。
 ところが、慶応3年の神仏判然令で、山上山下の多くの仏堂・仏像・経典・仏器などが破壊・売却され、さらに石清水八幡宮護国寺をはじめとする多くの坊舎が廃絶する事態となり、放生会も廃絶する。

2004年10月3日、137年ぶりに「放生会」が再興される。

おそらく規模は盛時とは比べようもなく、縮小された形ではあろうが、神仏分離による廃絶の後、ここに僧侶及び神官が相集い、経典が誦まれ、佛教行事としての放生大会はひとまず再興される運びとなる。
そもそも石清水八幡宮(並びに宇佐八幡宮)放生会は、古代の政治的な意図によって成立した可能性が強いとされるが
いずれにしろ、八幡神が出家をし、修行をし、八幡大菩薩に成仏するという経緯(この経緯も極めて政治的であったとされる)
からも推測されるように、(佛教の放生と政治的な贖罪とが結びついた)放生会は元来は佛教行事であったといえるであろう。

宝亀8年(777)、八幡神は託宣をなし、出家をし、修業の道に入る。
宝亀8年5月18日<明日辰の刻を以て、沙門と成って、三帰五戒を受けるべし。自今以降は殺生を禁断して、生を放つべし。但し国家の為に、巨害あるの徒出で来たらむ時は、この限りに有るべからず。>
後段は恐ろしい国家神あるいは荒ぶる神としての(極めて政治的な)顔も覗かせてはいるが、要するに佛教に自ら帰依(これも極めて政治的であろうが)をする。
八幡神を信仰する人々は八幡神託宣を信ぜよ。御託宣が全てであろう。
理由はともあれ、八幡神は自ら仏門に入ることを託宣したのである。

「神名帳考証土代附考」黒川春村
山城石清水
 [鳩嶺雑日記]云石清水八幡宮不入式神名帳事(後略)云々
 要するに、石清水八幡宮は王城鎮護の社と崇敬されながら、「延喜式神名帳」にその名を見ない。
 その理由は、祇園社(観慶寺・祇園感神院、今は八坂神社と改号)北野(北野天神)などと同じく、古代に於いても
 石清水(護国寺・八幡大菩薩)は精舎(寺院)として認識されていたためであろう。

再 興 祭 事 次 第

神幸祭斎行:石清水八幡宮(斎主・石清水八幡宮、田中恒清宮司)
法要厳修 :比叡山延暦寺(導師・天台宗、渡邊恵進天台座主)
祭場は旧護国寺(明治維新後は頓宮という)および放生川・安居橋周辺。
午前10時:於旧護国寺・神幸祭・・・神事のようです。
午前10時半:於旧護国寺・法要・・・導師入場・礼拝、導師表白、放鳥、誦経
午前11時:於安居橋・奉納・・・和泉流狂言奉納
午前11時34分:於放生川・・・旧護国寺より安居橋へ神幸、衆僧読経、放魚

絹屋殿前の衆僧

絹屋殿から旧極楽寺へ

極楽寺前の行列(左図拡大図)

  放生川の僧侶及び神官(左図拡大)

  放生川の僧侶読経

 

和泉流狂言奉納1
(右図拡大)

和泉流狂言奉納2

10月2日(前日):再興記念講演会
・「放生会と神仏習合」曹洞宗栄松寺住職・渡部正栄
・「八幡神と放生会」別府大学文学部教授・飯沼賢司

10月3日(当日)午後:雅楽・和泉流狂言・天台声明・講演・公開シンポジウム開催
・神 賑:胡蝶の舞、平安雅楽会
・和泉流宗家狂言:和泉元弥、和泉淳子、三宅藤九郎
・講 演:「日本文化と八幡信仰」国際日本文化研究センター所長・山折哲雄
・法 楽:天台声明、比叡山延暦寺
・公開シンポジウム:「山の神・川の神・野の仏」
            同志社大学名誉教授・廣川勝美、駒澤大学文学部長・高橋文ニ、
            石清水八幡宮宮司・田中恒清、貴船神社宮司・高井和大、
            天台宗延暦寺学問所所長・小林隆彰、本山修験宗宗務総長・宮城泰年

天台声明1

天台声明2(左図拡大)

公開シンポジウムに於いて
法要で天台座主は何をしたのか?(延暦寺小林大僧正)
---およそこの世に生あるもの全て(衆生)は、魚といえども、心を持ち、心持つものは説法が通じるであろう。なぜ魚なのかの因果を説き、
魚に戒を授け、云々云々---以下は、佛の教えの素養がないので、詳細は省略せざるを得ない。

なお、釈然とはしないが、
本年も、放生会の神仏分離後の形である「石清水祭」も9月15日深夜から行われたと云う。
石清水祭:
午前2時:3基の鳳輦を神職らが担ぎ、約400人の行列で、山頂の本殿を出発。
約1時間かけて下山し、麓の頓宮で儀式が行われる。
午前8時:安居橋で神職らが鳩や鯉を放生。童女4人が、雅楽の演奏に合わせて「胡蝶の舞」を奉納。

本来はこの9月15日の「石清水祭」が維新前の放生会であり、本当の意味での放生会の再興とはこの「石清水祭」が中止され「放生大会」として執り行なわれる事になってからなのであろう。

2014/05/21追加:
2014/03/15(土)朝日新聞夕刊 より(「大意」)
○「『神仏の祈り ことばも融合』
東寺鎮守八幡において、東寺と石清水八幡宮との合同の法要が執行される。
形式は鎮守八幡堂内において僧侶と神職が相対し、神職が大祓詞を唱えるときには僧侶が、僧侶が般若心経を唱える神職が唱和する形式であった。」
 ※佛教の腐敗および馬鹿な国学者の扇動により、明治の神仏分離で仏と神とは引き裂かれるが、今般の「法要」で多少古来からの日本の伝統が蘇りつつあるということなのであろう。但し、今回の法要が本来の形かどうかは大いに疑問であるが、一歩前進というべきであろう。

2022/09/07追加:
北野御霊会の再興

2002年9月4日北野天神にて、叡山延暦寺の坊主が加わり、北野御霊会が再興される。
 →北野御霊会再興は山城北野天神中にあり。


2004/10/03作成:2022/09/07更新:ホームページ日本の塔婆石清水八幡宮石清水八幡宮・補足