『血と骨』をめぐる往復書簡編集採録
映画通信」:ケイケイさん
ヤマ(管理人)



*件名:『血と骨』でひとつ御質問です。(送信日時:2004年11月7日 21:32)
 ケイケイさん、こんばんは。今日『血と骨』を観てきました。
 日誌を綴る気が敢えて起こらなかったもので、そそくさとケイケイさんの映画日記を訪ねてみたのですが、残念ながら、まだアップされてませんでしたね。実は、ひとつ確かめてみたいことがあってのメールです。
 お訊ねしたいと思ったのは、俊平の日本からの帰国当時の状況です。結局、行き場のなかった彼が北鮮に帰国し、多大な寄付によって束の間の厚遇を得たものの、最後はわびしく孤独な死を迎えていましたが、あの当時(たぶん80年代ですよね、死を迎えたのが98年だったように思いますから、息子の歳の具合からすると)韓国のほうでは、日本からの帰国を認めてなかったとかいうようなことがあったのでしょうか。

*件名:Re:『血と骨』でひとつ御質問です。(送信日時:2004年11月7日 22:52)
 ヤマさん、こんばんは。もう一度原作を読み返していて、今から書こうかと思っています。先にお返事しますね。
 韓国のほうで日本からの帰国を認めてなかったというようなことはありません。「金俊平は、済州島の出身」というのが、ポイントなんです。日本の在日が、韓国系と北朝鮮系に二つに分かれているのは御存知でしょうか?(私は韓国系)
 韓国本土でも、今でもそうだと思うのですが、出身地で差別がすごくあるんです。その最もたるのが済州島。日本で言えば、沖縄のような風光明媚な場所です。原作にもありますが、本土で差別され、日本に渡っても、陸地の同胞から差別される済州島出身者は、当時人間に上下はない、みな平等という共産党思想に共鳴する人が多く、立地的には韓国出身なのに、北朝鮮に思想を同じくする朝鮮総連に所属する人も多かったんです。
 原作では映画で後輩扱いだった高信義が、唯一心を許せる親友で、彼が熱心な共産党員でした。体の不自由になった自分を、北朝鮮なら、手厚く介護してくれるという目論見があっての北朝鮮への帰国の選択と、原作では描かれています。
 ちなみに、原作の梁石日はバリバリの朝総連系の人なのだと、『夜を賭けて』の原作を読んだ時も思いました。『血と骨』では、だいぶマイルドになっています。これもそうですけど、思想的にはちょっと違うなぁと思うところはありますね。崔洋一は、インタビューなんかを読むと、お父さんが朝総連の活動家だったと思います。彼自身は、韓国に何年か前留学経験もあり、『月はどっちに出ている』を観ても、今回も、北朝鮮には否定的に感じます。
 御質問ありがとうございました。感想文書いたら、またお話したいです。ヤマさんはどんな感想だったんでしょうか? 楽しみにしています。

*件名:僕の感想です。(送信日時:2004年11月8日 13:07)
 ケイケイさん、こんにちは。とても丁寧な御回答、ありがとうございました。
 そうでしたか、済州島出身が鍵でしたか。映画でも高信義が済州島でも憲兵をやってたと戦後なじられてましたね。こういった事情については、なかなか僕らでは想像が及びません。80年代は、金大中事件や光州事件以降の変転があって、韓国も動乱の時期でしたから、何かそのあたりが影響してるのかもと思ったりしてました。
 在日の方々が、韓国系と北朝鮮系の二つに分かれているのは一応知ってます。『GO』を観たときに、それが簡単に取り替えたりできるものだというのがあって、それにはかなり驚きましたが、あれはやっぱり本当なんですか?
 『血と骨』の僕の感想を楽しみにして下さっているとのことですが、前便に書いたように敢えて書くのを見送ってしまいました。というのも、まず最初に感じたのが作り手の逃げと屈託だと感じたからです。でも、在日の方々のそれに僕が拘るのもいささか不遜な気がして(笑)。
 ですが、敢えて僕の感想を、とのことなので、誤解を恐れる心配のない方であろうことを見越して以下に少々綴ってみます。少し長くなるかもしれません。

 おっしゃるように原作・脚本・監督に全て在日の方が名を連ねてますよね。だから却って在日の方々が受けた差別を前に出して描くことに過度に自意識過剰というか、怯んでしまったように思えたんです。今のように自由主義歴史観などと言って極度に右傾化し逆戻り傾向が顕著になってきている状況と韓流ブームなどという脳天気なまでの融和が混在しているときに、敢えて差別の歴史を生々しく描くことをよしとしない気持ちが生じるのも無理からぬことと思う一方で、そこんとこを抜きに金俊平(ビートたけし)のキャラは生まれ得ないだろうにとの思いが僕のなかにはあります。でも、そこをすっ飛ばしてますよね。
 ある種のやむなさ切実さが一方にあってこそ、あのように生きて来ざるを得なかった怪物の怪物たる哀しみが浮かび上がるはずなのですが、そこが映画では観る側に自ずとは宿らないので、正雄(新井浩文)の口にする「頭のおかしいオヤジ」というのが言葉どおりに見えてきてしまうところが映画作品としての致命傷だと思います。
 本当は、1945年の終戦時に9歳だった息子には、そうとしか見えないだろうが、「頭のおかしさ」では毛頭済ませられない人生が1923年に日本に渡ってきた金俊平にあることが観客には体感的に理解できていて、正雄がそう言うのももっともだけれど、そうとばかりも言えないと感じられる位置に観る側が置かれてないと、金俊平ほど飛び抜けてはいなくても、この作品に出てくる人物たちが皆々程度の差こそあれ「頭のおかしい連中」みたいに感じられてしまう怖れという、とんでもない傷を作品が負ってしまいます。
 金俊平については少なくとも、済州島から陸地に渡って差別を受けて「お前なんかの相手をする女は、金か強姦でもなけりゃ、いやしない」と言われ、日本に逃げ出したけれども、日本でも同じように厳しい差別に晒され、本当に金と腕力でしか女を得られないことが身に沁みていることが、やはり描かれる必要があるように思います。であってこその金と腕力と女への執着となるわけですから。(原作でそうなってるかどうかはともかく)
 この映画では、激しく濃密な生のエネルギーの功罪含めたパワーを感じるよりも、言葉が悪いですが、奇人変人の集まりのように視られかねません。作り手としては、『海猿』でも心優しくひ弱な役処だった伊藤淳史を金俊平の若かりし頃にキャスティングすることで、あの柔和そうな青年がビートたけしのようになっていることを以て察してくれという構えなのでしょうが、それでは多くの観客はついていけないだろうと思います。
 そこんところを避けて通って、今時流行のDVものとして再構成したんでしょう。
 それはそれで、別に在日の方々に限った話ではない女性差別の歴史として、横暴な男権主義のもとに涙してきた女性たちは、現在もなおいるわけです。この映画もそのあたりで作品的認知を得、一定評価はされるような気がしますが、それだと金俊平の怪物性を描出することの意味がおのずと薄れてき、彼のDV的な現象面の描出に力点が置かれるとともに、むしろ花子(田畑智子)の夫(寺島 進)のDVのほうがクローズアップされてきたりもします。映画では、まさにそういう処理がされていたように思います。
 ところが今度は、花子の夫についてはその人物像がきちんと物語られていないことでシーンの強烈さが妙に釈然としない違和感を残してしまうのですが、所詮『血と骨』の映画化である以上、花子の夫を詳しく語る作品にはなり得ませんよね。おそらく花子の夫は、花子の父俊平に花子の知らないところで相当いたぶられていたのだろうと思います。あるいは金俊平ではなく、日本人に。
 『誰も知らない』の拙日誌でも触れたことなのですが、僕は、DVも「強者の弱者への(正確には、弱者の更なる弱者への)ツケ廻しの論理」によって生じていると思っています。ですから、DVを行う側に主人公としての焦点を当てたドラマにするのであれば、そこにはDVという形で噴出してしまうだけの彼の弱者ぶりがきちんと描かれていなければならないと思います。そこのところを「在日の差別の歴史を今なお語るタブー」みたいなとこで避けて通ると、DVものとしても重要な点が損なわれてしまうと思うのです。
 僕などが「在日のタブー」などという一言で済ましてしまうのは不遜極まりないのは承知のうえですが、自分の率直な感想としてはそういうものだったので、日誌に綴るのはやめたのでした。
 花子が正雄に言う「あんたもだんだんアボジに似てきたね」という台詞は、とても重要なものなのですが、それをこの台詞の取り出しだけでしか表現できていないところが、この作品の水準を物語っているように思います。でも、全くダメな作品だとは思ってないんですよ、僕は(笑)。あのボカシの映像処理の仕方は何ともいただけませんでしたが(笑)。

 それと今回メールで教えてもらったことで思わぬ想起を得ました。映画にあった金俊平の1998年の終息のシーンは原作にはなかったんじゃないですか? ここには原作者とは立場を違える映画の作り手の、今の時代を意識した周到且つ慎重なる立場表明が込められているように思いました。僕などが「タブー」などという一言で済ますのが不遜千万であることの証左でもあるような気がしております。
 在日差別を描かなかったり、北鮮への立場表明をすることが、この映画製作が文化庁支援を受けていることへの配慮だったりしなければいいのですが、そんなふうなことさえ想起してしまいました。
 こういう想起自体が不遜極まりないことで、微妙な立場への妙な気の廻し方は却って心外だという形で、大いに作り手の顰蹙を買いそうですよね(苦笑)。やっぱり日誌にはしないほうがよさそうでしょ(笑)。
 昨夜から朝、昼休みと、時間を継ぎ足し継ぎ足ししながら書きましたので、思っていた以上に長くなってしまいました。感想を、とお声掛けいただいたおかげで言葉に整理する機会を得て、僕自身にとっては、意味のある時間が持てましたよ。ありがとうございました。


-------避けられた差別描写-------

(ケイケイさん)
 ヤマさん、こんばんは。丁寧な感想に感激しています。

ヤマ(管理人)
 こちらこそ、よい機会をいただきました(礼)。

(ケイケイさん)
 「80年代は金大中事件や光州事件以降の変転があって」とのことですが、光州は、金大中の出身地ですね。光州というのは、全羅道というところにあり、この全羅道がまた差別対象で。差別というより、嫌われている地方なんです。性格の悪い人が多いと(笑)。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか(笑)。地域間差別の強い文化事情があるんですね、韓国は。
 昔の藩制の名残が強く、人々の社会的移動に乏しい、閉じた社会だった頃、日本でも国内での自他意識というか内外意識が強いことでの地域間差別は、けっこう強かったように思うのですが、今はせいぜい県民性みたいなことで寄せる関心のなかに多少かいま見えるくらいで、相当稀薄になってきました。

(ケイケイさん)
 「韓国系と北朝鮮系の二つを簡単に取り替えたりできるのは、本当なんですか?」という件については、今は割りと簡単みたいですね。昔は思想的な背景を調べられて、結構大変だったみたいです。『GO』は、上手に今の若い在日を描いてたと思いました。

ヤマ(管理人)
 拙日誌にも綴りましたが、これは、とてもいい作品でした。いい歳をして僕も若気にかられましたもの(笑)。

(ケイケイさん)
 窪塚くんが新井浩文に「このパンチョッパリが!」と、言われていたの、覚えていらっしゃいますか?

ヤマ(管理人)
 そう言えば、そうでしたね。

(ケイケイさん)
 パンチョッパリって悪い言葉なんですが、日韓ハーフという意味です。奥さんが日本人なんだから、日本国籍にした方が自然で得なのに、日本人にはなりたくない、同じ血の韓国にというお父さんの意地は、私にはとても胸に染みました。

ヤマ(管理人)
 そのへんは僕も感じた覚えがあります。むろん胸に沁みるというような感情を伴ったものではありませんでしたが。

(ケイケイさん)
 ヤマさんが「まず最初に感じたのが作り手の逃げと屈託」で、「それに拘るのもいささか不遜な気が」されたとのことですが、作り手に関しては、そうですよね、すごく焦点が散漫でした。でも、不遜かれこれについては、私は、率直な日本の方の感想が聞きたいと思っています。私には子供のお母さん友達も日本の人が多いんです。それでよく在日の人の愚痴を聞かされますよ。(笑)

ヤマ(管理人)
 ええ、ケイケイさんは、そのように仰って下さる方だと見越して、それで「在日のタブー」みたいなことを不遜にも言っちゃったんですけどね(笑)。
 僕が思うに、二世さらには三世の方々においては、緩和されつつも残る差別というものへの自身の構えが、ものすごく複雑な感じになっているような気がするんですよね。一世から聞かされるような、ある意味で金俊平たちのような激烈なエネルギーで立ち向かわねば生き延びられないほどのものではないことで、いろいろな形で一世に対する屈託を抱えてしまうと同時に、一世の状況とは異なるなかで一世の踏襲をするわけにもいかないし、また、したくもない思いが強かろうと推察しているのですが、そのあたりで過剰に意識が働き、本来なら描くべき作品のなかでも避けて通ったことで、作品が傷を負ったように思ったわけです。

(ケイケイさん)
 「右傾化し逆戻り傾向が顕著になってきている状況と脳天気なまでの融和が混在しているときに、敢えて差別の歴史を生々しく描くことをよしとしない気持ちが生じるのも無理からぬと思う一方で、そこを抜きに金俊平のキャラは生まれ得ないだろうにとの思い」と「怪物の怪物たる哀しみが浮かび上がるはずが、映画では"頭のおかしいオヤジ"見えてきてしまうところが致命傷」というのは、仰る通りだと思いますよ。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。

(ケイケイさん)
 差別を描くのは、本当にあったことを描くのだから、過去を知ることは未来につながりますよね?
 要は描き方だと思うんです。

ヤマ(管理人)
 そのとおりですよね。ですが、それが非常に非常にむずかしい!(笑)
 どんなに描いたところで「在日と言えば、また差別の話か」みたいな受け取られ方をされてしまいそうな懸念を払拭できないでしょうし、事実、それは懸念に留まらない部分があるように思います。興行作品としての不安も先立つように思います。しかもそれが、それこそ日本人たちが作るのであれば、それはそれで意欲的に取り組んでくれればいいと思っても、それこそケイケイさんのおっしゃる「原作・脚本・監督と、全て在日の三位一体の攻撃」のなかで、それをすることが今、果たしてどうなのか、却ってよくないのでは? と考えてしまいそうには思います。
 それを僕のようなものが「逃げ」と言ってしまうことに躊躇がありました。

(ケイケイさん)
 でも、ヤマさんの仰るように、「逃げてしまった」から、俊平の輪郭がぼやける。

ヤマ(管理人)
 そうですよね。純粋に作品的完成度みたいなとこから言えば、やはり「逃げ」が「傷」に繋がってますよね。

(ケイケイさん)
 俊平という人を在日の人から見れば、必ず自分の血筋に思いあたる、似た人がいるはずなんです。

ヤマ(管理人)
 俊平ほどの怪物ぶりではなくても、ケイケイさんが映画日記にもお書きの父上やお舅さんのように、二世・三世から見れば、激烈なエネルギーとパワーで生き延びてこざるを得なかったのが一世ですよね。そこのところの普遍性が宿らずに金俊平“だけ”が特別変異みたいな形で、チラシに謳われる“怪物”になっても仕方がないですよね。
 そういう意味では、彼だけが激しい人物像を示していたわけではないとこが、この作品の見識ではあると思ってます。ただ先の感想にも書きましたが、「金俊平ほど飛び抜けてはいなくても、この作品に出てくる人物たちが皆々程度の差こそあれ“頭のおかしい連中”みたいに感じられてしまう怖れという、とんでもない傷を作品が負っている」ようなところがあるんですよね。それは、やはり差別を描くことを逃げたところから生じています。
 でも、観るべき人が観れば、在日の方でなくても了解できることではあるのかもしれません。僕の友人である「チネチッタ高知」のお茶屋さんが先頃観てきたようで、感想をアップしてますが、それを読んで大いに感心しました。僕が最も感心したのは「これだけ暴力を振るうということは、彼の思い通りにならないことばかりなわけで、そんな彼が幸せだったはずはないですよねえ。彼の思い通りになったのは、清子だけでした。俊平は清子に頼られるのが快感だったかもしれません。妻英姫は、過去に不倫で工場を追い出されるような芯の強い女性だから、うまく行きっこなかったのね。」というところでした。彼女は、原作を読んではいないと思われるのですが、映画作品からきちんと最重要ポイントを汲み取っておいでますよね。


-------最重要ポイントは、妻の英姫の人物像-------

(ケイケイさん)
 お茶屋さんの感想、拝読しました。びっくりしましたよー、あれくらいの演出でこんなに深く汲み取るなんて。年齢は私くらいの方でしょうか?

ヤマ(管理人)
 ちょうどケイケイさんと同じ学年になるんじゃないかと思いますよ。

(ケイケイさん)
 もっと若い方なら、人生経験豊富すぎですね(笑)。

ヤマ(管理人)
 わはは。

(ケイケイさん)
 金俊平が「済州島から陸地に渡って差別を受けて日本に逃げ出しても、同じように厳しい差別に晒され、本当に金と腕力でしか女を得られないことが身に沁みていることが描かれる必要。(原作でそうなってるかどうかはともかく)」ということで言えば、原作では、愛人に騙されたり逃げられたりもしています(笑)。妻の英姫(鈴木京香)も済州島の出身なんですが、元の血筋は陸地の中でもヤンバンと言われる、高貴な血筋なんですね。
 原作でもそういう設定だけで描かれてはないことで、行間から私が感じたことなんですが、俊平は妻にコンプレックスを抱いていたように思います。妻のほうも尽くしぬくのですが、一度たりとも心の底を夫に見せたりしない。

ヤマ(管理人)
 このレベルで受け取ることは、仮に原作を読んでいても僕らには到底無理な話ですが、ご紹介したお茶屋さんは、結果として生じる「うまく行きっこない」部分を感じ取ったうえで映画を受け取ってますよね。妻英姫を暴君俊平の暴力の被害者とだけは、決して受け取っていないことが窺えます。

(ケイケイさん)
 ここにびっくりしました。私はただひたすら耐える妻の描き方だと憤慨したのに(笑)。

ヤマ(管理人)
 ですよねー。まぁ、映画開始早々に久しぶりに戻った俊平に「出ていけ!」って怒鳴ったりはしてますが、抵抗しながらも組み敷かれて結局、大きく脚を宙に伸ばして広げてましたよね。確か御丁寧に、脚の指が内に折れ縮む描出もあったように思いましたが(笑)。

(ケイケイさん)
 あの怒鳴ってるシーンなんですけどね、私もCMで見て、結婚後のシーンだと思って「さすが韓国の女!」と溜飲を下げていたのですが、原作の順番や作品の紹介を読んでいたら、どうも手篭めにしたあげく、嫁にした設定みたいですね。不確かなんですが、何も知らなくて観たら、ヤマさんの御指摘通りですよね。

ヤマ(管理人)
 そうでしたか。確かに幼い晴美がいただけでしたね。僕は、結婚していたかどうかはともかく既に旧知で、それなりの関係があったうえでの放置があってのことだろうと受け取ってました。ま、いずれにせよ、韓国女性の男に従ってばかりではない面ということにはなっても、怒鳴っただけで屈服させられてましたよね。
 でも、ケイケイさんにとっては、韓国女性である以上に、加えて「妻」であるか否かという部分が大きいんですね。しかし、作品紹介で「手篭めにしたあげく、嫁にした設定」とあったにしても、あの時点で両者が顔見知り程度だったということはないですよね? きっと。僕にはとてもそうは思えませんでした(笑)。
 また、俊平が屏風を背に脚が立たなくなったときに「死ね!」とかも言ってたように思いますが、それでは気丈さよりも恨み言のようにしか見えませんし、ね。

(ケイケイさん)
 ここもね、ちょっと違和感がありました。私が知っている夫の蛮行に耐えていたお婆さんたちは、こういう時手厚く看護しますね。もうびっくりするくらい献身的です。

ヤマ(管理人)
 そうですか、それもまた凄いですね。振幅激しいんですね、何にしても(笑)。

(ケイケイさん)
 妻という名でいる限り、その立場に従う人が多いです。

ヤマ(管理人)
 従いつつも隷属するのではない妻の姿というのは、日本女性においても、かつての基本イメージでしたね。ただその起伏の乏しさということにおいて、韓国女性とは大きくスタイルが異なっていたような気がしますが。

(ケイケイさん)
 原作では、すごく出来た妻を持ちながら、何故夫婦がダメになっていったのか、妻の側にも非があるのを、控えめに責めずに描いています。原作でも、気がつかない人もいると思いますよ。私は古女房ですから、こんなことをしたら、男は家に帰ってこんわなぁとわかりますが。
 あぁ、これ作者のお母さんがモデルなんやなぁと、汲み取れますね。絶対悪いのは父親なんや、でも大人になってお母ちゃんが悪かったこともあるのがわかった、でも絶対お母ちゃんは悪く書きたくないみたいな(笑)。

ヤマ(管理人)
 あぁ、いいなぁ、こういう視線、こういう気づき(笑)。ケイケイさんには御家族の隅々まで見えてそうですね。

(ケイケイさん)
 あはは、いやいや。韓国の人は苦労した母親を持つ人が多いので、お母さんは大切にしますね。
 ところで、俊平の清子(中村優子)への気持ちについてですが、清楚で教養がありおとなしい、日本女性に憧れていた部分を表現したのかと感じました。コンプレックスもあっただろうし…、

ヤマ(管理人)
 なるほど。ここんとこは言われれば、間違いなくそうだったろうと思いますが、僕はそんなに意識してませんでしたね。

(ケイケイさん)
 ほら、「インドへの道」や「アラバマ物語」でも、インド男性VSイギリス女性や黒人男性VS白人女性のステレオ型の見方が作品を支配してましたでしょう? これがふっと頭に浮かんだんですよ。教師の未亡人であるとか、紺のカーディガンにフレアースカートの清楚でエレガントな様子に、当時の在日女性にはない眩しさがあったと感じました。

ヤマ(管理人)
 ええ。間違いなくそういうことなんだろうと思いますね。僕が意識してなかったのは少々迂闊というか、ある意味、金俊平は桁外れ男なんで、そういう普通っぽい「日本女性」憧憬みたいなものの埒外にあると受け取っていたのかもしれません。で、清子が日本女性であるとかいうことよりも、従順さに打たれた荒くれ男みたいな(言わば「美女と野獣」みたいな話ですわね)エピソードとしていると受け取ってました。
 ああいった「従順さ」を体現させる女に在日女性は似つかわしくないとの思いは、在日女性をよく御存知のはずの作り手には、あったかもしれませんね(笑)。

(ケイケイさん)
 それと、自分の自由に出来る快感もあったと思います。対する清子に、朝鮮人の妾になった嘆きはなかったので…、

ヤマ(管理人)
 これは強く思いました。「脱げ!」とか言って粗野に乱暴に向かっても、充分以上に身体で応えてくれるばかりか、「末永く可愛がってください」と言ってくれる女だったわけで、俊平にはたまんなかったでしょうね。

(ケイケイさん)
 そういう従順な彼女への愛情が、あの入浴シーンかと思いました。

ヤマ(管理人)
 これについては、僕は俊平があっさり彼女を棄てないことに唐突感を覚えたのですが、そーか、本気で愛したんだなって思ってからは、障碍を残し定子(濱田マリ)を家に入れた後、清子がいても定子とセックスをするのは俊平なら当然ながら、そのことを知る清子が言葉を発せぬままに俊平の襟元を掴んで放さなかったときに、その清子とセックスをしてやってこそ俊平だろうにと、障碍の残った清子と俊平のセックスシーンを描かないところに不満を覚えたのでした。(ちょっと『オアシス』入ってたかもしれません、このとき、僕(笑)。)

(ケイケイさん)
 あー、これは入れた方がいいですね。
 清子の扱いは原作とはちょっと違って、膨らませています。原作では、病に倒れから厄介者扱いなんですよ。

ヤマ(管理人)
 あらま、そうなんですか。映画では“暴力的な男から暴力を抜き取った女”として登場してたわけですが、ますます以て映画は、DVという形での男の暴力性というものに、焦点を絞り込んで描いてたんですね~。きっと脚本を書いた鄭義信の意向が強いんでしょう。彼は児童虐待を描いた秀作『愛を乞うひと』も手がけてますし、ね。
 あれでも原作にはなかったとても重要なシーンを盛り込んでましたよ。

(ケイケイさん)
 映画では、俊平が唯一愛した女性みたいに描かれていましたよね?
 障碍の残った清子と俊平のセックスシーンは、あったほうが生身の男女の愛がありますよね。

ヤマ(管理人)
 そして、俊平の“普通の男とは桁違い”みたいなとこも浮かび上がりますし、ね。

(ケイケイさん)
 それも含めて、俊平が済州島の出身だったというような“出身地の壁”は、一世には計り知れないくらい重かったと思います。

ヤマ(管理人)
 そういうことを描いてこそ、二世三世が一世を語る意味も値打ちも出てくるように思うんですけどねー(惜しいなぁ)。


-------一世の持つ激しく濃密な生のエネルギーの功罪含めたパワー-------

(ケイケイさん)
 「この映画では、激しく濃密な生のエネルギーの功罪含めたパワーを感じるよりも、言葉が悪いですが、奇人変人の集まりのように視られかねません。」とあるのを見て思ったのですが、ヤマさんは、同じ梁石日原作の『夜を賭けて』観ていらっしゃいます? 確か感想にはなかったようですが。(探しました)

ヤマ(管理人)
 お探し下さったんですか、恐れ入ります。こちらでは上映されておらず、観ておりません(残念)。
 ケイケイさんの三指に数えられた『オアシス』のほうは日誌も綴ってるんですが。(それはそうと、この『オアシス』は、ケイケイさんのほうが日記を綴っておいでませんよね。僕も探しました(笑)。)

(ケイケイさん)
 これは3月に観たので、まだ日記を始める前だったんですよ。惜しいことしました(笑)。
 『夜を賭けて』は、「激しく濃密な生のエネルギーの功罪含めたパワー」がふんだんにありました。明るさと笑い、底抜けのバイタリティーとしたたかさ、生への執念みたいな物がひしひし感じられました。私はすごく自分の血が騒ぐのを感じましたね。

ヤマ(管理人)
 それはいいですね。是非観てみたいものです。

(ケイケイさん)
 これは新宿梁山泊の主宰者・金守信が監督で、脚本は丸山昇一なんですね。 ワイルダーの言葉通り、脚本が良ければ映画はだいたい大丈夫でしょう?

ヤマ(管理人)
 ワイルダーには及びませんが、お読みいただいた拙著でも「1.ホン」としております(笑)。

(ケイケイさん)
 この脚本の刈り方と膨らませ方は良かったですよ。差別表現も入っているのですが、その事にへこたれない、したたかさと熱さがありました。

ヤマ(管理人)
 映画作品を観てみたいものですねぇ。

(ケイケイさん)
 それと日本の人にはわかりにくい、在日の中でもある南北の対立も、原作ではページをさいて描いていますが、ばっさり刈っています。同じ差別でも、部落関係は湿っぽくて暗いでしょう? 在日の人は明るいですよ。気が強いし、差別されたら次は絶対やり返そうみたいな。(笑)

ヤマ(管理人)
 健気さよりも逞しさだぜってとこですね。

(ケイケイさん)
 それに異常に楽天的です。「ケンチャナヨ」という言葉があるのですが、何とかなるとか、気にしないという意味です。なんでもこれで済まそうとするのは、すっごく問題なんですが(笑)。『夜を賭けて』は舞台挨拶にも行ったのですが、金監督、「何があってもケンチャナヨ」。こればっかり言うんですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 これは陸地のほうでもそうなんでしょうね。ふとアメリカ映画にかつてよく出てきていた「Take it easy !」という言葉を想起しました。それで思ったのが、韓国映画が、日本映画が真似しても及ばなかったハリウッドスタイルをめざましい勢いで吸収消化できたのは、そのへんもあるのかな、と(笑)。

(ケイケイさん)
 韓国はO型が一番多いそうですよ。アメリカといっしょ(笑)。

ヤマ(管理人)
 そうなんだ~、やっぱ(笑)。僕はA型です。亡父と弟、妻と次男がO型です。

(ケイケイさん)
 アメリカの人は東洋に旅行に来て、日本から韓国に行くとホッとするのだとか。喜怒哀楽がはっきりしているかららしいですよ。

ヤマ(管理人)
 確かに。アメリカ人もストレートですもんねー(笑)。

(ケイケイさん)
 『夜を賭けて』では、自分の感じている血と、日本人の丸山昇一の脚本がぴったり一致していることに、すごく感激したのを覚えています。

ヤマ(管理人)
 こういうのは、殊の外、嬉しいものでしょうね。

(ケイケイさん)
 でも、これはミニシアター作品ですしね。それに比べて『血と骨』のほうは、松竹がこれと『隠し剣~』で年末まで目玉にしようとしているらしいので、拡大公開なりの観客動員は必須ですよね。
 でもねぇ…、三位一体がダメだったですね(笑)。

ヤマ(管理人)
 ええ、その名がつくものにろくなものはありません(笑)。

(ケイケイさん)
 やはり在日の描き方に期待し過ぎました。

ヤマ(管理人)
 全て在日の方で要所を占めたことが、過剰な思惑へのセーブを働かせにくいことに繋がったのかもしれませんね。

(ケイケイさん)
 原作では『夜を賭けて』に比べると差別の描写も少なく、戦後は植民地時代のことを持ち出して、在日のほうがゴリ押しするという場面も出てきます。
 それと、原作にいっぱいでてくる場所や建物は、うちから近所のところばかりで、原作で正雄が受験して落ちた都島工業高校は、うちの長男の卒業校という念の入りようで、私には臨場感たっぷり、リアル過ぎるほどリアルだったのもまずかったかなと…。あまりリアルに作品の背景を知りすぎると、作品に対して却って客観性がなくなりますよね。


ヤマ(管理人)
 それは確かにありますね。「違う!」ってことのほうに目が行きやすくなりますよ。

(ケイケイさん)
 そうなんですよ。日頃は原作と映画は別物と言いながら、このていたらく(笑)。お恥ずかしいです。

(ケイケイさん)
 『海猿』で心優しくひ弱な役処だった伊藤淳史を金俊平の若かりし頃にキャスティングすることで、察してくれという構えなのでしょうと御指摘されてもおいでましたが、それはずるいですよね(笑)。『海猿』は、映画は未見ですが、原作は5巻くらいまで読みました。中々良かったです。例によって息子に読めと言われました。

ヤマ(管理人)
 僕は映画のほうしか観てませんが、日誌も綴りましたよ。けっこう好きな作品です。

(ケイケイさん)
 「キャスティングで察してくれという構えでは多くの観客はついていけないだろう」とは、私も思ったんですが、これが結構熱くて良いという風評があるんですね。びっくりでしょう? Yahooの韓謙の思う壺だと思ったのに、全然出てきません。これはどうしたわけなんでしょう。

ヤマ(管理人)
 日本人による在日差別を描いてないからだと思います。ある意味、作り手の思惑が功を奏しているんでしょう。


-------映画の作り手が描きたかったのは、民族差別ではなくDV-------

(ケイケイさん)
 「花子の夫のDV」や「花子の夫が花子の知らないところで相当いたぶられていた」というのは、原作では全然描写がないんです。花子は一度離婚し、次の夫のアル中に悩まされそれを苦に自殺した。たったそれだけなんですよ。姉の春美夫婦[夫は高信義(松重豊)ではありません]の描写は克明なのに、結婚後の花子は、死まで全然出てこないんです。

ヤマ(管理人)
 それは意外でしたね。となれば、ますます映画の作り手の主題はまさにDVだったんだなという感じです。

(ケイケイさん)
 感想にも書きましたが、本当にあの脚色は意味不明。

ヤマ(管理人)
 通夜の席での麻雀と俊平への媚び方ですね。花子の夫の人物像を最低にこき下ろしたわけですが、そこは映画の作り手としては、同じDVでも、一世の俊平は二世のこやつとは違うよっていう対照でしょう。それとケイケイさんが憤慨するほどの蛮行をした花子の夫を、俊平への媚び方を描くことで以てこきおろして、観る側の溜飲をさげさせていたのだろうとも思います。

(ケイケイさん)
 これは夫の意見なんですが、崔監督はこういう人を知ってるのじゃないかと言うんです。

ヤマ(管理人)
 あ、これはなかなか説得力のある御見解ではないかって思いましたよ(笑)。

(ケイケイさん)
 大阪ではいなくても、崔監督の育った長野には居たかも知れないって。私は認めませんけど(笑)。

ヤマ(管理人)
 韓国の血を受け継ぐ男たるもの、あんな無様だけはありえないってことでしょ?
 いいなぁ、こういうことは、ケイケイさん御夫妻の間でそれぞれ逆の性からの見解になってないところがとてもいいです。韓国男児にとって、貴女は、とても“いい女”ですよ(喝采)。

(ケイケイさん)
 そうですね、考えれば男女反対の意見ですよね(笑)。
 普段は威張ってますよ、韓国の男は。
 子供には今でも強いですよ。有無を言わせません。あの花子が階段から突き落とされるシーンを長男に話したんですよ。「ほんでな、『あんたは誰なんですか?』って娘が言うたんや。」そしたら息子が「その娘、しばきまわされてんやろ?」っていうんですよ。私が階段から突き落とされたと言うと、「そら親に『あんた』って言ってんから、しゃあないわな。」で納得してましたもん(笑)。私ね、これだけは本当に思いますよ。日本のお父さんは弱すぎ!
 これはお母さんが悪いと思いますね。子供の前では旦那さんは立てないと。夫婦だけの時はどうでもええから(笑)。
 ちょっと横道にそれちゃいましたが、そんなわけで、私にはあんな韓国男児は認められないから、日記に「井の中の蛙」って書いたんですよ(笑)。

ヤマ(管理人)
 ああいう男もいる可能性だけは、ちゃんとお認めになっているんですよね。
 そうかぁ、それで映画日記「血と骨」(2)での「井の中の蛙」との言だったのか。ちょっと唐突に感じてたんですけど、納得しました。

(ケイケイさん)
 意味なく“在日の女哀歌”にして欲しくないです。

ヤマ(管理人)
 ここんとこが、御自身が在日女性のケイケイさんの逆鱗(笑)に触れた核心なんでしょうね。

(ケイケイさん)
 そうですね。定子がヨイヨイになった俊平に、「うちを舐めたらあかんで」って啖呵切るじゃないですか? 何で日本の人に言わせて韓国人に言わせないのかと、ここもマイナスですね(笑)。原作で、脳腫瘍の出来た清子のことを長屋のオカミサンたちが「私らは亭主の暴力なんか慣れっこやけど、日本の女は、か弱いさかい、ちょっと殴られたくらいで頭おかしなったんや。」という台詞があって、すっごく笑いました。

ヤマ(管理人)
 これも確かにあったほうがいい台詞だという気がしますね。韓国女性の逞しさタフさの自負の表明として。
 でも、この話を伺って、またしても作り手が日韓というところに物凄くナーバスな配慮をしていたことが、偲ばれるように思いました(笑)。

(ケイケイさん)
 この後にもっと面白い事が書いてあるんですよ。
 その話を聞いていた妻が、笑い事ではない、あの恐怖はなった者にしかわからない、と清子に同情するんですね。滑稽でおかしいのに、哀しいものも感じます。この場面は、私は原作で好きでした。

ヤマ(管理人)
 そーか、妻英姫が清子に同情するのか。うん、その場面もあったほうがいいですね。

(ケイケイさん)
 だいたい韓国の女にDVはない、というのが私の持論。殴られて黙っているような気の弱い女性はめったにいません(笑)。

ヤマ(管理人)
 確かに(苦笑)。僕がこれまで観てきた少なからずの韓国映画のほぼ全てで、韓国女性はみんな途轍もなく強かったですね(笑)。まぁ、日本映画でも欧米の映画でも、だいたい映画において女性は、みなさん強いな~と思いますし、映画に限らず、現実的に女性のほうが強靭で、男は到底叶わないとしたもんですよ。だから、男は空威張りしがちなんですって(笑)。

(ケイケイさん)
 「花子が正雄に言う「あんたもだんだんアボジに似てきたね」という台詞は、とても重要なものなのですが、それをこの台詞の取り出しだけでしか表現できていないところがこの作品の水準を物語っているように思います。」との御指摘には大賛成です。そうなんです、その通りです! ここは説明でなく、正雄が自分で気づいて苦悩すべきなんです。原作はそうでした。
 「あのボカシの映像処理の仕方は何ともいただけません」も同感ですね。安物のポルノみたいでしたね(笑)。あんな撮り方をしなくても、充分表現できたと思いますが。

ヤマ(管理人)
 昔の癖が出たのかもしれませんね(笑)。

(ケイケイさん)
 ロマポで助監督だったんですよね?


-------原作にはなかった終息シーンとメール交換から生まれた追記-------

(ケイケイさん)
 それと、私とのメールから想起されたとの「映画にあった金俊平の1998年の終息のシーンは原作にはなかったんじゃないですか?」の件ですが、よくおわかりですね。原作では、北に帰ったあとすぐ俊平は入院し、3年後に亡くなります。

ヤマ(管理人)
 示唆してくださったものが的確でしたから(礼)。

(ケイケイさん)
 「原作者とは立場を違える映画の作り手の、今の時代を意識した周到且つ慎重なる立場表明」というのも、きっとそうなんでしょうね。私は余計な感じがしました。

ヤマ(管理人)
 そうですね。このあたりにも作り手側の屈託が浮かび上がってきているように思います。

(ケイケイさん)
 差別や政治的思想を一切排除した脚本にしておきながら、このラストには、私は違和感がありました。  ところで、私のほうは書き足りなくて、映画日記に感想文2として書いてしまいました。(笑)

ヤマ(管理人)
 老いて後の俊平の描き方に言及されている部分は、僕とのメール交換で触発された要素もあったかなと、ちょっと嬉しく読みました。

(ケイケイさん)
 そうです、そうです。(^^)これは日を置かずに書いておかなくちゃと。 本当は前に書いたものも、見返して追加や削除したい気持ちに駆られるんですが、基本的にやめてます。

ヤマ(管理人)
 これは僕もそうですね。でも、追記という形で書き加えたものはあります。『トーク・トゥ・ハー』とか『きょうのできごと』、 次回更新では『花様年華』に追記をしようと思ってます。

(ケイケイさん)
 私は、後で手直しするのは、誤字・脱字だけにしています。

ヤマ(管理人)
 あ、そうだ、それで言えば、ケイケイさんがお書きになっている『誰も知らない』ですが、胸打つ文章で、いずれ拝借したいと思っているのですが、さすが泣きながらお書きになっただけあって、何カ所か脱字があったりしたような覚えがありますよ。

(ケイケイさん)
 いつもありがとうございます。実は興奮して書いたので、見返すのが恥ずかしくて。変な箇所がいっぱいありますもん。早速読み返してみます。でも掲示板には出てこないのですが、お母さん友達で見てくれている人がたくさんいるのですが、『誰も知らない』は感想文で泣いたとか、良かったとか、たくさんメールをもらいました。誰も観てないのに(笑)。

ヤマ(管理人)
 掲示板でも、そういう声お見かけしましたよ。

(ケイケイさん)
 感想文を読んで観た気になったと言うのですよ。それでは困るねんけどなぁ(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕も今回、掲示板で言われちゃいましたよ。確かに困りますよね(笑)。
 ところで、感想文2の話に戻りますが、読んでみて僕も、ケイケイさんが書いておいでのような演出のほうが作品的によくなる気がしましたねぇ。
 それと、もうひとつ思ったのは、まだまだ悪口を書き足りない思いだと掲示板に書いておいででしたのに、むしろ、よかったところに目を向けておいでのようで、あれ? 心境の変化? なんてのもちょっと(笑)。
 また、オダギリ・ジョーに触れておいでの箇所、味わい深く読みました。息子の心情を書かせたらケイケイさん素晴らしいですね。いいお母さんなんだろうな~。

(ケイケイさん)
 武(オダギリジョー)の別れ際は、泣いたんですよ(バカ)。
 韓国人で一人息子って孤独ですよ。父親とは絶対友達親子にはなれないし、映画でもそうでしたが、「長男だから」の一言で有無を言わせないし。女性は家の愚痴や相談なんか、割と気楽に友人にもしますが、男性は絶対ないでしょう? この辺は日本の方も同じではないですか?

ヤマ(管理人)
 そうですね。僕らの世代では「家の恥」とかいうのではないんですが、やっぱり家族問題での愚痴や悩みは言えませんね。経済的に厳しいとかいうのは、家族関係のことではありませんから、よくぼやいてますけど(笑)。
 でも、そういう事情は、ある面、前もって知られているほうが無理をする必要がなくなり、円滑な交友を維持するうえで、付き合いがしやすくなりますからね。でも、近頃は日本の男も家族に対する愚痴や泣き言、多くなりましたよ。僕は一切しませんね。っていうか、まぁ、あんまりないし、ね(笑)。

(ケイケイさん)
 良いご家族に恵まれておいでですね。きっとヤマさんが良い御主人・お父様だからですよ。

ヤマ(管理人)
 たぶんに僕が楽観主義で「ケンチャナヨ」精神に富んでるからに過ぎませんよ(笑)。

(ケイケイさん)
 韓国人では、この長男の呪縛というのは、すごいです。だから、私も次男が生まれたときは、嬉しかったですね。三男の時は分娩台の上で「ウッソー!」と言ってしまいましたが(笑)。
 それはそうと、時間を継ぎ足し継ぎ足ししながら感想をお書きくださったとのことですが、お手間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。

ヤマ(管理人)
 とんでもありません。

(ケイケイさん)
 意味のある時間が持てたとの謝辞までいただき、こちらこそ、ご丁寧にありがとうございました。
 なかなか在日の人に遠慮して、本音は書きにくい作品だと思います。率直なご意見が伺えて、嬉しかったです。

ヤマ(管理人)
 そう言っていただければ、敢えて感想を述べた甲斐もあります(嬉)。

(ケイケイさん)
 ほとんど一緒の感想ですし(笑)。

ヤマ(管理人)
 そう言えば、そうですね(笑)。憤慨と残念という触発された感情が異なっているだけで、拘ったところは、ほとんど同じとこでしたね。

(ケイケイさん)
 これもまた不思議ですよね、住むところも生い立ちも違う者同士が、こうしたデリケートな部分を含む作品で、同じような感想だとは。

ヤマ(管理人)
 それが今回ちょっと嬉しいところでした(笑)。でも、僕もほんの少し、韓国には縁があって、亡父が生まれた地が光州だと聞いた覚えがあります。
 父は大正十五年の生まれですが、祖父が戦前の官吏で赴任してたそうで、父が小学三年の時に祖父が突然死するまで韓国で生まれ育ちました。生前、一度は生まれ故郷を訪ねてみたいと零していましたが、思いがけなく肝臓癌で病床に伏し、13年前に65歳で他界しました。キムチと焼き肉が好きで、僕が幼い時分には親父好みの味のキムチをおふくろが作らされていたことを覚えています。僕が幼い時分には焼き肉などというものは滅多なことでは、口に入るものではなかったので、焼き肉のそういう記憶はないんですが(笑)。

(ケイケイさん)
 貴重なお話聞かせていただいてありがとうございます。そうですか、お父様日本の方でも、生まれ故郷として認識して下さっていましたか。何だか嬉しいですね。

ヤマ(管理人)
 祖父は、紡績関係の技術者だったようです。亡父にしてみれば、祖父を早々に亡くして高知の田舎に移住した際、通う小学校の回りの者誰一人、詰め襟やランドセルを持っていないなか、逆にそれしかないまま通うのがイヤだったそうですし、そういったことで除け者にされたりして、進学し京都に単身出て行くまでの高知での生活にいい想い出は一つもないようなことを言ってました。
 それだけに余計に韓国時代のほうが一緒に遊んだ友達も多くて懐かしいようでした。

(ケイケイさん)
 料理のほうでは、今は在日の家庭でも、あまり韓国料理はしない家が多いですね。

ヤマ(管理人)
 そうなんですか、勿体ない(笑)。

(ケイケイさん)
 うちは比較的作る方かな? 長男はご飯の時が一番韓国人に生まれて良かったと思うと言っています。

ヤマ(管理人)
 三つ子の魂百までもというんでしょうか、亡父もそんなこと言ってましたよ。だいたいが辛いものが好きで、ニンニクが好きで、そのへんは僕も受け継いでますが(笑)。

(ケイケイさん)
 「誰も知らない」の感想は、10日ですよね? 楽しみにしています。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。
 併せてアップした『赤目四十八瀧心中未遂』のヒロインも在日という設定ですが、この作品は御覧になってますか?

(ケイケイさん)
 はい、お茶屋さんとの対談、すごーく面白かったです。

ヤマ(管理人)
 ありがとうございます。彼女には、日誌を綴る気までは起こらないものの、ちょっと振り返ってみたいような作品について、ときどきメールで相手をしてもらってます。僕のネット界三恩人のお一人で、僕のサイトがまがりなりにも一日にカウンターが50~60回るくらいに多くの方が訪ねてくださり、掲示板で刺激に富んだ楽しい意見交換をしてくださるようになるきっかけを作ってくれた方なんですよ。職場も近いし、同じ高知の貴重な映画友達です。
 僕は、『血と骨』はそれほどでもないけど、『赤目四十八瀧心中未遂』のほうでは憤慨してますよ(笑)。もっとも、憤慨の矛先と質は、まるで異なりますけどね。

(ケイケイさん)
 『赤目四十八瀧心中未遂』の対談への簡単な感想は、掲示板でご覧下さいね。
 ではありがとうございました。とても楽しかったです。v(^-^)v

ヤマ(管理人)
 こちらこそ、です。どうもありがとうございました。
by ヤマ(編集採録)

'04.11. 7. 松竹ピカデリー2
      



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