『マグダレンの祈り』(The Magdalene Sisters)
『私が愛したギャングスター』(Ordinary Decent Criminal)
監督 ピーター・ミュラン
監督 サディウス・オサリヴァン


 吉川氏の主宰する“シネマサンライズ”の「シネマな夜vol.58 イギリス・アイルランド映画特集」でカップリングされた『マグダレンの祈り』と『私が愛したギャングスター』は、随分と趣の異なる作品だったが、ピーター・ミュランという共通項があって『マイ・ネーム・イズ・ジョー』の上映以来、氏が気に留めていた映画人ということなのだろう。前者では監督作品として2002年ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞し、後者では脇役での出演作として第13回東京国際映画祭特別招待参加作品となっている。両者とも実話に材を得た作品で、映画としての観応えは文句なしに前者が優るものの、僕の興味を惹いたのは、むしろ後者だった。
 映画を観終えて、尾行してくる警察の車が燃料切れになる頃を見計らって車を止め、これ見よがしにトランクからガソリンケースを取り出し、悠々と燃料補給をして発進して地団駄を踏ませたりする場面や、国立美術館から盗み出したカラヴァッジオの『キリストの逮捕』を寄贈した元の持ち主である教会の食堂に掛けていたレプリカとすり替えて隠す手口など、まるでルパンと銭形刑事の話のようだと思ったら、家にあったチラシに以前、“ルパン三世”と“不二子”が所帯を持ったらどんな痛快なストーリーになるだろう?…と考えた。なんの事は無い。あっさり先にやられてしまった。すべての答えがここにあったのだ!とのモンキー・パンチ氏のコメントが、大きな字で記されていた。それくらい大胆不敵に軽妙に犯行を重ねるとともに自己顕示の強いギャング、マイケル・リンチ(ケヴィン・スペイシー)の姿が描かれていた。
 モデルになったとの強盗マーティン・カーヒルの実像とどれくらい重なるのかは僕の検証の及ぶところではないが、アイルランド映画らしからぬ軽妙さに味があるとともに、イギリスとの合作とはいえ、アイルランド映画にしては珍しく“IRA”が完全に敵役としてコケにされていることが目を惹いた。彼らの手法や戦略に対する支持ができなくても、出自そのものへの理解と共感は示されることが常だったように思われるところからの突き放され方として、ちょっと鮮烈だった。長らく非道な無差別テロを繰り返すだけで一向に初志を果たせず、状況の悪化は招いても改善に寄与できずにいることで、民心がすっかり離れてしまっている様子が窺えたように思う。
 映画を観た後、会場で会った友人がむかし『MASH!』で、本物の金髪かどうかを陰毛で確かめようとするシーンあって、日本ではボカシで消されて意味をなくしていたのと比べて隔世の感があるよね。と先ず口にしたのが可笑しかったが、リンチの身代わりに射殺されて顔が吹き飛んだ死体の確認を警察がリンチの二人の妻であるクリスティーン(リンダ・フィオレンティーナ)とリサ(ヘレン・バクセンデール)の姉妹にさせた際に、男性器を見せて二人が顔を見合わせ、密かにほくそ笑みリンチと違うことを確信してから、リンチだと証言する場面のことを指していたわけだ。無修正で大きく映し出された男性器の様子がまた笑えるのだが、長年連れ添った夫婦でも、女性が目にし記憶に留めているのは臨戦態勢にあるそれなのが常であって、裸族でもあるまいに、あのような状態のものを記憶に残るほど頻繁に観る機会に恵まれてようはずがないと可笑しくなった。あれほど時々によって形状を変える部位でもって判るはずないし、警察がそんな確認方法を採るわけもない気がするのだが、この作品の持つ軽妙さを象徴してもいて、印象深いのは、もっともな話だ。

by ヤマ

'04.11.18. 美術館ホール



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