『愛を乞うひと』
監督 平山秀幸


 青少年を対象に高知県の推薦映画とするかどうかの審査のための業務試写に参加する機会を得た。一度目の試写会には委員の出席が少なく、しかも賛否が分かれたので再度試写会を開き、委員のほかにも有識者に参加してもらうという趣旨だそうだ。再度の業務試写となるとそれだけ興行日が減るわけで、しかもそれが金曜日の夜となれば、高知東宝としても痛手のはずだ。しかし、他県では資料だけで作品を観ずに、あるいはデモ用のビデオでダイジェストを流し見しただけで推薦を決めたりしているなかで、高知県では行政側が安易な結論を出さずに真摯な対応をしてくれているとの受け止め方をしていると聞き、双方の対応に爽やかさを覚えた。

 観てみると、映画自体にかなりの力があって充分見応えがあった。「児童虐待シーンが凄惨すぎる」という意見があったということだが、新聞報道レベルでも多少なりとも児童虐待問題に触れていれば、実態はもっと凄まじいものが幾らでもあることが判るはずだ。実態が凄惨であるのに映画での描写が凄惨すぎると責めるのは筋違いもいいところだ。だからこそ児童虐待は重大な社会問題なのだし、それをテーマにした作品でそこに何の凄みもないようではリアリティも説得力も生まれやしない。

 だが、そのことは了解しても、「青少年には刺激が強すぎるのではないか」という意見があったようだ。彼らのイメージする青少年というのは何なのだろう。既にして多くの青少年が、凄惨で暴力的なだけでしかない刺激を、あろうことか娯楽として消費してしまう環境というものに、過剰なまでに晒されているのが今の現実ではないか。それなのに、最も苛酷で凄惨な暴力である児童虐待について、その問題意識を喚起しようとする作品において描写が過剰だと問題視する感覚は、現実を観る眼のなさや視野の狭さをあからさまに物語っている。

 この作品に関心を寄せるような青少年の多くは、その程度の大人などに比べると遥かにしっかりしているのではなかろうか。これだけきちんとした構成で描かれているドラマを難しいとか解りにくいと言ったり、一般には良いけど青少年には、なんて言う見識のお粗末さには仰天した。最後が和解に至っていないのが問題だなんていう脳天気な意見には、驚きを通り越して呆れてしまうほかない。

 最も愛されたい人から虐待されることの苛酷さと暴力性に凄みがあるからこそ、それが癒せぬ傷としてどれだけ深く永く刻み込まれるのかを知らされることに戦慄を覚えるのだし、それとともに、こんなに深く永く刻み込まれた傷でも、癒しは必ずしも絶望的なものではないのだという感銘も強烈になるのである。「人間って凄いな、生きてることって、人と人との関わりのもたらす力って本当に凄いなぁ」と素朴に心打たれた。児童虐待のもたらす心の傷だけをとことん描くのではなく、癒しに言及し、なおかつ絵空言のような和解と許しといったまやかしではなくて、それとは正反対の現実感のある形で癒しという奇跡に至っているところが何とも素敵で清々しい。

 多くを語らずに演技でもって観る者に、照恵の傷の痕跡の深さや癒しに至る心の軌跡を伝え、同時に二役でもって、遂に癒しに至ることのなかった母親豊子の心象もまた心の傷として表現し得た原田美枝子の演技と平山監督の演出は見事だった。また、少ない台詞の端々から様々なドラマと葛藤を想像させ、とりわけ原作にはなかったという再会のシーンを創造しつつ台詞なしで押し切り、固唾を飲むような緊迫感を引き出した鄭義信の脚本には、未読ながらも原作を越えているのではないかという気にさせられた。児童虐待と心の傷ということへの問題認識も人間観察の確かさも堂々たるものだ。

 その緊張感を凝縮したシーンとは対照的に、続くラストシーンでは、初めて映し出された、晴れ渡った空のぬけるような青さが開放感を鮮やかに印象づける。快晴の大空のもとでサトウキビ畑の作業に汗を拭う照恵の笑顔が、憑物が落ちたように解放感に溢れていて、嬉しいくらいに美しかった。

 少し気になったのは照恵の年齢設定。戦後間なしに生まれ、昭和三十年代半ばに十歳なら現在五十歳前後ということになるのだが、そうは見えないし、そのとき一人娘が十代半ばというのは在り得なくはないが、少し違和感がある。かといって、現在ではなく十年くらい前の時点だと考えると照恵はいいのだが、娘の言葉遣いや雰囲気が十年前の女子高生とは違う感じで、いずれにしても辻褄が合わないことになる。細かいことだと言ってしまうには、この物語が年月の重みを重要な背景としているだけに看過しにくい気もする。画龍点睛を欠くといったところか。
by ヤマ

'98. 8.21. 東宝1



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