『花様年華』(In The Mood For Love)
監督 ウォン・カーウァイ


 八年前の今頃に『欲望の翼』を観て心惹かれ、二年後『恋する惑星』に少し首を傾げ、その翌年に『天使の涙』であまりにもスタイルだけのナルシスティックな映画づくりに辟易として以来、僕は、王家衛の作品を観るのをやめていた。久々に新作を観たのは、ネットで知ったリライアブルな眼を持った映画ファンに勧められてのことだ。
 なるほど僕が最も辟易としていたナルシズムがほとんど気にならないところにまで影を潜め、映像的に流麗なだけではなく、その背後にきちんと情感が漂っていて『欲望の翼』のムードが甦ったようで嬉しくなった。映画が始まってほどないところでの最初のスロウモーション場面でチャイナドレスにぴっちり身を包んだチャン(マギー・チャン) のお尻を追った映像の流れには思わず唸らされ、期待を抱かされた。けれども、ムードに酔っているだけでは次第にもたなくなってくる。何よりも状況の解りにくさが心地よい気分の興を削ぎ始めてきた。
 まず、となり同士だというチャウ(トニー・レオン) とチャンの部屋の具合がどうなっているのかが掴めない。麻雀に興じていたのは、チャンの部屋のような気がしたのだが、どうして間借人の部屋がサロン的な形で開放されてるのか、炊事場のように見えた場所は部屋の内なのか外なのか、すりガラスの浴室で泣いていた女性は愛妻家チャウの浮気妻だとは思うが、それがどこで誰なのかは、あの時点では意味不明。次第に思わせぶりなあざとさが気になり始めた。
 キェシロフスキ監督のトリコロール/青の愛の日誌に「彼の演出は、解りにくいという声をしばしば耳にするが、そもそも提示するものを理解してもらうといった形でドラマを創っているのではなく、できるだけ説明を排除して固定的なものとはならない形にすることにより、それぞれの生活体験のなかで最もリアリティのあるドラマを観る側に紡ぎ出させる企てとして映画を創っている」と綴ったことがあるが、できるだけ説明を排除するというのは、ドラマを固定的なものとして語らないためにするのであって、映し出される場所や人物がどこで誰でどうなっているかも解らない形に省略することではないはずだ。
 最初に強く気に障ったのは、禁欲的かつ官能的な微妙な関係を保っていた二人の間で禁欲は保ちつつカップルとしての親密へ踏み込もうとする誘いの言葉のシーンが異なるバージョンで繰り返されたときだった。思わずリテイクシーンかと疑った。この時点では、まだチャウは小説を書き始めていなかったから、後の小説の場面描写の参考に二人で演じてみるとか、チャンが夫に問い質す練習をしてるだとかいった場面のような解釈は困難で訳が分からない。
 浴室で泣いている女性の姿のしばらく後で説明される妻の浮気の話とか、ありえぬリテイクシーンのずいぶん後で繰り返される演じるシチュエーションとか、不意打ちのように登場する誰の子供とも知れないチャンと子供の姿とか、施されている計算のことごとくが観る側「それぞれの生活体験のなかで最もリアリティのあるドラマを観る側に紡ぎ出させる企てとして」ではなく、観る側を混乱させ、意表を突き、感心させるためのあざとい仕掛けのように見えてきてしまった。
 きっちりとドラマを語れない者がそれを誤魔化すためにおこなう“装われた大胆な省略のスタイル”というものと、語ろうとすれば十二分にきっちりと語れる者が、より高い表現水準を求めて敢えておこなう“できる限り語らないスタイル”というものは、自ずと違ってくるような気がする。
 だが、あの何とも嫌なナルシズムに浸ったような気持ちの悪さは、最後まで漂わなかったから、大いに救われた。チラシにあった「花様年華とは、満開の綺麗な花のように、成熟した女性が一番輝いている時のこと。」というのは、実に魅力的な言葉だし、それにふさわしいムードと映像を演出できるのだから、あざとく小賢しい計算ではなく、王道の構成をもって映画に臨んでくれたときの彼の作品を観たいと切に思う。


『花様年華』追記('04.11.14.)ヤマ(管理人)
  三年前、かのこさんの『cubby hole(現在サイトは消失)』にあった感想に「記憶の中に残るのは、脈絡のない一瞬一瞬の鮮烈さでは? この映画のように」という一節があって、痺れたことがある。僕が日誌に「最初に強く気に障った…リテイクシーンかと疑った」と綴った場面は、まさしく記憶というものの表現なのかもしれないと思い当たったのだ。
 思えば、記憶のなかでは、ああいうことはしばしば起こるものだ。始まりのきっかけも場所も情景もしっかと覚えているのに、どっちが口火を切ったのかだけが妙にぼんやりしてて、非常にいびつな鮮明さと曖昧さに彩られていたりする。僕は、そこに思いが至らなかった。妙な偏見と思いこみが直ちに王家衛の「あざとさ」のほうに直結してしまったような気がする。「また、こんなことやってらぁ」などと。いささか恥ずかしい観方で、なんとも偉そうな観方だ。そんな観方をするもんだから、気づくべきことに気づかなくなったりするのだと猛烈な反省材料をもらったような気がした。
 素直な目に従って考え直すと、僕が日誌であげつらっていることは、総て“記憶の持つ鮮明と曖昧の不自然なまでのアンバランス加減のリアリティ”ですっかり解決してしまう。痺れてしまった理由は、そこにある。だが、後から頭のなかでそういう視線で見直したからと言って、既にソースで刺身を食べた味覚の記憶までが払拭されるわけではないのと同じで、取り返しはつかない。だから、アホな食べ方をした苦い味を記憶にとどめるためにも、日誌に追記として残しておこうと思う。


推薦テクスト:「Ressurreccion del Angel」より
http://homepage3.nifty.com/pyonpyon/2001-7-3.htm
by ヤマ

'01. 6. 3. 松竹ピカデリー1



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