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『GO』 | |||||
監督 行定 勲 | |||||
繊細さと凄みを併せ持ち、それらをともにしなやかな強靭さの礎としているような杉原(窪塚洋介)の個性が滅法かっこよく魅力的だった。中学まで朝鮮民族学校に通い、高校から国籍を韓国に変えて在日韓国人として日本人の普通高校に通っている杉原がモノローグとして語るように、あくまでも“僕の恋愛に関する物語”なのだが、家族のありようや友人との関係のありようが印象深い。 出自の境遇として“ノー・フューチャー”の折り紙を付けられているとの思いに開き直るようにして突っ張る形でとんでもないチキン・レースをやったりしていた杉原が、広い世界を観ることの足掛かりとして、裏切り者と言われながらもとりあえず朝鮮民族学校をやめ、日本人の普通高校に通うようになったのも、そして、無頼に過ごしていた高校生活のなかでやおら大学進学を目指す気になったのも、不条理きわまりない出来事で命を落とす羽目になった“最もリスペクトできる友人”ジョンイル(細山田隆人)との関係によるものだったように見えた。教師になると言っていた彼の遺志を継ごうとしたのだという気がする。そこに少々奇妙で、独特の風格を漂わせる父親秀吉(山崎努)との父子関係が絡み、いわゆるビルドゥングス・ロマンの正統な骨格を備えているから、なかなか骨の太い作品になっているのだろう。 杉原の魅力の核心部分は、何と言っても、周囲の視線に流されたり、借り物の建前に囚われたりすることのない、自分の物差しを持って生きていることだ。そのルールは単に内なる“規律”に留まるのではなく、ほとんど“美学”の域に近づいており、そのルールなり美学に誠実であろうとすることが自らを大事にする生き方に他ならないことをひしひしと伝えてくる。そして、そのような物差しを育み、鍛え上げたのが、彼に与えられていた苦境のもたらした部分が大きいことも思うとき、人にとって何が幸いか一概には言えない気にもなるが、苦境にある者すべてがそのような物差しを獲得できるのかというと決してそうではなく、苦境に荒んだり、潰れてしまう者もまた数多くいるはずなのだ。 結局、そこのところを振り分け、決定づけるのは、やはりリスペクトできる友人や先輩との出会いがあるのか否か、ではないかというのが、この作品を観終えて最も印象に残ったことのひとつだった。高座の落語を聴く席で覆い隠すように開いたシェークスピア全集の上に零れる杉原の落涙による葬送のシーンは、その前段で仕返しの殴り込みに息巻いていたかつての級友と口論する場面が効いていて、ぐっとくる良いシーンだ。 台詞としてもキラキラした言葉がふんだんに盛り込まれ、伏線も張られていて、正統映画の王道をいく作品だ。それらの言葉が空回りしていないところが見事で、桜井(柴咲コウ)との恋愛模様のなかにもピュアなきらめきがあって眩しい。だが、若さとは、かくありたいものだと思わずにいられない一方で、拳を握って伸ばした腕を半径とする円の内側の安全圏で生きるほうが楽だぞという父親に向かって、小学四年のときに「だせぇ!」と吐き捨てた杉原のその後もたゆまぬ生き様を前にすると、常に安全圏のなかで生きてきた僕の心中には、穏やかならざるものが波立つことを意識しないではいられなかった。そういう点では、ふと『秘密と嘘』を思い出したりもする。 参照テクスト:金城一紀 著 『GO』(講談社)読書感想 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0110-4go.html 推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2001/2001_11_12_2.html 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2001kocinemaindex.html#anchor000684 | |||||
by ヤマ '01.11. 3. 高知東映 | |||||
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