『トーク・トゥ・ハー』(Talk To Her)
監督 ペドロ・アルモドバル


 洗練という意味では三年ほど前に観たオール・アバウト・マイ・マザーよりも更に洗練されている感じだが、当時の日誌にさえ初期のパワフルでキッチュなテイストに惹かれていた僕には、昔と違って洗練され過ぎてしまったアルモドバルは、少し物足りなかったと綴ったくらいだから、オープニングを世界に名高い舞踊家ピナ・バウシュの秀作とされる「カフェ・ミュラー」の舞台で始めるようになっては、パワフルでキッチュどころか、周縁性とは程遠い堂々たるアート指向が前面に出てきて、妙にしっくりしない感じが残った。それは、これも国際的な活躍を続けているとチラシに記していたカエターノ・ヴェローゾの歌う♪ククルクク・パロマ♪の歌唱場面にも通じる。これが死を悼む歌だということを僕は今回初めて知ったのだけど、この二つのライヴ公演に涙していた、感受性豊かなライターのマルコ(ダリオ・グランディネッティ)が目撃した看護師ベニグノ(ハヴィエル・カマラ)のアリシア(レオノール・ワトリング)に捧げる孤独で献身的な愛の物語が綴られる形になっている。

 昏睡状態の植物人間となって生き続ける愛する女性に、介護を施しながら常に呼び掛け、語り掛け続けているベニグノの姿を、ある種の哀しみに彩られた美しさで綴りつつ、その想いの深さを知悉するに足るマルコの姿を描いていた。愛する女闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)が、同じく昏睡状態となったなか、マルコが彼女を見守り続けている姿を並行させる形で哀切深く対照させていたわけだが、観終えて妙にすっきりしないものが残った。

 しばらく考えてみてもよく判らなかったのだけど、どうやら僕には、ベニグノが眠り続けるアリシアに求め、向けていた言葉や行為がコミュニケーションだとも、関係性としての愛だとも、心底では思えずにいたからではないかと気づいた。要するにストーカー的自己投影でしかないわけで、それをそういうふうにしか愛せない哀しみと孤独として描くに留まっていれば、ある意味で広く恋愛感情に普遍的に内在する側面でもあるわけで、たとえピグマリオン的な倒錯性やネクロフィリア的な交接が描かれていても、僕には違和感が残らなかったような気がする。ところが、それを新たな命の犠牲という代償を払うにせよ、アリシアに蘇生をもたらす奇跡に至る献身として色づけてしまっては、やはりそれは違うのではないかという気がするのだ。確かに結果的にアリシアに目覚めという命を吹き込んだにせよ、それを知らされずに、死産のみ知り悲観して自死に到る悲劇の殉愛のように描くことは許されないのが、ベニグノのストーカー的自己投影でしかない愛の宿命ではなかろうか。

 僕としては、アリシアに奇跡の蘇生をもたらすのであれば、ベニグノはひそやかに悲劇的な死を迎えるのではなく、目覚めたアリシアに徹底的に拒まれながらも、執着しつつ、ボロボロになりながら彼女への自己投影を続ける孤独な痛ましさから逃れられない存在でなければならないように思う。そして、昏睡状態のなかのアリシアを犯した行為は、まさにそれが彼にとっては彼女の蘇生という奇跡を呼び起こした愛の証明に他ならないことによって、自分が正当に迎え入れられるべき根拠だと思える形で、彼の報われぬ愛の苦悩をより深いものとしてしまう罪深さを刻印するものでなければならないように思う。ところが、その奇跡を目にするのがベニグノではなく、マルコだということになると意味合いが全く異なってきてしまう。

 マルコの目を通して、かなり共感的に肯定されたベニグノ像自体のことよりも、愛に報われぬままの死という落とし前をつけたうえで結果としてベニグノが残したものが、アリシアの目覚めという奇跡だったとの顛末のつけ方が僕には気に入らなかったのだろうという見解に到った。ましてベニグノの魂を引き継ぐ存在としてのマルコと目覚めたアリシアとの関係の始まりを予感させて終わるのだから、報われないどころかベニグノの愛の勝利とも言えなくない。やはりそれは不届き千万ではないのか。そんなことを思ったとき、ふっと想起したのがギャスパー・ノエの作品だった。もしかすると『トーク・トゥ・ハー』は、極めて洗練されたカノンなのかもしれないなどという突飛な思い付きが湧いて出た。

 それにしても、画面の色づかいやまなざしには、実に洗練されたフェティッシュ感覚が満ちていた。殊にアリシアの肌や肉感を捉えたショットは素晴らしく、胸にも腹にも腋下にも目を奪われたが、最も強い印象を残しているのは、ベニグノが筋肉マッサージに揉みしだいていた太股の肉感だった。
by ヤマ

'03.11.18. 松竹ピカデリー1
('03.12. 9.)追記
 日誌をHPにアップしてのち、掲示板で対話を重ねているうちに最後の顛末が異なった色合いを帯びて見えてくるようになった。

 僕にすっきりしないものが残ったのは、マルコの肉体を借りたベニグノの魂の“愛の勝利”ともなる顛末が、彼の犯罪行為を正当化するニュアンスばかりか、僕が日誌に「コミュニケーションだとも、関係性としての愛だとも、心底では思えずにいた」と書いた、彼の独りよがりの愛し方を賛美する方向性を持つことに違和感があったからだった。僕がそんなふうに、マルコの肉体を“借りた”ベニグノの魂の引き継ぎに囚われたのは、面会室のガラス越しのマルコの顔に、反射像としてのベニグノの顔がぴったりと重なるように映り込み、ベニグノの語りが、まるでマルコの語る姿として見えるような画面構成による演出が施されていたことによる。憑依したように見えたわけだ。つまり、一方通行でしか愛せない不具を負った哀れなベニグノが正常なマルコの存在を借りて、ようやく全うに愛を成就させる予感を与えたエンディングだと受け取っていたのだ。

 だが、僕があまり気に留めていなかった重要なポイントは、マルコという男もまた愛の不具を負った存在だったということだ。彼とて全うではないのだから、一方的にベニグノに“借りられる”側ではないわけだ。貸し借りが成立しないとなれば、映画で仄めかされたマルコとアリシアの今後への予感というのは、ベニグノが魂の引き継ぎによって、愛する人と深く関わる“関係性への踏み込みの力”とも言うべきものをマルコに与えたことを示していることになる。であれば、ベニグノの魂の愛の勝利ではなく、マルコの不具への補完ということだ。それにより、ベニグノではなくマルコが全うに愛に目覚めることができるようになるというわけだ。

 つまり、ベニグノは自身の絶望的な死とともに、マルコには愛への目覚めを、アリシアには昏睡状態からの目覚めを与えて去っていったということだ。実は、奇跡の目覚めは二つ起こっていたのだ。では、その奇跡をもたらしたのはベニグノなのだろうか。

 僕は、これは自死によるベニグノの命を受け取った天上の意志が、その代償としてベニグノに“贖罪”の機会を与え、その証として二つの奇跡を地上にもたらしたというふうに作り手が描いたのかもしれないと思うようになった。

 掲示板を通じて親しく対話を掘り下げていってくれた友人たちに感謝したい気持ちでいっぱいだ。





参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録

推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0311-3talk.html#talktoher
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2003tocinemaindex.html#anchor000976



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