雄別 然別炭鉱 探検: 北の細道 然別炭鉱

然別炭鉱で雄別最期の灯を見る





北海道釧路市(阿寒町)

 雄別炭鉱 は阿寒川の支流、舌辛川上流域の谷間に発展してきた。
雄別通洞というメインの坑道が完成したのは昭和12年(1937)。
それまでは多坑時代を経て、その採炭中心部は最上流域の大祥内地区と、
雄別炭山駅の北西部の中ノ沢坑、 南西部の然別坑に分断されていた 。

この多坑時代にはこれら坑口付近に炭鉱集落がそれぞれ発達し、
上流域と下流域の二か所に分かれて発展した。
そのため学校や病院などの諸施設も、二か所に設けられ、
上流には雄別小学校大祥内分教場及び大祥内診療所が、
下流には雄別小学校及び炭鉱病院(緑ケ丘)がそれぞれ開設された。

商店は大正14年(1925)当時で上流に7店舗、下流に18店舗が開店し、
炭鉱会社直営商店も2か所で営業していた。

この上流下流の2か所に分断されていた炭鉱集落の配置に大きな変化が訪れたのが、
坑口の集約と採掘範囲拡大を目指して採掘された雄別通洞の完成であった。

この通洞完成により上流の採炭中心部 大祥内坑の原炭は、
地下坑道を介して昭和13年(1938)出炭開始の 苔樋坑の石炭と共に、
雄別通洞より搬出されるようになった。

通洞完成後、上流域の炭鉱集落はすべて中流域に移設、
舌辛川右岸に形成される。

戦後、発展を遂げたのが 北進昇奥雄中部であり、
然別炭鉱は昭和31年(1956)から、雄別炭鉱の採掘残部を村井炭礦が鉱業権者となり、
採掘と租鉱を行った。

租鉱とは契約に基づき鉱区内の一定区域を掘採し、取得する権利のことで、
これを再び新たに採掘選鉱することである。

雄別炭鉱の閉山が昭和45年(1970)2月、然別炭鉱はその8か月後に閉山している。
これまで 雄別炭鉱については
選炭場付近ズリベルト堤沢、 などをレポートしてきた。

今回は電車庫、火薬庫、そして坑口をターゲットに雄別炭鉱のすそ野を遡る。
昭和初期に棄てられ、再び採掘された炭鉱跡を歩いてみよう。


インクライン・雄別御殿・火薬庫・・・




雄別御殿
雄別御殿



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