雄別炭鉱 大祥内坑跡  探検: 北の細道 雄別炭鉱 大祥内坑

雄別炭鉱 大祥内坑でプリンスホーマーを見る




北海道阿寒町

   昭和45年(1970)に 「74年間」雄別炭鉱としては北海炭鉱鉄道(株)時代(大正8年)から51年間 の歴史に終止符を打って閉山した 雄別炭鉱 であるが、
明治24年(1894)の『北海道鉱床調査報文』には既に『オショナイ』の記載がある。
これは釧路から雄別管内、大祥内(オショナイ)までの経路に始まり、
地質・炭量・炭質・運搬方法・経済性など当時としての調査内容は非常に秀悦である。

そして明治29年(1896)、付近で最初に石炭の採掘が行われたのが、
この調査地『オショナイ』であり、鉱員16名でスタート、
輸送は舌辛川を船で下り、冬季は結氷上をソリで下り、
3日がかりで釧路に到達したという。

その後、大正9年(1920)まで大祥内坑は放棄され、
その間、主として採掘されたのは、川下の舌辛地域であった。
大祥内の開発に先立って輸送の困難さを対策すべく、
鉄道工事に着手、約3年後の大正12年1月に雄別鉄道が開通するのである。

運炭の困難さが解消されてからの雄別は『多坑』時代を迎えることとなる。
つまり、大祥内・然別・中ノ沢・大曲と4地域7か所の坑口による採掘が進み、
この多坑化の要因としては、動力源としての電気の供給が無く、
坑内運搬設備が不備、採炭現場と坑口施設の近隣化が必須だったことに起因する。


もっとも古くから知られ、そして開坑以来、 雄別炭山で慣れ親しまれてきた『オショナイ』は、
昭和13年(1938)、ある理由をもって生産、そして生活圏からも切り離されることとなる。
現地を訪ねた上で、その棄てられた経緯を確認してみよう。






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( ̄u ̄;)風洞跡





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