雄別炭鉱 奥雄西部 ベルツナイ斜坑跡 探検: 北の細道 雄別炭鉱

奥雄西部 ベルツナイ斜坑 ギョウジャニンニクの森





北海道釧路市(阿寒町)

 石炭業は石炭という地下資源を地の底から掘り出す採取産業である。
つまり鉱区の多さが健全生産の大前提となっている。
九州では少数の大規模経営炭鉱と多数の小借区の零細企業による採掘が融合しており、
それは鉱区の細分化を招いていた。

一方北海道では、揺れ動く石炭市況の中、 地元企業は経営危機に陥り、
財閥による経営権の掌握も多かった。

こうして明治28年(1895)に481万tだった国内出炭高は、
大正4年(1915)には2,049万tと約4倍に成長し、
その内九州炭が58%、北海道炭が13%を占めていた。

特に鉱業権者別出炭高では明治40年(1907)当時、
財閥がその40%を占め、40万t以上を出炭する6炭山のうち4炭山、
40万t未満出炭の61炭山のうち10炭山を財閥系が占める内容となっていた。

つまり少数の大会社が少数の優良炭鉱を所有し、
多数の零細企業が小規模な炭鉱を経営するという模式図が確立していたのである。


これまで 雄別炭鉱については
選炭場付近北進昇奥雄中部大祥内ズリベルト堤沢中ノ沢苔樋坑 などをレポートしてきた。
歴史的な背景についてはリンク先を参照していただくとして、
閉山の4年前、昭和41年(1966)から開発された奥雄西部地帯は、
本格採炭に至らないまま閉山を迎えた経緯がある。
付近の西部向堀坑口と雄別通洞は貫通し、あとは出炭を待つのみの状況であった。

今回のターゲットは西部向堀坑口から更に山懐のベルツナイ昇坑口である。
昇(のぼり)とは御(おろし)と相反する炭鉱用語で、
上部から掘り下がる斜坑が『御』であり、
逆に下から掘りあがる斜めの坑道が『昇』となる。
ともに完成してしまうと、どちらかは判定できず、
過去の作業履歴から判断するしかない。

奥雄西部地域は雄別炭鉱病院から15km程度の深山に存在し、
往復の歩行距離は22qに及ぶ。


道なき道の移動も1.5q程度が想定され、
沢を避け、等高線の緩やかな個所を選ぶために地形図を読み込み、
エスケープルートも複数設定の上アタックしたい。




継電器・絶壁・イリ・・・




シルバコンパス
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