雄別炭鉱跡  探検: 北の細道 雄別炭鉱

雄別炭鉱で選炭場をスクリーンとした野外映画




北海道阿寒町

   炭鉱を大きく分類すると、 「露天掘り」ろてんぼり 及び「坑内掘り」こうないぼりに分類される。
露天掘りは上を覆っている表土を取り除いて、地表に露出した炭層を採掘する方法で、
坑内掘りは字のごとく、地下に坑道を展開し深くの炭層から、トンネルにより採炭する方法だ。

採掘した原炭を選別して商品炭にし販売した後、
資材費・労務費・動力費・設備の償却費・租税公課等の諸費用等を差し引いた費用が山元利潤となる。
更にここから本社経費や販売経費が差し引かれ純利益となる。
しかしどの炭鉱でも可採炭量は有限でいずれは閉山を迎える。
そのため引き続き新たな採掘区域を設定し、設備・人員の配置転換を行い、
純利益の中から一部を蓄積することで、
生産を水平展開し、石炭企業の永続化を期待する必要がある。


明治初期の炭鉱開坑はほとんどが官営であった。
釧路炭田においても明治4年にオソツナイ付近で当時の工部省所轄による採掘が行われた。
民間資本で採掘がスタートしたのはそれから20年後の阿寒地区で、
運搬条件に阻まれて、本格開坑は明治36年以降となる。
大正12年に 「雄別炭礦鉄道」釧路〜雄別炭山間延長44.5q 昭和45年4月廃止 が敷設される以前は、石炭輸送ができず坑道掘進のみが行われた。
当時は『然別』『中の沢』『大曲』『大祥内(おしょない)』の四地域に坑口があり、
一元化されていなかったのは動力源としての電気が無く、
坑内運搬設備の不備が顕著だったために、
採炭現場と坑口をできるだけ接近しなければならなかったのが理由と思われる。

坑口の分散に伴い、炭鉱住宅もそれぞれの地域に分かれて建設される。
そしてそれら雄別地域に待望の電気が引かれたのは昭和2年で、
これまでの蒸気機関に頼っていた動力源に電気が加わることで、大幅に設備が機械化されていった。
こうして開坑以来、多くの坑口に分散して採炭を続けてきた雄別炭鉱も
昭和4年には然別坑からの出炭停止、大曲選炭場ー雄別駅間の度重なる水没決壊などを理由に、
すべての坑口の集約化が望まれ、昭和13年には『雄別通洞坑口』の完成に至る。
大祥内(おしょない)の事務所や炭鉱住宅もすべて雄別駅前に移転し、
生産の基盤を確立、企業経営全体からも将来への地歩を固めたこととなる。

戦時下の増産体制、終戦直前の操業休止、終戦後の傾斜生産方式による好況、
その後の中小炭鉱の興廃、燃料消費動向の激変によるエネルギー革命に伴う合理化、そして人員整理等を経て、
昭和45年2月28日、およそ47年の歴史に終止符を打ち閉山を迎える。

何度 も訪れている炭鉱跡であるが、
今回は初冬のベストシーズンに探索してみた。




選炭場・煙突・廃病院・・・



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( ̄u ̄;)廃病院





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