雄別炭鉱 苔樋坑跡  探検: 北の細道 雄別炭鉱 苔樋坑

雄別炭鉱 苔樋坑 トーコロカムイの問答




北海道阿寒町


 戦後の30年間、石炭産業は激動の歩みだった。
国産エネルギー源として経済発展を担ってきた石炭だが、
戦後、新エネルギー源として石油・天然ガス等の高品位燃料が輸入されることになった。
液体燃料としての使用上の優位性もさることながら、
中近東の大規模開発による原油供給過剰、
そして新造タンカーによる輸送費のコストダウンの影響が大きい。

競合エネルギーの台頭に伴い石炭産業の危機が高まってきた昭和29年(1954)6月、
通商産業省石炭局は石炭の長期安定需給を図り、
石油エネルギーとの共存関係を維持するため、
非能率炭鉱の処理、合理化促進、貯炭買上機関の設置などを目的として法案原型を策定、
昭和30年(1955)に重油の関税復活の三法案と共に『石炭鉱業合理化臨時法案』として閣議決定を行った。
五か年の時限立法でありながら、 言わば国内石炭産業を守るための法案だ。

同法の骨子は昭和30年から34年の五年間でスクラップ(=閉山)アンドビルド(=建造)を推進しながら、
1,200憶円の巨費を投じて、立坑開発、坑道・運搬設備などの石炭産業近代化を図り、
時限立法最終年度には、石炭の生産原価20%減(対昭和29年度)を目的とするものだ。

本法律の円滑な推進を図るため、『石炭鉱業整備事業団』と呼ばれる諮問機関を設立したが、
合理化法が成立する同時期に訪れたのが神武景気であった。
季節的需要に加え、渇水期の火力発電用炭の需要増加、輸出伸張による工業生産の活発化などにより、
全国的に石炭需要に拍車がかかり、盛況は好転していく。

設立された事業団であったが、好景気の陰で目的である非能率炭鉱の買上げは進展せず、
炭価の回復も相まって、新たに着業する中小炭鉱は12鉱と皮肉な結果と相成った。

しかし、この神武景気も長続きせず昭和32年後半には主要産業の冷え込みが発生する。
石炭産業が不況化するにつれ、非能率炭鉱の買上げ申請が急激に活発となった。
これは閉山に伴う政府による炭鉱の買収制度が活用されたものであり、
この時期、道内だけで年間32坑が閉山となった。

スクラップ化とビルド化、この両使命を果たすべく設定された本法案であったが、
現実にはスクラップ化(=閉山)のみが先行したため、
改めて炭価の引下げと設備投資のための資金を政府が無利子で貸し出すことで、
本来の目的の達成に貢献しようと画策された。

『石炭鉱業合理化事業団』として再発足した形となったが、
整理交付金制度の形態が採用され、これは閉山に伴う資金や退職金を政府が補填するもので、
昭和40年前後の自主的閉山を即した形となり、全国155鉱のなだれ閉山に至る。


これまで 雄別炭鉱については
選炭場付近北進昇奥雄中部大祥内ズリベルト堤沢中ノ沢 などをレポートしてきた。
しかし今回の苔樋(コケトイ)には謎が多い。
坑道図や坑内概要図を見ても、どの坑道とも接続されていない。
戦前の鉱床図には『コケトイ坑』の記載があるが、
現状は排気風洞の様相で、机上調査後も特定には至っていない。

雄別通洞の中ノ沢地区から登攀し、相の沢の水道施設を経由後移動、
風洞の謎を解くために、苔樋から北進昇までの縦走を行いたい。
スタート地点の標高は107m、ピークは540m、移動距離8.6q。
謎の風洞に挑む。

水道施設・電柱・風洞・・・



トーコロカムイ
( ̄u ̄;)トーコロカムイ





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