自死(自殺)

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対人関係学の究極の目的は、自死予防です。心と環境のミスマッチをとことん研究していきます。


自死のメカニズム

自死に至るメカニズム

自死に至るメカニズム

1 自死リスク評価の学説(自殺の対人関係理論)

現在自死のメカニズムやリスクアセスメントの理論として、最も活用されているのは、T.E.Joiner Jr.他の「The Interpersonal Theory of Suicide」(自殺の対人関係理論 日本評論社)だと思います。医学雑誌などでも多く引用されています。この理論は、うつ病が自殺の原因だという大雑把な議論に対しては、うつ病患者の多くは自殺しない。なぜか。というところがから論議を始めています。そうして自死のメカニズムとして、
<自殺願望>
・ 所属感の減弱・・・自己の帰属する対人関係の中での居場所が感じられない。
・ 負担感の知覚・・・生き続けることに負担を感じる
<身についた自殺の潜在能力の高まり>・・・本来死ぬことは怖いから自死に至らない。しかし、少しずつ命を削るような体験(戦争体験、自傷行為、外科医業務)等を体験しているうちに死への抵抗が低くなっていく。自死「できる」ようになっていくこと
の要素に分け、それらの指標となる事情を用意された項目として挙げて、具体的に項目にどの程度当てはまるかによって、自死のリスクを判断するという手法を取っています。
リスクアセスメントの理論として、現在最高峰の位置づけをされています。この理論失くして自死リスクを評価することは、フリーハンドで冬山に上るようなものだとされています。自死を防げないどころか、逆に被害が生まれる可能性もあります。精神医学雑誌などの自死特集を読めば、必ず紹介されていますから、自死予防に理論的に取り組む場合は知らないでは済まされないと思います。
この理論が、自死に至る過程を3つの要素に分けたことで、評価漏れを防ぎやすくなり、有効なアセスメントが可能になるので、リスクアセスメントの理論としてはもろ手を挙げて賛成します。

2 対人関係学からの再構成

これに対して、対人関係学は、自死のメカニズムをもう少し直截に観察します。そうすると、ジョイナーが3要素に分けて考えていたことは、実は一つのことの表と裏の関係にあると考えています。一つ一つ再構成をしてみます。

<所属感の減弱>
人間には、どこかに帰属していたいという根源的要求があり、この要求が満たされないと心身に不具合が生じるというバウマイスターの理論が出発点であることは、対人関係理論も対人関係学も一緒です。最も私はこれをジョイナー先生から教わったので、偉そうなことは言えません。対人関係学は、この点をとらえて、人間は対人関係的危険を感じ、それに身体の危険と同様のメカニズムで反応するということを提唱しています。対人関係的危機意識とは、現在所属する群れの一つから、追放される兆候を感じると、これから身体的負傷をするときのような緊張感を抱き、つまりストレス反応を起こし、時には生命を脅かされるようなストレスを感じるようになることもあるという意識です。群れからの追放の兆候とは、一言で言えば、自分が群れの仲間として尊重されていないと感じることです。詳しくは概論を読んでいただくとして、先に議論を進めます。群れの仲間として尊重されないということは、敵だと思われていると感じることですから、それ自体が恐怖を感じてしまうことです。これ継続したり、大きな出来事だったり、改善不能を感じた場合は、人間の思考上のストレス反応が起きる等、消耗が激しくなっていきます。

<負担感の知覚>

いくつかある所属する対人関係の一つで起きた所属感の減弱は、他の対人関係での良好な関係があっても起きてしまいます。例えば学校でいじめにあい、職場でパワハラにあっても、それによって自死があったとしても、通常家族関係はむしろ良好です。自分一人で苦しむだけならば、それほど苦しくないかもしれません。ところが、その迫害が、良好な人間関係にも及ぶのではないかと考えることは思考のストレス反応が激化して消耗が進んでしまいます。自分がいじめられていること、パワハラを受けていることが、例えば家族に対して申し訳ないという気持ちになることもあるようです。負担感の知覚は、自死が起きる時に起きやすくなっている可能性が高いです。

<身についた自殺の潜在能力の高まり>

これは、自死の部分的予行演習的な意味合いがあるようです。死の淵まで近づいてしまうと、死ぬことを少しずつ受け入れていくような馴れのような感覚になるのかもしれません。

この点について言えば、まず、どうして外科医が潜在能力が高まるか、また、戦争の加害者が潜在能力が高まるかという問題を解決する必要がありそうです。
ここが共感理論で説明するポイントです。人間は、敵以外の人間に自然と共鳴、共感してしまう生き物です。気を張らないと他者の絶望に共鳴してしまう危険もあります。例えば外科医の例でいえば、病気などの治癒を目的に外科手術を受けたのに、様々な理由で手術が失敗して亡くなってしまうことはあるでしょう。外科医は、うっかりと、よくなろうとして手術を受けたのに、かえって手術を受けたばっかりに、なすすべなく死んでいかなければならなかった患者さんに共鳴してしまう可能性があるのです。加害者も、怒りを伴って攻撃しているときは被害者の心情を思考のストレス反応のために感じなくて済むのですが、攻撃が終わり怒りが薄れてしまうと、自分のやったことによって苦しんだ被害者に共鳴してしまうことはあってもおかしくないのです。
このような場合、人間は死という絶対的な絶望の共鳴を回避しようとする生き物です。この回避のメカニズムは様々な方法で無意識に思考を制御しています。このような無抵抗で死にゆく人たちの絶望に共感しない方法として、「相手は自分の仲間ではない。」という異質性の強調により、共感チャンネルを閉ざそうとすることが一般的に行われています。死んでも良い人間と仲間を区別するということです。これには思わぬ副作用があります。そのように人間の中で死んでも良い人間、攻撃してもよい人間という区別をしても、感覚的には、「およそ人間は大事にされなくてもよい、あるいはよい場合があり、攻撃されてもよい場合がある。」という風に腹に落ちてしまう危険があります。要するに一時的な絶望回避のために、人間を尊重しなくてもよい存在であることを認めてしまうということです。これは、自分すらも大切にする必要がないという無意識を育ててしまう危険があります。心がすさんでいくわけです。
こうやって、少しずつ自分を傷つけることに馴れていきます。タバコや薬物、過度の飲酒、無謀なギャンブル等、自分を大切にしない習慣は、自分や他人が傷つき悩むことに鈍感になっていくようです。最終的には死ぬことすら、それほど重要なことではないと感じていくようになるようです。

3 自死に至る統一的説明

先ず、対人関係的危険を感じます。
次に、危険を解消したいという要求が起きます。
次に、この要求に基づいた解消行動に移ります。解消行動とは、怒りを伴う攻撃か、逃避という手段が用いられます。解消要求が支配的にならなければ、理性によって自己の行為を修正し、合理的な解決を図るでしょう。
ところが、うまく危険解消行動に出ることができない場合、対人関係的危険は継続しますので、危険解消要求が肥大化していきます。
この時危険解消要求をさらに増大させる要因としては、
・排除行為の持続、
・排除行為の強力性、衝撃性(意思の制圧を伴う場合)、
・回復の不可能性の認識(修正不能の排除理由、排除参加の人数、群れの中の割合、助けがなくなった等によって感じるようです)
が挙げられます。
自分が仲間から容赦なく排除されそうになっている、それを示す予兆が存在するということは、ストレートに人間であることの否定ですから、人間として尊重されていないという意識の高まりも同時に起きるわけです。
これが進んでいくとストレスによる思考力の低下が起き、二者択一的思考、悲観的思考、他者への共感力の低下などが起きます。他者への共感力の低下は、自分を助けようと手を差し伸べている他人がいることが認識できても、自分を助けようとしているという感情に気が付かないという現象を一般的に起こすようです。
こうして、絶対的孤立を感じ、益々人間尊重を感じられなくなり、絶望を感じやすくなっていきます。最終的には「苦しみ続けるか、死ぬか」という選択肢だけが残り、頭から離れなくなるようです。これも絶望回避の思考ツールです。死ぬということで苦しみから解放されるということを思いつくと、ほのかに明るく、温かい気持ちになるようです。さらに向精神薬の影響などの事情があると、「自分は死ぬべきだ、死ななくてはならない。」という心持にもなるようです。

私はこれらの自死のメカニズムを踏まえることが有効な自死予防の方法の構築には不可欠だと思っています。対策を始めながら原因を考えるということも傾聴に値しますし、実際はそのように進んでいくことも重々承知していますが、原理論を意識的に深める活動をしなければ、抜本的な対策は進まないという考えも軽視するべきではないと考えています。

プレゼンをする機会があり、これまでの見解を論点を絞って、まとめました。

 

子どもの自死の検証委員会は、何を検証するのか。

子どもの自死の検証委員会は、何を検証するのか。

1 検証委員会の目的

子どもの自死が起きた場合、教育委員会や自治体が第三者、つまり当事者である教育委員会や自治体以外の人たちを委員として、自死の検証委員会が開催されるようになりました。大津市の事件と大津市の対応が嚆矢として評価されるべきだと思います。
この検証委員会設置の目的は、設置条例などで決めることなのですが、どんな場合も二つの目的をきっちりと置くことが大切だと思います。
・ 遺族が、何があったのかを知りたいということに応えること。
・ 将来の予防のために、何が問題で、自死を予防するためにはどうしたらよかったのか。
という二つです。
遺族にとって、学校や職場は密室です。自分の家族がどのような経緯で自死まで追い込まれたのか当然知りたいところです。この経緯を知ることは人権だと思います。当然、調査過程の情報は、他者の開示したくない情報であることがありますので、その点は配慮が必要ですが、人権保障の観点からは、家族が納得行く調査をすることが目的の一つとするべきです。
将来の予防の観点は、何よりも最優先されるべきです。加害者の民事責任、刑事責任を追及するのではなく、将来の同種の自死を間違っても起こさないということを目的としてきちんと据えることは、調査方法や結果の提示の表現について大きな影響を与えることだと思います。これが確認できれば、自死に影響を与えた可能性のある事項を広く指摘することができます。あらゆる可能性を排除して自死予防が成り立つからです。調査の結果、誰かが制裁を受けるとなると、可能性を慎重に判断せざるを得ず、限定的な対策しか建てられなくなってしまいます。

2 検証委員会の検証対象

これは、この上のコラムの「自死のメカニズム」を参照していただきたいのですが、これに沿って検証することになるでしょう。
1)つまり、まず、子どもがどのような対人関係的危険を感じていたのか。
これは実際の子どもの主観よりも、客観的な対人関係の状況を調査することになるでしょう。どの対人関係で孤立していたのか。どの対人関係が排除しようとしていたのか。クラス全体なのか、近しい友人で少人数なのか、部活においてなのか、あるいは学校全体の知らない人からも攻撃を受けていたのか。その対人関係が子どもにとって大切な関係なのか、離れることができた関係だったのか、何らかの形で常に近くに存在していたのかということです。
2)次は対人関係的危険の解消方法があったのかということですが、考えられる解消方法ではなく、実際の子どもがとりえた解消行動ということになるでしょう。例えば先生に支援を求めるという解消行動を、本人がとれたのか、取れないとしたならばどのような理由があるのかということです。これは将来の予防にとって、どのような対策を立てるかということで、とても役立つはずです。合理的な解消方法がない場合でも、逃避や怒りの行動に出られたのか、出られないとしたらどうしてかということもあるでしょう。
3)次は解消要求が肥大していく要因です。
・ 排除行動がどのくらい継続していたのか、執拗だったのか。
・ 排除行動がどれくらい衝撃的だったのか。どのようにして抵抗心などの意思の制圧がなされたのか。
・ 子どもが抵抗をあきらめた要因等です。
・ そして排除の理由でしょう。
これは私の勝手な思い込みなのでしょうけれど、マスコミの報道などを見ていると、衝撃的な出来事ばかりが強調されてだから自死に至ったという説明がなされているような気がしています。たとえ衝撃的な行動があっても、それは前日被害者が加害者に行った仕返しであり、加害者と被害者が入れ替わっているという場合は、それ自体を過大に考える必要はないかもしれません。逆に衝撃的ないじめ行為がなくても、継続した無視や排斥する行為がある場合は、対人関係の解消要求が大きくなり、思考ストレス反応が生じてしまいます。
排除理由が、例えば人種とか障害である場合は、それを修正する方法がありませんので、解消要求が満たされないという絶望を感じ易くなります。
4)このような観点から客観的な事情を後追いすることができれば、子どもが追い込まれていった経過が見えてきます。必ずしも、本人の言葉や反応の様子が明らかにならなければ調査結果を出せないというものではないと考えています。そうではありますが、ご本人の出来事に対する反応が分かることはとても参考になります。また、いじめが起きる前の人となりを把握することは、反応の予測においても参考になります。ご遺族からお話を聞くことは、むしろ出発点とするべきかもしれません。

3 調査結果のまとめ いじめや指導と自死の関連性について

先ほども述べましたが、調査の目的が、遺族への説明と再発防止というところにあるならば、つまり、加害者を特定して制裁を科すということが優先されるのでなければ、いじめや指導と自死の関連性については緩やかなものが確認されれば関連がある可能性があるとするべきだと思います。可能性を排除するということが求められているからです。
ただ、ここで、きちんと調査をしないと、あらゆる心理的葛藤を与えた行為が自死と関係があるとなってしまうと、結局誰もかかわらない方がよいということに、極端に言えばなってしまいます。できるだけ加害者と目されている人たちの話を聞いて、その行為を防止するべきなのかについては吟味する必要があると思います。そういう意味では、第三者委員会が自死との関連があると判断したからと言って、それを排除する、その行為をしないということはまた別のことなのかもしれません。当然、その行為の違法性の判断をするのではないでしょう。ただ、第三者委員会は、自分の価値観を示して、意見を言うことができると思います。例えば、こういう指導は、これこれを目的とする指導であるから、その必要性は認められる。ただし、その指導を他の生徒の面前で行われたことによって、当該生徒に疎外感、孤立感を与えることになった可能性が高い。それらの面を配慮しながら、指導の方法を工夫することが求められると考える。などということですね。

このあたり、マスコミは、いじめや指導との関連性にばかり関心を寄せているように感じられますから、発表をするときは慎重に、前提問題をくどくどと説明してキャプションで割り切れる問題でないことをくぎを刺して発表するなどの工夫をする必要があると思います。

エピソードが重視されますが、問題はエピソードとエピソードの行間の日常の状態だと思います。


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今後さらに充実させていきます。