現代の夫婦のきずながもろいならば、それは、孤立をしているからだと思います。知識や相手に働きかける方法を共有することで、もっと幸せになれるのかもしれません。
良い夫婦の条件
良い夫婦の条件 DV案件から考える
良い夫婦の条件 DV案件から考える
良い夫婦とは何かというと、離婚しない、離婚しそうな精神的外傷となるような喧嘩をしない、そういう消極的指標もあると思います。しかしそれよりも、いつまでも一緒にいたい、一緒にいると幸せだとか、楽だとかいう安心感があるという積極的指標で考えてゆきましょう。
本来、人間が長く一緒に生活していけば、いわゆる情が生まれて、一緒にいると安心感があり、相手の弱点を補おうという気が起きてくるものです。ところが現代社会においては、夫婦で一緒にいると喧嘩をして子どもに悪影響が及ぶなどの弊害があるばかりではなく、一方のストレスがどんどん高くなって精神的な問題を起こし、感情的な離婚となり、後々しこりが残るなどの社会問題が生じています。これらは、人類史において普遍的な現象とばかりは言えないのではないかと思い当たっています。現代社会に特有な問題があると考えています。むしろそうであれば対策を立てることができるということにもなります。夫婦という人間関係は、子どもという人間が生まれて育つ環境だということも言えると思います。とても基本的な対人関係なのですが、科学のメスが入りにくい分野ではないでしょうか。
夫婦の問題の極限的なものが、ドメスティックバイオレンスによる精神的荒廃なのではないでしょうか。これは、このページの下で真正DVのメカニズムの分析がされていますので、詳しくはそれをご参照ください。
結論だけ申しますが、ドメスティックバイオレンスの問題点は、
・ 自分の行為が肯定されず、夫婦生活が相手方からの自分に対する否定と指図しかない。この結果
・ 被害者の自己統制感不全 自分のことが自分で決められない、自分に自由がないという感覚をもってしまう。
・ 予測不能の攻撃 いつ自分が攻撃されるのか法則が理解できず、常に安心ができない状態であること。
・ 強烈な孤立感 自分の親せきや友人に連絡を取ることを妨害されているだけでなく、自分から苦境を外部に話すことがためら割れてしまうこと。
・ 解決不能感 今の苦しみから抜け出す方法はないと感じること。
こういうところに特徴があります。
<会話を工夫する>
先ず、忙しい生活で時間がなく、必要なことだけを行っている場合、どうしても指図とダメ出しばかりの会話になってしまいます。どちらかというと男の方は、人間関係は目的遂行のためのユニットだという感覚を持ちやすく、目的遂行のための事務連絡こそが会話だという感覚を持ちやすいようです。このため、発言がどうしても、必要な場合だけに限定されてしまいがちになるようです。そうすると奥さんに対して、特に意見がないときは何も言わない、修正を求める時だけ言葉を発するということになりがちです。これではどうしても否定と指図だけになってしまいます。
これに対して女性の場合、どちらかというと会話にそれほど窮屈な目的はなく、会話それ自体がコミュニケーションだと感じる傾向にある人が多いようです。話をしていれば多少かみ合わなくてもよくて、ただ、否定しない、指図しない会話が心地よいという感覚を大切にしているようです。この言葉や会話の目的、会話の役割の違いを双方が意識することが大切です。女性に合わせるべきでしょう。
・良い所は良いとはっきり言う。髪型、食事、持ち物、家事など良いという評価、感謝等の、否定ではない、指図ではない発言を行うということが良いらしいです。必ずしも絶賛する必要はなく、「そういうのもありなんだね」ということも話し方を間違えなければ肯定評価になるようです。要するに、承認していくということらしいです。これを固く考えてしまうと、言葉が出てきません。先ず、ただ話をしようとするという決意が大切です。それから、否定と指図以外の話題を探し出してでも行うという流れになるようです。否定と指図でなければ、「暖かいね」でもよいし、「今日は風が強そうだね」でも何でもよいのではないかと考えています。悪い順に、否定、指図、無言ということなのでしょう。(無言の悪さは、時にもっと上位になるかもしれません。)
男女に限らず、相手の行為を承認することが相手を安心させることだと頭に入れましょう。相手は、それだけで、二人というユニットにいることが心地よくなります。これが人間の本能です。
そして、上級者編としては、相手が失敗したり、不十分な行為をしたとき、責めない、批判しない、笑わないで、自分がやる。それが自分の役割だというように平然とやる。これを待ち続けてでもやるということのようです。
ただ、どうしても修正しなければならない相手の行動というのがあります。この場合、結論だけ押し付けると、相手の反発を招くだけで効果が上がらないことが多くなります。ピンポイントで結論を指摘するよりも、選択肢を示して誘導するということがテクニックです。そのためには、先に問題の所在を理解してもらうということが、日本人的な会話の流れであり、これが先祖伝来の技法だったのです。夫婦生活で効率や正義を持ち込むことはこの真逆ですからご注意ください。効率的な生活を追求しても幸せにはなりません。正義を振りかざすときは、相手に悪だと決めつけていることなので、恐ろしいことです。
<相手を攻撃しない>
上で言ってしまいましたが、「責めない、批判しない、笑わない。」ということは大切です。わかっていながら、この攻撃をするということは、相手との間で自分が否定されているのではないかという防衛意識が強くなっているからです。自分が相手から攻められていると思うと、不安になり、不安解消要求が起きてしまいます。夫婦なのですから、相手から殺されたら本望だという気持ちになるということが一つの考え方です。また、相手が自分を攻撃しているように感じたら、それは相手が自分に対して危機感を抱いていると考えることが必要のようです。少なくとも自分に対して安心していないのです。相手は自分が攻撃を受けているということで反撃をしていて、それを受けて今度は自分が相手から攻撃を受けていると思い反撃をしていたら、正当防衛の連鎖が起きてしまい、対立は果てしなく続きます。「おや?相手がムキになっている。何かこちらの対応で危機感を抱いたのかな?」という発想をすることを習慣づけることが必要です。この習慣づけを妨害する事情が、現代社会では多すぎます。例えば会社等で自分が攻撃を受けていると感じ続けていることの危機意識の残存効果、睡眠不足と飲酒などの思考能力の低下です。会社の影響を極力排除する。1日6時間の睡眠が確保できない仕事は転職を考える、飲酒は理性の働く分量をわきまえる。これは、おいしいと思って味を識別できる分量です。うまいと思わない酒は飲まない。味の違いが分からなくなるまで飲まない。年齢とともに、賞味量限は低下すると心得るということが肝心のように思います。
知らないうちに相手を攻撃するときは、子どもを守ろうとする時です。これは本当に難しいです。子どもが小さければ小さいほど、相手に厳しく接してしまうことがありそうです。子どもが生まれることで、それまで夫婦というユニットが、子どもと父親バーサス母親当対立軸になってしまいます。自分が思うより子どもはしたたかです。ちょっとやそっとではこわれません。だから、必要以上に心配せずに、即時に子どもの前で相手方の行動に反応せず、一回発言をやめて、子どもがその場にいなくなってから選択肢を粘り強く提案していくということに尽きるのかもしれません。
<孤立感の解消と注意点>
相手の行動を一から十まで把握しないと落ち着かないという考えの場合は、態度を改める必要があるように思います。新婚時代で、相手もそれがうれしいようなときはともかくですが。
これは、相手に依存しすぎている状態です。相手は自由を奪われた感覚になりますし、暴力を感じるようにもなります。自分なりの趣味や人生の目標を見つけるべきでしょう。ただし、それらは、家族との時間には優先度を下げましょう。自分が何かをしたくても、例えば運転できるのは自分だけという場合は、家族の用事を優先させてあげるようにすることが、結局は自分の幸せにつながるようです。それが、自分ばかり損をしていると思ってしまうと、しなくてもよい争いが生まれるようです。
ここで注意しなければならないのは実家との関係です。感情的な離婚になる場合は、互いの実家と疎遠であるというケースが半分くらいあります。疎遠にしているつもりはなくても、遠方のため、頻繁な交流ができない場合もあります。この時、できるだけ、相手の実家に顔を出すようにした方が結局はトラブルが少なくなり、深刻度が軽減されるようです。顔を出さないと、完全に他人のままで、仲間という実感が持てませんので、相手の実家ではあなたがどんなに苦しんでも平気だということが起きるようです。実家から意識が独立していることが、夫婦が長く続く秘訣だという研究者もいます。なかなか難しいことですが、実家と夫婦と、どちらが自分の弱点、不十分点、失敗を受け入れてくれるかという安心感の綱引きをしているということはあるかもしれません。実家に行くなというより、一緒に行くということが対応策なのかもしれません。
孤立感と言えば、現代社会は、夫婦二人だけで子育てをすることが基本(多数)だという、人類史で類例を見ない子育て形態だということは自覚をしておいたほうが良いと思います。人類は約200万年前のヒトのこころが生まれた時から、すでに母親だけが子育てをすることをやめ、集団で子育てを行ってきました。つい最近である封建時代においては、農村は集落で生活をしていたようなものですし、町場では長屋で共同生活をしていたようなものでした。マンションという、物理的な近さとは裏腹の孤立した環境は、本来人間の子育てには向いていません。先祖の知恵が分断されてしまい、怪しげなインターネットでの子育てをしている危険があります。この辺りは、行政サービスとして孤立を解消する手立てを進める必要がありそうです。
もう一つ、孤立感に関連して理想の心の状態ですが、先ほど言った研究者が良い夫婦の特徴としたことは、夫婦がそれぞれ「私が」という言葉を使わず、まあそういう発想にならず、「私たちが」という言葉を多く使う夫婦が長持ちをしているということを発見していました。自分と相手の区別を良い意味でつかなくなる、利益が一緒だということでもよいと思うのですが、それが完成形態なのかもしれません。
DVの起こるメカニズムの逆を追求していくとこうなると思います。
「出産したら別の人」と心得ることの意味
「出産したら別の人」と心得ることの意味
<夫側の訴え>
夫婦間トラブルで、夫側の訴えとしては、「こちらの接し方が変わらないのに、妻の態度が変わった」、「些細なことでも、こちらの言葉に過剰に反応する。」、「被害妄想的な反応をしている、」、「ヒステリックになった。」、「くよくよする言葉とため息でこちらが気が滅入ってしまう。」、そして子どもを連れて出て行ってしまった。というところに行きついてしまいます。
よくよく話を聞くと、どうやらその境目は出産の後からで、もともとあった性格が拡大しているような印象があるといいます。人によって違うのですが、最初の子が生まれた時からそういう傾向があったが、2番目の子が生まれた後あたりから激しくなったということが多いようです。
冒頭に原因を助長する要素があるのですが、それは、出産の前と後で接し方を変えないところにあります。とりあえず、一緒ではだめだということ、子どもが生まれた後はひたすら尊重する努力をしなければならないという考えを持ちましょう。相手の様子、反応をうかがいながら、2年位かけて元に戻せばよいくらいの考えでいましょう。
出産の前と後で、妻は、ある意味別人になっています。
おばあちゃんの知恵袋みたいな民間伝承としては結構常識になっていることなのですが、若い夫婦が孤立して生活している現代社会では、これがなかなか浸透しません。警鐘を鳴らすメディアがあってほしいのですが、夫の家事参加に矮小化されるばかりです。
<子育てモード、人間の赤ん坊を育てる仕組み>
出産の後に人が変わるようになることには理由があります。
それは、類例を見ないほど無防備な人間の赤ん坊を育てるための仕組みなのです。人間の赤ん坊は、例えば馬の仔のように立って歩くこと、走って逃げることはできません。簡単に弱ってしまいますから、保温、栄養摂取、水分補給、排便後の管理、すべてにおいて大人に依存しています。言葉も話せませんので、泣いて不快感を伝えるだけです。この時、赤ん坊の泣き声が一本調子に聞こえたり、そもそも泣き声に反応しなかったりすると、赤ん坊はあっという間に弱ってしまい死んでしまいます。
これを回避するためには、赤ん坊の要求に敏感に反応し、赤ん坊の不快を自分の不快と同一視させ、自分が不快を取り除くと同じように、あるいはそれ以上に、赤ん坊の不快を取り除きたいと感じる人間がいると、とても都合がよいことになります。赤ん坊を生んだ母親がそのように赤ん坊に対する共感力を強めることは赤ん坊が生きていく仕組みだというわけです。
<脳科学と生理学の変化の裏付け>
これは、近年脳科学的な実験で実証されました。そして、これが産後うつの原因ではないかと主張されています。つまり、赤ん坊に対する共感力が向上したとしても、これまで通りに大人に対する共感力が衰えなければ、産前産後でそれほど人は変わらないのです。しかし、人間の能力には限界があり、赤ん坊への共感力が高まると、相対的に大人への共感力が低くなるのだそうです(個人差あり)。それまで信頼し、安心の対象であった夫に、共感できなくなり、何を考えているのかわからなくなり、安心することができなくなるようです。母親は孤立感を強めてうつ病になっていくのではないかと指摘されているようです。夫に対して安心するのは、これまでの同居生活の中で、少しずつ色々な経験を重ねて安心感を獲得した結果なのです。ところが、夫は、一般的にはですが、体が大きく、力が強く、言葉も乱暴で、自分にダメ出しなど否定をしてくるという存在です。共感ができなくなると、安心の記憶も失われますので、ただただ怖い存在となる可能性があるわけです。
脳の変化だけでなく、ホルモンの変化も激しいものがあります。妊娠から出産までは女性ホルモンが大量に分泌されています。ところが出産後授乳モードに入ると、女性ホルモンの分泌が停止し、これが停止することによって母乳を出すホルモンが分泌されるという流れになるようです。ホルモンに着目した場合は、出産によって女性から母親に変わるわけです。厄介なことにこの母乳ホルモンは、母乳を与える対象には幸せを感じさせるのですが、その他に対して攻撃的になるというのがイタリアの大学の統計調査の結果でした。
これらの変化には個性によってだいぶ違いがあるとのことですが、多かれ少なかれ全員が変化をするそうです。
攻撃的になるということは、危険を感じて攻撃することによって危険を解消するための行動ですから、脳の変化もホルモンの変化も、共通項としては、危険を感じやすくなる、不安になりやすくなるということだと考えるべきでしょう。
<案外間抜けな父親>
こういうことが分かりませんから、私たち父親は、産前と同じように妻に接してしまいます。同じ人間なので、変えるきっかけがないのです。それは確かに出産直後は大事にするでしょうが、このような妻の変化は2年くらい続くとされています。それなのに妻が動き回ることができるようになると、夫はたちまち出産前モードに戻ってしまいます。しかし、この時期になっても妻は依然産後の不安過敏状態になったままという可能性が高いようです。
それなのに、夫は、平気で乱暴な言葉を吐いたり、大声を出したり、自分の趣味に多くの時間を割いたりしているわけです。インターネットゲームなどに興じている夫を見て、妻はたちまち不安になっていくわけです。産前は理解があった妻も産後には、背中を丸めてパソコンでゲームをしている夫がまるっきりの子どもに見えているわけで、けっこう間抜けな姿だったのだなあと今振り返ると思います。子どもが生まれて2年間は、子育てに時間を捧げるべきであり、自分の時間はあきらめることが必要なのでしょう。これで初めて夫と妻は平等に近づくようです。妻は、少なくとも主観的には、もっと損をしていると感じています。
<出産後の妻の不満と不安>
子育てがまるっきり辛いだけでなく、喜びも伴うものなのですが、長い道のりですから、何が起きるかわからないというプレッシャーもあります。特に不安を感じやすくなっていますから、母親の中には、自分だけが子どもにすべての時間を拘束されているという感覚を強く持つ人がいるようです。特に産前に資格を持って働いている方に多いようです。自分の時間がない、自分で自分のことを決められないという自己統制不全の感覚が生まれるようです。これと夫側への不満があります。苦しい所は自分に押し付けて、遊ぶときとか楽しい所だけを持っていくというような不満もよく聞かれます。赤ん坊に障害等があると、自責の念とともに、実際は存在しない自分が責められているという感覚が強くなるようです。実際には、自分を根拠なく不合理に責めているのは本人なのです。自分を責めるというか修正するという発想がないので、このような不安感は夫や夫の親に向かい、怒りになります。その結果、これまで折り合いの良くなかった自分の実母に対する共感チャンネルが開きますから、気持ちがどうしても実家につながっていきます。実家は、この時とばかり、甘やかすのですが、結果として、責めない、批判しないという尊重されていると感じる居心地の良い環境ができてしまっているわけです。
逆に夫が、子どもを大事にする脳変化が生まれたりすると、子どものためにという正義感をフル稼働させて妻に対してダメ出しをきつくするようになってしまい、妻の不安を益々助長させて収拾がつかない状態になってゆくということが最近多くみられるようになりました。
<子育てチームという意識>
妻に問題がある場合も含めて、それを妻の問題としてとらえるのではなく、チームの不具合としていかに修正するかという考え方が正解なのでしょう。ただでさえ心身の負担のある妻に対して、ダメ出しをしたり、優越感を見せつけたりしても子どもも含めたチーム全体としてはデメリットしかありません。結論だけ連呼しても結果が出るわけはありません。
家族の監督になり、自分も妻も子どももどう動かしていくかというプラスワンの技法で考えるべきです。そこで大切なことは自分がどう動けば、どのように貢献出来て、妻もアシストできるのかという発想です。あくまでも母親である妻の判断を優先させ、責任は自分がとるという流れが良い誘導になるみたいです。
妻のストレスをピークにもっていかないために、妻に自由時間を提供する。例えば仕事が休みの日は、自分が子育てをメインで行う。そのためには日ごろから何でもできるようにしておく必要があります。案外、おむつ替えなんかは男の手の方が快適にできるかもしれません。日曜日なんかは映画でも観に行ってもらうというくらいになるべきでしょう。自分が疲れているなら、二人以外のジジババに応援を依頼するということも考えるべきでしょう。根本的には、仕事の影響で週末動くことができないなら、仕事を続けるかどうかを考える良い機会になるかもしれません。
<ただし、夫の心構え>
残念なことに、骨身を惜しまず子育てに参加しても、多くの子どもの母親は、それをプラスに評価することはありません。本心は、「やって当たり前、私はもっと頑張っている。」というところにある人が多いようです。妻の評価はマイナスから始まっていて、夫の努力でどこまでゼロに近づけるかということなのです。しかし、夫は、妻の評価を求めるのではなく、子どもを含めた「家族」というチーム状態の向上を目的とするべきですから、自分で自分を評価することで満足するべきです。評価をしてもらおうという気持ちは、かえって相手にメンタル的な負担を与えてしまいます。
「あなたの方が頑張っているから、当たり前だよ。」という言葉が、もしかしたら相手の心を言い当てて、安心感を強めるキーワードなのかもしれません。
相手の反応を注意深く見て、夫が母親の頭ごなしに子どもに関与することを嫌うようならば、母親を立てながら関与する。母親のやり方を頭ごなしに否定しない。相手を責めるのではなく、こちらだけ頑張るのではなく、あくまでもチームで動く、チームを自分が動かすという発想を堅持ることが有効でしょう。また、100%を目指すのではなく、3割バッターを目指すということも自己防衛の観点からは大切かもしれません。
<母親のメンタルサポート>
体力的なサポートについて、双方のジジババを活用するという社会資源の活用の必要を言いました。それ以上に大切なのは、メンタルサポートです。これは夫がなかなか役割を果たせません。なにせ夫に対する共感力が欠落していますから、文字どおりを受け止めないでしょう。一生懸命子育てを行っていても、当然だと評価されますので、どんなに頑張ってもそれで妻のメンタルは好転しません。さらなる悪化を防ぐという意味合いはあるでしょう。
母親のメンタルサポートに一番適しているのは、年配の女性のようです。自分の苦しみを経験している女性に対しては共感チャンネルは比較的開きやすいようです。自分が子育てをしてきた人、あるいは保育活動をしてきて子どもをたくさん見てきた人、こういう人から、「あなたのケースは確かに大変だ。あなたはがんばっている。」と言ってもらうことが本当に有効なようです。「自分はがんばってもなかなかうまくできないけれど、それは自分が悪いのではなく、難しいケースだから仕方ないのだ。」ということを思いたいのかもしれません。こういう子育て支援施設があって、子供を遊ばせながらあるいは短時間保育をしてもらいながら、母親をメンタルサポートしてもらうことができればどんなによいでしょう。現在の孤立した夫婦の子育ては、社会が温かくサポートすることが、むしろ自然のことだと思っています。
おばあちゃんの知恵袋が、孤立社会の中で受け継がれておりません。意図的に公的に情報を共有することが紛争予防には効果的であると考えます。
- もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について
- 妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因
- 配偶者のヒステリーは抑え込まない方がよい。賢い対処法
DVの実態、メカニズム
真正DVとはなにがおきているのか。
真正DVとはなにがおきているのか。
(自分で書いていて気が滅入りますので、閲覧は自己責任でお願いします。)
ドメスティックバイオレンスという言葉があり、日本の行政などでは、かなり広い意味で使っています。世界的には、相手を支配することを目的とした暴力や脅迫を問題視して、これを予防するための実践的研究がなされています。だから、世界的には問題としない、研究の対象からは外れた行為も、日本では相手を支配するために行われた暴力、脅迫として国家や第三者が介入しているという問題が生じています。
本件では、日常の夫婦のいさかいを排除した、相手を支配することを目的とした暴力や脅迫を取り上げて、それがどのようなメカニズムで行われているのかを考察します。この趣旨で、DVの頭に真正という説明をつけなければなりませんでした。
私が担当した真正DVは、かなりすさまじいものでした。代表的な3つの事例を人物などが特定されないように本質以外の所を編集して説明いたします。
A 40歳男性と女性、二人は内縁関係。男性は、自分が仕事に行って不在の時の女性の行動を監視するために携帯電話を2台持たせて、1台は24時間通話中のままにさせ、女性の日常を自分でいつでも電話で聞けるようにしていた。不規則な仕事だったが、時刻にかかわらず自分を女性の部屋まで送迎させた。何か気に入らないことがあるとすぐ殴るなどの暴行を加えていた。女性相談員の話ではよく痣ができていたとのことです。女性の体調が悪いときも、看病をすることはなく、自分勝手な要求を女性が拒むと暴力をふるったりしていました。このことを含めて本当にいろいろなことがあって、女性は精神科に入院しました。現在女性は心身ともに健康を取り戻し、働いて生活されています。奇跡的な回復だと思います。ときおり連絡をいただき、近況を教えていただくと大変うれしくなります。
B 60歳代夫婦。結婚して数十年夫から「能無し」、「無駄飯食い」、「ごくつぶし」とののしられ続けてきました。相談会で担当し、うつ状態であり、特に希死念慮が明確にありましたので、継続相談として、子どもと一緒に来所してもらいました。結婚した子どもがいるため、子どもの家に逃げるのですが、追いかけてきてののしるのだそうです。逃げ場がないという観念は恐ろしいことです。夫に知られない居場所を確保して、病院に通院をしました。一時期から薬が劇的に聞き出したということがありました。同時期に離婚の準備をするために経過票を作成してもらったところ、実際は妻の収入で家計を支えていた時期もあり、社会活動も活発にされていたという自分の真実の姿に気が付きました。夫から言われていたことに気にしていたようですが、事実は全く事実と違うと悟り、うつ病を克服されたようです。街で会うといつも朗らかに声をかけていただいています。
C 30代夫婦 これが一番深刻な虐待でした。アメリカのDV研究がすべて当てはまる残酷なものだったようです。暴力があっただけでなく、周囲に恥をかかせて孤立させられ、生存の危機を感じることもされたようです。いつも多くの友人達の中心で笑っていた女子大生時代の見る影もなくなり、アルコールとニコチンの依存症となり、精神的には解離症状が起きる等深刻な状態となって、親からも見放されるような振る舞いを繰り返し、生きることをやめるように亡くなりました。
「被害女性に何が起きていたのか」
<自発的行動の不能感>
Aが象徴的なのですが、常に監視されているという感覚があったと思います。自分の考えで行動すると、箸の上げ下ろしの果てまで否定され、細かな動作も指図されたという感覚になっていたようです。なにも自分ではできない。病気に苦しみ、休むことも許されないという感覚になったようです。自分で行動することができないという感覚です。男から指図がなければ否定されることの積み重ねでそのような感覚になっていくのでしょう。
監視とともに自発的行動の意欲をそがれたのは、強烈な否定です。客観的にはなにも否定される理由はないのですが、男は女性を徹底的に否定します。いい加減な理由をつけて否定しますが、それは女性を改善するための方向性のヒントではなく、自分の否定を正当化するための言い訳です。説得力のない否定やダメ出しは、女性に反論されると思うのでしょう、否定が激烈化し、声が大きくなったり、暴力のきっかけになるようです。徐々に女性は、「もしかしたら、私はこの人の言うようにダメな否定されるべき人間なのかもしれない。」と考えるようになるようです。Bの事案は、事実が正反対であったにもかかわらず、繰り返し言われ続けていることから、「自分は社会性のない夫に依存している人間なのかもしれない」と無意識に自己評価をしていたようでした。これが言葉で意識できないために、余計に自己暗示が解けないという関係にありそうです。人間は身近な人の評価を気にする生物ですが、身近であればあるほどその評価を否定しにくい思考パターンを持っていて、同調してしまう傾向があるようです。徐々に男が近くにいなくても、自分で何かすることが怖くなるというか、おっくうになっていくようです。自発的行動ができにくくなるようです。
<被害の予測不能>
否定の予測不可能ということも共通です。相手の気持ちを探ろうとしても、どういうタイミングで、自分を強烈に否定してくるか予測できません。今日は穏やかに過ごしているなと思っていても、不意に強烈な暴力や罵りが襲ってくるのです。人間の記憶は、危険の予兆を記憶し、危険の回避を記憶し、危険に備えるという作業を行います。だから、危険な場所を避け、安全の対策を準備して、不安から解放されようとします。ところが、不合理な暴力がある場合は、この準備ができません。それでも、予測と回避の準備をしようとしますから、例えば風の強い日に暴行を加えられたら、無意識に風の音が怖くなるという反応を示してしまいます。雨の日に被害にあった性犯罪の被害者は、雨の日には外に出られなくなる人もいます。ところが、長年にわたり不合理な暴力を受けてしまうと、すべての出来事が予兆になってしまいます。極端に言えば、何もない穏やかなことが突然の暴力の予兆だということになってしまうのです。何もなくても突如発作が起きるのは、こういうことではないでしょうか。残された危険を回避し、安心感を獲得することは、現実をすべて否定し、過去を否定し、危険や恐怖を感じるという、つまり生きている自分を否定することしかなくなるのではないでしょうか。Cの女性は、そこまで追い込まれたのだと思います。被害の予測不能性が、DVの不意に起こるフラッシュバック、<侵襲>ということなら、そのような記憶のメカニズムと日常的な侵襲は理由のあることだと思います。
<孤立>
予後が良かったABの事例とCの事例の決定的な違いは、孤立の程度です。Aの事例は、本来は完全に孤立していたのですが、どういう拍子か女性支援センターの職員の方と私が関与するようになり、断続的なかかわりを持つようになりました。男の不断の監視から逃れる時間を作るようになりました。このチームに精神科医の先生が加わり、方向が完全に変わりました。最終的には暖かいコミュニティーの中に入ることで、劇的に回復されました。Bのケースは、それまでの社会的なコミュニティーから夫によって分断されてしまい、精神症状によって自ら自分のコミュニティーから遠ざかり、相乗効果で孤立と精神症状が深まってしまいました。相談会で私とつながり幸いなことはお子さんが成長したため、お子さんにもレクチャーをして、お母さんの精神症状は理由があることを説明して理解を得て、そして、実はAの事例と同じ精神科医の先生の治療によって回復しました。
一番悲惨なのはやはりCの事案です。親から結果的には分断されて新居をもち、見ず知らずの土地で孤立していたようです。近所の方は同情的な対応をしてくれたようですが、迷惑をかけられないということと、自分のみじめな姿をさらしたくないという意識から孤立が深まった可能性があるようです。どうやら家族や友達と連絡を取ることが自由にできなかったようです。最も親も遠方に住んでいたということがあり、なかなか援助することができなかったようです。亡くなった後の調査で少しずつ分かってきました。妊娠、出産をきっかけに虐待について親が知るところとなり、ようやく別居と離婚ができたようです。しかし、離婚によっても安心感を取り戻すことはできず、病状は悪化していきました。とても優秀で良心的な精神科医に最終的には巡り合ったのですが、好転しませんでした。一番の理由は、精神科医に婚姻時の虐待を話さなかったことです。また、生活歴を話さなかったため、もともとは多くの友達がいて、その中でイニシアチブをとって天真爛漫に過ごしていたということが精神科医は把握できなかったようです。このため、すでに症状が固定してしまったのちの状態だけしか認識できませんから、ルーズで約束を守らず、急に発作を起こしやすい極端なパーソナリティ障害であり、解離発作を起こす患者さんとしか見られなかったようです。なすすべなく症状が進行してしまい、自死なのかルーズゆえの事故死なのかわからない状態で、孤立を深めて死を食い止めることができない環境が形成されていました。症状のために、身内や友人たちも結果として自分から遠ざける形になっていました。しかし、彼女に起きた出来事が分かれば、彼女の奇行は、そのことの影響から逃れるための自己防衛の行為だったということが理解することが可能です。この女性の一人の被害ではなく、この女性の身内全てに、特にお子さんに深い影を落としています。真正DVの被害は妻だけの被害ではなく、妻を取り巻く人間関係全体の被害なのです。
<解決不能感>
ただでさえ、自分が否定され続けていますから無力感が蔓延していきます。自発的行動がにぶくなります。自分ではどうすることができなくても、普通なら他者に助けてもらおうとするわけですが、それも、孤立をしているからできません。攻撃を回避するための法則も見つかりません。これだけではなく、対人関係学的に言えばストレスの持続による思考能力の低下によって、思考が二者択一的、悲観的なものになります。つまり、「男の命令と評価に従うか、従わないで攻撃にさらされ続けるか」という択一となり、従わないで攻撃にさらされ続けることができないという悲観的な見通しと、攻撃から解放されたいという解放要求が増大してしまい、積極的に男に服従、迎合しようとしてしまうわけです。しかし、攻撃が終わることがないために解決不能感が大きくなっていきます。この関係から解放されようというアイデアは、ストレスによる思考停止の状態では自発的には生まれません。あくまでも「次の攻撃からいかに解放されるか。」ということがテーマになっていきます。
そんな夫ならば逃げればよいじゃないということは、真正DV被害の絶望を知らない人の考えです。逃げた方がよいですよと言われてそうだったんですかと簡単に逃げることは真正DVの被害者には不可能だと心得る必要があります。
<真正DV被害のまとめ・精神破綻の経路>
真正DV被害の生活の状態は、①相手からは肯定的評価、肯定的共感が得られないということが日常になり、相手からは否定と指図しかありません。ただ、物理的に一緒にいることだけが許されるだけで、人間として一緒にいることが許されないという状態です。これが基本です。②そして、この状態を被害者側の抵抗を奪う形で形成していくということが次の要素です。そして、③この危険意識、不安感、それに伴う緊張状態が持続していくという要素が続きます。この緊張状態の持続は、人間の備わった対処能力をはるかに超えたものなのでしょう。精神的な破たんが起きることはむしろ当然のことだと思います。
<思い込みDVとの違い>
真正DVと、真正DVはないけれど自分がDVを受けていると感じるいわゆる思い込みDVの違いを簡単に整理します。思い込みDVは、基本形である①の要素のうち、肯定的評価、肯定的共感が不十分なところはありそうです。だから、本来不合理とはいえないような指図や否定、つまり注意や意見の類があると、「自分は、否定ばかりされて何ら受け入れられていない。」という意識が生まれやすいのかもしれません。また、受け手の側の体調から、そのような日常、関係性であるという不安、緊張感を持ちやすい状況が生まれている場合も多くあります。②の抵抗を奪う暴力や脅迫があるか否かは、決定的な違いだと思います。ある程度恒常的に、持続的にこれがあるか否かが問題となるかもしれません。③はむしろ思い込みDVではよく見られますが、これももっぱら受け手の問題であると評価できそうです。いずれにしても、夫婦の間での可変要素は①の部分であり、受け手の体調は医師の助けも必要だと思います。肯定的な評価、肯定的な共感を持続的に、習慣的に続けることが思い込みDV予防に有効となるはずです。わずかの労力でみんなが幸せになるのです。
<加害者の行為のメカニズム>
加害者側の行動パターンは、第三者の目撃情報があると分析が進みますし、本来は加害者から直接話を聞くことが最も有効です。Aの事例では、加害者との接触は成功しませんでしたが、それなりに直接的な情報に接したことと、女性が女性相談員に出来事の直後を機械的に話をしていたということがあり、それなりに行動パターンが見えてきました。Bについては、子どもが子ども立場ではありますが、直接体験していますので客観的な情報を豊富に得ることができました。Cパターンは、本人から事情を聴けませんので本人の話を聞いた人や状態を見た人、後の加害者の行動を体験した人から話を聞けましたが、どうしても断片的で不確かな情報になりやすいことが残念です。ここまで極端な例ではないDV事案と女性側からのDV事案を総合して考察しているところがあります。
<加害者の共通心理>
驚くべきことに、真正DVの加害者の共通心理は、「相手とずうっと一緒にいたい。」ということが中核のようだということです。これを基本として、見捨てられ不安があったり、要求不全の欲求不満があるようです。これは決してロマンチックな要求ではなく、結果としては大変恐ろしい要求になると感じています。
例えばAパターンの男性が求めていた「一緒にいる」ということは、たとえて言えば赤ん坊に意識があったとして、その赤ん坊が不安や危機意識を持ち、常に母親に抱かれていたいという意識なのです。母親が自分のもとに常にいて自分だけのために世話をするということが要求なのです。赤ん坊であれば小さくてかわいい存在ですから自発的にそばにいてできることをすべてしようと思うでしょう。また、赤ん坊は時期が限定されますから、その時期だけだということも無意識にはあるでしょう。しかし、男は図体もでかく、この先もやむことがなく要求が続くわけです。男にとっては、支配の意思を自覚していないかもしれませんが、客観的には紛れもなく支配の意思です。
Bパターンは、男のコンプレックスのようです。実は社会的地位は結構高い人物ですが、それなりの苦労があるようで、部下が思い通りにならないことが多くあるようです。かれは、自分に従わない人間をどんどん切り捨てますから、残った部下は全部自分のイエスマンになったようです。自分が仕事でも、だれにも負けないというのは、それ以上の仕事をする部下を許さないからです。しかし、その社会的地位に上り詰めるまでには大きな挫折を何回か繰り返し、その都度妻の細腕で子どもたちを含めた家族が生き延びてきたようです。自分の収入が安定してくると妻から仕事を奪ったようです。妻は仕事がなくなるとボランティアの社会活動をするようになりました。妻には頭が下がらないようです。夫は自分が一番でなければ、自分から離れていくという法則を会社で学習してしまったのかもしれません。妻が堂々としていると、妻が自分を見捨てるのではないかという無意識の気持ちが高まっていったようです。妻が自分から離れないように、妻の生き方を否定し、自分がいなければ生きていけないということをアッピールしていたように聞こえてきました。最終的には、彼は、妻から自分に土下座して謝ってほしいという感覚で妻を責め続けました。彼の発言を聞くとそう聞こえてくるのです。なぜ謝ってほしいかというと、妻自身を否定して夫である自分を肯定してほしいという心理になっていたようです。つまり、本当の目的は妻が自分に愛想を尽かすことなく、ずっと一緒にいてほしいということなのだと思います。この思いが強すぎて、妻は夫に愛想を尽かしたのですから、悲惨すぎるジョークにしかなりませんでした。妻を尊敬し妻に感謝することが、自分の要求をかなえる方法だということを思いつかなかったのでしょう。子どもたちとのエピソードからしても、自分を守ることで精いっぱいだという鼓動を繰り返していました。
Cのパターンはよくわからないことがあるのですが、Cも社会的地位は高く、家庭以外では妻を虐待する人間であるとは誰も知らない人間で、むしろ人間的な信用の高い人です。今頃は会社を引退しているころだと思います。断片的な話ですが、妻が外部と接触することが暴力のきっかけになったようです。極端な暴力があった時が妻が実家に行こうとしたときのようです。妻が自分以外の人間と接触を取ろうとしたところに極度の不安を感じていたことはうかがい知ることができました。見捨てられ不安なのか、外部と連絡を取ることそれ自体に屈辱を感じていたのかわからないところがあります。人間関係に自信がないのは妻や身内に限定してのことなのかもしれません。
これに対して女性からのDVは、一緒にいたいという要求が妨げられそうになったときに爆発することが多いようです。多くは自分の欠点や致命的な不十分点、多くは致命的に片づけができないことを夫の目にさらした時に、先制攻撃的敵に「反論」をしてキレるようです。暴力は大したことがないのですが、夫は逆に暴力で制圧することをしませんし、家庭の中で符亜があること自体が不安になります。さらに子供たちが見ているということもあり、心理的に抵抗することができないようです。ある程度やり合う方が当人たちにとって結果的には予後が良いのですが、夫婦喧嘩をみせることが子どもたちへの心理的虐待だと画一的に言われてしまうとそれもできません。徐々に抵抗を奪われていきます。
多少なりともDVの要素を受けた人たちは、とても信じられないことですが、DVは、勝手な被害者意識から、相手をつなぎとめるための自己防衛として起きているのではないかと私は考えています。
<支配目的の要件は妥当か>
よく問題にして第三者が介入するべきDVと、夫婦の日常的ないさかいの違いを区別する要素として、「その暴力、脅迫が、支配的な関係を形成する目的として行われたか否か」ということが挙げられます。
これは判断基準としてはすぐれていると思います。究極の目的なずっと一緒に痛いことだとして、そのために相手を服従させることを手段として使っているだけだとしても、それによって自己統制を失い、孤立を深め、絶望することで、その人にとって取り返しのつかない精神破綻が起き、その被害は周囲を巻き込んでいるのです。その過程の中の支配関係が実現することこそが真正DVの被害の本質的要因であることからも支持できることです。この意味で、加害者という言い方をし続けようと思います。逆に言うと他人に対する加害とはこのように起きることがむしろ通常だということです。他人に対する攻撃は自己防衛として起こされているのです。
<相手の心情に対する共感力の欠如の由来>
本来であれば、夫に罵倒されている相手がかわいそうだと思うはずですし、殴ってけがをしている相手は何とかしてあげたいと思うものです。殴ったら痛いだろうと思うと殴らないのが普通だと思います。どうしてそれをすることができるのかが問題です。
一つは、かわいそうだと思わない。これには二種類ありまして、もともと他人をかわいそうだと思う能力に問題があり、つまり他人に共感する能力がない、極端に乏しい人がいます。こういう人は他人が苦しんでいることは理解できても、自分も多かれ少なかれ苦しくなるという意味での共感ができないのです。Cのパターンはどうやらそういう人のようです。Aのパターンも疑いがのこります。もう一つは、瞬間的に自己防衛意識が高まり、怒りの感情に転化している場合です。こういう場合ストレスによる思考能力の欠如が極端に進みますので、相手を攻撃することしか考えられなくなります。このパターンの場合、自分の安全が確保されて、怒りが静まれば、思考能力が回復しますので、相手の苦しみに共感することができます。自分の苦しみとしてとらえることができるようになります。いわゆるDVサイクルという非科学的な法則が提唱されています。暴力とやさしさを繰り返すのだということです。これは一般的な法則ではなく、防衛意識の高まりの中での攻撃型で、怒りが静まり共感能力が回復して謝罪をするというごく自然な人間の行動形式だというべきなのです。何ら神秘的なもの、理解不能なものではありません。
しかし、二つ目のかわいそうだと思うけれど、それに基づいた行動ができない人がいます。自分が悪いことをしたと思っていても、謝ることも優しくすることもできないひとです。これは学習に起因するのだと思います。他人に優しくすることをしたことがない。これは他人からやさしくされたことがないという場合も多くあるようです。こういう人は、修正が可能です。行動を教えて学習すればよいだけのことだからです。心を変える必要はなく、行動を変えればよいだけだからです。
<支援者の問題、それは実質的に支援拒否>
「DVは治らない」という非科学的な決めつけは、DVのパターンを深く分析していないだけの話なのです。どうしてこういうことが起こるかというと、真正DVの被害者が本当に悲惨な状況で、自分の共感力をブロックしないと自分まで精神的な衝撃を受けてしまうというところに原因があります。その共感力を持て余して、加害者を非難し攻撃するだけに終わることも、ある程度は理解可能です。要するに、被害者の絶望を覗くことは、絶望の伝播が起きてしまうわけです。心は無意識に絶望を拒否します。もしかすると、他人の絶望の淵を覗き、加害者の絶望を公平に考え、メカニズムを洞察し、効果的な予防の対策を考えたり、人間関係の修復を考えることは、ある意味共感力が欠如していなければできないことかもしれません。時々そんなことも考えています。
そういうことを自覚した人、単に正義感で行っている人、つまりどちらが良い人でどちらが悪い人だと線引きをすれば満足する人は他者を支援すことはやめるべきでしょう。支援の相手である妻なら妻も、単体で生きているわけではなく夫とのかかわりの中で、夫とかかわっている自分を形成しています。単純に分離することは、「あなたは悪くない」と言えば済む話で、実際は誰も幸せになりません。相手を支援しているのではなく、絶望の伝播を拒否している自分を支援しているだけの行動原理です。
話をもとに戻しますと、絶望の伝播を拒否するためには、リアルな話を拒否すること、深く他人の心情や出来事を聞かないこと、考えないことです。また、被害者が得をして加害者が損をするという勧善懲悪の最終の形を作って自分の絶望を救済したいと考えてしまいます。この要求を満足する話に飛びついてしまいますし、それが図式的に整理してあると飛びつきやすくなるわけです。そしてひとたび依存できる説明を見つけると、それが非科学的な体験談であっても絶対的なものとされるのです。組織的な対応は、その非科学的な神話を絶対的なものに高めるわけで、組織の末端は組織の秩序維持という、被害者支援と全く関係の無い論理で被害者に接していくわけです。とても恐ろしいことですし、だれも幸せになることはできず、かえって不幸になっていく人たちが多くなることはむしろ当然です。
<暫定的なまとめ>
真正DV事案も、思い込みDV事案も、夫婦の在り方を考える上では大変参考になると思います。極端な例ですから、自分が気を付けなければならないことが逆にわかるし、気を付けるべきことを維持することがそれほど難しいことではないことがよくわかると思います。このページの考察は、J・L ハーマンの「心的外傷と回復」に絶対的な影響を受けています。自死対策、DV対策、過労死予防も含めて、読み返してみると、消化を十分していないにしても多大な影響を受けていることが分かります。このホームページのノートの所に、ある時期読み返した「心的外傷と回復」のノートを数回分掲載しておきました。まあそれを読むより、原点を読まれた方が良いとは思いますが。
あるべき姿を考える時、壊れた姿を見ることはとても参考になります。ただ、それを、特殊事例だと突き放すと何も見えてきません。どんなに不合理なことでも、人間の行動の中に位置づけられ、説明ができることがという意識を持つことによって、見えてくることがあると確信しています。