対人関係学の基本的な考え方を一挙に述べています。また、私のブログから概要的な説明がなされているものもピックアップしました。いずれにしても大分長すぎるので、概要の後に、用語の解説をしています。
対人関係学の概要
対人関係学の概要
対人関係学とは、
紛争、いさかい、ケンカ、
あるいは、社会病理
(自死、いじめ、パワハラ、DV、虐待、犯罪、多重債務等々)
という人間の行動の原因を探究し、
原因を除去する等して
これらの負の活動を解決し、防止し、
人間が生まれてきてよかったと
より多く実感できる人間関係を構築するための
研究です。
対人関係学の基本概念について説明します
対人関係的危機の概念
人間は2種類の危険を感じる
1つは、生命身体、健康に害が及ぶことの危険です。
2つ目は、対人関係的危険です。
前提として、人間は、単独で生きようとする動物ではなく、人間のつながりの中に自分をおこうとする根源的要求があり、この要求が満たされないと心身に不具合を生じるという理論があります。「The
Need to Belong : Desire for Interpersonal Attachments as a Fundamental
Human Motivation 」 Roy F. Baumeister Mark R. Leary(Psychological bulletin vol.117 No.1-3 January-may 1995)
人間は、現在の人間関係を維持しようとするため、この人間関係の中で安定して継続的にとどまることが拒絶されることを不安に感じ、拒絶につながる出来事を覚知すると、生命身体と同様の反応を起こす。この、拒絶につながる出来事が対人関係的危険である。自分が人間関係の正当な構成員として尊重されていない、尊重されないことにつながる行動をした、あるいは他の構成員からの評価、待遇についての生の情報と、その情報に対する経験、学習等後天的な情報による評価を加えて危険性を無意識に判断している。危険だと判断した後の生理的変化は、生命身体の危険とほとんど同じである。
ここでいう人間関係とは、家族、学校、職場、地域、サークルという具体的な人間関係だけではなく、社会や国家というものも含まれる。その危機感の強さ及び反応の強さは、人間関係の種類、個性、危険の程度などで変化する。
危険反応の脳機能への影響
これまで、生理的に交感神経の活性化に着目されていました
W・B・キャノン「からだの知恵」(講談社学術文庫)
HPA軸
しかし、人間関係の不具合を見ていると、共通の思考パターンがあるのではないかと考えるようになりました。
つまり、
・ 複雑な思考が鈍り、二者択一的思考になる。
・ 他者の心情に対する共鳴が起きにくくなる
・ 将来的な見通しが立てられなくなり、近視眼的になる。
・ 因果関係を把握することが困難になる。
・ 物事を悲観的にとらえる。
これもいわゆる「逃げるか戦うか」という
危険に対する防御反応ということで理解が出来ます。
要するに一心不乱で逃げる(相手を叩き潰す)ことが、
動物の逃げる目的をよりよく達成できるからです。
「自分が安全な領域に逃げ切ったか否か」
という二者択一的思考があれば逃げるには十分です。
できるだけ悲観的に、まだ危険があると考えた方が
より確実に逃げ切ることができるでしょう。
逃げている時はなりふり構わずに逃げるべきで
他人からどう見られるか等ということを気にしていたのでは
逃げる効果が失われていくでしょう。
逃げきってから考えればよいことを
今考えることは逃げるための行為の邪魔になるでしょう。
このような思考状態にするために
脳の一部の機能が停止ないし低下します。
それがアントニオ・ダマシオが指摘した
前頭前野腹内側部
ということになるのだと思うのです。
「デカルトの誤り」岩波文庫
ダマシオの言う二次の情動と
対人関係的危険とは強い関連性があると思っています。
危険解消要求
ところで、脳科学あるいは生理学では、
危険に対する反応は、
感覚器官による情報の覚知、
→ 大脳での情報処理、
→ 視床下部での評価
→ 危険に対する反応
という流れをとります。
さらに大雑把に言うと
危険の覚知 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
という流れになるわけです。
脳科学的ないし生理学的にはこれでよいのでしょうけれど
便宜上
危険の覚知 → 危険解消要求 → 危険解消行動(逃げるか戦うか)
と危険解消要求という概念がはいると
様々なことが説明しやすくなります。
通常生命身体の危険は、危険の覚知から危険解消行動
その後の危険解消ないし実現という結果までが
極めて短期間で終了することが多いのです。
(例外的にはがんの告知など)
このため、危険解消要求などという概念は不要でした。
ところが、対人関係的危険は
実際には、人間関係からの追放という結果は
なかなか起きることがなく、
その危険だけが継続していきます。
例えばいじめがあっても
学校から追放されるわけではなく、
自分が尊重されていないという危険意識だけが
日々継続されてしまっているのです。
何とか正常な人間関係の仲間として尊重されたいという
危険解消要求が継続するわけですが、
危険解消行動に出ることもできません。
方法も見つかりません。
そうすると危険解消要求だけがどんどん肥大化していき、
最大の要求になって行ってしまいます。
本来生きるための危険に対する反応システムなのですが、
危険解消要求が充足されるなら
死んでも良いという考えるようになり自死が起きる
また、交感神経の活性化の慢性持続により、
脳機能の停止ないし低下が進み、
二者択一的思考パターン、悲観的思考パターンが
支配的になってしまい
危険解消要求に逆らえなくなると考えます。
危険解消要求の肥大は、
思いついてしまった不適切な危険解消行動を
自己制御することができなくするわけです。
様々な可変要素により
自死、犯罪、離婚、多重債務、虐待等
社会病理の原因を説明することが可能となります。
これが対人関係学の実務編です。
本来の人間は、共感のシステムにより仲間と協調する動物
対人関係学の人間観は、
人間の心(対人関係の状態に対する反応)は、
約200万年前に形成されたという
認知心理学のコンセンサスに賛同しています。
当時生まれてから死ぬまで同じ群れに暮らしており、
群れが強く、大きくなることが
自分の利益と完全に一致するし、
誰かが弱って頭数が減れば
自分の命の危険が現実化するので、
弱い者を必死に守っただろうと考えられるのです。
ほとんど自分と仲間の区別がつかなかった
のではないかと思います。
この時代に、
一番弱い者を守ろうとする性質のあるもの、
仲間と争わないで、助ける者
仲間をいたわり合う者
その基礎として、仲間の苦しみや悲しみ
喜びを含めた感情を
自分も追体験するという共感の能力によって
共有する動物となったということです。
こういう性質をもつヒトだけが
厳しい自然環境に適応して
子孫を残せたのだと思います。
われわれは、その協調性の遺伝子を持った
末裔なのです。
人間の根本的価値観はここにあります。
但し、人間も動物ですから
自分が攻撃されれば反撃するわけです。
群れの仲間の特殊な性格の人間で
教育で矯正できなかった者というものも観念できますが、
主として他のヒトでしょう
仲間ではないヒトが飢えなどの理由で
他の群れを攻撃する
これに対する反撃はあったと思います。
ヒトがヒトを攻撃する場面はあったのでしょう。
しかし、それ以外は、他者(群れの)に協調する生き物
ということが本質です。
時代と心のミスマッチは複数の群れの同時併存による
では、なぜ現代社会において
他の群れの人間とばかりではなく、
家族、職場、学校という同じ人間関係の中で
紛争を起こすのかということが
問題になるわけです。
そのヒントは、
ダニエル・リーバーマンの
「人体」(ハヤカワノンフィクション文庫)にあります。
進化において獲得した性質は、
当時の環境に適合する性質であり、
環境が変化すると適合しなくなるというミスマッチにより、
虫歯や生活習慣病などの現代病が起きるというのです。
こころが獲得した進化の適応とは
原則として死ぬまで一つの群れで生活していたという
人間関係の条件の中で形成されたものです。
実はこの単一対人関係の時代は、
例えば日本の農村部では
ごく最近まで少しずつ変化をしながら継続していました。
ところが、現代では、
家庭、学校、職場、地域、サークルなど
かなり多くの群れに同時に所属しています。
どれも、相対的な群れであり、
それなくしては生きることがままならない
という群れは一つもありません。
だから、学校という一つの群れの中に
全く異なる群れに所属しているものが共存しているため、
共鳴する力、弱い者を守ろうとする力
という人間らしい力が発揮しずらくなっていると考えます。
同じ群れの中にいても
峻烈な利害対立が生じていて、
仲間の中の敵が存在する状態となっています。
このような対人関係の環境が、
他の人間を攻撃するということの抵抗を下げてしまい、
その結果、人間は、
様々なところで慢性的な対人関係的危険を
感じるようになっています。
危険に敏感になりすぎているように感じます。
そのため、本当は利害が一致している仲間に対しても
自分のみを守ることに過敏になり
攻撃されていると感じやすくなります。
これに対する防衛意識が起きやすくなり、
反撃行動に出やすくなるのではないでしょうか。
こころと環境のミスマッチが
社会病理の根本原因であるという結論となるわけです。
対人関係学の改善の主張
対人関係学の主張は、
一つに、犯罪を含めた社会病理について
個人を非難することによっては解決ができないということです。
それぞれの社会病理がどのようにして起きたのか分析し、
対人関係の在り方を修正することによって
そのエラーの部分を取り除くことができると考えますし、
エラーが起こりにくくするような人間関係を構築し
予防に活かすということになります。
その中で、防衛行為というところ、
危険解消要求の肥大という視点により
分析を進めるということになります。
どんな社会になっても、
自分が大事にする対人関係を強化することによって、
こころの安定を図ることができるはずだと考えます。
そしてそれは、
他の人間と共感し、他者の苦しみを自分の苦しみとして感じ、
他者を守ろう、助けよう、一緒に楽しもうという性質があり、
一番弱い者を一番に守ろうという
人間の本質に寄り添った行動を取り戻すだけのことだから
決して不可能ではないと考えています。
人間の幸せは、
自分が大切にする人間関係において
自分が尊重されていると実感することだ
と対人関係学は考えます。
人間が生きようとすること
人間らしく生きようとすること
これを無条件に肯定することが
すべての前提に置かれています。
少し長く、めんどくさいことも書かれていますが、対人関係学の基本的な概念、背骨を書きました。各論は、かなり省略している部分なので、読んでいただければ幸いです。
心と環境のミスマッチ詳論 <要約> <200万年前の人間の生活と形成された心> <環境の変化> ① 関わる人数の爆発的増大と、人間関係の希薄化 ② 群れどうしの利害対立、争いの学習 <環境の変化の視点で見た現代社会>① 多人数とのかかわり② 複数の群れ③ 代替不可能性の著しい低下④ 対立の学習 <心と環境のミスマッチの各論>①対人関係的危機感 ②過労死、自死 ③離婚 ④児童虐待 ⑤いじめ ⑥インターネットなどの袋叩き ⑦クレーマー ⑧パワーハラスメント ⑨無差別襲撃 <心と環境のミスマッチの解決>
心と環境のミスマッチ詳論
<要約>
人間の心が成立したのは、
今から200万年前だと言われています。
私もその説を支持しています。
人間の心(思考と感情のパターン)は、
200万年前に作られたときのまま変わらないと思っています。
変わったのは人間の心ではなく、
人間の置かれている環境だと考えています。
200万年前の環境に
とても都合がよかった人間の心が
現代の環境の中では都合が悪くなり、
色々な問題行動を起こしていると考えているのです。
本稿では、
200万年前に形成された心とはどういうものか。
どうしてそのような心が形成されたのか。
現代社会という環境の変化とは何が変わったのか。
変わった結果、どのような不具合が生じているか
ということについて説明するものです。
<200万年前の人間の生活と形成された心>
200万年前、人間は数十人から100人を超える群れで生活し、
動物を狩り、植物を採集して生活していたとされています。
基礎的、中核的な群れの人数は
数十人くらいではないかと推測されています。
その中核的群れが3,4個
緩やかな協力関係をつくり、
それらを入れても100人をそれほど超えない人数の
関わりだったのだと考えられています。
数十人であれば、
人は全員の個体識別ができます。
言葉もない時代ですから、名前なんていうもなかったはずですが、
名前がなくても不都合もなかったでしょう。
それぞれの人の感情は手に取れるように分かっていたし、
どんなことが起きれば、その人がどのように感じて反応をするか
ということも分かっていたでしょう。
仲間が苦しんだり、怖がっていたりすれば
自分も同じように苦しくなったり怖くなったりしたでしょう。
そうなると仲間の苦しみを取り除くことは
同時に自分の苦しみを取り除くことなので
仲間を助けることは
自分を助けることと
心の意味では同じことだったのだと思います。
その意味で、自分と仲間を区別することができなかったし、
区別する必要もなかったのだと思います。
だから、抜け駆けして自分だけ食料を食べてしまった場合、
仲間が腹を空かせているところを見てしまうと、
あるいは食べる前に想像した場合、
自分も苦しくなってしまうので
そもそも抜け駆けなどできなかったはずです。
このような共感のシステムが存在するため、
言葉がなくて、道徳がなくても
群れ全体が調和して生活していけたのだと思います。
当時の獲物を獲得できるかできないか不安定な環境では、
断続的に飢餓状態が起きてしまうことも珍しくはなかったでしょう。
そうなると、栄養失調が起きやすくなります。
もしこのような共感のシステムによる一体感がなければ、
つまり群れの中でも強い者が食料などを優先していたら、
群れの中の弱い者から順に死んでいくことになったでしょう。
その結果群れの頭数がどんどん少なくなり、
食料の探索能力、捕獲能力が落ちて
益々飢える状態が頻繁に起きたでしょう。
また肉食獣からの防御能力も落ちますので、
食料も獲得できず、肉食獣に簡単に捕食されて
たちまち群れ全体の消滅につながったことでしょう。
これでは逃走能力の低い人間は
自分も生き延びることはできませんし、
子孫を残せなかったはずです。
つまり、共感による一体感を持つシステムは、
当時の人間の能力と、当時の環境に
とてもよく適合したということです。
このシステムを持たない人間の個体は、
淘汰されていったはずです。
生き残った我々には、
そのような一体化システムを作る共感チャンネルが
遺伝子に組み込まれていったのだと思います。
ここでいう、心、つまり、思考の傾向と感情のパターンをまとめます。
・仲間の感情に共感、共鳴してしまう。
ここが最大のポイントです。その結果、
・仲間と自分と区別しないで(できないで)大切にする
・仲間が困っていれば援助しようとする。
・仲間の弱点は補うものだと考え、責めたり笑ったりしない。
・仲間を平等に扱い、差別しない
・仲間の中で一番弱い者を守ろうとする
・仲間を自分に危害を加えない存在だと信じてしまう
・仲間に危害を加えることができない
こんなところでしょうか。
ここから、
・仲間が敵に襲われている場合は、自分の安全を顧みないで、他の仲間とともに怒りを以て敵を攻撃する(袋叩き反撃仮説)
という性質も結果として形成されたのでしょう。
これらの心の性質に基づく行動は、
頭で考えて行っていたのではなく
感情に基づいて行動していたのだと思います。
このような遺伝子的なシステムがまずあったと思います。
それに加えて、小さいころからの学習で、
人間は調和的に群れを形成できたのだと思います。
小さいころの学習とは、
子ども同士のげんかをした場合など、
大人からたしなめられたということです。
それは、個体の心に
仲間を乱暴にしてはいけない
仲間は大事にしなければならない
という感覚を身につけさせていったのだと思います。
学習は、ゼロから何かを産み出すものではなく、
元々遺伝子によって受け継がれた感情を
より発言しやすくさせるということで
効果をあげたことでしょう。
学習の仕方としては、
自分が尊重されるという体験をえて、
危険に直面した緊張を緩和させることができたときの
得も言われぬ心地よさを体験し、
仲間が自分たちによって尊重されること喜びを
共感しやすくなったということでしょう。
自分を大切にすることと仲間を大切にすることとは
心ができた当時は区別がつかない状態であり、
それは、「人間を大切にするということ」と
ほぼ同じ意味だったはずです。
<環境の変化>
しかし、農業革命が起きたことが原因で、
(ここでいう農業革命は、18世紀のヨーロッパのものではなく、
今から1万年前から2万年前に、
人類が、農業を開始して定住を始めたときの物を言います)
人口が爆発的に増え、かつ、定住をするようになりました。
農地に適した土地がそれほどありふれて存在していなかった
という事情から、
群れ相互がごく近くに存在し、
場合によっては複数の群れが共存するようになりました。
人間が関わる他人の数も
200名を超えるようになったと思われます。
農業革命が起きたのは、
今から高々2万年のことにすぎません。
約200万年前に心が生まれてからほとんどの期間で
人間の心は、農業革命以前の環境に適合し、
変わらない状態だったと考えられます。
高々2万年で、それまでの思考パターンを変えて
新しい思考パターンに進化する(環境に適合する)
ということには脳の構造上からも無理だったはずです。
心は現在も変化していないと考えるべきでしょう。
200万年前と変わらないのです。
こころは単一の群れで過ごしていた時と同じに
他人に対して援助と寛容を求めていますが、
それに応じることができない環境となってしまいました。
他者への共鳴、共感の能力も、相変わらず身についています。
しかし特定の他者への共鳴共感が環境の変化によって
それ以外の人に対する攻撃、怒りの原因になったということもあるようです。
危害を加えられると傷ついてしまうけれど環境の変化で
危害を加えることができるようになってしまったということもあるでしょう。
環境の変化が、どうしてそのような結果となるのか、
検討します。
① 関わる人数の爆発的増大と、人間関係の希薄化
(個体識別の可能性)
人間の個体識別の能力は、個体差があるものの、
50人から200人程度、平均して150人
だと言われています。
農業革命によって
関わる人の人数が200名をはるかに超えると、
全員の個体識別をすることができなくなります。
そうすると「身近な人間」と「身近な人間以外の人間」という
人間の中の差別化が生まれるようになります。
(代替不能性の低下)
また、一つの群れで生涯を終えていた時代は、
仲間はかけがえのない存在であり、
その個体が死んでしまうことが
群れ自体の存続に影響を与えることでした。
どこからも補充ができませんでしたから、
どの個体も群れの仲間にとって代替不能な存在でした。
ところが、人数が多くなると
よそから補充してくることができる
という可能性ないし発想が生まれました。
力仕事の担い手が足りなくなった群れは、
比較的力仕事の担い手が足りている群れから
補充することができるようになります。
子どもを産む女性がいなくなれば
補充することができるようになります。
代替不能性の低下が起きるようになっていったのでしょう。
これは補充という考え方であると同時に、
今の仲間に対する否定的評価、不満、軽蔑が
生まれる契機にもなったのだと思います。
それまでは、一つの群れで一生を終えていましたから、
群れのメンバーは固定されており、
その条件からすべてを考えていたのです。
力が弱いなら弱いなりに、
足が遅いならば遅いなりに
その人が群れの中でできることを行って
役割をはたしていれば
誰も文句はなかったはずです。
他の群れというサンプルによって、
個体の絶対性は決定的に薄れてしまい、
自分にとって、群れにとって役に立つ個体を選ぶ
という発想が生まれてくるようになったのではないでしょうか。
近くに他の群れが存在し、
同じような作業をしていると
能力の比較も容易にできるようになり、
個体の個性を超えて
あの群れのあの個体のような働き方をしろ
というリクエストが起こるようになるわけです。
他人と比較される苦しさが始まったのかもしれません。
② 群れどうしの利害対立、争いの学習
群れが近接していると
日当たりや水利をめぐって
どちらかが得をすればどちらかが損をするということが
起きるようになりました。
自分たちが損をしないことが死活問題だという環境は、
相手に損をさせることを嫌がらない意識を産んだのでしょう。
防衛意識による攻撃がありふれる出来事になったのだと思います。
この点、農業革命以前も、
ギリギリの状態が生まれた場合、
群れ相互の争いがなかったわけではないでしょう。
その場合は、相手は個体識別できない存在ですし、
敵意をむけられていますから、
相手に対して、仲間としての感覚をもつこともなく、
それはすなわち敵だという感覚をもったので、
自分と仲間を守るために攻撃することができたのでしょう。
しかし、それほど近くに他の群れが存在していたわけではないようなので、
おそらく人間同士が攻撃し合うということはめったになかったと思います。
農業革命以降、それまでとは比べ物にならい程頻繁に
人々が紛争の当事者となったり、
群れ同士の紛争を体験するようになったりしました。
単一の群れの時代においでは、
仲間しかいませんから利害は完全に一致していました。
子どものころに兄弟げんかなどをすることはともかく、
大人として認められてからは
他者を攻撃することはありませんでした。
それが大人の資格でもあったと思います。
農業革命以降も、
当初は何とかうまい方法を見つけて解決したし、
うまい方法がなければ、どちらかが譲っていたのだと思いますが、
争うことを覚えてしまった以降は、
自分が争いに負けないようにしなければならない
という意識が強く芽生えていったと思います。
最初は群れ同士の闘いだったのに、
紛争を学習して、
つまり他の人間から自分を守るということを学習してしまうと、
群れの中でも紛争を起こすことが可能になったのでしょう。
群れの構成員の代替不能の低下を背景に、
群れの構成員だとしても「攻撃できる」という
感覚が育ってしまったのでしょう。
およそ、人間を攻撃してはならないという原則が
絶対的なものではなくなっていった始まりです。
<環境の変化の視点で見た現代社会>
① 多人数とのかかわり
私たちはさらに産業革命、IT革命を経て
数えきれない人間とかかわりを持つようになりました。
自分の食べている物が
生涯一度もいかないだろう国で作られています。
自分の存在を支えている人が
誰なのかもわからないままかかわりを持っています。
日常生活に目を移して
通勤、通学を見ても
毎日、見ず知らずの人たちと
おそらく何千、地域によっては何万人を
目撃します。
名前も分からないし、わかろうとすることもありません。
② 複数の群れ
群れも、居住する家族だけではなく、
学校、職場、地域、趣味の仲間、
あるいは店や病院、役所など
同時にいくつもの群れに所属しているという状態です。
学校の教室の中にも、少人数の子どもたちのグループがあり、
グループ相互にあまり交流がないようです。
職場には派閥があったり、同期等のグループがあったりしているようです。
それぞれ、複雑な利害対立がありそうです。
このように複数の群れに同時に帰属していると
一つの群れで起きた出来事が
他の群れにも影響するようになります。
会社で自分が不合理な扱いをされて、
気分感情を害してしまい、
家族に八つ当たりをしてしまうなどという
心の形成期ではあまり考えられなかったことが
当たり前のように起きています。
③ 代替不可能性の著しい低下
会社という群れでは、
リストラだ、更新拒絶だ、派遣切りだと
群れの流動化が必要だという人までいます。
一人の労働者が同じ職場に維持できないことが
当たり前の世の中になろうとしているようです。
学校でも、
問題のある子どもを
退学したり転校したりさせて、
学校を守ろうとしている大人たちがいます。
あたかも、むしろ群れに加わり続けることに
何らかの条件をクリアする必要があるみたいです。
夫婦であっても
再生の努力をするよりも
離脱を選択する風潮も強くなっています。
親子でさえも
子育ての環境が整わないことから
育児の負担によって心が離れることが起きています。
人間の心は、
対人関係の中で
200万年前の関係を求めてしまっています。
自分の苦しみを理解してほしいということを出発に、
自分の苦しみを相手も苦しみとして考えてほしいという気持になります。
つまり、
自分が相手にとって、群れにとって代替不能な人間として尊重されたい、
自分がありのままの自分でいつまでも受け入れられたい
と無意識に求めていると考えるとわかりやすいと思います。
しかし現代の環境は
対人関係が永続的に続くことに
価値をおかない人間関係ばかりとなっているようです。
私たちの心の要求は、
環境によって跳ね返されています。
④ 対立の学習
親が子育てをして、自分が親から助けられる
という体験は相変わらず行われるのですが、
家族という群れの中でも
幼いころから対立を学習させられます。
幼稚園でさえ受験があり、
他の子どもよりも優位であることを示すようにと
幼い脳に以下のような「刷り込み」がなされています。
他者を助けるのではなく、
他者は競う相手であり、
他者が優位に立つことは
自分が決定的に不利になる
ということを学習させられていきます。
人々は、普通に学び、普通に働いて
安定した老後を迎えるということを信じていません。
働けなくなったときの生活を維持するためには、
幼いころからの競争に勝ち残らなければならないし、
それ以前に雇用を維持するためにも
競争をすることを強いられていると意識しています。
生き残るため、
他の人間との対立を避けられない時代なのかもしれません。
他人を助けることは、美談だけど推奨されない
そんな時代なのかもしれません。
200万年前の人間関係は全て仲間でした。
農業革命以降、身近な仲間とそうでない仲間が生まれました。
現代社会は、
身近な仲間と、
仲間のふりをする敵と、
無関係に見えて一瞬後に敵となる人間とで
構成されているのかもしれません。
人間の心は200万年前と同じ扱いを
他の人間に要求しますが、
現代の環境はそれを激しく拒んでいるようです。
この心と環境のミスマッチによって、
我々現代人の心が苦しんでいるし、
如何に述べるような様々な問題を起こしている
というのが対人関係学の考えです。
<心と環境のミスマッチの各論>
心と環境のミスマッチのサンプルをあげます。
これが対人関係学の各論ですから、
各分野で検討をしますが、
そのごくごく骨の部分を
サンプルとして提示します。
①対人関係的危機感
人間の心は、自分が所属する人間関係において、
仲間として扱ってほしいという心のままにいます。
代替できないかけがえのない人間として、
弱点や欠点があっても、受け容れてもらい
人間関係を継続してもらいたいと思っています。
対人関係の中にいることで癒されたいと思っています。
ところが、環境は大きく変わりました。
人間は代替性の利く存在であり、
他の群れの構成員と比較して
否定的評価を容赦なく加えます。
自分や自分の群れにとって役に立たない個体は
群れから追放しようと行動し、
それが正しい考え方だと示されます。
ちょうど人間をはじめとする動物が
身体の安全を守ろうとして
外敵など身体を攻撃する存在を知覚して
警戒して生理的にも交感神経を活性化させるように、
このような自分に対する評価が否定的になり、
群れからの追放につながる事情を
共鳴力共感力で知覚した人間は、
同じように警戒して生理的に交感神経を活性化させるのです。
それがストレスです。
ストレスは蓄積されていきます。
②過労死、自死
対人関係の危機意識の継続と、睡眠不足などで起きるのが
脳や心臓などの血管の破綻による死亡で
クモ膜下出血や心筋梗塞などの過労死です。
対人関係的危機意識が孤立感や絶望感と結びつくと
自死が起きます。
③離婚
離婚は、多くは、対人関係的危険を
一方が過剰に感じて、
他方がそれに対応できないまま
現状の維持に疲れ果てて
離脱に至るという構造をとっていることが
多いパターンのように感じます。
夫婦という代替不能な関係を
色々な事情で維持できなくなっています。
④児童虐待
実親による児童虐待は、
親子関係以外の人間関係の負の影響から
親が自分を守ろうとして、
自分より弱い子どもに八つ当たりをするというパターンもあります。
つまり群れの多元化と
他の群れで人間として扱われないという体験に起因する
という現代的な病理だというパターンの虐待もあります。
また、そもそも、
人間はこれまで群れ全体で子どもを育てていたのですが、
現代は極端に少人数での子育てを強いられています。
その連鎖を含めて様々要因で
子育ての能力が不十分になっている
という環境的問題も強い原因になっていると感じます。
⑤いじめ
学校という群れは単一になっていないことがほとんどで
教室の中でもいくつかのグループがあり、
助け合いよりも競争の実践をさせられ、
他の群れである家の思惑も反映して
殺伐になりがちになっています。
効率が子どもの価値を決めているため、
ありのままの状態で受け入れられることは奇跡でしょう。
そもそも子供は、無益な争いをするものです。
放っておけば喧嘩をするかもしれない年代に
競争をあおっているのですから
殺伐となることは必然でしょう。
思春期になれば
自己防衛意識が過敏となり、
感情が激しくなり、
他者への攻撃も激しくなってしまいます。
何をもっていじめというかの問題がありますが、
些細なことで、容赦ない攻撃を
逃げ道なく続けるというのは、
現代社会を反映していると思います。
⑥インターネットなどの袋叩き
これは、誰かを守るとき
攻撃に参加してしまう人間の本能と(袋叩き反撃仮説)
自分の対人関係的危険に過敏になっており、
弱い者への攻撃に対する過剰な反応が引き金になり
また、自分の対人関係的危険の解消要求としての八つ当たりがあわさり、
攻撃してよい者という共通理解が生まれると
攻撃参加してしまう現象だと考えています。
人間の仲間をみんなで助けるという本能が、インターネット社会の中で
歪んだ形で発揮されてしまっているのです。
正義という意識は
相手を悪だとすることができますので、
容赦なく攻撃をすることができるようになるのです。
⑦クレーマー
クレーマーは、
自分が社会の中で不遇な目にあっている
という対人関係的危機感に過敏になっています。
なんでもない相手のミスを
自分を軽く見ているというように過敏に反応して不快を感じて、
自分より弱いのものために見逃さないという
やはり正義感をエネルギーとして
過剰な攻撃に移る場合が多いようです。
⑧パワーハラスメント
上司の(自分の上司の評価から)自分を守るという意識と
部下が代替可能な存在だという意識と
部下を除いた、自分を含めた会社という群れ感覚が、
瞬間的に部下を敵対的な存在だと認識させ
容赦ない攻撃をしている場合も多いようです。
⑨無差別襲撃
無差別襲撃も、
無意識に抱いていた要求は、
仲間として尊重されていきたいということが出発だったはずです。
それを一切の人間から拒否されているという感覚が
人間性を崩壊させて起きていると考えています。
<心と環境のミスマッチの解決>
心と環境のミスマッチは
本人が人間性を崩壊させるくらいに苦しむことになります、
命を落とすこともあります。
あるいは何の落ち度もない他者が犠牲になることもあります。
差し迫った解決が必要な
深刻な社会病理の原因の根幹だと思います。
これを解消ないし緩和させる方法があるのでしょうか。
先ず、脳の変化によって、つまり心を変えることによって
解決するということはあり得ません。
環境の変化は1万年、2万年まえという
心が生まれてからの200万年間と比べれば誤差みたいなものです。
これから数万年かけて変えることは不可能です。
環境を変えるという方法の一つが
宗教だと思います。
しかし、神ないし神のような大天才が表れても
現代の環境はなかなか改善できないままです。
逆説的に言えば、偉大な宗教があったため、
人類滅亡にならずに済んでいるのかもしれません。
現実的な解決方法、対症療法的な方法としては、
一つに、
自分にとって必要な群れと
それほど気にしなくてもよい群れとを
区別する考え方を身につけるということだと思います。
一般的には、
大事にするべき群れは家族です。
子どもを産み育てる環境だということも理由です。
また、
子どもを抜きにしても、
睡眠をとる環境だからです。
睡眠によって、昼間のストレスを解消し、
人間の命の恒常性をよりよく発揮させるためには、
家族の状態が安定していることが
より効果的だからです。
社会がどう変わっても
家族が200万年前のように
代替可能な存在として
大切にし合えば
他の群れにおいてのストレスがあっても
生き延びる可能性が拡大していきます。
ただ、これも簡単な話ではなく、
これからの集団的な研究が
欠かせないと考えています。
これが対人関係学の
一番重要な研究対象なのです。
自尊心・自尊感情 <辻正三先生の定義を勝手に解説>1)自分が他人から受け入れられたいという意味と、たいていの人が感じる理由 2)自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望 <自尊心を持つことがどうして素晴らしいのか> <自尊心が欠如するとどうして社会病理の行動に出るのか> <自尊心と似て非なるもの 危機意識に基づくプライド> <現代社会と自尊心> <自尊心をもつためには 人間関係をどう構築するか>
自尊心・自尊感情
自尊心、自尊感情という言葉が、話題になることが多くあります。ただ、その意味は論者によって違いがあるようです。一般的には、「自分を大切な存在だと思う感情」ということになるでしょう。
自尊心をもつことは、人格形成や情緒の安定のために重要であると考えらえています。逆に自尊心の欠如は、情緒が不安定となり、アルコールなどの薬物乱用、犯罪やギャンブル、性行動の逸脱、依存症、いじめ、自死等社会病理の原因になると言われています。
それほど大事なものならば、子どもには自尊心を持ってもらいたいと思うのですが、少し漠然としすぎているために、結局何なのか、どうやったら自尊心を持つことができるのか、自尊心を持てない危険性はどこにあるのか等が、あいまいで、頼りなく感じます。今回はその点を明確にするお話しです。
少し、自尊心を調べていたら、ちょうどよい説明を見つけました。
辻正三先生という方が、小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)で書かれている説明です。そこには、「たいていの人は、自分が他人から受け入れられ、また自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望を意識的、無意識的にもっている。これが自尊心にほかならない」と説明されています。私が、対人関係学的な自尊心として説明したい定義にぴったりなので、この意味について勝手に解説をするところから始めていきたいと思います。
<辻正三先生の定義を勝手に解説>
1)自分が他人から受け入れられたいという意味と、たいていの人が感じる理由
ここから、すでに対人関係学なので、その原理についてはいつも説明している通りです。つまり、「人間の心は約200万年前に形成された。その時代は、狩猟採集時代で、一つの群れの中で人間は一生を終わっていた。人間は群れを作らないと飢えや肉食獣の攻撃に耐えられなかった。言葉のない中で群れを作るための感情を持っているものだけが群れを作り子孫を残してきた。」ということです。
この群れを作るための感情の一つが、「群れの中にいたい。群れにとどまりたい。」という感情なのです。群れの中にいると、安全を感じ、安らいだ気持ちになるわけです。このことは、群れからは追放されるのではないかと感じると、とても不安になることを意味します。この不安は、けがをしたり、病気になったりするのではないかという不安と、同じ心持であることが知られています。この。「群れの中にいたい、群れにとどまりたい、群れから追放されると不安や恐怖を感じる」という感情が、現代的には「他人から受け入れられたい」という表現になるわけです。他人から受け入れられるということは群れにいることを許されるということですし、受け入れられないと感じることは、追放されるのではないかと感じることだからです。
私たちは、200万年以上もの間群れを作って生活をしてきた人間の子孫ですから、人の個性によって気持ちの程度は違いますが、多かれ少なかれ、他人から受け入れられたいという気持を遺伝子に持っているのです。
2)自分の存在を価値あるものとして肯定したい願望
自分の存在価値とはどういうものでしょうか。
これも、今の説明の延長線上にあります。一つは「群れにとどまりたい」という心に由来すると思います。はっきりした流れを意識することは少ないのですが、自分が群れにとって有用であるならば、群れに留まる資格のようなものがあるという感覚を持てるのではないでしょうか。だから、群れにとって自分が役に立つ人間だという感覚は、群れの中で安定した立場を感じさせるのだと思います。自死の研究をしていると、これを裏付ける理論が出てきます。自死の危険を高める要素として「役割感の喪失」というものがあります。働いて家にお金を入れていた人が失業してしまう場合とか、社会的地位の高い人が犯罪をして立場をなくすとか、そういう場合が典型的です。自死は、自尊感情を失った場合に多く起きることから、裏から自尊心の意味を考える道具になると思います。
ただ、今の説明は間違っていないのですが、それだけでは不十分だと思うのです。ズバリ言うと、何か役に立つことができないと、自分の存在価値を感じられないのかということなのです。なるほど、群れにとって役に立つならば、それは価値を感じやすくなるでしょう。しかし、客観的にみれば、群れにとってのその人の存在価値の最も重要なことは、200万年前の時代は頭数に貢献することでした。一人でも多ければ、獲物を追い詰める時に隙が無くなり、獲物を逃がさない確率が増えたでしょう。一人でも多ければ、食べられる植物を見つける確率も高くなります。一人でも多ければ、誰かが襲われた時、野獣を追い払いやすくなるでしょうし、そもそも野獣が群れを恐れて近づきにくくなるということがあると思います。群れにとっては、群れに調和して存在することが、その人の価値だったと思うのです。人並み以上に役に立つということは、必ずしも自分の存在価値を感じることに必要ではないと思うのです。
つまり、自分が群れの役に立つという感覚は、自尊心を高めやすくなるが、それがなければ自尊心を持てないというものではないという関係になるのでしょう。
そうだとすると、自分の存在価値とは、本当は、「群れから受け入れられている」という感覚そのものではないかと私は思います。つまり、自尊心とは「自分の群れから自分が仲間として受け入れられている」その状態の心の状態ということになるのだと思います。
<自尊心を持つことがどうして素晴らしいのか>
説明したように、自尊心は、人間が群れを作る動物であることから、群れから受け入れられていることに満足を感じてしまう性質を言います。群れから受け入れられている状態が、人間の能力を発揮できる状態だということがいえるでしょう。人間本来の気持ちに基づく行動をするようになるわけです。群れの役に立ちたいという気持に基づく行動をするようになります。「群れのために」という気持は、自分を奮い立たせ、困難を克服し、努力を継続させることを可能にします。群れの一番弱い者を守ろうという気持もいかんなく発揮できることになります。本当の自尊心を持つことは、人間社会の協調を実現しますので、自尊心を持つ人たちの群れは、争い自体が起きにくくなるでしょう。その群れのメンバーは、相互に受け入れあうようになり、益々自尊心が高まっていくことでしょう。
<自尊心が欠如するとどうして社会病理の行動に出るのか>
自尊心が欠如するという状態は、自分が群れの仲間から受け入れられていないということを感じるところから出発します。通常は、どうして受け容れられないのかを自己点検して、自分の行動を修正し、群れに受け入れられるように努力をしています。子どもの時期は、この習性が活発に行われ、集団生活になじむように、自分のするべき行動、するべきでない行動を学習し、身に着けてゆく時期です。これができるようになったことを大人というのでしょう。
ところが、どうしても自分が群れの仲間から受け入れられない、自分が群れの仲間から辛く扱われる。尊重されていない、大事にされていない。自分の苦しい感情を放置される。こういう感情が積み重なってゆくと、群れに受け入れられることをあきらめるようになっていきます。無駄な努力だと思うのでしょうね。やる気がなくなることは理解しやすいと思います。
しかし、群れに受け入れられたいという気持は、無意識の気持ちであるし、本能的なものなので、これを捨て去ることはできません。群れに受け入れられていないという状態を感じ続けることは、不安を感じ続けることになってしまいます。不安を感じることは、不安から解放されたいという気持を感じることにつながります。何とかして、自分の今ある不安を無くしたい。しかしその方法が見つからない。本当は群れから受け入れられることによって、人間は癒されるのです。しかし、それが実現しない。そうなると、不安も大きくなりますし、それにつれてと不安から解放されたいという気持も大きくなってしまいます。群れから受け入れられる代わりに不安から解放される方法があると、それに飛びついてしまいます。
薬物、アルコール、シンナー、麻薬は、その典型的な方法です。薬理作用で、不安を忘れることができます。しかし、それは一時的なもので、その効果がなくなると不安がまた襲ってきます。また、神経に耐性ができて薬に反応しにくくなりますから、どんどん過激になっていく傾向にあります。
依存症も、その文脈で説明できる場合が多いでしょう。不安を軽減させる、忘れる、そのための儀式、逃げ場ということになるでしょう。
犯罪など、誰かを攻撃するということも不安解消行動が背景として存在することが多くあります。
不安の継続は、思考力を低下させます。複雑な思考ができにくくなります。一番複雑な思考とは、他人の感情を理解することです。これができなくなります。かわいそうだという気持が持ちにくくなります。それから、簡単な刹那的な考えしかできなくなり、良いか悪いか、損するかしないか、危険か危険ではないかというような二者択一的な思考になってしまいます。また、あきらめが多くなる悲観的な傾向も生まれてしまいます。
元々他者から受け入れられないという感覚が自尊心の欠落ですから、自分を大切にできません。社会的に禁止されていることでも不安を解消するためにはやってしまいます。それも、思考力の低下が大きく影響しているのでしょう。
だから、自尊心の欠落の究極の形態は自死なのです。大変危険な状態であるし、人間誰しも同じような性質を持っています。自尊心は大切なのです。
<自尊心と似て非なるもの 危機意識に基づくプライド>
自尊心という言葉を調べていたら、多くに「プライド」という言葉を当てはめる説明がありました。良い意味のプライドなら自尊心の一部を構成するかもしれません。しかし、プライドの用法として例えば、「あの人はプライドばかり高くて付き合いにくい。」等と言う意味で使われることがあります。
この場合のプライドとは、私たちの言う自尊心とは異なり、自分をこういう風に受け入れてほしいという心の状態を言うのだと思います。むしろ、本当は自分はこれほどすぐれた人物なのに、世間はそのように評価しないという、「受け入れられていない」状態の認識なのですから、自尊心がない状態でさえあるのです。自尊心が持てないために、見当違いなプライドを持っているということになるのでしょう。このプライドを含めて自尊心だという見解ももちろんあります。ただ、その場合の自尊心は、今述べたような、あると素晴らしく、ないと危険だというものでもなく、大切にされるべき自尊心ではないことになります。それは、「自尊心」ではないと今は言っておこうと思います。
<現代社会と自尊心>
心が形成された200万年前と現代社会の違いは、いろいろあります。いつからを現代社会と呼ぶかという問題も違いの考察には必要です。ここでは、一つだけ指摘しておきます。それは、200万年前は、人間は生まれてから死ぬまで、基本的には、一つの群れで一生を終えていたということです。子どもを産むのも、育てるのも、学習するのも、狩りや植物採取をするのも、同じ群れでした。ところが現代は、結婚して別の群れに移動し、子どもを産み、学校という群れに所属し、会社という群れに所属する。それらの小さい群れを構成する社会や国という群れにも所属し、自分の趣味や研究をする群れにも所属したりします。子どもの環境によって大人もPTA等の群れを作ります。
人間は、放っておくと、そのすべての群れから、自分が受け入れられているという気持を持ちたいと思ってしまうようです。
逆に言うと、すべての人間のかかわりの中で、自分が受け入れられていないと感じると不安な気持ちになってしまうのです。
道を歩いていても、見ず知らずの人から罵倒されればいやな気持になるし、怖い気持ちにもなるでしょう。自分は普通に運転しているつもりでも、急いでいる人が運転している場合、後ろからクラクションを鳴らされることもあるでしょう。それが身体生命の危険がなくても、不安が生まれてきます。悲しい気持ちになったり、怖い気持ちになったり、逆に怒りが起こったりするわけです。
このように、多くの人とかかわりを持ち、たくさんの群れに所属するようになると、人間関係が薄いものになっていくということも理解しやすいと思います。生まれてから死ぬまで同じ人と過ごすという群れと比べるとわかりやすいでしょう。そうすると、いちいち道ですれ違った人の役に立ちたいと思うことは、少なくなってしまいます。自分や自分の仲間という狭い群れの利益のために、群れの外にいる人たちが困ることになっても、実行してしまうということが起きやすくもなっています。その結果、不意打ちのように、自尊心が傷つけられることが起こりやすくなっています。
人間の心は200万年前とほとんど変わっていません。そのように薄い人間関係ならば、その人から何を言われても、健康に影響がないならば、気にする必要はないのですが、なかなかそうはなりません。かといってすべての人の幸せを願うということもなかなか貫くことは難しい。そうすると、自分や自分たちの利益のために、他人が不利益を受けるということをやってしまうのですが、やっても平気でいられずに、悩んだりするわけです。ただ私は、それが人間のいとおしい所だと思うのです。
しかし、多すぎるかかわりの中で、人間が大切にされていないことに馴れてしまうと、およそ人間が大切にされなければいけないという感覚は薄れていきます。それは他人に対してだけでなく、多かれ少なかれ自分にも反映されてしまいます。およそ人間は大切にされなくてもよいんだという感覚が起きてしまいます。益々自尊心が確保できない社会構造になっていると思うのです。
<自尊心をもつためには 人間関係をどう構築するか>
自尊心を持つためにどうしたらよいかということは難しいのですが、自尊心を傷つけることは簡単です。
「お前はこの群れに不要な人間だ。」「出ていけ。」「群れにとって迷惑だ。」「役にたたない。」
というメッセージを発信すれば、自尊心は傷つけられます。
何か大変なことをやらせるよりも、役割を与えない方が自尊心を傷つけるという学者もいます。そのような露骨な言動をするだけでなく、仲間であれば当然してもらえることをしてもらえないということです。健康を気遣われずに暴力を振るわれる。危険なことをやらされる。一人だけ情報や食料を当てないで差別する。努力を無視して、正当な評価をしない。いじめやパワハラ、虐待が典型的な自尊心を傷つける行為です。暴力がなくても人間は不安を感じ、心を壊し死んでしまう動物なのです。
自尊心を確保するためにはこの逆をするということなのでしょう。
仲間であることを否定する言動をしない。一緒にいることだけで歓迎されるということなのでしょう。最近の家族も、どこまで成績をあげないとうちの子ではないとか、どのくらい給料を持ってこないと夫ではないとか、きちんと片づけが出来なければ妻ではないとか、仲間であることに条件を付けるかのような言動が見られます。条件を付けるということは発奮させるということになるのですが、何十メートルもある谷に渡したロープの上を歩いて行けと命じ、「落ちて死にたくないならば落ちるな」というようなものかもしれません。条件を満たさないと仲間から外すと言っているようなものだからです。これでは、自尊心を確保するどころか傷つけてしまうことになるでしょう。」
むしろ無条件に存在を肯定することから始めるべきです。そうして仲間に能力を発揮してもらう方がよほどよいのです。自尊心が育っていれば、つまり、どんなことがあっても仲間は見捨てないという認識があれば、仲間から弱点を指摘されたとしても自分を守ろうとして嘘をついたり隠したりする必要はなくなります。仲間もそれを攻撃的に言う必要も動機もありません。つまり強い心が育つわけです。だから、褒め育てをするということと、無条件に仲間として存在を肯定するということは全く違うわけです。そして、その能力にふさわしい役割を与えることも自尊心を高めていくという関係にあるわけです。仲間の役に立つことをした場合は、正当に評価し、称賛する。そうやって楽しい群れが作られていくはずですし、その群れの構成メンバーは、能力を発揮しやすくなるわけです。
失敗をしても責めたり非難したりするのではなく、群れとして無条件に存在を認めるのですから、一緒に考えるという行為になるはずです。失敗をすればするだけ成長していくことが可能となります。
<現代社会の罠にどう立ち向かうか>
理屈を言えば、家庭の中では、何とか、子どもだけでなく、親も含めて、自尊心を高める接し方が出来そうです。しかし、条件反射的に怒ったり、自分の心の状態によっては、自分が攻撃されているような感覚を持ってしまって、相手に対して、しなくてもよい反撃をしてしまいそうです。実際は完ぺきな自尊心の高めあいは難しいようです。それでも何とかできるかもしれません。
問題は、子どもが学校に行き、父母が会社や地域の集まりに出て、あるいは街の中を歩いていて、自尊心を傷つけられるような対応をされた場合に、どのように自尊心を確保していくかというところにありそうです。昨今のパワハラの話やいじめの話を聞くと、絶望的な気持ちになりかねません。
先ず自分たちでできることは、家族という基地を強化することです。外で困難な出来事があったときこそ、「家族は絶対に見捨てない」、「誰から何を言われようと、あなたと一緒にご飯を食べることが私の幸せだ」というメッセージを伝えることです。そして、ここが難しいのですが、どんなにつらい思いをしていたとしても、家族は、「いつもと同じように接する」ということが大切なようです。腫れ物に触るように接せられると、自分が家族の重荷になっているという風に感じてしまい、家族に困難を打ち明けることができなくなるということらしいのです。「外でどんなことがあっても、家の中では、当たり前の家族だ。あなたも家の中ではいつものように過ごしてよいのだ」ということが、役割感の喪失みたいな気持ちにならないポイントのようです。これは意識してかからないととてもできることではないように思います。
自尊心が育ったお子さんは、何かあっても、すぐ不安になることがなく、些細なことにびくびくしなくなります。攻撃されているという感覚を持ちにくいので、反撃もする必要がないので、争いになりにくいです。それでも、今のいじめは、変なところでライバル視して、攻撃してくるということも多くあります。自尊心だけでは対抗できません。それでも、本当の意味で自尊心が高く、家族に受け入れられているという自信がある子は、嫌なことも隠さないで家族に打ち明けられやすくなります。家族が学校に働きかけたり、場合によっては転校させるという手段もとれるわけです。こういう意味で家庭が基地になるのではないかと考えています。
では、学校や職場などの人間関係にどのように切り込むか。
先ず、放っておくと、誰かの自尊心を傷つけるのが、学校や職場等現代の人間関係だということを自覚しましょう。その人が存在すること以上の価値を求めるのが現代社会だからです。効率であったり、優秀さであったり、利益であったり、正義であったり、人間関係の希薄さは、人間が存在しているという事実だけでは満足しないし、極端な例を言えば人間の命よりも優先される事情があるようです。
無力な私たちは、その社会の変化に対応して脳を変化させることもできませんから、そういう構造をよく理解するということから出発するしかありません。
そうして、そのような価値観の中に、人間が存在することに絶対的価値があるという価値観を少しずつ意識して滑り込む必要があるでしょう。それでも、価値観の転換は起きないでしょう。しかし、少しでも人間の存在に価値を認めるという価値観を導入することによって、自尊心を傷つける人間関係の出来事が否定的な評価を受けるようになり、関係の改善を考えるようになれば徐々に社会は変わっていくのだと思います。
そして、これは現実的な希望を持てない途方もない夢物語ではないと思います。
それは、人間の心は200万年前のままだからです。できることならば、仲間に受け入れられて過ごしたい。できることなら傷ついて悲しむ仲間を見たくない。できることならば他人を助けたい。できることならば穏やかに安心して暮らしたいという気持があるのではないでしょうか。しかしそれが自分や自分たちの不利益につながるためになかなかできないだけなのではないでしょうか。そういう環境を見るとうれしくなるし、それが実現すれば安心した気持ちになったり、誇らしい気持ちになったりするならば、人間はやはりそういう動物なのだと思います。人間の本能に逆行することを言っているわけではないのです。本能をいかんなく発揮するために、環境を整えるだけだとは言えないでしょうか。
壮大な話はともかくとしても、とりあえず家族を守るということを意識することから始めてみてはいかがでしょうか。
不要な記載
この記事は、おそらく、加筆をしたり修正したりしていくと思います。場合によっては全面的に書き換えになったりもするかもしれません。その都度修正して末尾に修正日と修正内容を記録していくことにしてひとまず公開しようと思います。
自尊心、自己肯定感について色々な話がネットなどであふれています。とても大切なことなのですが、疑問が生まれてしまう内容も少なくありません。そんな中で辻正三先生の解説に接して、「これだという思いが生まれてしまい、勝手に解説をすることが、話が分かりやすくなるなと図々しく思った次第です。辻先生の解説が、あまりにも対人関係学の主張と一緒だと驚き、また、対人関係学の結論は、突拍子もないことではないのだなと勇気づけられました。
自尊心、自己肯定感については、バウマイスターという心理学者が第1人者なのだそうです。実は、このバウマイスターの「The need to belong」という論文が、対人関係学の父と言うべき論文なのです。(母は、「心的外傷と回復」(J ハーマン)で育ての親はたくさんいます。)。自尊心、人間のモチベーションというバウマイスターの領域が、対人関係の領域とかぶることはむしろ当然で、本当はもっともっと研究したいところなのですが、こちらはむしろ実務系の学問であると自負しているので、修正しながら理論の成長を目指したいと思います。
2019年6月28日 初稿
私のブログから
用語解説
一般的な用語ではない言葉、一般とは少し違う意味で使っている言葉を簡単に整理してみました。
対人関係的危険
対人関係的危険
自分が所属する人間関係の中で、他の構成員から尊重されないと感じること。
本質的には、所属する人間関係からの離脱を強制される予感。
不平等、差別的取り扱いを受ける場合が典型。
・自分だけ食料等の物が配分されない。
・自分だけ情報が提供されない。
・自分の努力に正当な評価が与えられない。
・自分の失敗、弱点等が過大に評価される。
・具体的な事情、理由のない否定的評価
・仲間の意思決定に参加させられない(お前はだまってろ)
・危険なことや不利なことばかりやらされる
・価値のあるものとは認めず一段低い扱いを受ける。
・健康を気遣われない。暴力を受ける。
・自分が不合理な扱いを受けても誰も庇わない。
・自己の行為によって仲間に損害を与えた
・自分の事情で、仲間の役に立つことができない。
脳・思考上の危機反応
脳・思考上の危機反応
危険を感じた場合の脳や思考状態の変化 特に強烈な危険や危険を持続的に感じ続けている場合に顕著になる。危険解消のための仕組み。
・複雑な思考ができなくなる。感覚的判断をする傾向。
・二者択一的思考
・悲観的思考
・抽象的な思考の低下(因果関係等の検討が難しい)
・将来のことを考えられず近視眼的になる。
・他者への共感が低下
・危険を解消することを最優先とし、衝動的行為が増える
・危険を感じやすくなり、大きく感じるようになる。
不安解消要求
不安解消要求
脳が危険の存在を覚知した後、危険解消行動(逃げるか戦うか)を起こす前に始まり、危険意識が解消されるまで継続する心理状態
危険の覚知がなされるけれど、危険が解消しなければ危険解消要求は持続し、肥大化する。要求が過剰に強まると、脳・思考上の危機反応と相まって、不安解消要求が絶対化され、ホメオスタシスよりも優先されてしまう。(この不安を解消できるなら死ぬことすら魅力的なアイデアになってしまう。)犯罪、いじめ、虐待、離婚、そして自死といった社会病理のメカニズムの中核的概念。
こころと環境のミスマッチ
こころと環境のミスマッチ
人間のこころが成立したとき、
・仲間と自分と同じように大切にする
(自分と仲間の区別がそれほどなかった)
・仲間が困っていれば援助しようとする。
・仲間の弱点は補うものだと考え、責めたり笑ったりしない。
・仲間を平等に扱い、差別しない
・仲間の中で一番弱い者を守ろうとする
・仲間を自分に危害を加えない存在だと信じてしまう
という傾向があり、これによって人間は群れを作り、言葉も文化もなくても厳しい環境の中で子孫を残してきた。
現在の人間も基本的にはこの性質を遺伝的に引き継いでいる。
この性質が、存在しないかのように見えるのは、当時(約200万年前)と現代で環境が異なるから。つまりミスマッチが起きている。
当時は単一の群れの中だけで基本的に一生が終わっていたので、この単純なこころでも不具合は起きなかった。ところが現在は複数の群れに入れ子状態で所属するという複雑な状態のため、例えば一つの仲間に貢献するため、他の仲間に損失を与えなければならないという事態が生じてしまい、本当は太古のこころで行動しても、結果として不具合が生じることが多い。また、心を殺して行動することを余儀なくされている。
共感・共感チャンネル
共感・共感チャンネル
共感とは、自分が環境に対して危機感、不安や、それに基づく怒り、恐怖、あるいは喜びや安堵等の感情を起こすように、他者の置かれた環境にもかかわらず、自分が今そこに置かれているかのように感情を起こすこと。他者の状況に対して反応する場合(他者の感情抜きに)や、他者の状況に対する感情などの反応(客観的状況は重視しない)に対して反応する場合がある。
他者に共感する場合、他者に対して共感チャンネルが開いているという表現をする。共感チャンネルには以下の特徴がある。
・ 一度に多人数のためには開かれない。
・ 特定の他者に対するチャンネルが大きく開いてしまうと、その特定の他者以外の人間に対する共感チャンネルは開きにくくなる。
・ 二人の他者が対立関係にある場合、一方の人間にチャンネルが開いている場合は、他方の人間に共感チャンネルが開くことは難しい。
- 怒り : 危険反応、相手に勝てrという意識を持った場合に起きる。但し、危険を作出した原因ではなく、ただ自分より弱い者に対して向かうことが多い。
- 恐怖 : 危険反応 相手に勝てないという意識を持った場合に起きる。
- 焦り : 危険が現実化していると認識した場合の反応。現代社会では時計があるので、「時間がない」という意識は、「危険が現実化する」という意識になる。
- 心がすさむ : 不安解消要求が過剰になっているため、悲観的な思考傾向、または、攻撃的な思考傾向になっている状態。自己防衛が合理的に機能していない。
- 疑心暗鬼 : 不安解消要求が過剰になっているため、悲観的な思考傾向となり、他者が自分を攻撃すると思い易くなっている状態
- 勇気 : 人間本来の仲間を守るという意識が発動し、危険を覚知しても、仲間のために危険に接近し、攻撃する形で危険解消行動に出る際の心理状態ないし評価
- 可愛い : 人間の本来的心理、弱く小さいものに対して、守ろうとする際の心理状態
- 尊重される : 所属する対人関係に永続的に所属することを感じられる他者からの待遇 失敗、欠点等を否定感情で評価されない事。感謝など報いられること等。
- 相性 : その人自体ではなく、類似のポイントがあるかこの人の記憶が、その人に反映されていること
- ストレス : 危機を覚知した場合の生理的、脳科学的反応 交感神経の活性化等 対人関係的危機、生命身体の危機の反応は共通。
- 八つ当たり : 対人関係的危険に対する反応。危険を作り出した者以外に対して不安解消行動のうち攻撃が向けられること
- しあわせ : 対人関係の中で永続的所属を承認されている時の心理状態。こころの成立時の事情から、自分の行為で他者の利益が実現した時も起きる感情。
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